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大正期の外国史教育
社会科学教育研究室 満 井 隆 行
明治27年(1894),日本史・東洋史・西洋史という歴史教育の三区分法が成立,これは 明治35年の中学校教授要目で法的に確立,明治44年の中学校教授要目の改正を経て,昭和 6年(1931)に至り,国史教育偏重の性格が濃い教授要目の改正となつた。あたかもこの 年は満州事変勃発の年であり,大正デモクラシーの終焉を告げる頃でもあるので,そうい
う時代区分の上からも,教授要目の一区切の期間としても,大正期と共に昭和6年頃まで を取扱うべきであるが,時間と紙数の関係から,この度は大正期に限った。
1 外国史教育論
大正3年(1914)7月,東京高師で開かれた地理歴史教育協議会は,文部大臣の諮問に 対し,現行の歴史教授要目の改正を答申したが,その中に,東洋史・西洋史における重複 の点を除いて,教授時間の節約をはかること,更に,東洋史と西洋史とを各一科目として 取扱う時は両者の連絡を欠くから,東洋史・西洋史は融合して世界史とし歴史的知識の統 一をはかることがあげられた。この主張は東京高師教授の斉藤斐章の提案で,同校の付属 中学校ではこの答申案を基礎として,新たに「外国史教材」を編さん,これを生徒に配布 して教科書の代用とした。その指導理念は,国民教科の材料として適切有効なものを採択 し,然らざるものは除くというもので,日本中心であり,文物については,東西共に我 文物に縁遠いものは凡て省略,支那史は日本文明あ渕源となった上中古史の材料を重んず る。外国史全体としては東西を通じて現代を理解させることを主とするなどといい,ここ にも支那史についての尚古軽新史観が見える(西洋では古代を省略して近世史に重点)。
ともかく教育の面での世界史の提唱としては初出のものてあろう。その構成は,上古及中 古,近古・近世の時代区分で,東洋史(中国史中心)の事項と西洋史の事項とを大体交互に 組み合せたもので,現行の高等学校世界史の教科書とよく似ている。人種としては,白色 人種,黄色人種ぐらいを教え,アフリカ人種は除外されているが,これは西欧優越観にた つものであろう・(歴史と地理三ノー,大正8年1月号所収,斉藤斐章述,中等学校外国史教材要項)
この斎藤斐章の構想に対し,文学士長寿吉は反論している。その要旨は,1,国史は世 界史の中心となりえない,2,世界最近世史はとにかく,殆ど個々別々に発展した上古・
中古・近世の東西洋史を,現今未だ幼稚なる史学発達の状態で融合せんとする試みは結局 モザイク的成立に終る,歴史における横の意味上の学習も,緯(たて)の意味上の学習もと
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げられず合学識的でもなく,合教授法的でもない,3,東洋史を西洋流の年代区分にはめる ことにも問題がある,これを西洋史と合せるならば,従来の王朝的観察ではだめである,
4,今の外国史の中から東洋史を投げだして,これを国史に融合した方がよい,という。
(歴史教育3の3,昭和3年6月号所収,長寿吉述,東京高等師範附属中学校の外国史教材を評す)
斎藤斐章の世界史構想はたしかに,モザイク型であり,その組み合せも従来の西洋通史 に,王朝史的な東洋史をはめこむところに不自然なものが感ぜられる。しかし,近代ばか りでなく,古代・中世においても世界の歴史を統一的に把握すること(世界史の可能性,尾 鍋輝彦著,昭和25年)は,多少の困難はあっても歴史教育の立場からは必要でもあり,可能 でもあると思う。斎藤斐章の統合歴史教科書東洋史(明治40年刊)は中国を中心として,東 西の交渉,日本との関係を横断的綜合的に叙述して世界史的性格を出しており,ことにそ の総括の部は,日本史の立場からではあるが東西洋史を綜合的に略述して世界史の把握を ねらったものであり,更に昭和8年には,巾等教育における世界史を,改めて提唱してい
る。(教育1の2)世界史教育の提唱者としての氏の位置を認識したい。長寿吉の所論に も,大いに傾聴すぺきものがあるが,東洋史を国史に投入するということは,西洋史学者 としての東洋史の理解の薄さを指摘したい。後年国史学者の中に,西洋史・東洋史ともに
国史に融合せよという意見が出るが(歴史教育7の7,7の12一昭和7年一中村孝也述・国史を 1
中心とする歴史教育),三分野のセクショナリズムがここにも露呈されている。
大正10年7月,京都府教育会主催で第5回全国中等学校地理歴史科教員協議会が開かれ た。文部省から,中等学校生徒の思想善導に関し歴史科教授上留意すべき事項如何という ことが諮問され,これに対する答申には1,国史の教育を一層重視し,以て国民的精神を 振作することとあり,この中に外来思想に対する取捨選択の態度を安定堅実ならしむぺ く,外国史の教授に際しては常に国史を基礎として批判的に取扱うこと,2,外国史の教 授上特に左の諸項に留意することとして(1)外国史に見ゆる個人主義・自由平等の思想・革 命・輝譲放伐等に関する教材の解説に際しては,克く彼等の国情を対照して誤解なからし むへし,②欧米の社会公共事業・経済生活の進歩及植民事業の発達等に関しては,彼の長 を探り,我が短を補う所あらしむべし,(3)最近世史に於ては,我国の世界的地位を明かに し,国家に対する責任と世界に負へる責務との重大なるを自覚せしむぺし,㈲時事問題に 留意し,歴史教育の立場より随所之に対して穏健なる批判を下し,正当にして実際的なる 解釈を与えんことに努むぺし,3,教師は其修養上特に左の諸項に稽意することとあり,
(1)世界に於ける主要なる諸国の国体,法制の由来及国民性の特質並に其社会組織・家族制 度の異同を明かにするを要す,②世界思潮の変遷を考察し,併せて我が国民殊に青年の思 想の傾向に通曉せんことを要する等の事がうたわれた。教師達は,感激を以てこれらの決
満井:大正期の外国史教育 115 議に拍手したことであろう・(歴史と地理,8の3)。この答申こそ第一次大戦後膨濟とし ておしよせて来たデモクラシー思想への防壁であり,社会主義共産主義運動への圧力でも あった。さすがに軍国主義的表現は見られないが,欧米の植民雲業の発達云々といってい るのは・大正期における帝国主義日本の意志するところを出している。文部省の諮問に対 しては,その意を迎えた答申をしているのではないだろうか。但し内容の面で,文化史的 教材経済生活の発達に関する教材を増加すべしとし,方法の面で比較を現代にとり,史実 の理解を容易ならしむる云々などには新しい時代の空気が感せられる。
外国史教育の意義について,文学博士,中村久四郎は次のようにのべている。 (同氏著 歴史及歴史教育,大」E14年6月刊)。1,探長補短の必要の為知識を世界に求めること,2,
他を知ることによって始めて自己の真相を知ること,3,国際的如識の明瞭なる理解のた めには,過去の歴史的知識を要すること。4,国史教育は国家の一一員たることを自覚せし め,国民精神養成の為,外国史教育は世界の一員たることを自覚せしめ,入類思想養成の 為に肝要なること。この第4項の世界の一員,人類思想云々の意見は,大正期の新傾向の 一端を表わしたものであろう。但し,博士は同書において,普通教育の歴史科は,必ずし
も科学的史学を教授すべさでないとして,感動の歴史教育,個人の活動を重視する歴史教 育を主張している・即ち専問史学∂ 網史学とを俊別して,前者では不禅的研究の態麗 要し・後者では教育者的注意の態後を要するとし,応用史学都研究の自由はあるが,青 少年に対する発表・教授については,周密な注意が必要であるとし,特に国体・民俗の異
る外国歴史を教授するに当っては,常に我が国体・民俗を顧慮しつつ説明するを要すとい う。研究の自由は認めても発表の自由を認めないというのである。国体をタブーとする歴 史教育は外国史教育の場合でも顕著であった。応用史学(教育的歴史)と専問史学の性格 のとらえ方も,以上の所論では応用史学は科学性が薄くてもよいというような印象を受け る。科学的史学に立脚する応用史学ということが明瞭にされていない。
中川一男(東京高師教諭)の外国史教育論は,大正期の新しい歴史教育思想をうちだし ている(同氏著,歴史学及歴史教育の本質昭和2年5月刊)。日く,外国史教育の目的が,我 が国の歴史的発展や文化の系統を完全に理解せしめることにあるなれば,外国史は東洋諸 国の文化とその変遷を知らしむべく,またその目的が,現代及び将来の生活に資せんがた めのものならば,西洋諸国とその文化とを教授すべきである。即ち我が国における外国史 教材は,西洋諸国の如、く単純ならずして東西両洋にわたるもの,広範な世界史(東西洋史
)を範囲とせねばならないと論じ,明快に日本における世界史の必要を説いている(この 場合,東洋史は後向き,西洋史は前向きというところに問題があるが)。その他,諸外国 との比較による個の自覚,世界の大勢を知ることなどをあげているが,特に文化史を強調
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して,世界の各国に於て各特殊の発達をした固有の生活形式と文化を理解し,またその文 化創造の跡を鑑として,我らが現代及び将来の生活完成に資することと言っているのは,
大正末期における生活教育の主張と通ずるものであろうか。次に歴史教授法に言及して,
国史教授では,知的陶冶の外に,情操陶冶と意的陶冶とが必要だから説話教授を主とし,
外国史では,主とするところは知的陶冶で情操陶冶・意的陶冶は副次的,また常に批判と 推理と反省とを必要とするから,自習的読史教授であるぺしと論じている。意的陶冶は歴 史教育上最も璽要なもので,知的陶冶と情操陶冶の複合せる結果として現れてくるとして いる。国史教授法と外国史教授法についてのこのような区別は,国史はもっぱら国体観念 の養成に力点をおかれた当時の制約があったからであろう。次に最も注意すぺきは,文化 的意的陶冶の必要を提唱して,最近文化史が高調されて歴史の知的陶冶が盛んになると共 に,歴史の意的陶冶が著しく閉却されてきた傾向がある。今迄,意的陶冶については・主 として国家に対する義勇奉公の念を起すことにのみ努力したが,それだけでは不足であ る。文化史そのものの理解とともに,文化の創造が人類生活のヒにもつ意義を明らかに し,文化創造,社会生活力えの意的陶冶が必要である。ここに将来の日本文化を建設する ために,歴史教育の新展開をなさねばならぬと強調している。その歴史教師論で,国民生 活を完成せんがためには,徒らに政治的変動の得失,戦乱の姿を細叙して好戦国民を養成 する必要はない。明治の歴吏教育が忠君愛国の至誠のみ強調したのは,国家の勃興に伴な い皇室を中心とする国威の発揚を心要としたからである。昭和の現代に於ても,国体観念 の宣揚や忠君愛国の志操を養成することは必要であるが,この外に,過去の人類の営んだ 文化活動やその所産について考え,将来の指針とせねばならぬ,教師はよろしく文化創造 者たる気慨をもっぺきであると強調している。中川一男のこの所論は,現在のわれわれに とってもよほど身近いものが感ぜられる。歴史教育(1の4,昭和2年2月号)に,青年教 育家の意見として,純正史学と応用史学との区別があまり極端にはしり,歴史教育は道徳 教育の奴隷となっている,伝説や説話を事実の如く教え,国民の美点ばかりである。歴史 を教育から解放して教えたい,学問上に立脚した真実の歴史で倫理批判をさせたい,批判 の眼をくもらせ盲目的に導びくことには反対であると。同誌上にはまた,他の青年教育家 の意見として,歴史教育は吏実を通じて国民の思想感情を理解させねばならぬとされてい るが,思想感情の陶冶だけで事は成就するものではない。これに満足せず,文化創造(生 活の向上打開)の陶冶にまで進まねばならぬ云々と。
大正末期,昭和初期のこのような進歩的主張も,遠からずファシズムの嵐の中に埋没し てしまうのであった。
2 東洋史教科書
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大正期の中学校歴史教育は,明治44年(1911)7月改正の教授要目にもとついて行われ た。この改正教授要目は,明治35年のものより,一層強く国体尊重の方針を出しており,
外国歴史についての留意事項として「我が国体ト背馳スルカ如キ事歴二就キテハ彼我国情 ノ異ナル所以ヲ明ニシ,生徒ヲシテ誤解ヲ生セサラシメンコトヲ期スヘシ」とある。(明 治以降教育制度発達史5参見)このような国体尊重の強化は,日露戦争後の反国家主義思想 の拍頭に対する措置とみられる。大正期の東洋史教科書は大体から観て,明治後期,こと に歴史教育における三区分法の胎動期としての明治34年迄のそれのような多彩さはない。
東洋史教科書の型は・三区分法の確立期である明治35年から同44年迄の間にきまり,広義 の東洋史は影うすく,中国中心の狭義の東洋史となった。大正期のものはその継承であ る。東洋史学の進歩につれて内容にも新鮮さが加わり,文化史尊重のあとも見え,表現,
挿図・年表・体裁なども色々工夫されているが,明治期のものに見えないのは,大正期に Bける国際関係の記述である。先ず中国観を中心とする国際関係をどのように記述してい るか,それに関連して青少年をどのように指導せんとしたか。以⊥の点について検討して みるQ 明治後期の東洋史教科書については,茨城大学教育学部紀要10,拙稿,教科目としての東洋 史の成立,同紀要11,拙稿,明治後期の外国史教育を参見ありたい。
(1>大正期,中国を中心とする国際関係の取扱い
新選東洋史教科書(文学士,橋本増吉,大正2年刊,同3{}三12月訂」E再版)は「欧州の大戦勃 発し,我川1ミ1も亦日英同盟の関係により,遂に独逸に対して宜戦を布告」と証している。
ノ
アれは口本軍の青年占領直後の出版であるQ外国歴史教科書東洋之部(文学士,中村久四郎,
明治44年版・大1」こ7年10月修正7版)の「清国に対する諸強国の圧迫」 の章の記述は親支的 であるが・「伐・伊藤博文は遂に韓人の毒手に発れ」とし,被圧迫民族としての韓人を理 解しない。東洋近時の章で,「東洋平和の維持は我国外交の大方針なり。是を以て大正3 年(支那民国3隼西紀1914)7月,欧州の大戦起るや,我国は此の大方針により,翌年5 月・日支条約を結び……」と記す。この点,中学校用歴史教科書(三省堂編輯所,大正6年 刊,同10年1月修正4版)に,支那の領土を保全し,東洋の平和を維持することは我国外交の 大方針であるとし,我国多年の尽力の効果空しからず,清国はようやく瓜分の禍を免れ,
東洋の局面,亦大波瀾なきことを得た,我が国は西方の怒濤に対する防波提となったと記 し,日本の帝国主義は,東洋平和,支那の保全でごまかしているが,西欧勢力に対するア ジア全局の防波提という一面の真理を訴えている。しかも,日独開戦も東洋平和を維持す るため,大了E4年の日支条約もこの大方針にもとつくとするあたりは,中村久四郎の前掲 書と同軌である。
女子教育東洋歴史教科書(文学博士,中村久四郎,大正9年刊,同14年1月修正4版)は,婦
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徳の涌養に留意し,周の文王の母太任と王妃太妙(じ)や孟母三遷の教えなどをあげてい る。東洋近時の章に,「支那は世を閲(けみ)すること数千年,文化早く開け・一一地広く 人衆(おお)しといえども,徳なく力なければ,何ぞ治を致し盛を望むことを得ん,支那 は今や特に大賢英雄を要す,誰かよく支那をして列国とともに共存同栄ならしめん」とあ る。誰かよくとは,日本の育少年の奮起を促したもの。列国と共に共存同栄というこの列 国が,後には排欧米的興亜の共存共栄となる (昭和7年,同氏著新制東洋史教科、鉢)
新走東洋史(峯岸米造,大」[二14年刊)は,支那の近状の章で「今日,漢族の周囲より迫っ てくるものは,武力に於ても,文化に於ても,はるかにすぐれた欧米の諸民族である。これ 支那が文化の相類している武強の民族(これは日本をさしているのであろう)と,相頼り 相助けることを必要とする所以で,支那国民の大いに心すぺき所だと思う。」とのぺ,近 世の概括で,日支国民はますます奮斗努力すべきであると説く。新東洋史(清水泰次著,大 jE14年刊,同15f卜1月訂正再版)は,史実を客観的,平静な態度でのぺたものであるが,そ れでも近世史概説で,「独り我が大日本帝国はこの際に興隆し,欧米人の間に立ちて,東 洋の平和を維持し,広く亜細亜人の中に自重の念を喚起せり」と。ここでいう東洋平和の 維持という言葉の本質に問題がある。
新編東洋歴史(京城帝国大学教授,文学士,大谷勝真,大IE 15年8月刊)は,「最近の東洋」
の章で,「然るに衰世凱はこの問に我国の要求する所を誇張して,国民に示し,巧に己に 対する批難を免れむとしたれば山東問題は久しく両国を苦むるに至れり」とのぺ,パリの 講和会議で直接ドイツからの還附を要求していられなかったので激しい排日運動をひき起 したと記している。責任は哀世凱にあり,パリの講和会議にありとする独善的筆法であ る。この章のむすびとして,「支那は華盛頓(ワシントン)会議によりてその統一と内治 の改善とに努むることとなりしも,依然として紛争なお息まず。… 支那国状の安定と否
とは実に東亜全局の平和に関する処深く,この間に於ける我が国の位置は頗る重且大なる ものあることを知らざるぺからず」と。インドの新しい動きや,li・国における文学革命,
新生活運動にはふれていない。このことは大正期東洋史教科書の一般的傾向である。アジ アの同時代史はもっぱら中国が対象であり,それも政治的軍事的紛争の表面的記述であっ た。口本の東洋史学は個々の事実の研究の而では大きな成果をあげた。しかしアジアの展 望についてはその見とおしを誤った。アジア民族の解放という戦後の大きな事実にしても,
すでに早くからその動きはあったが,東洋吏学者はそれには気づかなかった。(旗田魏,日 本における東洋史学の伝統,歴史学研究, 19621卜11月号所収参見)。 個々の事実の研究,もと
より大切であるが,歴史の動向を巨視的に視るということはより大切であろう。この教科 書の例言に,東洋の現勢に関しては未だ歴史として取扱いがたいものがあるから,大要の
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記述に止めたといっている。時代の動きに背を向けて,もっぱら過去の史実に没頭すると いうのでは,歴史教育としてはナンセンスである。中等教育東洋史教科書(文学博土,桑原 騰蔵,明治36年刊,昭和2年12月訂正23版)は,現代史(日清戦争以後としている)の摘要に,
この期間に起った重要i拝件は,我が国の勃興で,支那の共和政体の成立・朝鮮の併合・亜 細亜人の亜細亜という思想の発生・米支二国の排日運動等,この期間に起った事件は皆我 が国の勃興の影響というべきである。「されど・…わが国の実際・・一未だ遠く米英二国に 及ばざるを覚ゆ。わが国民たるもの決して今日の小成に安んぜず,更に一一段の努力により て,平和の裡に国力の発展を期せざるぺからず……」と。日本の勃興の果した歴史的意義 は認めねばならないが,山東問題の発生,対支条約等に至っては,明らかに口本の中国侵 略である。明治以来の日本の勃興に敬意を払ったタゴールも,日本の中国侵略が始まると サジを投げたという。(岩波講座,昭和37年刊,日本歴史月報6,阿部知二述,二つの近代)
大正期の東洋更教科書が,日本の目的が東洋平和・日支親善にあると説く反面,日本の 帝国主義的軍事行動・外交政策(対独宜戦,山東問題等)をこの立場で正当化しているに比 べ,現行の高等学校世界史教科書が,日本の行動を帝国主義的侵略であると証述している のは・歴史教育の公正な前進である。(例,標準世界史,松田智雄,旗田魏,昭和32年刊,六訂 世界史,村川,江上,林一昭和31年刊)(注1)
(2)時代区分
近世史に多くの頁をあてることは明治期のものと変らない。時代区分は大体中国:E朝の 交替を以て画するのが一般であり,多くの教科書が近世史の始めを清の興起におく。近世 期以前については,新東洋史(文学博士,桑原隣蔵閲,文学士,有高巌著,大正3年刊,同4年 再版)の如く,上古期(上代の支那より周代の文物),中古期(泰の統一一より五代),近古 期(宋の統一より元・明の文物)というもの,新撰東洋史教科書(橋本増吉,大正3年訂正 再版)の如く・⊥古史(上代の支那より春秋戦国),中古史(秦の盛世より階の統一),中 世史(階の盛世より宋代の学術宗教),近古史(蒙古の興起より明の中世)というもの,
中等東洋史教科書(羽田享,大正6年訂正再版)の如く,上古時代(太古より周の制度・
学術),中古時代(秦の興亡より唐代の制度文物・交通の発達・諸宗教の東漸),近古時 代(五代より欧人の東漸),というもの,中学歴史教科書東洋史(東京高等師範学校教授,
斉藤斐章,大正5年刊)の如く,上古史(上代の支那より南北朝),中古史(階より宋),
近古史(元・明)というもの,外国歴史教科書東洋之部(中村久四郎,大正7年版)の如 く,上古史(上代の支那より,三国晋の統一まで),中古史(胡族の侵入より宋代の文物),
近古史(蒙古の勃興より元・明の文物まで)というもの多種多様である。以上のうち橋本 の新撰東洋史が,西力の東漸・莫臥児(ムガール)帝国の興起を以て近世史を始めている
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のは,世界史的見地からの立てかたであろうか。このほか,大谷勝真の新編東洋歴史(大正 15年版)は上古史,中古史(西晋,五胡の侵入より宋代の文化),近古史(蒙古の勃興よ り莫臥児帝国,英人の印度経略まで)をうけて,近世史を阿片戦争,清の対外関係より始 めているのは,東洋史全般の動向から見て興味ある立て方である。
桑原階蔵のll・等教育東洋歴史教科書(昭和2年版)は一ヒ古期(太古より秦の統一まで)
を漢族膨張時代,中古期(秦の統一より1日末まで)を漢族・塞外族競争時代(但し,また この期を以て仏教東漸時代,東西両洋の交通開1つ,西方文化伝来に特色をおく),近古期
(五代より明末)を蒙占族極盛時代(ムガール帝国を蒙古族としている),近世期(清の 興起より日清戦役まで)を欧人勢力の東洋を圧した時代,現代期(日清戦役以後)を日本 の勃興時代としている。明治後期,東洋史教科書の白眉とされた同氏著,中等東洋史(明 治31 r刊)は,ヒ古期を漢族膨張時代,中古期を漢族優勢時代,近古期を蒙占族最盛時代,
近世期を欧人1斗{漸時代としているのに比べ,この教科書は現代期をおき,それを(日本勃 興時代)としたところに特色がある。
統一「}等歴史教科書東洋史(広島高等師範学校教授,文学士,III下寅次著,大正15年刊・昭和6 年1月7版)の,大正15年7月付の例言に,漢族・北秋両勢力の一起…廃の形勢に基いて 時代区分を定めたとし,具体的には,次のようにしている。 (但しこの構想はすでに大正
5年版の同氏の同名教科,讐にでている)
1 1 1
古 第一期 漢族支那建国時代i尭・舜・夏・股・周・春秋戦国 1
史 1
中 第…期 漢族第一回外部発展時代 秦・前漢・後漢・三国 古 第二期 北独第一回支那侵入時代 西晋・東晋・南北朝
史 第三期 漢族第二回復興発展時代 晴・唐 i
近i第側
・第二期
北独第二回支那侵入時代 ソ族第三回復興発展時代
五代・宋・元 i
セ
近 第…期 北秋第三回支那侵入時代 清 世
史 第二期 漢族第四回復興発展時代 支那共和国 1
この状態は支那に於て繰り返えされたのみでなく,印度でも波斯でも皆似ている。東洋 史は南北両民族の斗争の歴史といっても不可ではないと説く。従来ややもすれば散漫繁縛
(じょく)ならんとする東洋史の弊を一掃するためのものであった。時代区分に明確な概 念,規準をあたえた点,東洋全体の把握という背景にたつ,スケールの大きい点,注目す ぺきであろう(白鳥庫吉著,東洋史一ヒにおける南北の対立,昭和15年刊,東洋史講座16・参見)
以上の数多くの時代区分は,最近の社会経済史観に立つ中国史の時代区分論とは遠いも のである。(中国史の時代区分,鈴木俊,西島定生編昭和32年刊,参見)
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(3)文化史
明治後期のものよりくわしい。三省堂編輯所の中学校用東洋歴史教科書(大正6年刊,同 10年1月修正4版)はことにくわしく,漢代の文化がまとめられているのはこの当時として は珍らしい。章として各時代の文化をまとめたものに山下の統一中学歴史教科書東洋史
(大正15年刊)・大谷の新編東洋歴史(大正15年刊)などがある。 中国の所謂伝説時代の記 述が簡単になり,歴史時代の開幕がしだいにさげられる傾向がある。清水泰次の新東洋史
(大正14年刊)の教授参考資料には,中国の開開伝説についての批判がある。 中村久四郎 の外国歴史教科書東洋之部(大正7年版)も神話時代をあっさりと記述し,黄帝のみをあ げている。この教科書には,河南省洛陽県の穴暦跡の写真を挿入し,太古の状を連想させ ている・このような方法は・山F寅次の統一中等歴史教科書東洋史(大正5年版)に,高 句麗の好太王碑(写真)及び碑文(拓本のうつし)をあげたこと等も一例。註2
東西文化の交渉の面てぱ,橋本増占の新撰東洋史教科書(大正3年版)に,従来仏教の 東漸をカニシカモ以後においたがこれをその以前においた如き著者の私見による(同書例
言)とするなどがあり・三省堂編輯所の中学校用東洋歴史教科書(大正10年版)は,磁石 及び製紙の法は後世欧州に伝わって世界の文化に大なる貢献をしたと記し,漢代銅鏡の葡 萄模様の挿図を示し,ギリシャ芸術の影響を知り得ぺしとのべ,唐は肚界最高の文明国,
(その文化を伝えた我が国も有数の文明国),当時欧州、看者国は文化低く,今日と比較すれ ば今昔の感にたえずとしながら,支那人は古より外国人を軽蔑する悪風あり,西洋文化に 対する感受力,我が国民に比して鈍かりしものの如しと説く。こういうところに,近代西 洋科学を受容して世界の一等国となったと自負する日本人の対支優越感を見ることができ る。東洋史教育の大きな欠点であろう。 山下の統一中等歴史教科書東洋史(大正15年版)
に,北宋の活版術の発明は世界における活字発明の初め,宋代より盛んに行われた支那の 版本は欧州の印刷術に影響を与えたと記す。
㈲ 尚古史観
斎藤斐章の中等歴史教科書東洋史(大IE 5年刊)に,支那の文明は夏・股・周を経て殆 ど成熟,孔子,孟子が出て儒教を大成し,諸子百家が起って支那学術の源をなした。前漢 の武帝これを以て国家政教の標準とし,これより支那の政治・学問・道徳はこの範囲を脱 、 キることなく,唐にいたって漢人種の文明は超点に達したと記す。三省堂編輯所の中学校 用東洋歴史教科書(大正10年版)には・支那の文化は早く発達した割合には後世の進歩著
しからず,学術の如き殆んど春秋戦国時代の学説を祖述するものとある。明治以来の尚古 史観が尾をひいている。唐代を以て支那文化の極盛とするところに大正期のニュアンスが
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でているように思われる。
(5)東西文明の融合
三省堂編輯所の東洋歴史教科書(大rl三6年版) に東西の文化を融合して世界の文明に貢 献することを説いている。ここにいう東西文化の融合が「]清戦争直後に起った日本ド義の 伝統をつぐものかどうか明示されないが,国体尊弔を第一義とする当時の教育理念からみ て,日本主義とのつながりは否定できない。
(6)国体尊重忠君思想
教科書によって強弱の差はある。ほとんどの教科書が輝譲放伐を記し,中国の国体が,
我が国体とちがうことを説いている。学生諸子に対する注意として,外国歴史を読む時 には,彼我の国体・国情・国風の異なる所に注意し,日本国民として最も適当なる思想 を得ることに努むぺしとあるのは,眼も端的に教授要目の趣旨を打出したものである。
(三省堂編輯所の中学校用東洋歴史教科書)国体論や国民の覚悟等にはふれぬものもあるが・
明確に国体論を出すという傾向は,大正期になってからの一つの特色であろう。一般に,
孔明・毎飛・文天祥等が忠臣の亀鑑として称揚されることは明治期のものをついでいる。
(7>国民の覚悟
その一例として,桑原置篤蔵の中等教育東洋歴史教科書(昭和2年版)に・米国はその偉 大なる富力と海軍とを以て殊に支那方面に活動せんとす。英国の威力は依然として強大な
るを失わず,露国も国情の定まると共に蒙古より支那東部にかけて侮るぺからざる勢力を 扶植しつつあり,支那はワシントン会議により国内の統一と内治の改善とに十分なる機会
を与えられたるに,依然として戦争を事とせるのみならず,近くその国民の間に国権回復 の気運高まるに従い,漫(みだり)に外国と事を構える弊を生じて,その前途楽観すぺか らず,東亜の平和を維持すぺきわが国民の責任は重大なりとあるのをあげでおく。明治44 年版の同氏著,新定東洋史の所説と比べて,大正末期の切迫した国際情勢を反映して,不
安感の濃いものがある。 P
結 び
大正期の東洋史教科書には多彩さがうすくなったが,それでも,中国と日本との関係に 濃いもの(例・峯岸の新定東洋史等),東西交渉史に濃いもの(例・山下の統一中等歴史 教科書東洋史,羽田の甲等東洋史教科書等)がある。表現もしだいにやわらかくなり,口 語体のものも出てきた(例・大正14年版・峯岸の教科書,大正15年版中村の教科書)。文 化史がふえてきた。従来の文物ということばが,次第に文化といわれるようになった。年
満井:大正期の外国史教育 123
表も直観的に,時の長短を示すという工夫がなされ,挿図写真に新味が出,正確親切とな り,文化史や考古学的なものが多くなった。大正期の空気を反映している。明治期の教 科醤で朝鮮が重視されたが,この期になると中国が現代の課題として大きくとりあげられ た。軍国k義の強調は露骨でないが,文弱をさけ,武強を重んずる筆致は多くの教科書で 感ぜられる。
(注1) 山東問題をその当時の中国の教科書てはどのように取扱っているか。一例として,現代初 中教科書,本国史顧頷剛(こけつごう)・王鍾麟編,胡適(こてき)校訂,ヒ海商務印書舘発行,
民国13年刊,同15年5月第23版)の記述を抄記する。最近の外交局勢の章で,欧戦が起った時,中
国は距離が遠く,参加する縁故もなかったので中立を宣布した。日本は旦莱回1盟に籍口して独逸に 一一了一一一
宣戦,青島を占領した。中国はri本の出兵を防ぐすべなく,また日本兵が山東地方を占領した後,
何回も抗議したが効がなかったジ・九…一五(民国四)年,日本は中国政府に対し五号二十一・条の要 求を提出,この五号の条件は到るところ,中国の死命を制するものであった。中国は日本側と交渉 したがまとまらず,五月七日にいたり,日本は最後通牒を発してその承諾を迫ったので,九日,中国 政府は承認する旨を答えた、これか¢なわち五刀九日(注,国恥記念日)の由来である。その後独 逸が無制限潜水艦攻撃を行ったので宣戦した,講和会議が開かれると英・米・仏・伊・日の五国は 一切を璽断し,仙東の権利は独逸より直接中国に返還せよという中国代表の要求は容れられなかっ た。この消息が中国に伝わると与論は大いに不平となし,五月四日,六月三日の両日「北京専問学 校以上的学生便先後起了両度激烈的示威運動,一・・各地罷課罷市的運動便接踵而起,且有鉄路工人 聯合罷工之説,形勢見緊急」そこで政府はやむえず親日の高官を免職,一方講和会議では,山東に 在る独逸の権利は日本に譲与することに決定したので,中国代表はこの条約に調印しなかった。そ の後山東問題について日本は会議を催促したが,中国はこれを拒絶した。その後ワシントン会議で この問題が解決云々と詳述している。この成功は国際環境の促すところ,自然の局勢であると結ん でいるが,…つには国民外交の運動の結果であると指摘しているのは注目すべきである。(傍線及 注,は筆者,罷課は学生のストライキ,罷市は日貨排斥,罷工は労働者のストライキ)
(注2) 新制東洋歴史(京都帝国大学教授,文学博士,桑原階蔵,大正14年刊,同15年3月訂正再 版)には,般時代の文字として,甲骨文学の写真があげられ,説明がついている。これがその初出 のものかどうかはっきりしないが,昭和期の多くの教科書にこういう写真がのっている。この教科 書も口語体。
3 西洋史教科書
西洋史の教科出1は,その初期のものがヨーロッパの西洋通史(一般には万国史と呼称)の 型を大体そのまま採ったので,その型はさして変らない。
東洋史の場合と同じく,大正期の西洋吏教科書が同時代史をどのように記述している か,それに関連して青少年をどのように指導せんとしたか,先ず,この点について検討し
たい。
(1)時局のとらえかた,我等の覚悟
中学西洋歴史教科書 (法学博士,文学博士,有賀長雄,明治44年刊,同45年3刀修正再版),
、
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本書は明治44年改正の教授要目により,明治39年刊の教科書を訂正したもの。口堺におけ る日本の地位(最近文明の進歩の章)を説いて,アジア・アフリカ及び太洋洲が欧米諸国膨 張の犠牲になろうとするとき,「独り東洋に於て立憲主義を執り,此の趨勢に対抗して,
屹然として中流の砥柱(シチウ)たるものは,実に我日本国,…欧米文明の精鯵を採り,
能く強露に捷ち,」今は世界一等国の列にあるが,経済力の上では二等国にも及ぼず,「国 民たるもの勤倹自彊の聖旨に従い人々勉励」しなければ永く今日の地付を維持することは できないと。勤倹自彊の聖旨とは所謂戊申(明治41年)の詔書をさす,,立恵主義云々の言 葉については後述したい。
中等歴史教科書西洋史(東京高等師範学校教授,斉藤斐章,大正4年刊,同5年3月訂正再版)
は,近世史第2期(七月革命より…)の末尾に,「我が国は…日英同盟の誼に顧み,独逸に 対して開戦一・されど欧州の戦乱は今後如何なる発展を見るべきか,又戦後,世界の形勢 に如何なる変動を来すべきかは予め知るベカ・らず,吾々国民たる者,常に世界の大勢に鑑 み,其の進歩に後れず,富強を列強と競うの覚悟なかるぺからず。」
中等西洋歴史(東京帝国大学教授,文学博士,村川堅固,明治40年刊,大正9年4月訂正8版)
になると,欧州大戦を中心とする政治軍事外交が詳述されている。日英同盟の誼を重ん じ,独逸に最後通牒を送り云々(世界大戦の勃発の章)は,他書と同軌である。
英国海軍の威力をたたえ,「昼夜風浪と戦ひつつ・至難なる海上封鎖・敵艇捜索の任に 当りし英国海軍の労苦,亦多とせざるべけんやヂ ・大小の艦艇猶雲の如く林の如く,大 「
ノ人意を強うするものあり云々」(世界大戦の経過の章)。後年の米英撃滅ではない。
「列国の承認せざる露国労農政府は,其の一k義の宣伝に努むるを以て,各国之が防止を 図りつつあり。」「戦役によりて喚起せられたる各国民衆の自覚は,労働問題となりて到
る処社会的革命を見んとせり,,」 「国際聯盟は既に成立し…世界の平和を維持せんとする も,米国…未だ之に加入せず。されば不安の空気は世界の各方面に振れり」(世界大戦0)終 局,世界の改造の章)。
最後に,世界に於ける日本の地位の章で,我国は世界大戦の終局以来,世界五大国の一 に算せられるに至った,「而して我国が白哲(せき)人種以外,唯一無二の世界強国…世 界に冠絶せる国体を有し,東西文明の融合に最も適当なる位貴に在るを思はば,自ら我国 の使命の甚だ重くして,其の前途の頗る有望なるを覚えざるを得ず。」とのぺ,富力・学 術。商工業等欧米諸強国に比して遜色がある。列国は益々優勝を競っている。この間にあ って,「能く大国の実を挙げ,世界文化の進歩と人類福祉の増進に貢献」することは容易 でない,国民たるもの各自全力を国家の進運に傾注しなければならぬと説く。ここには我 国民の使命たる東西文明の融合が国体と結ばれている。
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西洋史教科書(文学博士,大類伸,大正5年刊,同9年1月改修4版)は全体の感じはあかる い。類書に比べて文化史がある程度重んぜられているが,やはり政治史中心で,外交・軍 事などが多い。現代史を詳述,現代の世界大戦の章で,「日本も亦東洋の平和を維持すべ く,日英同盟の誼に依り独透に宣戦」,吾人の覚悟の項目を設け,「戦後各国共に民1三的 傾向著しく昂進し,為めに熟れも内政問題の紛糾を醸さざるはなく,一・凍南ヨーロッパ が幾多の小邦に分裂せしこと,将来支那及び西伯利亜に起らんとする激しき列強の角逐 と,民族自立主義の流れと太平洋方面に於ける米国の飛躍とは,世界の形勢に如何なる変 化を齎(もたら)すぺきか・」ここに民ヒ的傾向云々とのことばは,民主的傾向は警戒すぺ しというもののようである。このことは,この文章の次に,吾人が史を学ぶ目的は,世界 の形勢を明らかにし,自国民の経歴と立場とを自覚して国民存立の基礎を確固たらしむに ある,敢て諸子の発奮を祈らざるを得ないと結んでいる,こういう国家主義歴史教育に立
_一Dつ育辞と関連する。
ロシア革命について, 「露国は1917年革命起り一・・過灘社会党の跳梁蹟魑(ばっこ)甚 しく・軍隊の士気頽廃し・社会の秩序は乱れ,国土は分裂して到底収収すべからず云々。」
と述べている筆致は,共産主義思想をおさえようとするものであろう。
西洋史教科書(東京帝国大学教授,文学博士,箕作元八,明治44年8月刊,大正9年4月訂正8版)
は・最近文明の進歩の章でわが国民の覚悟として,日本は国際聯盟の主なる一員であり,
世界平和の関鍵を握ると記し大国意識がでている,一般に世界大戦後の東西洋史の教科書 にはこの意識が濃く,日露戦後は世界の強国の列に入ったという意識,世界大戦後は世界 の五大強国の一となったという意識である。同教科書では更に,「我が国民たるもの,明 に帝国の地位を自覚し,善く世界の変局に処して,わが特殊の金臓無敏の国体を擁護し,
更に進んで国運の伸張を図らざるぺからず。」と。
中等西洋歴史(文学博士,瀬川秀雄,大正6年刊,同9年2月訂正4版)壽、,大戦の後の世界 の大勢に鑑み,「内は国体の精華を発輝して,益々国基を輩固(きょうこ)にし,国運の 発展を図ると共に,外は東洋の平和を保持し,世界の進運に貢献することを期せずして可 ならんや」と記す。この東洋平和の保持が日本帝国主義の発展を志向したものであること はいうまでもない。太平洋方面に於ける列国の経営の章で,米西戦争(1898年)以来のア メリカ合衆国の帝国主義,太平洋方面の活動を記し,「現大統領ウィルソン亦同一政策を 踏襲せるに鑑み,我が国民たるもの一層の努力によりて,従来此の方面に占有せる地歩を 確保するのみならず,更に拡張することに努めずして可ならんや。」
統一中等歴史教科書西洋史(広島高等師範学校教授,文学博土,新見吉治,大正10年11月刊)
は,例言に,現今西洋諸強国の発展と,その文化の由来するところを知らしむるを以って
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眼目とし,近世史では,先づ諸強国内政の発展を叙して政治的識見を養い,ついで諸強国 の政治的経済的版図の拡張を説いて,この間に処する国民の覚悟を喚起することにつとめ たとある。内容の程度は高い。ギリレア文化の渕源の章に,ロゼッタ石の一頁大の写真を のせるなど,さし絵図は獣畠で新鮮。社会主義,共産主義に対する配意は,大類伸の教科 書と似ている,,労働問題について,労働者,資本家の反目の状は社会,国家の平和のため に憂うぺきものありとの紀述は,労資協調が叫ばれていた当時の世相を反映するもの。世 界大戦後の形勢を説いて,「国際聯盟は,k唱国たるアメリカ合衆国の不加入によりて,
その効果を疑はしむるものあり,llぼしてアメリカ合衆国及びオーストラリヤは常に猜疑の 眼を以て我を迎えんとす,我国民たるもの,此難局に処するの道は唯上下一致力を協せ て,内は国運の発展を図り,外は東洋平和の保持に任じ,山て世界人類の福祉の増進に貢 献することを期するにあるのみ。」世界大戦後になると,アメリカ合衆国が大きくとりあ げられることは,外国史,ことに西洋史教科書の注目すべき傾向で,やがてむかえんとす
る太平洋戦争えの触角であろうか。
この教科書では,アメリカの発達の章を設けて,独立からモンロー一主義の宣「亨,帝国主
…義の発展(1899年支那の領土保全,門戸開放,機会均等の要求)を統一一一rl勺に説述している。
中等西洋史 (第…高等学校教授文学士,亀井高孝,大正15年刊,昭和2年訂正再版)は大⊥i三6年 刊の同名書のあとをつぐもの,断片的な記述をさけて,史実の因果関係やその影響につい て簡明な解釈がなされ,学習者の理解力の開発に留意されており,一般に罹列的な叙述で 暗記ものとされていた歴史教科書に,新しい意欲を示した。
西洋文明の進展,ことに現代文明の解説に工夫がなされ,さし絵もざん新なものが多く,
死者の書(色刷)や中世後期の農民生活(色刷)などが見られ文化史関係のものが多い。
国体論はなく,社会主義についての記述も淡々としており,一般に教訓的色彩はない。そ れでも,アジアの盟主としての日本の現代における位置の自覚を説いている。 「民族自決
主義は大戦の際聯合国に幸したが,これがため虐げられた民族の白覚を強め,異民族を多 く包容する英国が最も影響を蒙り一・印度でもSwaragと名づける自治独塗の運動が強
スワラジ
い,我が朝鮮も亦その影響を受けている。 白人の践魑(ばっこ)に苦しんでいる他の有色
人種は,厚く我国に依頼して人種平等を期しているが,未だ容易に目的貫徹に至らない。」
と,
民族解放運動に着眼しその実現を志向する叙述は当時としてはめずらしい.前向の姿勢 であり,歴史教育のありかたを示している。朝鮮云々の記述は,大正8年(1919)の3・
1事件(朝鮮独立運動)をさしているのであろう。検定を要する教科書だから,朝鮮の独 立(朝鮮人民の解放)を是認するようなことは記し得ないにしても,こういうことに言及す
ノ
満井:大正期の外国史教育 127
ことすら当時の教科書には見られないことであった。
② 時代区分
西洋史の時代区分には,東洋史のような困難さはすくない。時代区分がされてないもの もある。(例,有賀長雄の中学西洋歴史教科書)。明治初期の万国史(例,箕作麟祥の万国新史)
の系統をひいて,多くのものがフランス革命からを近世史としている。それ以前について は,斎藤斐章の中等歴史教科書西洋史は上古史(太古より4世紀まで),中古史(5世紀より 15世紀まで),近古史(16世紀より18世紀まで) とし, 村川堅固の中等西洋歴史は,上古
(東方諸国の興亡より羅馬帝政の未路,羅馬の文明), 中古(ゲルマニヤ民族の遷渉より,葡萄牙
西班の強盛),近古(宗教改革から18世紀における欧州0)情勢・文物)。(注)大類伸の西洋史教 科書は,上古史(古代東方諸国より羅馬の文明), 中世史(ゲルマン人の大移動より,文運復興 及新発明),近世史上(地理上の発見より近世の発明),近世史下(仏蘭西大革命より列強の亜 細亜及太平洋経営,19世紀及最近の文明),最近世史(三国同盟対露仏同盟より現代の世界大戦)。
近世に詳しいのは一般的傾向であるが,地理上の発見を以て近世史を始めた点に世界史的 性格が濃いことを思わせる。最近世史をおいたのは卓見である。緒言に,国家及び民族の 過去を知るには,その現在をも知らざるべからずとある。同感であるが,これに更に,現 在を知るには更に過去を知らざるべからずということばを加えたい。現今の社会科におけ
る歴史教育一現代社会の理解のための歴史的学習という性格とくらぺて考察したい。
箕作元八の西洋史教科書(大正9年版)には,上古史,中古史のつぎに,近古史(宗教改 革よりナポレオンー世の業・ヨーロッパ独立の役),最近史(ウイーン会議より世界大戦役・最近 文明の進歩)となり,フランス革命を時代の転換期としていない。
新見吉治の統一中等学校歴史教科書西洋史は,上古史(ギリシヤ諸国の興起からローマの文 明),中古史(ゲルマニヤ民族の遷従から近古の文明),近世史(フランス革命から…世界大戦役)。
古代東方諸国のことは,ギリシャ文化の渕源のところで取扱ってある。これは従来の教科 書には見えないもので,西洋史はその本質上,ギリシアから始めるというもので著者の史 色 眼を示す。古代東方諸国はアジア史に属すぺきものである。大類,新見の時代区分は,古
代,中世,近世というすっきりしたものとなっている。
亀井高孝の中等西洋史(昭和2年版)は,上古史,中古史・近古史(ルネサンスー文芸復 興から近古の文明),近世史(仏蘭西革命より19世紀の文明)・現代史(最近列国の内政より大戦 後の世界)となり,現代史という称呼を出している。
(3)革新文学・ルソー観
明治前期の万国史教科書のルソー観は一二の例外一具氏仏国史(H.(弘Gooddch著,オラン
128 茨城大学教育学部紀要 第十二号
ダ人フアンカテスール訳,文部省印行,明治11−12年刊)や,田中耕造訳の仏国史略(明治7年 刊)がある,前者は原著者のキリスト教徒としての排斥である,後者については,田中耕 造は早く中江兆民に師事しているので,何故の排斥か不明,明治20年代になって辰見小次 郎・小川銀次郎共著の万国史要など一があるが,文明同化期はいうまでもなく,大勢はル ソーに好意をもつ叙述で,フランス革命を馴致した史的意義をあたえるものが多い。明治 30年代の西洋史教科書で,箕作元八・峯岸米造の西洋史(明治32年刊)を初出として,ル
ソー批判の濃いものに,磯田良(東京高等師範学校教授,文学土)の西洋史教科書などがあ るが,原勇六の中等教科西洋史(明治29年刊),坪井九馬三の中学西洋歴史教科書(明治36 年刊),坂口昂(第三高等学校教授,文学士)の西洋史教科書(明治37年刊)などは,肯定的 でむしろ史的意義をみとめている。要するにルソーに対する否定的叙述は明治前期の万国 史教科書では例外,明治後期の西洋史教科書では,その主流ではないとしても重要なウエ
イトを占めた。前にあげた有賀長雄の中学西洋歴史教科書には,フランスのヴォルテール
,モンテスキュー,ルーソーの旧物破壊論はフランス革命を馴致したとし,近世に於ける 欧米諸国の大変動は,フランス・11与命がその端緒を開いたもので,フランス革命の第一結果 として起ったのが立憲主義であるとのぺ,世界における日本の地位を説いて,アジア・ア フリカが欧米諸国膨張の犠牲とならんとするとき,独り東洋に於て立憲i三義を執り,此の 勢に対抗云々と記す。この論法でいけば,日本の立憲政治はルソー等革新文学者の思想の 影響となる。明快な論述である。(注1)(注2)
大正期に入り,中学校用歴史教科書外国歴史西洋編(箕イ乍元八,峰岸米造合著,大正3年刊,
同4年1刀修正版)は,「中にもルソーは空想に耽りて……流麗なる文辞と,巧妙なる論法 とを以て,大いに人心を惑わしたり」と記し,斎藤斐章の中等歴史教科書西洋史は,「ル ソーは民約論を著して自由平等の説を鼓吹し,社会人心に大なる影響を与え,他日革新の 繭芽を孕みたり」。明治36年刊の同氏著,中等教科世界史綱のi亨己述に比べて否定的ではな い。村川堅固の記述は,ことさらにルソーを排斥していない。大類伸の西洋史教科書も,
「此等の革新思潮は,旧時代の弊に堪へざりし当時の民心に投合し,やがて精神界の一大 勢力となりて,社会上に一大革命を惹起するの一因となりぬ」 と述記。箕作元八の西洋 史教科書(大正9年版),「中にもルソーは空想に耽りて云々」は前著と同じ,ただここに は,革新文学の初期のヴォルテールは,貴族僧侶の横暴をおさえんとした,またその影響
を受けて啓蒙君一i三もでたとして肯定的であるが,ルソー,モンテスキューの君i三権否定は よくないとしている。ここに立憲君主国である日本の国体をまもるというはっきりした線 が出ている。新見吉治の統一中等歴史教科書西洋史は,箕作の記述によく似ているが,こ のような分析はない。亀井高孝の中等西洋史は「Rousseauに至っては・一極端な自由平
満井:大正期の外国史教育 129 等を呼号して其説は奇激に流れたれども,よく時弊に適中して……大感化をあたえた」と
記す。
西洋史教科書のルソー批判は明治32年にはじまる。太田秀通氏の戦前の歴史教育一西洋 史教育を中心に(1960年刊,現代史の方法上所収)は,明治初年以来の西洋史教育を明快卒 直に批判された好著であるが,ルソー批判が大正期にあらわれ,ここに大正期にいたって の教育思想の変化を見るというような記述であるのは速断であろう。
㈲西洋史教育の目的
中等西洋歴史(瀬川秀雄,大正9年版)に,西洋史教育の目的について次のようにのべて いる。「著者は常に歴史の授業が,修身科と相俣(ま)ちて第二の国民を陶治するに最も 重要なるを看破し…(大正6年10日付の序)」また,学生諸子に対する注意として,中等学 校で西洋歴史を教授する第一の目的は,学生をして,西洋文明の由来を明らかにして,邦 国の盛衰,社会の変遷に関する明確なる観念を養成せしめ,よりて以て日本国民たるの覚 悟を知らしめるに在る,この故に常に彼我の国体・国情の異なる所を考察し,世界的日本 国民として必要なる思想を養成することに努力すること,第二の目的は,学生をして上下 五千載の間に,坤輿(こんよ)の上に活躍せし偉人・豪傑の性行・事業等を知らしめ,そ の徳性を1函養せしむるに在る,この故に特に偉人・傑士が邦家の為に献身努力せし偉蹟,
忠魂義胆に富める行動等に留意して,世界的日本国民として必要なる徳性を養成すること に努めることとある。
統一中等歴史教科書西洋史(新見吉治)の例言に,現今西洋諸国の発展と, その文化の 由来を知らせることを眼目とし云々。中等西洋史(亀井高孝)の例言に,西洋史教授の主 な目的は,現代の大勢に対する的確な知識の養成にあるとしている。中等西洋歴史(瀬川 秀雄)の説明は教訓的色彩がもっとも濃い,これは教授要目の趣旨を更に明確に強調した もの・この中に・世界的日本国民としての自覚がでているが,世界大戦後の大国意識(五 大強国の一)が・世界に拡大されたところに注意すべきで,後には世界の指導者,八紘一 宇という思想となる。(注3)偉人傑士をとのように表現しているか,同書についてみる
と・世界大戦役の章で,「独帝……ヴェルダン要塞に強襲を加え,・…屍山血河の惨状を 呈せしかども,仏軍総司令官ジョッフル元師・要塞司令官ペタン将軍の沈勇と周到なる措 置と,将卒の殉国的大精神の発露等とによりて猛烈なる反撃を蒙り,空しく失敗に終れ
り」と,一例である。
結 び
大正期の西洋史教科書を通じて,東洋史と同じく,或はそれ以上に文化史的内容が加わ
130 茨城大学教育学部紀要 第十二号
り,年表・さし図にも新工夫がなされ,年表では,国別の対照年表が眼立つ・西洋史教科 書(大類伸)のように,綱目体と記年体を併用したものもある。
中等西洋歴吏(村川堅固)には索引がつけられ, 漢字の音は正式の仮名遣によらず・便 宜発音のまま排列された(例,膠・広・江をともにコー)。
中等西洋史(亀井高孝)のように,口語体,横組みのものもでた。この教科書では・固 有名詞に英語綴(又は原語綴)を用い,その下に日本での呼びかたを対照させているQこれ は,直接原語綴のほうが記憶を正確にするのみならず,仮名字にておちいりがちな同一発 音,類似音による異同を明かにするからと記されてある。
教科書の大体の性格は教授要目に副い,強弱の差はあるが概して国体ようご,国家主義 に立つ,ここに大国意識がでてくるのは,世界大戦後の一つの特色であろう。東洋史と比 ぺると,何といっても一般には魅力があった。
暗記ものにはちがいなかったが,ギリシャ・ローマの発展とその文化,とくにフランス 革命,革新文学の記述などは中学生に好まれた。大正末期,中学生であった私は,ルソー の自然にかえれということばを西洋史の時間に教わったように想う。専制政治は斥けてい
るが,立憲政治を否定したものはない。
明治期,ことにその初期の万国史のような欧米謳歌,アジア卑下観は消え,アジア意識 が強くなり,又西欧米勢力のアジア侵略は大きくまとめられて・一読了解できるように工 夫されているのも一般的な傾向だと考えられる。
革命(ことにロシア革命)についての記述や,共産主義・社会主義の記述は,客観的立場 がうすく,強弱の差はあるが,普良なる国民性格の養成という線に立つものが一般的であ
る。
(注1) 明治39年,石川啄木は郷里の渋民村小学校で代用教員をしたが,そのとき彼は高等科で英 語の授業を受持った。 (渡部順三,石川正雄編,啄木日記)
その頃彼が書いた雲は天才であるという小説の中に出てくる主人公の代用教員は彼自身をモデル にしたもの,その代用教員は高等科の二年生に,課外で西洋史を教えている。人間は生れたとき何 も持っていない,精神だけは持っている,キリストははりつけにされた,ナポレオンが生れたのは コルンカだ,ルーソーはヨーロッパ中にひびくラッパを吹いた,トルストイは生きている,ロシア は口本よりえらい,生徒たちは熱狂したというような文章がある。啄木自身,西洋史の課外をした かもしれない。ともかく,小学校に外国史がない当時,このような教員もあったかもしれぬ。雲は 天才であるの中のこの記事は,日露戦後の進歩的青年教師の姿をよく描写している。
(注2) 杉本直次郎博士はその著作目録(昭和5年刊)のなかに,「東洋史とわたくし」と題して 次のように述べている,1904年(明治37)3月.高等小学校を卒業したときもらった賞晶が箭内亘 の歴史教科書東洋編であった。これまで日本史より知らなかった私が,ここにはじめて東洋史のあ
ることを知り,わからぬながらに東洋史を学びたいと志したのであると。
明治14年(1881)の小学校教則綱領によって,小学校の歴史科から外国史がのぞかれていらい,終