『ファウストゥス博士』研究 : ドイツ市民文化の「神々の黄昏」とトーマス・マン, 増補版
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(2) 目. 次. 緒言 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・4 序論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8 第 1 章『非政治的人間の考察』―『ファウストゥス博士』の前奏曲・・・・・・・・・19 1 ドイツ精神の西欧化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20 2 精神の政治化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30 3 非政治的芸術家・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43 4『考察』のキーワード・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・58 第 2章. ヴァイマル時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72. 1『考察』の問題意識の展開・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73 2 進歩と反動のラディカリズム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・82 3「ドイツ共和国」の理念・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・97 4 ロマン主義批判・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・111 5『魔の山』の人文主義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・120 第3章. 亡命・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・130. 1 1933年のヴァーグナー講演・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・131 2 亡命生活Ⅰ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・159 3 亡命生活Ⅱ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・174 第 4 章『ファウストゥス博士』―[「よきドイツ」の「夜明け前」??]・・・・・・・184 1 自伝的長編小説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・185 2 文明批評としての音楽論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・202 3 デモー二シュな密封世界・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・220 4 悪魔との契約・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・235 5 十二音技法・魔方陣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・250 6「デューラーの木版画による黙示録」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・269 7「ファウスト博士の嘆き」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・293 8 作品のキーワード・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・309 9 トーマス・マン文学の位置づけ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・333 注・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・346 解題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・脇圭平 371 跋文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・373 索引・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・380. 補 論 補 論 1 「 よ きド イ ツ 」と 想 起 文 化の 問 題 ― ク リ ス ト フ ・ メ ッ ケ ル の 「 父 親 小 説 」 を 中 心 に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・390. 2.
(3) 補論2 わが国におけるトーマス・マン受容概説―戦後の当該著作をめぐって ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・405 補遺. 関楠生『ドイツ文学者の蹉跌―ナチスの波にさらわれた教養人』に寄せて・・・・・・416. 補論(Anhang)3 Bemerkungen zu Thomas-Mann-Rezeption in Japan am Beispiel literarischer und wissenschaftlicher Publikationen seit dem Zweiten Weltkrieg・・・・・ Ibuki. Shitahodo. Eberhard Scheiffele ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・420. 3.
(4) 緒 言 トーマス・マンはアメリカ亡命中、対独放送や時事評論を通じてナチスに対する抵抗運動 を行った。1945年、終戦直後の日本に先ず紹介されたのは「デモクラシーの闘士」とし てのマンの勇姿であった。戦争と軍国主義に対する猛省を迫られていた当時の風潮は、すな わち作家を進歩的な作家のチャンピオンの一人に祭り上げ、反ナチズムの作家マンの時事評 論から耳ざわりのよい共鳴音を聴き出していた。その代表例としては佐藤晃一、山下肇共著 『ドイツ抵抗文学』の第二部の「抵抗の歴史. 独裁者と闘うマン一族」 (東京大学出版会 1. 954年 141-253頁)が挙げられよう。こういう類の時流迎合的なマン受容に対しては. 高橋義孝が次のように批判し警告していたのは、先見の明ある卓見と申したい。 『自由の問題』や『デモクラシーの勝利について』が、もし今日(啓蒙的な意味におい てではなく) ほんとうに日本の知識階級の賛仰の対象となっているとしたらわたしは日 本の知識階級の未開化性に慄然とせざるをえぬ。こういう論文にしるされている思想や 事柄が、驚異的であり新発見であるような「知識階級」というものは、抑々今日の世界 にありうるであろうか。わたしはこれを信じることを欲しない。[ああいう論文しか書 けぬトーマス・マンというものは退屈きわまる老文士にすぎぬ*]。 *高橋義孝『現代ドイツ文学』(要選書77 要書房 1955年 98頁) ここで当時のドイツ本国のマンの受容に目を転じるならば、旧東ドイツにおいてはマンは反 ファシズムと同時にリアリズムの作家として国是に合致する「民主主義文学」の系列に属す る代表的作家と見做されていた。それに対して旧西ドイツにおいては、たとえばホルトゥゼ ンのマン論* からきわめて端的に窺われるのであるが、カトリックの信仰の立場からマン文 学を断罪するか、それとも、国内亡命者のようにナチズムを現実に共体験し共苦しなかった、 アメリカという安全地帯からのマンのナチズム批判の説得力の乏しさを指摘した類の批判 が頻出していた。振り返って見れば、デモクラシーの擁護者となる以前の、すなわち『非政 治的人間の考察』の著者マンはドイツの非政治的・内省的な市民文化の伝統を擁護する保守 主義者であった。[このような思想上の背馳現象がナチス台頭以降折りある毎に槍玉に上げ られてきたがために、戦後マンの全集が東ドイツで、作品集が西ドイツでそれぞれ刊行され た際にも『非政治的人間の考察』は除外されていた。この問題の書は、長女エーリカ・マン の序文付という新たな装いの下にマンの逝去の翌年、終戦後11年目に当たる1956年に 西ドイツではじめて公刊された。父親が変節漢ではなく究極的には誠実であったことを力説 している、このエーリカの序文を本書がこの時点において必要としていたことは、察するに 難くない。エーリカの論旨は達意で卒がない。父親を肉親としてよく理解していたことはよ く分かる。しかしながら、その大局的、客観的妥当性は別次元の問題であって、この序文は 父親の転向問題が今後改めて論議され再検討されねばならないことを示唆していたのでは 4.
(5) なかろうか。事実、この問題の解読こそは第二次世界大戦集結以来マンの研究と評価の最大 のアポリアとなっていた]。 *Vgl. Hans Egon Holthusen: Die Welt ohne Transzendenz. Hamburg 1954.. 「戦後」は今や遠い昔となった。その間、 『日記』を中心にこの作家にかんする様々の記 録が公刊され、夥しい未公開の資料が発掘されている今日、マン研究は実証主義的・文献学 的考察の分野で長足の進歩を遂げてきている。その結果、時流やその折々の文壇のムードに 惑わされず客観的にマン文学を研究し評価できるようになり、マンの在りし日の実像を日々 具体的に知ることもできるようになってきた。[ここにおいてマンのこの「転向問題」の大 筋はおよそ以下のように解読できはしないだろうか?] 形而上学的・内面的な美を身上とするドイツ市民芸術は本質的に非政治的であった。十九 世紀末のデカダンスの美は、往年の活力を今や失った、この市民文化の寂滅寸前の最後の輝 きであった。やがて二十世紀という「政治の時代」を迎え、第一次世界大戦が勃発すると共 に、非政治的なドイツ市民文化の解体は決定的となった。歴史のこの一大転期に直面したマ ンは長編エッセイ『非政治的人間の考察』を発表し、西欧デモクラシーを峻拒し、非政治的 なドイツ文化の伝統を時の流れに逆らいあえて擁護しようとした。 以後のヴァイマル時代に おいてもマンは『非政治的人間の考察』を土台にして、死滅していく過去の伝統のなかに明 日の創造に繋がる残余の可能性はないかという、最後のぎりぎりの問との執拗な取組みを続 けていた。けれどもナチスの台頭以降マンは、 「市民時代の代表者」ゲーテの人文主義*を導 きの星にしながら、非政治的なドイツ市民文化に西欧デモクラシーを接木させる芸術的可能 性を模索しはじめた。こうしてこの両極間の平衡関係を実現するよう努力することこそは、 ドイツ市民文化の伝統を救出し再生していくための窮余の方策と考えはじめた。マンは心情 の次元においては過去の伝統を追慕していたけれども、反面、現実的・理性的判断の次元に おいてはデモクラシーのアクチュアルな意義を認めざるをえなかった。こういう水と油の関 係にさえある、心情と理知の次元双方の何らかの調和に向けて入魂渾身の努力を続けていく ことこそは、 ドイツ文化と自己の芸術を救う唯一無二の可能性とマンは確信するようになっ た。第一次世界大戦からナチス時代に至るマンの思想遍歴はこのように紆余曲折していた。 ここに窺知されてくるのは、終戦直後の我が国のマン受容に見られる類の「デモクラシーの 闘士マン」ではなく、マンのファシズム批判が漂わしている「どこかメランコリックで屈折 した心理のかげり」(脇圭平『知識人と政治』岩波新書 848 1973 年6頁)である。この事実くらい 問題の根深い機微はない。 [*人文主義の原語は Humanismus であるからヒューマニズムと邦訳できるけれども、マンも Humaniora. und Humanismus のなかで指摘しているように( 10-344以下 )、その語源である Humaniora はギ リシア・ラテンの古典の言語文芸の解読や研究の意であって、双方切り離して考えることはできない。し たがって、人文主義と訳した方がより適切と判断し、以下この訳語に統一することにした]。. けれども同時にまた、この問題を大所高所から遡及的に見るならば、対立する両極のこの ようなイローニッシュな宥和は、アンバランスな精神の持主であるが故に病的で、ともすれ 5.
(6) ば破滅しがちな芸術家の、ひいては人間性全般の救済の契機として青春以来マン文学の生涯 の主題となっていたことが想起されてくる。するとマンの一見不透明な転向は、根源的には、 バランスの回復という、青春以来の自己の文学のキーワードの確認と再生を意図するもので はなかったろうか。こういう総括的な観点に立脚して、イローニッシュな屈折と翳りを示し ている、マンの「転向」のこのような質的同一性と持続性を具体的かつ詳細に解読していく ことが、今日のマン研究の焦眉の研究課題となっていはしないだろうか? 以上の問題と切り離して考えられないのであるが、次に問題となってくるのはマンのナチ ズム批判の内実である。ドイツ精神の一元化を自党の政治目標とするナチズムは、ドイツ市 民文化本来の人文主義的伝統を、したがってマン文学の先述のキーワードを根底から否定す る、新時代のデモーニッシュな暴威であった。マンは、ナチズムによるこの均整攪乱を芸術 家である自己自身に内在する悪のもっともデモーニッシュな発現形態と見做すようになっ た。マンは、それ故、時代のこの焦眉喫緊の問題を自己自身の在り方として問いつめていか なければならなかった。時代の問題を自己の実存の問題として把握し究明していくのは、 『非 政治的人間の考察』以来のマンの文明批評の定石となっていた。時代の危機に対しては創作 を通じて対決しようとする、非政治的姿勢をマンは最後まで崩そうとしていなかった。した がって、マンのナチズム批判は芸術家マンの自己批判というかたちで文学作品のなかで形姿 化されなければならなかった。 この意味でナチズムほどマンの問題意識の急所を刺激して止 まないものはなかった。このようなマンの亡命中のナチズム体験を物語化したのが、彼の人 生と芸術の最終総括となっている長編小説『ファウストゥス博士』であった。この『ファウ ストゥス博士』は、『非政治的人間の考察』を序幕とする「ドイツ市民文化の神々の黄昏」 の最終幕となっていた。『ファウストゥス博士』は以上のような基本視点から全体的かつ立 体的に考察されなければばならない。 ところでドイツ本国のマン受容に目を向けるならば、現役のドイツの作家たちにとっては マンは過去の遺物に過ぎず、新鮮な問題提起をその文学から読み取ることは難しくなってき ている。したがって、彼らのマン評価は概してネガティヴである。アクチュアリティという 観点からマンを手厳しく批判したものも少なくない* 。 *Vgl. Text und kritik. Thomas Mann. München 1976. Was halten sie von Thomas Mann. Achtzehn Autoren antworten.(Fischer Taschenbuch 5464) Frankfurt/M 1986.. 最後に近年のマン研究の動向を同時に一瞥するならば、ホモエロティークの観点からこの作 家の詩的ファンタジーや美意識の成立と展開の過程を解明しようとする試みは、 マン文学に 対する斬新なアプローチとなっている。また、マン文学のディスクールをこの作家の人生の 歩みや体験から切り離し、様々な角度から自由に分析しようとする、新世代のアプローチも 看過できない。マン研究は以前とはおよそ比較にならないほど多種多様化してきている。戦 後」とは著しく変貌してきている、このようなドイツ本国や我が国の研究状況を顧慮しなが ら、『ファウストゥス博士』の作者マンをどのように位置づけ評価したらよいのか、考えて 6.
(7) みることが必要となってきていはしないか。本書は以上のような総合的な視点の下に執筆さ れたものであるが、その際、底本としては左記の全集と日記を用い、全集について数字で括 弧内に巻数と頁数を、 『日記』については日付によってそれぞれ引用の出所を本文中に記す ことにした。 Thomas Mann: Gesammelte Werke in dreizehn Bänden. Frankfurt/M 1974. Thomas Mann: Tagebücher 1918-1921. Frankfurt/M 1979. Thomas Mann: Tagebücher 1933-1934. Frankfurt/M 1977. Thomas Mann: Tagebücher 1935-1936. Frankfurt/M 1978. Thomas Mann: Tagebücher 1937-1939. Frankfurt/M 1980. Thomas Mann: Tagebücher 1940-1943. Frankfurt/M 1982. Thomas Mann: Tagebücher 1944-1946. Frankfurt/M 1986. Thomas Mann: Tagebücher 1946-1948. Frankfurt/M 1989. なお本文中の写真絵図は以下の著作から複写したものである。. BILD UND TEXT BEI THOMAS MANN. EINE DOKUMENTATION. Heraudgegeben Von Hans Wysling unter Mitarbeit von Yvonne Schmidlin. Bern und Stuttgart 1975.. 付. 記. 本書第2版刊行以来10年が経過している今日、 当時の自分の乏しい力量の限度までやっ たことを顧慮した上で、以下必要最小限の訂正と増補を行なうことにした。マンのアドル ノ・モンタージュにかんしては、より具体的に説明するために双方の原文をそれぞれ引用し、 新たに補筆した個所にはゴシック体の括弧[ ](4頁参照)を付し、本書に随伴してくる諸問 題は、別途に「補論」として取り上げることにした。ここに思い浮かんできたのは、最近の 研究面においては正統的でプロフェッショナルな仕事が軽視されたり、緻密化、細分化によ って骨太な問題意識が希薄になっていく傾向が時に見受けられはしないか、という疑念であ った。ともかく、本拙著がわが国の今後のマン研究の材料ともなってくれれば幸いである。 2010年5月25日. 7.
(8) 序 論 晩年の大作 『ファウストゥス博士. 一友人によって物語られた ドイツの作曲家アードリ. ア ー ン ・ レ ー ヴ ァー キ ュ ー ン の生 涯 』 (Doktor Faustus. Das Leben des deutschen Tonsetzers Adrian Leverkühn erzählt von einem Freunde) は着手以来およそ4年の歳月 を費やし、1947年2月6日にようやく完成された(『日記』参照)。マンは以後、中世の「グ レゴリウス伝説」のパロディー作品『選ばれし人』をはじめとする、その他若干の作品を発 表した。第二次世界大戦以前に中断し、1945年1月に執筆を再開した『詐欺師フェーリ クス・クルルの告白』の筆も、最後まで折ろうとしなかった。しかしながら、これらの作品 は『ファウストゥス博士』完成後のいわば後奏曲として書かれたものに過ぎなかった。第一 次世界大戦と第二次世界大戦という二十世紀の二度の危機と対決しなければならなかった、 マンの人生と芸術の総括として書かれた作品は、ほかでもなく『ファウストゥス博士』であ った。自己の生誕70周年を迎えようとしていた、同時にまた、この作品の完成の日もそう 遠くはなくなってきていた1945年5月29日、マンはワシントンの国会図書館で『ドイ ツとドイツ人』という講演を行った。ドイツ論として披露されたこの講演は、作者による『フ ァウストゥス博士』の解題1となっていた。そのなかの以下のくだりに注目したい。. ファウストを音楽に結びつけていないのは、伝説や詩の大きな落ち度です。ファウスト は音楽的であり、音楽家でなくてはなりますまい。音楽はデモーニッシな領域です、― ―偉大なキリスト教徒量であるゼーレン・キェルケゴールは、モーツァルトの『ドン・ ジョヴァンニ』についての胸苦しくなるほどに情熱的な論文のなかで至上の説得力をも ってこの問題を取り上げております。音楽はマイナスの符合付きのキリスト教的芸術で す。音楽は計算され尽くされ秩序であると同時に、呪文や呪術を思わす仕種の頻出する、 混沌を孕んだ反理性です。すなわち数の魔法です。諸々の芸術のなかで音楽ほど現実か らもっとも遠くもっとも情熱的な芸術はありません。だから抽象的で神秘的なのです。 ファウストがドイツ人の霊魂の代表者であるならば、ファウストは音楽的でなければな りますまい。と言いますのも、抽象的で神秘的、すなわち音楽的なのは、ドイツ人の世 界に対する関係、すなわち、不器用ではあるけれども「深遠」さでは世界に冠絶してい るという、尊大な自意識の虜となった、デーモンの息吹を浴びている一教授の世界に対 する関係なのです。(11-1131以下) マンは自己の長編小説のことを「理念の構築物」2 と呼んでいた。この引用は精緻きわまる 「理念の構築物」である『ファウストゥス博士』において相互関連的かつ重義的に展開され ている、マンの問題意識の精髄をこれ以上考えられないほど凝縮的に言い表わしている。そ の論旨は、マン文学全体のコンテクストに密着して解釈するならば、およそ以下のように敷 8.
(9) 衍できるだろう。 マンの文学を開花させ庇護する温床となっていたのは、非政治的な文化国家ドイツであっ た。マンにとってはドイツとは教養市民層を基体とする文化の国を意味していた 3。このよ うなエリート的・伝統的な国家観念は、二十世紀という政治と技術の時代を迎えると共に無 効化しはじめた。伝統的な市民文化の教養遺産は解体し、マン文学の成立基盤も崩壊しはじ めた。第一次世界大戦は、市民社会の伝統的な価値体系のすべてに最後の鉄槌を下そうとし ていた。マンの芸術は新時代によって死刑の判決を受けねばならなかった。このときマンは、 『非政治的人間の考察』を上梓することによって、デカダンスの美をその最後の輝きとして 解体の一路を辿ってきた、ドイツの市民文化の、就中、十九世紀の芸術精神の伝統を、狂瀾 を既倒に回らすすべがないのを熟知していながらも、あえて擁護しようとした。マンは、ド イツ市民文化の末裔である自己の作家精神の系譜の正統性を立証するために、このエッセイ の紙面に自己のすべてを書き留めねばならなかった。『非政治的人間の考察』は以上のよう な意味でマンの自叙伝とも言える作品であった。『考察』――以後簡略化して『考察』とす る――はマンの以後の文学と人生に根深い作用を及ぼし、濃い影を落としていた。 『考察』 は、それ故、「マンの人格と全作品を個々に渉って理解するための不可欠な鍵」4 となって いた。 この保守主義の作家マンにとって十九世紀とは、自己の師匠と仰ぐ文化の巨人の世紀であ った。各国それぞれの個性的な美を造形した芸術が百花繚乱と咲き匂っていた、ヨーロッパ の十九世紀は市民文化の最後の黄金時代であった。 それは消える寸前の奇羅星の輝きにも譬 えられよう。この文化最後の饗宴の場において、ドイツが自国の芸術の精髄として、すなわ ち、イギリスの長編小説、フランスの心理小説や印象派の絵画の等値対等物として誇りえた 芸術のジャンルは音楽であった。マンは 『考察』 のなかで音楽を以下のように定義していた。 だが、ルターの宗教的音楽活動以来、音楽、すなわち、バッハからレーガーに至るドイ ツ音楽は 対位法や大フーガは、プロテスタント的倫理を音響によって表現しただけのも のではなく、恣意と秩序との壮大で多声的な交錯と相俟ってドイツの生自身を模写し、 芸術的・霊的に反映したものであった。 (12-320) 「音楽」は、近世の黎明を告げるルターの宗教改革以来、人間の魂の救済という宗教的・倫 理的次元の芸術として、同時にまた、恣意と秩序という芸術の「アンビヴァレンツ」の精髄 として、以後のドイツ文化のパラダイムであると、 『考察』当時のマンは考えていた。この ような文明批評的音楽観は、『ドイツとドイツ人』からの先の引用と本質的に同じ意味内容 のものと解しうる。このことに着眼するならば、マンは、ドイツのナチス化と共に思想上の 転向を行ったけれども、自己のドイツ観のパラダイムは最後まで変えなかった。 したがって、 第一次世界大戦当時以降、微妙な屈折や変貌を示しながら展開されていた、マンのドイツ論 の根幹のイメージは実質的には少しも変わっていなかった、と言えはしまいか。では、ドイ 9.
(10) ツ文化の精神的象徴である「音楽」とはどのような芸術なのか、具体的に見ていくことにし たい。 音楽とは、絵画や彫刻のような造形芸術とは異質な、不可視的な芸術である。「音楽ほど 現実からもっとも遠く、もっとも情熱的な芸術はほかにない。だから抽象的で神秘的である」 (11-1131)。音楽によって象徴される「ドイツ的なるもの」は、ドイツ人の考え方 そのものを根底的に規定している、ドイツ語からもっとも如実に伝わってくる。ドイツ語は 存在の静止的な局面よりも、動的で多声的な局面を表現する最適の言語である。たとえば、 日本語の「現実」に相当するドイツ語には、Wirklichkeit と Realität という二つの単語が ある。これらそれぞれの単語から伝わってくるドイツ語固有の語感を心に響く手応えとして 吟味するならば、生粋のドイツ語である Wirklichkeit からは生成する何ものかが触知され てくる 5 。 『善悪の彼岸』のなかに箴言的に記されている、ニーチェの光彩陸離たる『マイ スタージンガー』の前奏曲の分析によれば、このヴァグナーの音楽はドイツ的生成のパトス の総括像となっていた。ドイツ語は、この「ドイツ的生成」のパトス固有のダイナミズムを その生命としているが故に、本質的に音楽的に作用する言語となっていた。このことについ ては、「ドイツ的」とはどういうことなのか、その形姿を神話的に寓意化するために書かれ た『ニーチェ―神話の試み』のなかで、ベルトラムがニーチェの定式化に典拠しながら力説 するところであった。マン自身も、「ドイツ語はひとつのパイプオルガンである」6 と、ま た、創作行為とは「文学的奏楽」7 であるとそれぞれ定義していた。ドイツ文化とはこのよ うに体質的に「音楽的」なものであった。この「音楽的」という言葉によって総括されるド イツ文化は、 魂の内面への沈潜という局面において世界におよそ類例のない高みと深みを究 めることができた。このような「内面性」こそは、伝統的なドイツ文化という高嶺の花を咲 かせる蕾にも譬えられよう。マンは講演『ドイツとドイツ人』のなかでこう述べていた。 それとも、きわめて翻訳しにくい「内面性」という言葉でもって特徴づけられている、 あのもっとも有名と思われる、ドイツ人の特性を取り上げてみて下さい。繊細さ、心の 含意深さ、非世俗的な沈潜、自然に対する敬虔さ、詩作と良心の純粋きわまる真剣さ、 要するに、すぐれた抒情詩の本質的特性のすべてはこの「内面性」のなかに含まれてお ります。そして、世界はこのドイツ的内面性から受けた恩を今日でさえ忘れられないで しょう。ドイツの形而上学、ドイツの音楽、とりわけドイツ・リートという秘蹟、国民 的という点でまさに一回限りで類例のないものは、この「内面性」の所産なのです。 (1 1-1141以下) 「内面性の所産」である音楽的・形而上学的な「ドイツ文化」は、現実的・技術的な「西欧 文明(Zivilisation) のアンティテーゼをなす相関概念であった。それはまた、この国特有 の政治的、社会的後進性を培養土としたものであった。英仏などの他のヨーロッパの文明諸 国の場合のように、 市民階級の手による統一的な国民国家が成立しなかったという運命の星 10.
(11) の下に、「ドイツ的な本質の拡大であると同時に深化」、さらには「ドイツ的な類型の深化」 である、非政治的なドイツ市民文化は形成され展開されてきていた(12-114)。この ような歴史の特殊状況を成立母胎とするドイツ文化は、図式的に言い表わすならば、精神の 「垂直面」を究めていくのを自己の本領としていた。そのためにドイツの文化人は、精神の 深遠さという面では最高の世界に定住している、と自負していた。だから、政治性、社会性 という精神の「水平面」に繋がっていくための、現実的な配慮と能力に乏しかった。「ドイ ツ人の世界に対する関係」は「抽象的で神秘的、すなわち音楽的」であっても、実務的では なかった(11-1132)。この事態を象徴しているのが、デモーニッシュなドイツの一 教授「ファウスト博士」の世界に対する関係にほかならない。ドイツは、フランスによって 代表される文明国の場合とは異なって、 政治面と文化面との間の正常な相補的関係を著しく 欠いていた。ブロッホはドイツの前近代性を以下のように総括化していた。 1918年に至るまでブルジョア革命を成功させることのできなかったドイツとは、イ ギリス、それどころかフランスとは異なり、非同時性の古典的な国、すなわち、克服さ れていない、古い以前の経済的存在や意識を残存させている古典的な国である 8 。 この『「非同時性」(Ungleichzeitigkeit)の古典的な国」』という、問題の骨髄的深処を突い ているブロッホの定式によって浮上してくるのは、マルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』 になかで、 ドイツ人は他国民が「実践」してきたことを政治面で「思考」してきた。ドイツ人は他 国民の「理論的良心」であった。ドイツの思惟の超俗性と尊大さと歩調を合わせていた のは、他国民の現実の一面性と低俗性であった。 そういうわけで、 「ドイツ人の国家制度」 の「現実」が「アンシャン・レジームの完成」を、すなわち、現代国家の肉体に突き刺 さっている棘の完成を表わしているときに、 「ドイツの国家知識の現状」は「現代国家の 未完成」を、すなわち、その肉体の損傷を表わしている 9 。 と洞察していた、政治と思想双方の足並が揃わぬ近世以降のドイツ史の変則的な現実である。 詩文芸、音楽、哲学の領域におけるドイツ文化の世界史的偉業は、寒冷な荒地に突然変異的 に開花した桜の花に譬えられよう。文化と歴史の間の発展の際立った不均整はそれこそドイ ツの特異現象となっていた。しかしながらドイツは、ヨーロッパ全体の近代化という歴史の 大勢に直面したとき、文化の国として「非同時性の古典的な国」に止まるわけにはいかなか った。迅速に現代化し、西欧の文明諸国に追いつくよう尽力しなければならなかった。「従 順な規律と規律を破るエクスタシー、兵士と神秘家、世界占有への憧憬と、世界から隔絶し 自己の抒情的世界の枠内に蟄居したいという欲求、技師とロマンティックな音楽、侵略欲の エネルギーと過剰な形而上学を共有する国」10(ヘラー)という、両極的アンビヴァレンツ 11.
(12) こそは文化の国ドイツのトポスとなっていた。ドイツは、このような分裂状態を克服しよう としたときに、この国においてもっとも欠落していた政治的啓蒙を文化の対錘的補正物とし てどうしても必要としていた。近世ドイツの世界史的使命となっていたのは、政治と文化と の相互の刺激による協調関係の確立と維持であった。そのためのたゆまぬ努力がなされなか ったならば、ドイツの現代化は停滞し、ドイツは対外的にも対内的にも様々な困難や障害に 直面しなければならなかった。知的明視に裏付けられ、西欧的に洗練された、ときに老獪な 印象さえ与えるバランス感覚は、ドイツ人生来の資性ではなかった。現実面、政治面でのこ のような不器用さ、未熟さ、先の引用中のマンのテルミノロギーを借用するならば、「抽象 的で神秘的、すなわち音楽的」な「ドイツ人の世界に対する関係」によってドイツが国際政 治の場において孤立の辛酸と悲哀を体験し、苦境に陥ったことも稀ではなかった(11-1 131) 。このような「世界精神との不調和」 (12-926)のもっともデモーニッシュな 悲劇となったのが、ナチス・ドイツの運命であった。非政治的なドイツ精神は二十世紀にお いてナチズムという政治と文化の前代未聞の地獄に知らぬ間に引きずりこまれてしまった。 ブロッホがドイツ史の致命的問題点と見做していた、「非同時性」の悲劇は言語を絶するも のであった。ナチズムは「薄い地殻を破るマグマ」11 のように当時のドイツ全土を席巻しは じめた。それは「もっとも暗黒な原始化の泥土の火山」12 の如きものであり、その国粋主義・ 反ユダヤ主義の言動は「集団舞踏病患者と潜在的な幼児殺害狂」13 のようにグロテスクな狂 暴さをきわめていた。ここで思い起こされてくるのは、『ファウストゥス博士』の語り手ツ ァイトブロームガこのナチス・ドイツ崩壊の最後の場面で行っていた、以下のような独白で ある。 呪われよ、もともと実直で正しい操の持主なのだが、ただあまりにも物事を吹き込まれ やすく、あまりにも理論的に生きようとする、この人種を悪の道に引きずり込んだ、破 滅の元凶どもに呪いあれ!こう呪うのは何とも気分がよい。いや、もし自由でやましい ところの全くない人間の胸の底から溢れ出たものであったならば、こう呪うのは何とも 気分がよいことだろう!われわれが今その断末魔の喘ぎを体験している血の国家、 (中略) この血の国家はわれわれの民族の本性には全く異質なもの、強制されたもの、民族の本 性に根ざしたものではなかった、と大胆にも主張する祖国愛、このような祖国愛は良心 的というよりも、いい気なものと思われる。(6-638以下) ツァイトブロームのこの血を吐くような肉声は、音楽の国ドイツの宿命の悲劇を日夜体験し た、実直な人文主義の胸の張り裂ける思いを吐露して余すところがない。ナチズムは、マン の人生と創作の基盤となっていた、非政治的なドイツ市民文化の人文主義的伝統を第一次世 界大戦当時とはおよそ比較にならぬほどラディカルに否定し、圧殺しようとしていた。この 最悪の事態を直視し続けていたマンは、ナチズムの萌芽となる「デモーニッシュな胚芽」 (マ イネッケ)14 が非政治的・音楽的なドイツ文化の胎内に潜伏していることを認識した以上、. 12.
(13) この問題との対決を自己自身の運命として正受しなければならなかった。そして、ドイツ精 神のこの救いがたい病原菌を摘出していかなければならなかった。「運命愛」 (amor fati) に徹することができるか否かは、人間の偉大さの試金石であることをニーチェは随所で力説 していたが、このニーチェにとっては、偉大さと事態の必然性に対する洞察を切り離して考 えることはおよそ不可能であった 15。このような意味で芸術家マンは偉大であったと言わね ばならない。以来亡命生活を通じてのマンのナチズムとの対決が始まったわけであるが、そ れは、音楽をドイツ文化のパラダイムとする、自己の文明批評の射程内でドイツ文化の在り 方を改めて問い直す、作家人生最後の入魂の創作行為となっていた。 ここで視界を広げてこの問題をより普遍的に把握するならば、それは、ニーチェがつねに 熱い関心の目を向けていた「何がドイツ的であるか、という以前からの問題」16 との改めて の対決を意味していた。ニーチェによれば、そのときドイツ人は問題を「存在」(Sein)とい う静止相においてではなく、 「生成」(Werden)という動相においてつねに捉えようとする 17、 ドイツ精神本来の在り方に対する解答は尽きるところを知らない。対立や否定を媒介にして より高次の総合を目指す、ドイツ特有の弁証法的な探究は際限なく続けられていかねばなら ない。だからこそニーチェは、 「 (前略) たとえヘーゲルのような人間がいなかったとしても、 われわれドイツ人はヘーゲリアンである」18 と言う。マンのナチズムとの対決は、ドイツ精 神の在り方にかんするこの普遍的な問いに対する、彼なりの探究を行うことにほかならず、 ひいてはまた、そのことによって自己の文学をアクチュアルに再生する創造的行為を意味し ていた。『ファウストゥス博士』は、このようなドイツ精神の恒常的な運命の星の下に成立 した、マンの「辞世の作」となっていた。このとき音楽は「芸術と文化全般の絶望状況の範 例と比喩」19 とならねばならなかった。 マンが講演『ドイツとドイツ人』のなかでドイツ文化のパラダイムである音楽を「計算さ れ尽くされ秩序であると同時に、呪文や呪術を思わす仕種の頻出する、混沌を孕んだ反理性、 すなわち数の魔法」(11-1131)と定義していたことに改めて注目したい。このよう に対立し合う二つの世界から成立している、音楽のアンビヴァレンツを総括化している、こ の刮目すべき定式化ははたしてマン自身の独創だったのだろうか。立ち止まって考えてみる ならば、そうは言い切れないのではなかろうか。というのも、音楽のアンビヴァレンツを指 摘する芸術論はドイツにおいてはすでに定着していはしなかったろうか。 その活例を挙げよ う。ロマン派の詩人ヴァッケンローダーは『芸術を愛する一修道僧の心情の披瀝』のなかで 音楽の成立の秘蹟的経緯を敬虔かつ情熱的に語っていた。その主旨を要約するならば、楽曲 とは、夢幻的ファンタジーという混沌を数学的厳密さをきわめた法則の圏内に統御し形象化 することによってはじめて成立しうる、芸術作品にほかならない 20。その創作過程はこうい うアンビヴァレンツの極みである。最高の音楽作品を聴いたときの美的体験は言葉では尽く せない。音楽の世界特融のこの秘跡は、数学的な法則によってこの上なく精妙に構成されて いる楽譜の媒介なしには体験不可能である。すると上掲のマンの定義は、実質的には、ロマ ン主義の音楽観を、それとも音楽にかんする基礎知識を継承し微調整したものと言えはしな 13.
(14) いだろうか。しかしながらマンは、このようなカノン化された音楽観をただ反芻するに止ま ってはいなかった。キェルケゴールの音楽観を手引にして問題を神学的に掘り下げていた。 音楽を「マイナスの符合付きのキリスト教的芸術」 (11-1131)と定義することによ って、そのデモーニッシュな深淵においてこそはじめて啓示されてくる、救済の奇跡を模索 していた。『ファウストゥス博士』におけるマンの音楽観は、それ故、以前には見られなか った激しい宗教的情熱を放射していた。 文化のデモーニッシュな領域の通暁者として出現し た悪魔がここで披露していた以下の音楽論は、 「マイナスの符合付きのキリスト教的芸術」 という、マンの定義を敷衍したものにほかならない。 彼(キェルケゴール)は知っていた。だから、この素晴らしい芸術に対する俺の特別な 関係に精通していた―― 彼の見るところ、この芸術はもっともキリスト教的な芸術なの だ。―― 勿論、マイナの符合付きだ。それはキリスト教によって創始され、展開された のだけれども、やがてデモーニッシュな領域として否定され排除された、―― 君、この ことは知っておけよ。 音楽はきわめて神学的な問題なのだ ―― 罪がそうであるように、 悪魔である俺がそうであるように。このキリスト教的音楽に対する情熱こそ本当のパッ ションなのだ。認識と惑溺が一体となっているのがこのパッションなのだ。本当の情熱 は曖昧なもののなかにのみイロニーとして存在するのだ。最高のパッションの領域は絶 対的に疑わしいものなのだ(後略)。(6-322以下) この悪魔の台詞は、キェルケゴールの『あれか、これか』のなかの以下のくだりを下敷きに していると推断できよう。 (前略)そして音楽はより厳密な意味でキリスト教芸術であることが、さらに正しい言い 方をするならば、キリスト教が排除することによって措定いる芸術であることが(中略) 証示されてくる。別の言い方をするならば、音楽はデモーニッシュなものである。音楽 が絶対的な対象としているものは、エロス的・官能的な天才性のなかにある 21。 キェルケゴールによれば、 「官能的な天才性」(sinnliche Genialität) こそまさにデモーニッ シュなものの化身であった。こういう官能の世界をキリスト教は排除した。しかしながら、 まさにこの否定的媒介によってこそ、精神は官能という人間性の深淵を知り、それを精神と して新たに措定することができた。「官能的な天才性」の世界をただ音楽によってのみ表現 している、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』22 こそは、デモーニッシュなるもの の金字塔的表現となっていた。つまり音楽こそは、天才的な域にまで高められた官能性をそ の生身の姿で形姿化する、最善最高の表現手段にほかならない。音楽は、否定を媒介として 問題の本質を動的・統一的に把握する、弁証法の立場から「真にキリスト教的な」芸術と言 わねばならない。およそ以上のようなキェルケゴールの音楽論に典拠しながら、マンは音楽 14.
(15) を「マイナスの符合付きのキリスト教的芸術」と『ドイツとドイツ人』のなかで定義してい た。しかしながら、マンがここで考えていたデモーニッシュなものとは、キェルケゴールが 情熱的に論述していた「官能的な天才性」の世界のみを言い表わす概念規定のみに止まって いたのだろうか?「官能的な天才性」の世界は、キェルケゴールによってこのように弁証法 的に肯定されるとき、 『ファウストゥス博士』の悪魔のいう「絶対的に疑わしいもの」 、すな わち、アンビヴァレンツの極致となってくる。このことはいちおう確認できるけれども、マ ンがキェルケゴールを引き合いに出しながら『ドイツとドイツ人』で用いていた「デモーニ ッシュ」という概念は、そのコンテクストにおいては「官能的な天才性」の世界のみに限定 されてはいはしなかったと思われる。それは同時にまた、厳密な秩序と反理性的混沌が一体 化している、音楽のアンビヴァレンツを言い表わす概念規定となっていた。マンはキェルケ ゴールのデモーニッシュという概念を同心円状に広げ、そのなかに自己の問題意識を投入し ていた。概念規定を客観的に明確化せず、様々な契機を自己の詩的想念のなかにアマルガム 化しているのは、何もこの場合に限られたことではなく、マン文学の通例となっていた。芸 術家の解釈や受容がしばしば「我流で情緒的な手筈」(9-562)となるという恣意的な 事態を、マンは自己弁明の気持というよりも、むしろ芸術家としての自負をもって是認して いた。主観的な理解は、芸術家が自由に行使できる特典とさえ思っていた。マンにとっては 自己自身の焦眉の問題意識を語ることがすべてであった。『ドイツとドイツ人』で指摘され ている音楽のアンビヴァレンツ、すなわち「デモーニッシュなもの」は、 『ファウストゥス 博士』においては、音楽の歴史的発展の最終帰結である「十二音技法」(Zwölftonthechnik) の世界として主題化されていた。そしてここにおいては、十二音技法が究めた音楽のアンビ ヴァレンツの極限は、 ドイツ文化の運命に対して突きつけられた最終究極の問題提起の場と なっていた。当時のマンの信条によれば、芸術家は、ドイツ文化と人類の救済の夢を最後ま で放棄したくないならば、十二音技法によってもっともラディカルに表現されているような、 アンビヴァレンツの極北の地にまで踏み込んでいかなければならない。そして、このような ドイツ文化の深淵を究め尽くしたときにこそ、ナチズムの正体を解き明かし、人類の救済の 一縷の可能性を模索しうる糸口が見つかるに違いない。このような想定の下にこそマンは 『ドイツとドイツ人』のなかで ファウストを音楽に結びつけていないのは、伝説や詩の大きな落ち度です。ファウスト は音楽的であり、音楽家でなくてはなりますまい。 (11-1131) という斬新大胆なテーゼを掲げることができた。 『ファウストゥス博士』の主人公は、事実、 文化の如何なる深淵にも恐れることなく下りていき、問題と果敢に取り組み、その最終帰結 を究明しようとするドイツ人、すなわち「ファウスト的人間」である、孤高の天才的音楽家 となっていた。それはマンならではの着想の妙であったと言えるだろう。マンはドイツ文化 の問題をこのように神話的に擬人化したかたちで把握していた 23。 15.
(16) 『ドイツとドイツ人』からの冒頭の引用はおよそ以下のように拡大解釈できるだろう。マ ンはここにおいても、音楽的なドイツ市民文化に内在する危機、 『考察』以来の問題圏域内 でナチズムを取り上げていた。マンにとってナチズムとは、第一次世界大戦当時以来対決の 焦眉の対象としなければならなかった、 「非政治的・音楽的」なドイツ市民文化の危機の最 終帰結を意味する、新時代のイデオロギーにほかならなかった。だからマンは、「ファウス ト的人間」である音楽家を主人公にした、この『ファウストゥス博士』をどうしても書き上 げなければならなかった。スイスに続く亡命地アメリカにおいて完成されたこの長編小説は、 したがって、 『考察』の著者トーマス・マンの最後の問題提起となっていた。ここにおいて マンは、ニーチェのテーゼを借用するならば、 「必然的なることをただ耐え忍ぶだけなく、 いわんや隠しもしない、(中略)それを愛する」24 芸術家、すなわち「運命愛」の芸術家と してナチズムを自己の芸術に内在している危機として実存的に把握し、その最終帰結を引き 出していた。このように時代小説、音楽小説、芸術家小説という異なった相貌を同時に示し ているがために玉虫色の光を放っている、この自叙伝的長編はヴァグナーの辞世の作『パル ジファル』に等しい作品として象徴的な意味でマンの「最後の作品」とならねばならなかっ た. 25。そして同時にまた、 「芸術家の人生はその作品と同じように最初から統一体である」. (12-192)という、『考察』以来の自己の芸術上の信条をマンはこの作品を完成する ことによってついに実証することができたわけであった。 『考察』と『ファウストゥス博士』はこのようにドイツ精神のパラダイムとしての「音楽」 を主題化しており、双方とも究極的にはマンのもっともラディカルな自己告白の書となって いるが故に、 「本来的類縁性」26 を共有しており、後者は結果的には前者の「直接の続編」 27. に等しい作品となっていた。 『ファウストゥス博士』の成立は『考察』という土台ぬきに. は考えられない。マン自身亡命後も「結局のところ自分は『考察』の著者であった」28 と述 懐していた。 この意味で双方の大作がマンの全作品のなかで占める比重はじつはきわめて大 きい、と言わねばならない。 「悲劇的なるものの本質は、人間において神的なものと悪魔的なものがすでにまさに解き がたく結びついているところにある」 29(マイネッケ )。芸術家は生の全体性を造形しよう と決意するならば、この人間性のアンビヴァレンツを避けて通ることはできない。芸術家は このような悲劇の深淵を認識し、くぐりぬけてこないことには、生の奥義は理解できない。 生は死というその背面の世界ぬきには考えられない。 死の体験なしには生の十全な認識と充 足は不可能である。したがって、 「この世の人生への奉仕」 (11-851)の道を知るため には、「死への共感」という、敬虔であると同時に果敢な態度でもって人間性の悲劇の深淵 に対する目を開き、それを究めていかねばならない。すでに夙くより『ヴェニスに死す』な どの作品が教示してきたところであるが、その徹底性故に一切の欺瞞を許容しない認識はこ のとき、奈落の深淵への一路となり、その終着の地は混沌とした死の世界にほかならない。 その名に値する人文主義はこのような死の体験をその成立母胎としなければならない。これ 16.
(17) が『考察』を前座とする『魔の山』の中心思想となっていた。したがって、マンが青春以来 冷徹孤独な非人間としてつねに批判と弾劾の標的としていた認識の芸術家こそは、 同時にま た、その生来の認識能力故に人類の精神的指導者にもなりうるという、イローニッシュで可 塑的な存在でもあった。認識の芸術家は、こういう悲惨と栄光の同時的アンビヴァレンツを その生来のアイデンティティとしていた。芸術家とはこういう両極的可能性を内に秘めた、 変幻自在なプロトイス的人間にほかならない。したがってマンにとっては、ゲーテ、ヴァグ ナーをはじめ自己の師匠と仰いでいた、 十九世紀の市民的芸術家は人間性のもっとも具体的 な範例を意味していた。このような芸術家が決行していた生の地獄巡りは、生をその根底か ら全体的に造形しようとする、本源的に誠実な人間精神の証しにほかならない。救済の望み の全くない死の深淵においてマンが最後の一縷の望みを託していたのは、 その深淵そのもの から暗示されてくる筈である、生のユートピアの符牒であった。それは、闇夜に一瞬瞬く救 済の曙光に譬えられよう。 「 『考察』の続編」である『ファウストゥス博士』においては、 「希 望喪失の彼岸に生まれる希望、絶望の超越、 (中略)信仰を超えた奇跡」 (6-651)の潜 在的可能性をめぐる最終の問題提起が行われていた。文化の救済の問題はこのような宗教的 次元において弁証法的に考えられねばならなくなってきていた。 このようなネガティヴな宗 教性こそは、音楽に最後に残されていた表現の唯一無二の可能性であった。だからこそ音楽 は「芸術と文化の絶望状況の範例と比喩」として神学的な問題とならねばならなかった。 では「マイナスの符合付きのキリスト教的芸術」である音楽は『ファウストゥス博士』に おいてはどのようなユートピアへの道を暗示していたであろうか?言い換えるならば、非政 治的なドイツ市民文化の「神々の黄昏」を描いたこの「最後の作品」は、どのような究極の メッセージを秘匿していたのであろうか?作品内在的解釈のパラダイムに替わるものとし て新たに提唱されている「読者による作品受容の理論」をも援用しながら、この難問を解読 することが、マン研究上きわめて重要な課題となってきたのではなかろうか?というのも、 マンにおける「負」の世界に突き入り、その実体をまずその根底から究明することによって はじめて、『魔の山』の時期以来ゲーテを始祖と仰ぎ模倣していた、マンの人文主義の真意 を理解する道が開けてくるのではないか、と想定されてくるからである。生来の祝福とユー モラスな人生肯定をキーワードとしている長編『ヨゼフとその兄弟たち』や『詐欺師フェー リクス・クルルの告白』などによって代表される、マン文学における「正」の世界は、『フ ァウストゥス博士』の「負」の世界を究めることによってはじめて立体的に理解することが できるのではなかろうか。もしそうであるとするならば、 「悲劇とは―最終的には― 崇高な 茶化しである」 (9-394)という、マンの芸術観の奥深い機微、それと密接に関連して、 明暗両世界が相互逆対応的に繰り広げられているマンの「遊び」(Spiel) の芸を理解する糸 口を見出すこともできるだろう。そしてさらにまた、 「桁はずれに独立独歩であると同時に 代表的」(メンデルスゾーン)30 あった、作家としてのマンの人生の歩みはどのようなもの だったのか、その基本の筋道を具体的に知ることもできるだろう。こう想定するならば、 『考 察』の時代とナチス時代という自己の人生と芸術の二度の存外の転機の危機とマンはどのよ 17.
(18) うな対決を行ってきたか、「音楽」と「政治」との係わりという観点から考察していかなけ ればならないのではないか。本論は以上を全体の道筋としている。. 18.
(19) 第1章. 『非政治的人間の考察』 ―『ファウストゥス博士』の前奏曲―. 19.
(20) 1 ドイツ精神の西欧化 マンは、西欧文化の最後の全盛期であった十九世紀の代表的ドイツ人として、青春以来の 師匠であったショーペンハウアー、ヴァグナー、ニーチェの三人の名を折りある毎に挙げて いる。この「ドイツの空に燦然と輝く、永遠に結ばれていた精神の三連星』(12-72)――以 下簡略化して「三連星」とする――は、ローマのカトリック教会の覇権にプロテストしてき た、ルターの宗教改革以来の非政治的なドイツ「文化」( Kultur) の伝統を受肉化していた 世紀の巨人であった。この「三連星」共通の気圏となっていたのは、デューラーの銅版画『騎 士と死と悪魔』 (写真1参照 65 頁)によって象徴される、如何なる深淵を恐れぬドイツ的勇 気であり、その作品の隅々にまで浸透している「十字架、死、納骨堂」の霊的厳粛さであっ た。この北方的・プロテスタント的な、すなわちドイツ的な世界こそは、マンの目には「全 世界の、自己の世界の象徴」 (12-541)と映じていた。 「三連星」は以上のような意味 でマンにとっては「音楽家」(Musiker ) にほかならなかった。 苦悩とペシミズムの化身である「三連星」は、同時にまた、純粋にドイツ的な世界とは異 質な「西欧的」な教養の持主であった。 「ショーペンハウアー、ヴァグナー、ニーチェは文 筆家として、エッセイストとして、当世風の文士としてヨーロッパ人であった」( 12-1 35)。ヴァグナーもニーチェも共にドイツ精神の本格的な批判者であった。ヴァグナーの 作品は、成程、「ドイツ的本質の爆発的啓示」(12-77)となっていた。しかしながら、 シューマン、シューベルト、ブラームスの作品の場合のように純粋なドイツ音楽とは言い切 れない作風が、このヴァグナーの芸術を同時に際立たせていた。ヴァグナーの場合、ドイツ 精神の表現方法がヨーロッパ的・コスモポリタン的であった。すなわち、 「現代的な屈折と 解体が見られ、装飾的、分析的、知的」 (12-77)であった。したがってヴァグナーの 芸術は、「センセーショナルなことにかけてはこれ以上のものは考えられない、ドイツの本 質の自己描写であると同時に自己批判」 (12-77)となっていた。ヴァグナーはこのよ うな「間接的方法」(12-76)でもってドイツを批判していた。ニーチェもまたドイツ の批判者であったが、そのドイツ批判は「直接的・文筆的方法」 (12-76)によるもの であった。ニーチェが自己と同類の批評家として賞賛の辞を惜しまなかったのは、独仏架橋 の文士ハインリヒ・ハイネであった。その筆致は竪琴の音のように流麗な、その筆鋒は針の ように鋭い散文によってハイネは評論を文学のジャンルにまで高め、ドイツ文学の西欧化に 甚大な貢献を果していた。このような音楽と批判の一体化こそはハイネのドイツ文学史上不 滅の功績にほかならない。ニーチェは批評家としてこのハイネの衣鉢を継承していた。マン は言う。「ニーチェはドイツの散文を感性的なもの、軽妙な芸を身につけたもの、美しいも の、鋭いもの、音楽的なもの、アクセントのあるもの、情熱的なものにした――これは前代 未聞のことだった。以後ドイツ語で書こうと意を決した人間は誰しも、ニーチェのこの影響 から逃れることはできなかった」 (12-88)。宗教、哲学、道徳、芸術などの文化のすべ ての領域に向けられたニーチェの筆鋒は、まさに批評の芸術となっていた。ニーチェの散文 20.
(21) においては芸術家の概念と認識者の概念は一体化しており、芸術と批評の境界はもはやなく なっていた。 「音楽」の国ドイツにこのようなヨーロッパ的な批評精神を芸術として定着さ せることによって、 「ドイツの批評主義的教化、知性化、心理学化、文学化、急進化」 (12 -86)のために残した、ニーチェの功績はそれこそ無量無尽であった。 ドイツ本来のプロテスタント的・内省的な文化の伝統を継承した「音楽家」(Musiker) で あった「三連星」は、同時にまた、 「西欧的な」、すなわち、このようなドイツ文化に対する 主知主義的な批評家としては「文明」(Zivilisation)の精神を身につけた、 「文士」(Literat) で もあった。彼らの世界においては、音楽的な文化の伝統を正統的に継承していく「正」の面 と、それを批判と分析によって解体していく「負」の面がヤーヌスの顔のように同時に一体 化していた。 「三連星」の世界のこのアンビヴァレンツこそは、マンの見るところ、自国ド イツが世界に誇りうる根本特性となっていた。彼らの偉業が「ヨーロッパ的事象」 (12- 72)として不滅の光芒を放つことができたのは、創造精神のこのアンビヴァレンツに徹し たからにほかならない。彼ら三人は、非政治的・音楽的世界を掘り下げることによって、そ れと異質な、否、対極的な知的・分析的な世界をほんとうに活かすことができたからこそ、 代表的なドイツ人にまで自己を高めていくことができた。彼らは、「ドイツの本質の自己描 写であると同時に自己批判」(12-77)を貫徹したからこそ、ドイツの本質の真の普遍 化をそれぞれ実現することができたわけである。ちなみに指導者の名に値する模範的な存在 になろうと欲するならば、人間は他者との「出会い」によって成長し、全人的に人格を形成 していかなければならない。ドイツが世界に誇る教養の理念の普遍性は、人間のこのような もっとも具体的な問題との持続的な取り組みから生まれたものであって、 その意味でドイツ 精神ほど人間的なものはない。ニーチェは『人間的な、あまりにも人間的な』のなかでドイ ツ精神のダイナミズムを以下のように定義していた。「よい意味でドイツ的であるというこ とは脱ドイツ化することである」1 。自己に徹することによって異国の世界の教養を自己固 有の方法で摂取し、自己を超えていくことは、まさに「ドイツの学習」2 となっていた。こ のようなダイナミックな「ドイツ的生成」こそは、 「ドイツの可能性と素質の理想とすると ころ」3 であった。マンは『考察』においてこのようなドイツ精神の自己展開と自己発展の 問題についてこう語っている。 非ドイツ的に、それどころか反ドイツ的に振る舞うことはドイツの人文主義の属性のよ うなものになっている。国民的感覚を解体してコスモポリタンな世界に向かう傾向は、 尺度となる判断に従うならば、ドイツの国民性の本質と切り離せない。自分のドイツ的 特性を見出すためには、それを場合によっては失わなければならない。したがって、異 質なものが加わらないかぎり、より高度のドイツ的特性はおそらくありえないだろう。 典型的なドイツ人こそはヨーロッパ的人間であったし、ドイツ的なもののみに固執する のを野蛮と見做していたに違いない。(12-70以下). 21.
(22) ショーペンハウアー、ヴァグナー、ニーチェは、マンにとっては三身一体化して「自己の精 神的・芸術的教養の基礎」(12-71以下)となっていた。十九世紀のヨーロッパの夜空 に瞬くこの「三連星」の血脈に繋がることができたという自負と矜持は、マンの作家精神最 大の支えとなっていた。マンは十九世紀の嫡子として青春時代このような教養体験の恩寵に 浴することができた。 「十字架、死、納骨堂」が醸しだす幽暗深遠な霊気は、マンの作品固 有の倫理的雰囲気を醸成していた。この局面においてマンは「音楽家」であった。けれども マンは、この「音楽」の世界に安住している生粋のドイツの詩人ではなかった。心理学的、 批判的分析を自己の本領とする、ヨーロッパ的な「文士」 (Literat)でもあった。マンは『考 察』のなかで自己存在のアンビヴァレンツについて次のように告白している。 私はこう申したい。若い男(マン自身のこと)は、趣味と時代の状況に迫られてヴァグ ナーの芸術とニーチェの批判を自己自身の教養の基盤とし、主としてこの両者を拠り所 にして自己形成を行わねばならなかった。この男は同時に、自己自身の国民的領域であ るドイツ的特性が、きわめて注目すべき要素、すなわち、情熱的批判を促して止まない ヨーロッパ的要素であることに目に止めないわけにはいかなかった。(12-78) マンはニーチェの直系の「デカダンスの心理学者」として、美を没落前の最後の響きとする、 非政治的なドイツ市民の末期の運命に対して冷徹な分析のメスを入れることによって、ドイ ツ文化の批判者となった。マンは、音楽的な「詩文芸」( Poesie) を正統視しがちなドイツ 文化の土壌にヨーロッパ的な「長編小説」(Roman) を誕生させることに成功した、数少な いドイツの作家であった。ドストエフスキーの観察によれば、ドイツ民族はローマの遺産の すべてに対するプロテストを行ってきた。したがって、ドイツ民族とは本質的に「<非文学 的な民族」(das unliterarische Volk) であり、 「非心理学的、反心理学的な民族」なのであ って(12-78)、西欧的な「文学」 (Literatur)をドイツに根づかすことはそれこそ至 難の業であった。このドイツの文化土壌にマンの処女長編小説『ブッデンブローク家の人々』 のような、小説の全盛期であった十九世紀のフランス、イギリス、ロシアの傑作と肩を並べ ることのできる、本格的な「長編小説」が誕生したのは、ドイツ文学史上画期的な出来事と なっていた。このことによってドイツの散文を西欧化し、ドイツの長編小説の地位と声望を 高めるためにマンの果たした貢献はそれこそ甚大というのほかはない。マンの小説は、主知 主義的な西欧文明に対して自国の文化の「音楽的」資質の優位を固執する、ドイツの民族主 義的偏向の是正を促進させるという、啓蒙的・進歩的作用を及ぼしていた。マンは『考察』 でこう述べている。 世間の関心を浴びて長編小説、より正確にいうならば、社会小説が台頭したのは、 (中 略)ドイツの文学化、民主化、 「人間化」の過程の進捗具合を正確に計る物差しとなる であろうことは確かである。(12-70) 22.
(23) けれども、このドイツの「文学化」(Literarisierung) 、「民主化」(Demokratisierung) は 創作という非政治的行為の圏内に止まっており、西欧文明の精神特有の政治主義的色彩は微 塵もなかった。ここでいうドイツの「西欧化」(Europäsierung)はこの意味でもじつはドイ ツ的現象の枠内に留まっていた。 「三連星」の由緒正しい継承者マンの創作活動の活性源となっていたのは、言うまでもな く非政治的なドイツ市民文化の伝統であった。この伝統の様式を規定していたのは、堅実で 秩序正しい現世の生活を重視するプロテスタンティズムの倫理であった。 それは芸術の分野 においては「職人の技能」(12-103)を生かしていくことを至道としていた。こうい う職匠魂の起源を問うならば、マンの故郷の街リューベック等、ハンザ同盟都市の隆盛期で あった、純粋な文化の時代にまで遡らなくてはならない。「内から滲み出た気品と国民的職 匠魂を具現している版画や絵画の時代」 (12-一115)であった、ドイツ文化のこの高 揚期においては市民精神と芸術精神とは深処で共鳴し合ってていた。このような「芸技性と 市民性との混在」(12-104)こそはドイツ芸術の普遍的特性にほかならない。ドイツ の市民的芸術家とは、ヴァグナーの歌劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で讃美さ れていたような、手堅さと誠実さを命の綱とする職匠魂の持主であった。 「ドイツの芸術の ための芸術」 (12-104)とはまさにこういうものであることを、マンは『考察』で縷 説していた。したがって、ドイツの「真の市民的芸術家魂」 (12-103)は、 「芸術のた めの芸術」という信条を貫徹した隠遁と禁欲の芸術家フローベールの「修道僧的審美主義」 (12-103)や、 「耐えがたいダヌンツィオの美の大法螺」 (12-106)とは無縁で あった。マンはこう断定していた。 「大切なのは<作品>ではなく、自己の生活である」 (1 2-105) 。創作はドイツの市民的芸術家にとっては「自己の生活を倫理的に充足させる 手段」(12-105)となっていた。換言するならば、創作はドイツにおいては「生活の ひとつの倫理的象徴」 (12-105)を意味するものであった。 「唯美的なるものに対する 倫理的なるものの優位」(12-104)をモットーとする、この人文主義的な文化の伝統 は、詩作と体験の詩人ゲーテにおいてその金字塔的高嶺を極めて以来、マイアー、 メーリケ、 シュトルム、 フォンターネを経てマンに至るドイツの市民的芸術家の生活様式をその根底で 規定していた。「精神的人間は比喩の世界に生きる」 (12-104)。だからこそマンはこ う言い切ることができた。「今日までドイツの本質は私が市民精神と呼んでいるものに徹し てその特性を明らかにしている」(12-144)。 「三連星」もその例外ではなかった。こ れらドイツの市民文化の体現者たちはすべて、 このような非政治的教養によって自己の世界 をヨーロッパ的・普遍的なものに高めていくことができた。ドイツ市民精神は、ヨーロッパ 的普遍性を同化するためには本質的に非政治的でなければならなかった。 したがってドイツ のデモクラシーは個人的、倫理的であって、政治主義には無縁であった。ドイツ市民文化の 伝統は、フランス革命の精神を継承し再現しようとした、二十世紀の「政治」の概念とは氷 炭相容れぬものであった。ドイツ市民の教養は政治とは「生来無関係そのもの」(12-1 23.
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