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1 1933年のヴァーグナー講演

『ヴェニスに死す』のユーモラスな対幅画として第一次世界対戦勃発時以前に構想され、

終戦後およそ5年を経て1924年に完成された『魔の山』は、文明批評的観点からすれば、

「ヴァイマール共和国の小説」1 と言うにふさわしい作品であった。では、それ以後のヴァ イマール時代の政局はどのように変動していったか、先ず概観しておこう。

1922年以来ドイツはシュトレーゼマン時代を迎える。シュトレーゼマンは、アメリカ の経済力を利用して通貨を安定させることによって、祖国の財政の復興を図った。ドイツは、

ヴェルサイユ条約を履行しながらも、経済的に繁栄しはじめ、外交面でも西欧諸国と協調す ることによって、敗戦後の孤立を脱し国際社会に復帰し、威信を回復していった。ドイツは 国際連盟に加入し、常任理事国に就任した。このような経済的復興と国際的地位の向上によ ってナチスと共産党は議席を減らし、左右両極の政治的暴力は減少しはじめた。ドイツは、

マンが掲げた共和国の理想に向かう兆しを見せはじめた。1928年1月31日、マンはシ ュトレーゼマンについてこう語っている。

わが国の若い世代は、心から――私はこの言葉を強調します――平和を愛する、シュト レーゼマン氏の政治を継承しようとしている、と私は確信しています。各人の好みの問 題は別として社会面と経済面ではそうならざるをえない筈です2

また同じ年の10月28日には国際連盟に対しては、1918年当時とはおよそ正反対の以 下のような見解を表明していた。

国際連盟がヨーロッパ及び世界にとって生存可能な重要な社会機関となることができ る、と見做しております。進歩が遅々たるものであっても、進歩を否定し拒否するのは、

邪悪であり笑止なことでありましょう。相互理解に対する信頼は、進歩が絶対に必要で ある、という事態に対する洞察から生まれたものなのです3

また1934年7月14日の『日記』でもこう回顧していた。

戦後のドイツは立派になっていた。すべての国から共感が寄せられていた。すべての国 はドイツを援助しようと思っていた。ラーテナウとシュトレーゼマンは平和な方法によ ってドイツを以前以上の大国に復興しようと思っていた。

けれども、マンの希望の綱は切断されてしまった。このような安定期は束の間の小康状態に 終わった。1929年、ニューヨークのウォール街に起こった株式の大暴落が原因となって 世界恐慌が起こり、ドイツの経済は崩壊した。失業者は急増し、議会は混乱の坩堝と化した。

共和国は再び左右両翼のラディカリストたちの攻撃の標的となった。ナチスは国民の不満を 利用して巧妙に人心を把握しはじめた。ヴェルサイユ条約を弾劾し、煽情的な方法でもって ドイツに根強い排外感情、とりわけ反ユダヤ感情とドイツ至上主義に訴えた。自党の勢力を 拡張するためにはその手段を選ばなかった。社会民主党をはじめ共和国の理念の担い手とな るべき、市民階級や中産階級を地盤とする諸政党は凋落していった。教養市民層はナチスの マキアヴェリズムの前には非力であった。議会におけるナチスの躍進は著しく、1933年 には合法的に政権を獲得し、一党独裁を制度化した。議会制民主主義は息の根を止められた。

1933年は、ワイマール共和国の終焉と史上未曾有の悲劇の発端を告げる、運命の時を表 わす年号とならねばならなかった。

ドイツの国粋主義化を転期としてマンが打ちだしていた共和国の理想、すなわち新しい人 文主義は、入魂の長編小説『魔の山』において祖師ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの 終業時代』のパロディーというかたちで形姿化されていた。マンは、ゲーテ以来のドイツ市 民文化の普遍的・超国家主義的な伝統をこのようなパロディーの手法でしか喚起できなかっ た。そのために『魔の山』という長編小説は、伝統に対する敬虔な心情と同時に解体的批判 から生まれた「深甚に真剣な遊び」(10-399)とならねばならなかった。『魔の山』全 体に濃い翳を落としていたのは、このような文化の末期の危機意識であった。この問題につ いては先章で言及してきたとおりである。この「深甚に真剣な遊び」によってユートピアへ の感傷的な憧れとしてここで造形化されていた、マンの人文主義の理想は、今や時代を風靡 し制圧しはじめたナチズムによって全面的に否定されはじめた。マンは、『考察』の時代に 続いて存外の運命的震撼に直面し、以後、スイスとアメリカでの亡命生活という、新たな受 難の道を歩まねばならなかった。その発端となったのが、彼がこの1933年にヴァグナー の街であるミュンヒェンで行った講演『リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大さ』であっ た。マンは、『魔の山』完成した年である1924年、ヴァーグナーについて書くことを出 版社に確約していたが、いつ頃この仕事に取りかかれるのか、未定の状態にあった。その後 ヴァーグナー没後50年記念講演を依頼されたマンは、1932年の終り頃からこの仕事に 着手し、1933年2月10日にミュンヒェン大学の講堂でその成果を披露した 4 。全体 はマンのヴァーグナー論の集大成となっていた。ちなみに当時のマンは、旧約聖書の創世紀 の物語の一部分のパロディー作品であり、同時にまたヴァーグナーの4部作『ニーベルング の指輪』を典範とする神話4部作『ヨゼフとその兄弟たち』の執筆中であった。

ヴァーグナーの音楽にはじめて接したときの審美的体験は、マンにとっては、「神経と知 性の戦慄と歓喜に満ちたひととき、この芸術のみが与えてくれる感動的で偉大な意味深い世 界を洞察できるひととき」(9-373)となっていた。けれども『ヴェニスに死す』執筆 当時のマンは、「きわめて論理的で、形式感の溢れた明晰なもの、厳格であると同時に晴朗 なもの、ヴァーグナーの場合に劣らず意志の緊張を必要とするけれども、ヴァーグナーより も清涼で高貴でそれ自体健康な精神性を有するもの、バロック的・巨大なもののなかに偉大

さを、陶酔のなかに美しさを求めないもの」(10-843)に憧れはじめていた。それは

「新しい古典性」(10-842)の世界であった。マンはヴァーグナーに対してゲーテと いう対極像を対置しはじめた。しかしながら、「新しい古典性」に到達できると思われた道 は、『ヴェニスに死す』が主題化していたように、混沌とした死の深淵に直通していた。マ ンはヴァーグナーを忘却の彼方に追いやり、古典の明澄静謐な世界に参入することはできな かった。マンは自己の偽らざる感情をこう白状していた。

しかしながら、ヴァーグナーの作品のなかの調べ、関連性を充填させた節まわしを耳に したときには、自分は今もなお喜びのあまり愕然とし、故郷と青春時代への郷愁のよう な思いに襲われる。そして当時と同じように、自分の精神は、聡明で含意ある、憧憬的 で老獪なヴァーグナーの魔力の虜になってしまう。(10-842)

マンは晩年においても、ヴァーグナーの音楽に対する青春の情熱が「嵐のように蘇ってくる」

のをときに体験する、と告白していた 5 。マンのヴァーグナーに対する態度はこのように その時々の創作状況に密着しながら微妙な振幅と屈折を示していた。しかしながら、ヴァー グナーの毒はマンの芸術の隅々にまで浸透していた。ニーチェは、ヴァーグナーの芸術に全 身全霊をもって打ち込んでいたからこそ、「賞賛の別の形態」である「逆の符号つきの讃辞」

によって、あまりにも問題の多いこの世紀の音楽家の正体を暴露し続けて止まなかった(9

-373)。愛すれば愛するほどより激しく攻撃しなければならなかった。攻撃は感謝の誠 実真正な表明となっていた。抜差しならない批判精神のこのアンビヴァレンツによって、ニ ーチェはヴァーグナーの芸術の本質を徹頭徹尾洞察することができた。ニーチェがここで決 行した致命的なヴァーグナー攻撃は、マンの場合、ヴァーグナーに対する感激の最上の「刺 激剤」(9-373)となっていた。マンは、ニーチェの不滅のヴァーグナー批判を介して ヴァーグナーの芸術を全面的に認識することができた。そして、危機の瞬間に自己の能力の すべてを賭けねばならない、現代の批評精神の運命と在り方をほんとうに学ぶことができた。

ニーチェが刻み上げていたこのヴァーグナー像こそは、マンの目には「現代の芸術家の範例」

6 と映じていた。ニーチェのヴァーグナー論はマンの血となり肉となっていた。このときヴ ァーグナーの芸術は、マンの芸術精神を容れて隙間のない容器であったと言えよう。ヴァー グナーに対するマンの関係は、したがって、「懐疑的なもの、ペシミスティックなもの、明 察に裏付けられたもの、悪意に近いものだけれども、終始情熱的で筆舌には尽くせぬ生の魅 力を具備したもの」(10-841)となっていた。マンのヴァーグナーに対する脈々たる 情熱は、「批判としてはもっとも懐疑的な、讃美としてはもっとも高揚した表われ方」7 を していた。

マンは『考察』のなかで、このように正負両面的なヴァーグナー解釈を非政治的なドイツ の芸術家の誠実な愛と情熱の所産と見做していた。というのも、讃美と批判をこのように一 体化させている「関心のパトス」こそは傑出した作品を創造する原動力にほかならない、と

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