アダム・スミスの道徳と経済(3)
著者
遠藤 和朗
雑誌名
東北学院大学論集. 経済学
号
79
ページ
51-70
発行年
1979-03-10
URL
http://id.nii.ac.jp/1204/00024432/
スの道徳と経済(3)
アダム。ス
遠藤和朗
目 次 問題提起 スミスの道徳論 (I) 利己心と利他心 (2) 同感慨念と公平な観察者 (31 良心と一般原則 (4) 慎慮・仁恵.正義の三つの徳. .…以上(11 スミス経済学の成立 (1) 法 学 ( i ) 自然的正義 (ii) 『グラスゴウ大学講義」 (iii) 政 府 (a) 政府の成立 (b) 統治原理 (c) 自由の合理的体系 (2) 法学からの『国富論』の独立・−. . .以上(2) (3) 『国富論1−スミス経済学の思想的背景及び経済理論を中心として− ( i) スミス経済学の思想的背景 (ii) 『国富論』の経済理論 (a) 分 業 (b) 資本の蓄積 (c) 商業社会と交換価値 (d) 自然価格の決定と分配 結びにかえて. . . . .以上'31本号 中 上 ワ ︺ 3 4 (3) 「国富譲』−スミス経済学の思想的背景及び経済理議を 中心として− スミス経済学の目的は人民と主権者の双方に富を「豊富に低廉」に分配 できるような経済秩序を確立することである。 スミスはこうした経済秩序を「合意的な価値評価にもとずくめいめいの −51− 1アダム・スミスの道徳と経済(3) 尽力の欲得ずくの交換によって成立する社会」(1), すなわち「商業社会」 (commercialsociety) として把握した。その際彼の経済社会の認識の 思想的背景となったのは「見えざる手」や欺彌理論に関する思想であっ た。 それゆえ,本稿では, まず始めにスミスの経済学を支えている思想的背 景を考察し,次いで, 『国富論」における富の増殖と分配に関する経済理 論を概説しようとするものである。 ( i ) スミス経済学の思想的背景 スミスは経済社会の特徴として,分業が社会全体に開花し,人々は自己 の労働生産物の余剰部分を商品として交換しながら社会生活を営んでいる と,いう。つまり,各人が生産者であると同時に商人であるような社会力t スミスの認識する経済社会に他ならない。ここでは人々ば,相互に自主独 立の個人として平等に相対しながらも依存しあっている。 このような社会では仁愛は社会結合の紐帯ではなく利己心が, すなわ ち「合意的な価値評価にもとずくめいめいの尽力の欲得ずくの交換」 (a mercenaryexchangeofgoodoffices)が社会結合の原理である。 スミスによると, われわれが自分自身の食事を用意するとき,肉屋や酒 屋やパン屋の仁愛に期待してもむだである。われわれは彼ら自身の利益に 対する彼らの顧慮に期待するのであって, 彼らの人間性(humanity)に うったえるのではない。われわれは彼らの自愛心(self-love)を刺激して 彼らの利益を語ることによって交換を行うのである。 このように,人々ば 利己心に基づいて自分自身の利益を追求するのであるが, その利己心も 「公平な観察者」の「同感」を得られる範囲内において,すなわち正義の 原則を侵害しないかぎりであることば言うまでもない。そして,経済社会 においては利己心も同感を得られることによって道徳の領域に場所を与え (1) AdamSmith,TheTheoryofMoralSentiments, ed,byD.D.Raphacl andA.L.Macfie,Oxford, 1976 (以下M.S、 と略す) p、 86米林富男訳 『道徳情操論』 (上) 203頁。
られたのであった。勤勉(industry)周到なる用心(circumspection)節 制(temperance)倹約(economy)等の内容をもつ慎慮(prudence)の徳
が経済社会の中心的徳性として位置づけられたのである。スミスは, この
ような徳を担う慎慮の人を社会の大部分を織成している 「中下層階級」 (themiddlingand inferiorstatbnsof life) に見いだし, その本質は 「徳への道」と「富への道」 とが一致する人々であると信頼するのであっ た。 「中位の, あるL、は下層の生活状態にあっては,美徳への道と,少なく ともかような生活環境にある人達が当然到達できると期待していいような 富への道とは,幸いにも大概の場合にほとんど一致している」②と。 以上のようにスミスは一方において,経済社会における利己的諸個人の 行為主体を「同感」の原理によって追求するという方法を用いて, 「中下 層階級」の人々の利己心が徳性と一致することを認識したのであった。 ところが,彼ば他方において, 「中下層階級」の人々が利己心に従って 自分自身の利益を追求する結果,社会の一般的富裕が実現されるとする, いわゆる「見えざる手」の思想を展開している。 「通例かれば,公共の利益を促進しようと意図してもいないし, 自分が それをどれだけ促進しつつあるのかを知ってもいない。……その生産物が 最大の価値をもちうるようなしかたでこの勤労を方向づけることによっ て, かれはただ自分の利得だけを意図するにすぎぬのであるが, しかもか れは, .…. ‘見えない手(an invisiblehand)に導かれ, 自分が全然意図し てもみなかった目的を促進するようになるのである。かれがこの目的を全 然意図してもみなかったということは,必ずしもつねにその社会にとって これを意図するよりも悪いことではない。かれは, 自分の利益を追求する ことによって,実際に社会の利益を促進しようと意図するばあいよりも, (21 M. S. p. 63邦訳(上) 151∼152頁。 ‐−53− 3
より有効にそれを促進するばあいがしばしばある」(3)と。 このようにスミスは「見えざる手」の思想のなかに,個々人の意図には かかわりなく社会全体の繁栄が実現しているという客観的な事実を発見し たのである。 そして,利己心に導かれた個々の経済主体の行為と, その行為の結果と は区別されるという蒲想に,経済社会の客観的分析をなしうる契機を見い だしたのであった。これが作用因(行為の動機) と目的因(行為の結果) の論理4)である。 「宇宙のあらゆる方面において, われわれは手段が, その手段によって 産み出そうと目論まれている目的にぴったり合致するようにきわめて精巧 に仕組まれていることに気がついている。かくして,植物の機栂や動物の 身体の機構において,個体の維持と種の繁殖という自然の二大目的を進捗 させるように万事がいかに巧妙に工夫されているかを見てわれわれは驚嘆 する。 しかしながら, これらの事物ばかりでなく,他のすべてのそうした 対象物において, われわれはなおそれらの対象物のそれぞれの運動や組織 における作用原因(efficientcause) と目的原因(final cause) とを区別
している」15)と。 例えば,食物の消化,血液の循環ならびにそれからえられる種々の体液 の分泌は, すべての動物の生活という偉大なる目的のために欠かせない機 能である。 ところが,われわれは血液が自発的に循環したり,食物が自発 的に消化したりするなどとは想像しないし, まして, それらの血液や食物 が循環とか消化とかの目的を自覚したり,意識して循環あるいは消化した (3) AdmmSmith,An lnquiry into theNatureandCauSesOftheWealth
ofNations, ed. byRH. Campbell andA, S. Skinner, 2voIsOxford,
1976 (以下W.N、 と略す) 、・c1. 1, p. 456 大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』 (岩波文庫版) (3)56頁。 cfMSpp. 184∼5 邦訳(下) 394頁。 (4) 内田義彦「経済学の生誕」 (増補)未来社, 1971年, 96∼126頁。船越経 三「アダム・スミスの世界」東洋経済, 1973¥94∼1m頁。参照。 (5) M.S. p 87邦訳(上) 205頁。
りする唯どとは想像しない, と。 このことは,人間と社会との関係についても同様である。 社会全体の繁栄や幸福についての配慮は神の領域の問題である。人間の なすべきことは自分自身の幸福の追求である。次に家族,友人,祖国とい う順序において幸福を願うことが人間に最もふさわしい仕事である, と。 スミスはこのように神の領域と人間の領域とを明確に区別して,神の意 図である目的原因=社会の繁栄が自己の利益の追求という作用因のなかで 生きる個々人によって無自覚的に達成されることを認識したのであった。 個々人の織!〕なす行為は,個々人の意図とは異なる客観的な結果を生み だす。 社会の一般的富裕の実現という客観的な事実こそが人類の‘つくりぬし, の目的に他ならなかったのである。そして, この目的達成のために自然は 人々を欺くのであった。 すなわも, 「自然の欺瞭」 (deception)によって社会のなかでの個々人 は目的と手段とを転倒した行動様式をもつことになるというのである。 つまり,社会的存在としての人間には野心.虚栄心があるから自分の境 遇がどのように他人に映るかということが人々にとって重大関心事にな る。 したがって,人々は社会的な「自己の地位の向上」=他人の注目と称 讃を得るために勤労をし富の嘘得に努力するようになる。社会のなかでの 人間にとってまさに「富は力(power)である」(61D ここでは’ もはや富ば人間の自然的欲求の対象ではなく,他人の注目と 称讃を得るための手段として映るのである。 ところが, 「富貴,権勢のも たらす快楽は, このような複合的観点から考察せられる場合には,何かし ら雄大なもの,美しL、もの,高貴なものとして,想像に浮んで来, かよう な快楽を得るためにわれわれは自から進んであらゆる苦労と心配を払いた がる傾向が非常に強いのである。 しかもかような快楽ばそうした苦労や心 │61 W.N, vol l, p. 48邦訳(11 151頁。 −55− 5
配に充分価いするものと想像される」(7) と。 こうして,社会のなかでの各人は「自己の地位の向上」の手段である富 を目的化し, それ自体のために努力するのである。 スミスはこのように手段と目的を転倒し手段そのものを目的化すること によって,つまり自然の欺きによってこそ,人類に進歩と繁栄力tもたらさ れるというのである。 「自然がこのような具合にしてわれわれを職着しているのは結櫛なこと である。このような欺踊こそ人類の勤勉を発動させ, それを不断に働かせ るところのものである。 このような欺踊こそまず最初に人類を促して土地 を耕作させ, 家を建てさせ, 都市や国家を建設させ, 人間生活を商尚に し,美化するあらゆる学問や芸術を発明させ,改良させるところのもので ある」旧) と。 以上のように,経済社会は「自然の欺踊」によって富の嘘得こそが唯一 の目的となる世界である。それゆえ,人々は社会的な支配力としての富の 追求に一生努力するのである。けれども, その結果は生活必需品や便益品 が豊富に供給さ加社会全体が繁栄するものとして把握されたのである。 こ うして, スミスは,個々人が自分自身の利己的性向に従うという錯綜した なかに,社会全体の調和が保たれていることを認識したのである。彼にと って調和を保ち自律しているこの社会は自然的秩序を形成していると考え られたのである。スミスはこのことを「見えざる手」の思想として表現し たのであった。 まさに「見えざる手」は個人の利己的利益を社会全体の利 益に一致させる自動調整機能ということができる。 「国富論」において人民と主権者を富ますという課題は,以上述べてき たような「見えざる手」の思想を経済社会のメカニズムとして把握するこ とであった。 (7)MS.p183邦訳(下) 393頁。 (8) M S. pP. 183-4 邦訳(下) 393頁。
(ii) 「国富論』の経済理論 スミスは, まず「国富論」の序論において「国富」の概念を次のように 定義している。 「あらゆる国民の年々の労働は, その国民が年々に消費するいっさいの 生活必需品および便益品(thenecessariesandconveniencesof life) を 本源的に供給する資源(fund)であって, この必需品および便益品は, つ ねにその労働の直接の生産物か, またはその生産物で他の諸国民から職買 されたものかのいずれかである」i9)と。 このように, スミスは「国富」を労働の生産物=生活必需品および便益 品として把握した。そして, 「国富」の増殖の要因として(1)その労働の熟 練・技巧・判断(skill, dexterityandjudgment)の度合, (21有用労働に 従事する者と従事しない者との割合,の二つをあげている。第一の要因は 労働生産性の問題であって, それは分業の結果である。第二の要因は生産 的人口と不生産的人口との比率の問題であって,資本蓄積にかかわるもの である。 スミスは第一の要因をr国富論」第一編におL、て,第二の要因を第二編 においてそれぞれ取り扱っている。このように,生曜論はスミス経済学の 根本にすえられている。だが,生産論だけでは厳い。 さらに生産論を基点 として,一国において生産された富がどのように交換・分配されるのか, その交換・分配の秩序もまた考察されている。すなわち,第一編の主題の 後半部分「その生産物が人民のさまざまの階級のあいだに自然に分配され る秩序について」の研究である。それゆえ, スミスの経済理論は,今日, われわれが生産・交換・分配・消費として認識している経済秩序の基礎を 形づくって、、るといえる。 (a) 分 業 さて,富の増殖の第一の要因は分業(divisionof labour)である。スミ スは分業論の冒頭で「労働の生産諸力における段大の改善と, またそれを (9)W.N. VOl. I, p. 10邦訳(1) 89頁。 −57− 句 イ
あらゆる方面にふりむけたり,充用したりするぱあいの熟練・技巧および 判断の大部分とは,分業の結果であったように思われる」噸と述べている。 かつ,分業が行われると, いかにして生産力が増大するかについて次の三 つの面を強調してL、る。すなわち, 分業の発展は(1)労働の技巧を増進さ せ, (2)時間を節約させ, ’31労働者が一つの作業にもっぱら従事する結果と して機械の発明に資するというのである。スミスばピンエ場の例を用いる ことによって特化(specializatioI,)がいかに総産出量を増大させるかを示 したのである。彼によれば, このような技術的分業の発達とともに社会の
なかに「職業及び仕事の分化(the separationofdifferent tradeS and employments), すなわち社会的分業が進むと労働生産性はなお一層高ま り,労働の生産物は増大するというのであった。 もっともスミスにあって ば技術的分業と社会的分業とが混同,同一視されており,社会的分業の進 行のうえに立ってはじいて技術的分業が可能であるという両者の関係は明 確に意識されていなかった。 しかし, この二つの分業の区別が明確でなかったことが,分業から市場 での商品交換というスミスの分析の展開を助けることにもなったのであ る。 ところで, このような分業は何によってもたらされるのであろうか。ス ミスによると, 分業ばノ、間の本性のなかにある「ある物を他の物と取引 し,交易し,交換するという性向」IIu (thepropens;tytotruck,barter,and exchangeonethingforanother)から生じるとL、う。換言すれば,分業 はそれの効用をまったく考えないところの自分自身の利益を追求するとい う人間の利己的本性に刺激されて生じるものであるというのである。 スミスの説明でば交換本性が原因で分業が結果になっている。 かくして, 交換によって分業が生じ分業を通して交換することによっ て, 多くの人々の行為が社会的活動として結合されることになる.社会 ⑩W.N, vol. I, p. 13邦訳(11 98頁。 (11)W.NvOll, P. 25邦訳(1) 116頁。
全体が分業の体系として展開されることによって, 社会の普遍的な富裕 (universalopulence)を実現するに到るのである。 「統治がよくゆきとどいた社会では,普遍的な富裕が人民の最下層の階 級にまでひろがっているのであって, これこそば, 分業の結果さまざま の工芸の生産物のすべてが大増殖したためにひきおこされたことなのであ る」⑫と。 こうして, スミスは分業が生産力改善の最大の原因であるとして分業の 広く深く行われている文明社会を称賛したのであった。 けれども, スミスは分業のプラスの面だけでなくマイナスの面もすでに 認識していた。彼は「国富論」第五編の青少年教育施設費を論じた個所 で,分業が高度に進行する結果,創造性や理解力が鈍くなって人間が堕落 ・退化する危険咽があるとして,政府は教育を奨励すべきであると指摘し ている。 (b) 資本の蓄積 文明社会の「国富」を増大させる第一の要因は,分業の発達による生産 力の増大であった。 しかし, それらは資本の蓄積を前提q』としてはじめて可能なことであ る。また,第二の要因である富をつくる労働人口の比重もこの人口を維持 するものとしての資本の蓄概0計の大きさの問題となる。 この資本蓄積に関する部分はスミスのフランス旅行前の「グラスゴウ大 学講義」にはないところから,重農学派, とりわけケネー(Quesnay,F ) (I2)W.N.vol. I, p. 22邦訳(1) 112頁。
(13 cf.E.G.West, !(AdamSmithandAlienation,'' inEssaysonAdam Smith, editedbyA. S. Skinner&T.Wilson,Oxford,
1975-“ 「資財の蓄積は事物の性質上分業に先だたざるをえないから,労働もまた 先だっておこなわれる資財の蓄積だけに比例してますます細分されうるので ある」と。 (先行的蓄積)W.N・ vol・ I, p. 277邦訳(2) 232頁。 (15) スミスの資本蓄積論には独立生産者が商品生産者として社会的分業の担い 手となるための先行的蓄積と生産的労働者の届用による資本の自己増殖とい う,いわゆる資本制蓄積が重ねあわされて考察されている。 ,l、林昇「国富論体系の成立」未来社, 1973年, pp. 155∼91参照。 ('」、林昇 「経済学史著作集I」に所収) −59− 9
やチェルゴウ (Turgot,A、R.J)から影響を受けたものと言わオ1ている。 労働の生産物が富であるといっても,社会におけるすべての労働が富を 生産するわけではない。医師とか法律家・主権者・軍人等は社会的に有用 な人々であっても富の生産者ではなかった。 しかし, スミスが最も注目し たのは「家内奉公人」の存在である。当時イギリス社会におL、ては, その 数が非常に多かったので, スミスはこれらの人々を減らし生産的労働に従 事させることで「国富」を増大しようとしたのである。 そこで, まずスミスは生瞳的労働と不生産的労働の概念について次のよ うに述べている。 「労働には, それが加えられる対象の価値を増加させる部類のものと, このような結果を全然生まない別の部類のものとがある。前者は,価値を 生産するのであるから, これを生産的労働(productive labour) と呼び, 後者はこれを不生瀧的労働(unproductivelabour) と呼んでさしつかえな い。 こういうわけで,製造工の労働は,一般に自分が加工する材料の価『〔 に, 自分自身の生活維持費の価値と自分の親方の利潤の価値とを付加す る。 これに反して、 召使の労働はどのような価値も付加しない。…“・人は 多数の製造工を使用することによって富み,多数の召使を扶養することに よってまずしくなる」1日と。 生産的労働と不生産的労働の区別は利潤を生むか生まないかに依存して いることが明らかである。つまり,資本に維持される労働が生産的労働で fib i) ,単なる収入に維持される労働が不生産的労働であることが規定され ている。一国民の富を生潅するものば,資本によって雇用される生産的労 働者であるから,生巌的労働者を多く雇用し,不生産的労働者を使用する ことが少なくすればするほど社会は富裕になるというのであった。 かくして,年々の労働生産物を増大するためには資本の蓄積を行わねば ならない。 スミスばその方法をわれわれの生活状態をよりよくしようとする本能で ⑬W.N. v01. 1, p. 330邦訳(2) 337頁。
ある節倹(par;simony)に求めた。 「もろもろの資本は,節倹によって増 加され, 浪黄や不始末(prOdigality andm;scondact)によって減少す る」(耐と。 しかも「資本が優位を占めているところではどこでも勤勉が優 勢を示し,収入が優位を占めているところではどこでも,怠惜が優勢を示 している」燗と。 したがって,年生産物を直接消費するだけでなく節約しなければならな い。 節約によって資本を蓄積し, それで「家内奉公人」のような不生産的労 働者を生産的労働者として雇用し,社会の富を増大させるというのであっ た。 (c) 商業社会と交換価値 富増殖の二大原因である分業の発達も資本の蓄積もそれぞれ交換本能や 節約本能というような人間本性に求められた。換言すれば人々の利己心, すなわち「自己の状態を改善せんとする各個人の自然な努力」
(thenat-ural effoTtwhicheveryman iscontinuallymakingtobetterh;sown
condition)が, そうした交換や節約を導びくのである。 しかし, このような利己心によってのみ分業の発達や資本の蓄積が実現 されるわけではない。分業が促進され資本が投下される場,すなわち市場 が発達していなければならない。 スミスによると 「分業をひきおこすのが交換力(powerofexchanging) であるように, その分割の範囲もまたつねにこの力の大きさによって, い いかえれば, 市場の広さによって制限されざるをえない」側と。つまり, 分業が発達するためには市場の発達が必要条件であるというのである。 また,資本の蓄積も資本の投下される場としての市場の存在を前提とし ていることは言うまでもない。 r r 7 叺 刑 圦 岬⑱⑲ l l l O 0 0 V V V F■■ N N N p p p L L L 邦訳(2) 351頁。 邦訳(2) 350頁。 邦訳(1) 124頁。 7 7 3 3 1 3 3 3 −61− 11
「あらゆる個人は, 自分の自由になる資本がおよそどれほどのものであ ろうとも, そのためのもっとも有利な用途をみいだそうと不断に努力して いる_│”と。その上.分業は資本蓄積を前提としているから, スミスにあっ てば分業の発遠の場が同時に資本蓄積の市場に他ならなかったのである。 市場の発達が分業や資本の蓄積を促進する。 しかも,市場はこうして生 産された年々の労働の生産物が交換・分配される場でもある。 かくして, スミス経済学の核心ば市場の分析にあることが明らかであ る。 そこで, スミスは分業が社会全体に発達し商品交換が全面的に開花した 経済市場を「商業社会」 (commerciai society) と呼んで次のように述べ ている。 「いったん分業が徹底して確立されると,人間が自分自身の労働の生産 物によって充足しうるところは, そのもろもろの欲望のなかのごく小さい 一部分にすぎないものになる。かれば, 自分自身の労働の生産物の余剰部 分のなかで, 自分自身の消費をこえてあま{〕あるものを,他の人々の労働 の生産物の永かで, 自分が必要とするような部分と交換することによっ て, そのもろもろの欲望のはるか大部分を充足する。 こうして, あらゆる 人は,交換することによって生活し,つまりある程度商人になり, また社 会そのものも適切にいえば一つの商業社会(commercial society)に成長 するのである」121と。 このように「商業社会」においては, 各人は独立生産背として, かつ 商人として相対し, 自分自身の生産物を他人の作った生産物と交換する ようになる。 しかも, その交換も物々交換の不便さから「商業の用具」 (instrumentofcommerce)としての貨幣の媒介によって一用促進される ようになる。貨幣の導入によって,個々の商品はそれぞれ価格をもつわけ であるが, スミスはこの価格に先立って, 諸商品の「交換'ml1M」 (value "W.N・ vol (2DW.N・ vol I, P. 454邦訳│3) 52頁。 I, p. 37邦訳(1) 133頁。
inexchange)を規定する諸原理を究明するために次の三つの問題を提出 している。 ’11 交換価値の実質的尺度とはどのようなものであるか,すなわちすべ ての商品の実質価格は何からなるか。 (2) この実質価格の構成部分は何か。 (3) 実質価格の構成部分が, あるばあいにはその自然率以上に上昇し, あるばあいにはそれ以下に低下するのは, どのような事情に基づくのか, 換言すれば,商品の市場価格(marketprice) と自然価格(naturalprice) とが不一致になる原因は何であるか, という三個の問題である。 第一の交換価値の実質尺度については, スミスはそれを労働の量と規定 した。労働だけが唯一の普遍的にして正確な価値の尺度となりえるとい う。労働の量という場合,彼は商品と交換に購買あるいは支配しうる労働 壁, すなわち支配労働量と,商品を生産するために投下された労働量, す なわち投下労働蛍との双方を並列して考察して↓、る。 この点は,従来からスミスの混乱として多くの人々によって指摘されて きた。 しかし, スミスの経済社会分析の出発点が「商業社会」であることに留 意する必要がある。つまり, 「商業社会」は独立生産者の社会として自主 独立の個々人が平等に相対しており,未だ階級の発生はみられない。 した がって,資本・賃労働の関係は存在しない。このような社会においては, 等価の下に交換が行われ,人と人との関係においては正義が実現していな ければならない。それゆえ, スミスが支配労働量と投下労働量とが一致す ると主張するとき,以上のような「商業社会」における人と人との関係を 理論化したものに他ならなかったのである。 この意味で, スミスの労働価値論は「商業社会」というモデルにおいて 成立するものなのである画。 卿′J、林昇前掲笹第四章参照。 −63− 13
次に, スミスは以上のような「商業社会」という経済理論上のモデルを 出発点として,資本の所有と土地の占有の行われる現実の社会(資本主義 社会)においては,投下労働量と支配労働量とが一致しないことに注目す る。 「こうなると, ある商品の猫得または生産にふつうついやされる労働の 堂は, その商品がふつう購買し,支配し, またはこれと交換されるべき労 働の量の規定しうる唯一の事情ではない」⑬と。 市場におけるすべての商品は,労働者と資本の所有者と土地の所有者と の協力の産物になるから,商品の交換価値は賃銀・利潤・地代の三つの部 分に分割されることになる。 さらに, スミスによると, 「あらゆる進歩し た社会では, この三つのすべてがはるか大部分の商品の価格のなかにその 構成部分として多かれすぐなかれはいりこんでいるのである」“と。 このように, スミスは現実の資本主義社会にあってば, もはや労働価値 説が成立せず,労働者一賃銀・賀本家一利潤・地主一地代の三大階級の把 握とともに価格構成論に移行せざるをえないことを認識したのである。 「賃銀・利潤および地代は, いっさいの交換価値の三つの本源的な源泉 であると同時にいっさいの収入の本源的な源泉である。他のいっさいの収 入は,窮極的には, これらのなかのどれかからひきだされるものなのであ る」㈲と。 賃銀・利潤・地代は明らかに所得の形態であって, けっして価値の形態 ではない。 こうして, スミスは価値論から価格論へ移行すると同時に,賃銀・利潤 ・地代の所得の把握のもとに分配の問題をも考察することになったのであ る。 邦訳(11 189頁。 邦訳(11 192頁。 邦訳(11 196頁。 l l l O ○ 0 V V v f甲■ N N N www 卿”閏 I, P I, p I, p 7 8 9 6 6 6
(d) 自然価格の決定と分配 スミスは資本主義社会における商品の価格が賃銀・利潤・地代より櫛成 されることを,考察した後,商品価格の変動とそれらの櫛成部分の価格変 動に関する問題を取り上げている。すなわち,諸商品の価格の決定と要素 価格の決定の問題である。 さて, スミスによると,価格には自然価格(naturalprice) と市場価格 (marketprice) との区別があり, 自然価格は賃銀・利潤・地代の通常率 または平均率(ordinarycraveragerate)によって構成され, 市場価格 は,常に自然価格を中心にその_上下に変動する商品市場における実際価格 である。およそ, あらゆる社会においては労働や資本のさまざまな用途ご とに,労働に対する賃銀ならびに資本に対する利潤には通常率または平均 率とL、うものがあって, この率は社会の一般的諸事情醐。 (貧富・進歩・ 停滞・衰退)によって, また労働や資本の用途の特定の性質によって規定 されている。同様に地代にも社会の一般的諸事情によって, また土地の豊 度によって決まる通常率または平均率というもの力:ある。 それゆえ, スミスによると自然価格とば.土地・労働・資本といった生 産諸要素の価格が社会の通常率ないし平均率(=自然率)において安定し た場合の価格なのである。 「ある商品の価格が, それを産出し,調製し, またそれを市場へもたら すために使用された土地の地代と,労働の賃銀と,資財の利潤とを, それ らの自然率にしたがって支払うのに十分で過不足がないぱあいにば, この 鯛スミスは『国富論』第一編第八章から十一章において,社会の一般的諸事 情に従って賃銀・利潤・地代のそれぞれの大'j、の問題を雄じている。いわゆ る分配論に相当するものである。 もっとも, スミスの分配総ば価格論を前提 に, しかもその展開として考察されている。 「自然価格そのものは,賃銀・ 利潤および地代というその概成部分のおのおの自然率とともに変動し, また あらゆる社会では, この率ばその諸事情,すなわちその貧富,その進歩・停 滞または衰退の状態にした力『って変動する。わたしは,次の四章で,できる かぎりあますところなく明瞭に,それらのさまざまの変動の諸原因を説明す るように努力するであろう」と。W.Nvo1. I, p. 80邦訳(11 217頁。 15 −65−
ときの商品は, その自然価格(naturalprice) ともよばれるべきもので売 られるのである」師と。 これに対して,市場価格は市場へ供給される商品の量と有効需要effe-Ctualdemandとの関係によって決まる。 このぱあいスミスがいう有効需 要とは「商品の自然価格をよろこんで支払う人々の需要」四を意味してい る。 もし,商品の供給蛍が有効需要を下回る時は市場価格は自然価格以上に 騰貴する。 したがって要素価格もその自然率以上に上昇するから生産要素 供給者はその供給量をふやすことになる。かくて, その量は「まもなく有 効禰要を充足するにたりるだけのものになるであろう。その価格のさまざ まの構成部分のすべてば, まもなくその自然率にさがり, また全価格もそ の自然価格にさがるであろう」国。 また逆に商品の供給瞳が有効需要を超過する場合には,市場価格は自然 価格以下に下落する。この場合には生産要素供給者は,要素価格が自然率 以下であるから,生産要素の一部分を引きあげることになるであろう。 し たがってまもなく要素価格も自然率にまで上昇し,商品の市場価格も自然 価格と一致するようになる。 このように市場にもたらされる商品の供給量は, 自由競争のもとでは自 然に有効需要と一致し, 自然価格を実現することになる。それゆえ, 自然 価格とは「いわば,いっさいの商品の価格が不断にそれにひきつけられて いる中心価格帥(centralprice)」であり,均衡価格であるということがで きる。 以上のようにしてスミスは, 自然価格の概念に有効禰要という概念を導 "W.N、 v01. 1. p. 72邦訳(1) 202頁。 "W,N, vol・ I,p.73邦訳(1) 203頁。 なお,スミス課いう有効謂要はスチュアート (Sir JamesSteuart)が示そ うとした意味とは全く異なっている。ケインズによって経済学の主要な理論 に位掻づけられた有効捕要の概念ば, ′」、林昇教授によると, スチュアートカt 創始者であるという。 ′j,林昇前掲書53頁参照。 鋤帥W.N, vol. I,p_ 75邦訳111207頁。
入することによって要素価格の決定と商品価格の決定とを同時に可能にす る均衡理論。Dのプロセスを明らかにしたのであった。 しかも, この自然価 格の実現によって,生産要素の提供者である地主・資本家・労働者が共に 満足し商品の価格もまさにあるべき最低の価格になり,消費者大衆も満足 するようになる。 「独占価格はあらゆるぱあいに猫得しうる最高の価格である。これに反 して, 自然価格またば自由競争価格(priceof freecompetition)は, あ らゆるばあいというわけではないにしても, かなりの長期間にわたって取 得しうる最低の価格である。前者は, あらゆるぱあいに買手からしぼりと ることのできる最高の価格, すなわち買手がそれをあたえることを承諾す るものと思われる最高の価格であり,後者は,売手がふつう取得しうると 同時に, その仕事産つづけうる最低の価格である」⑫と。 スミスはこのように「自然価格」が実現されるときに,商品が「豊富に 低廉」に供給され人々の富裕が増進されるものと考えたのである。それゆ え, スミスは「自然価格」が実現するための制度的条件,すなわち自由競 争を主張し独占や特権によって「事物の自然的秩序」 (naturalorderof things)を妨げる重商主義政策体系をきびしく批判したのであった。 自由 競争のもとにおL、ては,人々の利己心, すなわち「自己の状態を改善せん とする各個人の自然な努力」が十分に発揮され,分業や資本の蓄積力t促進 され,かつ自然価格が実現し社会の一般的富裕が保証的されるのである。 したがって, スミスが「見えざる手」の思想によって直観的に表現した 経済社会の自然的秩序は, 自由競争の下で成立する自然価格の概念に体現 されたのである。市場を通じての価格機織の働きこそが私利追求の個々人 剛′」、林昇前掲聾第五章参照。 ペリカン.クラシック版A.S.スキナー編IntroductiontotheW'ealth ofNations. pp. 52∼57. 川踊信義・小柳公洋・関源太郎訳「アダム・スミス社会科学体系序説」 114 ∼125頁参照。 "W.N. vo1. 1, pp、 78∼9邦訳(1) 214頁。 −67− 17
を社会全体の繁栄の実現に導くものであった。 スミスはこのようにして把握される経済社会を「自然的自由の体系」 (systemofnatural liberty) と呼んだのであった。 4結びにかえて スミスが「道徳情操論」や『国富論」を通じて強調したのは人間本性 (humannature) ということであった。個々人の人間本性は尊重され, それに基づく行為は他人の人間本性を侵害しないかぎり自由に発揮しても よいと考えられたのである。 「道徳情操論』においては,人間本性に基づく道徳秩序を確立してマン ドヴィルの提出した問題, すなわち「私悪は公益」 、;privatevices, public benefit3' に対して利己心が道徳の範鴫にあることを明らかにした。 また 同様に,人間の利己的性向のうちに道徳が成立するという従来の道徳哲学 に対しては,富や名誉を求める人間の本性が徳性となりえることを強調し た。すなわも,富や名誉を追求する人々の経済生活は人間本性に基づくも 卿スミスはフランス旅行前に書いた『国富鋪草稿』のなかで,普遍的富裕の 社会の内容を,低物価と高賃銀にあることを説明している。 しかもこの両者 ば矛盾なく両立しうるという。 AnEarlyDraftOfPartOf theWealthoINaliCns (c. 1763)-W.R・ Scoll,AdamSmithasStudent andPruIcssor. 1937、 p. 332. 大道安次郎訳『国富論の草稿その他』創元社97∼98頁。 なお『国富論』第八章において高賃銀承労働者の勤勉を刺激するものである ことをスミスは次のように述べている。 「労働のゆたかな報酬が繁殖を刺激するように,それは庶民の勤勉をも増進 させる。労働の賃銀は勤勉への刺激剤であって,勤勉は,人間の他の性質と 同じように刺激をうけるのに比例して向上する」と。 W.N. vol. 1, 1]. 99邦訳(11 255頁。 このようなスミスの高賃銀の思想ば「働く貧民」に代表される重商主義の低 賃銀思想一賃銀の引上げは海外貿易における富=金銀の減少になる−への対 決であった。スミスの立場は社会の大多数を占める労働者階級の「境遇を改 善することが, その全体に対してふつどうなはずはない」に貫かれたもので あった。 大河内一男「スミスとリスト」 (大河内一男著作巣第3巻に所収) 1969年 第三章参照。
のとして承認され, したがって自分自身の利益や幸福を追求すること力t社 会的に尊重されるようになった。 このような新い道徳秩序の形成の原理をスミスは「同感」 (sympathy) に求めた。 「同感」の原理によって人間本性に基づく 「自然的正義」 (natural justice)が形成せられ,実定法(positivelaw)の基底として位 睡づけられた。実定法については『グラスゴウ大学講義』 (法学に関する 講義ノート)において部分的に明らかにされたが, そこでは法学の理論と いうよりむしろ「法と統治」 (lawandgovemment)の歴史的起源とそ の変遷に中心があった。 スミスはこの「法と統治」を支え人間に自由と独立を保証しているのは 社会の一般的富裕であることを認識し,国富の増大を可能にする経済秩序 を求めて「国富論』をあらわしたのであった。 『国富論』においては,人 間の富追求の原動力である利己心を前提に, こうした「自己の状態を改善 せんとする自然的努力」によって導かれた経済秩序を「自然的自由の体 系」 として把握した。人々の私利追求の努力が結果として社会の一般的富 裕を導びくという, L 、わゆる「見えざる手」の思想は経済社会のメカニズ ムのなかに結晶せられたのである。すなわち各個人は,生産・交換・分配 ・消費とL 、う経済秩序を通して個々人の富裕を達成することになる。スミ スにあっては一人一人が富裕になることが同時に社会全体の繁栄の証であ った。 こうして,各個人は経済生活という社会関係のなかで自己の目的を 実現するに至ったのである。 以上のように, スミスの経済学は法や道徳の領域と密接に結合されてい ることが明らかである。 元来,道徳も法も経済もすべてそれぞれの領域における社会関係を分析 の対象としたものである。 しかしながら, スミスの特徴はこれらの対象領 域が個々別々に分離せられているのではなく,市民社会における社会生活 の同時的側面を形成している。つまり,利己心を動機とした個々人の自由 な行動と正義の原則によって結びつけられる社会関係が,道徳・法・経済の 19 −69−
領域から同時に把握されているのである。換言すれば, スミスの人間と社 会に関する研究が彼の道徳哲学体系(1. 自然神学, 2.倫理学, 3.法学’ 4.経済学)に従って結実したものが『道徳情操論』や『国富論』として あらわされたのである。 マクフィの表現によると「18Cにおいて,かれらは(スミスを中心とし たスコットランド学派一引用者)経済学を,社会についての一般理論のな かの一章としてしか,かんがえなかったのであり, その一般理論は’社会 的および個人的な心理学と倫理学,それに法律学,政治学,社会哲学まで もふくんでいた。このことは,すくなくとも,思想における分裂と実際生 活でのコミュニケーションの欠如を,ふせいだのである」酌と。 経済学の危機とか反省とかいわれる今日,経済学の創設者スミスが経済 学に対して以上のような接近方法を用いたことを考えることは意味深いこ とである。 (完) "A.L.Macfie,Thelndividual inSociety,London 舟橘喜恵・天羽康夫・水田洋訳「社会における個人」 10頁。 1967pl6. (ミネルヴァ書房) −70−