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園田尚弘

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(1)

ヴァルター・ベンヤミンとクラウス・マン のジッド像

園田尚弘

Das Gide‑Bild von Walter Benjamin und Klaus Mann

Naohiro SONODA

われわれの多くのものは、パリで顕著になりはじめた精神的 発展を、モスクワやローマで生起したことよりも魅力的で意味 深いと考えていた。

K・マン『ジッド』

人間としての、思想家としてのジッドが、ある特徴において、

ドイツの独創的才能と否定Lがたい親近性を有しているとき、

そのことは、芸術家としての彼がドイツ人の意向に合うという ことを意味しないし、ドイツの読者の負担を軽くしてやるとい

うことを意味しない。

ベンヤミン『ジッドとドイツ』

‑しかし、彼が私を無視しようと、あるいは私の批判的敬意 をこめた文章を、好意をもって、おそらくはいくらかの満足の 念と、得るところあるという気拝をもって認めようと、私の野 心は、彼によって知られ、評価されることではなく、彼から学 ぶこと、つまり彼によらて私自身へと導かれることであった。

K・マン『転回点』

ベンヤミンにとって、そしてK・マンにとって、フランスの文芸・思想は、

ヨ一口ッlパのある一国の文芸・思想という以上の意味をもっていた。たとえば

(2)

122 園田尚典

ベンヤミンにとっては、フランスの作家たちの活動が、同時代のドイツの作家 たちのそれよりもはるかに身近に感じられた。彼はホ‑フマンスタールにあ てて次のように書いている。 「私の努力と興味が、ドイツの私の同世代のひと たちのなかで孤立していると感じられるのですが、フランスには、個々の人物 一作家としてはジロドゥ一、なかんずくアラゴンー運動としては、シュルレア リスムがあって、私はそれらのなかに、私もともにたずさわっているものを見 るのです。」(1)

この書簡は、ベンヤミンのフランス文芸への親近感がいかに大きかったかを 示している。そしてフランス文化の集中する地点としてのパリは、 『19世紀の 首都』パリは、ベンヤミンにとって、他のいかなる土地とも比較できぬ場所で

あった。

パリは、 K・マンにとっても、彼の終生にわたる、たびたびの旅行の終着点で あった。そしてパリによって代表されるフランスの文化は、 K・マンにとって、

終生ひとつの模範でありつづけた。 K ・マンによれば、自足的文化を有するラ テン民族と異なって、ドイツ民族は絶えず他民族と接触する必要がある。ドイ ツ民族は才能はあるが、バランスのとれていない民族である。ドイツ民族は孤 立すると貧しくなる。このような意味で、 K・マンにとって、フランスは、ド イツ人の混乱した世界像を完成し、澄明化するための模範と理想を提供すると ころのものであった。

ベンヤミン、 K・マンにとって、このように決定的意味をもっていたフラン スの作家たちのなかから、ここではジッドがとりあげられる。そしてジッドが、

ベンヤミン、 K・マンの両者にとってどのような意味をもっていたか、そして その際ジッドはどのような姿をとって二人の前に現われたかを探ってゆくのが、

この論文の意図である。

K・マンにとってのジッドの意味はある意味で明瞭である。ジッドはK・マ ンにとっての模範であったのだから。しかしこのことの内容はいま少し詳細に 究明することが必要だろう。 K・マンの場合と比較すると、ベンヤミンにとっ てのジッドの意味は一見明瞭ではない。プルースト、ボードレールとベンヤミ ンの親近性についてはしばしば言及される。しかしジッドという精神的現象も また、ベンヤミンにとって、少なからざる意味をもっていたように思われる。

そこで小論では、主としてベンヤミンとジッドとの関係について多く言及し、

ベンヤミンという鏡に写ったジッド像をより鮮明にするという目的で、これを K・マンのジッド像と比較してみたい。

(3)

I.ジイドに関するベンヤミンの文章

まず最初に、簡単に、ベンヤミンがジッドについて書いた文章について概観 してみたい。

1919年に、彼はジッドの『狭き門』について批評文をまとめている。これは ベンヤミン全集では『美学的断片』の項に分類されている。その意味では、こ れは編者によっては完結していないとみなされているのだろうが、ベンヤミン 自身は完結した批評作品とみなしていたと思われる。これは難解であるが、と もかくまとまったかたちでジッドについて書かれた最初の文章である。

1928年には、講演のために、ジッドがベルリンを訪ずれた。ベンヤミンは、

この際、ドイツ人のジャーナリストとして、ただひとりだけジッドに許されて 会見することができた。インタヴューの際にジッドから受けた印象とジッドの 談話を報告した二つの文章が新聞と雑誌に発表された。 『ァンドレ・ジッドとド

イツ』、 『ァンドレ・ジッドとの会話』がそれである。

1932年には、ベンヤミンは『ヘッセン州立劇場冊子』に『ェ‑デイブスある いは理性的神話』と題したエッセイを寄稿している。これは、ジッドが1931年 に出版した『ェ‑デイブ』がダルムシュタットで上演された際に書かれたもの である。

1934年には、ベンヤミンは彼の文芸社会学的エッセイとして決定的重要性 をもつ『現代フランスの著作家の社会的位置について』において、ジッドに関 してかなり多く言及している。

1936年には、 『パリの手紙』で、ジッドの『新日記』の刊行によって明らかな 姿をとって現われたファシストについて、『ジッドの新しい敵』という題で論じ ている。

1939年のホルクハイマ‑あて書簡では、戦争勃発にともなう収容所生活のな かで読んだルソーの『告白』とジッドの『日記』との比較をする計画を伝えて いる。この計画は、ベンヤミンの死によって実現されなかったが、かなりに重 大なテーマとして執筆計画のなかに入っていたと思われる。(2)

以上紹介したように、ジッドの著作とその人間像は、ベンヤミンの著作生活 のなかで、たえず問題となっていた対象であった。

2. 『狭きFl』の批評をめぐって

大衆のもとでの名声を求めること最も少なかったジッドの作品が広い範囲に わたって注目を浴びだしたのは、第一次世界戦争後であった。ベンヤミンも当

(4)

124 園田尚典

時から、やはり『ヌーヴェル・レヴュー・フランセ‑ズ』等を通じて、ジッド の文章に接していた。

ベンヤミンはジッドの人間的誠実さと作品の高い質に好感を抱いていた。し かも彼のジッドへの敬意の念は短期的性質のものではなかった。

1919年7月24日の書簡では、友人にあてて次のように告げている。

「ぼくはまったくの局外者の態度で、極度の興味をもって、ジッドのような ひとびとが、ドイツについて語っていることを読んでいる。ぼくはこのひとた ちの場合には、喜ぶべき誠実さを見出すように思う一一。」(3)

ジッドのまじめさは、ベンヤミンに近しいものと思われた。 『狭き門』はジッ ドの清教徒としての生まじめさが前面に出ている著作である。 『狭き門』の読了 後、ベンヤミンは、この著作を数少ない良書のひとつだとして友人に推賞して いる。そしてこの物語のもつ「動性」 (Bewegtheit)をドストエフスキーの『白 痴』におけるそれと並べて賞讃している。

「数少ない良書をぼくは読んだ。君がこれらのもののなかのひとつ、ジッド の『狭き門』を知っているかどうか格別興味がある。君の判断はどうであろう か?ぼくはこの本におけるまじめで、素晴らしい動性に感嘆している。この 本は『白痴』のよう射まんの数少ない書物のように最高の意味での「動き」を含 んでいる。彼のユダヤ人的ともいえるまじめさは、ぼくに親近感を与える。そ の場合でも、全体は暗欝な手法の点でも、狭苦しいキリスト教的禁欲的出来事 という素材的面でも破綻しているように思われる‑‑‑。」(4)

書簡にみられる基本的姿勢に基づいて、批評文『ジッドの狭き門』は執筆さ れている。

いわば螺線状に発展してゆくジッドの道程にあって、 『狭き門』は、処女作『ァ ンドレ・ワルテルの手記』につながる系統の物語である。幽閉状態にあった自 我の新たな覚醒によって、肉体と感覚の歓喜を誼いあげた『地の糧』、 『背徳者』

のあとで、ジッドは再び自らの宗教的厳格主義、禁欲的清教徒主義に適合した 物語を発表した。ジッドの意図では、この物語では、自らのあまりにも厳しい 宗教的自己犠牲の闘いが、楓刺的に描かれるはずであった。しかしこれは恋人

たちのいずれも不幸に落ちこんでゆく出来事を描いた本である。何の役にも立 たぬ自己犠牲によってだめになってゆく出来事にもかかわらず、そこに含まれ る感情は真正である。

ベンヤミンの『狭き門』評は、ジッドの手法上の欠陥、出釆事の欠陥を一貫 して指摘しているようにみえる。しかし彼は、ジッドの本が真に子供を扱って

(5)

いること、感情の真正さを含んでいることを言明している。

この場合、ジッドの手法上の失敗とは何であろうか?それは、ジッドが子 供時代のまじめさを刻みこもうとして、子供の「感動させる力にみられる敬虞

さ」(5)を一目瞭然たらしめようとしたことである。ベンヤミンは、ドストエフ スキーのやり方を対比させて、その意味をあきらかにさせている。ドストエフ スキーの場合は、 「ひとりの男のなかに鏡がすえられる。その鏡では、子供のま じめさと子供の喜こびが、みる者の心を揺さぶりながら、すぐに罪と至福の光 景をよびだすのである。」(6)

ジッドは幼年時代の「至福という宝」を捜し出すつもりであった。しかし小 説設計上のミスによって、どこにもこの宝ものを見つけることができなかった。

ベンヤミンは、ジッドがこの本を作品とは区別したことを『狭き門』の冒頭の 数語のなかに見出す。『ほかのひとたちだったら、これで一巻の書をつくること

もできたであろう。』(7)

3.ジッドとの会見

1928年に、ジッドは講演をする予定でベルリンを訪れた。ベンヤミンは、

ホテルで二時間の会見をすることができた。その会見の内容を、 『ァンドレ・ジ ッドとドイツ』という題で、 『ドイッ≠ェ・アルゲマイネ・ツアイトゥング』

に、 『ァンドレ・ジッドとの会見』という題で、 『文学世界』に掲載した。これ らは、ジッドとのインタヴューの模様を報告したものであるから、そのなかで はジッドの語ったことが多く伝えられている。話題は、ジッドの反俗性、反ナ

ショナリズム、プルースト、ジッドのドイツ文化との関係等であった。この二 つの報告は長いものではないが、これらの報告からも、ベンヤミンのジッドに ついての判断を窺うことは可能である。

当時のジッドは徐々に、社会的問題を自らの思想的課題としつつあった。彼 は『贋金つくり』の完成後、アフリカ大陸内陸部への旅行を企てた。そしてそ の土地でみたフランス帝国主義の経済的搾取と現地人虐待を知って、フランス 社会に対してその非を訴えていた。

ベンヤミンのジッドに対する関心は、しかし、この会見報告でみられるかぎ りでは、その点には及んでいない。『ァンドレ・ジッドとドイツ』では、もっぱ ら、ジッドのドイツ思想、文芸との交渉が話題となっているが、そのなかで興 味深いのは、ベンヤミンが、ジッドをきわめて理解困難な作家だと定義してい

る点である。ジッドが人間として、思想家としてドイツの精神的特質と親近性

(6)

126 国風Fv^mx

を有しているという一般の説に、ベンヤミンは同調するのだが、芸術家として のジッドはドイツ人にとっても、あるいは同国人のフランス人にとっても親し みやすい作家でないことをベンヤミンは強調する。

実際、ジッドはフランスにあってもきわめて特異な作家であった。中庸の徳 なるものの否定、極端への信条はジッドの生来の生き方であった。不安と懐疑 にかられて、彼は極端から極端へと知的冒険を続けた。しかしまた、このよう な例外的な精神的冒険の精神によって、フランス人の教育者たちの系列に加え られることにもなったのである。ベンヤミンは『ァンドレ・ジッドとの対話』

のなかで、ジッドをフランス・モラリストのひとりだとみなしている。しかも パスカルに最も近いモラリストと規定している。ジッドをフランス人の教育者 のひとりとみなす彼の視点は、しかし、必らずLも新しいものではない。しか

しベンヤミンが、教育者のドイツ的ありようとフランスのそれとを対比させて いるのは興味深い。ドイツ的教育者のタイプは、ポーフマンスタールやボルヒ ャルトに代表される。彼らは典型的にドイツ的タイプを代表している。しかし フランスにあっては、民族の教育者は、その民族性の豊かさから、また「国民 的、文学的徳性において、ほかの民族よりももっと力づくで危うく標準化され ているから」(8㌧例外的ケース、つまりジッドのような例外的ケースが最高の教 育者になるのである。こうしてジッドは、ベンヤミンの視点においては、ドイ ツ的徳性とは異なったフランス的地盤のなかで例外的ケースとなる。そうした 意味で、ジッドがドイツの精神的特質と親近性を有していたとしても、そのこ とはけっして彼がドイツ人にとって理解しやすい作家であることを意味しない のである。しかしまた同国人であるフランス人にとっても、ギリシャに行って すらもフランス的なものしか見ないパレスのような作家と異なって、ジッドの ように、弁証法的な洞察につき動かされる作家というのは、簡単に理解される 作家ではないだろう。

ジッドとの会見は、ベンヤミンにとって非常に貴重な経験であった。ジッド そのひとへの理解を深める、あるいはフランスの精神的潮流への理解を深めるこ とに役立ったのみならず、彼の批評家としての地位向上にも資するところがあっ たであろう。当時、ベンヤミンは大学での教職への道を閉ざされ、文筆によっ て生計を得る道を選びつつあった。すでに彼のさかんな批評活動は始まってい た。ベンヤミンのもくろみでは、その批評家としての地歩をフランスでも確か なものとするために、ジッドとの会見は有利なものとなるはずであった。(9)

(7)

4. 『ェデイブ』

ジッドが1931年に出版した『ェデイブ』は29年から30年にかけて執筆された。

そして1931年のアントワ‑プにおけるプレミア・ショー、 32年のパリ公演につ づいて、ダルムシュタットでドイツ公演が行なわれた。ベンヤミンはその公演 のためのプログラム冊子にこの劇作についてのエッセイを寄稿した。執筆は公 演の前、 1932年の4月あるいは5月と推定される。

『狭き門』についての文章がたとえば、その構成のまずさを指摘しているの に比すると、この『ェデイブスあるいは理性的神話』は、ジッドの劇作の解釈、

ジッドの企図の説明という色彩が強い。そして『理性的神話』という題はジッ ドのこの作品を最大の簡潔さをもって言い表わしたものである。

第一次世界戦争後、ギリシア神話を素材とした作品が数多くの芸術家たちに よって産みだされた。ジッドの劇作はしかし、それらのものとは方向性が異な っている。ベンヤミンはその試みを「ギリシア精神の永遠性に歴史哲学的試み を加えてみること」(10)と把えている。

ジッドはギリシア神話をきわめて理性的なものとみなすが、『ェデイブ』にお いても、理性的性格を前面におしだすことで、 「ソフォクレスの悲劇の恐怖」(ll) をやわらげている。実際、ソフォクレスとジッドの『ェデイブ』を比較すると、

ジッドの『ェデイブ』はきわめて雄弁に自らの信念を語ることができる。ベン ヤミンの解釈に従えば、ギリシア悲劇の主人公の特徴はその寡黙性にある。そ のことはソフォクレスの悲劇にも妥当する。それゆえにベンヤミンは、ジッド の『ェデイブ』は「言葉を獲得したのだ」(12)と強調するのである。彼は、主人 公に十分語るだけの言葉を付与したことが、ジッドの大胆な企てであったと言

うのである。

そしてこの主人公のきわだった優越性のなかで、ジッドの思想が伝えられ、

エデイブもまたジッドの送り出した他の作中人物たちに親しいひとりとして姿 を現わすのである。自分の子供たちの話を立ち聞きしたエデイブは、彼らに教 えて言う、

エディプ何にせよそれはわれわれの前途にあるのだ。わしは遠い将来に 於て、解放された、自由な人類によって地上が蔽われる日のことを想像す

る。

わしだけがスフィンクスに食われぬための唯一の合言葉は《人間≫である ことを悟ったのだ。勿論この言葉を言うためには多少の勇気を要した。し

(8)

128 聞間{'<}叫

かしわしは、謎をきかぬ先にこの答を用意していたのだ。問が何であろう と、わしはこれ以外の答えを認めないだけの力を持っていたのだ。

いいか、よくわしの言うことを理解してくれ。我々は銘々、青年時代、人 生の門出に当って怪物に出食わすのだ。そいつが我々の前進を妨げるよう な謎をかける。それぞれのスフィンクスが銘々に違った問をかけるけれど も、どの問いに対しても答えは同じであることを悟ら射すればならない。

そうだ、様々な問いに対して、唯一の答えというのが《人間≫なのだ。そ して各人に取っての唯一の人間は《自己≫なのだ。(1割

エデイブにとってこの言葉は、知恵の最後の言葉ではなく、出発がはじまる 最初の言葉なのである。エデイブには、探求者としての、絶えず出発するひと としてのジッドの精神が付与されている。「どこからでもかまわない、たえず出 発し射すればならない」(ベンヤミンの引用による)と書いたジッドによって出 発の合図を送られるジッドの人物たち(例えば『放?&息子』や『地の糧』の放 浪者)のなかで、エデイブは最年長者である。そしてこの最年長の出発するひ

とが背を向けるのは、「ありとあらゆるプチブル的なこまごまとしたみじめさ」(14) からなのである。ジッドにおける極端射国人主義からの脱出の身振りが、ここ ではベンヤミンの社会的立場からの解釈として述べられている。そして実際に 30年代のジッドの歩みは、ベンヤミンが把えた以上に政治的意味合いを帯びた ものであった。

5. 『フランスの作家たちの現在の社会的立場について』

ジッドは30年代に入ると、社会問題への関心を強め、コミュニズムへの共感 を語るようになった。彼はアフリカへのたびたびの旅行によって現地住民のみ じめ射犬態については早くから知っていた。それが政治的関心となって表面化 したのであった。ジッドのこのような精神的変化は、ベンヤミンにとって好ま しくもあり、興味深い事柄でもあった。

ベンヤミン自身にとっても30年代は苦難の季節となった。政治的関心はます ます俄烈とならざるを得なかった。彼は1933年のナチスによる政権奪取によっ て亡命生活に入ったが、彼が選んだ亡命の地は他ならぬパリであった。彼はこ こで経済的困窮と闘い、精神的・肉体的苦痛に苛なまれながら、彼の晩年の重 要を論文を執筆した。

1934年に『社会研究誌』に発表されたベンヤミンの重要な論文のひとつ『フ ランスの著作家たちの現在の社会的立場について』は、ジッドやシュルレアリ

(9)

ストのコミュニズムへの接近という事態が執筆のモティーフのひとつだと、考 えられる。ベンヤミンは、帝国主義体制下の知識人の社会的立場がますます困 難になってゆく過程は、ジッドやシュルレアリストの歩みに、象徴的に読みと れると、考えた。 「経済的状態でなくとも、遺徳的状態の浄化のためには、社会 の根本的変革が前提になることを断固として認識する人は多くない。このよう

な洞察がこんにちアンドレ・ジッドやいく人かの若いひとたちにはっきりと現 われているとき、その洞察が獲得される困難別犬態をくわしく浮かびあがらせ れば、それだけその価値が大きくなるかもしれない。」(19

ベンヤミンのこの大きな評論は、時代的に言えば、ドレフェス事件で真実を 擁護したゾラからはじまって、マルローの長編小説の分析に至っている。そし て、その視座はコミュニズムを支持するに至ったジッドとシュルレアリストの 政治的決断に求められる。この論文でジッドを語った箇所でも、ベンヤミンの 基本的なジッド観は以前と変ってはいない。 『ジッドとの対話』において、ベン ヤミンは、ジッドの精神的系譜をモラリストのなかに求めた。そしてジッドを

『教育者』と規定した。 『フランスの作家たちの現在の社会的立場について』に おいても、ジッドの作品の収束点は、それを知的生活に求めるヴァレリーに対 比されて、道徳生活のなかに求められる。 「かれの教育的意義はそこから来てい る。パレス以来、かれはフランスの知識人がみいだした最大の指導者である。」(1①

ベンヤミンは特にジッドの『法王庁の抜穴』に言及しながら、自らの生への 渇望を若人に向けて呼びかけつづけたジッドの教育的意義を強調してい争.ラ フカデイオの「無償の行為」については、それが若者たちに及ぼした影響によ ってよく知られている。この物語の主人公ラフカデイオは、 「シュルレアリスト のうちに自分のいちばんものわかりのいい弟子を兄い出した。」(捕

ジッドは、自らの政治的コミットメントによって、ラフカデイオの弟子たち、

政治参加に踏み切ったかのシュルレアリストとともに苦境に立つ著作家の社会 的状況を照明する事例となる。

論文の冒頭で、ベンヤミンは、アポリネールの『虐殺された詩人』をひき合 いに出して、地上から根絶される詩人たちの受難について述べている。ベンヤ

ミンはそこで、一見夢物語りであるようにみえるアポリネールのこの予想の緊 急性を語っている。そしてこの暗い予言の解釈はアラゴンの次のような叫びに 求められている。『革命的作家があらわれるのは、かれらがブルジョア出身の作 家の場合、本質的かつ決定的に出自の階級の裏切り者となるときである。』(1勘

ジッドは、アラゴン等とちがって、コミュニズムの規定にのっとって著作す

(10)

130 園田尚典

ることはなかった。彼は断乎として、政治的方針に沿った創造活動を否定して いる。しかしまたジッドは、疑いもなく、この当時、共産党のプログラムを自 己の創作の際、自らのうちで意識していた。そして彼はほとんど何ひとつ書く

ことができなかった。

ジッドの徹底したブルジョア的なるものの拒否、コミュニズムへの接近が、

ベンヤミンの論文『フランスの作家たちの現在の社会的地位について』の赤い 糸になっていることは否めないだろう。

6.ジッドのソ連批判をめぐって

社会問題との取組みのため、数年間にわたってほとんど創作できなかったジ ッドの活動は亡命中のベンヤミンの関心をひきつづけている。 『パリ書簡』と題 されたベンヤミンの二つの論文のひとつは『ァンドレ・ジッドと彼の新しい敵』

(1936)と副題が附されている。この小論文のなかで主として論じられている のは、ファシズムの芸術理論である。しかしその論議をひきだしたきっかけと

して、ジッドの著作とその思想的道程が論じられている。ベンヤミンは、ジッ ドのコミュニズムへの道程をもちろん突然に出現した変化とはみなさない。パ レスへの批判から『新しき糧』における独占所有に対するジッドの嫌悪表明に いたる連続した道程が、ジッドの『日記』のなかで探られている。ジッドは『斯 き糧』をソビェトの若い読者にささげた。その冒頭の一部を、ベンヤミンは自 らの『パリ書簡』の結びにしている。ジッドはそこで次のように書いている。

「ぼくの耳がもう地のもの音を聞かず、ぼくの唇がもう地の霧を飲まなくなっ たときに、生まれてくるだろうきみ‑あとになっておそらくぼくを読むだろう

きみ、きみのためにぼくはこの頁を書くのだ。なぜなら生きることは決してき みを十分に驚かすことがないだろうからだ、きみの生命である驚嘆すべき奇蹟 も十分にきみを庄倒しさることはないだろうからだ。ぼくには、しばしば、き みがぼくの渇をもって飲むように思われ、きみが愛撫する他人の肉体にきみを ひきつけるのはぼく自身の欲望であるように思われるのだ。」(1功

コミュニズムへの共感、そしてそれを実現しつつあると期待されたソビェト

・ロシアへの共感と励ましがここにはこめられている。それはまたベンヤミン 自身の共感の声であっただろう。

ところで、ベンヤミンの小論文が発表された前年の1935年、ジッドははじめ てソビエト・ロシアを訪問した。そしてこの旅行の後出版された『ソビェト旅 行記』、 『ソビェト旅行記修正』において、ジッドは、ソビェト・ロシアを厳し

(11)

く批判した。常軌を逸した裁判劇、無知な自国礼讃、相変らずの貧困、そして 革命的精神が反革命の名の下に根絶させられる状態が、ジッドが洞察したソビ エトの現実であった。そして『ソビェト旅行記修正』におけるジッドの批判も また苛烈きわまりないものであった。

ベンヤミンが、これらの著書についてどのように判断したかを知る文章はほ とんど見ることができない。しかしベンヤミン自身も、もちろん史的唯物論の 立場を表明していたとはいえ、必らずLも「社会主義の祖国、ソビェト」の現 実に批判的でなかったわけではない。彼は、ドイツ軍がフランスに侵入したと

きですら、ソ連に亡命することはなかったし、また友人ショレムのいるパレス チナにもゆかなかった。彼の基本的姿勢は、沈んでゆく難破船のうえで救助を 待ち望んで合図を送る遭難者のそれであった。

徹底した個人主義者で、クリスチャンであったジッドは、共産主義とは、結 局のところ、別の場所に位置する芸術家であった。また神学的イメージを帯び た独得の歴史観をもつベンヤミンは、 「正統マルクス主義」と一致するはずもな かった。

ジッドのコミュニズムとソ連への関心は、ソ連への批判とともに遠のいてい った。いずれにしろ、ジッドがコミュニズムに求めたものは、 「キリスト教の美 徳であった。」脚、そして後年になって、ジッドは自分の共産主義へのコミットメ

ントはまちがいだったと告白する。

ジッドの「赤い間奏曲」が終ったあとでも、ベンヤミンのジッドに対する関 心は失なわれることはなかった。彼はジッドの「セリーヌ」も読んでいるし、そ れに言及した箇所では、ジッドを「モラリスト」そして「サタニスト」と呼ん でいる。但i) 1939年11月30日のホルクハイマ‑あての書簡においては、前述した ように、ルソーの『告白』とジッドの『日記』の比較を将来の仕事のひとつと 計画している。そしてそこにみられる「社会的性格の衰退」という言葉にはジ

ッドへの批判がこめられているように思われる。

ベンヤミン自身は、「コミュニズム」がソ連において頒落してしまっていたに もかかわらず、史的唯物論の立場を手離すことはなかった。たとえその唯物論 が神学的形而上学的色彩に染められたものであったにしろ。

7. Kマンのジッド像

ベンヤミンがジッドと親しく語り合うことができたのは一回きりであった。

これに対し、 K・マンは、高名このうえも射1文豪の長男ということで、ジッ

(12)

m閉 園田尚典

ドと親しく語り合う機会も多かった。しかしK・マンにとっても、ジッドの本 はその精神的発展にとって本質的影響を及ぼした。例えば、 K ・マンの最良の 小説、 『火山』においては、ジッドの『贋金っくり』の影響が指摘される。『火山』

に登場するマルテインとキキュの関係、更にはマルテインという人物の設定 の仕方に、ジッドの長編小説から得たものを指摘することができる。もちろん K ・マンは長編評論『ァンドレ・ジッド‑と現代思想の危機』¢2)の執筆者であ る。あるいは、 K・マンの自伝『転回点』のなかに、 K・マンのジッド護を見 出すこともできるだろう。

K・マンにとっても、ベンヤミンの場合と同じく、ジッドはまず「教育者」

のイメージをとって現われる。しかしその姿は、けっして権威をもって臨むも ののそれではない。ベンヤミンが指摘したフランスにおける「教育者」像‑ホ

‑フマンスタールやボルヒヤルトにみられるまさにドイツ的タイプの教育者と 対照をなす‑‑は、 K・マンの視野にも同じように捉えられている。『ジッドは、

彼があきらかに模範的に働きかけることをめざしていなかったので、私にはま すます模範として受け入れることができると思われた。巨匠の身振りは彼には 無縁であった。その偉大さにもかかわらず、彼は問題的なままであったし、相 変らず不満のままであったし、たえず探求する人であった。しかし彼が自分を 固定しなかったことで、彼は自己を見出した。彼は自らを変化させたことによ って、自らの法則を成就したのだ。」位3)

ところで、ジッドについて書かれたものの分量で言えば、 K・マンのジッド についての文章の量は、ベンヤミンのそれに比較するとはるかに多い0 K・マ ンの「アンドレ・ジッド」はドイツ文で400頁に達しようかという長大な伝記 的批評である。 K・マンのジッド評はこの本にとどまらないが、ジッドに関し ての集大成ということで、ここでは主としてこの評論によって彼のジッド像を 定着したい。馴

ベンヤミンの評論が、ほとんどジッドをその作品から、客観的に定着させよ うとするのに対し、 K・マンの場合は、他の彼の著作と同じく、一種の交友談 が挿入され、その叙述に主観的色彩が強い。ベンヤミンが例えば、ジッドとの 出会いにまつわるエピソードを手紙といった個人的通信のなかに埋め込むのに 比すると、 K・マンの場合は、交友談は必須の話題のひとつなのである。評論

『ァンドレ・ジッド』のなかでも、ジッドとのたびたびの会話、共に楽しんだ 食事、さらにはその際のジッドの挙措が詳細に伝えられる。これは、しかし、

たいへんにおもしろい読みものであり、かつ非常に有益なジッド案内である。

(13)

K ・マンはこの評論のなかで、ジッドの幼年時代から第二次世界戦争後の活 動まで、年代順に詳述している。 K・マンがそこで描こうとした、 K・マンに

とってのジッドの範例的意味は、おそらく次のような点に求められるだろう。

「ジッドの実例は、矛盾にみちた衝動と伝統のおどろくべき多様さを、無政 府状態に陥いることなく、自らのうちで統合することの可能性を、私に教えて くれた。不協和音がお互いに解体し、解消することなく出会う調和が存在する ことを教えてくれた。私がジッドにおいて感嘆したところのたえずくり返され る危機的調和、たえず新たに闘い取られた調和は、数世紀にわたって発展し、

あらゆる脅威や危機にもかかわらずたえず保持され主張されてきたヨーロッパ 精神の不安定な均衡ではなかったのか?そうなのだ、 『地の糧』の作家、 『法 王庁の抜け穴』そして『贋金つくり』の作家は、私には範例的良きヨーロッパ 人、ヨーロッパの運命の最も高貴な代表であり形成者であると思われた。ヘラ スとキリスト教の、ロマン的感情と古典的形式の、理性と信仰の、個人主義と 社会的義務の、自由と規律の緊張が、つまりヨーロッパのすべての偉大な対立

(アンチテーゼ)が、彼の個人的ドラマの部分であったし、彼によって深く体 験され、そして悩まれたのであった。われわれの文明の基礎であるさまざまの 価値と問題が彼の全創作を特徴づけ、彼の内部で決して止むことのない対決の

テーマとなっていたのだ。」位5)

さて、広幹なK・マンの『ジッド』から、ベンヤミンのそれと比較するため に、特に『狭き門』、さらにジッドとマルキシズムの関係に焦点をあてて論じて みたい。

K・マンは『狭き門』を前作の『背徳者』と比較して、この作品を決定的に 凌駕したものと判断する。彼は『狭き門』においては、均等に分割された明る

さが支配し、 「人物も、風景も、室内も同一の銀色の‑透明な輝きを受けている。」

と賞讃する。 K ・マンは特にこの物語の冷静に計算されつくした構成に、フラ ンス17世紀の古典的様式を想起している。そうした意味で『狭き門』冒頭のシ ーンは完全な小芸術作品と形容される。ジッドは、長いためらいのあとで『狭 き門』を出版したが、出版後数ヶ月して、 「もし私が今日死んだら、私の全作品 は『狭き門』の背後に消えてなくなるだろう。」位6)と言ったことがある。クラウ ス・マンも当然この意見に讃成するであろう。

一個の芸術作品としての『狭き門』を批評する際のベンヤミンとK ・マンの 態度は、注目にあたいする。ベンヤミンは、『狭き門』が数少ない良い書物だと 評価しながらも、それの根本的設計ミスを指摘する。一方、 K ・マンは冷静に

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¥m m in尚典

計算さ.れつくした構成を賞讃する。ベンヤミンの厳格を批評意識が指摘され杏 ければならないだろう。

若年から文筆活動をはじめていたK ・マンにとって、30年代は、個人的には、

作家として比較的実り多い時期であった。 20年代の数多い著作が一種の遊びの 要素をもっているのに対し、 33年以後の亡命生活のなかで生まれた作品には、

政治と文化に対する知識人の責任感がにじみ出ている。錯綜する現実のなかで 知識人の選択は幾重にも分岐する。マンにとってジッドの活動は注目すべき対 象のひとつであった。『ジッド』においても、拝に30年代におけるジッドとコミ ュニズムとの関係に一章があてられている。

K・マンも、ベンヤミンと同じく、ジッドのコミュニズムへの加担を、突然 の転換とはみなしていない。彼はジッドにおける社会問題への関心を、初期の 著作においても指摘している。そして『贋金つくり』のベルナールの焦らだち のなかに「われわれの文明の停滞と空虚」W.に直面して、 「新しい法則を、新し い信仰を」eB)求めているジッドの精神の紡律を探りだしている。

ジッドが『日記』においてソ連に初めて言及したのは、 1931年5月13日の記 述においてであった。しかし、 K・マンの言うように、ジッドのコミュニズム への接近は、当初はためらいがちであり、保留づきのものであった。年ととも にこの革命的信条はラディカルになっていった。しかし自らの模範として、ジ ッドの精神と深く関わったK・マンには、ジッドの道は必然的なものとは思わ れなかった。ジッドの信念がいかに強固であったにしろ、ジッドは個人主義者 であり、モンテーニュ、ゲーテの愛読者であった。 K・マンは断言している。

「愛するものにとって、宇宙の美を享受し、敬服しつつそれを数えあげるだけ では充分ではない。彼の新しい野心と深められた感情は世界の改良と組織化を 積極的に受け入れることを勧める。其の憧界の友は‑それが行為のひとであ れ、哲学者であれ‑すばらしくはあるが不完全でもある彼の対象を理解する だけでなく変更しようとする。このことを知り、それに従って行動するために はマルクス主義者である必要はない。」控9)

K・マンの『ジッド』は、ジッドとコミュニズムの関係が決着をみたあとで 出版された。それゆえ、この問題そのものに対する判断は、その継過を知った うえで下されたものである。しかしマン一家のリベラルを信念を共有するK ・ マンにとって、ジッドのラディカルなソ連支持が、いくらか懐疑の目で見られ ていなくはなかっただろう。

ジッド自身、 1941年には次のように記さざるを得なかった。 「私は私のあやま

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りを認めかすればならなかった。私がコミュニズムにおいて発見しようと希望 したことはキリスト教の美徳であった。」(30)

しかし、この「赤い間奏曲」は、たとえ「あやまり」であったにしろ、ジッ ドをジッドたらしめるものであったといえるだろう。

『火山』のなかに、印象的な政治的対決が描かれている。主要人物のひとり であるマリオンが合川国の地方大学でナチス批判を行なう。するとひとりの典 型的ドイツ人とおぼしき人物が立ちあがって、ナチスの攻撃だけやって、全体 主義国家ソ連の批判をやらないのはフェアでないと詰め寄る。そのとき聴衆の ひとりであるドイツからの亡命ユダヤ人学者がマリオンを擁護して次のように 反論する。 ‑ここでいま彼女が演題として選んだのは、ナチスであって、ソ 連ではない。質問者はソ連のことをもちだすことによってマリオンの道義的疑

わしさを聴衆のあいだにひろめようとしている。ソ連については当面の講演に は含まれていないのだ。マリオンがいかなる独裁にも共感を寄せていないのは 明らかである。しかしともかく彼女が肌身に触れて知っているナチスの暴政を 批判することが彼女にとっての問題だったのだ‑と。

これは、 K・マンの政治的態度を代弁する意見というべきであろう。そして K・マンにとっての模範であったジッドの根本的立場も、必らずLもこうした 態度と接近していなかったわけではない。

K・マンが最も愛読したジッドの著書は、『日記』であった。その選択は、自 らの作品のなかであまりにもしばしば自らを問題にし、描かざるを得なかった K・マンの性向と結びつけられるかもしれない。しかしその選択のなかには、

ジッドに親しみ、ジッドを深く理解したK・マンによって照らし出されたジッ ドそのひとの最も鮮明な姿も写しだされている。なぜなら、『日記』こそは、性 紀末から20世紀にいたる精神的潮流との絶えざる格闘の証しであり、多様性と 広太さを併せもつジッドの精神の証しであるからだ。

以上でベンヤミンとK ・マンのジッド像を叙述する試みを終りたい○

ベンヤミンとK・マンによって把えられたジッドは「教育者」としてモラリ ストの系譜につらなる作家であった。ときに、ジッドの政治参加をめぐる評価 が、ベンヤミンとK・マンにあって、相達している点はあるが、ジッドが自己 探求の過程でさまざまの思想と取組まざるを得なかったという事実を両者とも 認めている。その意味で、この二人のジッド像を、 20世紀前半のヨーロッパ精

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136 関田尚典

神の多僚性を自己のなかに体現したモラリストとして総括できるであろう。

(1) Benjamin: Briefe, S. 446

(2) Benjamin: Briefe, S. 850ベンヤミンは当時、ボードレール論とこの計画のどちらに 苦手すべきか迷っている。彼はこの書簡で7ドルノにあてて次のように述べている。「ジ

・ソドとボードレールの二者択一に関しては、マクスがその選択をぼくに‑イf̲・してくれた。

ぼくはボードレールのほうに決定した。」

(3) Benjamin: Briefe, S. 214 (4) Benjamin: Briefe, S. 218

(5) Benjamin: Gesammelte Schriften以下G. S.と略記) Bd. n‑2, S. 616 (61 ebenda

(7) ebenda, S. 617ジッドの文章は、ベンヤミンの引用に拠る。

(81 Benjamin: G. S. Bd. RM, S. 509

(91 Benjamin: Briefe, S. 458参照。ベンヤミンはここで、ショレムにあてて、ジッドと のインタヴューが非常にうまくいったこと、そしてこのインタヴューが彼のパリでの地 位向̲日二つながることを期辞している旨を伝えている。

Benjamin: G. S. Bd. ][蝣!, S. 391

(ll) ebenda. S. 392 (12) ebenda. S. 393

(13)ジッド:エデイブ,用I篤訳,新潮社 (14) Benjamin: G. S, II‑1, S. 395 (15) Benjamin: G. S. H‑2, S. 778 (16) ebenba. S. 796

(171 ebenba. S. 797

ebenda. S. 802 7ラゴンの文章は、ベンヤミンの引用に拠る。

(19) Benjamin: G. S. Bd ffl. S. 49f.ジッドの文章は、ベンヤミンの引用に拠る。

K. Mann: Gide S. 293 (21) Benjamin: Briefe, S. 753

(22) 「Andre Gide」はもともと英語で書かれ、 1943年にニューヨークで出版された。小論で テキストとして用いたものは, K・マン自身によって手を加えられたドイツ語版である。

K. Mann: Wendepunkt, S. 261

(24) K. Mannがジッドについて書いたものとしては、 『ァンドレ・ジッドの日記』、『ァンド レ・ジッドをめぐる論争』、『ジッドの日記1889‑1939』、『ァンドレ・ジッドへの感謝』な どがある。

ぽ5) K. Mann: ebenda. S. 259 K. Mann: Gide, S. 154

(17)

ebenda. S. 288 位ebenda

ebenda. S. 300

Gide: Journals, 1941年7月14日の記述を参照(Penguin books) S. 672

書誌

1.テクスト

Benjamin, W∴ Gesammelte Schriften, Frankfurt a.M. 1980

Mann, K.: Andre Gide und die Krise des modernen Denkens, Miinchen 1966 Mann, K.: Der Wendepunkt, Munchen 1981

2.その他の参考文献

Benjamin: Briefe, Frankfurt a.M. 1966 Mann, K.: der Vulkan, Munchen 1977 Mann, K.: Priifungen, Miinchen 1968

クラウス・マン:転回点晶文社 ベンヤミンシュルレアリスム晶文社 ジッドジッド全集新潮社 Gide: Journals 1889‑1949 Penguin books

(昭和57年10月30日受理)

参照

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