都市・敷居論・遊歩者
ベンヤミンのパリ、へ・ッセルのベルリン
園 田 尚 弘
Die Stadt, die Schwellenkunde und der Flaneur
Paris bei Benlamin, Berlin bei Hesse1
Naohiro SoNoDA
要 旨
ベンヤミンとヘッセルにとって二つの首都、パリとベルリンは生活のうえでも、作品の うえでも、決定的に重要な都市であった。ベンヤミンは未完の『パサージュ論』でパリと とりくんだ。この作品は成立史的にみても、形式の面からみてもかれの作品を包括するも のであった。ベンヤミンの作品の形式は神話的思惟と関係する敷居論とみなすことができ る。『パサージュ論』の全体構想にも、遊歩者という個別のテーマにも敷居論の性質がみう けられる。ヘッセルは『ベルリン散歩』のなかでかれの遊歩論を展開している。ベルリン は遊歩に不適な都市であるが、ヘッセルは人間愛からこの術を学ばねばならないと主張す る。偉大な「敷居学者」と評された著者の作品には、敷居に対する感覚が浸透している。
キーワード:大都市一神話的形式としての敷居論一フラヌールの都市、パリー不断
に変貌するベルリン
はじめに
W.ベンヤミンとF.ヘッセルは大都市の文人であった。ベンヤミンはベルリン生ま れで、ベルリン育ち、フランス亡命までの大半の期間もベルリンで過ごした。ベンヤ ミンの年上の友人であり、またブルーストの『失われた時を求めて』の共訳者であっ たヘッセルはシュテッティン生まれであるが、ベルリンで幼少年時代を送っている。
ヘッセルは第1次大戦前のパリに長く暮らした後、再びベルリンに帰っている。早い、
遅いの差はあるが、ふたりが亡命したのはフランス、パリであった。このふたりにとっ てベルリンとパリが決定的意味をもっていることは想像に難くない。ベンヤミンの言
葉を借りれば、「ヘッセルにとってパリは後年の成熟した故郷であり、ベルリンは初期 の厳格な故郷である。」1これはベンヤミンにもそのままあてはまる。したがって、ふた
りの著作でもパリとベルリンを素材とした作品は数多い。もちろん旅行好きであった ベンヤミンには他の都市を論じた作品も少なくない。本稿ではベンヤミンとヘッセル の都市に関する文章を考察し、かれらの都市論の特質を取り出してみたい。
1.ベンヤミンと「都市のイメージ」
ベンヤミンにとって、都市は最重要なキー・ワードのひとつである。みずからの幼 年時代を回想した『1900年頃のベルリンの幼年時代』においても、かれが企図したの
は「ブルジョワ階級に属する少年の大都市経験が定着しているイメージをものする」
ことであった。また『ベルリン年代記』は『ベルリンの幼年時代』の前身をなす作品 である。ベルリンに題材を求めたラジオ放送の原稿もある。かれはこのなかでベルリ ン昇りについて、ベルリンの賃貸し住宅、路上での商売、人形劇、工場などについて 子供たちに語りかけている。ベンヤミンの生活の変化に伴って、あるいはヨーロッパ の街まちへの大小の旅のなかから都市について語る散文が次々にうまれている。簡単 にかれの生活史を追いながら、都市との関わりを記してみよう。
青年ベンヤミンをもっとも激しく動かした事件は第1次大戦の勃発であっただろう。
かれはベルリンを離れ、スイスに逃れる。ベルンでの学生生活、博士号の取得、戦争 後のベルリンにおける親子三人での不安定な生活をへて、ナポリにおもむく。かれは そこでリガ出身の女流革命家、アシャ・ラツィスと知り合っている。南の街の貧困と 祝祭と活気に満ちた生活を描く『ナポリ』(1925)はうツィスとの適作として発表され た。ドイツ帰国後、アシャを訪ねてベンヤミンはソ連におもむいている。『モスクワ』
(1927)はこの旅の経験からうまれている。
ワイマール共和国期の経済的、政治的混乱に翻弄されながら、また離婚問題に苦悩 しながら、それでも、たえず遥かな遠い土地に故郷を求めるといわれるメランコリカー のように、ベンヤミンの旅の軌跡はヨーロッパの南北の街まちにしるされている。『ワ イマール』(1928)、『マルセーユ』(1929)、『サン・ジミニァーノ』(1929)、『北方の海』
(1930)は、そうした旅で接した都市のイメージを定着した短い作品である。メタファ にあふれた文章で描かれる都市のイメージは冷静な観察の記述のように思われる。そ こには旅行案内記にみられるような名所、旧蹟の紹介はないし、歴史的人物に纏わる 記念碑や生家訪問の記述もない。都市滞在の詳細な記録ではないし、また文献学的研 究に裏打ちされた都市記述でもない。ベンヤミンが記述するのは都市の家々、中庭、
街路と広場である。人々もまたそこでは風景のなかにとけこんでいる。ベンヤミンの
まなざしは、サン・ジミニャーノの家々の門口にはられた布の下に古い時代の門を見 出し、敷居のまえに置かれた椅子に、この町にもたらされた新しい時代の影響を捉え ている。『北方の海』ではベルゲンについてつぎのように形容される。「海がカンパー ニャなら、ベルゲンはザビーネの山並みのなかにある。」ベンヤミンの都市描写のなか では、古さと新しさ、遠さと近さが共鳴しあって、その散文の奥行きをひろげている。
しかもイメージを打ち出すための言葉を探す際の困難について述べる文章(サン・ジ ミニャーノの書き出し)、あるいは鴎の群れについてついて述べる断章(北方の海)に こめられたべンヤミンの内面の測りがたさを思い合わせるならば、その散文はさらに
意味深いものとなる。
こうしたヨーロッパの諸都市をめぐる比類ない散文群のなかでも、大都市パリとパ リをめぐる作品はベンヤミンにとって格段に重要な意味合いをもっている。ホフマン スタール言うところの「生活だけでっくられた街」、パリは最初の滞在からかれをとら えている。20年代にはいくどもパリ滞在がくりかえされる。パリの街歩き、同時代の フランス文学との接触からフランスとパリに関する数多くの評論、エッセイ、報告が 書かれている。それらの作品群のなかで、『バサージュ論』は重要さにおいて群を抜い ている。それは彼の作品の本流とでも称されるべきであり、彼の他の作品はそこから 流れ出る、あるいは流れ入るのである。
現在、ズーアカンプ社から出されている『パサージュ論』は二巻本である。それは
『パリ、19世紀の首都』と題されたドイツ語とフランス語による草稿、覚書、および 資料、さらに初期の草案やメモで構成されている。ベンヤミンにとってこの未完の著 作がいかに作品全体を総括する性格を有しているかを、つぎに他の作品との関連を辿
りながら、『パサージュ論』の成立史にふれてみることにしたい。
2.「パサージュ論」の成立
『パサージュ論』はもともとフランツ・ヘッセルと共同で執筆する予定であった雑誌 記事に由来する。書かれずにおわったこの記事にかわって1928年には『パリのパサー ジュ』と言う題名をもったベンヤミン単独の計画が披露されている。当初の計画では
『一方通行路』につながるもので、パリと取り組んだ第二番目の仕事として、その完 成に数週間があてられることになっていた。この計画は当初予定されていたようには 簡単にはいかず、かれの自殺にいたるまでついてまわる仕事になった。しかし1930年 頃にはこの仕事はひとまず打ち切られている。この期間の試みを第一段階とすると、
この段階ではベンヤミンは、「19世紀の初期に現れ、そのうちに役割を終えた百貨店、
モード、照明、パサージュ、街路などを配列し、ふるくなってゆく新しいもののなか
に初期の近代を見ようとした。」2この具体的なものの観相学を通じてベンヤミンは19 世紀の歴史的現実へのコメンタールをあらわすことを企てた。ティーデマンは第一段 階の内容を説明して次のように述べている。「資本主義的生産関係の下の歴史がちょう
ど夢のなかにでもいるかのように計画も意識もなくつくられていくのが、夢みるひと の意識のない行為に比較される。」3ティーデマンは最初のパサージュ計画をよく説明
してくれる文章として「資本主義はひとつの自然現象であって、この現象とともに新 しい夢の眠りがヨーロッパにやってきた。そしてその眠りのなかで神話的な力がふた たび活動することになった。」4というべンヤミンのフラグメントをとりだしている。
数年の中断をへてパサージュ論の仕事はふたたびとりあげられる。きっかけになっ たのは、ある雑誌から依頼されたオスマンにかんする仕事であった。1934年にはじま
るこの段階を第二段階とすると、この時期には、第一段階の仕事に社会史的テーマ、
たとえばオスマン化、社会運動、鉄道、共同謀議というテーマが付け加えられている。
タイトルも1935年には『パリのパサージュ』のかわりに『パリ、19世紀の首都』と呼 ばれることになった。ベンヤミン自身はタイトルをフランス語で考えることを好んで いた。草稿を一冊の本に仕上げる仕事は難渋する。その間にこの仕事と密接に関連す る重要な作品が執筆される。それらは『ベルリンの幼年時代』であり、『複製技術時代 の芸術作品であり、ボードレールに関する仕事である。さらに『歴史の概念について』
もそのなかに含められる。
『ベルリンの幼年時代』は『パサージュ論』がめざした19世紀の根源史を、子供の目 を通して叙述する試みであった。
『複製技術時代の芸術作品』は素材的には『パサージュ論』とは明白なつながりはみ られない。しかし方法のうえでは「この論文が、19世紀の回顧をする場合に基準とな る現在時の出来事や設問を確定している」5ことで、密接に関連している。
ボードレールに関する仕事一『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』、『ボード レールのいくつかのモティーフについて』一は『パリ、十九世紀の首都』のなかの一 章「ボードレールあるいは街路」を独立させて一冊の本にすべく着手したため『パサー
ジュ論』との関連は非常に密接である。ベンヤミシはこの計画を『パサージュ論』の ミニアチュアモデルとして考えたが、この計画も実現しなかった。
またベンヤミンの絶筆と言ってよい『歴史の概念についても完結したかたちをとっ ているとはいえ、ボードレール関係の著作や『パサージュ論』を構成する原理的側面 を表明した著作である。『パサージュ論』はこうした重要な副産物をうみだしたにもか かわらず、決定的なかたちをとるにいたらなかった。
3.敷居からパサージュへ
成立史のうえから、そして他の作品との関連のうえからも、『パサージュ論』は包括 的性質を有している。形式の面からみても『パサージュ論』(Passagen−Werk)はベ
ンヤミンの全体の作品を象徴する意味合いを含んでいる。そのことを指摘したのは W.メニングハウスである。かれは『敷居論』(Schwellenkunde)においてPassagen
−Werkという名称はベンヤミンの全作品にあてはまると主張している。かれはその論 文において、ベンヤミンの作品中に頻出する敷居という語に注目し、敷居からパサー ジュ概念への意味転移の過程を辿っている。かれの指摘するとおり、ベンヤミンの作 品には敷居とそれに類したイメージが目につく。ベンヤミンはすでに敷居と門の意味
転移に気づき、門が古代にあっては通過儀礼(rites de passage)の行われる場所であっ
たことを指摘している。すでに敷居と神話的意識との連関に言及しているのである。敷居と神話的意識との連関は、メニングハウスにあっては、E.カッシラーの神話研究 からの援用によってより明確化されている。カッシラーはその『シンボル形式の哲学』
のなかで、神話を構成する空間的要素について述べ、とくに敷居にあたえられる特別 の位置と敷居に対する諸民族の恐れに注目して次のように書いている。「神話的、宗教 的根本感情は、空間上の『敷居』という事実に結びついている。秘密に満ちた慣習の なかにも、ほとんどいたるところで、類似したかたちで敷居への尊敬の念とその神聖 さに対する畏怖の念がみられる。ローマ人のあいだでも、テルミヌス(境界神)は、
独自の神として現れる。テルミナリアの祭りでは、ひとは境界石自身をあがめ、これ に花輪をかざり、犠牲の動物の血をふりかけた。まったく異なった生活環境や文化環 境においても、同じように、外なる世俗の世界から、神の家の空間を分ける神殿の敷 居を敬うということから、宗教的、法律的根本概念としての所有の概念が発展したよ
うにみえる。敷居の神聖さは、神の住居をまもるように、土地の境界、耕作地の境界 づけというかたちで、土地と耕作地と家を、敵の不当な干渉や攻撃から守るのであ
る」。6ベンヤミンはこのようにはっきりとは敷居と神話的な感情との連関を語っては いない。しかし彼が「敷居論」なる言葉を使っている箇所で階繰の敷居を問題として いるようにベンヤミンの鋭さは敷居の意味転移を大胆にすすめてゆくところにある。
彼は『パサージュ論』中のフラグメントにおいて敷居を門、扉、市内、さらには戸口 につけられる呼び鈴にまでその意味を転移させている。さらには読書や書くという行 為にまで敷居の意味をひろげている。ここからパサージュまでは至近距離である。事 実ベンヤミンはパサージュの入口と出口(どちらの役割もはたせるが)演敷居にほか ならないことを書き記している。かくしてパサージュは街路と商店の移行領域として 商品の幻想(ファンタスマゴリー)を展開する敷居としてとらえられる。パサージュ
には、しかしパサージュ神話という含意があることを踏まえると、敷居としてのパサー ジュにはブァンタスマゴリーの払拭が伴わないわけではない。ベンヤミンの作品を敷 居論ととらえるメニングハウスの立場にたてば、パサージュ論(Passagen−Werk)は ベンヤミンの作品総体を象徴的にいいあらわしていることになる。ベンヤミンの作品 形式を神話的思考と関連させてとらえる見解は、このようにみると『パサージュ論』
の成立事情とあいまって、この未完の作品がベンヤミンの作品を総括する性格を有し ていることを、あらためて明らかにしているといえよう。
4.遊
民遊民は『パサージュ論』のなかで中心的なテーマのひとつである。このテーマを『敷 居論』との関連で論じてみたい。ベンヤミンは遊民(フラヌール)について簡潔に述 べている。「フラヌールはなお大都市への敷居、市民階級への敷居のうえに立ってい る。」7と。フラヌールについてはいますこし細かな特性描写が必要だろう。まずフラ ヌールは都市が産みだしたタイプである。それもローマ、ひとつの家や建物がすでに 歴史的記憶にみちあふれているローマではなく、パリでうまれたタイプである。しか しフラヌールが大衆とともにあるということを考えるとき、それは近代の産物である。
大衆がヴェールの役割を果たすところにフラヌールにとってのファンタスマゴリーが うまれる。そのとき都市は一方では風景、他方では部屋となってフラヌールを弁証法 的に幻惑するのである。フラメールにとって都市は聖なる土地であるが、彼はまた街 路の看板をサロンの油絵に、塀を事務机に、キオスクを自らの図書館に変える。フラ ヌールがもっとも居心地よく感ずる空間がパサージュである。
ベンヤミンはさまざまの特性をフラヌールに与えている。生理学者としてのフラ ヌールは通行人の人柄から職業まで推測可能という幻想をもっている。しかも人間関 係は友好的であるという幻想を抱いている。このように通行人の観相学にたずさわる ところがらフラヌールは探偵にもたとえられる。あるいはフラヌールはお忍びの王に 比せられ、反対に目立ちたがる存在ともされる。
そのゆっくりとした歩行のテンポが街路の交通のさまたげになるフラヌールにみ あった空間がパサージュである。またそこはフラヌールのお気に入りの場所である。
ベンヤミンの引用にしたがえば「産業による贅沢の生んだ新しい発明であるこれらの パサージュはたくさんの家並みをぬってつくられたガラスで屋根を覆われ、大理石の 壁がはられた通路である。建物の持ち主だちがそのよをな企てに同意したのである。
上から光を採り入れているこれらの通りの両側には、最高に優雅な商店が並んでいて、
そのようなパサージュはひとつの都市、小さいながらひとつの世界である。ここで買
い物好きは、必要な品物をすべて見つけるだろう。」8
パサージュは商品の殿堂であり、フラヌールは商品に感情移入する。交換価値に没 入することからうまれる陶酔はフラヌールが群衆におぼえる陶酔に通じている。群衆 がプロレタリア化すればするほど労働力の商品化がすすむのだから、商品への感情移 入はなくなるだろう。潜在的に、秘かに買い手を探しているフラヌールは、商品とし ての娼婦に比せられるとしても、まだそこまでの段階にはたっしていない。フラヌー ルは市民階級から大都市のプロレタリアートへの敷居の上にある。このようにみてく ると、『パリ、19世紀の首都』において、フラヌールがパサージュ、インテリア、博覧 会場、パノラマとともにテーマとして並べられている意味があきらかになる。なぜな
ら、パサージュ、博覧会、パノラマや室内空間は、芸術から解放された新しい形式が 商品化への敷居のところでためらっている時代の産物であるからである。9
5.ベルリンにおけるフラヌール
ヘッセルの『ベルリン散歩』に拠って、彼のフラヌール論と敷居論について論じて みたい。彼は自らの都市との関わりかたについて1933年『文学世界』において、『散歩
という難しい芸術について』10と言う題で発表している。ヘッセルがこの文章で都会人 に勧めているのはフラヌリー(遊歩、散歩)である。しかしヘッセルがいう遊歩=散 歩は、身体を鍛える目的で行う歩行ではなく、社交とむすびついたコルソの散歩でも ない。あるいは田舎を歩くことではない。ヘッセルは、なにかの目的をもってせわし なく動き回る都会人に、目的をもたずに自分の住んでいる都市を歩いてみることを勧 める。その勧めが、現在の発達した交通機関にそぐわない、なにかの用事のために動 きまわらざるをえない現代人の活動のテンポに合わないと反駁されるのを承知で、「こ のまじめな時代に」自分の足で動くようにというのである。「われわれのなかにはひそ かな怠け者がいて」、その怠け者は理由なく動いてみたがっているとヘッセルは主張す
る。行動の目的を忘れて、遊歩がうまくいった場合には、「都市の街路は覚醒夢となる。」
そのときフラヌールにとって町並みのありふれた事物、たとえばショウインドやネオ ンサインの文字は風景であり、童話の人物であり、過去となる。「街路は本であり、」
フラヌールは読者になる。フラヌールはそのときなにに注意をむけるべきか。ヘッセ ルは石の庭を散策することを、街路の歴史を体験することを、街路にいつ、どのよう に人が溢れるのか、またひとがいついなくなるかを体験することを勧めている。そし て人知れず寂れてゆく敷居と知り合いになるように、商店とレストランの歴史を追う ようにと忠告している。遊歩が読書であるとき、個々の建物の内部に立ち入る必要は ない。フラヌールは個人的(プライベート)なものと交渉をもたないのである。もの
に飽いたときは、目を転ずれば、通りをゆく人々の顔がなにごとかを語りかけてくる。
見知らぬ人の顔だけではなく、フラヌールの知人の顔ですら、白日夢のな々・にあるフ ラヌールにとってはショックとなる。ヘッセルは、街路は読み物であるのだから、美、
醜をにわかに裁断するなかれという。現代人はあまりに早急に判断、批判をくだした がるのである。フラヌールにとっては、いやなものさえが美しくなりうることがわかっ ているのである。唯美主義者のように美に一方的に加担するのではなく、親しみをこ めて事物を眺めること、そしてものとひととがコミュニケートすることが重要である。
注意をひきつけられたからといって、フラヌールは好奇の目をもってそこに近づいて ゆくことはしない。ものがフラヌールに親しみを感ずることも肝要である。ヘッセル にしたがえば、遊歩は楽しみの学校の一教科であり、ひとは人間愛からその学校で学 ばなければならないのである。
ヘッセルのフラヌール論では無意識的なものが強調されている。そうした意味で ヘッセルを穏やかなシュルレアリストに擬するB.ヴィテ(B.Witte)の見解も的外れ ではないだろう。11しかしとくにわれわれの興味をひくのは、政治的激動期に(この文 章が書かれた1933年はヒトラーが政権を握った年である)敢えて遊歩を勧めるヘッセ ルの姿勢である。今日では以前よりもっと楽しみの学校がなければという主張には断 固とした季節外れの思想が窺われる。
このフラヌール論の核心を述べた文章をひきだすことになるおおきなベルリン論が 1927年に出された『ベルリン散歩』である。ヘッセルは自らの子供の時代を思い起こ
しながらベルリンの街を適卒する。ところがフラヌールはベルリンの街では目立って しまう。この本のはじめと終わりにはベルリンとフラヌールが異質な組み合わせであ ることが指摘されている。つまり足早にどこかへ急いでいるベルリンの人々のなかに あってはフラヌールは不信の目で見られるのである。ときには犯罪者と間違えられる。
「私が忙しい人達のあいだを散歩するときは、いつでも疑いの目にであう。私はスリ だとおもわれるのだ」とヘッセルはいう。たとえばパリやヴィーンのような都会では、
生活の楽しみ、気晴らしが目につくのに、ベルリンでは労働が美しい。ベルリンはフ ラヌールの街ではないのである。
ヘッセルはベルリンの郷土史について学ぼうとする。しかしベルリンにはめくるめ くばかりに多くのことがある。過去から現在にいたるまでベルリンの変化は激しい。
たえずベルリンの街は変わろうとしている。このようにベルリンが遊歩に不適当な都 市であるとはいえ、遊歩が廃れていないかぎりは、ベルリンは遊歩を学ぶべきなので ある。「タウエンツィェン通りやクーアフユルステンダムは、ベルリン子に遊歩を教え るという高い使命を有している。この都雅な活動が完全に廃れていないかぎり、それ は遅くはない。」
ヘッセルにとって遊歩はパリを手本としてまだまだ学べる行為であり、歴史的に完 結していない行為である。それゆえにヘッセルはベルリン子に切に勧める。「われわれ は少しばかり怠惰と楽しみを学びたい。貴重なものと厭わしいものとの並列と混乱の なかで、確固としたものと贋物とのあいだで、滑稽なものと尊敬すべきものとのなか で、ベルリンというものをじっくりと眺め、愛し、美しいと思いたいdそうするとベ
ルリンは美しいのである。」
ベンヤミンはこの本が出版された折に、書評12を発表し、「目覚めたる人によるエジ プト的な夢解釈の本」として一読を勧めている。かれはその書評のなかで、ヘッセル を「偉大な敷居学者」と呼んでいる。ヘッセルがみずからの足下に敷居(現実の敷居 であれ、比喩的な敷居であれ)を感ずる作家であるというのである。『ベルリン散歩』
のなかでその特徴を数多く見出すことができるだけに、このベンヤミンの指摘は重要 だとおもわれる。ベンヤミンの敷居論にしたがって『ベルリン散歩』にみられる敷居 論の実例のいくつかを検討してみたい。
「われわれはポツダム広場にやってきた。この広場についてはここが広場ではなく、
パリでカルフールとよばれる交差点、道路の交わる地点であることが強調されなけれ ばならない。ドイツ語にはこれに相当する言葉がない。ここに、かって市門があり、
ここでベルリンが終わり、地方への街道が分岐していたことを、道路の交差のかたち で認識するためには、地誌的に習熟した目を持たなければならない」(S。55)
ヘッセルはこの麿場がかっての市門、ベルリンと他の土地とを分ける移行の場所で あったことを見逃していない。ヘッセルのなかのフラヌールは、現在のトポグラフィー に惑わされることなく、過去の風景を、市門=敷居を感じ取っている。
工事現場と鉄道の高架にも注意がむけられている。「われわれはヴァイゼン橋を通っ てひきかえす。右手の、古いヤノヴィッツ橋がとぎれているところで、易断と新建築 の世界との素晴らしい劇をみる。クレーンと小舟の間に、ごみの山と掘削機のあいだ に、古い橋ポンチ・ロットがシュプレー川のまんなかに浮かんでいる。上方の市電の 高架でも工事がなされている。破れた壁は回想によって宮津にされた蒸気機関、すで
に古くなった移動手段の神殿の一部である。」(S.70f)
つい最近まで新しかったものはすでに古びつつある。時間の推移のなかで、工事現 場や高架が敷居として敬意を払われている。
さらに微妙な時間表の敷居がベンヤミンによって引用されている。「フリードリッヒ シュタットのティータイムもまた、活動が始まる前に、教訓に富んだ時間をもってい る。その時間、薄闇のなかで、まだ取り出されていない楽器の側でダンサーは軽食を
とったり、衣装係の女や給仕と雑談をするのである。(S.220)
さらに地誌的な移行点としての橋はいくどとなく『ベルリン散歩』のなかで言及さ
れて.いる己.ベル.リンを適回しつつ、地誌的、時間的敷居をフラヌールの陶酔的感覚で
感じとるヘッセルのこの本は「偉大な敷居学者」13が書いた重層的記憶の書であるとともに、現代にも通じるベルリン論としてわれわれにもお.おくのことを教え.てくれる。
注
『ベルリ.ン散歩』は、Rogner&Berhhard, MUnchen 1968を使用している。
1.Benj amin, W.:Angelus.Novus, Frankfurt..a. M.1966, S.420
2 Tiedemann,.R.:.Einleitung in das Passagen−Werk , S.9, in Berり.amins Gesam−
melten schriften,・Bd. V, Frankfurt a. M.1982, S.9.
3.Ebenda, S.17.
4.Benj amin, W.:qesa卿nelte Schriften, Bd.V,1, S.494.
5.Benjamin:Briefe, Frankfurt a. M.1969, S.702.
6.Cassirer, E.;Philosophie der symbolischen Formen.2. Teil. Das mythische Denken,
Darmstadt 1994, S.127.
7.Benj amin;Gesammelte Schriften, V,1, S.54
8.Ebenda. S.45.このパサージュ描写が気に入っていたのでベンヤミンは何度も引用 を くりかえしている。.
9 Ebenda. S.59..ここでは『パリ、19世紀の首都』のモチーフ全体が回顧的に総括され ている。
10..Hessel, F.:Ermuhterung zum GenuB, Berlin 1988.に含まれている。
11.Wite, W.:Nachwort fOr., Heimliches Berlin , Frankfurt a. M.1982, S.151..
12.Benlamin:Der Wiederkehr des Flaneurs..in;Angelus NQvus, S.416ff.
13.Ebenda, S.419.
Die Erfahrungen der GroBstadt waren fUr Benjamin und Hessel sghr wichtig.
Besonders Paris und Berlin haben in ihrem Werk und Leben eine entscheidende Rolle gespielt. Benjamin und Hessel haben sich vielmals mit Paris und B6rlin beschaftigt.
Ber通amin hat in seinem unv611endeten Buch, Passagen−Werk das Paris.des 19.
Jahrhunderts zum Gegenstand seines Denkens gemacht. Unter.derp Gesichtspunkt
seiner Entstehungsgeschichte und seiner Form kann man dieses Werk da6 Benj amin−
sche H aup㌻werk nennen.
Die Form der Benjaminschen werke wird als, schwellenkunde 99kennzeic加et.
Dabei ist die S¢hwelle mit dem mythischen Denken verbunden. Sowohl im Konzept des Passagen−Werks als 4uch im einzelnen Motiv, dem Flaneur, z. B.1aBt sich der
Charakter der SchwellenkUnde bemerken.Hessel entwickelt in seinem Werk, Spazieren iロBerlin l seine Flaneur−Theorie.
Er behauptet, daB Berlin eine fUr Flanerie unpassende Stadt sei, und daB man trotzdem aus Menschenliebe die Flanerie als LebensgenuB lernen mUsse. Das Werk Hさs6els, des groBen Schwellenkundigen ist durch Sparsinn fnr die Schwelle einzigartig.
(1995年1月31日受理)