長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第33巻 第1号 87‑99 (1992年7月)
ヴァルター・ベンヤミンとコレージュ・ド・ソシオロジー(一) 園田尚弘
Walter Benjamin und Le College de Sociologie (I)
Naohiro SONODA
はじめに
1933年、ヒトラー政権の成立とともドイツを後にしたベンヤミンはパリを亡命地 として選んだ.彼は経済的窮迫のなかで、ライフワークとなったパッサージュ論の 完成をめざすことになるが、コレージュ・ド・ソシオロジーの集まりへの参加、そ のメンバー達との交流が、パリにおけるベンヤミンの著作活動に対する刺激、精神 的支援になっただろうことは想像にかたくない。この会は敵対を続けていたA.ブル トンとG.バタイユがファシズムに対抗するために結成したコントル‑アタックの決 裂後、バタイユ、 R.カイヨワ、 M.レリスを中心にしてつくられた会であった。
ベンヤミンとパリ、あるいはフランス文学、文化との関わりの総体からすればバ タイユ達との交流は、たとえばプルースト、あるいはアラゴンの『パリの農夫』の 読書からくる影響ほど大きくなかったかもしれないOしかしコレージュ・ド・ソシ オロジーのメンバーとの交流がベンヤミンにもたらしたものはけっして小さくはな かった。もちろん世界観、芸術手法などにわたる相互の影響などについては語られ ないかもしれないが。
J.ハ〜ハマスはモデルネ批判の急先鋒としてのハイデッガーとバタイユの親近性 を指摘しつつ彼らの思想形成の要素となった詩的、政治的環境の違いに言及してい る。シュルレアリスムの席捲、ウルトラ左翼との接触というドイツ哲学者には嫁が なかったバタイユたちの経験をドイツの知識人としてうけとめることができたのは ベンヤミンをのぞけばほとんどいなかったのではなかろうか。ルネ・クレヴェルと 親しかったクラウス・マンのシュルレアリストを抜かった評論とベンヤミンのシュ ルレアリスム論を読み比べればそのことははっきりする。
つまりベンヤミンを形成してきた思想的環境は過去の伝統をふくめてバタイユや シュルレアリスムのリーダーだったプルトンに接近しているところがある。その意
味でこの論考では、コレージュ・ド・ソシオロジーに結集したのち、ぞれぞれに特 色ある仕事をなしとげたメンバーとベンヤミンとの接点をみること、ならびに同一 領域の仕事の対比が試みられる。そのことによってそれぞれの思想家の仕事の意味 と意図が鮮明になることが期待される。叙述の対象となるのは原則として両大戦問 期であり、論じられる作品は主として理論的作品である。
叙述の順序はバタイユ、カイヨワ、クロソウスキーなどということになる。 『ドキ ュマン』、『クリテイク・ソシアル』『アセファル』『コントル‑アタック』に拠った バタイユの理論と実践を30年代のベンヤミンの政治的美学とつきあわせてみること、
ベンヤミンが『パッサージュ』の手記のなかでおおいに注目しているカイヨワの『パ リの神話』と『パッサージュ論』との比較、l)ベンヤミンとバタイユ・グループとの 交流に関して貴重な証言を残しているクロソウスキーたちとベンヤミンの政治的論 争の背景などが扱われる。
1.ベンヤミンとバタイユの交流
最近のベンヤミン研究史において画期的事件は、 1982年イタリアの哲学者、ベン ヤミン研究家、 G.アガンベンによるベンヤミンの遺稿の発見であった。パリの国立 図書館にベンヤミンのパリ脱出の際に残された原稿が保管されていることはかなり 以前から知られていたし、たとえばゾーンーレテルなどは遺稿の一部を見てもいる。2) いづれにしろこの発見によって、本人の手によって配列された『ベルリンの幼年時 代』や失なわれたとされていた『ソネット集』、さらには『パッサージュ』関係資料 もみつかり、研究者にとってもベンヤミン愛好家にとっても、この発見はたいへん 喜ばしいニュースになった。
ベンヤミンから原稿を委託され、国立図書館に保管した人物がバタイユであった。
激烈なェロティシズムの世界を描くかずかずの「黒い本」の作者が一見実直な図書 館員でもあったという事実は、ベンヤミンにとっては好都合なことであった。
パリの国立図書館をよく利用していたベンヤミンはバタイユとしばしば会う機会 があった。 1935年7月8日付けの国立図書館館長あての図書利用許可申請の下書き にはバタイユと知り合いあいであるむねが記されている。ヘ〜リッシュ(J.Horisch) は『エドゥアルト・フックス』執筆にあたってのバタイユの影響を指摘している。3) クロソウスキーの二編のベンヤミン関係の文章からしても、 1935年から1940年ま で両者がかなり親密に交流をかさねていたことが考えられる。ベンヤミンは「コレー ジュ・ド・ソシオロジー」をしばしば訪れていただけではなく、 1939年にはみずか ら講演会をこの会でおこなうことになっていた。その計画は第二次大戦の勃発によ
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って実現するにいたらなかったがOクロソウスキーの回想『ヴァルター・ベンヤミ ンにかんする手紙』と『マルクスとフーリエのあいだ』によれば、バタイユたちと ベンヤミンの政治的見解にはかなりひらきがあったようである。 「ベンヤミンはすべ てのことがらに面食らいながらも非常な興味をもって聞いていた。バタイユと私は、
当時すべての面で彼とは反対の立場をとっていたにもかかわらず、かれの言葉には 興奮して耳をかたむけたものだ。」4)とクロソウスキーは書いている。白熱した議論 がかわされるような人間関係が形成されていたことがよみとれる。ベンヤミンとバ タイユそれぞれの書簡などが全的にあきらかになればふたりの交流にかんしてもい ま少し文献的に解明される可能性もあるようにおもわれる。
2. G.バタイユ
バタイユがシュルレアリスムに近づくきっかけになったのは、詩人で民族学者に なったミシェル・レリスと知り合いになったことであった。 1924年にシュルレアリ ストになっていたレリスは、画家アンドレ・マソンを中心としたシュルレアリスト のグループにバタイユを紹介した。バタイユは警戒と不信の念をもってシュルレア
リスムに接した。現在、全集1 (ceuvrescomplとtes, 1)にFatrasiesとして収められてい る12世紀の詩の現代語訳とその簡単な紹介を、バタイユはレリスの仲介で「シュル レアリスム革命」第6号(1926)に掲載しているが、これがバタイユのシュルレア リスム誌への唯一の寄稿であった。シュルレアリストとシュルレアリスムにたいす るバタイユの関係は心理的にかなり屈折していたようだ。彼は周囲の友人たちがシ ュルレアリスムに参加したことでおおいに孤独をあじわうことになったし、さりと てブルトンに張り合うだけの声望ももたなかった。アラゴンやブルトンに反感を覚 えたにしろ、当時のバタイユはほとんど著書ももたなかった。アラゴンは『アニセ またはパノラマ』や詩集を出していたし、ブルトンもさまざまの文学的実験をかさ ねて、シュルレアリストのリーダーとして著名であった。 1926年になってやっとバ タイユは美術、考古学雑誌『アレチュ‑ズ』に原稿を発表するようになった。古文 書学校卒業生にふさわしい専門的論文が発表されたわけである。
運動内部での対立をメンバーの除名によってシュルレアリスムのリーダーとして 活躍を続けたブルトンの注意をバタイユという存在にむけさせたのは1929年に創刊 された雑誌『ドキュマン』であった。バタイユが実質的編集長となり、美術研究家、
考古学者、民族学者からシュルレアリスム脱退者までをふくんだこの雑誌はブルト ンを苛立たせ、彼は『シュルレアリスム第二宣言』の終わりの部分でバタイユをこ き下ろすことになる。
プルトンはここで「われわれは古くさい反弁証法的唯物論の攻撃的復帰につきあ っている」として、バタイユの「観念恐怖症」を非難し、バタイユは汚物好みで「汚 れた」、 「おいぼれた」とか「みだら」といった形容詞をこのんで使う変態的人物と こきおろした。そしてこれとシュルレアリスムの「清潔さ」を対置して、 「シュルレ アリスムは倫理的防腐処置ともいうべき諸条件のなかで」その仕事をおこなわなけ ればいけないとのべた。5)第二宣言のなかで名指しで非難されたデスノスたちシュル レアリスム脱退者とバタイユは『死骸』と題するパンフレットでこれに応酬した。
(1930年)
バタイユ自身も『テル・ケル』誌ではじめて発表された『「老練なもぐら」と超人 および超現実主義者なる言葉に含まれる超という接頭辞について』や『サドの使用 価値』を書いて反撃の用意をしていた。前者の原稿でバタイユは上と下というカテ ゴリーを使用し、シュルレアリストを鷲、自らをもぐらにたとえ、鷲のイメージが 政治的には帝国主義、形而上学的には観念と結びつくと皮肉る。階級や現実の彼方 に既成の価値に対抗する諸価値を性急に措定するプルトン派はイカルスのごとく挫 折に見まわれる可能性があるとのべる。そしてみずからのイメージする革命への戦 略を「経済的諸事象の地下活動という場にもどしてみれば、 『老練なもぐら』として の革命は、腐敗した土壌のなかに、ユートビストたちのデリケートな臭覚には臭く てがまんのならぬ土壌のなかに、坑道をはりめぐらすのである。」6)とのべて、この イメージをマルクスの地質学的蜂起の概念に近づけている。バタイユの議論はしか し、ここではどちらがマルクスに近いか、どちらの戦術が社会革命に有効かを競う 議論にきこえる。つまるところ、バタイユにしてからが、シュルレアリスムがもた
らした精神的地殻変動の功績をみとめるにやぶさかではないのだ。ブルトンの念頭 には文学しかないのだとくりかえし批判するが、バタイユにとってシュルレアリス ムの意義は否定出来ない性質のものである。彼が『ドキュマン』の評論や「批評辞 典」シリーズで強調するのは、奇異の感を呼び起こしながらも魅惑するもの、自然 の逸脱、泥のなかに突っ込まれた足の親指などである。上に対しては下、清潔には 汚れであり、市民社会の生の形式、日常性に抵抗する要素である。それは異質とし て同質性から排除されるものだ。異質性の概念のうちに「バタイユはシュルレアリ スム的な文筆家や芸術家における基本経験を濃縮するのである。かれらは、有用性、
正常性、そして冷めた現実感覚という強制命法に抵抗して、陶酔、夢の生活、衝動 といったエクスタシー的な力を動員し、それをっうじて、やすりをかけたように画 一化されている慣習的な知覚と体験の様式を揺さぶり、ショックをあたえようとす
る。」7)こうした意味において、当時のバタイユの狙いがシュルレアリストと根本的 に対立する性質のものとはとても思われない。8)
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『ドキュマン』誌が出版の当初のもくろみを逸脱したとして廃刊においこまれたあ と、バタイユは1931年にボリス・スヴァ‑リンが主宰する『クリティック・ソシア ル』に寄稿することになる。スパーリンはフランス共産党創設者のひとりであるが、
1925年には共産党を除名されている。トロッキーの思想に近かった彼は、 「民主共産 主義サークル」というグループを結成、バタイユはここでたとえばシモーヌ・ヴェ
イユとしりあっている。
バタイユは『クリテイク・ソシアル』に後年の思索に決定的重要性をもつ論文、あ るいは30年代の政治思想を窺うにたる論文を発表している。それらは『消費の概 念』、 『国家の問題』、 『ファシズムの心理構造』などである。 『消費の概念』はモース のポトラッチの理論をいち早くみずからのものにして生産中心の経済にたいして消 尽を基本にした普遍経済学につながってゆく論文であるが、これについてはふたた びとりあげるにあたいするだろう。 1933年9月にはバタイユは『国家の問題』を発 表した。彼は、ここで、労働運動が国家権力のまえでほとんど窒息しかかっていて、
労働者の意識はヘーゲル的不幸の意識に他ならないと述べる。バタイユがここで名 指している国家はイタリア、ドイツの全体主義国家だけではなく、スターリンの支 配するソ連をも含んでいる。民主共産主義グループへの参加がこうしたソ連にたい する冷めた見方と関わりがないとはいえないだろう。 (バタイユがここで、労働者の 直面する当時の状況にレーニンはもはや役に立たないと指摘していることは注目に
あたいする。)
異質性、同質性といったバタイユ独自のタームを使って、ファシズムの社会心理 的構造を追求した仕事が1933、 34年に発表された注目すべき論文『ファシズムの心 理構造』である。バタイユによれば社会の同質的部分は現代においては、生産手段 の所有者によって構成されている。社会的同質性の基礎をなすのは生産、つまり有 用な活動であるから一見同質的部分にみえるが、全般的に人間としてそこに属する ものではなく同質的部分とは無縁である。つまり現代では社会的同質性は本質的な きづなによってブルジョアジーに結びついている。マルクス主義の国家観が説明す るように、国家をおびやかされた同質性に奉仕すべきものと考えれば、国家は同質 性の維持のために、同質性からはずれた勢力をかたづけるか、それを従える命令的 分子に力を借りるかしなければならない。しかし同質的でないとされる異質性とは 一体どのように理解されるかOバタイユは異質性は科学の対象になじみにくいとか んがえる。ルカーチや啓蒙の弁証法におけるアドルノたちと同様、科学は本質的に 同質化を確立することだから、異質性をあるがままにとらえることは困難とする。い づれにしろ異質性の探究はバタイユにあってはデュルケーム派の宗教社会学的流れ のなかで遂行される。バタイユは異質的存在を日常性とは別のもの、通約不可能な
ものととらえ、それがマナのように未知の危険な力をそなえていると信じられると し、 「非生産的消費の結果全体を包括している」9)とする。それは有用性が排除する もの、 「つまり群衆とか、軍人階級とか貴族階級とか無産階級であり、暴力的かある いはすくなくとも規律を拒否する各種の人々」lO)っまり狂人アジテーター、詩人等で ある。こうした異質的分子はアンビヴァレントな感情を惹起する暴力、奇行、妄想、
狂気によって特徴づけられる。このような定義を与えたあと、バタイユはファシズ ムのアジテーターを社会的最下層とならんで異質的存在と認める。ヒトラーやムソ
リニーの力の源泉は大衆を催眠状態に陥らせ、大衆を自らに同一化させる力である。
その力は合法性を犯し、事物の規則的流れや、おだやかではあるが無味乾燥で自分 を保持しとおせない同質性を破壊する。
バタイユによれば「ファシズムの権力はその基礎が宗教的であると同時に軍事的 であり、しかも通常は分離している要素が互いに切り離されることができない。」ll)
「異質性の至上形態としてのファシズム」は社会の根本的同質性が危機に陥っている とき活動する。しかし異質性の内部には命令的形態(たとえばファシズム)ばかり でなく、マルクス主義がプロリタリアートとよぶ体制転覆的要素をもった分子が存 在する。二つの沸騰の可能性を秘めた形態が対時しているのがバタイユの目に映じ た当時の社会状況であった。
理論的活動のあとには政治的行動の試みが続く。コントル‑アタックに拠ったフ ァシズムとの対決の時期である。 1933年ヒトラーが政権を握った翌年にはフランス では、スタグィスキーの疑獄事件、自殺をきっかけにファショ的諸団体の騒擾、そ れにたいする左翼のデモ、衝突と事態が尖鋭化した。 1934年の2月6日におこった 右翼勢力の暴動は知識人におおきなショックを与え、人民戦線結成へのひとつの要 素となった。長く反目を続けていたブルトンとバタイユが、フランスのファシズム の攻勢に対抗して街頭行動にのりだすべく手を結んだのは1935年であった。 10月に は六つの決議と組織の立場を明らかにする八つの項目を並べた宣言文が発表されて、
コントル‑アタックが発足する。革命的知識人の闘う組織としてのコントル‑アタ ックの宣言にはバタイユ、ブルトンはじめ13人の名が挙げられ、この組織が資本主 義的権威とその政治制度と闘うことを表明している。しかもかれらがめざす革命は 徹底的に攻撃的でなければならない。コントル‑アタックは公開の集会を催し、 『コ ントル‑アタック手帳』を発行し、レオン・ブルム襲撃に対する抗議集会に参加し、
ビラを配り、といった活動をくりひろげた。バタイユは『コントル‑アタック手帳』
ではブルトンと共同して「奴隷に死を』と激烈なよびかけをおこなっている。 「火の 十字架、支配階級そしてそのパトロンは祖国と資本主義に仕える奴隷、かれらが制 御できず、かれらを支配し無力化するはずの力につかえている奴隷である。もしわ
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れわれが遅れたくないと望むなら、耐えがたい状態の犠牲であるわれわれは、合法 的暴力の極にいたるまでかれらと対抗する用意がある。盲目的にわれわれから戦い と惨めさを要求するものたちを地上から追い払うために」。12)攻撃は主としてファシ ョ勢力にむけられているが、人民戦線の生ぬるい動きも容赦されているわけではな い。とりわけバタイユは『街路の人民戦線』と称して撒をとばす。 「現在の形態の人 民戦線は革命的権力奪取の観点にたって組織された形態ではないし、そのようにふ るまってもいない。人民戦線は、街路でそれを活気づける内部の運動を解放しなが ら、闘う人民戦線に変化されねばならない」13)こうした人民戦線批判はすでにコント ルーアタック宣言文にもみてとることができる。 「人民戦線の指導者たちはブルジョ ワ的制度の枠のなかで権力に近づこうとしているようにみえるが、そうした計画は 破産の運命にある。」14)
バタイユのラディカルな政治的立場をみるとき、それが壮大な公共的消費として 労働運動をとらえる立場とつながっているのをかんじる。つまりバタイユにとって の価値である至高性と関係づけられねばならないようにおもわれる。 「あらゆる道徳 的な要素を純化した、美学化された政治の、詩的政治の夢である。」15)というハバー
マスの指摘がでてくるところであろう。
はたしてコントル‑アタックは数カ月にして動揺しはじめ、 1936年5月に瓦解し た。そしてバタイユはこれ以後ふたたび直接的に政治的活動の前面にあらわれるこ
とはなかった。
クロソウスキーはバタイユとブルトンが手をくむにあたって、それぞれがお互い に幻想をいだいていたのだと解釈している。 「ブルトンにおいては、喋想的経験は、
外部の反乱行動に同一化することで、社会的な、したがって合理的な正当化を得ん とするものであったが、 ‑対するにバタイユにとっては、瞑想とはそれじたいで 反乱蜂起にはかならなかった」、16)として相互の精神的営為の不一致がときならず表 面化するのは必至であった、とみる。いづれにしろバタイユの既存の体制、人民戦 線のてぬるさを批判する独自の立場がグループの内部で違和感をかもしだしていた ことが想像される。たとえば『フランスの砲火の下で』と題したビラでバタイユの 側近ジァン・ドトリーが書いたとされる文章(シュルレアリストも署名しているの だが)によってバタイユらはシュルファシストなる名称をうることになる。 「われわ れはかみくずの山や高官たちの奴隷的言辞に反対する。緑の繊壇のまわりで書かれ た文書は人々をいやいや結びつけるだけだとわれわれは考える。われわれはなには ともあれ、それよりは外交辞令を踏みにじるヒトラーの粗暴さをえらぶ。そのほう が外交官や政治屋の締まりのないおしゃべりだけの興奮よりよほど平和的だ。」17)ブ ルトンならずとも首をかしげたくなるが、このことがただちにバタイユが親ファシ
ストであることを意味しないのはこれまでの叙述であさらかとおもわれる。コント ル‑アタック解体後、バタイユは結社『アセファル』を結成し、 『アセファル』誌を 発行する。バタイユの文章を検討すれば、かれがファシズムの成立する事情を追求 しつづけていることがわかるし、ファシズムが限定された成功をおさめる経緯も、ま たそれの底の浅さをも見越しているように思われる。かれはこの雑誌に発表した評 論、テーゼでニーチェに深くかかわっている。その企図は、ニーチェの妹をはじめ として、ニーチェをファシストとする勢力からニーチェをすくいだすことであった。
バタイユにとってはなるほど知識、文明がはびこり、魅惑も、身を滅ぼすほどの悦 惚もない退屈な、この世界は拒否されねばならない。しかしかれが求めるのは空虚 を埋めるべく、手近かにある粗雑な諸価値の再興をめざすファシズムの道ではない。
ファシズムにあっては「合成された共同的話力は偏狭な伝統‑父祖伝来のあるいは 人種的な一にしぼられて身動きできないまま君主制的な権威を構築し、生の停滞あ るいは乗り越えがたい生の限界を築いて定着する」18)からである。
さて『アセファール』誌3/4号には「社会学研究会」設立にかんする覚書が発表 されている。 1937年7月、 1939年戦争勃発とともに活動を停止することになる研究 会が開始された。ドニ・オリ工のおどろくべき熱意によって集められた講演記録に よってわれわれはこの会合でなされた活動を目にしうる。社会学研究会そのものを 論ずる意図をもたない本稿ではその活動の細部に言及することはしないが、研究会 の現実政治とのかかわりは当然無視できない。研究会の2年間の歴史的背景は大変に 暗い。人民戦線は崩壊し、国外ではヒトラーがオーストリアを併合し、スペインで はフランコの勢力が拡大していった。
設立覚書には7人の名前があげられているが、とりわけバタイユとカイヨワが研究 会と深くかかわっていた。その意味で設立の際のプログラムを含んだカイヨワのテ クスト(NRF1938、 7月号)はさまざまの意味で興味深い。ここで展開されている個 人と社会との相魁の問題はバタイユの問題でもあった。カイヨワはここで20世紀に おける人間諸科学の発展と知的擾乱が政治的大義の要求と歯且酷をきたしている状況 を指摘している。そこには芸術と政治、シュルレアリスムとマルクス主義との間で 苦悩しなければならなかった30年代の知的状況が語られている。しかし知的妨復は いづれの日にかうちどめにしなければならない。 「このふたっの対立する決定因、つ まり豊かな資源をもつ人間的現象の探究と、社会的事象の有無をいわせぬ懇請とは、
いづれもないがしろにすればかならず後悔することになるようなものだ。一方を犠 牲にして他方をとるとか、あるいは二つを並行して追求できると幻想を抱くといっ たことにかんしては、そうした解決策がどんな深刻な見込み違いにさらされること になるかを、現実の経験が繰り返しあさらかにしている。救いは別のところからこ
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なければならない。」19)救いは社会学に求められた。ここでは、設立宣言で活動対象 としてあげられた聖なるものの探究が社会学を聖なるものととらえる立場に変容し ている。研究会の研究課題をカイヨワは権力、聖なるもの、および神話である、と 述べる。ファシズムも、これまでの記述であさらかであろうが、ここでは研究課題
となる。もちろんコレジュ・ド・ソシオロジーはたんなる研究団体というわけでは ない。それゆえ、 1938年のいわゆるミュンヒェン危機に際して研究会は宣言を発表 し、ブルジョア的個人主義の発達に伴う社会的連帯感の弛緩を指摘する。そしてこ の指摘に同意するものに研究会への入会を勧めている。しかし戦争の足どりは早か
った。第二次世界戦争が社会学研究会の活動を吹き飛ばしてしまうのである。20)
注
1.ベンヤミンのPassagen‑Werkの[N.7,1] S.586にはみずからの仕事をすすめてゆくうえに自らの明 確化さるべき仕事として以下のような断片がある。
ロジェ・カイヨワ;パリ、現代の神話(NRFXXV,284IMai1937699ページ)は対象をもっとあさらかに するために遂行されねばならない課題を構成している。 1、 19世紀に先行したパリの描写(マリヴォ、レ ティフ・ド・ラ・ブルトンヌ) 2、パリと地方の関係についてのジロンド党とジャコバン党の争い;パリ の革命時の神話3、帝政下と王政復古下の秘密警察4、ユゴー、バルザック、ボードレールにおける パリの倫理的絵画5、街の客観的叙述;ドユロール、ドユ・カン6、ヴィニー、ユゴー(恐怖時代の焼 失したパリ)ランボー[N.7,1]
2. Adorno und Sohn ‑ Rethel, Bnefwechsel 1936‑1969. Munchen 1991. S.143
Horisch, J. ; Benjamin entre Bataille et Sohn‑Rethel. in : Benjamin et paris. Les Edition du Cert, 1986
4. Klosso、1′ski, P. ; LettresurWalterBenjamin, MercuredeFrance, 7. 1952
Breton : ManifestesduSurrealisme, Gallinard,Paris.S. 145引用は『シュルレアリスム宣言」現代思潮社 による。
6. rバタイユの世界」清水、出口編、 S.383 (青土社)
7. Habermas,J∴ DerphilosophischeDiskurs derModerne. Frankfurta. M. 1986. S. 249邦訳、岩波書店、引用同 普
8.ベンヤミンとシュルレアリスムとのかかわりを述べるのは容易ではない。つまりベンヤミンがシュル レアリスムをどのようにみなしたかといういはばかれにとっての研究課題といった側面だけではなく、
かれの作品にシュルレアリスムの発見と手法がどのようにいかされているかという面をも探索すること が必要であるからだ。ということはベンヤミンにとってシュルレアリスムがたいそう重要な運動であっ たということである。ベンヤミン全集の編者たちが述べるように(G.S.II,3;S.1021)シュルレアリス ムはパッサージュ論にとって当初はことのはか生産的におもわれたが、後には袋小路であることがわか ったと冷淡に注釈してすむことではないだろう. r一方通行路」あるいはrパッサージュ論」における 夢のモチーフの多用、大都市、神話、ものを古びさせる手法などシュルレアリスムと重なる面がおおく 指摘されるJ.Furnkasの研究をふまえた全面的研究は筆者のこんごの課嶺となる。ここではベンヤミン の批評文をつうじてかれがシュルレアリスムをいかにうけとめたかをのべておく。
ベンヤミンはすでに1925年、つまりブルトンがrシュルレアリスム宣言jを発表した翌年には、シュ ルレアリスムととりくみはじめていたと思われる1925年には、 1927年にr文学世界」に発表されるこ とになるrシュルレアリスムへの傍注Jを執筆している。かれはこのエッセイで、シュルレアリスムに
おける夢の世界の探索の重要性をとりあげる。しかしその方向はロマン派の青い花の夢想ではなく、そ の中心にはありふれたもの、日常的なものにむけられている。その点で夢を通して心の秘密をときあか そうとするフロイトともちがっていることを指摘する。シュルレアリスムの政治との関わりについては まだのべられていない。
シュルレアリスムへの親近感を、ベンヤミンは、パリからホフマンスクールに打ち明けている(1927 年6月5日) 「ときとともにわたしをひきつけているのは、フランス精神のアクチャルな形態に近づくこ とです。わたしの努力や関心は、ドイツではわたしと同世代の人々のあいだでまったく孤立している感 じですが、これに反してフランスでは個々の人物、作家としてはジロドゥ一、またとりわけアラゴンか いたり、シュルレアリスムの運動があったりして、わたしはかれらのなかにわたしにもかかわるものが 脈打っているのをみるのです。」実際、ベンヤミンの孤立感は、 1960年代になってやっとシュルレアリ スムの旧西ドイツでの受容が始まっていることからも、その正当性が裏付けられる。この書簡で言及さ れているアラゴンへの共感は、 rパリの農夫」の部分訳につながり、またパッサージュの開始にもつな がった。
ベンヤミンは敗戦の混乱のなかで人間主義的自由概念の崩壊後のドイツの知識人として味わった経験 を生かしながら、 1929年にはrシュルレアリスム」と題した評論を発表する。シュルレアリストたちは モロッコ植民地戦争を契機に政治的に左翼に接近する。 1927年にはアラゴン、ブルトン、エリュア‑ル などはフランス共産党に入党している。芸術と政治のあいだで揺れ動くシュルレアリストの動きを批評 しつつ、ベンヤミンはこのmのグループの状態を過渡期と形容している。かれはシュルレアリスムをひ とつの芸術運動、文学運動とはみなさない。かれらは文学という領域を内部から爆破してしまったとみ る。
シュルレアリスムの経験は「世俗的啓示」と規定される。これは阿片による陶酔あるいは宗教的陶酔 ではないが、陶酔の技術ではある。ベンヤミンはブルトンのrナジャjによって世俗的啓示を説明して いる。ベンヤミンはrナジャ」のなかにモラルの暴露主義という陶酔をみる。あるいは中世のミンネの ありようを陶酔の弁証法ととらえ、シュルレアリスムの構想との規似を指摘する。 rシュルレアリスム への傍注』でシュルレアリスムの功績とされたものへ迫る特徴は『ふるくなってゆく」 (veralten)こと の革命的エネルギーの発見である。ものの中心としてシュルレアリストの夢想の対象となるのはパリで ある。パリはしかし反抗(Revoke)によって初めてそのシュルレアリスティックな顔をみせる。 「キリ コやエルンストのいかなる絵もパリの内部の砦の鋭い見取り図とは比べられないOこの砦はその運命を 制御し、その運命のなかで、その大衆の運命のなかでみずからのものをマスタ‑するためには、まず征 服され、占領されなければならない。ナジャはこれらの大衆の代表者、彼女を革命的に鼓吹するものの 代表者なのである。」と指摘して、ベンヤミンはアユルレアリスムと政治の関係をとりあげている。
ベンヤミンは1934年に社会研究所の依頼でrフランスの著作家の現在の社会的立場』という題の評論 を執筆しているが、その際の基調になる考察の視点も、 rシュルレアリスム」で展開した議論とはぼ重 なっている。かれはこの論文の冒頭で、アポリネールの予見の「緊急性」を語っている。そしてこの暗 い予言の解釈はアラゴンのつぎのような叫びに求められている。 「革命的作家があらわれるのは、かれ らがブルジョワ出身の作家の場合、本質的かつ決定的に出自の階級のうらぎり者となるときである。」し かし「シュルレアリスム」執筆の段階でのシュルレアリストたちの政治化の問題はいま少し複雑であっ たことも事実である。シュルレアリストたちが求めるラディカルな精神的自由にたいするブルジョワの 敵対、反感が、モロッコ事件を契機として、シュルレアリストたちの政治的急進化をおしすすめたこと が指摘されるいっぽう、ベンヤミンはシュルレアリストともに、デュアメルなどの善意ある左翼インテ リの遺徳的態度を批判する。悪の崇拝をふくめて絶対的自由のラディカルな概念をもっているのは、シ ュルレアリスムであるが、その自由の実現には人間の社会的条件の変革とも係わっている。ベンヤミン はシュルレアリスムの課題を革命のために陶酔を獲得することと規定するOそのばあいアユルレァリス
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ムの無政府主義的反乱を革命へとどのようにつなげてゆくか。この課題とともにシュルレアリスムは共 産主義に近づいてゆく。革命的知識人の課題はそのとき、ペシミズムの組織化、つまり政治から追加的 メタファを追い払い、政治的行動の空間に100パーセントのイメージ空間を発見することである。ベン ヤミンがシュルレアリスムの経験をも含む唯物論として提示している立場は人類学的唯物論である。被 はそれをフォークト、ブファーリン、プレバーノフなどの形而上学的、あるいは教訓的唯物論と区別す る。人類学的唯物論においては、集団は肉体空間と捉えられる。技術によって組織された空間が、世俗 的啓示によってあたえられるイメージと浸透しあうことが求められる。ベンヤミンは、そうした課題を
もっともよく理解しているのがシュルレアリストだとみなすのである。
9. Bataille : La structurepsychologoque du fascisme, ∝uvres complとtes 1. Paris 1970、 S. 346.引用はバタイユ著 作集(二見書房)による。
10. ibid.
ll. ibid.S.362.
12. Bataille : oeuvres complとtes, S. 385.
13. ibid.
14. ibid.S.380.
15. Habermas,J. : DerphilosophischeDiskurs derModerne. S. 259
16.引用はr「コントル=アタック」から「アセファル」へ』高橋訳『ユリイカ』 2、 1986に拠る。
17. Bataile : αuvres complとtes, S. 398.
18. ibid、S.482.
19. LeCollとgedeSociologie. Collection ldees. 413. Paris,S. 32翻訳があるo 『聖社会学』工作社
20.ベンヤミンのファシズム観を検討する場合、ベンヤミンの目標がファシズムの社会心理的構造の解明 や、経済社会的分析よりは、ファシズムの文化概念、文化政策との対決にむけられていることに注目し なければならない。それゆえこの注は亡命後のベンヤミンの評論作品を中心として美と政治をめぐって の記述である。
後期ベンヤミンの仕事はパッサージュ論抜きにかたることはできない。この構想を核にしてたとえば r複製技術時代の芸術作品jやr物語作家』あるいはボ‑ドレール論も歴史哲学にかんするテーゼも成 立したのであるOかれは履歴書の一つでrフックス論jとF複製技術時代の芸術作品』を造形芸術の社 会学への貢献とみなしている。文芸領域でそれらと対になるのが『物語作家』であるとされている。バ タイユが民族学者になったメトロ一にすすめられて、モースの著作に注目し、その著作に影響され、重 要な社会学的論文を執筆したことをここでつけくわえておきたい。ベンヤミンのこれらの論文がパッサー ジュ論を機縁として、 20世紀の芸術の状況を確定する試みであったことは、しかしこれらの論文の提起
̀する問題の重要性をすこしも否定するものではない。これらの論文はファシズムの文化概念を根底から 批判するものでもあった。ちなみに、ベンヤミン思想の受容ということからいえば、複製技術時代にお ける芸術問題の指摘がもっともおおきなひろがりをしめしたといえよう。ベンヤミンは『複製技術時代 の芸術作品jでおよそつぎのような主張をしている。
従来芸術作品は「ここ」と「いま」という一回性に結びついたアウラをかもしだしている。複製芸術 にあっては、この真正な芸術作品、つまりオリジナルがもつアウラが失われる。複製品には、繰り返し、
あるいはどここででもという性格があるので、一回性と結びついたアウラは消滅するのである。芸術作 品のアウラ的存在様式は芸術作品の礼拝的様式と結びついている。もともと芸術作品の起源は魔法の儀 式とのつながりに、その後では宗教的儀式とのつながりに求められる。つまり芸術作品においてアウラ が生きるのは作品の持つ神的なるものの現前化においてである。アウラの喪失とはそれゆえ、芸術作品 の礼拝的価値の払拭でもある。この意味で複製技術は芸術作品とむすびついた儀式性を消滅させ、芸術 から礼拝的価値をうばいとったのである。そのことによって複製技術は、伝統にくみこまれて生きてい
る過去の芸術作品のあり方を根底的に変化させる働きをもつにいたった。そしていまや複製技術によっ て、商品の相をおびた展示価値が礼拝的価値にかわって、おおきな比重を占めるようになる。ベンヤミ ンは芸術の儀式性からの解放は、芸術作品の技術的可能性によって世界史上初めてもたらされたとして、
いまや過去とは決定的に変化した芸術の現状を次のような明解な表現で断言している。 「芸術作品の複 製がうまれるとますますひんばんに、あらかじめ複製をねらった芸術作品がつくられるようになる。た とえば写真原板からは、たくさんの焼き付けが可能である。真正な焼き付けはどれかと問うのは意味を もたない。そして芸術政策における東正さという基準がなくなってしまう瞬間に芸術の全社全的機能も また大変動をこうむった。芸術は儀式に依拠するかわりに別のプラクシス、すなわち政治に依拠するこ とになるo」この明噺な主張は産業革命以来台頭してきた大衆プロレタリアートの存在との関係を抜き にしては考えられない。特権階級に、あるいは少数の人々に所有され、秘かに鑑賞されてきた芸術作品 はいまや大量生産によってその享受層を大衆にまで拡大した。そして大衆が抱く「事物を空間的にも人 間てきにも近くへ引き寄せようとする切実な願望」と「既存のものの複製をうけいれ、その一回かぎり の性格を克服してゆく傾向」をもった大衆自身の平等感覚ガアウラの喪失という現代的知覚と切り離せ ない二つの基本的要件となっている。その意味でもベンヤミンは現代における芸術の機能をさらに詳細 に語るために、映画の社会的重要性に注目したのであった。映画においては、たとえば古典的詩の鑑賞 が精神の集中を要求するのと違って、映像の変化が連想の流れをたちきることによって、観客はショッ クにさらされる。ショックは現代人の統覚を支配している。過去の芸術作品が沈潜と持続を求めるのに 対し、映画にあっては大衆の鑑賞態度は散漫である。それゆえ例えばテエアメルは、映画は奴隷の暇つ ぶしだとよび、働き疲れ、日々の心労に身をすりへらしている、悲惨で、無教養な人々のための散漫な 気晴らしだと嘆いている。このような伝統的な芸術作品享受の観点から映画における大衆参加を批判す る意見にたいしてもベンヤミンは散漫な姿勢も習慣化によって知覚の課題をはたすことができると反論 している。そして人間の集団が散漫に接してきた芸術の典型として建築をあげ、建築にあっては人々は 実際的な姿勢で習慣をとおしてその知覚上の課題をはたしていると説明している。
この芸術社会学的考察はベンヤミンによればファシズムがうちだす技術観、芸術観を反撃する意図を もっていた。クロソウスキーの翻訳では削除された序言で、上郡構造においてのファシズムとの対決は 明確にのべられている。これも翻訳では部分的にしか現れないがダヌンチオのデカダンスが政治に進出
し、マリネッティとともに未来主義が、ヒトラーとともにシュバービングの伝統が政治に進出したとし て、ファシズムが政治生活の耽美主義に帰着することを明言する。ファシズムは映画をふくめたマスコ
ミ機構を征服し、礼拝的価値を偽造し、大衆征服をめざし、指導者崇拝のなかで大衆をふみにじった。
ベンヤミンが、ファシズムのマスコミ独占とその技術至上主義を批判するのは当然であろう。マリネッ ティはエチオピア植民地戦争に際して、技術を総動員する近代戦争は美しいと宣言した。政治の耽美主 義はここでは人間が人間自身の破滅を最高級の美的享楽としてあじわう自己疎外の極点にたっしている。
ベンヤミンはこの論文のさいごに「芸術に栄あれ、よしや世界のほろぶとも」とさけぶ政治の耽美主義 に対抗して「芸術の政治化」という主張をたてている。ところでこの芸術政策を措定する主語はなにか。
フランス語では「人頭の建設的力である。」しかし全集におさめられている三つの原稿ではどれも「コ ミュニズム」である。明解な主張と立場を、ベンヤミンがうちだしていることがわかる。自然支配をめ ざす技術ではなく自然と技術の関係の支配をかんがえるベンヤミンはつとにユンガ‑一派の技術観をひ はんしたことがあった。そこで彼は技術を幸福の鍵とする思想を戦争を内乱にかえてゆくマルクス主義 にみている。カンバス(CH. Kambas)がこの二つの表現の違いに36年前後の共産党への彼の顧慮を示唆 しているのは注目に値する(W.B.imExil,S. 167) 『複製技術時代の芸術作品』執筆時、フランスでは「人 民戦線」が形成され、 1936年の5月の選挙で人民戦線派は大勝利を収め6月にはレオン・ブルムが組閣す る。ベンヤミンが人民戦線時に抱いた希望が失望にかわるのに長い時間は要しなかった1937年には「ど の窓からみてもさきゆきは暗い。」とフリッツ・リープに書いている(1937.7.9.)カンバスはこの時期
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1937年の夏、おそくとも1938年春にはベンヤミンが、ヨーロッパの共産主義者がファシズムに対抗して 革命的戦略を取るだろうという幻想を捨てたと、みなしている。 (S・212) 『パリ、 1理招己の首都』フラ
ンス語草案の結論はかれの救いのないこころの状態を伝えている。
(1992年4月30日受理)