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i i マ グ リ ッ ト の パ イ プ 絵 と 神 の 躰 ー 1

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(1)

こ れ は パ ン で は な い

i i マ グ リ ッ ト の パ イ プ 絵 と 神 の 躰 ー 1

石 川 知 広

! 筆者が﹁﹃ポール・ロワイヤル論理学﹄第五版増補とフラ

ンス聖体論争﹂と題して︑近代精神の成立過程で重要な役

割を演じた或る一七世紀神学論争の論理⊥醤語学的側面の

検討作業を始めてから︑既に一〇年近く経ってしまった(‑)︒

この間︑怠惰も手伝って︑予定した全七章のうち三章迄を

二篇の論文として公表できたにすぎないが︑聖体論争と﹃論

理学﹄との文献的・問題史的関連の分析を続けるうち︑繁

裟な比較対象作業そのものを論文の形で発表することには

限界を感ぜざるを得なくなった︒一方で︑この重要な著作

に邦語訳のひとつすらない現状に鑑みて拙いながら私訳を

試みる中で︑可能な限り詳細な注解を施すことによりこれ

までの作業を継続する方が有効であると考えるに至った(2)︒

従って従来の論考はひとまず中断し︑そのかわりに本稿で は︑一見無関係と思われる二〇世紀絵画の一作品を取り上

げ︑﹃論理学﹄第五版増補が孕む問題からそれを逆照射する

中で︑後者が決して現代の知の情況と無縁ではないことを

示してみたい︒もちろん筆者は絵画の専門家でもなんでも

ないから︑あるいは思わぬ誤解や早とちりがあるかもしれ

ない︒しかしそうした危険は十分承知の上で敢えて小論を

公にするのは︑本稿の試みが︑ヨーロッパの思考を深層で

規定して来たかくれた要素の所在のひとつをわずかでも浮

かび上がらせ得ると信ずるからにほかならない︒

一︒これはパイプではない

︿

(2)

2これ はパ ンで は な い

ある(3)︒無視しうる作画上の微細な変化を別にすれば︑こ

れらはみな︑一見してパイプとしか思えない物体の画像の

下部に︑あたかも見るものを嘲弄するかのように﹁これは

パイプではないし(08ヨ"oω8霧騒︒℃営)という文字︑ある

いは文字板(の画像)が描きこまれている点で共通してい

る︒初めて目にする時︑大抵の人は一瞬虚を突かれ奇妙な

居心地の悪さと眩量に似た感情を味わうにちがいないが︑そ

の理由は︑︿絵画﹀という制度の基盤をなす幾つかの前提を

挨拶もなく取り払われてしまうことにあると言うことがで

きる︒絵画をめぐる文化⁝経済過程の只中で︑私達はたち

の悪い冗談︑スキャンダル︑さらには一種の犯罪に直面し

たとさえ感ずるのである︒よく練り上げられたパラドクス

がすべてそうであるように︑ここでも日常的理性ははしな

くも踵き︑余儀なくおのれの足下を覗き込んだまま︑冗談

のようにそこに口をあける明るい空虚を目の当たりにして

戦煙する︒

しかし︑実を言えばこの感じ方はいささか杓子定規でそ

の分間が抜けている︒たとえば︑マルセル・マリエンの伝

える話だが︑シリ⁝ズの最初のパイプ絵を描き上げるとす

ぐマグリットは︑いつものように身近の者の反応をたしか

めようと知り合いの二人の幼い少女にそれを見せた︒する

と︑一人が常識通り﹁これ嘘よ﹂とにべもなく断じたのに 対し︑もう一人の女の子は︑即座に︑﹁そう︑これパイプじ

ゃないわ︒だってどうやっても喫えないものしと画家に賛

意を表わしたという(︑)︒はじめの少女が描写された対象と

絵との無媒介の結合という文化的常識に忠実だったとすれ

ば︑あとの少女は︑正当にも︑記号‑表象の透明性という

文化の神話の影に隠されたもうひとつの事実に目を向け︑パ

イプの絵はパイプそのものではないと認めることによって︑

画家の︿悪戯﹀を軽くいなしてみせたのである︒

とはいえ︑たとえば︿画餅﹀というごくありふれた表現

が示すように︑表象する物が表象される現物ではないとい

う事実程自明なことはない︒それどころか一般に︑記号‑

表象は意味されるもの︑指向対象とは別のものであること

によってはじめて記号i表象として成立するとさえ言うべ

きである︒戦地に赴任する兵士が恋人の写真を胸に忍ばせ

て機上の人となることができるのは︑まさに印画紙の上に

固定された銀化合物の薄い層が恋人の身体とは区別され︑分

離されうるからにほからならない︒あるいはまた︑迫真性

の極限の追求の名のもとに︑誰かがキャンヴァスの上に本

物のパイプを接着することを思いついたとしても︑物笑い

の種になるのが落ちということになるだろう︒そこには記

号‑表象の成立条件そのものに対する救いがたい無知しか

見られないからだ︒そうだとすれば︑マグリットが四〇年

(3)

これ は パ ンで は な い  

3 近くもの期問(δ)︑くり返しパイプ絵を描き︑ことさらにパ

ラドクスをしつらえることを好んだのは︑単にこのあまり

に自明な事実に改めて注意を促すためにすぎなかったと考

えることはできない︒最初のパイプ絵に見事な応接を示し

た件の少女の慧眼も︑たとえ普段は見落とされがちとはい

え︿もうひとつの常識﹀にすぎない限りで決して十分透徹

したものとはいえない︒それではマグリットの一連の︿パ

イプ絵﹀の真の狙いは何なのだろうか︒あるいは︑筆者の

如き門外漢が画家の意図を村度するのは僧越だとすれば︑別

の言い方をしてもよい︒このいささか風変わりな絵は︑か

つてそうだったように今なお蹟きの石であり続け︑見る者

を数多くの問へとさし向けることをやめないが︑その間と

はどんなものであろうか︒実際︑絵そのものが謎めいてい

る上に︑この絵についてマグリットは︑﹁タイトルはデッサ

ンに異議を唱えているのではなく︑別の仕方で肯定

(ゆ塗欝駿奪・簿おヨo巳しているのですし(6)という一種神託めい

た響きをもつ言葉を残している︒﹁別の仕方で﹂とはどのよ

うな仕方であり︑目的補語なしに語られた﹁肯定するしと

は何を肯定するというのだろうか︒もちろんここでもマグ

リットが何を言いたかったのか︑それをマグリット自身に

則して詮索してみても始まらない︒筆者にはとてもその能

力も意志もないし︑そのような問題設定のもとでは専門外 の者が従来の研究に付け加えることのできるものは何ひと

つないだろうからだ︒従って肝心なのはむしろ︑現在の時

点でパイプ絵が相異なるどのような問題圏の間に橋渡しす

ることを可能にするか︑またそれらの連関からどのような

新しい問題の所在が浮かびあがってくるかを探ることの方

だというべきであろう︒

二︒シンボルとオブジェのパラドクス︑

ゲーデル的自己崩壊

ま た は

ダグラス・ホフスタッタ⁝は︑近年話題になった本の中

で︑マグリットのパイプ絵の︿メッセージ﹀の自己言及性(自己解体性)について興味深い考察を行っている(?)︒

意味する物と意味される物の二分法︑すなわちシンボル

とオブジェの二分法に仕掛けられたマグリットの絵の罠に

陥らないためには︑パイプの画像を﹁目の前数インチのと

ころにある画面上の色のついたしみであると見ること﹂が

必要だ︒そうすれば︑﹁そこに書かれたメッセ⁝ジ︑﹃これ

はパイプではない﹄の意味を十分に汲み取ることができる

ーしかしその瞬間︑書かれた文字もしみと化し︑それによ

って意味を失う﹂︒いいかえれば︑﹁その瞬間に︑この絵の

言葉によるメッセージがまさしくゲ⁝デル的方法で自己崩

(4)

4これ はパ ンで は な い

塊するのだ︒﹂(8)(引用者強調)

件の少女と同様ホフスタッターもまた︑シンボルがオブ

ジェそのものではないという事実をパイプ絵のメッセ⁝ジ

とすることによってパラドクスが簡単に回避できることを

示している︒しかしさすがに更に歩を進めて︑標題もしく

はキャプシ滋ンもまたパイプと同じレベルで描かれた画像

であることに注意を促している︒︿文字﹀は画面の︿外﹀︑い

いかえればメタ・レベルにあってはじめて絵に関する有意

味な言表たりうる︒もしパイプの画像がパイプではないと

すれば︑文字の画像もまたメッセ⁝ジを担った文字そのも

のではありえない︒パイプ絵シリーズの中には︑文字が金

属製のプレートに刻まれたものとして表現された作品も数

点見られるが︑この場合にはなおさら文字という記号の即物

性が際立つと言えるだろう(9)︒﹁これはパイプではない﹂と

いうテクストの画像は︑まさに標題(キャプシ鷺ン)の画

像であることによって標題(キャプション)そのものでは

あり得ず︑決して﹁デッサンに異議を唱えるしことはでき

ないのだ︒完結した一幅の絵は︑決して自分の︿外﹀へ出

て自己に関して何かを言うことはできないし︑もしそうし

ようとすれば︑あるいは私たちがそうすることを強いたと

すれば︑自分の根拠を掘り崩して自己崩壊するほかはない︒

私達は︑マグリットが周当に仕組んだパラドクスの罠に取 り込まれて︑にっちもさっちもゆかない羽目になる︒通常

の︿絵画鑑賞﹀上の約束事にならってパイプの絵をパイプ

とみなすこと︑そこに描かれたものがパイプであると認め

ることは︑画面に描きこまれた︿タイトルーーテクスト﹀に

よって禁じられる一方︑この︿テクスト﹀がパイプの描像

と同一レベルの造型的表象にほかならないことに気付くや

いなや︑それは言語としての存在を奪われて単なる画面上

の色のしみと化し︑その結果︑それまでの呪縛は嘘のよう

に消えて絵の中央に大きく描かれた形を再びパイプの像と

みなすことに何の支障もなくなってしまう︒しかし︑その

ときまた︑パイプの下の文が存在を主張しはじめ再び強い

謎変ηを発しはじめるだろう︒こうして私たちは︿パイプ﹀か

ら︿タイトル﹀へ︑︿タイトル﹀から︿パイプ﹀へと際限も

なく送り返され︑ぐるぐるまわる輪の中で果てることのな

い眩量を味わうことになる︒しかし︑冷静になってみれば︑

私たちのきりきり舞いにもかかわらず︑パイプ絵はそのま

ま何ごともなかったかのように︿絵﹀として残り続ける︒額

縁に納まって部屋に飾られ︑あるいは美術館に解説ととも

に展示されるにせよ︑ロンドンのオークシ灘ンに出品され

て金まみれになるにせよ︑旧来の絵とちがった扱いを受け

るいわれは全くないからだ︒画家は謎をふりまき絵を遺し

たまま︑途方に暮れた︿鑑賞者﹀をあとに︑ひとり栄光に

(5)

これ はパ ンで は な い  

5 包まれて手の届かぬ所へ行ってしまう︒

ホフスタッターは︑マグリットのパイプ絵について述べ

た同じ場所で現代音楽や現代美術に関し︑シンボルをその

﹁使用﹂(メッセ:ジの伝達︑意味されるものへの従属)か

(01)︒

3

使

(u)︑﹁内

包する何ものも表現しない⁝iただそのもので在るという

能力﹂ハ鴛)を回復させることにあるとするなら︑マグリットの

手法はある意味でずっと穏やかなものだということができ

る︒遺された作品は殆どすべて︑少なくとも物理的性質と

してはまさに伝統的なレアリスム絵画以外の何ものでもな

いからだハ欝)(その限りでマグリットの絵をルネッサンスや古

典主義の巨匠と比較して︑その相対的な︿稚拙さ﹀を云々

してもはじまらない)︒いつも伝統的な画材しか用いず︑頑 なに具象性を貫いたマグリットの︿保守性﹀は︑様々な実

験を行った同時代の他の画家達に比べてさえ際立っている

といえよう︒

だがそれはあくまで一つの側面︑しかも最も目につきや

すいゆえに逆に別の面を掩い隠しがちな側面にすぎない︒

別の意味では︑絵画に関する問をマグリット程深く掘り下

げた画家はいないと言ってよい︒マグリットがシンボルと

オブジェの区別を廃棄するためにオブジェそのものを作品

の中に持ちこんだり︑物理的実在としての絵のあり方を際

立たせる工夫に血眼にならなかったことは事実だが︑それ

は逆に︑ホフスタッターも認めるようにシンボルーオブジ

ェの厄介な神秘を他の誰よりも深く認識していたからにほ

かなるまい(4ー)︒絵は定義上記号ー表象(シンボル)である

とともに︑紙やキャンヴァス︑絵具その他といった物理的

事物(オブジェ)である︒人間の臼常世界とは別の芸術世

界を創出することが要請される限り︑芸術活動は︑同時に

表象でもある対象と︑対象でしかない対象を区別し︑前者

の二重性に全面的に依拠しないわけにはいかない︒だとす

れば︑シンボルーオブジェの謎は一時的なパフォーマンス

によって解体されるどころか︑むしろパフォーマンスその

ものがこの謎に基づいて可能になっている限りで︑かえっ

てそれによって強化さえされることになる︒︿オブジェ﹀を

(6)

6これ はノぐンで は な い

ギャラリ⁝に展示したり︑それに︿作者﹀の名を貼り付け

たりしても︑それは不可避的に﹁額縁効果﹂によって﹁隠

された意味のオーラ﹂を獲得し︑鑑賞者は︑意味を捜すな

という警告にもかかわらず︑あるいはまさにそのゆえに︑そ

こに何らかの︿意味﹀⁝たとえそれが︿美しき無意味性﹀

という意味であれーを見てとってしまうほかはない(51﹀︒

意味という苛立たしい宿癒の神秘をどんなに深く堀り崩し

たつもりでも︑それは必ず私たちの振りおろす鶴嚇のすぐ

下から︑それどころか私たちの踏みしめる足下の地面その

ものから起き上がって来て︑あっという間に天を︑復うまで

になってしまう︒本当に意味の息の根を止めるためには︑表

象という大地のすべてを堀り崩さねばならないが︑しかし

その時︑私たちは臼分臼身の足場そのものを破壊しないわ

けにはいかないのだ(5三﹀︒

こうしたゲ⁝デル的なアポリアの深さに︑マグリットほ

ど自覚的だった者はいないのではないだろうか︒回避不能

なレ可立たしいアポリアに対して︑何らかの方法でそれが回

避可能であるという幻想をふりまき︑派手で空疎な大騒ぎ

をする者は少なくないが︑マグリットは既にかなり早い段

階で︑絵画の意味ー表象性をめぐるパラドクスが︑ゲ;デ

ルの不完全性に類した制限性︑あるいは臨界点をもつこと

に気付いていたように思える︒マグリットが一亘して伝統 的な絵画手法の外に出ようとしなかったことには︑そうい

う理由も考えられるかもしれない︒絵は︑そして一般に何

ものかを表象するものは︑まさに絵であること︑表象する

ものであること自体によって︑そのこ璽性の折り目のうち

に深い謎を秘めているようにみえる︒この謎を浮び上がら

せ入々の鼻面につきつけるためには︑大袈裟な挙措は全く

不要であり︑ただ絵の表象性をほんの少しだけずらしてや

ればいい︒そしてこの︿ずらし﹀の効果は︑それがひっそ

りとしたものであり見なれた作法に異和を持ちこまないよ

うにみえればみえる程︑それだけ大きいのだ︒

絵画の謎︑絵画の内包する臨界点とは︑結局人間存在そ

のものの謎と臨界点のひとつの表現形態にほかなるまい︒

物質とエネルギーと情報の総体的過程にほかならない人閥

の身体が︑自分自身の上に折り重なってつくられる無数の

嚢のひそやかで揮昏い空隙にだけ入問の︿自由﹀が宿ると

すれば︑そしてまたこの(幻想の)自由だけが人間存在の︿入間性﹀の(幻想の)根拠だとすれば︑ゲーデルーマグリ

ット的な制限性の原理は︑人間にとって最も親しいととも

に最もよそよそしい人闘の本質をくり返し語り続けるよう

に思われる︒

**

(7)

こ 暑τは ノぐン で は な い  

ア ところで︑マグリットのパイプ絵によって開かれるこう

したシンボルーオブジェの問題圏は︑記号の地平づたいに

私たちを思いもかけない対蹴点へと運んでゆくようにみえ

る︒時は西欧近代の払暁︑場所はフランス・カトリシスム

の周縁である︒

人がある対象を︑それ自身において及びその固有の

存在において注目し︑それが表象するかもしれないも

のに精神の目を振り向けない時︑それに関して持たれ

る観念は物の観念である︒⁝⁝しかし︑何らかの対象

を別の対象を表象するものとのみ看倣す時︑それに関

して持たれる観念は記号の観念であり︑はじめの対象

は記号と呼ばれる︒入が地図や絵を見る仕方は普通こ

のようなものである︒こうして記号は︑二つの観念︑す

なわち表象する物の観念と表象される物の観念を含み︑

その本性は︑後者を前者によって喚起することにある︒

(﹃ポール・ロワイヤル論理学鰍17))

ポール・ロワイヤルの隠士達によれば︑絵は二つの観念

を含む︒第一に︑画布と︑ある空間的配置をとる色素が構

成する物理的総体の観念︒第二に︑そこに描かれる造形的 表象の観念︒たとえばパイプの絵は︑絵を構成する物理的

基体の観念によってパイプの観念を喚起するために描かれ

るというわけだ︒そして通常は︑前者の観念は後者の観念

に対して全く透明であり︑ごくわずかでも障碍を設けるよ

(8!)・

ば全く同様であると言ってよい︒紙の上の色素の特定の布

置は︑だれでも一目でパイプであると思うような具合に︑つ

まりごく普通の絵の作法通り類似を基盤にしてつくりあげ

られているからだ︒しかし既に見たように︑パイプの形象

の足下に描き込まれたキャプションもしくはタイトルは︑こ

の条件反射に冷水を浴びせかけずにはいない︒私たちはこ

うして︑どう見てもパイプとしか見えないものが本当はそ

うではないと考えるように強いられ︑居心地の悪い思いを

余儀なくされたのだった︒すると︑マグリットが異議を申

し立てようとする当の伝統の淵源のひとつに︑まさに今引

用した記号の規定があることになるのだろうか︒そうでは

ない︒ポ⁝ル・ロワイヤルの隠士達の眼目は︑記号の透明

性のイデオロギーの確立などでは全くなく︑それどころか

逆に︑およそ考えられる限り最も︿不透明﹀というべき或

(19)る記号のアポロジーだからだ︒

﹃論理学﹄の分析によれば︑記号には様々な分類が可能

だが︑そのひとつに結合と分離に基づいた分類が考えられ

(8)

8これ はパ ンで は な い

る︒すなわち︑記号は自分の表象する物に結びついている

か︑分離されているかのどちらかである︒たとえば︑病気

の︿徴候﹀は病気に結びついた記号であるのに対し︑言語

や絵は意味される物とは切り離された記号である︒ところ

でこうした結合記号のうちにはきわめて特殊なものがあり︑

﹁自分自身の記号し︑いいかえれば﹁喩象する物﹂であると

同時に﹁喩象される物﹂であるような記号がありうる︒同

様にまた︑﹁別の物を隠すと同時に露わに示す﹂ような記号︑

すなわち︑自分の表象する物を自分のうちに含み︑﹁物とし

てはそれを蔽い隠すが︑記号としてはそれを露わに示す﹂よ

うな記号も考えることができる(2◎)︒もちろんすべての記号

は︑ある意味で自分の表象するものを物としては隠し︑記

号としては表象するといえるが︑しかし今問題となってい

るのはそれとは別の事態であることに注意して欲しい︒﹃論

理学﹄の挙げる例が︑鳩"天使のまとう形象︑熱い灰(た

だの灰ではなく︑懊火というに近い)であるのを見てもわ

かる通り︑ここでは表象される物を現に自分のうちに含む

ような記号が想定されているのだ(鍵)(たとえば乳房を隠しつ

つ露わにするブラジャー︑どこかの原住民のペニス隠し︑金

貨(詑)など)・

こうしてシュヴル⁝ズの谷の神学者達は記号から徐々に

その透明姓を剥脱してゆき︑遂に最も不透明で謎めいた記 号︑隠れた記号ともいうべき記号へと到ろうとする︒聖体︑

すなわち祭壇上のパンであるとともに神の躰であるともさ

れる聖餅(勘9§)である(23)︒

聖体の秘義について︑﹃論理学﹄の二人の著者の盟友だっ

たパスカルはこう書いている︒

⁝⁝そして最後に︑神が使徒達になさった約束︑す

なわち最後の来臨まで人々とともにあるという約束を

果たされようと望まれたとき︑神は︑聖体の形色とい

う何にもまして不可解で晦冥な神秘のうちに隠れてそ

うされることを選ばれました(24)︒(引用者強調)

神の躰を実際に含みつつ表象する記号としてのパンは︑パ

スカルが見事に示すように﹁何にもまして不可解で晦冥な

神秘﹂であり︑﹁異端者達がパンの完全な外観を見て︑そこ

に別の実体を探そうなどとは考えもしない﹂ような︑いわ

ば絶対的に不透明な記号であるといえる︒﹁パンの完全な外

観しを保ったこのパンは︑人間の知覚の範囲ではパン以外

の何ものでもあり得ないからだ︒それが何かほかの物の記

号であることを示す標識は︑少なくともこの対象の申には

全く存在しない︒すると︑それ程までに隠されていてそれ

でもなおこのパンは記号たりうるのか︑という疑念を抱か

(9)

こ 孝電は ノ0ン で は な い  

θ ないことはできないようにみえる︒およそ記号である限り︑

たとえ何の記号であるかはわからなくても︑少なくともそ

れが記号であることだけは即座に理解されなければならな

いからだ︒しかし逆に︑カトリシスムの立場からすれば︑聖

体がこのように記号として不可視であるからこそ︑その信

仰が真のキリスト教徒の選別原理として働くことができる

ということにもなるだろう︒

この信仰によれば︑無力な感富と理性の抗議にもかかわ

らず︑聖体は真の意味で特権的な記号︑すなわち自分が表

象する神の躰に結合し︑自分の表象する物たる神の躰の実

体を自分の実体とするという意味で︑﹁表象するものである

と同時に表象されるもの﹂であり︑自分が表象する神の躰

をパンの外観のもとに実在的に含む限りで︑それを﹁隠す

と同時に露わに示すし記号であり続けるだろう︒ホフスタ

ッタ⁝の用語を借りれば︑聖体は︑すべてのシンボル性を

剥奪され(あるいははじめからシンボル性を持たず)︑オブ

ジェでしかないものとして現出しながら︑同時に不条理な

不可視のシンボル性によって神の躰という異様なメッセ⁝

ジを伝逢するシンボルーオブジェであることになる︒そし

てこの目に見えないシンボル性は︑あたかもその不可視性

を補償するかのように︑あるいはむしろこの不可視性を逆

手にとって特権と化すことにより︑慮分がそのシンボルで ある当の物を現実に現前させ︑自らその物自体と化すほど

の︿強度﹀︑いわば絶対の強度を秘めているとみなされるの

である︒

こうしてみてくると︑マグリットのパイプ絵とカトリシ

スムの聖体とは一見正反対の記号であるように見える︒前

者は全く透明なパイプの表象としか思えないにもかかわら

ず︑断固として自分の表象性を否認している︒これに対し︑

後者は記号であることが殆ど不可能と思われるほど絶対的

に透過不能な︑単なる事物としかみえないにもかかわらず︑

自分が表象する当の物へと現実に変化する程にも強い表象

性を主張してやまないからだ︒マグリットは︑絵画が自己

崩壊を遂げる臨界点までその表象性の︿肯定﹀を押しすす

めるエイローネイアによって︑︿他﹀を孕むとされるものが

実は密かに︿同﹀へと還流しそのまま自己閉却することを

示してみせたのだし︑聖体の教義は︑自らの即物性と自存

性のうちに閉じこもったまままだ記号たり得ない純粋な事

物に無理矢理︿無隈の表象性﹀を付与することによって︑

︿同﹀の中に︿他﹀を穿ったのだった︒しかし実を諾えば︑

この対立はあくまでうわべのものにすぎない︒たしかに結

巣的に素朴な表象性を否認されたマグリットのバイプは︑即

自的な事物(色素の散逸)へと還帰するほかないようにみ

える︒しかしこの事物が︑まさに自分が閉じこめられた自

(10)

これ はパ ンで は な い !0

同性の只中で本物のパイプを画面に現前させ︑それを自分

のうちに実在として含むようになる不可能な可能性︑これ

をこそ聖体の教義は証言しようとしているのではないだろ

うか︒もちろん︑それが具体的にどういう事態であるのか

説明することは不可能である︒筆者は(そしておそらくマ

グリットも)魔法や呪術の類を信じることができた︿未開﹀

の心性を羨望こそすれ︑決して自ら信じているわけではな

い︒しかし人間の文化の忘れられた基層にある古いファン

タスマは︑私たちの忘却が深ければ深い程それだけ強く私

たちの現在の文明を規定していることは疑えない︒それは︑

人間の本質と最も近縁の或る必然性(それが何かは今の所

わからない)を証し立てる限りで︑繰り返し蘇ってきては

私たちを駆り立てる集合的オプセッシ3ンのひとつなので

ある︒

聖体の教義が︑今述べたようにマグリットのパイプ絵に

或る不可能な可能性を与えるとすれば︑その絵に書きこま

れた例の言葉もまた新たな意味を獲得することになるだろ

う︒すなわち︑その言葉は︑聖体を制立するとともに教会

の中でミサのたびに繰り返され︑臼同性の中に囚われたパ

ンにその都度一回限り神の躰を︿表象ー産出﹀する可能性

を注ぎこむとされる召蓄士,の蕎葉(舞呪文)と同じ役割を

果たすのではないだろうか︒実際︑のちに新ためて論ずる ように(篇)︑二つの言葉は文法形式からしても全く同一の構

造を持つのである︒

ゲーデル的崩壊どころか︑言葉(狩呪文)によって素朴

な表象性を否認された︿パイプ﹀は︑表象性に対するこの

障碍によって祭壇上のパンと同じ不透過性を与えられ︑こ

の不透過性を新たな不可視の表象性へと転じつつ︑かつて

自分がその像にすぎなかった事物自体を絵のもとに呼び出

す可能性︑つまりピュグマリオ⁝ンの夢を実現しようとす

るだろう︒実物と見まがうばかりの類似や迫真︑表象の全

き透明性は︑自ら表象する対象に完全に仕えれば仕えるほ

ど︑いいかえればあたかも無媒介であるかのようにそれを

顕示すればする程︑逆にこの事物を遠ざけるほかはない

(騙し絵の罠)︒事物は︑透明な表象のあまりに安易な阿談

追躍を嫌い︑かえって自分と記号の間にのりこえ不能の懸

隔を設けてしまうようにみえるからだ︒パイプ絵に書(描)

きこまれた言葉は︑こうした記号の夜郎自大振りに冷水を

浴びせ︑安易な表象の回路を断ち︑素朴な表象可能性を根

こそぎにする装置であると同時に祭儀でもある︒祭儀であ

るというのは︑表象の死の宣告は︑同時に別の次元(真理

の次元?)でのその新たな生誕の祈願ー予祝ともなりうる

からだ︒言葉によって神の躰の不可視の記号となった祭壇

上のパンが︑まさに表象の不可能のゆえに神の躰を現前さ

(11)

こ れ,は ノぐン で は な い 1!

せ得たように︑絵もまた︑あからさまな表象性の極致で︑ま

さにそのあからさまな表象性の自己崩壊を招く言葉の力に

よって︑不可能な表象性にほかならない神を恐れぬ︿創造﹀

の魔力を手に入れたいというすべての画工の見果てぬ夢を

実現しうるのかもしれない︒その時︑パイプ絵はゲ⁝デル

の臨界点を軽々と突破し︑或る︿超越﹀の世界への橋渡し︑

死んだ筈の神との思いもかけぬ再会を可能にするものと見

えるだろう︒そして︑神は人間を自分の︿似姿﹀として創

ったという例の古びた神話が︑すでに神話ではなく現実の

存在論として再び語られることになるだろう(%﹀︒

しかしまた︑そこには逆向きの運動が生ずることも不可

避なのだ︒祭壇上のパンが神の躰を表象⁝産出するという

その特権的な表象性は︑雷うまでもなく福音書の醤葉のカ

トリック教会による解釈の中でしか妥当しない︒だから︑春信仰﹀によってしか見えないこの表象性は︑その可能性の

理論的根拠である見えない神の全能の意志と同様に︑少な

くとも教会制度とその伝承の外部では絶対的に︿無根拠﹀だ

と言わなければならない︒だが奇妙なことに︑あるいはむ

しろ当然なことに︑教会の内部の思考は決して自分の︿外

部﹀を承認せず︑それゆえ自分の主張のことごとくが

︿普遍的﹀根拠を欠いていることに耐えられない︒だとすれ

ば︑ポール・ロワイヤルの論理学者達もまた︑いやむしろ 最も有力なデカルト賛同者だった彼らこそ︑聖体のパンの

うちに透過不能の表象性︑無根拠性を認めることをしぶっ

たとしても︑驚くにはあたらないだろう︒はじめに引用し

た﹃論理学﹄第一部第四章の記号の定義も︑実をいえば︑本

来最も不透明な記号である聖体の表象性を可能な限り︿透

明化﹀することによって︑記号としての聖体を弁護する試

みの一部なのである︒﹃論理学﹄の同じ場所の議論を簡単に

要約してみよう(27♂

パンは︑体を養う糧であること︑多数の小麦がひとつに

なってつくられることの二点によって︑﹁魂の糧であるイエ

ス・キリストの体しと︑﹁信者が結合してひとつになっ﹂た淵榊ス泌ハ..粥払(不可視の教会)(器﹀に対して類似性を持ち︑まさ

にこの類似のゆえに神の躰の記号として選ばれた︒従って︑

カトリック教会内部の信者にとっては︑ミサの典礼のたび

ごとに﹁感覚のうちにパンの映像が喚起されさえすれば﹂︑

そのパンはパンの実体を保っているかいないかにかかわら

ず神の躰への透明な記号であり続ける︒肝心なことは︑﹁喩

象する(29)物の観念と喩象される物の観念の二重の観念﹂が

そこに喚起されること︑いいかえれば︑パンの観念によっ

て神の躰の観念が喚び起こされることだけだと考えられて

いるからだ︒こうしてポ⁝ル・ロワイヤルの論理学者にと

っては︑バンはその類似により︑絵が描かれた対象を遅滞

(12)

これ は パ ンで はな い IZ

なく喚起するのと全く同様に︑殆ど自動的に神の躰を喚起

するものとなる︒しかし︑それはあくまで︑パンが神の躰

に対する透明性を回復するのは物在のレベルではなく︑観

念のレベルでのことにすぎないという代償を支払ってのこ

とであった(30)︒

すると︑聖体のパンが有するとされた目に見えない表象

性︑神の躰を実在として産出するに至るまでの表象の︿無

限の強度﹀はどこへ行ってしまったのだろうか︒マグリッ

トのパイプ絵のパラドクスがその︿批判﹀的価値をとり戻

し︑カトリシスムの教義を逆に腐食しはじめるのはまさに

ここである︒パイプ絵が.シンボルのシンボル性のうちに

潜む本来的な無力の極限に於ける告発であることはすでに

述べた︒シンボルでしかないシンボル︑表象でしかない表

象は︑そのあからさまで油断のならない透明性のうちに︑自

分と自分の表象する当の物の問の絶対の懸隔を蔽い隠すこ

としかしない︒だから︑アルノ⁝とニコルは聖体のパンに

まっとうなシンボル性を回復しようとしたが︑皮肉なこと

にまさにそのゆえに︑その真のシンボル性︑絶対に不透明

かつ不可解な表象能力をどこかに置き忘れて来てしまった

と言うべきである︒たしかに祭壇上のパンは︑信者達の精

神を遅滞なく神の躰の︿観念﹀へと導くかもしれない︒し

かしこの表象性は︑信者の眼前に現実に神の躰を臨在させ るあの恐るべき表象性ではなく︑まさに後者の︿棚上げ﹀に

よってのみ可能になるような表象性にほかなるまい︒ここ

に︑聖体のパンと神の躰との闇には無限の乖離︑底なしの

深淵がロをあけることは避けられない︒カトリシスムの合

理論が何を言おうと︿信仰﹀は否応なくこの深淵の上に宙

吊りにされ︑︿絶対の無根拠﹀そのもののうちに︑つまり真

の︿無神論﹀のうちにかろうじて神の顔を透し見ることに

なる(13)︒マグリットのパイプ絵は︑この乖離が今なお回収

不能であることを︑そのパラドクスに含まれた批判性によ

ってこの上なく雄弁に語り続けているように思える︒

三.﹃これはパイプではない﹄

フーコ;が﹃これはパイプではない﹄という標題のもと

に︑マグリットのパイプ絵をめぐる考察を一冊の本にまと

める直接のきっかけとなったのが︑マグリットのフ⁝コ⁝

当ての私信だったことは良く知られている(32)︒出版間もな

い﹃言葉と物﹄(一九六六年)を読んだマグリットは︑余程

なにか思う所があったのか︑すぐに︑著者当てに読後感め

いた短い手紙を送るとともに︑自作の複製を何枚か同封し

たというが︑中の一枚にまさに﹁これはパイプではないしが

あり︑あまつさえその裏面には﹁タイトルはデッサンに異

(13)

これ は パ ンで はな い 13

議を唱えているのではなく︑別の仕方で肯定しているので

す﹂という例の謎めいた言葉が記されていた(33)︒マグリッ

トの手紙の本文には︑以下に見るように類似と相似︑見え

るものと見えないものに関する画家の立場からの深い洞察

が記されていたが︑フーコ⁝の﹃これはパイプではない﹄が︑

こうした画家の反応に正面から答えようとするものだった

ことはまちがいない︒周知の通り︑﹃言葉と物﹄で﹁世界と

いう散文しの統辞法の核となる類似性の概念の分析を行う

に際して︑フーコーは類似︑相似︑類比等の語を殆ど同義

語として用いている(騒)︒しかし︑マグリットによれば︑類

似と相似は厳密に区別されなければならないのだ︒

(りり鯵O簿一餌O)(鱒周ぎ)

(¢Q)

(色)

(性) いものの関係も同様です︒﹁物しはお互いの間に類似を

持ちません︒物は相似を持つか持たないかのどちらか

です︒

類似することは︑ただ思考にのみ属することがらで

す︒思考は︑自分が見︑聞き︑認識するものとなるこ

とによって類似し︑世界が自分にさし出す当のものと

なるのです(35)︒(引用者強調)

マグリットの類似と相似の区別は.事物の世界と人間が

創り出す表現の世界の峻別に基づいていると考えることが

できよう︒事物の世界では︑類似性は︿相似﹀︑すなわち事

物の原型なき反復として現われる︒それに対し表現世界に

おける類似性は︑﹁世界が思考にさし出すもの﹂を原型とす

る︿類似﹀︑すなわち原型に対する表象⁝代理として成立す

る︒フ⁝コ⁝宛の同じ私信によれば︑﹁思考は快や苦と同様

に目に見えないしとはいえ︑それが﹁専ら目に見える形象

だけから構成されるという条件が満たされるなら︑思考は

時に目に見えるものとなる﹂ことができるという︒すると︑

目に見えるものとなった思考は︑はじめから目に見えるも

のたる事物と区別がなくなるのだろうか︒そうではない︒

目には見えても︑﹁本性上触ることのできない描像は何も隠

すことがないのに対し︑触れることのできる珂視物は︑か

(14)

躍劣はノぐンで は な い 14

ならずもうひとつの可視物を隠している﹂という相違があ

るからだ(範・

次いで私たちは︑︿見えるものの形而上学﹀とでも呼ぶべ

きマグリットの断固とした哲学の硬い核につきあたる︒

すこし前から︑澗濁した文学(欝巴圃議蒙黛︒8瓢2ω①)

のせいで﹁目に見えないものしに奇妙な優位が与えら

れるようになりましたが︑見えるものは隠されること

ができる一方で︑見えないものは何も隠すことはない

ということに注意を払うなら︑この文学の意義は失わ

れてしまいます︒見えないものは︑認識されるか︑さ

もなければ全く知られぬままであるかのどちらかであ

り︑それ以外ではありません(37>︒(引用者強調)

﹁澗濁した文学﹂という激しい言葉が暗にメルローーポ

ンティの思索を指すことはほぼまちがいない(﹃見えるもの

と見えないもの﹄の刊行はこのわずか二年前の一九六四年

のことだった)(38)︒シュルレアリスムの画家としては異例な

程伝統的なレアリスムの手法を守り通し︑類似ー表象のエ

イロ⁝ネイアを突きつめたマグリットの面目躍如といった

ところだが︑もちろんことはそんなに単純ではない︒定義

上目に見えない﹁生の世界﹂と︑前定立的麹我との同素材 性(﹁肉し)を考え抜いたメルロ疑ポンティの存在論を﹁澗

濁した文学しという一語で切って捨てることはいかにも乱

暴だからだ(39)・しかしメルロ目ポンティにとってアルファ

でありオメガであった︿身体﹀もしくは︿肉﹀という問題

圏に対してマグリットが明確な距離を保とうとしていたこ

とは︑この言葉の強い調子によって十分うかがい知ること

ができよう︒マグリットにとって重要なのは︑︿身体﹀を媒

介にした世界と人間の生きた関係の回復などではなく︑見

えるもの自体に含まれる神秘であり︑﹁世界と私たちの絶対

的に謎めいた現前﹂を︑︿世界の背後﹀や︿見えるものの彼

方﹀へのいっさいの流し目を自ら禁じつつ︑絵の上に視覚

化することだったようにみえる︒

いつまでも重要性を﹁失うしことのないもの︑それ

は︑見えるものと見えないものによって事実として喚

起される神秘です︒この神秘はまた︑権利としては︑そ

れを喚起するような秩序のうちに﹁事物﹂を結びあわ

せる思考によって喚起される筈なのです⑭︒

.週

(門伽轡伽αμ()鵠)

(15)

これ はパ ンで は な い IS

けであると断言している︒見えるものの背後に隠されてい

るのはやはり同じ見えるものなのであり︑本来的な意味で

の︿見えないもの﹀には神秘は全くないとすれば︑見えな

いものの世界を想像することには何の意味も見出せないと

いうことになる︒こうしてマグリットは︑自分が﹁思考さ

れるに値すると考えることができるものと︑ル⁝セルの間

に類似(引用者強調)を認めてもらいたい﹂とフーコーに

言う︒なぜなら︑﹁ルーセルが想像するものはなにひとつ想

像的なものを喚起しないし︑かれが喚起するものは世界の

実在なのだが︑それを経験と理性は灘濁した仕方でしか考

察しない﹂からだ(三4)︒

**

!

()︿

(?)()(認)︑

() プ絵の﹁二重のパラドクス﹂(43)を鮮やかに腋分けしてみせて

いる︒パイプ絵が人を途方に暮れさせる理由は︑﹁テクスト

をデッサンに関係付けないわけにはいかない一方で︑述定

が真なのか︑偽なのか︑あるいはまた矛盾するのかを言う

ことを可能にするような場を規定することが不可能し(畦4)であ

る点に求められるが︑この﹁悪戯﹂の背後には︑﹁マグリ

ットによって密かに組まれ︑ついで注意深く解体されたカ

リグラム﹂(S4)が隠されている︒つまりマグリットは︑一度

﹁これはパイプではない﹂という文字群によってパイプの形

(カリグラム)を描き︑ついでそ知らぬ顔をしてこのカリグ

ラムを元通りパイプの絵とテクストに分解してみせたとい

うことになる︒その結果パイプ絵は︑﹁うわべでは旧来の配

置へと回帰するように見えながら︑カリグラムの三つの機

能を取り戻すが︑しかしそれはこの機能を歪め︑それによ

って言語と画像の間のすべての伝統的関係を不安定にする

ためし(46)なのだ︒解体されて姿を消したカリグラムをひとた

び通過しデッサンの下部に舞い戻ったテクストは︑伝統的

なキャプシ灘ンと比べて﹁二重のパラドクス﹂を秘めてい

る︒それはパイプという﹁名指す必要のないものを名指そ

うと企てる﹂一方で︑いざ名指す段になると︑﹁名を否定す

ることによってそうしようとする﹂(?墳)からだ︒ところで一般

に︑カリグラムは形象に麟を留めるとき奮語であることを

(16)

これ はパ ンで はな い IG

やめ︑言語に注意を向けるとき形象であることをやめるか

ら︑﹁言うことと表象することを決して同じ瞬間には行わな

い﹂︿48)︒従ってカリグラムにおいては︑合体された筈の二つ

の要素(絵と文字)はお互いに排除しあっていることにな

るが︑フ:コ⁝によれば︑まさにカリグラムのこの相互排

除の性格を︑マグリットのパイプ絵は自らの︿前史﹀たる﹁解体されたカリグラム﹂から受けついでいるという(9畦﹀︒こ

うして︑パイプ絵の中のデッサンとテクストはそれぞれ勝

手に自己措定を果たすに至る︒

一方において︑上部にはなめらかな︑きわめて判然

とした︑寡黙な形があり︑その明証性は尊大かつアイ

ロニカルに︑テクストに好き勝手なことを言わせてい

る︒他方︑下部にはテクストが︑⁝⁝自分の名指す物

に対する自らの自律を明言している︒カリグラムの重

複性は排除の関係に基づいていた︒これに対しマグリ

ットにおける二要素︹絵と文︺の乖離︑デッサン内の

文字の不在︑テクスト内に表現された否定は︑二つの

・⁝(50>︒(引用者強調)措定を肯定的に表示するのだ

とテクストが全く独立に自己措定を遂げるというのは実の

所言い過ぎであり︑両者の闇には︑﹁これ﹂という指示代名

詞によって﹁微細で.不安定で︑執拗であると同時にたよ

りない絆﹂(激)が結ばれているというのである︒従って形象と

文の闘には﹁一連の交錯﹂︑あるいは﹁仕掛けられた攻撃︑

放たれた矢し︑要するに﹁戦闘﹂が生ずることになる(25﹀︒そ

してフーコ⁝によれば︑両者の関わり合いは︑﹁これはパイ

プではない﹂という文の異なる三つの読みとして捉えられ

る(35)︒一・デッサン︿パイプ﹀は語︿パイプ﹀ではない︒二︑

言表︿これはパイプではない﹀は︑対象︿パイプ﹀ではな

い︒三︑デッサン︿パイプ﹀と言表のデッサン︿これはパ

イプではない﹀との複合体(すなわち絵の全体)は︑デッ

サン︿パイプ﹀と文字︿パイプ﹀の混合体(すなわちカリ

グラム︿パイプ﹀)ではない︒

還元不能のこうしたもつれあいの中で︑解体されたカリグ

ラムの二つの項はもはや︑通常の絵とそのキャプションのよ

うに︑あるいは本のテクストと挿画のように︑そこで﹁語と

形象の間に︑指示︑名指し︑記述︑分類の関係のいっさい

が結ばれる﹂(45)ような﹁共通の境界したる﹁小さな空白﹂(sδ)

を保持できなくなってしまう︒マグリットが密かに仕掛け

たカリグラムはひとたび形象とテクストの問のこの﹁空隙

を吸収した﹂が︑解体されてデッサンとキャプションに二

(17)

これ は パ ンで は な い 17

(66)︒

パイプを名指す書表とパイプを形象するデッサンの

問に共有されていたパイプは︑⁝⁝決定的に逃れ去っ

た︒テクストはこの消失を⁝⁝楽しげに確認する︑﹁こ

れはパイプではない﹂と︒(⁝⁝)テクストとデッサン

の間にはもはや⁝⁝離婚の申し立て︑すなわちデッサ

ンの名に異議を唱えるとともにテクストの指向対象に

も異議を唱えるあの言表が通過できるだけだ︒

﹁どこにもパイプなどありはしない︒﹂(訂)

そしてさいごに︑パイプ絵に関するフーコ⁝の読みは︑異

った迂路を経由してではあれ︑ホフスタッターと同様の

︿ゲーデル的自己崩壊﹀の確認へと至る︒

⁝もはや画架はぐらつくしかなく︑額縁はばらばらに

なるほかなく︑絵は地面に転げ落ち︑文字は飛び散る

(煙

(平

)(58)︒

パイプ絵に関するフ⁝コーの精細をきわめる分析はあら まし以上の通りだが︑結局︑フーコ⁝の関心は終始一貫し

て言語(書字記号)と造形表象の関係の問題に向けられて

いたと考えてよいだろう︒表音文字文化圏において失われ

た両者の絆は︑たとえばカリグラムのような遊戯によって

偽似的に回復されるわけだが︑マグリットのパイプ絵の中

に隠れたカリグラムの残澤を嗅ぎつけたフーコ⁝の鼻は︑そ

れだけ両者の乖離に敏感であることを証するものだろう︒

﹃これはパイプではない﹄の第三章以下は︑パイプ絵

から問題を拡大してマグリットを中心に据えた二〇世紀絵

画論といった趣を呈している︒当然予想される如くフf

コーの眼目は一貫して言語と形象の関係如何であり︑さら

に︑この問題の考察を通してマグリットの私信に見える類

似と相似の問にも答えようとしていると考えられる︒

フfコ⁝は第三章で自分が西欧絵画の基礎にあると考え

る二つの原理をとり出している︒

思うに︑一五世紀から二〇世紀に至る西欧絵画には二

つの原理が支配していた︒(⁝⁝)第一の原理は︑類似

を内に含む造形表象と︑類似を排除する言語の指向性

との分離を定立する︒類似によって見せ︑差異を通し

て語るというわけだ︒従ってこれら二つのシステムは

参照

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面的報復を︑最終的な勝利の日まで延期していた︒しかし

2016年以降、定期刊行している『りぶまぐ!』LIVS

August 2009 - Pressemitteilung

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使となり赴任するにともない後援者の援助もあり﹁幕僚﹂として随行し︑まずウィーン大学に︑次いで戸田伯の帰国 ︵14︶