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イ ェ ー リ ン グ に 学 ん だ ワ セ ダ マ ン

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(1)イェーリングに学んだワセダマン. じ. め. に. 道. 太 郎. ー﹁ボアソナード民法典﹂相続規定に対する一 つの同時代的批判1. は. 一︑因oωぎ葭o困ω置氏との出会い. 川. イェーリングに学んだワセダマン︵浦川︶. 一. が︑その過程で興味ある一論文を発見した︒それは︑私の留学していたゲッティンゲン大学に一八九一年︵明治二四. として発表された︒この稿を書く段階で︑ドイッ語で書かれた日本法の紹介︑解説等を過去に遡って調査︑検討した. の比較研究をし︑この嶋部は︑ラーベル雑誌に﹁<oお9巳8霧出P傷O駄警巳q昌ひq昏織9昌ひq一目冨冨菖ω9窪国9算﹂ ︵1︶. とで不法行為法の研究をおこなった︒この間共同研究の一つとして同大学の助手Uけぎb国霞氏と日独不法行為法. ω濠ε鑛︶の奨学研究員として︑私は︑ドイッ連邦共和国ゲッティンゲン大学に留学し︑騨名ぎU①葺ω9教授のも. 一九七七年六月より一九八○年一月まで︑アレクサンダー・フォン・フンボルト財団︵︾一①惹&巽く睾缶讃Bびo置亨. 浦.

(2) 早法五十六巻一号︵一九八O︶. 二. 年︶に提出された博士論文︵∪一ωω①昏塾舅︶であり︑著者は囚oω呂畦o困ω臣といい︑表題は﹁U霧寄ぼ9耳冒冨臣℃. ぎ菩80民震①囚簿穿号ωぎ富曾讐段ぼ①9富α霞O&強8訟9ぎヨ冒鐸〇一〇︒8﹂となっていた︒この一八九〇年. ︵明治壬二年︶の法典とはいわゆる﹁ボアソナード民法典﹂のことであると思われ︑同じゲッティンゲン大学に席を. おいていた日本人学徒による﹁法定相続権批判﹂というのは︑当面の不法行為法の比較とは関係をもたないものの︑ その表題だけで興味をよびおこすに十分であった︒. そこで︑この論文をゲッティンゲン大学法学部の図書室の地下にある博士論文の収納されている棚からさがし出. し︑通読してみたが︑その中では﹁家督相続は公平の原則に反する﹂という明確な指摘がおこなわれ1国一ω匡氏の. 論旨は後に詳しく紹介するが1屡ω臣氏の批判の視点はきわめて進歩的なものであり︑あたかも第二次世界大戦後 ︵2︶ の学者による戦後改正される前の民法旧相続編批判をきく思いがした︒. 国凶ω巨氏とその業績についてはこのようにして出会ったわけであるが︑留学中はドイッで研究すべきいくつかの予. 定のテーマもあり︑それに集中を余儀なくされたことと︑この囚一ω匡氏がいかなる人か︑また︑その後にどのような. 足跡を残したかは日本において調らべる以外に方法はないと思われたため︑帰国後にさらに調査し︑そして︑その業 績について再び考察してみることとした︒. 帰国後︑折りにふれて︑ゲッティンゲン大学に﹁ボアソナード民法典﹂相続規定に対する根底的な批判を博士論文. として提出したこの田ω圧氏について調らべてみた︒その手がかりは︑論文の献辞に﹁ωΦぎR国図8竃目留ヨ. げoo凝①ぴo吋窪窪=R彗9即︷窪9ぎ惹↓&p簿●ρO①ω窪舞窪Fび①<︒蜜巨ω叶醇︶ωoぎoヨげ8嘗o鼠磯窪.

(3) 03昌R﹂と書かれてあることから︑彼の旧主君が戸田氏共伯爵であり︑出身地が美濃大垣であるであろうというこ. と︑また︑論文末尾に記された感謝の言葉から︑彼がゲッティンゲン大学以外にウィーン大学にも学んだということ だけであった︒. この戸田氏共︵一八五四ー一九三六年︶は︑最後の美濃大垣藩主であり︑維新後大垣藩知事となり︑一八七一年. ︵明治四年︶に米国に留学し︑一八八二年︵明治一五年︶に伊藤博文の欧州憲法調査に随行した人である︒また︑一 ︵3︶ 八八七年︵明治二〇年︶にはオーストリア特命全権公使をつとめ︑後にさらに式部長官となっている︒そこで︑匿ω置. 氏は伊藤博文の欧州憲法事情調査団の随員たる戸田氏共に随行したか︑あるいは︑公使赴任の戸田氏共について訪欧 したものかとも考えられたが︑この方面からは︑それ以上得るものはなかった︒. そこで次に︑困ω匡氏が帰国後学界には名を残していないことから︑あるいは弁護士として活躍したのではないか. と思われること︑また︑区一ω圧氏の論文の水準の高さから︑彼が渡欧以前に日本において法律を既に学びある程度日. 本の法制度に対する視座を確立していたと思われることなどから︑明治中期以後の紳士録︑明治時代の各大学の卒業 ︵4︶ 者名簿などを調べてみることとした︒その過程で︑明治四一年の早稲田大学校友会名簿の中に︑当時既に故人となっ. ていた岐阜出身の﹁岸小三郎﹂の名前を見出した︒そして︑それを手がかりとしてさらに資料を探索するうちに︑市. ︵6︶. 島春城の﹁随筆早稲田﹂の学園物故師友録に﹁岸小三郎﹂の項があり︑それによって︑ゲッティンゲン大学の国一ωま氏 ︵5︶ がその﹁岸小三郎﹂であること︑および帰国後わが早稲田大学法学部に教鞭をとられたことを知ることがでぎた︒. 三. 国Oωぎ瑛o霞ω圧︵岸小三郎︶は︑一八九〇年頃にウィーン大学︑ゲッティンゲン大学に留学し︑ウィーンにおい イェーリングに学んだワセダマン︵浦川︶.

(4) ︵7︶. 早法五十六巻一号︵一九八○︶ ︵8︶. 四. てはアントン・メンガーの︑ゲッティンゲンにおいてはイェーリングの講義を聴いたワセダマンであったのである︒ 二︑ ﹁岸小三郎﹂略伝. 岸小三郎がゲッティンゲン大学に提出した博士論文︵9器R寅戯畠︶﹁目本の相続法﹂については︑後に考察するこ ︵9︶ ととしたいが︑その前に︑市島春城著の﹁随筆早稲田﹂︑東恵仁編﹁明治弁護士列伝﹂︑﹁早稲田大学法学部百年史資. 料﹂︑﹁法律新聞﹂等により知ることのできた範囲で彼の略歴をまとめておこう︒ ︵10︶ 岸小三郎は︑一八五七年︵安政四年︶一一月岐阜県大垣市に士族岸壮太夫の二男としてうまれた︒郷里で英学・漢 ︵11︶. 文を学び︑さらに師範畏が開設されるやそれに入学し︑卒業後は小学教員となり︑また︑一八八○年︵明治一三年︶. には岐阜中学校分校の教諭に就任した︒一八八二年︵明治一五年︶東京専門学校︵早稲田大学の前身︶の開校ととも. に︑郷里の親友等の寄金を受けて上京した岸はその邦語法律科に入学し︑一八八四年︵明治一七年︶﹁法津及道徳論﹂ ︵12︶. を卒業論文に書き︑第一回卒業生︵当時は﹁得業生﹂といった︶として卒業した︒彼は早稲田大学が最初に世に送り 出した法学者の一人であった︒. ︵13︶. 在学中に︑彼は東京専門学校法律科創設に尽力した岡山兼吉のひきたてをうけ︑卒業後は代言人として岡山︑鳩山. 和郎︑高橋一勝等の組織する審理社に加わった︒そして︑一八八七年︵明治二〇年︶戸田氏共伯爵がオーストリア公. 使となり赴任するにともない後援者の援助もあり﹁幕僚﹂として随行し︑まずウィーン大学に︑次いで戸田伯の帰国 ︵14︶ 後はゲッティンゲン大学に法律を学ぶことになったのである︒ ︵15︶ 当時︑一九世紀末のウィーン大学︑ゲッティンゲン大学の法学部はその盛期にあり︑ウィーンでは︑ブルンネンマ.

(5) イスター︑デメリゥス︑エクスナー︑ホーフマン︑ラマシュ︑マッセン︑アントン・メンガー︑トマシェク︑ウルマ ヘー6︶. ンに︑そしてゲッティンゲンでは︑フォン・バール︑デトモルト︑エーレンベルク︑イェーリング︑レーゲルスベル ガー︑ツィーバルトに学んだことが︑彼の論文より知られる︒. 彼は︑一八九一年︵明治二四年︶四月四旧に︑上述した﹁日本の相続法−一八九〇年の法典における法定相続権. 批判1﹂という論文をもってゲッティンゲン大学よりドクトル・イユーリス︵法学博士︶の学位を受けた︒岸は翌 ︵17︶. 一八九二年︵明治二五年︶帰国し︑同年二月一六日に東京専門学校の法学部受持講師︑科外受持講師として任用さ. ︵19︶. 一八九八年︵明治三一年︶には岐阜二区より選出されて衆議院議員となったが︑やがて病をえ︑一九〇二. ︵18︶. れている︒帰国後の岸は︑母校で教鞭をとるかたわら︑弁護士を開業し︑その将来を望まれ︑また一八九四年︵明治 二七年︶︑. 年︵明治三五︶年六月三〇目に四五才で死亡した︒. しかし身辺の事情のため十分に筆を加えることができず︑このようなかたちイ︑発表せざるをえない︒誤りや理解の不充分な. 小稿は︑一九八○年六月二一日に早稲田大学比較法研究所でおこなった帰朝報告会での講演をもとに加筆したものである︒ 点につき御教示いただければ幸いである︒. 一お空. q吋躊帥≦騨\〜評二<oお9亀α窪甲q民O①融冒島§鴨鼠ヰ§騎冒冨饗鼠怨窪即g馨ー田器<Φお一蝕o冨&①望#8馨§鵬 ρ旨醗山oB国陣畠≦ぎ匠9山①ω号旨ω9①づ園g窪ρ園帥げの一の.N︒島︐智日αq. 帰国後小稿を書く過程で︑民法旧親族編︑相続編における﹁家﹂制度︑家督相続制の採用についての議論の動向を詳しく. イェーリングに学んだワセダマン︵浦川︶. 五. も存在していたことを知ることができたが︑国一ω乞氏のご圃︒︒ω虞9二書をはじめて通読したとぎの感想は︑このようなもの. 検討し︑明治初期からボアソナード民法典成立に至るまでにも多ぐの論争があり︑﹁家﹂制度︑家督相続制に否定的な論者. ︵2︶. ︵1︶. *.

(6) 早法五十六巻一号︵一九八O︶. 六. であった︒明治初期における﹁家﹂制度をめぐる考え方の対立については︑利谷教授の﹁﹃家﹄制度の構造と機能﹂社会科. ︵3︶. 市島春城﹃随筆早稲田﹄︵一九三五年︶二〇五頁︒. ﹃明治四一年早稲田大学校友会名簿﹄六四頁︒. ﹃日本人名大事典﹄︵一九三七年︶第四巻・四三三頁︒. 学研究二二巻二・三号︑四号︵一九六一年︶が大いに参考になった︒. ︵4︶. ︵一九. アントン・メンガー︵︾旨8竃窪磯震一co﹄占08︶は︑ウィーン大学の民事訴訟法の教授であり︑一八九〇年︵明治二. ぶくこととした︒後出小野梓についても同様である︒. われわれの大先輩であることから︑岸先生︑岸博士とよぶべきてはあろうが︑本稿では歴史的事実の叙述として敬称をは. ︵5︶. ︵6︶. ︵7︶. 二六年︶がある︶を著わした︒. 三年︶にドイッ民法第一草案に対し法曹社会主義的視点から批判を加えた﹃民法と無産階級﹄︵井上登博士による訳. 〇 占o o㊤N︶の人と学問については︑和田小次郎博士による評伝がある︵﹃法律思想 イエーリング︵知ρ儀o罵<§旨震ぎαq一〇〇一〇. 早稲田大学法学部百年史編集委員会編﹁早稲田大学法学部百年史資料︵その三︶﹂に転載されている﹁教員姓名資格書︵明. た︒ここに記して感謝の意を表する次第である︒. 本書の存在およびそこに﹁岸小三郎﹂の項があることについては︑講演後︑慶応義塾大学の向井教授より御教示をうけ. の教授であった︒. 家評伝﹄︵一九五〇年︶所収︶︒彼は一八七二年︵明治五年︶から一八九二年︵明治二五年︶の死亡までゲッティンゲン大学. ︵8︶. ︵9︶. ︵10︶. 東・前掲書︵注10︶二〇一丁︒. ︵一八九八年︶二〇一丁︒. 治二五年一二月三一日調︶﹂による︵本誌五四巻一・二号︵一九七八年︶二六一頁参照︶︒また︑東恵仁﹃明治弁護士列伝﹄. 市島・前掲書︵注5︶二〇五頁︒ 一八八四年七月二八日付郵便報知によると︑岸が卒業式において答辞を述べたことが知 資料六〇頁参照︶︒. ︵11︶. られる︵石山﹁小野梓と東京専門学校﹂早稲田大学史紀要皿. ︵2 1︶.

(7) ︵μ︶. ︵13︶. ︵15︶. 東・前掲書︵注10︶二〇二丁︒ 東・前掲書︵注10︶二〇二丁︒. 当時ウィーン大学法学部には︑前述のアントン・メンガー︵注7参照︶や︑さらにオ⁝ストリア民法学にドイッ歴史法学. 東・前掲書︵注10︶二〇二丁︑市島・前掲書︵注5︶二〇六頁︒. 前掲﹁早稲田大学法学部百年史資料︵その三︶﹂︵注10︶二五九︑二六〇頁外︒. 霞ω圧︾国凱U錺吋きお畠け冨短富︸Uδψ冒辱Oα淳ぎ鴨P一〇〇〇ごOO︒. フ〆ン・バール︵O帥二い猛儀名蒔<o口ω蝉﹃一〇〇〇〇①1お蕊︶がいた︒. また︑ゲッティンゲン大学には︑前述の. イエーリング︵注8参照︶の外︑岸も名前をあげているハークの国際仲裁裁判所判事を務め国際私法に大きな影響を与えた. ぎな影響を与えた国家学者シュタイン︵一〇話自<o昌ω8ぎ一〇〇嶺i一〇 〇8︶がおり︑. 派の思想を導入しその改革に努めたウγガー︵ぢ紹風dβαQ震蕊鵠−ご一〇︒︶︑伊藤博文の憲法調査の際に彼に講義を通して大. ︵16︶. 法律新聞九四号︵一九〇二年七月七日︶二四頁︒. ︵17︶. ︵18︶. 岸小三郎による﹁ボアソナード民法典﹂相続規定批判. ︵19︶. 第一章. 岸小三郎のゲッティンゲン大学法学部に提出した博士論文︵9器震$江9︶﹁日本の相続法ー一八九〇年の法典. における法定相続権批判i﹂は︑序説と三章から成り︑本文のみで六〇頁におよぶものである︒その第一章の表題. 七. は﹁過去の親族︑相続法﹂であり︑第二章のそれは﹁現行の相続法﹂であり︑そして第三章は﹁相続法の新法典﹂と 題されている︒. ここでは︑彼の叙述の順序に従い︑その論文の内容を少し詳しく紹介してみようと思う︒ イェーリソグに学んだワセダマノ︵浦川︶.

(8) e. 早法五十六巻一号︵一九八O︶. 八. 岸は︑その論文の﹁序説﹂において︑まず︑﹁法は社会関係の反映である﹂と述べ︑法の正しい理解には法のう. まれてくる共同体の政治的・社会的な基盤を認識することが不可欠の前提となると主張する︒そして︑この考え方に. たって︑日本の相続法に立ち入る前に︑日本の家族と社会生活における諸関係と慣習について︑次のような若干の説 明を加える︒. 二三年以前︵明治維新︶まで︑日本は徳川将軍を頂点とする約三〇〇の大名の支配する一種の封建制︵頴且巴亀ω3日︶であ. り︑士・農・工・商の身分制度がおこなわれていた︒各身分階級はそれぞれ異なる法を有していたが︑私法においては武士階級. 習をみると︑ヨー・ッパにおける法的・倫理的秩序がキリスト教的世界観に基づくように︑そこには基礎となる教理があること. の利益がはかられており︑武士階級の法が修正されて他の階級に適用されていたといえる︒そこで武士階級の相続法規とその慣. に気づく︒それは儒教である︒仏教は我々の宗教的領域にしか影響力をもたないのに対し︑儒教の倫理は領主と家臣︑親子間︑. 友人間の関係を実質的に支配している︒儒教の主たる性格は︑一語でいうならぽ︑家族主義︵評ヨ旨魯窟一目甘︶であり︑その. 教理は国に平和と秩序をあらしめるために﹁家﹂を統一体として維持し︑その内部で秩序と平和を守るということにある︒そし ︵1︶ て︑そこから﹁忠と孝﹂という二つの指導原理があらわれてくる︒. 岸は概略以上のようなことを述べた後︑孔子の規範に対する見解は実質的に義務の体系であり︑権利の体系とはみ. ていないという︒すなわち︑アジアでは︑権利という自立した概念はなく︑これは法と道徳との間の概念の分離がお. こなわれていない証拠である︒孔子が法における消極的な義務の側面を強調し︑課された義務の履行のみを人に要求 ︵2︶. し︑意思力の行使すなわち権利行使を不法行為の場においてしか承認しなかったことが︑アジア社会で︑文化が進歩. ﹁過去の親族︑相続法﹂と題する第一章では︑徳川時代における﹁家﹂とその財産についての説明がおこなわれ. 的方向に向うことを失わせた原因であると指摘するのである︒. 口.

(9) る︒彼は︑その時代の国家と社会の基本構成要素は儒教の理念︵家族主義︶にもとづく統一体としての﹁家﹂であっ. たと述べ︑具体的に﹁家長権﹂﹁婚姻﹂﹁家族ー財産法﹂﹁相続法﹂について︑ときに・ーマ法やゲルマン法における. 制度と比較し︑また︑ときにアジア・日本法についての当時のヨipッパの学者の認識の誤りを指摘しつつその特質 を明らかにする︒. 岸の説明は︑彼の論文の直接の読み手であるドイッの学者にとっては興味深いものであったであろうし︑また︑そ. の内容は︑わが国封建制下における﹁家﹂の特質をぎわめて適切に紹介しているものである︒しかL︑さらに岸のこ. の論述を正確にくり返すことは︑この場においては必要あるまい︒そこで︑以下には︑彼の指摘として興味ある部分 を中心に要点の み を ま と め て お く こ と と す る ︒ ︵3︶. ①﹁家長権﹂﹁家﹂は外に向ってはその構成員の多数にもかかわらず︑一つの統一的な共同体としてあらわれ︑その法律関係. は﹁家﹂の頂点に立つ家長に集中する︒家長の地位は古代・ーマの悪$ほ9︒臼臣器に近似しており︑全ての点で家族の代表者で. あり︑家族構成員の違法行為については彼が責任を負い︑他方︑彼に対する刑罰は家族全員にも及んだ︒家長は家族員に対し絶. ある家族員は︑後期・ーマ法におげるような国臣き9冨菖8のような制度がないため︑一生涯家長権のもとに拘束され︑養子縁. 対的な権力をもち︑家族員は家長に対して服従と尊敬の義務があり︑特に子の家長たる父に対する服従義務違反は﹁不孝﹂とし ︵4︶ て勘当という制裁がおこなわれた︒御定書百箇条には︑父の子に対する広汎な制裁権が承認されている︒また︑家長権のもとに. 御定書百箇条では︑最初の妻を離婚せず二番目の妻を迎い入れた老や︑離婚以前に他家に更に嫁した婦人︑およ. 組や婚姻によっても家長権が他に移転されることになるだけであった︒ ︵5︶. ②﹁婚姻﹂. 日本の﹁婚姻﹂はコ夫一婦制︵竃8轟帥邑①︶﹂であるといえる︒たしかに︑正妻以外に妾をもつことは法律上禁じられてはいな. び︑他家に嫁にやった娘を婚姻解消前に別の男のもとに再度嫁として出した両親が処罰されていたが︑このことから考えると︑. イェーリングに学んだワセダマソ︵浦川︶九.

(10) 早法五十六巻一号︵一九八○︶. 一〇. いが︑妾関係の成立には特別の形式が要求されず︑また︑妾関係よりうまれた子の地位が嫡出子より法律上劣っていたことより. みるならば︑妾の存在から﹁一夫多妻制︵評蔓繋巨Φ︶﹂を主張する一部外国人学者の立論は理由がない︒さて︑その婚姻にお. ω9窪ざ轟︶と第二に︑花婿の父が花嫁を息子の妻として︑ま. いては両親の意思が決定的であり︑しばしぽ婚姻当事者が相互に相手方を知らないこともある︒また︑婚姻は︑第一に︑花嫁側 の父乃至家長が花婿の家に花嫁を連れていって贈る行為︵贈与. 8①ヨ讐oのような売買の形式でおこなれていたというが︑花嫁側の持参金︵α8︶の存在からしても︑その説の誤りを指摘でき. た間接的に自分の娘として受け入れる行為︵養子縁組 ︾3営帥8︶との二つの法的行為より成りたつ︒そして︑婚姻によって ︵6︶ 妻は従前の家長の権力の下から︑配偶者乃至その家長の権力下に入るのである︒O§ωは︑アジアにおける婚姻がローマ法の. ﹁離婚﹂は家長の恣意にゆだねられており︑家の視点が唯一のものとして作用する︒つまり︑配偶者との不仲よりも舅姑との. る︒. 不仲の方が離婚原因として配慮される︒離婚の方式として協議離婚はいつでも可能であり︑一方的離婚原因としては孔子の定め. ﹁嫁資︵血8︶﹂の贈与は︑武士階級にはまれであるが︑その他の階級では通常のことであり︑それは花嫁の家より花婿の家. た七去がある︵その内﹁父母に順でない﹂との理由が最も多い離婚原因であり︑ここに親の地位の強固さが示されている︶︒. に︑妻の死亡によらぬ婚姻解消に際しては返還するとの条件付で贈与され︑配偶者乃至家長の所有に帰する︒この点で・ーマ法. のα8箕08鼠o冨に近似しているが︑その贈与は全く花嫁の父の任意によるもので︑日本においては何人も﹁嫁資﹂に対する 請求権をもたなかった︒ ︵7︶. ③﹁家族ー財産法﹂ 一家の財産は︑武士階級では︑武士が家臣として領主に戦時・平時奉公した対価として獲得し︑それが ︵8︶ 世襲化された家禄が中心であり︑農民に代表されるその他の階級の財産は︑私法的に自立・独立した世襲地︵≧一a︶である︒. 全ての財産は法人以上に厳格な団体といえる﹁家﹂に属するが︑その処分権はただ家長のみに属する︒それゆえ︑家長はその財. 産を減少させないような道徳上の義務を負うとしても︑財産を自由に処分する権利は妨げられない︒家族員には固有の財産権は. なく︑自己の必要上使用できるものはあるとしても︑それも家長の破産に際してはその債権者の掴取権に服することとなる︒ま. た︑家族員は債権を保有することはでぎず︑債務を負担することもない︒つまり︑家族員は財産法上の独立した法的主体ではな.

(11) いのである︒ ︵9︶. ④﹁相続法﹂. わが国の相続の対象は﹁家名﹂であり︑財産相続は第二次的なものであり︑財産は家の付属物として相続され. る︒﹁家名相続﹂は家の代表権における人的な変更である︒武士階級においては︑家長は領主に奉公しなければならないから︑. その義務に応じうる男子である必要があり︑それゆえ家長が高齢や病気によってその義務を履行できなくなったときには︑﹁隠. 居﹂によって生前に家名相続がおこなわれる︒相続人たる要件は︑成子男子である必要があり︑年齢の上のものが優先する︒女. して迎い入れなけれぽならない︒この場合︑養子の指名は︑被相続人が存命のときはその者の意思により︑あるいは遺言によ. 子には相続権はなく︑家族近親者に女子しか存在しないとぎは︑家名を断絶し家を解体するのでなければ︑家長を他から養子と. り︑またそれがないときは親族会の議による︒被相続人に娘一人だけいるときは︑公許をえてその配偶者に婿養子を迎えること. となり︑その配偶者が相続人となる︒この場合︑後に男子が出生しても婿養子の相続権に変動はない︒家名相続においては相続. 公的地位︑財産等を承継し︑祭祀の義務︑家族員の扶養義務を負い︑全債務に責任を負うことになる︒. 人に相続放棄・限定承認の自由はない︒家名相続により被相続人の全人格は相続人に移転し︑相続人は家名︑被相続人の社会的. ち. ヤ. この家名相続のもとでは家族員には全く相続権が与えられていないのであるが︑このような極端な原則の厳しさは﹁別家﹂の. 制度によって緩和されている︒武士階級においては﹁別家﹂はまれなことではあるが︑次男以下の男子が領主によって見出され. たときに﹁別家﹂をたてることが許され︑他の階級では︑家長やその相続人が次男以下の者に﹁別家﹂設立のため財産の小部分 を割り当てることによっておこなわれる︒. ㊧ 第二章﹁現行の相続法﹂において︑岸は︑⁝二年前の明治維新︵﹁一大革命︵のぎoαQ8詔寄<○一暮一自︶﹂と彼は. よんでいる︶以後の日本の近代化をとりあげ︑現在の国民の意識の中にヨー・ッパ的思考と儒教的世界観の対立が生. ︵10︶. じてきていると指摘する︒そして︑今目の社会ではもはや家族主義は唯一の組織原則ではなく︑個人が社会における. 一一. 自立した構成要素としてあらわれる傾向にあり︑﹁現在の社会は家族主義より個人主義への途中にある﹂という︒そ イェーリングに学んだワセダマン︵浦川︶.

(12) 早法五十六巻一号︵一九八O︶. の過程を実証するものとして次の事実をあげる︒ ︵11︶. 一二. 一八七二年︵明治五年︶九月一八日太政官布告第二七五号により間接的にではあるが︑成人となった者に財産取引. をおこなう能力が承認されたこと︒政治関係では︑成年たる家族員に官吏となる能力︑選挙権︑被選挙権が与えられ. たこと︒分家する自由が与えられたこと︒女子にも一定の場合に戸主︵家長︶となることが認められたこと︒婚姻に ︵12︶. おける両親の同意は︑その成立に不可欠のものではなくなったこと︒そして︑離婚において︑妻にも一定の場合に裁 判離婚の途が承認されたこと︑である︒. このような社会における大変化は︑しかし︑親族・相続法の領域では保守主義者の抵抗にあって個人主義の原則. に徹した根本的改革にまで結実していないと︑岸はいう︒つまり︑徳川時代よりの戸主︵家長︶権および長男による. 家督︵家名︶相続法が基本的に残存しているのである︒しかし︑その他の点では注目すべぎ変化が生じてぎている︒ ︵13︶ この変化のあらわれとして︑彼は︑一八七三年︵明治六年︶一月二二日太政官布告第二八号をまずとりあげ︑女子も ︵14︶. 戸主になることができるようになったことを高く評価している︒さらに︑前出の一八七二年︵明治五年︶太政官布告. 第二七五号により︑隠居と新戸主︑戸主と家族員の問の財産関係が身代限の場合に分離されて扱われることとなった. ︵16︶. 点をあげて︑個人に自立した財産上の能力を与えたものであると指摘している︒だがまたその反面においてなお残 ︵15︶ る︑女戸主が婚姻︑再婚したとぎに当然その夫が戸主権を獲得するという規定︑および隠居制度をなお存続させた一. 八七〇年︵明治三年︶閏一〇月一七日太政官布告第七四二号を示し︑改革の不十分さをついている︒. ㊨第三章﹁相続法の新法典﹂はさらに三節に分れ︑第一節﹁一八九〇年の新法典における相続法の概略﹂︑第二節.

(13) ﹁現代相続法の原則について﹂︑そして第三節﹁新法典の相続法批判﹂とそれぞれ題されている︒. つまり︑岸は︑ま. ず第一節で︑いわゆる﹁ボアソナード民法典﹂相続規定を解説し︑第二節で︑現代における相続法の構成原理を究明. し︑その基礎の上に立って︑第三節において︑第一節でその概略を説明した﹁ボアソナード民法典﹂相続規定を具体. 的に批判するという構図をえがいているのである︒この部分は岸論文の後半三〇頁を占め︑彼の独創的な考え方が示. これはいわゆる﹁御定書百箇条﹂をさす. されているところである︒次に章をかえて︑彼の論述のあとをたどってみることにする︒. ︵2︶困ωヌ鉾勲ρ一ゼ. ︵−︶困ω貫国引評ω田ぼΦo穿冒℃弩ω︶9ωのこ霞︒Oα鼠お窪﹂o︒Qど下一〇︒. ︵3︶困のヌ帥●騨ρ雛占藤● 岸の論文にはεOO8魯器α霧辱①るωq︾旨︒湛O●O伊誉と記されているが︑. ︒︒. を著わしたQ. 一八二八年ベルリン大学教授となった家族法学者であり︑こり器国旨お9けぎ. ものと思われる︒ただし岸の条数の引用には必らずしも適切でないと思われるものもある︒. ︵4︶. 置占o. ガンス︵国α奏&O餌霧一お下一〇〇器︶は︑. ︵5︶屋ω9鋤● 鉾 O ︵6︶. 名O一粛①零げ二8び①﹃国ロ什名8一昌Ω訪磯︑︑轟閃α①. ︵7︶困ω貫鉾四︒O︒﹂oo−N一. ωo富津やスラブ社会の缶鋤qω8ヨヨ一のの一8と比較し︑また訟窪昌三巴冨の所説を引用して︑説明している︒. ここにおいても仁霧o奉08象おo注昌嵩昌鵬ぎい一〇〇認と記してあるだけであるが︑. 一三. これ. ︵8︶ 岸は︑この後さらに︑目本の土地所有が共同体的所有より個人的所有へと解体されてゆく過程をゲルマン社会の国¢昌号旨ー. ︵9︶田ω亘蝉●鋤︒O●る一−NO・ 鉾帥︒O﹂Noo●. 岸の論文には全く脚注がなく︑. 区凶ω圧. ︵11︶. ︵10︶. イェ!リングに学んだワセダマン︵浦川︶.

(14) e. 早法五十六巻一号︵一九八O︶. 鉾鉾ρ︸8い. 一五八頁︵三六一︶︒. 一四. は本文に示した太政官布告をさすものと思われる︒なお︑外岡編﹃明治前期家族法資料﹄第一巻第一冊 ︵一九六七年︶ 一四. 国凶ω臣. 四頁︵三三五︶︒ ︵12︶. 一八七三年︵明治六年︶太政官布告第二六三号︒外岡編・前掲書︵注11︶ 一八七頁︵四一八︶︒. 注n参照︒. ︵13︶ 注11に述べたと同様︑本布告をさすものと推測される︒外岡編・前掲書︵注n︶ ︵14︶. ︵16︶ 外岡編・前掲書︵注11︶五九頁︵一五七︑ 一五八︶︒. ︵15︶. 第二章 岸小三郎による﹁ボアソナード民法典﹂相続規定批判︵続︶. 一八九〇年︵明治二三年︶四月二一日および一〇月七日公布の法律二八︑九八号︑いわゆる﹁ボアソナ!ド民法. 典︵旧民法典︶﹂は冒ω葺暮δ器霧器$目をとるため︑その相続法は財産取得編の一部を構成し︑独立した編となっ. ていない︒岸は︑この財産取得編第二二章﹁相続﹂と第一四章﹁贈与及ヒ遺贈﹂の規定を︑その批判を開始するに先. 立って解説している︒この解説は︑彼の主観を全く加えないものゆえ︑その条文自体を直接見ることができるわれわ れにとっては︑ここに再び彼の論述を引用する必要はないであろう︒. そこで︑ここでは︑彼の論文から少しはなれて︑﹁ボアソナード民法典﹂の相続規定の成立過程とその性格を検討. ﹁ボアソナード民法典﹂は︑徳川幕府が開国にあたって締結したいわゆる安政不平等条約を改正しようとする明. し︑岸の批判の意義を理解する予備的知識を得ておきたいと考える︒. O.

(15) 治政府の外交努力の中で︑その前提としての泰西主義による法典の整備の一環としてうまれたものであった︒たしか. に︑日本社会の近代化と経済の発展のために基本法典である民法典は必要であるとの認識はあったが︑しかしそのよ ︵1︶ うな内在的理由以上に︑条約改正のための前提条件を形式的に早急に作るという外部的圧力が強かったのである︒ ︵2︶. それゆえ︑日本人自身による民法典編纂に失敗した後︑明治政府はお顧い法律顧問たるボアソナードに民法典の草. 案の起草を委嘱した︒一八七九年︵明治一二年︶三月のことである︒だが注意を要するのは︑ボアソナード自身が筆 ︵3︶. をとって草案を作成したのは財産法についてのみであって︑家族法の部分はわが国の風俗習慣を斜酌する必要がある. との理由で︑当初より日本人委員によって起草されることとなったことである︒この日本人委員による家族法として ︵4︶. ︵5︶. の人事編・財産獲得編︵後の財産取得編︶第一三章以下がどのような経過をたどって形成されたかは︑利谷教授の. ﹁﹃家﹄制度の構造と機能﹂および手塚教授の﹁明治二十三年民法︵旧民法︶における戸主権﹂に詳しいが︑まず第. 一草案として成立したものは︑﹁わが従来の慣習をある程度是認して立法した部分ももちろんあるが︑さらに西洋民 ︑ ︑. ︵6︶. 法とくにフランス民法︑イタリヤ民法︑ベルギー民法草案等の内容を広範囲に採用しており︑ある場合にはそれら西 ︵7︶. 洋民法の規定をのりこえてより近代的思想を織りこんだ条文もみられる﹂と評価されるように︑近代的な内容をもつ. ものであった︒本稿において問題となっている家督相続︑家族制度についても︑第一草案は︑家督相続の制度自体は. ︵8︶. 承認しているものの︑長子単独相続ではなく︑特定の相続財産以外のものは家督相続人以外の相続人に平分してい た︒. ︸五. このような均分相続にきわめて近いフランス法的な第一草案は︑法律取調委員会に提出されるや︑委員であった尾 イェーリングに学んだワセダマン︵浦川︶.

(16) 早法五十六巻一号︵一九八○︶. 一六. 崎三良の自叙略伝に活写されているように︑委員の大反対をうけ︑起草委員との大激論となり︑結局﹁戸主にあらざ. る者の遺産は遺産相続として数子平等に分配することとし︑戸主の財産は家督相続とし︑無遺言の時は悉皆長子之を ︵9︶. 相続し︑但し遺言を以て全財産の半額まで之を自由に処分し得ることとして︑漸く此一件を落着﹂することとなっ. た︒そして︑この法律取調委員会において修正された家督相続に関する基本的態度がその後の元老院審議においても. 維持されて︑一八九〇年︵明治二三年︶一〇月七日公布の法律九八号︑つまり﹁ボアソナード民法典﹂財産取得編第 一三章第一節の﹁家督相続﹂規定を構成するのである︒. 以上ながめた点をふまえるならば︑﹁ボアソナード民法典﹂の編纂において︑その第一草案を起草した磯部四郎等フ. ランス法学を学んだ博士・学士らは︑相続においても家督相続をただ名目的にのみ維持し︑急進的に個人主義的な近. 代相続法への接近をはかったのに対し︑保守派の抵抗はきわめて強く︑この試みを法律取調委員会において打ちくだ ︵10︶. め11︶. き︑ここに旧民法は第二次世界大戦後改正される前の民法典相続編とほぼ変らないきわめて厳格な家督相続制度をも. つに至ったといえるのである︒﹁民法出デテ忠孝亡フ﹂と穂積八束はこの﹁ボアソナード民法典﹂を非難したが︑そ ︵12︶. のあまりに泰西主義的であるという論難は第一草案にあてはまりこそすれ︑﹁ボアソナード民法典﹂相続規定自体に. はあてはまることはない︒﹁ボアソナード民法典﹂実施延期後に修正案として提出された現行民法典の改正前の親族. 相続編が︑財産法各編よりも基本的修正を蒙った部分が少ない事実は︑このことを実証しているといえよう︒. ㊧ 目を転じて岸小三郎の論文にもどるが︑このような保守主義者の頑強な抵抗にあって旧来よりの家督相続を維持. することになった﹁ボアソナード民法典﹂相続規定を目の前にして︑彼は︑その批判の視座を確立するため︑西欧諸.

(17) 国でおこなわれている近代的相続法原理乃至理念が何であるかを究明する︒. その究明に先立って︑岸は︑﹁相続権﹂そのものを﹁既得権﹂とみなし︑社会問題の根源の一つとしてその廃棄を. 求める当時の欧州における急進主義者の考え方に一瞥を加えている︒このような考え方に対しては︑﹁相続権﹂は実. 定法的な恣意ではなく︑国家・家族の存在と密接にかかわっていると彼は主張する︒国家がその任務を外敵からの防. 衛に限り︑文化的課題と個々人の教育を家族にゆだねているところでは︑家族間の公平よりも家族の統一が優先さ ︵13︶. れ︑個人の活動の自由は二次的なものとなり︑相続とは﹁家﹂を相続することであり︑財産権の主体としては﹁家﹂. が表面にあらわれてくる︒そして︑この段階にある国家として︑中世ドイツ︑数十年前の日本︑現在のアジア諸国を. あげている︒しかし︑この﹁家族主義﹂は一つの農場内に共同生活し︑共同経営する農耕民にのみ妥当性を有し︑普. 遍的に公平の原則と合致するものではない︒さらに岸はいう︒近代諸国においては︑国家権力は強固となり︑家族か ︵14︶. らその以前有していた権能を奪いとり︑そのことから家族関係において純粋・完全な倫理的要素が働くようになって. きたのだ︑と︒このように国家形態の進歩と相続法の発展との相関関係を示したうえで︑岸は︑近代国家においてう. かび上ってきた家族関係の倫理的側面からみていかなる法定相続法がふさわしいか︑っまり︑近代法定相続法は家族. 間を支配する倫理からどのようなものでなければならないかを検討する︒そして︑次のように結論づけている︒. ﹁両親が全ての子供を等しい愛情でつつみこむことは︑両親と子供の問の自然な関係の中に根ざしており︑これは. 神と人類に対する両親の倫理的義務ともいえるものである︒道徳と社会は︑また反対に︑両親に対して負わねばなら. 嚇七. ない孝養と義務の程度について︑子供個々人の間で区別をしていない︒社会に対する義務と責任は︑同様に長子であ イェ⁝リングに学んだワセダマン︵浦川︶.

(18) 早法五十六巻一号︵一九八○︶. 一八. るか否か︑また出生についてのその他の偶然に結びついてはいない︒そこで︑子供達に対する両親の愛情は等しいも. のと推定されねばならず︑さらにまた︑法定相続の効果は被相続人の推定された意思に根拠をおくものゆえ︑全ての ︵15︶. 子供の間での相続財産の均等分割は公平の原則より導かれる一つの必然であり︑いわば法定相続に内在する絶対的な あり方である︒﹂. 岸によれば均分相続は倫理的な要請から必然的なものであるだけでなく︑さらに︑長男単独相続は社会学的な意義. を有する心理的側面からも望ましくないものとして論証される︒いわく︑﹁出生の偶然によって︑努力せずかつ独自. の働きなしに棚からぼた餅式に両親の財産を得る幸運児には︑自己の生存を維持するための体力・精神力を使用し︑ ︵16︶. また保存する動機に欠け︑﹃生存競争﹄の欠落からあらゆる発展と進歩の基礎に欠けていることは︑明白である︒﹂ ︵17︶. ﹁﹃総領の甚六﹄なる諺が日本にはあり︑このことをうまくいいあらわしている︒﹂またこの場合︑次・三男は長男を. 嫉視することになり︑両親に対する悪感情にまで導くのである︒. 第三番目に︑岸は国民経済学の視点から均分相続制と長男単独相続制をくらべて次のように述べている︒. 長男単独相続制では︑生産要素の一つである資本が相続により長男に集中するために︑富の集中が生産に利点をもたらすが︑. それは︑あらゆる相続人間の競争が排除され生産への緊張が欠ける短所によって相殺されてしまう︒その反面︑相続から除外さ. れた他の子供は︑労働力を保有するが資本はなく︑この労働力は国民経済的には有効に利用されずにおわることとなる︒均分相. 与し︑一家の非生産的分子たることから脱して国民経済と国家にとって自立した要素となることがでぎるのである︒また︑国民. 続制ならば︑被相続人の子供全てが他の手段によっては調達しがたい資本を獲得でぎ︑自立して生産に関与し︑国富の形成に寄. 経済的には︑生産拡大の視点とともに国富の分配の視点も重要であるが︑法定相続における長男単独相続制は︑︾旨自竃o語震.

(19) も正当にいう如く︑有産者の貴族階級をつくるものであり︑若干の有産者とプpレタリアヘと運命づけられた多数の国民との間. 相続権にある︒このように社会問題の原因といわれ︑ただでさえ労働によらぬ財産取得として疑問視される相続権は︑長男単独. の埋めがたい断絶をうみだすものである︒最近の欧州では社会問題が議論されているが︑この原因は私的所有権の存在とともに. 相続制では︑労働によらぬ遺産の一部の者︵長男︶による排他的独占として二重化された不正となり︑社会問題を激化させ︑ま ︵18︶ た新らたに社会問題の発生をうながすであろう︒. 以上のように︑近代的相続法の理念からすると均分相続制のみが承認でぎるとのべ︑それは社会学的にも国民経済. 学的にも好ましいものであることを論証し︑かつ︑この均分相続制がフランス革命以後欧州各国で主流となっている. 事実を指摘した岸は︑次に︑当時特にドイッ・オーストリアで問題となっていた農地の一子相続制についてふれる︒. ここでは︑被は︑健全な農民層を維持する目的で農地を一子に相続させ︑他の子供には市場価格より安く評価した農. 地価格をもとに算出した償金を与えるこの制度を︑形式的には不公平のようにみえるが︑実質的には農地を維持する ︵19︶. ために全ての子供に経済的に平等な負担を課しているのであり︑近代相続法の理念たる公平の原則はここでも貫徹し ているという︒. これまで概観してぎた岸の論文第三章第二節は次のような結論をもってしめくくられている︒. ﹁歴史的︑倫理的︑法的および経済的衡量の基礎のうえに立って︑ただ一貫した例外のない全ての子供のための均. 分相続の実施だけが近代的相続法と相容れるものであるとの結論に達する︒一子相続権において農業的な利益が考慮. される余地はあるが︑しかし︑公平によって画される限界内においてである︵農民の特殊性を基礎とする一子相続制. 一九. を全国民一般に拡張することは誤りである︶︒今日いかなる近代国家においても︑このような一子が相続し他の全て イェーリングに学んだワセダマソ︵浦川︶.

(20) ︑. ︑. 早法五十六巻一号︵一九八○︶. ︑. ︑. ︑. ︵20︶. 二〇. の子供が相続から完全に排除される制度は存在しない︒なぜならば⁝⁝近代の基本原則と矛盾するからである︒つま り︑公平の原則と!﹂. ㊨岸は彼の論文の最後を次のように書きすすめる︒. ﹁民法典編纂が明らかになったとき︑国民なかんずく法曹界において︑立法者が与えられた課題を認識し︑相続法. の立法においてわが国法制の中の遺制︑硬直した制度︑時代の変化に応じないものを廃棄し︑近代的法理念の採用に ︵21︶. より全く新しい基礎の上に立つか︑あるいは少なくとも伝統的な法を時代に合わせてその他の近代的な基礎に立つ法 制度と調和させるであろうという希望があった︒しかし︑それは失望に変った﹂と︒. 彼は問う︒なぜかくも古い法定相続制度たる家督相続に立法者が固執したのかと︒そして︑その原因は︑立法者が. 個人主義的な近代的法定相続法の受容の用意が社会になく︑それゆえ近代的相続法の継受によって社会秩序が危うく. なると危倶したことにあるだろうと︑推測する︒この推測は正当なものと評価できようが︑そこで彼は︑現在の日本. の社会状況は近代的相続法を受容れる余地のないものかと自問する︒それに答えて次のように述べている︒. 明治維新以来われわれの社会は封建制より脱却し︑個人は社会の基本要素たることを認められ︑個人は長男か否かを問わず公. に経済的自立の可能性を拓く均分相続制こそ導入されるべきではなかったか︒また︑わが国は財貨の配分が比較的うまくいって. 権を有し︑義務を負い︑さらに財産的な能力を享有するようになってきている︒この認識に立てば︑公平の原則に合致し︑個人. おり︑社会問題は存在しないから︑家督相続制に対する非難はあてはまらないとの反論も予想されるが︑不適当な相続制度を維. 持することは社会問題を将来において惹起することとなろう︒立法事業は時代の要求を把握し︑さし迫る危機を回避し︑社会の. 有害物を排除し︑導案内者として社会に先行し︑改革によって社会の目ざす目的をさし示すものでなければならない︒家督相続.

(21) ︵2 2︶. 制の維持は立法者に与えられた課題に答えるものではなく︑むしろ社会の現状を後退させるものではなかろうか︒. 以上のような﹁ボアソナード民法典﹂相続規定に対する根本的な疑間を呈した岸は︑次に︑その相続規定が含む二つの. 不整合な点を具体的に捌挟する︒その一つは︑家督相続の被相続人に家督相続人の遺留分︵家産の二分の一︶を害さ. ない範囲で遺言の自由を認めたことである︒そこには︑家督相続における長男単独相続制をこの範囲で制限し︑遺言. により近代法の均分相続に接近する途を拓いた努力の跡が認められる︒しかし無遺言の場合には長男以外は全く相続. から排除されてしまい︑無遺言が一般的なわが国の現状からはこの制度は幻想以外のなにものでもない︒むしろ︑立 ︵23︶. 法者は家産の二分の一について家督相続の対象とし︑その他の二分の一は︑均分相続財産として全ての子供に分けら. れるようにすべきではなかったかと︑岸は主張している︒第二の不整合な点としては︑生前贈与について被相続人 ︵24︶ ︵戸主︶の財産処分の自由が完全に許容されていることをあげている︒ここでは近代財産法の原則である財産処分の. 自由を完全に保障することで︑相続法における相続人の相続財産に対する期待権が無視される結果となっている︒ ︵25︶. 岸は︑論文の最終部分において︑﹁全面的に近代的基礎の上に立つ相続法の編制を期待する私の希望がみたされる. ことは︑もはやないと思われる﹂と前おきし︑次善の策として︑不整合な部分を改めることを中心とする提案をおこ. なっている︒その一は︑法定相続においても家督相続人の相続する財産は被相続人の財産の半分とし︑残りの半分は. 長男︵家督相続人︶以外の子供達に均分すべぎであるというものである︒そして︑第二は︑戸主の生前贈与について ︵26︶ も遺贈と同様に相続人の遺留分を侵害しないような制限を設けるべきであるとするものである︒. 二一. 岸の論文は︑大略以上のようなものであり︑最後は︑彼の学んだウィーン大学︑ゲッティンゲン大学の諸教授に対 イェーリングに学んだワセダマン︵浦川︶.

(22) 早法五十六巻一号︵一九八○︶. 二二. 現行民法典編纂のための法典調査会において起草委員補助であった仁井田益太郎は︑﹁民法編纂事業ハ通商・航海条約ノ. する感謝の言葉でもって結ばれている︒. ︵1︶. ハ我国ノ多年ノ宿題ナレバ︑其編纂ハ一日モ忽ニスルコトガ出来ナカツタ︒﹂と︑くりかえして条約改正とその前提として. 改正即チ所謂条約改正ト密接ノ関係ヲ有スルモノデアル︒⁝⁝民法編纂ハ条約改正ノ為ニモ必要ナルモノニシテ︑条約改正. の﹁欧米思想ヲ基礎トスル民法﹂の関係を指摘している︵仁井田解題﹃旧民法﹄︵一九四三年︶五︑六頁︶︒なお︑大久保 コニ四頁︒. ﹃ボワソナ ア ド ﹄ ︵ 一 九 七 七 年 ︶ 四 五 頁 ︒. 利谷﹁﹃家﹄制度の構造と機能e⇔﹂社会科学研究二二巻二・三号︑四号︵一九六一年︶︒. 法︵旧民法︶における戸主権O﹂法学研究二六巻一〇号︵一九五三年︶七一六頁︒大久保・前掲書︵注1︶一三五頁︒. の起草を日本人側に留保したことがボアソナード自身の発案によるものかについては︑疑間がある︒手塚﹁明治二十三年民. 章以下︶案を起草せしめた﹂と述べている︵尾崎﹃尾崎三良自叙略伝﹄㈲︵一九七七年︶一九〇頁︶︒もっとも︑人事編等. が︑さすがに老練の法律家なりと皆感服した︒そこで報告委員︑法学士︑博士数人に命じて︑我人事編︵財産取得編第コニ. 章以下︶は︑家族親族中のことを規定するものなれば︑各国皆固有の習慣法あるものなれば︑外国人たるボアソナードが其 ママ 人情のことを熟知せずして漫りに草案を起創しがたし︑是は日本人自ら起案すべしとして︑自ら遠慮して筆を取らざりし. ボアソナ:ド民法典の編纂過程において︑法律取調委員であった尾崎三良は︑﹁元来民法中の人事編︵財産取得編第一三. 大久保・前掲書︵注1︶. (( 32 )). (( )). 手塚・前掲論文O︵注5︶七一九頁︒. 年︶︒. 手塚﹁明治二十三年民法︵旧民法︶における戸主権O⇔臼﹂法学研究二六巻一〇号︑二七巻六号︑八号︵一九五三ー五四. 54. (( )). 響の下に成立したということは疑いを容れない﹂という指摘がおこなわれている︵利谷・前掲論文⇔︵注4︶四五頁︶︒. まさにこの点から︑﹁第一草案は︑ボアソナード自身によって起草されたものではないとしても︑そのきわめて大きな影. 76.

(23) ︵9︶. ︵8︶. 利谷・前掲論文⇔︵注4︶一〇〇頁︒. 尾崎・前掲書︵注3︶ 一九二頁︒. その詳しい内容については︑利谷・前掲論文口︵注4︶一二頁参照︒. もっとも穂積八束の主張は︑資本主義的経済発展のため不可欠な財産法上の泰西主義的原則︵全ての人に権利能力を承認. 穂積八束﹁民法出テX忠素亡フ﹂法学新報五号︵一八九一年︶︒. ︵10︶. ︵11︶. し︑家族員にも原則的に財産法上の行為能力を認める︶にも︑また︑﹁家﹂制度・家督相続制を採用しながらも財産法上の. ︵12︶. ︵13︶. 囚幽ω窯︸ m ● 四 . ○. 因一ω匡 倉●. 障●. 国一ω霞鳩∪器国&器畠叶冒℃鋤議一9ωのこξ︒Oα辞貯晦ΦP一QoO一. 合ムω︒. 味における﹁民法典﹂そのものに対する否定であったわけである︒. 原則を破綻に導かないように妥協的に規定した親族・相続編にも︑反対するものであり︑その立場からすると︑近代的な意. ︵14︶. 内一ω圧︸鉾勲○. 帥︒鉾○. ︵15︶. 岸小三郎が二男であったことを考えあわせると︑これらの指摘はなお生生しいものに思われてくる︒. 藤9. ︵16︶. 区一ω露︶騨鉾○こ癖?. oo●. ︵18︶. ︵17︶. 岸は︑ここでは︑オーストリアの一八八九年四月一日の法律およびドイッの諸邦における国α8お︒算を考察し︑さらに. ㎝o o︒. 国一ω罫薗 . 鋭 O. 竃占O●. 3・. 国一ω窪︸勲鉾○. 国一ω窪博鉾斡︒O. 器占ト本文圏点の部分を彼はゴシックで大書している︒. およびそれに対するギールケ︵○辞o︿o口O一震屏ρ一〇 〇﹄ー一〇曽︶の批判について検討を加えている︒. 二三. 国一の臣・鉾Pρ︸おー. 一般法において均分相続制を採用し地方法において一子相続法を例外的に導入する途を拓いたドイッ民法第一草案の立場︑. ︵19︶. ︵肌︶. ︵20︶. ︵22︶. イェーリソグに学んだワセダマン︵浦川︶.

(24) 早法五十六巻一号︵一九八○︶ 国凶ω導矯. ①9. 8●. 国凶の田︸餌●簿︒O. ①一・. ︵23︶. .偶●O. ︵25︶. ︵24︶. 国帥ω圧︸印9斜O. 国一の圧堕 鉾 斡 ・ O ● ℃ 9 ●. ︵26︶. す. び ヤ. ヤ. ヤ. ︵2︶. 二四. まず︑岸の﹁家﹂制度に否定的な態度︑具体的には平等主義の観点から長男単独相続制である家督相続を廃止. 小野梓は︑彼の私法に対する考え方を集大成したといえる未完の著作﹁民法之骨﹂においては︑直接には家督相続. ふれて共鳴し︑その思想を後年彼の博士論文︵U一ωω①旨&9︶の基礎に据えたことは十分に推測されることである︒. いえよう︒事実︑小野梓は東京専門学校の創立と運営の中心人物であり︑岸が東京専門学校在学中にその人と学問に. ︵3︶. し︑均分相続制を確立しようとする考え方は︑自由民権法学派の思想︑特に小野梓の考え方につらなるものであると. ⇔. むすびとしたい︒. は︑ただ岸の論文﹁日本の相続法﹂をどのような思想の流れの中に位置づけることができるかについてのみふれて︑. な資料に欠けており︑明治期における﹁家﹂制度の研究については既に多くのすぐれた論文がある︒そこでここで. ︵1︶. 前後における﹁家﹂制度とその思想的基盤を詳細に検討する用意はない︒また︑岸の思想を十全に研究するには充分. あり︑ここで︑そのワセダマンi岸小三郎ーの思想︑および彼の論文の対象である﹁ボアソナード民法典﹂編纂. O 小稿は︑私がゲヅティンゲン大学滞在中に﹁会った﹂一ワセダマソと︑その著述について紹介することが目的で. む.

(25) 制についてはふれていない︒しかし︑家督相続制と密接︑不可分の関係にある戸主制度については廃止すべきである として︑次のよう に 述 べ て い る ︒. ﹁戸主ノ制ヲ廃スヘキノ理歴々指点スヘシ日ク何ソ日ク許多ノ春族ヲ駆テ之ヲ一戸主ノ治下二置キ数人自治ノ能力. ヲ抑制シ以テ一人ノ左右スル所二任ス是レナリ惟フニ全戸ノ中威ク幼者ニシテ皆ナ普通ノ保傅ヲ要スヘキモノ〜︑・・. 二非ラサルヘシ必スヤ其中︑年丁ヲ越へ既二自治ノ能力ヲ具備スルモノアラム然ルヲ今マ之ヲ一人ノ治下二置キ其. 能力ヲ抑制シ数人ノ幸福ヲ放テ之ヲ一人ノ左右スル所二任ス是レ量二人間交際ノ宜シキヲ失スルモノ非ラサランヤ. 是レ量二生民経済ノ術ヲ誤マルモノニ非ラサランヤ蓋シ人︑丁年ノ期ヲ過キ己レ既二自治ノ能力ヲ有スルモ尚ホ且. ツ族長ノ統御ヲ免ル﹄ヲ得サレハ内二自カラ不満ノ心ヲ抱キ家庭ノ交通︑依テ以テ和同セサルヘク又之ニシテ自主. タルヲ得ス随テ其労力ノ結果ヲ自得スルヲ得サレハ其所有ノ権利︑自カラ輩固ナラス遂二其力ヲ生業二用ウルノ意 ︵4︶ ヲ薄カラシムヘケレハナリ︒﹂. ︵6︶. このような指摘︑ならびに︑ベンタムの﹁遺財相続法案﹂にある妻の相続分の承認と均分相続制について﹁鳴呼単 ︵5︶ ナル哉法案鳴呼深ヒ哉趣旨維レ徳広大維レ功卓偉﹂と讃賞していることから︑小野は積極的な家督相続制度廃止論者. であったといえる︒岸の考え方の根本はこの小野梓の思想と一致しており︑岸がその9器①旨簿一舅において︑家族 ︵7︶. 員の財産法上の自立化傾向を論証するにあたって︑﹁民法之骨﹂と同一の方法をとり︑太政官布告の中にそれを検証. 二五. しようとしていることなどは単なる偶然の一致とみるべぎではなく︑岸が﹁民法之骨﹂をそのUδ器答緯一8の下敷 きとしたとみてもよいのではあるまいか︒ イェーリソグに学んだワセダマソ︵浦川︶.

(26) 早法五十六巻一号︵一九八○︶. 二六. このように岸の家督相続制度否定論は小野梓の思想に触発されたものと推測されるが︑その否定の論拠はウィーン. 大学︑ゲッティンゲン大学で学んだ知識によってさらに深められたことがうかがえるのである︒. 既にみたように︑岸は︑家督相続制度否定の論拠として︑平等の原則を中心に据え︑それをさらに支持するものと. して︑均分相続では子弟間に﹁生存競争﹂の原理が働き社会の発展に有益な作用をもつことと︑子弟全てに生業の資 ︵8︶ 本が与えられる均分相続制度の国民経済学的にみた利点をあげている︒. この論拠のうち︑﹁生存競争﹂を強調し個人の自由競争が社会全体の利益へと結びついてゆくとする考え方の中に. は︑ダーウィニズムの影響下にその法学を確立した︑岸が直接ゲッティンゲンで会うことのできたイェーリングの思 想とのつながりを想起することが許されるであろう︒ ︵9︶. さらに︑国民経済学の視点から均分相続制の優越性を主張する岸の見解には︑マタヤに象徴されるように法学と経. 済学との交流が盛んであった当時のオーストリア法学の影響をみることができるであろう︒そして︑この主張は︑. ﹁富豪の要は資力を一処に集めて其運動を一にするに在り︒既に一処に集め得たる上は︑其用法他より教えざるも資. 産固有の働を逞ふして︑直接にあらざれば間接に国家の勢力を助るに足る可し︒況んや資産は世襲にして主人は万才の. 身にあらざるに於てをや︒仮令ひ今の主人が云々にても︑第二世には自から有為活淡の人を出すことある可し︒唯大 ︵10︶. 切なるは一たび結合したる資産を散ずることなく︑其結合をますます固くますます大にして︑国の軍隊と共に対外の. 備に供せんとする一事のみ﹂と︑経済政策的に単独相続制の有用性をいう福沢諭吉と対立するものである︒この福沢. の論理は長男単独相続制に対するきわめて強い支持の論拠となり︑﹁ボアソナード民法典﹂第一草案にみられる均分.

(27) ︵11︶. 相続制への接近は︑この考え方に立つ中小農商家層の経営基盤の崩壊の危惧感によって︑挫折せしめられたといって もよい︒. このような﹁ボアソナード民法典﹂第一章案の審議過程について︑留学中の岸がヨー惇ッパにおいてどれ程の情報. をえることができたかは不明ではあるが︑彼が均分相続制導入の日本社会において有する意義を適切に把握し︑家督. 相続制を観念的に否定するだけではなく︑均分相続制実施の具体的処方箋を留学の中でえようとしていたことは︑う. かがい知ることができる事実である︒すなわち︑均分相続制が中小農家層の経営基盤に与えるであろう影響につい. て︑ドイツ︑オーストリアで立法化されつつあった一子相続法の動向を検討し︑それを一つの解決策として提示して ︵12︶ いることが︑それである︒. ㊧ 岸のU一ωω段鐙瓜自はドイッ語で書かれ︑ゲッティンゲン大学に提出されたが︑それは結局日本で再発表される. ことなく︑彼の家督相続制度否定論はわが国においては全く影響を与えずにおわった︒そして︑この康器震貫寓oβ. の書かれた時期︑つまり﹁ボアソナード民法典﹂公布直後の時期は︑いわゆる法典論争が過熱したときであり︑もは ︵13︶. や自由民権法学派の家督相続否定論は影がうすれ︑法典論争の中では﹁家﹂制度に固執する国粋的な﹁淳風美俗﹂が. 強調されていた︒すなわち︑家督相続制度を維持した﹁ボアソナード民法典﹂すら︑わが国の﹁家﹂制度に対する配. 慮に不充分であり国情に反するという論難がおこなわれたのである︒時代の風潮は︑ほぼ明治二〇年を境にして大き. 二七. く変化しており︑その意味では︑岸小三郎は﹁遅れてきた自由民権論者﹂であって︑彼の∪冨器昏簿一9はうもれる べくしてうもれた感もなくはない︒ イェーリングに学んだワセダマン︵浦川︶.

(28) 早法五十六巻一号︵一九八○︶. 二八. しかし︑視野をさらに広くとるならば︑その基本的な家督相続制度否定論をさておいても︑岸の考え方は︑法定相. 続において家督相続分を相続財産の二分の一にとどめ残りを均分相続とする﹁ボアンナード民法典﹂についての彼の. ︵14︶. 修正提案にみられるように︑明治民法の家族法規定の改正を問題とした一九一九年︵大正八年︶の臨時法制審議会を. めぐる議論を既に先取りしており︑自由民権法学派の﹁家﹂制度否定論より第二次大戦後の﹁家﹂制度廃止へと続く. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 思想の流れの一つの伏流であったと評価できるであろう︒その意味で︑早稲田大学法学部第一回卒業生であった岸小. 三郎の名と︑具体的に﹁ボアソナード民法典﹂の家督相続制を批判した彼の論文は記憶されてよいであろう︒. 岸小三郎の著作としては︑本稿でとりあげた∪一のoユ段富二〇昌の外︑東京専門学校における﹃民事訴訟法﹄講義録︵二種. 小野梓については︑中村吉三郎教授の﹁小野梓の人と学問﹂︵早稲田大学法職課程教室講演シリーズ第一号︶がある︒. ﹃家族﹄第七巻︵一九七六年︶所収の諸論文︒. 前掲の利谷﹁﹃家﹄制度の構造と機能O⇔﹂社会科学研究一三巻二・三号︑四号︵一九六一年︶︑また最近では︑福島編. 類︶があり︑さらに未見であるが﹁証拠法﹂に関する翻訳があるようである︒. ︵−︶. ︵2︶. 43. ︵6︶. ︵5︶. 本稿一二頁︒小野・前掲書︵注4︶一二五頁︒. 福島・前掲論文︵注4︶二〇六頁︒. ﹃小野梓稿︑国憲論綱︑羅馬律要﹄︵一九七四年︶二六五頁︒なお︑福島・前掲論文︵注4︶二〇五頁以下︒. ︵8︶. ︒oo.. 本稿一八頁︒・. 福沢﹁富豪の要用﹂︵福沢諭吉全集一三巻五九六頁以下︶︒なお︑利谷前掲論文O︵注2︶三二頁︒. <管寓跨a費<●旧U器園Φ9幹号のωo匿q窪震ω舞器の<o昌ω富ロα℃qβ耳Φα段2彗一自曽一爵o口oヨ一9一〇〇〇. ︵10︶. ︵9︶. ︵7︶. 収︶一二七頁以下︒. 小野﹃民法之骨﹄︵一八八四年︶二一三頁以下︒なお︑福島﹁小野梓の家族観﹂︵福島編﹃家族﹄第七巻︵一九七六年︶所. (( )).

(29) ︵2 1︶. 利谷・前掲論文⇔︵注2︶六一頁以下︒米山﹃遺言と法定相続﹄︵一九八○年︶一七九頁︒. 本稿一九頁︒. ︵11︶. 年︶一七一頁以下所収︶参照︒. ︵13︶ 例えば︑法学新報一四号︵一八九二年︶に掲載された﹁社説法典実施延期意見﹂︵星野編﹃民法典論争資料集﹄︵一九六九. 修正提案は完全に一致している︒. 二九. ︵14︶ 穂積陳重﹁相続法の改正について﹂法協四三巻一二号︵一九二五年︶一二七六頁以下に示される改革案の第︸案と︑岸の. イェーリングに学んだワセダマソ︵浦川︶.

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