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Nagahiro Kuroda and the Loyalist of FukuokaClan

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

Nagahiro Kuroda and the Loyalist of Fukuoka Clan

西尾, 陽太郎

https://doi.org/10.15017/2244148

出版情報:史淵. 98, pp.47-76, 1967-03-01. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

黒 田 長 薄 と 筑

前 勤 王 派

西 尾 陽 太 郎

筑前議の尊撞述動は︑慶応元年の勤王派弾圧︑いわゆる﹁乙丑の獄﹂によって挫折し︑それと同時に藩主長博の︑それ

までの問南諸藩に対する放溶的立場も崩壊し去った︒この﹁乙丑の獄﹂の由因については︑﹁加藤司書伝﹂においては

主として藩主長博の優柔不断と因循派の策動によるとし︑﹁黒田長博公伝・草稿本﹂においては︑主として佐幕派会卿方

及び幕府方の離間策・威圧策によるものとし︑また﹁維新雑誌﹂ハ檎垣元吉氏蔵︶によれば︑主として勤王激派の落政撹

乱によるものとしている︒なお︑ζの他にも一般的に長持の﹁主君﹂的文場による︑藩主権力の弱さによるとするもの︑

また特に一一条家と長博の関係を強調する説などが存庇する︒

思うに乙れらの前説は︑いづれも山内定さるべきである︒しかしそれらの班白は個々に独立し切り脱されたものでなく︑

相互に潔い問辿をねつものと考えられる︒そしでこのような視点かち︑以上の諸説壱綜合的に弊型してゆく時︑幕末激動

期の︑正確にいえば︑

v X

久コ一年の政変後から第三次長州征伐直前までの︑球主長油開の政治的行動に一つの意義付けが可能

なのではあるまいか︒このことは結論的

K

いえば︑との乙丑の獄には﹁義君﹂としての長鴻の藩主権力確立の窓凶と筑前

思間

長袴

と筑

前勤

王派

へ西

尾︶

四 七

(3)

忠岡

長鴻

と筑

前勤

王派

︵阿

M

M −V

四 J¥ 

勤主

派と

の︑

﹁対決﹂の問題が介夜していたのではないかという乙となのであるけれども︑それは単に長一時と勤王一部との

二者対決というだけでなく︑長博自身のうちに内夜した落主権力の意図と尊接的意凶との対決︑いいかえれば自己矛盾を

も意味じたと考えられるのではないかという乙とである︒以下乙の点を中心に叙述を試みたい︒

2 

筑前助壬派の市艇が顕著になってくるのは︑桜田門外の変院後のととである

﹁黒

田長

博公

伝・

草稿

本﹂

︵以

ド﹁

公

伝﹂と略称︶に次のように云っている︒

万延元年井伊氏遭雑の後は人々遼巡して力を幕府に致さんとするものなし︒公以為らく︑二百余年の情誼宣此危急の際

に当りて坐視すべけんやと︒依て東仁して謀る所あらんと欲す︒然るに此頃福岡にては勤王論最も盛にして皆之を欲せ

ず︑或は上告処臼し︑成は利害を而映し︑或は主開の弁を論じ︵月形深蔵・城武平・梅津幸等﹀︑或はひそかに鹿児島

に奔り薩伎に頼りて公の意を閉さんと欲する者あるに至る︵江上英之進・浅香市作・中村円太等

Y

公其志の切なるを見

て遂に束行を見合せられたり︒後文久元年に至り公を止めし者は一旦皆罪を獲たりしが︑後之争放されたり︒

︵下

略︶

乙れ

らの

勤王

一郎

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式処

分は

︑サ

︿久

元年

五周

七日

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とで

処分

川駒

市合

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一一

十余

名に

及ん

だと

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るが

︑そ

の主

なる

志士

名︑及びその処分は次の通りである︒

︵存

山育

次郎

・

﹁平

野国

臣伝

﹂︶

鷹取長巴・月形格・海津幸一︿中老永預誠禄名跡立﹀桟呑市作︵玄界間流罪牢照減禄名跡立﹀江上英之進︵旧民流罪牢

居︶中村円太ハ於呂島流罪年居︶月形深蔵︵俳個応接差向田︶城武平︵減禄俳佃応接差留︶江

t

伝一郎・中村権次郎・伊

月慎一郎ハ減緑押隠居間門︶長谷川範蔵︵立界島流罪︶藤四郎ハ大島流罪﹀平鳥茂七ハ大島杭非︶

これらの芯士の赦免は文久ご一年の乙とであるが︑その処罰から赦免に至る経過の具体例として月形枕政ハ格︶の均合

(4)

は︑長野遅﹁月形家一円﹂所収の﹁舟形洗蔵年増加﹂によると次の通りである︒

万延元年︵一二十三才︶五月五日藩主に対事星山山︒八月十六日藩主長博公に謁し意見を述ぷ︒八月十八日長博公に召され

で再び窓見を述ぷ︒十一月十四日葱主より取調の為め︑中老毛利内記︵元英﹀に預げられ︑同時に父深蔽・弟覚・季父

縫も閉門誌慎をA

叩ぜ

らる

女久

一五

年計

一一

し

l四才︶五月五日︑藩主に対し容易ならざるな

μ

んを述べしに依り︑藩主より直書を以て諭示せられしに︑

猶又

同日

A相詔らひ︑不穏なる協議いたし︑人心を動かし国政を妨げしζと︑藩主の耳に達し︑御制限志に反り︑上を僚ら

ぎる刷業︑市々不都合により︑知行没収︑更に中老立花古右エ門︵明徳︶陀泊けよと大目附をして達せらるG五月十四

日立花家福岡宅より︑同家知行所筑紫郡古賀村にい昨日を命ぜらる︒

女久

三年

︿一

一一

十六

才

u六月三日大赦に依り牢居を免ぜられしも俳桐を禁ぜちる︒

元治元年ハ三十七才︶五月三日罪を免じ︑先知行百一布陣恒に与へらる︒七月晦日隠居の身なれども町方詮議懸を命じ︑

町心力吟味慢を兼ね︑大目附支配に属せしめ︑合力米八卜俵如与えちる︒︵下同町︶

ζの文久比年の勤王派に対する長一昨の断乎たる処分には︑いまだ初発的な勤王起動に対する︑幕務休制大名としての総

乎たる姿勢がけんられ︑またそれを支えている務内の譜代家臣問の年回たる佐幕的勢力の存十代がうかがえるようである︒し

かし他国︑長問自身の心中には︑既に万延元年の勤主派の建自によって︑一つの新しい決意ともいうべきものが生じたの

ではないかと忠われる点がある︒それはつまり幕議大名としての尊措的決意であるが︑同時に乙の尊擦による﹁莞万長

一時﹂としての一落主権カ確立乃至は一落体制め確立の決意でもあった︒そしてとめような事は何も特異な事例ではない︒既

に長州諸寸一は山氏政沢年に﹁天朝には忠節︑幕府に信義﹂を国是として家臣に立言していたし︑安政六年に久光は精忠組

κ

対して王事

K

尽す乙とを以って彼等を慰印しているのである︒長潟においてもまた当時の悩勢に対応すべく︑万延元年に

黒川

長一

得と

筑前

勤王

派ハ

西尾

︶

四 九

(5)

黒田

長潟

と筑

前勤

王派

︵西

尾﹀

五0 

至って尊挫の決意がなされたとしても不思議ではないのである︒

さてわれわれは︑長却にそのような決意をなさしめた筑前勤王派の言説の一例を︑月形洗磁の万延元年の建白書に見スザ

ζ

とが

でき

る︒

ζの建白書は極めて長官入で︑この小論に全文引用することは樺られるけれども︑乙れを収めている﹁月形

家一円﹂も次郊に入手困難の今日︑煩を献わずその全文を紹介する乙とにする︒

① 

私儀不尚の身分︑斯る重大の儀巾上重々恐入候得共︑只今思天下の形勢内憂外患日︵に︶差迫り︑誠に危急存亡の時

節︑御家御陵替の際に相臨み居申候得ば︑世

k

の風習に拘り存詰候儀︑其億仕置侯ては︑猶吏奉恐入候閥︑右之通奉申

上候︒乍恐少将様︵原註︑長博公﹀御賢明に被為在︑専ら御両公︵原注︑孝一口問・長政公﹀の御逃意を被為継︑既陀先年

御改正被仰山︑元和の古風に立帰り候様との御儀︑且又当時の形勢に可相成儀を御先見被為遊︑兼て天朝へ仰深忠︑一門市

府を御補佐被為遊︑天下寓民太平の御恩沢に奉浴度候との御大志被為在候欺の風説拝承仕府巾候折柄︑真偽は難計御座

候得共︑仲村︑田に於て義挙の浪人︑公辺へ差出候書一覧仕候処︑当御藩の御名を審き載せ︑先々天下治平の儀を︑殊の外

奉依頼心底の程︑自ら相見込用候︒然れば一通知山取留風説のみにては無御座︑突に天朝へ御忠義の思召は︑御明断に相

成居候義を山本恐察使︒右書付は迅速に伝播可申侯得ば︑御卓識御盛徳の御英名︑由同国中上下一般︑如何計欺奉感称儀に

て可有御座候得ば御家の御面目無比上御儀と奉存︑誠に以て難有仕合︑於臣下は猶更感涙に咽ぴ候儀に御座候︒

① 

御盛徳の刑制御国内にでも忠士の者は泰感戴奮発も可有御座候得共︑只今一通相見へ候処にては︑春闘地遊惰の風習日に

増し甚敷︑四民共極々困窮に差及︑万人万心︑思々雄々の人気とも可申︑翠克上意下に不貫通︑

F

伯上達不仕より︑箇

様に相成候とは乍申︑聞には誹欝

κ

沙り候抗言も数多有之鍬に承巾候︒右様の儀万一一他方へ時候ては︑御盛徳の下何分

御不似合の儀と誠に以て残念千高奉恐入儀に御座候︒夫等の儀は疾にも達御聴聞可申︑就ては御深慮め松は乍思難計候

得共︑御勇決にて絡別の御改革にて御仁政御随一週の思召は可被為在候得共︑御養f家の御国と中し︑数十年来の旧弊を御

(6)

一洗被選︑火急に閥敷被仰侯ては︑自然其為め家中騒動に及び侯ては︑御人君の御排不被為済様の万一の御懸念にて︑

是迄寓事伽見合被遊候御儀共は︵にカ﹀被為在間敷哉と奉恐楽候︒

① 

乍去天ド斯る形勢に相成候ては︑右様の儀無御橋︑御奮発被選度︑乍恐奉存候︒御仁政の儀は剛荷忠士の者︑奉白眼目願

儀にて︑柔弱遊惰の者奉忌樺儀にて御座候得者

柔弱

遊惰

の者

︑

迫も如何程の事を仕出可申哉︒右御仁政の儀に付て

は︑当時人材払民御財用御武備︑其外調練軍縦海防彼是︑未だ十分の御整に不相成筋も御座候に付︑右毎事御全備の上

迄は矢張是迄の御形にて追々御一命発に相成侯方︑人気にも不相防当時の勢可然様の見込も可有御座殿に候得共︑夫等の

儀は御仁政御興起に相成︑其人を被得︑其道を被得候へば︑万平思召の通相肺結可申候得ば是非御仁政の大泉本御す一固め

被為遊方御先務北大には有御座間数哉と率存候︒作恐興雲院様︵原註︑長政公﹀御遣誠民︑相口なる者善人なれば凶の主

宝と

一五

々︑

政事

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士卒

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と一

戸々

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一一

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一一

都の

御店に被遊︑事に御臨み被遊候て龍光院様︵原註︑孝高公︶仰のH斗

刷版

かた

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下駄

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と一

五々

ハ武

辺拙

開業

日に

出で

申す御事にて御遺書類とは違ひ申帳得共明敏果断の翻象自ら顕はれ候へば︑多く御意被遊候御実事K可被為在奉恐察

候︶の御遺誠を御信用被遊︑天朝を御山宗尊被遊候は︑即ち幕府へ御忠勤の筋に相当り候得ば︑如何様なる姦人有之︑何

様の御難題市来り︑回収令非道の所業に及候とも︑勤王御忠義の思召︑確乎として御動不被遊趣︑御園中一一統へ青天白日

の如く御触速に相成︑上蓄の儀は何れの手筋より御直に差上候ても不祥様に被為遊御深切に人一一品を御求め被選︑善人御

取用に相成置︑治も天下に叛逆の者出来仕候節は︑直様幼主の御軍旅をも草履かたかたの御趣意に御法き被遊︑御出陣

可被遊形勢御示し被為遊︑御問円一統乱世の次官に御仕成し被遊伎はば︑一二百年来初回ゲ択に奉浴耐候問以に御際悦何ば︑

一同必死の党問に相成ねば︑不令して上下一致仕候勢力に相成可巾候︒左候はY御両公の御迫識を御迎奉被遊候のみな

らず︑突に先年被仰山し元和の十日風に直様現業にて立帰り候儀に佼へば︑御仁政の大本には打御席問政哉︑方様相成候

黒同 長鴻 と筑 前勤 王派

︵西 尾﹀

五

(7)

黒田

長袴

と筑

前勤

王派

︿西

尾︶

五

はY御国中は申迄もなく他閏よりも兼て御英名を奉慕居候賢材の者は申す陀不及︑宮家の者も馳せ集り︑御用道を奉回附

様相成可申候︒然らば目疋迄御配慮被遊候御筋も速に御整に相成可申候︒何卒右の処に御明断被為遊度︑乍恐干高奉懇願

儀に

御座

候︒

① 

知又劫王の尊慮は被為布伎とも︑天下一統鴨川︶情の時節に付き︑当時御包み践被遊︑御平隠にて当秋は是迄の御形にて

御参

被為遊方可然と奉存向も可布之悦へとも︑去々秋も御参山川御氾引の末︑義挙浪人の訪天ド中−

M

m w 人々承知可仕伎得

ば︑似令少しも忠君知御座儀にでも︑姦人共の肌を付候僅可有之候︒況んや弘通盛徳の御主君に被為布佐川出ば︑川相克十本

忌同

伴儀

は必

定

K

可有御座候︒表向は御都合宜敷可申上候得共︑内怖にては姦謀諭計を廻らしめ︑如何なえ所業に及司巾

らム

ぐ力

︵改︶も燃計御座候へば︑当秋御参府は御見合被遊方可燃⁝儀共には被為夜間数哉︒尤御深慮被為布︑是非刷参府に相成

り︑天卜の出乱をも御鎮撫可被避との思再被為在候はY︑数千の御人数御召速に相成︑御大国の御威勢を以て御示被

近︑姦人共昨日め畏伏仕候様被遊度奉存候︒右の思召無御座候はば︑御在国被リ沿道一候計にでも︑却て天朝一治

a M

への御忠勤

に相当る儀も可有御座候︒御.花国の儀に付姦人共より寓一御無実の御悪名を奉為負︑如何様仕掛共︑連も軍勢先向け候

程の儀は︑決して有御座間敷︑只今の御都合のみ御取繕ひ被為遊置伎とも︑天下の形勢一変仕悦儀︑何れも昆込同可申

候︒た侠へば当時表向の御勤は御純益には相成間数かと︑乍汎山奉存候︒

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問

X

勤主御忠義の処に御着限被遊︑御仁政の儀を万一天下中の姦人共奉思降︑且つ御国内遊山の風俗に民り︑内外よ

り御災刻米り候様なる御厄越に被為当候とも︑少しも御擁み被遊候儀有御座間敷︑

欠カ

同も一度は滅亡に相成候は︑人身の卜一死牛一釘之儀と御︵同︶迎に御山山峡趣︑疾く御見解可被遊侠へ共猶文弥御見放に相 一治一乱は現勢の日然︑住六より建

成︑利害は巾迄も無く︑成沢口禍福の

t

に御懸念不被遊︑御一心道理至極の処へ︑益々御配被遊︑勤王御忠義の御為には

仮令京国中の賊敵御引受に相成︑御決戦被遊候共成敗は兵家の常︑天運に御任せ被遊︑其為め御国家の御布亡に向り候

(8)

共被対御両公の利京︑詑度仰訳被為花犠に御市内候得ば︑猶更御懸念可被遊様決して無御賂候︒ロハ今児荒婦女に至る迄︑

楠・新田両公を尊ぴ︑北条足利を悪み候は︑義理の人心に感通仕候儀無余儀者に御座候︒楠・新田両公共︑事業末だ半

にも不及して討死に相成候へ共︑天下方世日月と共に欽慕仕儀に御座候︒乍恐少将様へも︑両公の心事御同様可被為在

の処春闘僻遊惰の風俗の倦に被召置侯ては︑天卜内乱の蔚は日噌切迫︑外虜の儀も只今の姿にては迎も参一巾問致︑比七飢

箆品

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続き

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は

Y如何に穏なる御固とは巾伎でも︑ロハ今の僚にては如何可有御座哉︒若しも隙慨激烈

の者憤漉憂簡の余り︑少将様へは御賢明の処︑有可取計ひに依りては︑御同公千平時持被為遊候で御作飢被波紋御凶を︑

万一他人より被服込候ては不相前杯と海結︑有可の人へ対し前々一似間騒動に似寄候様の儀起り伎如く成行悦ては決し

て不相済︑又大出平八郎騒動の様なる儀をも金巾慌ては︑第一釦威光に拘り候得ぽ︑右様の商仙一御原内︑釦仁政御興起

御大基本御立問問被遊度︑乍恐奉存候︒只今程は楠・新聞両公の時節とは時勢相違にて︑明天子上に被為在︑大小諸候

にも忠賢尊王の御方々余分に被為在候由に付御廟算の上にでも先勝の儀相見へ巾候︒先々勤王御忠義の御軍勢天ドの御

胞に

御一

治発

被遊

候は

Y御家の御旗海内は巾に不及︑五大洲崎国迄も輝き︑百戦百勝御大業御成就に相成︑弔問中の国民御

鴻閃叫に本爪儀に相成可巾候︒左候はY仰向公仰天の神主も如何程か御前悦可被遊候︒然らば御忠孝両全畑一此上御儀と奉

存候︒前一御大業御成就遅々仕候北ハ御名義御名分正数御慌に候へば︑御英名は楠・新聞雨公の如く︑−け火に川四し︑天

下高世一大地有らん限り︑日月間さん限りは︑宇内の老幼明女︑午夜間ぺ奴に至る迄も奉欽慕候儀に相成り︑御英名の御蔭

を以て︑小臣迄も美名を後世に流候儀︑疑有問敷奉存候︒御成否のれは免も角も御仁政御輿起好き機会の時節に御座候

間何卒御察発被遊様千万奉析︑不顧問伴泰申上候︒累代御布思を奉蒙候私儀︑斯る時節に生れ合せ︑誠に御奉公の仕時と

奉存候得共︑何分多病不束にて︑何の御用達も不仕︑且存一叶一m候儀十が一をも︑書取候儀さへ出来不仕︑身分を顧み候得

ば誠に以て悲泣の至に不堪奉恐入候︒人材調練海防等の儀︑其他奉積尊聴度兼存寄儀も御陀候問︑斯る時節に付︑出格

黒団

長潟

と筑

前勤

王派

︵西

尾﹀

五

(9)

黒田

長潟

と筑

前勤

王派

︵西

尾︶

五 回

の思召を以万一一被為召御深慮の端をも奉伺候儀出来仕候はY︑乍不辞存念の程遠御聴度︑日夜至願此事に奉存候︒伺て

愚昧の身分をも不願︑忌悌陀渡り候事情を築紙に相顕はレ奉申上候儀は︑重々奉恐入候得ぱ万死に決定仕居巾候問︑愚

怠達御聴候上にては何分共仰付被為下候様伏而奉願候︒

以

五月六日

月 形

格︵

原証

︑洗

政︶

3 

右の引用文の番号は説明の便宜上筆者が加えたものである︒ζの建白書陀は注目すべき点がいくつかある︒①では月

形洗械が長持に対して抱いた期待︑特に勤王の志についての期待を確認し得た乙とを喜んでいる︒

との

点長

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殊に

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昨と

・芥

彬と

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密な関係から見て︑或程度の勤王への関心の潜在は認めてよいかと思われる︒

⑦においては︑長滑の英名陀も抱らず︑藩政の現状の憂うべき壱述べ改革への勇決ぞ希望しているが︑注意すべきは長

鴻が﹁養話﹂である故K︑長博の欲する改革を濯巡しているのではないかと云っている点である︒長一昨襲封後既に二十五

年にして家臣の方でも長博を﹁養若﹂として見る一面があったとすれば︑長糟自身もその意識から脱し切れぬものがあっ

どと見ることもできよう︒

①は洗職の薄政改革意日比であり︑いわゆる﹁御仁政﹂の内容であるが︑それが人材登用や財用充実を通じて︑

﹁武

備・

調練・軍艦・海防﹂など︑軍政面に偏していることが注目志れる︒しかもその御仁政の大基本を﹁効王﹂に置き﹁国内一

統乱世の姿﹂と考えての政治改革の断行を迫っている点は︑頗る注目に価する︒つまりこれは落政改革を通じての尊擦路

線鋳出の主張に他ならない︒﹁元和﹂への復帰という幕球体制的政治改革目的は︑洗蔵においては概端氏一五えば尊挫討幕

という乱世を経過する乙とによってその次に来るべき高い次元での﹁仁政﹂に振替えられているのである︒

(10)

①においては参勤出府応対する反対意見がのべられ︑その理由として朝首相聞の勢力推移が自信を以って見通事れてい る

つまり︑①において幕藩体制をのり乙えるための務政改革が主張された

点が︑今一度激越な調子でくり返されているわけである︒即ち一藩の﹁滅亡﹂を堵しての尊援休制の樹交の主眼であり︑ ①は前述③と並人で注目すべき点を含む︒

﹁天朝への忠義のため﹂に一藩を犠牲にする乙とを敢て辞せないというのである︒そしてそのために藩主長博と藩祖如水

−長政との精神的紐帯を強調することにより︑﹁養君﹂意識の払拭と︑尊接的一藩体制の中核としての長博の決窓を促し

ているわけである

最近︑長州藩の例などによって︑尊接意識の評価ともいうべき点について︑脱落武士の散発的過激行動に比して︑挙藩

体制的尊擢運動を高く評価し︑また藩体制をのりこえる意味での藩政改革意識とか︑一藩を﹁道具﹂とする尊捜運動意識

とかが︑尊擁運動の実践を通じではじめて回目めちれ自覚されてゆくと乙ろの︑長州のすぐれて雄藩的持導理念のようにい

われる点があるようであるが︑以上の月形の建白の中には︑既に万延元年に︑そのいずれもが見られるし︑また︑文久三

年︑平野国厄の月形たちに与えた書翰にも︑﹁一国あって一審あり﹂という意味の語などがある点からすれば︑そうした

意識形態は︑むしろ尊嬢一如意識として本米的定型的なものと此るべきではあるまいか︒或はそれらの芯識を実践によって

のみ自覚され得る高次のものとするならば︑月形洗肢はその山本学的駕陶によって︑筑前尊挫派中︑特にすぐれた意識に立

っていた乙とになるであろう︒

さて以上のように︑月形枕蔵の建白を一読したものは︑その説くところが︑文久二年以後鹿応元年に至る長怖の政治的

行動に相通ずる点のある乙とに気がつくであろう︒もちろん幕務大名としての長持が︑そのま﹄勤王志士の志識に立ち得

るものでなく︑其処にズレの生じるのは当然であるが︑例えば長時の政治行動の原則的なもの弘一つに﹁尊王忠事﹂とも

黒田

長袴

と筑

前勤

王派

︵西

尾

υ

五五

(11)

黒凶

長潟

と筑

前勤

王派

ハ西

尾︶

五六

称すべきものがあるが︑洗蔵の建白にも﹁天朝を御崇噂被遊候はい﹀即ち幕府へ御忠勤﹂とあり︑また建白に﹁勤王御忠

義の思召郁子として御動不被遊趣︑御国中一統へ青天白日の如く御触達に相成り﹂といっている藩休制の問題は︑文久三

年九月の尊躍による落体制確立の触達と翌元治元年八月の﹁幕府の嫌疑を避けず皇国の御為筋として長州周旋実行﹂とい

う意味の権内触逮に尖現されたかの如く忠われる︒また問中彰氏が﹁幕末の長州﹂の中で︑長持が﹁大名の的財は恥では

ないが武備に後れを取ってはならぬ﹂というぷ味のこと径一五ったというのは︑その出所を知らないけれど︑洗版の改市案

の武

仙偏

市−

と相

通じ

てい

る

とれらの引を通じて長滑が︑月形たちの勤王派の意見によって︑自らの尊捜の決意を附くして行ったと見られるのであ

るが

︑

それを端的に示す事実も存花する︒月形洗蔵年請によれば︑月形は前後三回の進一一一一口を行っており︑乙の五月の進言

に対して長一仰は親書を以って諭示したという︒その内容は知られていないが︑文久元年︑洗脱が本田山中詠じた﹁倣正気歌

タテマチ

並序

﹂

Kよれば︑その文中﹁決然進君前︑揮仮叩胸臆︑君日方今事︑根底在帝勅︑間之莞爾退︑中怯乍安適云々﹂の句が

あり

︑足

形の

進一

一ェ

口

κ

対レて長鴻が長後に一言﹁根氏は帝勅に布り﹂と出らしたというのである︒

﹁根

底布

市勅

﹂の

詰は

︑

のち

文久

一一

一年

の藩

体制

確交

の口

達の

中に

も﹁

叡

h山胞を根納とす﹂といわれているいーから考へて︑長博の咋擁の決訟は︑筑前

勤王派との円以初の対決の中から︑万延元年中に決定的になっていたと見ることができる︒

4 

以上のようにして﹁根底在帝勅﹂との決意を秘めた長時に︑その線での行動を開始する時が来た︒文久二年七月右大臣

二条芥降ぞ辺じて内勅が附され︑八月に長鴻の手許に開いた︒

近来袈中央の起りレより︑県闘の人民不利の志を生じて後来世態如何成行くやらんと︑深く毘慌を悩まレ︑公式親睦して

此︿

に永

久を

謀ら

せ給

はん

との

叡慮

なり

︒文

ハ一

時承

順し

て以

て力

を尽

すべ

きな

り︒

︵公

伝︶

(12)

この積の内勅は筑前の他︑薩・長・土・仙台・主・肥前・備前・久留米・阿波・同等の卜四落に降され︑特に筑前に対

しでは︑薩・長と共に公武周旋方を依頼したものである︒既に桜田門の変が︑内勅問題を主要な動機として生じており︑

和宮降嫁問題以後京都の威望日に隆まる時︑﹁根底在箭勅﹂の決意を秘めた長博は︑閏八月家老浦上正質・用人立花釆女

−久野一角を

t

京させ︑彼自身九乃二十八日福岡を出発︑翌年三月までの問︑京都及び江戸

K

あって︑勅命により幕府が

接夷の勅命を奉ずべく奔走︑文久二年十月の三条実美等勅使束下による叡慮貫徹のための諒解工作を行った︒

︵公

伝︶

ペリ

i来航当時の︑幕府より諸濯に対する外交問題に関する諮問に対する長樽の意見によれば︑長一昨は元来開国論者で

あり︑露・米和親策による英・仏勢力排除論者である︒その彼が今や豹変して接夷を以って幕府方の説得を行っている︒

その回転軸は正に帝勅にあったと見てよいが︑そ乙から彼には彼なりの見識も成立する︒つまり︑それは︑それ以後の彼

の表現に従えば﹁天幕御一和︑其の上での全国一統の捜夷﹂﹁外患に対しての園内対力争乱の絶対的問避﹂

乙そ

が︑

﹁皇国の御為筋﹂として︑彼の行動の原則になって行っている︒しかしこ乙で注意すべきはとのような彼の窓凶と筑前勤

王一向の志閣との関係であり︑その関係にも二泌が生じて来ることである︒一つは長樽の乙の尊接的意闘は勤王一派にとって

彼等白身の怠図と同一的なものと考えさせ︑一一時もまた︑彼の政治行動において勤王派の登用によって︑その一体化を政

証するかに見えることである︒しかし他町両者のズレは当然存ぷするものであり︑両者の随舶はむしろ必然ともいうべき

である︒長一昨の意図からすれば︑天幕一和ということには︑幕府に対する否定はあり得ない︒命令系統的に見れば︑天朝

←幕府←大名という形での﹁根民収常勅﹂であり︑長山仰に対する直接上司は幕府である︒この点が勤王派の即併とのスレ

であることは明白である︒したがって幕落体制否定のため﹁一国争乱﹂を辞せない劫王派の行動目的は︑

﹁国

内争

乱絶

対

回避﹂という長時の目的ともズレるわけで︑これが乙誕の獄の大きな伏線となって来るのである︒長持は天草悶の対立解

消のために天幕一和を唱えた︒長・幕対立を解消するため陀周旋した︒長州藩内の疋義派・俗論党の対立宥和のためK

尽

黒田

長薄

と筑

前勤

王派

︵商

尾︶

五七

(13)

黒岡

長湾

と筑

前勤

王派

︵西

尾︶

五 J¥ 

した

︒

そレて自藩結束の中核たる︑長鴻の意図した蒋休制の崩壊に面レて︑勤王派を処刑した︒それは因循派対勤王派の

対設に対レてではなく︑むしろ長博対勤王派の対立︑対決のためであった︒

5 

きて文久三年一一一月将軍の上洛と撰夷奉勅が果され︑改めて将軍K対する庶政委任があって︑申双山的には一此に長油の立国

する天幕御一和は顕現した︒しかもその反面K朝幕二権威の対決は深まりつLあり︑それが八月十八日の政疫を芯起する

に韮るという情勢の下で︑長鴻は﹁天幕一和﹂を九州諸藩に呼びかけている︒七月−一十三日︑肥後︑防停に他者派泣︑吏

に佐賀・久間米・柳川にも使者を送り︑﹁天幕釘和熟・御一致の周旋﹂という趣旨での行動の一致を求め一︑賛同する諸藩

よりの使者の来落するもの︑絶え間ない有様であり︑殊に薩摩・肥後との聞には三藩協同の約束も成立していた︒

︵文

久

三年維新雑誌﹀筑前落の︑九州における雌落的地位は︑日ましに降まるかのごとく見えた︒

乙の文久三年六月︑長博は前年来の上洛参内と天盃拝受を祝って︑処罰中の勤王志士たちに大赦を降した︒中には月形

洗蔵のように翠元治元年迄は行動の自由を禁束されている者もあり︑勤王一郎はまだ何ちの勢力をも作つてはいなかった

が︑長鴻の尊擦運動のためには︑彼等を解放する必要もあった︒

然るに乙の年の八月十八日事態は急変した︒との政変は長一叫にとっても大きな衝撃であった陀相違ないが︑長持自身に

とって中央における勢力の交替はそのまh﹁天幕御一和周旋﹂の方針を否定するものでなく︑却ってそれを強調する必要

もあり︑また長州など楼夷派の敗退も︑八月十五日伝奏を通じての長博への通達の如く︑﹁撞夷の叡肢に於ては少しも替

らせられず伎︑行幸暫く御延引﹂という﹁撞夷親征の延期﹂がその主原因であって﹁接夷﹂そのものL

停止

でな

い以

上︑

長樽の﹁尊機﹂に矛盾はなかった︒しかしそれ以上案ぜられたのは︑政界の変動の波及による藩内の動指である︒

乙の

動

揺を喰止めるためには藩論を一定する必要があり︑そのためには︑長鴻の従来の方針が大局上矛盾しない以上︑今や解放

(14)

された勤王派を含めての藩体制確立の必要があった﹁公伝﹂に﹁九月廿三日藩土を牙城に曾し︑龍光如水公興雲長政公

両公の肖像を席上に掲げて﹂告諭したというのがそれである︒その止口論ば維新雑誌のものが原型と思われるのでそれを引

方今天下之時勢弥増切迫ニ押移︑皇国御安危日一タニ迫候ニ付︑御傍観可被様モ無之︑御両殿様御報国之御深謀︑家老中 用する

被仰人口︑尊王棲夷之思召確乎ト被押立︑為御名代此節侍従様︵筆者註︑長知︶御上京︑真之叡療委山御伺店︑被安農襟

候様︑皐国御安泰之礎︑御心力ヲ被為尽御周旋之思召ニテ︑誠ニ不容易御鴻業之御事ニ一候︒右ニ付御家中一一統末々ニ歪

迄流言巷説ニ不迷︑前書之尊慮ヲ以根軸ト桐心得︑第一御供之面々者一途ニ侍従椋御警衛仰上︑御宿意被為遂候様励出

精可致候︒御閏許江訟在候輩モ右之尊慮ヲ定規ニ致シ︑衆心一和治国安民之道ヲ深ク休任致シ︑日然長崎表仰領海共異

変有之候ハ者︑明無御子抜様各勤ヲ励︑︑︑︑中将様︵筆者註長博︶御安心被遊候様︑抽丹誠可巾候︒惣而公式之御形勢ヲ

始諸藩之情態ニ就テハ異説紛々タル儀ニ而︑上下ト無ク疑惑ヲ正シ︑明−一変シタニ替リ︑定説無之︑就而ハ真偽探索−一

モ不至︑比以後浮説ニ迷ヒ候輩致出来候テハ︑人心不和之基ニ相成以之外ノ儀ト︑御両殿様深御配慮被遊候御事ニ候︒

御国許人気動静者乃京師ニテノ御用旋之成否ニ関係不容易儀ニ付︑右之辺何レモ篤ト遂勘静︑万一御国家ノ御不為筋杯

ト切

迫之

説−

一承

込候

義有

之候

共︑

同被成︑臨機応変之御所置ニ出候事ニ可有之候処︑右等之仰深慮モ不奉伺︑只管一事之上ニテ鎖細ノ儀ヲモ心ヲ什ヶ︑ 軽卒ニ不騒立存念之魁ハ立︵筋迄伺出可申候︑叉於京師之御周旋者叡慮御根紬ヲ御伺

御供之而々ノ内︑自然疑惑ヲ生シ︑騒擾致シ候犠共有之候而ハ︑限前御大業之御妨ニ有成候条︑何レモ致安心吃度可遂

勘静︑素ヨリ御宿意御動可被成様モ無之候ニ付︑御成功ヲ可奉祈候︒去迫存寄候儀ヲ被差押候訊ニ而ハ曽テ無之︑万一

不審ノ廉モ有之輩ハ地旅共不閣可申出候︒釦取捨ハ上ニ有之儀ニ付︑吟味ノ土御採用可被成︑事柄ニ寄テハ︑於京師叡

慮御照合被成︑御周旋之御廉ニ御取用被遊ニテ可有之候条︑無泥建白可致候︒此節御上京者誠一一非常ノ御儀ニ而︑如何

黒田

長湾

と筑

前勤

王派

︵西

尾﹀

五 九

(15)

黒田

長瀞

と筑

前勤

王派

︵西

尾︶

。

ナル時変ニ押移候共第一上之御

R

リ如磐石厳然被為在︑明御動被為遊間鋪︑家老中江モ右之御趣意恭敬承︑偲令身分臨

ニ相成候共幕末モ私心ヲ挟ミ申問鋪旨︑御両公様御神前−一而御誓約被成候ニ付︑中老初請役人諸士中江モ則御神前−一而

右之御趣意被仰出事−一候︒斯迄御配慮被為花侠趣︑何レモ心魂ニ銘シ忠節可被励候︒右ニ付格別之御前途ヲ御祝被成︑

御備ニ相成御酒上下為誓約頂戴被仰付侠思召ニ付︑御趣意之儀︑無二念難有奉敬服候策ハ︑直ニ龍山市蛾可仕候事

右の演逮を長鴻の一落体制及び落主権確立の企図と考える理由及びその窯図するものは次の諸点にあると考える︒

1 

乙の発表が藩祖村前において︑神酒頂戴による壁画約の形式を取っていること︒そして乙の形式は月形洗賊建自の中に

見ら

れた

︑

藩祖と長鴻との紐帯的結合の試みと同じく︑諸君意識の払拭と長鴻の独裁権の宣言を意味すると考えてよい

占 山︒

2乙の務体制の︑従ってまた長禅の落主権の原則が︑﹁尊王強夷之思召碗乎と被押立﹂という点にあり︑それがまた

﹁御宿意﹂であって︑月形洗蔵に対して万延元年に洩らした﹁根底在帝勅﹂の︑はっきりした宣言である点︒

3 

一落休制の権威の根元が︑彼の心に秘められていた﹁根底在帝勅﹂の決意と同じ意味で﹁叡慮を根軸とす﹂る点に求

められ︑更に藩内に対しては︑そうした長補の決意が﹁尊慮を根軸として﹂︑﹁般令身分臨に相成候共屯米も私心を挟ま

ず﹂

︑

﹁無二念奉敬﹂という絶対服従を要求している点︒つまり﹁叡慮﹂をふりかざしての﹁尊慮﹂の絶対性の主張がな

され

てい

る点

︒ 4 

藩内における優勢な因循派に対する﹁尊接﹂への説得が主たる目的となっていること︑

そし

て︑

それが﹁老中被仰

合﹂という悶循派譜代上層家臣との合議として︑中老以下請士への服従要求になっているとと︑この点に長却の独裁的決

意が濃厚とみられる点︒

(16)

5 

しか

し︑

ζのζとは一方藩内の勤王派に対しても︑長鴻が直ちに勤王派と結合することを意味するものでなく︑

ー寸

臨

機応変﹂的な含みを残している点︒即ちとのことは︑藩内の勤主派︑因循派の対立を防ぐ上にも︑必要な︑両派

K

対して超

越的な独裁権であり︑また長博の幕藩大名としての︑天朝←幕府←大名という命令系統巻否定し起ない意味での﹁主国御

安危﹂に対する﹁御深謀﹂という含みをもった﹁尊撞﹂であった点︒つまり︑文久三年一二月以来の公式御和熟︑将軍の嬢

夷名刺の現体制村続の限りでの︑一い比一間の﹁噂挫﹂であったとと︒また以上の窓闘における長博の独裁的務主桁を得定しな

い限りでの説内幼主派の採用という点

6 

こうして似子長知は︑長博の怠を体して︑九月二十六日上京の途につき︑翠元治元年四月二十六日福間焔務まで︑京都

に於ては各方面︵薩州・中川宮・二条・近衛・松平越前・松平容保等︶に対する長州寛免の通勤を︑そして往復の途中に

おいては長州に対して恭順勧奨の運動に努めた︒長博は闘癖大名の一人︑それだけに対外見識もあり︑外患憂慮も深い

が︑国内政治問題について権力的な意図はない︒被の士山すところは専ら外患に対して国内の分裂回避︑国論の紘一という

点にあって︑其の皇国の為めという観点から長州救助運動と接夷標拐とが出て来ている︒長知上京中︑朝廷方に対して建

白すること間間二回は長州に対する寛典の者望を述べ︑保理を正して後出兵すべしというにあり︑その中に﹁方今海内の

人心未だ一定に及ばず︑漸く近来に主り公武御和合水魚の御毅み遊され候御子始め且者外夷の騒擬も計り難く御肱候折

柄︑社問問御減却と巾に相成候ては︑川同州ぱ中に及ぼず諸藩共沸騰仕り︑或は不還の徒庶民を煽動致し︑皐悶の争論と相成

巾す可き欺と深く焦慮仕候﹂とある︒長州への圧力が全国内寸挫派激発の因となるという意味での︑長博の尊強採択の態度

が示されている︒第二回の越自は長州家老招致地を大阪とする件について︑入京許可の主張で︑ζれまた︑長州に対する

罪人払いが﹁忽ち憤激の気を発し的情覚束なく﹂することを憂えるためである︒第一二回は長州克典の条件について︑諮問

川民

間長

一得

と筑

前勤

王派

ハ西

尾︶

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(17)

里町

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商尾

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で︑

﹁悔悟の徴を顕はじ候心底御憐察:・社穣御削りなく御免仰利﹂げ︑七卿を帰京させるととがその主内容

となっている︒以上三度の建白は公家方に対するものであるが︑との他幕府に対しても︑

て公武一和の維持

幕

府の尊王表明ハ削廷方賄料贈進・御所修理の件﹀一︑公武一致の上での根本的政治方針決定一︑捜災の実績を示すた

め︑横浜鎖法談判官促一︑栴防のため︑大名帰国命令発布︑そして﹁猶御帰府のと:・太平遊情の臥御改革・梢浜鍋港確

然と嗣︐胸算を尽させられ度﹂と建白しているのである︒︵公伝︶ζ

れら

の事

が︑

七卿落ち以後の昭雄派の散発の情勢を背

景と

して

十ヤ

し

F眼されているととはいうまでもない︒

一万長州恭順勧奨陀ついては︑上京途上︑十月二日周防宮市にで三条及コ一条西より問旋方依刺され︑阿日開戸において

古川経幹からも依頼をうけ︑上京直殺から各方面に対して長知は七卿の帰京と長州の寛免説得運動を開始している︒帰途

は元

治一

五年

同月

四日

陀山

山京

︑二

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州世

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条実

美に

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謁し

た︒

ζの長知の長州刊子との曾見は︑﹁長州悔悟ノ事ヲ公武ヨリ筑州侯へ御委任﹂︵維新雑誌﹀の結果であるらしく︑ζ

の公

式的な任務の枚以を限って︑長州領を摘一過して下回したのであって﹁此節長防御踊通ノ義ハ実ニ一大下ニ名目ク諸藩−てナモ

評判﹂したといわれている

︵維

新鮒

誌︶

なお当然の乙とながら︑当時はまだ薄内の対立はなかったと見でよく︑以上のような運動に︑筑前家日間は︑のちの図

循・勤王一一派いずれも藩主の指令下に動いている︒長知に随従してト土口小し活躍したのは︑家老黒岡山城・泊︸一信濃・野村

東馬・文花采女・白水白・戸川佐五右衛門・喜多岡勇平・待井次郎兵衛等︑国許にで長鴻の桁令によって行動したもの

は︑家老級の矢野栴庵・早川護敬・久野五郎兵衛・麻回孫四郎・江上英之進・殿取護巴等で︑月形洗械もζのころから白

由の

身分

とな

り︑

五月には町方詮議役を仰付けられる︒た下︑長知上京中︑したがって譜第煎阿の大部分が上京中K

︑長

薄の手許に赦免後の勤王派が登用され︑活躍を始めているとと︑そして彼等の中に既に﹁激派﹂的な行動が一部動き出

(18)

し︑山城斬好計画や待井次郎兵衛暗殺計画がなされたり︑殊に元治元年三周二十四日には︑中村円太が脱獄して公金を所

持のま︑脱落し︑ζれと同じ頃に︑御用部屋吟味役牧市内が暗殺されているととは一応注意してよい点である︒

7 

何れにせよ︑以上の筑前藩の行動は︑公幕何れもから感謝され︑一応の成功であった乙とは︑四月十八日の宵位昇進に

よって︑長神は宰相︑長知は中将に昇進していることによっても明かであり︑長油はいよ/\との線での店叫慨を決意した

とはでよい︒一川治元年四月什七日の一一−条実美宛︑長博の書翰ハ月形家文書︑井上忠氏採訪︶にもその点がうかYわれるω

方翰法制仕候︑如賞論樽暑之節ニ候処弥御清適御起府被成奉欣眼候︒然者方今之時勢ニ付而ハ御目料品之通リ色々致苦心事

ニ供︒尊挫之寸志ハ兼而御伝承被ド候処︑去秋変動後愚息一卜川町守儀致上京段々致問旋候白モ御間被成預御台詞本怯之仕

人口ニ候︒此節切迫之時勢一際尽力致候様有之度被思召︑今日之時体如何相見込候や実以皇国安危存亡之口と被思召何れ

擁夷

L Y −御住民効溜不相立候半而ハ邦内壊乱之禍相発候事ハ顕然ニ有之片時も早︿謄懲之事事被行︑多年之農念貫徹仕候様

十句之⁝出御懇願之回目︑御尤之御儀︑素より於拙子も御同意之事ニ一候︒為国家御厚配之程不堪感荷候︒於弊落何欺紛乱之風

同御伝永被成如何之事哉と御懸念被一卜此節

士山平悦カ︸議格別設用いたし士気振作弥以鼓動仕候ハず諸藩之先侶と相成附而奮起之務も可有之国家之為無此上大半と被思召︑就 人心一和専要之義−一有之︑兼而被達ヵ朝廷人望有之矢野栴庵等行士山抗議之

而ハ委山被仰下傾趣具ニ致敬承︑御心添之程ハ厚恭奉感謝︑弊蒸紛乱と申ハ定而先此より料市之者流一一=口ニ兆一ひ過激不法

之致一山中止亡命仕快事件︵鎗者誌︑牧市内暗殺事件﹀ニ而可有之︑有者全く蒋税而巳を為信用片山/〜分際を忘れ血気にはや

り候

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一統之所ハザ九而紛乱いたし候程之儀も知之︑兎灼之事大造ニ市触侠ハ天下之通情−一而はか

︵﹁心い脱力︶らず仰配慮を掛け汗背之主ニ候︒祢以人一和を宗といたし致処嵐︑矢野栴庵初之儀も篤と遂勘弁抑制加申付候ニ而可有之

候︒

山本

之上・布市守致処置悦儀悶主々々之械学ニ付︑乍不京国政筋・之儀尚呉々も時休ニ叶候線致忠康現業を以相一不候党悟.

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ニ御感候問︑午慮外御放念被下度候︒下野守儀も昨日致帰国供之家老一同一応存念申出陪倣趣ニ候得共︑未タ委細ニハ

開届之寸暇知之︑尚重畳・叩合候様可致候︑何様不容易時勢其上当時之御身柄−一什色々之犠御耳ニ入︑御憤慨を被添候儀

可有御雄と致慰察候︑兎角浮説流一言に御迷不被成︑神州実之御為筋確平と御鼎りを被相立︑縞ニ御尽力有御座度翻儀

と7為天下全型仕儀ニ御座候︒不存寄段々預御懇一不不浅恭泰存候ニ付︑円疋よりも無覆臓貴答ニ都窓仕吐露候︒失礼之段

ハ不思御間取可被下候恐憧謹言

松 平 美 濃 守

問月廿七日

条 実 美 様

しかるに長鴻のこの決意に一つの嵯肢を来す事件が発生した︒元治元年の七月I寸八日の禁門の変がそれであって︑同日

長州追川の宜回目があり︑二十三四には征長令が出された︒そして此度は公家方にも︑幕府方にも長州に対する反感が増大

して︑長博の養母︵斉清夫人︶筋に当る二条関自家からは︑これ以上の筑前藩の長州に対する周旋に反対する書面が到来

じ

一掃

出家

から

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意見

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に伝

えら

れた

︒

ハ公

伝︶

一方京都所司代及幕府大目附からは︑長州に対する偵察

を命じて来た︒そして筑前藩は長州攻子の第一軍を命ぜられている︒長縛の立場は相当苦しいものになったととは明かで

ある︒しかし長博は従来の態度を変えなかった︒﹁公伝﹂によれば︑長縛は﹁家老以下の諸役人を曾し︑且広く領内有志

者の意見脅提出せしめ﹂た上で︑﹁長藩周旋の為には嫌疑を避けず心力を掲すべし﹂と決定し︑老臣黒田裕・膳も大音兵部

も何れもこれに同意したという︒長州必死の防戦が全国的内乱に拡大し︑延いてそれが外侮を招くことを愛えている点は

従米と同じである︒

たY

注意

すべ

きは

︑

この禽合の時の発言の主たるものが︑矢野悔庵︵恐らく三条の言によって長一昨が新しく家老に誤用

じた勤主派家老﹀の長州救助説と月形洗蔵の薩長提批説であって︑との勤王派の二者が長博によって採用され︑この附刀

(20)

形は薩長提携運動を長博から専任されたとと︑ぞれに対して︑譜代家老等はかの神前盟約の子前もあって反対こそしない

が消極的な賛意を示したに過ぎないという空気が生じて来たかと思われる乙とである︒このような傾向は︑防長田天史

κ

よれば︑九月二十二日福岡藩は︑幕府の嫌疑を避けるため長州と絶交を申入れており︑しかも十月二十九日には小金丸兵

次郎がわざわざ伊万里から乗船して︑長州に赴いているが︑これは久留米藩の淵上郁太郎が主唱して︑矢野栴庵・黒田播

ぃ駐

を動

かし

ての

こと

で︑

いわば下級の勤主激派によって︑ト一層部の方針たる絶交が破られでいる点にも見られ︑また月形

の伝記によれば﹁此頃矢野・大音の二老から洗蔵に︑長州への密使の往来は他の嫌疑もあり︑吏人を用い難いから品目君

ハ洗蔵・筆者註

u

k委任せよとの君意だから︑同志謀りて尽力せよと命ぜられた故に︑諸士を敵状を探る問者︵幕府方の

命令あり︑筆者︶の名目で︑岩国長府・萩に分遣し﹂たとある︒幕府の嫌疑を避けることは︑因循・勤王二派何れにも必

要であろうが︑その問自ら嫌疑を避ける方に力点を置くのが因循派百一臣級であり︑嫌疑をもさけず敢て行動せんとするの

が勤

王派

下十

一細

川を

ある

こと

はい

うま

でも

なく

︑

乙こから落体制に微妙な亀裂の生じはじめるζとは杏めない︒長滞として

は︑その決志に於ては﹁嫌疑をさけず﹂というのであるから︑この点劫主派の活用・登用の結巣となるが︑この嫌疑が事

実上の筑前孫に対する圧力となる時︑勤主派を切り捨てるとともあり得ることは︑幕落大名の専制的な性格として︑この

ような責任問避の行為は当時一般にあり得た乙とも考えられるから︑ζの点も亦微妙な問題である︒

8 

とにかく︑以上の如き長鴻の決意によって︑とれ以後︑一冗治元年十二月二十九日の征長軍解兵令まで︑筑前議は多方面

に一息って長州救助のための周旋に活催し︑乙の周旋活動を通じて筑前勤主派の日発化と藩政における地枕の上昇が若しか

った︒活動方面としては︑長州の恭順説得・長藩俗論党による疋議派志士鮮圧緩和説得・薩長和解提抗のための薩及長両

藩に対する了解運動・岩国藩に対する幕府への宗藩長州救助方勧説︑五卿引取問題に関しての︑五卿に対する了解運動・

即帰

国長

博と

筑前

勤王

派︵

西尾

﹀

六五

(21)

黒団

長山

仰と

筑前

勤王

派︵

西尾

︶

L︑ ︑ 品 ︑ ︑

4ノ4ノ

渡海決窓似進連動・選座期限決定交渉・奇兵隊等長州諸隊に対する五卿譲渡諒解運動・薩摩に対する協力方交沙・五卿方

・薩摩・筑前一一一者の最後的曾談︑そして最後の段階に入って広ぬにおける尾張征長軍総叔けに対する征長室無血解除運動・

長州降伏条件の緩和運動等である︒またこれらの運動に従事した筑前勤王派は︑藩内勤王派の中核としての家老矢野相模

︵梅庵﹀︑店張度勝に征長軍解除を果させた側用人格加藤可訟をはじめ︑﹁過激の張本人﹂といわれた月形洗脳︑脱藩じ

て長州にあり︑由げ巾に外から筑前落勤王一点を激励してやまない中村円太以ド︑克円多聞勇平・森安平・万代安之一進・早川長敬

−建部武彦・越智小平太・浅香一索・関取養巴・小金丸兵次郎・筑紫衛・長谷川範蔵等であるが︑もとより筑前藩の勤王

一点が乙れに尽きるものでない事は︑乙丑の獄の処刑者名を一見するだけでも明かである︒

とれ

らの

出土

の元

払い

刈年

中に

お

ける行動の一面は︑最近井上忠氏の採訪による﹁月形家文書﹂中の書簡類によって窺い得られると思うが︑人寸ζこではそ

の余

川怖

をも

たな

い

きて

従来

︑

ζの筑前藩の長州問旋に関する評価は極めて低いといってよく︑専ら薩摩の西郷の功結が認められている傾が

強い︒もとより長州救助を念願した諸藩は筑前に限らず多かったと思うし︑事実長州救解に動いた務が筑前のみというの

では

ない

が︑

一審をあげてのその熱意と実績に於て筑前は最も努力を尽したものと見るべきである︒西郷の如きも勝海舟

の説得によって軒長の意を醜し︑長州の事は長州自身によって処置きせる事を︑京都から西下の途次決意してはいるが︑

彼の長州降伏条件及び長州攻伐の戦略意図は相当強硬なものがあり︑筑前の長湾のそれとは異質的なものがあるし︑五卿

問題については殆んど最初より︑筑前の喜多岡勇平の申出に委任した形であった︒この乙・とは院長閑の対立が既に文久二

年頃より激化し殊に祭門変以後の長州側の反感もあり︑怠ればとそ筑前慈月形たちの薩長和解工作も必要とされたのであ

って

︑

ζの工作によって薩摩が動き︑障摩の当時における地位の大ききがその動きによる効果を印象的にしたと考えられる

のであるh維新雑誌に征長解兵運動について︑﹁筑前侯長州之事件ニ付︑深く御周旋有之︑尾張会ニも御精忠之段桝感心有

(22)

之︑他家之使節ハ御日見限ニ候得共︑加藤司書ハいつも御前江被有御密談度々有之﹂というのが真相に近いと思われる︒

9 

以上の経過の後︑慶応元年に入り︑筑前落には一一つの路線が交錯する乙とになる︒一つは長時の窓閲した藩体制樹立︑

従って彼の護京的以場から脱却しての藩主権確立の成功︑及び長州問旋の貫徹を通じての筑前藩動主派との結合︑即ち長

博の務主権樹況の新長躍としての動主派の採用一つは幕落大名たる長却に対する︑幕府側の薩州同気・長州同気という

嫌疑反感の増大︑筑前に対する第二の長州︵五卿の太宰府転庖による︶視による離間威圧工作から生ずる︑

柑構

内一

般の

﹁藩難﹂到来の危機感の増大と因循派章一臣層の長鴻政権に対する消極的抵抗運動である︒

前者は慶応一光年︵元治二年︶二月十一日の藩庁人事異動に日比られる勤王派内閣的性格に端的に一不されるもの︒西郷が黒

田嘉

右衛

門医

報じ

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︑殊

K加藤は乙

の度の新設用であり︑その職分は御財用元締郡町一向受持という︑務政の実質的中械に据えられた︒大同附役は梶原諸太夫

−河村五左衛門に並んで勤王派斎藤五六郎が登用され︑小仙川顕には熊沢ご一郎兵衛に並んで勤王派衣非︵斐とも︶茂記が進

出︑御用聞に勤王派辺部武彦︑勘定準行に岡部践に並んで勤王派栴伴幸一あり︑御用部屋には民藤登・中村到・小金丸兵

次郎・書多岡勇平等勤王派を以って占めるという状態︑﹁其以下に至而ハ数も不知︑実ニハ勤主派が︶御家中半ニ相成︑

不容易形勢なり﹂といわれている︵維新雑誌・腔応元年乙量附録﹀凶郷はこれを報じた書簡即ち五月二十六日開で黒田

嘉右衛門

n L 代太宰府︶宛に﹁筑・米の両藩は力を尽し候得ば︑打一話必ず可ぃ竹之〜抑止て︑片腕には相成候問︑何卒御手を付

置可

被下

﹂と

一以

って

いる

︒

︵大

西郷

令一

生︶

乙の勤王派の務政進出は従来くすぶって来た凶循派・勤王派の対交を決定的なものにした︒維新雑誌のいう所はこれを

よく説明している︒

目的

問長

鴻と

筑前

勤王

派︵

西尾

︶

六七

(23)

黒田

長鴻

と筑

前勤

王派

︵西

尾﹀

﹂

︑ ー ︑

一 ︐ ︐ ︐ ︐ ︐

近年福岡家中勤王家因循家両派に別れ臼ら双方確執を生じ︑勤王家は専ら醸長の志操を尊び︑朝廷之御飽意を遵奉して

接英論を主張し︑過激之挙動次第に増長し︑他蕃之向々江密ニ親睦し︑我意之振廻多端にレて重役之命を不用︑因循家

ハ専ら幕命を重じ政令是迄之通ニ有之よりして過激の勤主家に圧倒せられ云々

また次のような両派の定訟も興味のあるものである

公民接点と開港の目的相違より︑前侯隅臣ニ至る迄各方向の立方に依り︑効王家と称し閃循家と唱ふ︒天朝の御旨を奉

戒し合戦の勝以に拘らず︑異賊をして我引国に入立じと大和魂の赤心令顕し︑国亡身死と雌恥る所なしと口実し︑暴行

我儲を振ふ︑是を勤王家と言ふ︒叉天朝の御趣意は奉戴し︑幕府の令を重んじ︑公幕の問氷解し︑問鎖の論一花帰し︒

訴府より一般の諸僕へ下知なくては︑藩々区々にては連も擦夷は遂げ難しと思ひ︑勝算なき戦争は不可九と思慮する︑

目疋

を因

循家

と唱

ふ一

五々

との定義を長一叫にあてはめるとき︑むしろ因循家の列に入るべきととが考えられる点は注目してよい︒ζの蓄の存者臨

紅一千酔月日士にとって勤主派・因循派の相違はむしろ︑過激派と保守漸進派の相違と見てよく︑乙のニュアンスの相進は

勤寸

士一

山と

悶何

派と

の対

ν

一にあるだけでなく︑勤王派内部にも︑上脳出家同級と下級家士層との聞にも︑また年齢的な杓巡等

によっても当然あり得たことは考えておいてよい︒

1 0  

次に以上の勤王派の進出が︑恐らく長博の藩主権の確立即ち義君的落主よりの脱却の意図の発動として行われたと考え

られる点がある︒それは一つにはこの年六尽に至って︑動王派の処罰が開始された時︑閃循派家老たちは長博K

対し

て︑

﹁帯主の目減﹂を巾山川て︑長鴻に勤王激派登用の責任をとちせようとしているζ

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一月

の勤王派登用前後に︑因循派家臣問が︑治んど﹁総引入﹂・﹁総辞職蹴出﹂となっており︑いわば長持の独裁栴に対する

(24)

サボタlジコという抵抗運動に入っているからである︒即ち維新雑誌の記事によれば︑二月十一日以前︑大老黒問播府・

大和父子・大音閃矯引入退職願出︑三月上旬︑家老浦上信濃依願退職・御用人衆惣引入・野村東馬退職剛山・御納戸久野

一角長々引入退職岡山・裏判岸田瀬左衛門・大塚七左衛門︿工上・御用聞川越叉左衛門御昭御免・御用人加左近強て再勤︑

再び

引入

︒一

一一

月十

三日

御側

筒役

1

同人惣副入・家老小川・林両人再出仕の所再引入退職願出という有絞であり︑長時とし

ては強制出仕を命じている以合もあるが︑とにかく﹁因循家主役不残引入﹂といわれ得るような状態が一ヶ月前後に頁つ

て生じているのである3rん

に五

一仰

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一つ

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岐路

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たされたというべきである︒もとより長博としては︑彼の務主

権力の法燃を﹁藩内の一和﹂に求め︑そのため務祖神霊一前で神州を附んで家主聞に藩休制の結束宇佐誓約させたのであるか

ら︑彼を強刀として受け入れた譜代家老︵主として閃術派︶を退ける気はなく︑山本町聞の多数を占める附術派のボイコツ

トは藩政実施の不可能さえ芯起する恐れもあり︑彼は引入りの家臣に対して山社命令ぞ行ったのである︒一方乙の事情は

ほY勤王派にとっても同様なものがあり︑少数の勤王派は︑関循派の中から一人でも多く勤王派への参加︑というよりも

転向者を猪ねする乙とが急務になったと忠われる︒つまり︑勤王派としては︑悶循派総退却中の独壇上において︑務休制

を令一蒋劫王体制に切り特えることに焦慮したのであり︑乙の焦慮が強制となり強引となり仔迫となるというように︑次第

に過激化の傾向をも示したばかりでなく︑更に同様な調子壱以って︑球主長一叫に対しても︑長時の立閃以上の型以が出さ

れることになった︒つまりは長一仰の藩主権白休が︑下から突き上げられる恐れすら生じて来たのであるつ

こう

して

一一

一月

上旬

頃は

︑

﹁仰疋役方不仰向御混雑﹂という蒋仙に陥っているが︑勤王派による強引な閃術派引込運動につ

いて︑維新雑誌はその様々な姿を描いて精細である︒説得−m川迫によって︑やむなく再出仕するもの︑再出仕しても︑到

底勤王派と輿みし得ず︑再び引入るもの︑勤王派の強制に巻かれた振りをして︑勤王派の内情を長鴻に密告するものなど

さまぎまである︒説得による引込み運動の成功した例は大老黒田播磨の転向であって︑播磨は﹁兼々之因循家︑加藤司常一一

黒田

長樽

と筑

前勤

王派

︵西

尾︶

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九

(25)

黒閏

長湾

と筑

前勤

王派

︵西

尾︶

七

。

殿の弁論ニ圧倒され︑遂に勤王家ニ御傾き﹂︑ことに大老黒田橋陪と︑﹁勤王派大関﹂といわれた加綴司書と建部武彦と

の姻戚関係による勤王一点の中核が成立した︒また脅迫事件で大き円いものは︑三阪小兵衛事件といわれるもので︑隠退中の

中老

級十

一二

名に

対し

加藤

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一一

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一一

名は

長一

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て迎

名で

これ

を訴

え出

てい

る︒筑前藩の場合︑往々他濯に見られるような︑佐幕派が帯主を擁して勤王派を弾圧するという形勢は児られない︒関循

派はかの神前盟約のためか︑極めて消制的な抵抗を示すだけであり︑その抵抗はむしろ﹁対長時﹂の山わである︒そしてζ

のことからも乙丑の獄は︑因循派と勤王派の対決ではなくて︑長博と勤王派との対決であったことを考えさせるのであ

る︒それが最後に至って︑端的に︑いわゆる犬鳴山事件になってあらわれるのである︒

1 1  

いわゆる勤主派政権は︑二月から六月までの四ヶ月にすぎない︒乙の聞における長一昨に対する下からの突き上げの事実

は次の如︑きものである︒第一は維新雑誌に﹁劫主過激之市︑矢野加藤両御家老之御宅へ日々寄集り︑御政体其外御改正筋

様々集議致居候よし﹂といわれるもので︑勤王派の衆議が︑家老級のパイプを通じて︑長祷の溶主権に下から圧力を加え

る形が出て来たこと︑乙れを長漕が不快Kmむった乙とは︑のち弾圧閥始と共に乙れが禁止事項の一つになっている乙とか

らもわかる︒第二はそのパイプとして前述の大老黒田播磨・加藤司書・建部武彦三人の血縁的な幼主派組織の中核が成立

したこと︒第三はその黒田搭踏の加盟直後と思われる三月四日︑黒田播磨を筆頭として家老一同の迎名を以って︑建議書

が長鴻に対して提出され︑従来の長博の藩休制の意図に変革が要求されていること︒ζ

れは

加藤

可証

一

m伝に会文が掲載され

ている︒本文は先づ長博の勤王派政権に対する不信感の問題から入っている︒﹁是迄不寄思召相伺御趣旨を請け︑宰判仕

様に候得共︑近来之処は何となく席に而申合相何候牒思羽に相振れ候儀有之不束之身分奉恐入候︒﹂家老たちの決議事項

が長鴻の意に合致しない様だが︑それを家老の一広い分に合せてくれというのが︑この建議内容の一つである︒時勢の変化

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