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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

Notes on the Inner Speech-form

毛利, 可信

https://doi.org/10.15017/2332835

出版情報:文學研究. 60, pp.23-48, 1961-03-20. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

序 説

この小諭ては︑意味と形式︑思考と言語の関係を背景として︑

内部言語形式というものの考えられる根拠︑ならびにその機能を

考察し︑さらに︑この種の原理的考察が︑単なる空理空論︑ある

いは抽象的な大乗論に終わるものでなく︑具体的な語法研究の基

礎として重要なものであるということを述べてみたい︒

近頃︑文体論や修辞学の研究が益々盛になり︑また︑口語︑ハナ

シコトバ︑'慣用語法等に多くの関心が寄せられている︒これらは

みな具休的表現の面白さの研究という点で共通のものを持ってお

り︑いわゆる文法学の方も狭義の文法ーー規範文法ーから拡張

され︑個々の言語事実をあるがままに見る︑という方向を経て︑

文休論に接近しつつあるようである︒

このような研究怯をかりに﹁広義の文休論﹂と呼んでよいと思

うが︑この方面の研究について物足りなく慇ぜられる点は︑それ

が大体において︑具体的表現の形式面を偏重するのあまり︑言語

理論のうらづけかなされていない︑少なくとも統一的にはなされ

ていない︑ということである︒以下はその点に一歩︑深く入りこ

むための前提としての︑内部言語形式研究のささやかな覚え書き

内 部

ー 意 昧

ロ 語

であ

る︒

一︑抽象論と具体的研究

前に述べた︑理論か実践か︑抽象論か具体論かという︑対立の

問題は︑文法的︑語法的問題に必ずつきまとうのであるが︑これ

ら対立する一一面は︑結局は︱つの研究の表哀をなすものて︑その

︱つを欠いては他は無意味か︑あるいは少なくとも︑不徹底な研

究に終わる

‑ 3

理論の話しに深入りすると︑ともすれは︑﹁何も罪くつはいら

ぬ︒具体的な語法を論せよ﹂という戸がかかる︒実はこの声は不

可能を求める声である︒

たとえば︑英語の表現に

That's  i

t 

(そう︑それだ︑その通りだ︶という語法がある︒

この文について主語は

th at

it

かということがしはしは論ぜ

られ︑近頃は

th at

の方が主語だということが常識となっている

が︑何にせよ︑この文の字匂だけをいじり廻したとて実は何も結

論は出てこない︒問題は﹁主語とは何か﹂という立場如何にあ

る︒主語の定義如何によっては

it

が主語だという立場もあり得

る︒立場の相逃を餌祝して︑﹁どれが主語か﹂で争うことは水掛

探 究 ー

形 式 ノ ー ト

99 2

(3)

論を招く忙過きない︒こんな小さな文の主語という問題ではあっ

ても︑それは主詰論を必要とし︑それは﹁主語十述語﹂の問題︑

従って︑命題の論理的構造とその表現法との一致︑不一致の問題

から出発しなけれは︑何も論ずることができない︒

筆者は︑英文について︑﹁この文のこれは主語ですか︑補梧で

すか﹂﹁こ訊は補語ですか︑副詞ですか﹂︑﹁これは修飾語です

か︑連語ですか﹂などの問を受けて当惑することか多い︒自分の

考えで答えようと息えは︑まず自分の文怯賎から述べ立てなけれ

ばならない︒そして︑それは恐ろしく抽象的な議論になるものだ

ということを知っているから︑答えるのがつい面釦になる︒自分

の考えでなしに︑外国の学者などの説を紹介しようとしても結果

は同しであって︑ただ結論だけ言ったのでは︑質問者を納得させ

ることはできない︒ある学者が︑﹁この文では主語はこれだ﹂と

いったのを納得するためには︑その文法学者の全体系を理解しな

ければならない︒決して︑その問題のその部分だけを切り離すと

いうことにできないもので︑具体的な語法解釈にあらわれる問四

は︑必然的にその論者の全体系を背景とするものだからである︒

こう考えると︑上のような質問事項を特定の人に向かって︑

﹁具体的な而だけ﹂と限ってたずねるのは無意味であるというこ

とになる︒そのように悟った人はこう言うであろう︒

﹁そんな︑主語とか︑補語とか︑修飾語とか述語とか︑いう問

屈はどっちだっていいではないか︒みんな怠味は分かっているの

だから具体的運用に翌熟すればよい︒要するに意味さえ分かれば

何も問題はないはずだ﹂と︒

一言閉の実用的習熟という面からみれば︑この方針で行くより 仕方がない︒竿者もそれに賛成であるが︑右の怠見には︑はしなくも︑意味と形式との関係について見逃すへからざる問題点か訳んでいる︒それは﹁意味は分かっているのだから﹂という所にある︒このことは︑﹁形式上の見解を異にするものでも︑同一の意味を把桐し得る﹂ということである︒これは︑言いかえれは︑応味は形式に沿って存在するものとは限らないということであり︑また︑構造を異にする︱i言語間で翻訳が可能だということの副明

でも

ある

たと

えば

Th is s     i Ja ne   sp ea ki ng . 

(こちらはジェーンてす︶︹電話口

での

応答

の英文︑和文は単語の差異を無視しても︑なお︑全然異なった構

造を持つが︑この和文が翻訳として正しいならば︑この二︐又は同

. .

一の意味をあらわすということになる︒この二文を︑それぞれ︑

 

形式的構成要素に分解してその総和をとるとき︑この二文は阿一

でない︒形式を分析して得られた︑﹁いわゆる意味﹂は異なるか

﹁真の意味﹂は同一である︒そのような︑この二文を比較して︑

われわれは︑﹁いわゆる怠味﹂と﹁兵のぶ味﹂とは同じでないこ

とを

知る

従っ

て︑

Th is i s  Ja ne   sp ea ki ng . 

の構造を木質的に論ずると

なれは︑われわれは︑この四語を分析して得られた︑いわゆる邸

味て満足できず︑真の意味に立ち婦り︑意味と表税形式との関係

を論する必要があり︑それは﹁意味とは何か﹂という根本的な議

論になる︒︿第六章参照︶

具体的語法を論ずるには︑このように抽象的議論が必要なので

(4)

あり︑ここを無視して︑﹁もっと地に足をつけた具体的な議論を

せよ﹂などと言うような議論は大して役に立たないことは明らか

であ

ろう

i︑内部言語形式のあり方

ある英語の文︑ある日本語の文というような個々の具体例は︑

これは外部的に音声をもって発せられた一っ︱つの言語事実︑ま

たは年写によるその記録であり︑これはすなわち︱つの外部言語

形式

(O ut er sp ee ch

  , f

or m) である︒これに対し︑そういう文

の真の涵味というのは︑その話者の心的内容︑すなわち表象の把

握︑慇動する帖意︑または︑.普編的論理

(U ni ve rs al Lo gi c)

所産などで︑これは︑表現しようとすれば︑その時々の必要に応

じて︑︐英語でも表現できるはずのもの︑挽言すれば︑﹁表現の質

料﹂である︒

問題は︑この﹁外部言語形式﹂と﹁意味﹂との中間にある︒す

なわち︑どういう外部言語形式へもって行くかという心的デザイ

ンの過程である︒日本語で﹁雨が降って外出できない﹂というの

を︑英閉て

Th e  r ai n  pr ev en ts

 me 

fr om

  gomg o

u t.  

と表塩するという場合︑表現法の比較ということは︑直接的には

﹁ア

メ﹂

' ra i n ' のちがいに関係するのてはない︒当然それ︐

は︑以上の二文の構造のちがいでなければならないと思う︒

日本語・﹁降雨←﹁結果として︶外出不能﹂

英諾・﹁動作主としての雨が私を妨害﹇外出から﹂

右のような構造上の相迩が︑英語・日本語の表現法の相途であ

り︑これは︑表現上の一つのデザイン︵構図︶あるいは

Ge st al t

に閲する問題である︒そしてこの種のデザインという過程は︑明

らかに﹁忍味﹂と﹁外部言臣形式﹂の中間において考えられるは

ずのものである︒すなわち︑それは﹁意味﹂の側から見れは︑

﹁ある事象か起こった﹂﹁ある感情か動いた﹂などの心的内容を

言語にあらわすのに︑どのような形にもっていけば便利かと考え

る過程︑すなわち︑一種の﹁編集﹂の過程であり︑外部言語形式

の側からみれは︑それは︑普涌の地図に対する白地図の如きもの

という意味においての︱つの﹁準備表象﹂なのである︒

このデザインは﹁意味﹂そのものでなく︑明らかに︑それを表

現する手段に属すべきであるから︑やはり﹁言語形式﹂である︒

ただそれが具体的一言語の形︵﹁アメガ:.﹂または﹁ザ・レイン

・:﹂という発声︶をとる以前の心の中での作用であるから︑これ

を﹁内部言語形式﹂

(I nn er Sp ee ch

  , f

or m)

と呼ふ︒このテザイ

ンの過程が︑伝承・恨習によって︵半ば︶無意識に行なわれるか

らといって︑そういう活動がないということにならない︒

外部言語形式の方は︑内部言語形式というデザインを考えたう

えで︑いわば︑ちがった生地で服を作っていくようなもので︑従

って︑デザインについての比較研究であるときは︑生地の質︑色

などの比較は一応無視することが望ましい︒同校な意味で︑

英語

I t

ra in s.  

仏語

1 1 p lu i t . 

独語

Es re gn et . 

の三つの文については︑内部言語形式は共通である︒または同一

であると言える︒この際

i t

i l  

es なる語形上の相迩は当然無

視してよい︒ところが︑この三つの文を

i0 

(5)

日本語﹁雨が降る﹂︵意味は三文と同一︶と比餃するとき︑明

らかに︑ここでは︑構造の相追が問題になることがわかる︒その

点を︑いくつかの学説によって説明すると次のようになる︒

三︑学説おぽえ書き

ガードナーは内部言語形式という術語は用いないけれども︑発

話の時の﹁編集﹂について次のような意見を述べている︒

夫妻が本を読んでいるとき︑雨が降り出したのを見て︑夫が

Ra in

! 

(雨だ︶と叫んだことについて︑その表坦の仕方がいろ

いろ育り得ると述べているところである

J .

雨は実在し︑表現法をいくら変えても︑雨が降っている事実に

は裟わりかない︒しかし︑その心的投影を捉示するとなれば︑

Lo ok   ho w  i t   r a i ns .

  のように動作としても︑

Lo ok at t  he  

. .

 

r ai n

.   のように﹁雨﹂というものを中心としても提不できるわ

けであって︑こう考えると︑対象

(T hi ng

, me

an t)

というも

のは︑心的制約ド︹

Me nt al ly co nd it io ne d)

のものというこ

と茄わかる︒たとえは︑粘土細工で物の形を作るようなものて

枯土そのものは同じでも︑これを用いて︑いろいろな形のもの

を作り得るのと似ている︒対象は︑これにより話者の心の中で

︱つの形をとり︑その形で聴者に与えられるのであり︑聴者は

それを話者の心的投影として受けとるのてあるが︑それに付随

する可能性に従って処平止し︑そして対象そのものを正確に把脚することができる。(杏目2および15•第四二節)

これは筆者が前.項で述へたことを︑粘土の比喩を用いて巧みに

述べたもので︑話者の心の中で︑心的制約を受けてできた︑表現

の準備体制は正に内部言品形式と呼ばれるべきであろう︒われわ れが︑物を言おうとして言い淀むとき︑または︑もっと効果的な表現をと探し求めるとき︑われわれに︑対象に細工を加えて︑その加工品を聴者に与えるか︑聴者の方は︑その様々の形式の差をのりこえて︑もとの対象を理解する︒環境︑文脈などの助けをかりて︑話者の意図した窓味と同一の意味を理解するのであるが︑その過程を﹁付随する

p J能性に従って処置し﹂と述べている︒わ

れわれか︑人の話しを理解して行く過程を分析してみると思い当

たることが多い︒

次にマルテイの説であるが︑マルテイの書に趾解であるから︑辞

典によって︑筐約された説明を求めると次のようになっている︒

マル

4にあっては︑外部言語形式によって直抗に表現される

心的現象と聴手に伝逹さるべき心的現象︵意味︶とが区別され

ることになる︒前者は外部言語形式の心的相関者であるが︑そ

れ自身意味ではなく︑たた意味を喚起するための防件表象・補

助表象にすぎないもので︑これがマルテイの言う内部言語形式

てあるしこれは外部言語形式と同様に表現方法に属するもの︑

表現手段の一形式であって︑意味と混同されてはならない︒(全日目11•

S. V. 'I nn er  S pe ec

h  , f

or m' ) 

マルテイの︑意味と形式とを峻別すべしとの説が紹介されてお

り︑このことは︑後でまた触れるが︑今ここて︑これに関連して

思い出されるのはフンケとイエスペルセンとの論争における機能

︵書

目1 9

参賠︶の問辿である︐周知のようにイエスペルセンは三階位説(書目3•4)を附えるにあたって

fu ri ou sl y 

barkin~dog

l I

(6)

などの︑三次語︑二次語︑一次語などの関係は﹁論理的なもの﹂

であると︑はじめは言い︑後に︑これを﹁機能上の区分﹂である

と訂正した︒彼は︑その時﹁意味︵概念︶﹂と﹁形式﹂との中間

に﹁機能﹂という区分を考え︑この三本立てで行くことを主張し

たに対し︑フンケは︑マルテイに従って︑意味と形式の︱一本立て

で行くべきであり︑その中問に﹁機能﹂を認めることは非難さる

べきであるとした︒フンケによれは︑たとえ︑意味と形式との交

わる所に問顧があるにせよ︑その交わり方︵表現の多様性など︶

は内部言語形式として若察すべきであり︑イエスペルセンのよう

に︑交わった状態︵意味と形式の食いちがいなと︶を︑意味であ

るか形式であるかを区別せずにそのまま︱つの術語を与えて︑一

見解決してしまったかのように処置してしまったのでは不当なの

である︒︵序ながら︑機能という術諾はガートナーのように︑あ

る表現形式が採用されたとき︑その目的に照らして︑その有効性

を論ずるときに用いるのが過当だと忍う︒︶

すなわち︑イエスペルセンの不徹底さは︑結局︑内部言語形式

の問題を深く考えず︑外部言語形式と意味とを直結して考え︑そ

こに生ずる不一致を﹁機能﹂という︑彼にあっては科学的に分析

されない術語でもって説明し去ったところにあると思う︒

トムスン

(R ob er t Th om so n)

は表象的中間過租

(R ep re se n

ta ti on al  M ed ia ti on   Pro ce ss )

という用語を用い︑次のように

説明している︒

ある対象

s

︵客観的実在︶はある種の行動を結果としてひき起

こす︒刺激の︑また別の製︑S

︵ サ イ ン

︑ 言 語

︶ は 適 切 な 付 加 条 件 の 下 で も と の

Sによって引き起こされた反応の一 部を引き起こす︒この一部を

R M

Pと

いう

︒ 頁 ︶

このようてあって︑これは︑主として単諾︵それも名詞︶につ

いて︑客観的実在により起こる反応︵全量︶に対し︑伝達手段た

る言語形式により喚迅される︑表象過程的な反応を指して言って

いるが︑聴者が感ずる

R M

Pは︑話者の側から言えば︑外部言語

形式をとる以前の準備表象に外ならない︒従って︑これはカーディナーの言う「意味対象」と「語の意味」の区別(書目2•第一

0

節︶のうちの後者にあたり︑これを︑文の構成にあてはめて考

えれは︑われわれが︑当面問題にしている内部言話形式の構成

の問題になるはずである︒

サンドマン

(M ,S an dm an n)

は︑﹁表象﹂と﹁息考﹂の区別

をあけ︑感銚器官によって︑直接的に感知されたものだけでは︑

﹁表象﹂の段陛にとどまるのであって︑その﹁表象﹂のうちから︑

﹁意図的思考﹂によって授択・編集して︑﹁判断﹂が生まれるので

あるという︒その意味の﹁思考﹂ならば︑それは︑当然︑ここで

われわれの言う内部言語形式のことになる︒

少し引用すれば︑

﹁表象﹂は本宜的に自動的な過程である︒すなわち︑感覚器官

と︑それを統御する頭脳があれば︑われわ託は︑ある種の状況

下では︑表象を免れることはできないe一方﹁息考﹂は︑本質

的に創造的であり︑建設的である︒それは︑単なる︑一連の連

合反応と対魚的に︑意図的行動からなっている︒この思考の意

図的性格は︑その分析的な面において︑すでに概念の形式にあ

らわれている︒想念

(C on ce pt io n)

すなわち︑人かあこ立呂

︵書

目 1 0

.一六八

27 

(7)

をとり︑その目的にそれを適令させることなくしては︑概念 (C on ce pt

・はない︒彼の目前にある表象的特長の中から︑今)

の彼の思考にもっとも役に立つものか︑揖択され優越性をあた

えられる︒表象のそれと比べて︑概念に︑高い知的価値を与え

る凪提となるものは︑この概念の怠図性にある︒︵上

E l目9

.七

0

頁 以 下

以上のようであって︑これは︑恋味の把握の仕方にも関係して

いるが︑一方ては︑息考者の﹁ある立場をとる動作﹂は︑結局︑

主語、述語のえらび方に•関係し、また「概念が構成されて息考を

なす﹂というとき︑その概念が︑もし掘象名詞であれは︑それは

比闇的に採択された形式なのてあるから︑やはり︑内部言語形式

の構成面を言っているのである︒抽象名詞を操作するということ

は︑内部言語形式における比喩︵書目

ては考えられない。• 1 4 参照︶ということを離れ

また︑同じくサンドマンの次の叙述も同様︑内部言語形式の比

喩に関係する︒

すなわち︑命名形式

(D ia cr it ic on )

と象徽形式

(S ym bo l)

の区別に言及し︑前者は﹁区別をつけるための椋識﹂であり︑ま

ちがわないために︑ある戸に+をつければ︑その印は前者の基本

的な例となり︑後者は︑連想により︑ものに結びつけられた梗識

であり︑キリスト教のシンボルとして十を用いれは︑それか︑後

者の例であるという︒この二者は︑一︳︱語形式の原義と比喩との︱‑

用法をのへたものである︒︵書目9.五︱‑頁︶

このように考えれは︑およそ文体・修辞を論ずる場合︑あるい

はいやしくも具体的言語事実の比較・分折を行なう場合に︑内部 四︑意味への接近すべての言語には﹁怠味﹂と﹁雷語形式﹂との一一面かある︒問題は﹁言語形式を分析して得られたものが直ちに真の送味であるとは限らない﹄ということへの月2識から出発する︒

われわれは︑言語の学習諜程において︑それが︑月国語であろ

うと︑外囚語であろうと︑幼少の煩から常に︵少なくも学校教育

においては常に︶︑形式の分析ということを不当に過州に練否さ

せられてきた︒そのため︑特殊な研究家は別として︑多くの人は

語学の教師てさえも︵あるいは︑語学の教師であるから尚更︶︑

﹃意味は︑言語形式に沿って︑あるいは︑即して存在する﹂とか

﹃表現手段がそのまま思ぢの構造を平行的に模写︑反映している﹄

ー 内 部 言 語 形 式 丁 構 文 の デ ザ イ ン を き め る 言 語 形 式

ー 八

外 部 言 語 形 式

← 英 独 仏 な ど 具 体 的 発

 

 

,99̲ 

 

語語語記~~一

•.

英仏独日~~一

①®③④~~ . 

l i

心 的 内 容

← 降 雨 な る 目 然 視 匁 の 派 忍

︱  

︱︱︱ 

44

言語形式の構造を明らかにすることの必要は︑ほぼ明らかにし得

た と 思 う

﹁意味﹂と﹁言語形式﹂との関係を上の四つの文について図ホ

すれは︑次のようになる3

(8)

とかいう見解におち入っている︒この見解は何らの根拠がないに

洵わらず︑少なくとも︑外国語学習などの場合においては︑一種

の便利さを伴なっているために︑いわば︑便宜上︑正当化されて

いるに過ぎない︒さらに﹃言語学は心理学や論理学から独立すべ

きものである﹄とか︑﹃意味というような︑客観的に分析・実証

できないものは︑一応別個に考えて︑文法では構造だけを論ずる

のがよい﹄とか考える人々には︑上述の﹁思考と表視の平行説﹂

はまた別の魅力があるらしい︒

しかし︑思考・咸祠mは言語以前に存在することは明らかである

し︑また︑言語形式という記号体系は︑恣意的・無計画的に採択

された︑歴史的・習慣的伝承てある︵人工語は別として︶ことが

明らかである以上︑言語の機能や︑具体的表現の面白さを理解す

るためには︑まず︑意味と形式とを峻別して︑その上で︑この両

者がどのように結びついて︵もちろん︑両者の不一致︑くいちが

いも含めて︶︑言語という活勅を形成しているかを考えるのが本

筋である︒

右の考えは︑上述のとおりマルティなどの説くところであるが

この説に対する批判を少しとりあげてみよう︒たとえは︑佐藤喜

代治氏は︑次のように言う︒

マルテイが言語の意味を聴手において喚起さるべき心的状態と

考えて︑言語記号に固有の︑またはそれに内在している意味を

考えなかったことは︑その限りでは正当であったとしても︑こ

の意味があくまでも言語記号との聯関において考えられるべき

点を艇視して︑専ら心的現象のみに注目して︑一方的に心理作

用から言語形式を律してゆこうとしたところに救い難い心理主 義的誤謬があったと言わざるを得ない︒言語を観察するものとしては︑言語記号と︑それによって喚起さるべき心的状態との聯閃をこそ重祝しなければならない︒︵書目20.八上頁︶と言う︒この所論︑大へんもっともであるが﹁言語記号に囚有の﹂またはそれに﹁内在する﹂意味ということには問題がある︒言語記号の意味が天下り的に固有のもの︑内在するもの︑として与えられるものでないことは無論のことであり︑同書にも言うように﹁習慣的に決められた社会の約束﹂であるが︑それも根源的に遡れは︑ある意味に対し︑ある記号を採択するという︑発生的段階の心的活動に行きつく︒﹁イヌ﹂を﹁スパイ﹂の意吐に用いることについて︑﹁イヌ﹂に﹁スパイ﹂の意味があるということは︑根本的には︑だれかが﹁イヌ﹂という音声形式を﹁スパイ﹂なる客観的実在に適用するという心的作用を︑辿想を通して行ったはずである︒その場合︑現実に﹁イヌ﹂という発声かある以前の過程として﹁スパイ﹂と﹁イヌ﹂とを結合する心的作用をが斤することが︑すなわち﹁言語記号と心的状態との辿関を重祝する﹂所以であると思う︒

たとえ﹁社会的に一定﹂した﹁任意的でない﹂記号の忍味であ

っても︑発生的には任意的なものであったのであり︑その発生段

階に立ち帰って考えるということになれば︑第一に考慮すべきは

心的作用てある︒マルテイの心理主義は︑現在︑記号がある程度

社 会 慣

c

一定しているところから出発することに縞足せず︑本

源に遡って言語の本質を究明するという立場からの発言であると

考えるとき︑それをも﹁誤謬﹂というの且適当でないと思う︒

また佑藤氏は次のようにも言う︒

29 

(9)

文法はあくまでも言語形式の問臨である︒全一的表現としての

言語活動における活動形式としての文法は︑人関の心理作用に

もとづいて発達しているに違いないけれども︑心理作用の形式

と常に歩調を等しくするとは限らない︒両者が一致すると否と

にかかわらず︑文法は言語の表現形式として経験的な事実であ

り︑心理作用の形式とは区別して考えなけれはならぬ︒心理作

用の形式から言語の表視形式を演繹することは言語の研究とし

ては許されない︒︵書目

20

・1

0四

頁︶

しかし︑問題は﹁常に歩調を等しくするとは限らない﹂という玉

要な事実を認めながら︑一方において︑では﹁どのように一致し

どのように一致しないか﹂を究めるための心理的研尤を﹁言語の

研究﹂としては認めない︵少なくとも全面的内認容はしない︶よ

うにとれるところにある︒心理作用の形式から言語の表現形式を

. .

演繹することは︑知論正しくないしかし︑心理作用の形式を研3

 

究しないで︑言語手段の形式を論することができようか︒心理と

言語との︑二つの別系統の形式を対比研完してこそ︑はじめて︑

﹁常に歩誦を同じくしない﹂という言語の特性が分かるはずであ

ると思う︒ことばが人間の心的内容の表現てある以上︑そういう

機能を持つものとしての言語の特性は︑言諾の構造と心理の構造

とを対比して明らかにされるのが本筋である︒

佐藤氏は︑さらに次のように言う︒

言語の形式と内容とをかく︹マルテイのようにー筆者計︺分解

する時︑そこには唯音声学と心理学があるだけであって言語学は成り立たない。(書目20•三八頁)

成程心的活動が音声と結びつくところに言語が成り立つという事 実は認めるべきであるが︑だからといって︑右のように︑両者の峻別を︵あるいは両者を区別して研究することを︶不適当とするのはおかしい︒およそ二つのものA.Bの関係や結合状態を謁ベるのに一番大切なことは︑A.Bが異なった二者であるという点であって︑それぞれの本質的研究なくして︑結びつきを論ずるというのは矛屈である︒酸索と水索との区別を知らないものが︑どうしてその化合︵すなわち水

11

H2

0という割合についての知見︶

.を論ずることがてきようか︒上の佐藤氏の意見の通りとす九ば︑

﹁水は酸素と水素とか化合して成り収つのであるがら︑酸索なり

水素なりの区別を明らかにして︑それぞれを研究することは︑酸

素学と水素学だけあって︑水の学問はなくなってしまう﹂という

ょうなことにもなりかねないと思われる︒

意味と形式との開係︑すなわち珀の中て考えて︑感しとりれた

﹁心的内容﹂とその﹁具体的表

l l I ニーあるときは比喩により︑あ

るときはリズム・音繭の闊整により︑またあるときはリズム・音

識の謡整により︑またあるときは社会慎腎上の便宜により︑必ず

しも心的内容の構造とは平行・対応しない構造を持つとの関

係を調べることが言語学︵あるいは言語心理学・言語哲学︶の課

題であるならは︑まず第︐一に︑この二つのものは相異ったもので

あるとして︑その相追を明白ならしめるために︑それぞれを区別

して研究するのが当然の要諮でなければならないと

1 1 1

心わ

れる

. 

次に言語形式をその構造に沿って分析していったものー﹁い

••

わゆる認味﹂が﹁止の意味

11

心的内容﹂と必ずしも一致しないと

いうことについて一言したい︒

ここに﹃放は危機に前面した﹄という一文があるとする︒これ

(10)

を構成要索に分解すれは︑﹁彼﹂﹁は﹂﹁危機﹂﹁に﹂﹁直面し

た﹂となり︑それぞれの辞書的意味と︑文法の約束から勘案して

それらの総和を以って︑一応﹁いわゆる怠味﹂が得られる︒外国

文を直訳によって理解するときに誰しもがやる作業と同じような

ものである︒この﹁いわゆる意味﹂を以って︑それがそのまま﹁

真の意味﹂であるとする考えは︑ある見方からすれば︑常識的︑

素朴なものではあるが︑無論学問的批判に堪えないものである︒

学問的にこれを取り扱うなら︑第一に︑この文の構造は﹁人が︑

ある具体的なものを見る﹂たとえば﹁私が山を見た﹂ーーの

. .  

ような文の構造に対する類推をもって採用された構文形式であ

る︒また本来的には﹃﹁危機﹂という具体的なものがある﹄とか

この場合﹃彼が何かものに面している﹄とかいうことが意味され

てはいない︒以上﹃﹄の中にまとめたことは﹁いわゆる意味﹂

ではある︒しかし真の意味ではない︒﹁山﹂と同じように︱つの

.  

﹁危機﹂なるものを考え︑人がそのものに﹁直面する﹂と表現する

. .  

のは︑上述のとおり類推をもって採用された形式上のことで︑意

味に属さないことであり︑﹁人があぷなくなる﹂ことを﹁山を見

る﹂というような具体的表現の形式にあわせたところには︑表祝

上の比喩が見られ︑さらに﹁危機﹂というような抽象名飼を用い

. .  

てその対象を﹁山﹂﹁机﹂﹁りんご﹂などの具体的なものの名前と

. .  

同じに︵文法上は︶とり扱うところには︑表現上の虚構が見ら

れる

比喩や虚構だから悪文だと言うのではない︒この文の構造が真 ︒

の意味の構造とちがっているから悪文だと言うのでもない︒ただ

このように︑表現された文の形式と︑真の意味とはちがうもので あること︑そしてその故に︑具体的表現の面白さを味わったり︑文体的効果を論じたりする場合に﹁いわゆる意味﹂を以って﹁真の意味﹂だと誤認するような安易な態度では︑言語の本質的研究はなし得ないということを示唆しているに過ぎない︒

さて﹁いわゆる意味﹂なるものが得られるのは︑その形式︵配

列その他︶の構成による︵上の文で言えば﹁彼﹂を動作主として

主語の位置におく︑以下各要素の配列︶︒この構成をするための

構図は︑言うまでもなく︑内部言語形式に属する︒言いかえれは

︱つの意味を編集して︑あるいは比喩・虚構を用い︑他の表現形

式への類推を用いて︑その意味をその場合最も適切に表現する形

式の構図を考える過程が内部言語形式の過程である︒

しからは︑ある意味を表現するのに︑これこれの言語形式を用

いてあるという場合に︑その言語形式がわれわれの興味を引くな

らは︑その旗味を引き起こす実体は︑内部言語形式の構成法にこ

れを

求め

なけ

れば

なら

.な

い︒

このような見方に対して︑たとえば﹁危機﹂というのも﹁机﹂

﹁山﹂と同じように名同として表現されている︒だから︑言語

的・文法的には︑みな同じように考えればよいのだ︑それでも意

味をとるのに差支えないのだから︑真の意味などを研完するのは

無用のことだ︑という反論があるかも知れない︒しかし︑その態

度では︑形式を分析したものがそのまま意味である︑というだけ

で︑それで言語の問題は解決したことになり︑それでは︑われわ

れの祖先が︑創意工夫して積み重ねてきた表現法の面白さという

ことが全然問題にならなくなってしまう︒﹁Aなる意味を︑その

反映としてのんという構造で表現した︒だから逆にんの意味はA

81 

(11)

なのだ﹂ということですべてが解決するなら︑表現について苦労

する必娑もなく︑解釈の必要もなく︑表視法の面白さを研究する

にもその対象がなくなってしまうc

Aなる意味を︑たとえは︑これがそのままの構造では表視でき

ないから︑いろいろ工夫してBCDのように表現してあるとす

る ︒

Aに対してAであるはずのもの加BCuなどとなっている

から︑その事実または珪由を研究するところに面白さがあるはず

で︑このときBの意味するものがBでなくAだということを知る

には︑どうしても真の意味までさかのぽりなければならない︒

たとえば﹁春が来た﹂これは比喩による表現である︒比愉がも

はや感じられないということは︑発生的に比喩がなかったという

. .  

ことにならぬ︒本来的には﹁春﹂というものはないのである︒﹁

.  

父﹂は実在するものである︒よって﹁父が来る﹂ことは比愉でも

何でもない︑当然の表現形式である︒しかし﹁春というもの﹂が

歩いてここにやって来たりはしないのである︒従って︑﹁春﹂が

孟来た﹂という構図は︑﹁父が来た﹂などへの類推を以って採用さ

. .  

れたものである︒このとき︑何かしら﹁春﹂というものがあって

それが﹁来た﹂ことが実感をもって感じられるという人かあれは

︑その人は内部言語形式の構凶に立ち戻って反省をしているわけ

である︒これが真のぶ味でないことの︱つの証左は︑たとえはフ

ランス語で

︵われわれは春の中にいる︶

ou s  s om me s  e n  p nn te mp s.  

と言ったり︑英語で

(S pr in g ha

s  c

om e

のほ

かに

i t 

i s   sp nn g.  

と言ったりして日本語とはちがう内部言語形式があり得ることで ある︒では真の怠味は何か︒﹁春が来た﹂の文のあらわす兵の意味は何かと言えば︑誰しも答に窮する︐それはこの協合の1

の意

味は比喩を用いずしては表視できないからである︒言いかえれば︑

真の意味の構造に対応した構造は︑言語形式の中に見出されない

ということになる︒せいせい﹁陽気かあたたかくなって︑今われ

われが春と名付ける季節である﹂などと言う位が具の認味に近い

けれとも︑これとても﹁賜気﹂という抽象名詞を動作主と考える

ところに虚構があるのであるから︑全然︑比喩も虚構も用いない

という条件下ては︑われわれが涙然と駆ずる﹁春か来た﹂なる実

感を表現できないのである°このことを認識してこそ︑はじめて

言語形式という発明の偉大さを味わうことができるのである︒

序に︑言語の研究は心理学や論理学から独立すへしという諭に

ついて︑これを批判してみたい︒言語学にもいろいろの而がある

が︑表現法の研究に関する限り︑怠味の方は必らず人間の心に属

する︒意味を研究してしかもそれが人聞の心の研究でない︑など

ということは有り得ない3そして滋味の研究の重要さは既述のと

おりである︒言語学がその注ま心理学と重なるということはない

けれども︑重なる面があることは否定できないのである以上︑言

語学か心理学から完全に独立することはできないはずである︒ま

た心理学的にみて︑あるものはすべて正しいという應度で且︑教

育上︑規範的に指郡できないという主張もあるが︑これは︑また

別問題である︒

一方︑綸理学餌用論者はこう言う︒﹁コトバは論理的柿造をも

っていない︒つまり文の構辿は常に論理学的正確さをもっている

とは限らない︒コトバは恨用の所産たから︑不合理な構造か多く

(12)

みられるもので︑そこがコトバの面白さである﹂と︒これは極め

て当然な話しで︑この説の内容に異議はない︒コトバは数式など

とちがうから︑論理的正確さを持った構造があるとは息えない︒

しかしこの説に言われたことが︑直ちに︑言語の研究に論理学が

無用ということの理由にはならない︒第一に﹁コトパの構造が論

理的でない﹂という重大な認識がどのような方法で得られるのか

という問題かある︒﹁

00

省で働いている父の友人﹂などという

表現では﹁役所で働いている﹂のが﹁父﹂でも﹁友人﹂でもあり

得る︒それを明瞭ならしめようとして﹁父の

00

省で働いている

友人﹂とすれば﹁父の

00

省﹂ときこえて余計あいまいになる︒

これは成程︑言葉のもつ非論理性である︒しかし︑あるものが論

理的であるかないかを知るためには︑それ以前に﹁どんなものが

論理的であるか﹂を知らねばならないはずである︒﹃人間の発言

する文が︑一々論理的正確さを持って組み立てられているわけで

はない︒そこがコトパのあやであって︑そこにコトバの面白みが

生ずる﹄という批判をなし得るためには︑その人が︑論理学的訓

練を経て﹁いかなるものが論理的であるか﹂を知る必要がある︒

﹁太陽が東天にのぼる﹂とか﹁夜が明ける﹂とかいう文の非論

理性︵これは︑上の例のそれとはまた別のものだが︶は﹁地球の

自転﹂という事実を知っているものだけにわかる袖類のものであ

る︒この非論理性は︑しかし︑これらの文が慣用的で便利であり

ときに詩的であることを妨げるものではない︒しかし︑﹁地球が

一回目転をして︑太陽が見えるようになる﹂というよりも﹁太腸

が東天に昇る﹂という方がよい表現である︑ということを論ずる

ためには︑その前提として︑そう事実はどのように表視するのが 論理的かを知ることが必要であろう︒言語学に論理学を股朋することを︑以上のように解するならは︑﹁コトハが常に論理的てあるとは限らない﹂のであるからこそ︑諭珪学が必要だという逆説めいた結諭を下さざるを得ないのである︒

最初にあげた論理学糾用論はまと外れであって︑それはあたか

も﹃実際に商売をしてみると中々計算どおりにはいかす︑またそ

こに商売の妙味もあるのだ︒たから︑商売をするには算数の知識

などは無用だ﹄というのと軌を一にする︒

︑ 思 考 の 方 法 鍬一章の終のところで、英•仏・独・13、四つの文の意味が同

じであるとして︑﹁降雨なる︱つの自然現象の承認﹂であると述

べた

3この点はさらに後で触れるとして︵第七章参照︶︑このカ

ッコの中に書いたこと︵心的内容そのもの︶はこの日本柄という

形式を離れて︑人間のだれにでも起こりうる一.つの経験である︒

ということは︑この文を発言した四人のものそれぞれは︑国籍は

ちがうけれども︑ここで固じことを考えた︵同じ判断をした︶の

であって︑このことは︑思考の方法は万人を通じて同一であるこ

とを前提とする︒

世間ではよく﹁考え方﹂という語を常詭的に用い︑応見が合わ

. . .  

ないとき︑﹁君と僕とは考え方がちがう﹂などと言う︒常識的に

は無論それで何ら差支えはないけれども︑この﹁考え方﹂は︑真

の意抹の﹁思考の方法﹂ではない︒もし︑この二人の﹁思考の方

法﹂がちがうのであれは︑その二人の間に話しが通ずる筈はない

のである︒これは意見が合うとか合わないとかの問題以前の問姪

であ

る︒

33 

(13)

甲が﹁あの家は大きすぎる﹂と言い︑乙は﹁あれでは小さすぎ

る﹂と言っ︒これは二人の受けた印象︵直観あるいは忌考の結

果︶の相途であって︑その結果喧嘩になるかも知れない︒しかし

喧嘩になるということは︑互いに相手の言うことがわかったから

であって︑そのように︑互いの意見のくいちがいがいが分かるよ

うに話しが追ずるということは︑思苔の方法は︵結果でなくて手

続は︶同じだということである︒

甲と乙とがマラソンをする場合から考えてみよう︒甲が膀ち︑

乙が負けた︒このとき佃がちがうのであるか︒﹁走る方法ーー走

り方ーがちかうのた﹂と言ってはおかしかろう︒いやしくも競

争をするという以上︑ハンディキャソ︒フをつけるのでない限り︑

走る条件ーすなわち走り方ーは同一てなければ意味がない︒

走り方が同じだというところに如翌争の意味かあるのであり︑さら

言えば︑走り方が同じだから︑甲添勝ち︑乙が負けるというよI C

うな結果になるのである︒

われわれが学生の答案に点をつける︒中は一

00

点︑乙は八

0

点︑雨は六

0

瓜をいうように︒このとき︑甲・乙.丙の点がちか

. .  

ってあらわれるのは応のつけ方がちがうのだ︑と言ったり︑それはおかしい。点のつけ方'~採点の条件'~がちがえに不公平な

のである︒^ム乎な採点者は︑点のつけ方を同一にする︒

さればこそ︑よく出来た学生はよい点をとり︑白紙ならば零点

をとる︒これは当然のことである︒

話しを前に戻して︑甲と乙との意見かくいちがうとき︑それは

考え方︵思考の方法という意味で︶がちがうのだ︑というものは

..

. 

マラソンの勝敗を走り方の相埠だ︑と言うのと同じ陸りを犯して

..

..

. 

おり︑様々な点数があらわられるのを︑教師の採点の仕方のち俎

いに基づくというのと同じ位不合理と言わざるを得ない︒

..

. 

今の文で甲と乙との考え方はどこが同じか︒それは︑二人とも

.  

﹁家というものは大小という尺度で計るもの1具体的なものは

•••

何でも大きさという絶対規虻をうけるもの﹂という瓜で一致して

いるということてある︒

このことは︑言語一般の問題として︑ある怠味に対してどうい

う言語形式かあり得るかを論するための重恨な前提であるUわれ

われが外国語を翻訳してわかるというのは︑そして︑たとえ︑自

分の意見とちがう意見でも︑とに角﹁きいてわかる﹂というのは

すべての人間にとって息考の力法が同じたからてある︒忌考の次

元が同じである︑といってもよい︒

そのようになるのは︑即訳という作業は︱つの忍味を中軸にし

て二つの言語形式相且間の転挽をはかる作業てあろからて︑その

﹁応味を中袖にする﹂というとき︑息考の方出が異なるものなら

中帖になるべき︑より所のとらえようがない︒それでけ翻沢とい

うことは始めから不

記である︒また︑肛間て︑たとえけ"火諮と

l U

•••••

日本語とては考え力がちがうから︑英出の栄習に際しては﹁茨語

..

..

. 

忙に考えよ﹂などという︒これも厳密には︑相迩は︑息考の方法

にではなく︑表祝の方法に求むべきであって︑その表現の仕方の

本質的なものは︑すべて内部言記形式の問芯である︒

﹁考え方﹂なる飴を皮易に用いて︑問匙の所在をはぐらかして

はならないのである︒

六︑論理的意味構造

A意味への辿元

(14)

言語形式を分析して得られたものは︑いわゆる意味︑または言

語的意味であって︑それは﹁真の意味﹂とは限らない︑言語形式

は有限の素材であって︑無限に複雑なる心的内容を平行的に表現

してはいないからー以上のようなことを意味と形式との不一致

として述べたのであるが︑このような説を述べると︑必然的にハ

ネ返ってくる質問は︑

﹁それなら︑これこれの文の真の意味は︑これこれである︑

というようなことがどうして言えるのか﹂という点であるC

すでに言語形式は意味と平行せず︑それは内部言語形式により

ある便利な形に編集されたもの︵そのとき︑しばしば比喩の力を

借りる︶にその言語特有の音声形式たる外部言語形式の衣を着せ

たものであると言った以上︑一般に言語形式は意味の構造と直結

または平行しないことを認めたのであり︑換言すれば︑言語形式

の構造は意味に到達するキメ手にならないと言ったに等しい︒そ

れにもかかわらず︑われわれは︑ある言語形式を聞いて︑だれし

もが︑その意味がわかる︒したがって翻訳︵しばしば構造を異に

する二言語間に起る︶も可能であるとの立て前をとってきた︒

これは矛盾ではないか︒たしかに一見︑不合理な立場である︒

しかし︑実は矛盾でもなんでもない︒言語が︑われわれの思考を

支配し︑抽象的な︑あるいは高次の思考は言語の媒介なしには不

可能であるけれども︑一方において︑われわれは︑言語を超越し

た︑あるいは言語以前の思考内容について潜在的な理解を持って

いる︒結局︑われわれは︑言語形式は不備なものであり︑言葉に

言いつくせない︑真の意味は別に存在することを知っている︒た

だそういう事実は︑何かのキッカケで︑言語を反省してみるまで は︑潜在的に感じられているというに過ぎない︒われわれが︑しばしば言語に不満を感じ︑表現の問題で苦吟するという事実そのものが︑すなわち︑真の意味が︑別に︑たしかにあるということを皆が知っているということの証明に外ならない︒

私がある言語形式に疑問を抱くとする︒それは︑私が本当に言

いたいことがその形式で言いつくしてないからであるcその本当

に言いたいことを論理的に分析してみたとき︵ここにおいて論理

学の必要は明らかになる︶﹁真の意味﹂の論理的構造が明らかに

なる

たとえば︑だれかが ︒

﹁ぽくは目は見えないが︑耳はよく聞こえるのだぞ﹂

と言ったとする︒これは﹁宝島﹂の中で︑めくらの乞食が︑相手

をおどかす文句の和訳である︒

﹁だから逃げようたって︑そうはさせぬ﹂ということを含んで

いる

①目は'~見えない(が)、 この文は︑一応よく意味がかわる︒たしかに ︒

②耳はーー聞こえる︒

ということは︑別にオカシイことはない︒

さて︑よく考えて見るのに︑この①②は︑主語を異にし︑それ

ぞれの述部の動詞を異にしている︒しかも︑この﹁が﹂で接続さ

れた①十②が﹁対照﹂を示していることは︑われわれが直感的に

感じていることである︒

それならば︑同じような文をと言うので

⑱私はーー走らないが︑

35 

(15)

④彼はーー結婚する︒

と言ったらどうであろう︒だれしもこれは︑

と 言 う で あ ろ う

なぜ意味をなさないか︒それは︑⑱+向では対照が示されない

から

であ

る︒

そこで対照ということの意味を考えてみる︒対照の本質的意味

は︑黒白︑強弱というような反対概念の提示である︒そうすれば

⑮Aは︑がでないが︑

⑱B

は ︑

B

であ

る︒

において︑⑮は否定文であるということを考應するとき︑対照が

真の対照であるためには︑

AI

IB

であることを要する︒つまり

Aは

・・

・・

・・

でな

い︵

が︶

B

は・

・・

・・

・で

ある

において

. . . . .

.  

の所が同一である時こそのと③とは︵同一状態の︶

・否定対肯定という対照を示し得る筈である︒

③十④において︑われわれが﹁意味をなさない﹂と直感する理

由は﹁走る﹂と﹁結婚する﹂とが︑辞書的意味を異にするのみな

らず論理的にも同一概念に属さないということを知っているから

で あ る

しからば①十②の方は︑一見︑⑱十④と同一形式に見えていな

がら︑しかも﹁意味がある﹂と感じられるのは︑﹁︵目は︶見え

る﹂と﹁︵耳は︶聞える﹂とが︑辞書的意味を異にするにも拘わ

らず︑論理的には︵この文脈では︶同一概念を表わしているから

であり︑そういう論理的関係を︑われわれが︵少なくとも潜在的

に︶認めているからである︒

﹁意

味を

なさ

ない

目は⁝⁝しない︵が︶︑

耳 は

⁝ す る

の•••…の部分を論理的に、その本質的概念に還元すれば、それは

••••

同一概念であって︑たとえば︑この

. . . . .

.  

の部分に﹁機能﹂という

概念を読みとれば︑それが︑この形式のねらった﹁対照﹂の本来

の 意 味 で あ る こ と は 明 ら か で あ る

①目は機能しない︵が︶︑

⑱耳

は機

能す

る︒

そうすると﹁目﹂﹁耳﹂というものも︑単に顔の一部としての

..

. 

それではなく︑この場合は︑﹁他人との連絡をとる︑二つの器官

すなわち視覚器官と聴覚器官のうちの︑一方と他方﹂として把握

されていることも明らかになる︒

そこで︑この①十②の︑真の意味の論理的構造は︑たとえばこ

んな

風で

ある

﹃視覚器官(>)と聴党器官

( a )

との両方が劇御して︑通信

( C )

が可能であるが︑必らずしも両方そろって機能しなくて

も一方だけでも十分である︒話者の場合は︑

. .  

①>は機能しない︵けれども︑それだけでCが不可能というこ

とに

はな

らぬ

. .  

②aの方は立派に機能するのだから﹄︒

われわれが︑①十②を以って︑対照をあらわすが故に意味があ

ると感じる限りにおいては論理的反省によって︑右のような論理

的構造を有する﹁真の意味﹂に到達するのは容易である︒ただ︑

忙しい日常生活において︑一々論理的意味にまで還元してみると

すな

わち

︵お

れは

(16)

いうことをやらないというに過ぎない︒

日常生活においては︑目については︑﹁機能する﹂とは﹁見え

る﹂ことであり︑耳については﹁間こえる﹂ことである︒従って

﹁機能する﹂という同一概念でありながら︑

•••••••

目は見える︒耳は間こえるし

と︑異なった言語形式で表現するのが自然である︒化+図におい

ては︑その異なった言語形式にも拘わらず︑﹁対照﹂という心理

を通して︑われわれが︑それを詞一概念ととり︑同一概念の否定

と肯定とに︑はっきりした対照を感じる︵すなわち︑非論理的言

語形式を越えて、論理的意味構造—ーすなわち真の意味に到達す

ることができる︶ことを略述した3

きて︑右のような論理的構造を表現するのに①十③という外部

言語形式をとるというとき︑その橋渡しをする所は︑すなわち内

部言語形式における編集の過程である︒﹁目が機能する﹂ことを

﹁目が見える﹂におきかえるのは︱つの編集である︒このよう

にして︑われわれは内部言語形式の構成の過程を知るのである︒

同様に︑ある結婚話しの中で︑

︵彼女は︶⑨顔は笑しくないが︑

⑩教義は豊かだ︒

と言って︑オカシクないならば︑これは︑やはり同一概念の否 定対肯定の形をとっているからであると言える︒その概念とは

﹁結婚を有利にする条件﹂であって③

'T

⑩は

⑨顔は︵その美しさにより︶条件を満たすことはないが︑

⑩教設は︵その豊さにより︶条件を満たしている︒

ということである︒ ⑬,‑'④などにおいては︑二つの述語を同一とみなすだけの文脈がないために︑そこに﹁対照﹂を応じとることがでぎないのであっ

た︒

同様

に︑

仰汽市は美しくないが︑

仰トンネルは長い︒

でも︑われわれは︑﹁意味をなさない﹂と思う︒•以上のような苔察が可能であるのは、言語形式と謬味とのネ一

致にも拘らず︑ここでは﹁対照﹂というような︑話者の応閃をカ

ギとして︑真の意味に到達できるからである︒そうして︑そのよ

うに到達した応味の構造ともとの外部言語形式との閤のギャッ︒フ

を埋める作業をわれわれがするとき︑それは︑どのような術語で

呼ぼうとも︑ここでいう内部言語形式の研究であることは間逹い

ない

以 ︒

下︑

B  二︑三の例について︑ちがった場合を調へてみたい︒英語の人称︑数の制約

. 

日本語で︑﹁彼は頭を伽った﹂というとき︑英語では

. .  

H e  sh oo k. i  h s  he ad

 (彼は彼の頭を振った︶となる︒つまり

heという代名詞に

hi s

という形がついて廻るのである︒という

ことは︑この構造では︑日本語では︑抽象的に﹁頚﹂で表現でき

ることを︑英語では︑言語形式の制約上︑﹁その人の﹂という表

現なしでは﹁頭﹂と言えない︑ということである︒

この文のように論理的に﹁頭﹂であろうが﹁彼の頭﹂であろう

が︑差し支えないときはそれですむが︑もし︑これが﹁抽象化さ

れたもの﹂の表現を要する場合になると︑英語の方は︑たちまち

意味と形式との食いちがいを露呈する︒たとえば︑

37 

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