Die Urphanomenologie und das Phänomenologie- System

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

Die Urphanomenologie und das Phänomenologie- System

細川, 亮一

九州大学文学部

https://doi.org/10.15017/2328439

出版情報:哲學年報. 57, pp.89-126, 1998-03-10. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

原現象学と現象学体系

細 川 亮

つま

り体

系と

して

のみ

現実

的で

あり

︑叙

述さ

れう

る︒

﹂︵

HM

Y N ω

へl

ゲル﹃精神現象学﹄の序文でのこの言葉を真剣に受け取るとすれば︑へ

lゲル哲学は学H体系としてのみ理解

でき

る︒

lゲルは体系の哲学者と呼ばれるが︑しかし体系の哲学者と言われるわりには︑その体系は真剣に論じら

れていない︒体系を批判する方が好まれている︒確かにその体系性を無視しても︑︑へl

ゲル

哲学

をつ

まみ

食い

でき

る︒

しか

しへ

1ゲル哲学をその核心において捉えることはできないだろう︒

へl

ゲル哲学は体系として構想されているが︑その体系は﹁体系的対応によって成り立つ体系﹂である︒体系的対

応こ

そが

1ゲルの体系を独自の体系としている︒それ故︑へlゲル哲学を体系として理解するため︑その手がかり

を︑体系的対応に求めねばならない︒

体系的対応の例を挙げてみよう︒

︵1

︶論理学と現象学との対応︒﹁学の抽象的な契機のそれぞれに︑現象する精神一般の一つの形態が対応する︒﹂

︵市

与の

い色

︶こ

れは

﹁現

象学

の論

理﹂

とい

う問

題で

ある

︒こ

れに

よっ

て現

象学

は学

であ

る︒

︵2

︶哲学史と論理学との対応︒﹁哲学史において現れるその内容の展開は純粋な論理的理念の展開と一致する︒﹂

︵巧

∞い

∞?

明日

2

0

NC ER N−

︶こ

れは

lゲルが繰り返し主張する論点である︒

﹁知

は学

とし

ての

み︑

/¥  九

(3)

九0 

から

︑﹁

現象

尚早

1論

理堂

1哲

学史

﹂の

対応

︑つ

まり

現象

学が

哲学

史と

対応

する

こと

が導

かれ

る︒

︵3︶現象学と哲学史との対応︒これは﹁歴史としての現象学﹂という理念であるが︑へlゲルは何度もこの理念

を語っている︒現象学は﹁学へと教養形成する意識自身の詳細な歴史﹂︵

Hd p弓

︶︑

﹁意

識の

学的

な歴

史﹂

g

o n w B F

回 忌 −

m・島︶である︒ここから帰結するのは︑﹁哲学史に対応した一つの歴史﹂としての現象学である︒これは体系的対

応からの必然的な帰結である︒へ1ゲルの体系︑つまり体系的対応を真面目に捉えれば︑﹁哲学史に対応する一つの歴

史﹂として現象学を解釈しなければならない︒ この︵1︶と︵2︶

しかしここでのテlマは﹁歴史としての現象学﹂でなく︑体系的対応がへlグル哲学を解釈する鍵であることが確

認されれば十分である︒

体系的対応の意味は︑体系H学という性格の内にある︒つまり学が学であるのは︑論理学との対応による︒論理学

という﹁純粋本質性のこの運動は学であること一般の本性をなしている︒﹂

q a

の ・

2

︶例えば論理学との対応が現象学

を学たらしめている︒自然哲学と精神哲学が学であるとすれば︑両者も論理学に対応していなければならない︒こう

した体系的対応に定位して︑へIゲルの哲学体系に迫ることができる︒

ここでの課題は︑現象学の論理︵現象学と論理学との体系的対応︶を出発点として︑﹁原現象学と現象学体系﹂を明

らか

にす

るこ

とで

ある

問題提起

現象学の最初の表題﹁第一部意識の経験の純﹂は︑へ1ゲルが当時構想していた哲学体系の存在を示している︒

この哲学体系を﹁現象学体系﹂と呼ぽう︒そして﹁意識の経験の学﹂として構想された現象学を﹁原現象学﹂と呼び

たい︒﹃精神現象学﹄緒論において︑へ1ゲルは﹁意識の経験の学﹂について次のように言っている︒

(4)

﹁この必然性によって学へ至るこの道はそれ自身すでに学であり︑そしてその内容から見れば意識の経験の学であ

意識が自己についてなす経験は︑その概念から見れば︑まさに意識の全体系︑すなわち精神の真理の全領域を含ん る

でいる︒その場合真理の諸契機は︑意識に固有な規定性において現れるが︑それは抽象的で純粋な諸契機としてでな く︑諸契機が意識にとって存在する仕方で現れる︒言い換えれば︑意識がそれ自身諸契機への関係において登場する

という仕方で現れる︒それによって全体の諸契機は意識の諸形態である︒﹂百円出

h t

・ ︶

﹁意識の全体系︑すなわち精神の真理の全領域﹂︑﹁全体の諸契機が意識の形態である﹂という言葉から︑現象学が

展開する﹁意識の諸形態﹂が﹁抽象的で純粋な諸契機﹂︵論理学の諸契機︶と対応していることを読み取れる︒それは

﹁現象学と論理学との対応﹂︑言い換えれば﹁現象学の論理﹂の問題である︒論理学との対応が成立することが︑現象

学が学であることを可能にする︒この現象学の論理という必然性によって︑学へ至る道としての現象学はそれ自身学

であ

る︒

しかし現象学の論理︵現象学と論理学との対応︶を考える場合︑この対応のみに目を奪われではならない︒現象学

はへ

lゲルの哲学体系の内で考えなければならない︒対応は体系の問題なのだから︒﹁意識の全体系︑すなわち精神の

真理の全領域﹂︑﹁全体の諸契機が意識の形態である﹂という言葉は︑現象学と論理学との対応だけでなく︑現象学が

体系全体と体系的な対応をしていることを合意している︒現象学体系は﹃精神現象学﹄の絶対知の章の最後で提示さ

れている体系構想であり︑この現象学体系のもとで﹃論理学﹄第一巻︵一八一二年︑一八一三年︶は書かれている︒

この現象学体系のもとで﹁意識の経験の学﹂としての現象学が構想され︑書き始められた︒現象学体系の内でのみ

現象学の理念は初めて理解されうる︒つまり現象学が学への導入部であると共に︑体系の第一部であることの意味は︑

現象学体系全体から初めて明らかになるのである︒それ故﹁現象学の論理﹂という問題は︑現象学体系の解明を必要

(5)

とし︑体系全体の内でのみ明らかになるのである︒逆に言えば︑現象学の論理を考察することは︑現象学体系全体の

確定へと導くのである︒現象学の論理を解明することを通して︑﹁原現象学と現象学体系﹂を確定することが本稿の目

的で

ある

思弁哲学のスケッチの構造と現象学体系

現象学の背景にある現象学体系は︑現象学の構想・執筆と平行して書かれた﹃イエナ体系構想凹﹄︵の者∞︶︵一八

O

五上ハ年︶に見ることができる︒先ずその最後の箇所に書かれている﹁思弁哲学のスケッチ﹂を考察の手がかりにしよ

う︒それは﹁思弁哲学としての論理学﹂のスケッチであり︑現象学が体系の第一部であることは︑論理学との対応に

基づくのだから︒現象学と論理学との対応︑つまり現象学の論理の問題から﹁原現象学と現象学体系﹂に迫るためで

ある

思弁哲学のスケッチは全集版によれば︑次のようになっている︒ ︒

ω

唱︒

E E 2 0

OO

3

吾 ぽ

m g

o

E g m 9 f E

位︒

F 2 S

・︵

︿

2

E R

口町

田急

邑︶

F o g

ロロ豆町

Egg

E

己主留め

Eg

耳 目 印

m o p e

2

gg

gD35g

ロ 回 目 ︒

V l

−−

−︵

の巧

∞い

∞∞

与 印 ︒ −

E g m a p

円古田氏各自己

g m

− ︵

︿

R E

X H M

日目

当日

吋仏

︶の

箇所

は︑

﹁絶

対的

存在

︑そ

れは

自己

にと

って

他者

︵関

係と

なること読むことができる︒﹁思弁哲学絶対的存在︑それは自己にとって他者︵関係となる︶︑生命と認識︑

l

そし

て知

る知

︑精

神︑

自己

につ

いて

の精

神の

知﹂

読み方に問題があるが︑スケッチが六項構成であることは確認できる︒そしてスケッチの二番目は﹁関係﹂という

カテゴリーと一応解釈できる︒つまり﹁絶対的存在︑関係︑生命と認識︑|そして知る知︑精神︑自己についての精

神の知﹂である︒さらにスケッチの構造として見逃してはならない重要なことは︑ダッシュと﹁そして﹂という言葉

(6)

によって大きく二つの部分に分けられているという点である︸︒﹁絶対的存在︑関係︑生命と認識﹂と﹁知る知︑精神︑

自己についての精神の知﹂という仕方で︑三l三という形に二区分されている︒=7三というこ区分構造を簡単に﹁三

l

構造

﹂と

呼ぽ

う︒

しかし思弁哲学のスケッチは︑何故六項構成︑しかもコ了三構造なのだろうか︒この間いは重要である︒このことは

現象学体系という観点から解釈しなければならない︒

一八

O

七年の自己広告で﹃精神現象学﹂は学の体系の第一巻とされ︑第二巻は次のように言われている︒﹁第二巻は

思弁

哲学

とし

ての

論理

学の

体系

と︑

哲学

の残

りの

二つ

の部

の体

系︑

つま

り自

然哲

学と

精神

哲学

を含

む︒

﹂︵

の要

︒込

町︶

﹃論理学﹄初版の序文でも︑﹃精神現象学﹄は学の体系の第一部であり︑第二部は﹁論理学と哲学の二つの実在学︑つ

まり

自然

哲学

と精

神哲

学を

含む

﹂︵

の巧

口・

∞︶

︒そ

れ故

現象

学体

系で

は︑

自然

哲学

と精

神哲

学は

実在

学︵

実在

哲学

︶と

し て一つにまとめられている︒現象学体系はイエナ体系に現象学を付け加えただザでなく︑実在哲学という理念を含ん

でいる︒現象学体系は﹁現象堂1論理堂ム夫在哲学﹂という三部構成である︒

ここで一般に認められている現象学体系の成立の条件を挙げておきたい︒現象学体系が成立するためには三つの条

件が

必要

であ

った

︵1

︶﹁論理学と形而上学﹂が﹁思弁哲学としての論理学﹂となること

︵2︶現象学が導入部かつ体系の第一部となること

︵3

︶自然哲学と精神哲学が実在哲学として一つにまとめられること それぞれの条件を簡単に考察しよう︒先ず﹁思弁哲学としての論理学﹂の成立についてであるが︑思弁哲学のスケ ッチは﹁思弁哲学としての論理学﹂のスケッチである︒思弁哲学としての論理学は﹃イエナ体系構想

H﹄

︵の

巧斗

︶︵

O

1

五年︶における﹁論理学と形而上学﹂に由来する︒この﹁論理学と形而上学﹂において︑論理学は三項構成︵単

(7)

九四

純な連関l関係l

比 例

上学

︶で

ある

であり︑形市上学も三項構成︵根本命題の体系としての認識←サ観性の形而上堂

1

王観

性の

形市

つまり﹁論理学と形而上学﹂は全体として=了三構造である︒この三l

三構

造を

﹁思

弁哲

学の

スケ

ッチ

は受け継いでいる︒そうであるとすれば︑思弁哲学のスケッチと一八

O

l

五年

の﹁

論理

学と

形而

上学

﹂は

一応

対応

ていると言える︒思弁哲学のスケッチが︑それが由来する﹁論理学と形而上学﹂と対応しているとすれば︑スケッチ

が三!三構造を持っていることはそこからも確認できる︒

﹁論理学と形而上学﹂構想において︑論理学は学としての形市上学への導入部であった︒導入部であった論理学が

﹁思弁哲学としての論理学﹂に吸収されることによって︑新たに学への導入部が必要となる︒それが﹁意識の経験の

学﹂である︒﹁論理学と形市上学﹂が﹁思弁哲学としての論理学﹂となることは︑現象学を必要としたのである︒

現象学の成立についてであるが︑原現象学は﹁意識の経験の学﹂として構想された︒意識概念は﹃イエナ体系構想I

﹄の

精神

哲学

︵︿

包・

の当

N

g M

g

︶の

内に

︑そ

の由

来を

見る

こと

がで

きる

︒そ

して

﹃イ

エナ

体系

構想

凹﹄

︵の

巧∞

L S

の内に﹁意識の経験の学﹂が精神哲学から独立したことの記録を見出せる︒﹁意識の経験の学﹂の構想が生まれた誕生

の地は︑精神哲学の草稿の内に求められる︒精神哲学の準備草稿の中から︑﹁意識の経験の学﹂の理念が育ち︑そして

精神哲学から独立する︒それは﹁思弁哲学としての論理学﹂の成立が要求したのである︒

そして導入部としての現象学は論理学と対応することによって︑体系の第一部という位置を占める︒意識の経験の

学としての現象学は導入部であるとともに︑体系の第一部であるという二重の性格を持つ︒﹁思弁哲学としての論理

学﹂の成立は﹁意識の経験の学﹂の成立を要求した︒それは現象学体系の成立を意味し︑それ故また﹁実在哲学﹂の

理念

の成

立を

も合

意す

る︒

思弁哲学のスケッチが書かれているのは︑

一 八

O

l

六年

の﹃

イエ

ナ体

系構

想凹

﹄︵

の巧

∞︶

であ

るが

︑そ

の背

後に

︑﹁

弁哲学と実在哲学の二区分﹂という構想がある︒﹁実在哲学﹂の成立は一八

O

l六年冬学期の講義題目﹁実在哲学︵自

(8)

然哲

学と

精神

哲学

︶︵

口述

で︶

﹂︵

﹁実

在哲

学﹂

とい

う語

の初

出︶

から

読み

取れ

る︒

﹁思

弁哲

学と

実在

哲学

への

二区

分に

よ って出版されるべき著作のための新しい計画が即座に可能となる︒﹂しかしそれが体系として何を意味しているのか が問われなければならない︒﹁イエナ体系構想皿﹄において︑自然哲学は三項構成︵力堂

1形態化と化学機構有機的な

もの︶であり︑精神哲学も三項構成︵概念から見られた精神

l現実的精神l国家構成︶である︒それ故自然哲学と精神

哲学が実在哲学として一つになるとは︑実在哲学が全体として一ニlE三構造を持つことを意味する︒思弁哲学としての論

理学

も一

ll

三構造である︒とすれば思弁哲学と実在哲学への二区分は︑三

1三構造による両者の体系的対応を意味して

いる

ので

はな

いか

︒ 思弁哲学のスケッチの三三構造は︑単なる﹁論理学と形而上学﹂の名残であるだけではない︒それは体系構成上︑

極めて重要な二区分である︒つまりこの三l三構造は実在哲学の三l三構造と体系的に対応しているのである︒

﹃論

理学

﹄の

初版

︵一

八二

一年

︶は

現象

学体

系に

属す

るが

︑﹁

客観

的論

理尚

1早主観的論理学﹂という形の二区分を持

っている︒一方で﹁存在|本質l概念﹂という三構造があるのに︑何故二区分が主導的であるのか不思議である︒それ

は現象学体系のもつ体系主丁三構造︶の要請である︒つまり実在哲学の二区分︵自然哲堂

1精神哲学︶との体系的対

応︵自然の論理晶子精神の論理学︶である︒

現象学が体系の第一部であることは︑現象学体系全体の内で理解されねばならない︒現象学が論理学︵思弁哲学の

スケッチ︶に対応するとすれば︑現象学は三l

三構造を持つはずである︒そうであるとすれば︑現象学は論理学に対応 するだけでなく︑実在哲学全体主丁三構造︶にも対応するだろう︒現象学が論理学と実在哲学に体系的に対応するこ とが︑現象学が体系の第一部であることの意味である︒緒論での﹁意識の全体系︑すなわち精神の真理の全領域﹂︑﹁全 体の諸契機が意識の形態である﹂という言葉は︑この体系的対応を含意しているのである︒

とすれば現象学体系は︑﹁現象蛍1論理宇白然哲堂1精神哲学﹂という四部構成でなく︑﹁現象堂1

論理

堂ム

夫在

哲学

九五

(9)

という三部構成である二ニ部のそれぞれは三1三構造を持ち︑体系的な対応関係の内にある︒このように解釈できると

したら︑現象学体系は極めてすっきりした体系となる︒それは三l三構造を体系構成の原理とする体系であり︑エンチ

クロペディ体系︵三構造を体系構成の原理とする︶に匹敵する体系である︒

l三構造が現象学体系の体系性を構成している︒この対応を持つ体系が︑一八

O

五年

にへ

lゲルが構想した体系で

ある

︒現

象学

体系

は次

のよ

うな

一二

l三構造という体系的対応を持つ体系であった︒この現象学体系を確証することがこ

こで

の課

題で

ある

原現象学論理学

感覚的確信

知覚悟性

︵思

弁哲

学の

スケ

ッチ

絶対的存在

関係

3 2 

生命と認識

4自己意識知る知 5 

理性

絶対知自己についての精神の知

精神

実在哲学

自然哲学

力学

形態化と化学機構

有機的なもの

精神哲学概念から見られた精神

現実的精神

国家構成

対応の条件と﹃精神現象学﹄の八章構成

ここでの課題は︑現象学の論理︑つまり現象学と論理学の対応という問題から出発して︑原現象学の構想を確認し︑

(10)

さらに現象学体系を確定することである︒そのために先ず︑現象学と思弁哲学のスケッチが対応するための条件をは

っきりさせよう︒対応を確認する試みの前に︑先ず対応が語りうるための条件を明らかにしておくことが必要である︒

対応が語られるためには︑次の条件が要請される︒

1︶一対一対応としての形式的な対応︒へlゲルが現象学と論理学の対応を語る場合︑一対多︑あるいは多対一

という対応を考えていたとは︑誰も思わないだろう︒へlゲルははっきり次のように言っている︒﹁学の抽象的な契機

のそれぞれに︑現象する精神一般の一つの形態が対応する︒﹂百円出

hS

︶一対一対応を明確に主張していることは明

らかである︒現象学は六項構成でなければならない︒

2︶=了三構造という構造的な対応︒へlゲルはダッシュと﹁そして﹂という言葉によって︑三l

三と

いう

形で

六項を大きく二つに区分している︒つまりスケッチはコ了三構造を持っている︒現象学が思弁哲学としての論理学と対

応するとすれば︑現象学はこの構造を持たねばならない︒

3︶意味の対応︒﹁絶対的存在︑関係︑生命と認識︑|そして知る知︑精神︑自己についての精神の知﹂という六つ

の言葉に︑現象学は意味的に対応しなければならない︒

現象学と論理学との対応を語るとすれば︑この三つの条件は当然の要請である︒この条件は厳しすぎると思うかも

しれない︒しかしへlゲルの哲学体系が体系であるための不可欠の条件である︒この条件を満足する解釈があるとす

れば︑その解釈が正しいという規準になるだろう︒

では出版された﹃精神現象学﹄はスケッチと対応するだろうか︒﹃精神現象学﹄は﹁感覚的確信l知覚1

悟性

ム自

己意

1理性1精神l

l絶対知﹂という八章構成である︒この八章構成が思弁哲学のスケッチの六項構成と一対一対応し

ないということは︑一見して明らかである︒しかしともかく出版された﹃精神現象学﹄とスケッチとの対応を吟味し

てみ

よう

九七

(11)

九八

思弁哲学のスケッチを見ると︑五番目が﹁精神﹂となっている︒この﹁精神﹂を﹃精神現象学﹄の精神の章に対応

させるのは︑言葉だ砂見れば︑自然に見える︒普通これが対応の試みの出発点となる︒しかし﹃精神現象学﹄は精神

の章の後に︑宗教と絶対知という二つの章が続く︒しかし思弁哲学のスケッチでは﹁自己についての精神の知﹂しか

ない︒そもそも一対一対応が成立していない︒それ故対応させるために︑﹁自己についての精神の知﹂を二つに分砂る

か︑あるいはスケッチにない一つの項を加えねばならない︒しかしどちらにしろ︑対応させるためだけの恋意的な操

作で

ある

のは

明ら

かだ

ろう

精神の章の前に︑﹃精神現象学﹄は五つの章を持っている︒しかし思弁哲学のスケッチは﹁精神﹂の前に︑四つの項

しかない︒それ故対応を成立させるために︑思弁哲学のスケッチの一つの項を二つに区分するか︑スケッチにない新

たな項を案出しなげればならない︒しかしこうした操作が窓意的であるのは否定しょうがない︒

このように思弁哲学のスケッチの構成を悲意的・技巧的に書き換えることによってしか対応が言えないとすれば︑

そもそも﹃精神現象学﹄とスケッチとの対応がないと言うべきではないか︒一対一の対応がないとすれば︵条件︵1︶

を満

たさ

ない

とす

れば

︶︑

条件

2︶ ︵

3︶を満たしえないのは当然である︒八章構成である﹃精神現象学﹄は=了三構

造を持ちえないし︑意味の対応など不可能である︒出版された﹃精神現象学﹄はスケッチに対応しない︑と言わざる

をえ

ない

だろ

う︒

思弁哲学のスケッチと出版された﹃精神現象学﹄とを対応させるのは無理である︒とすれば現象学と論理学との対

応そのものを否定すべきなのか︒しかしそれは現象学の論理を否定することであり︑学としての現象学を否定するこ

とである︒それはへlゲル哲学の基本性格︑つまり学の体系性︵学H

体系

︶を

否定

する

こと

であ

る︒

対応しない理由は明らかである︒﹃精神現象学﹄が八章構成だからである︒出版された﹃精神現象学﹄を自明の前提

とする限り︑論理学との対応はありえない︒出版された﹃精神現象学﹄を対応させようという前提そのものが誤って

(12)

いることになる︒出版された﹃精神現象学﹄を自明の出発点とする前提から自由になれば︑現象学と論理学との対応

も別の仕方で考えられるだろう︒

つまり今度は逆に︑﹁思弁哲学のスケッチ﹂を書いたときに構想されていた現象学を想定することである︒しかしそ

れは思弁哲学のスケッチと対応する﹁原現象学﹂の構想を認めることである︒

ここ

で原

現象

学巴

弓冨

0ロ

52

︒Z位︒と呼ぶのは︑﹁思弁哲学のスケッチ﹂を書いたときに構想されていた現象学であ

るが︑それは﹃精神現象学﹄を書き始めたときへlゲルが考えていた現象学の構想である︒つまり﹃精神現象学﹄の

緒論で読み取りうる現象学︵意識の経験の学︶である︒さらに言えば︑一八

O

五年

の﹁

絶対

知﹂

草稿

︵の

君︒

B

寸︶

で考

えられている現象学である︵五参照︶︒﹁思弁哲学のスケッチ﹂︑﹃精神現象学﹄の緒論︑そして﹁絶対知﹂草稿は︑す

べて一致して原現象学の構想をはっきり示している︒結論を先取りして言えば︑これらから読み取りうる原現象学は

理性から絶対知へ移行することになっていた︒つまり原現象学は﹁感覚的確信T知覚l

性よ

自己

意識

l

l

対知

﹂の

六章構成であった︒原現象学の存在と構成を確認し︑それが三つの対応条件を満たすことを示すこと︑そして原現象

学を含む現象学体系を確定することが以下の課題となる︒

しかし原現象学を確認する前に︑出版された﹃精神現象学﹄を自明の出発点にすることに対する問題点をはっきり

させ

てお

きた

い︒

思弁哲学のスケッチと﹁精神現象学﹄との対応がうまくいかなかったのは︑﹁精神現象学﹄が八章構成だからであっ

た︒

しか

しへ

Iゲルにとって八章構成はそもそも意味ある構成なのか︒八章構成であることは︑﹃精神現象学﹄の構成

が極めて異様・異質であることを意味している︒へlゲルにとって体系構成の基本的な数は三である︒

一 八

OO

年にイエナに行く前にへlゲルは︑﹁青年時代の理想は反省形式に︑同時に体系へと変わらねばならなかっ

た﹂

︵∞

ユ止

y g

︶︑とシェリングに書いている︒そして一八

O

一年

にへ

lゲルはイエナ大学に十二条の就職テーゼを

九九

(13)

一 OO

提出している︒その第二条は﹁推理はイデアリスムスの原理である﹂となっている︒推理は﹁大前提小前提l

結論

の三項から成り立っている︒へlゲルの術語を使えば︑﹁普遍l特殊l

個別

﹂の

三項

構成

であ

る︒

︵﹃

エン

チク

ロペ

デイ

一八三節︶それは第三条三角形は精神の法則である﹂として言い表されてい純︒﹁同一性と非同一性の同一性﹂とい

った定式もまた﹁同一性非同五千両者の同一性﹂という三項構成である︒

現象学体系の成立時期を見ても︑一八

O

l五年﹃イエナ体系構想H﹄の﹁論理学と形而上学﹂において︑論理学は

三項構成︑形而上学も三項構成である︒一八

O

五上ハ年の﹃イエナ体系構想凹﹄において自然哲学は三項構成︑精神哲

学も

三項

構成

であ

る︒

へlゲルの哲学体系が三を基本的な構成原理としていることは﹃エンチクロペデイ﹄を見れば明らかである︒へー

ゲルの最後の体系であるエンチクロペディ体系は三部構成︵論理学l

自然

堂1

精神

Aきであり︑それぞれの内部構成

もその細部に至るまで︑すべて三部構成である︒へlゲルの哲学体系はその最初から最後に至るまで︑三を体系構成

の原

理と

して

いる

へ1ゲルの体系構想の試み全体の内に﹃精神現象学﹄を置いてみると︑その八章構成は極めて異様・異質に見える︒

もし﹁体系の現象学的危機﹂を語りうるとしたら︑この八章構成こそが﹁体系の現象学的危機﹂と呼ばねばならない︒

出版された﹃精神現象学﹄をスケッチに対応させる試みは︑へlゲルが最初から八章構成として現象学を構想したと

想定することである︒しかし八章構成の異様さ・奇妙さだ砂でも︑この想定を疑うのに十分である︒この奇妙さを誰

も指摘しないのも奇妙である︒原現象学は﹁感覚的確信l知覚J

悟性

ム日

己意

l理性l絶対知﹂という六章構成︑しかも

一一

了三

構造

を持

って

いた

ので

はな

いか

(14)

﹃精神現象学﹄における精神と宗教の章の異質性

原現象学は﹁感覚的確信l知覚J

悟性自己意平理性

1絶対知﹂の六章構成であると想定した︒原現象学のこの想定か

ら見れば︑精神と宗教の章が書き加えられたことによって﹃精神現象学﹄は八章構成になってしまったことになる︒

この二つの章を除砂ば︑現象学は六章構成になる︒除くことは恋意的だろうか︒

一 八

O

七年五月一日︑へlゲルはシェリング宛の手紙で﹃精神現象学﹄の﹁構成そのものを支配した不幸な混乱﹂︑

そし

て﹁

最後

の諸

部分

のか

なり

大き

な不

格好

﹂︵

回ユ

o

y E H

につ

いて

語っ

てい

る︒

へlゲルは最初ローマ数字の区分に従って書き始めた︒書き終わった後に︑アルファベットによる区分を新たに導

入し

た︒

両者

を対

応さ

せよ

う︒

B.

自己

意識

理性精神

宗教絶対知 I.感覚的確信︑このものと私念H

.知

覚︑

物と

錯覚

凹.力と悟性︑現象と超感覚的世界

w

.自

己自

身の

確信

の真

v

理性

の確

信と

真理

H.

精神

刊.

宗教

川.

絶対

c

. ︵

﹀ ﹀ ︶

A.

意識

︵ 回 切 ︶

︵ の の

︵ ロ ロ ︶

(15)

ローマ数字による区分は八章構成である︒新たに導入したアルファベット区分は︑C

の表

題が

何で

あれ

︑﹁

意識

l

己意識l両者の統ごという三区分となっている︒へlゲルの体系構成の原理は三なのである︒この再編成の試みは︑

へlゲルにとって八章構成が体系として都合が悪いことを示している︒八章構成こそが︑﹁構成そのものを支配した不

幸な

混乱

﹂な

ので

ある

ローマ数字による区分で気づくのは︑精神と宗教の章の表題が単に﹁精神﹂﹁宗教﹂という簡単な表題となっている

ということである︒アルファベットの区分も同様に簡単な表題である︒つまり精神の章以降の簡略化がアルファベッ

ト目

次へ

の書

き換

えを

も支

配し

てい

る︒

それに対して︑理性の章以前は︑もっと内容がこもった表題となっている︒このことは︑理性の章までが一つの統

一した構想のもとで書かれていたことを示唆する︒それは﹁意識の確信からその真理へ﹂と表現できるだろう︒精神

と宗教の章には︑こうした意味が付与できないことを意味している︒ともかく章の表題から見て︑精神と宗教の章は

それ

以前

の章

と異

なっ

てい

る︒

この断絶は﹃精神現象学﹄での﹁意識の形態から世界の形態へ﹂という移行に示されている︒精神の章の最初でへ

1ゲルは理性の章までと精神の章とをはっきり区別している︒精神の章以後の形態は﹁実在的な諸精神︑本来的な諸

現実

態で

あり

︑単

なる

意識

の諸

形態

でな

く︑

世界

の諸

形態

であ

る﹂

︵司

仏門

Y出

切︶

︒﹁

実在

的な

諸精

神﹂

︑﹁

本来

的な

諸現

態﹂という言葉は︑これが実在哲学︵ここでは精神哲学︶に由来していることを示している︒緒論で語られた﹁意識の経験の学﹂という理念は精神の章において放棄されていお︒

このことは﹃エンチクロペデイ﹄二五節におげるへl

ゲル

自身

の証

言か

ら明

らか

であ

る︒

﹃精

神現

象学

﹄は

﹁単

なる

意識の形式的なもの﹂に留まりえず︑﹁道徳︑人倫︑芸術︑宗教といった意識の具体的な諸形態﹂を扱う︒それ故﹁哲

学の具体的な諸部門に属するものが︑一部分すでに︑﹃精神現象学﹄という導入部のうちにはいってくるようになる﹂

(16)

︵ 巧 ∞

b N

・ 何 日 −

mN

切︶

︒﹁

道徳

︑人

倫︑

芸術

︑宗

教﹂

は︑

精神

と宗

教の

章の

lマである︒これは﹃精神現象学﹄で言わ

れた﹁世界の諸形態﹂に対応する︒﹁哲学の具体的な諸部門﹂とは基本的には精神哲学を意味している︒それ故次のよ うに言うことができる︒﹃精神現象学﹄は﹁二つの部分を含む︑つまり﹃意識の経験の学﹄︵﹃即かつ対自的に実在的で ある個体性﹂における完成された﹃理性の確信と真理﹄まで︶と﹁精神哲学﹂を含む﹂︒

精神哲学の付け加え︑つまり﹁客観的精神﹂︵精神の章︶と﹁絶対精神﹂︵宗教の章︶が付け加えられる︒それによ って︑構造の上で︑精神哲学と区別がなくなる︒つまり﹃精神現象学﹄の構成は︑.﹁主観的精神︵意識︑自己意識︑理

性︶

←管

観的

精神

︵精

神︶

l絶対的精神︵宗教︑絶対知ごとなる︒だからこそ絶対知の章でへ

lゲ

ルは

︑﹁

学の

体系

第 一部﹂を﹁精神の哲学﹂と区別するために︑﹁精神の現象学﹂と名づけたのである︒へ

1ゲルは現象学という名称を哲

学と対比的に用いている︒﹁カント哲学は精神を意識として把握した︒そしてまったくただ精神の現象学の諸規定を含

︵ お ︶

むだけで︑精神の哲学の諸規定を含まない︒﹂﹁精神の現象学﹂という名称は﹁精神の哲学﹂との対比のもとで導入さ

れている︒へ1

グルは絶対知の章において︑現象学という語を自明であるかの如くに導入していることに注意すべき である︒それは現象学という名称がフィヒテを含めた当時の用例に従っているからである︒

精神と宗教の章を付け加えたことによって︑現象学は奇妙な構成になってしまった︒この奇妙さは絶対知の章に現 れる︒それは絶対知の成立に関わる︒絶対知の章で以前の意識の形態を想起し︑三つの契機として︑﹁観察する理性﹂︑

﹁純

粋透

見と

啓蒙

﹂︑

﹁道

徳的

な自

己意

識﹂

を挙

げる

︒観

察す

る理

性は

理性

の章

の向

から

︑﹁

純粋

透見

と啓

蒙﹂

そし

て﹁

徳的な自己意識﹂は精神の章の聞と

ω

から取られている︒この選択は絶対知の章を読んだ人なら誰でも窓意的だと思 うだろう︒この恋意的に見える選択は精神の章の書き加えに意味を与えるための苦心である︒﹁

C

学﹂

草稿

︵の

者申

込 ω∞

戸︶はこの苦心を示している︒精神の章の問

ω

は︑理性の章の問

ω

と基本的に同じ内容を展開している︒それ故︑三つ

の契機として︑理性の章での山間

ω

を想起しても︑同一の展開が示され︑そこから絶対知の成立を語ることができる︒

一 O

(17)

一 O

四 この記述にすれば︑展開はすっきりしている︒これが原現象学の構想であった︒

さらに絶対知の成立に関して奇妙な記述がある︒﹁宗教においては内容︑つまり他のものの表象という形式であった

もの

と同

じも

のが

︑こ

こで

は自

己の

自分

自身

の行

為で

ある

︒﹂

︵可

︒︒

h g

︶﹁ここで﹂とは﹁良心において﹂を意味す る︒良心は精神の章の最後に位置する︒そしてその後に宗教の章が続き︑啓示宗教︵キリスト教︶に至る︒とすれば 宗教に過去形︵﹁あった﹂︶を使い︑良心に現在形︵﹁ある﹂︶を使うのは︑奇妙に見える︒しかし現象学においてキリ スト教は自己意識の章の最後である﹁不幸な意識﹂として登場している︒そして不幸な意識が持つ﹁他のものの表象 という形式﹂は︑理性の経験を通して克服される︒理性の

ω

﹁即

且つ

対自

的に

実在

的で

ある

個体

性﹂

にお

いて

︑﹁

表象

という形式であったのものが︑自己の自分自身の行為である﹂︒これが原現象学の構想であった︒この構想を取り戻す 試みが︑一見奇妙な記述となって絶対知の章に現れている︒精神と宗教の章がなければ︑現象学は極めてすっきりし

た構

造を

持っ

てい

たの

であ

る︒

以上で︵三︑四︶︑精神と宗教の章が﹁意識の経験の学﹂としての原現象学の性格を破壊し︑六章構成を崩している ことが明らかとなった︒消極的な仕方であるが︑原現象学の存在を示したと思う︒しかし原現象学の構想を示す積極

的な

資料

を次

に扱

うこ

とに

しよ

う︒

﹁絶

対知

草﹂

稿と

原現

象学

1

ゲル

は明

らか

に現

象学

の構

想を

持つ

てい

わ︶

O

に﹁﹃精神現象学﹄のためのメモ﹂が書かれている︒﹁絶対知は最初に立法理性として 現れる﹂という言葉で始まる草稿である︒この草稿を﹁絶対知﹂草稿と呼ぽう︒この草稿の内に原現象学の構想が見 出される︒この草稿は一枚の紙の表と裏に書かれている︒表は次のようになっている︒

﹁思弁哲学のスケッチ﹂を書いたとき︵一八

O

l

六 年

︶ ︑

一 八 O

五年

五月

︵あ

るい

はそ

れ以

前︶

(18)

﹁絶対知はこのように最初に立法理性として現れる︒人倫的実体そのものの概念において意識と即自存在との区別 はない︒何故なら純粋思惟の純粋思惟は即自的であり︑言い換えれば自己自身に等しい実体であり︑同様に意識でも あるからである︒しかしこの実体に一つの規定性が出現し︑その第一の規定性は︑明らかなように︑法が立てられる ことである︒それによってまた意識と即自との区別が生じる︒しかしこの即自は人倫的実体そのもの︑つまり絶対的

意識

であ

る︒

裏は次のように書かれている︒

ω

意識の神的法︒人倫的本質として義務への直接的な関係︒現実性は実在性自体でなく︑人倫的実在性以外の何

ものでもない︒現実性の二義性︑悪魔の欺輔︑内的な本質︒向分裂が存在する︒分断された精神と:・﹂︵の巧戸お斗︶

原現象学の構想を明らかにするために︑この﹁絶対知﹂草稿から出発することが必要である︒この草稿が現象学の 構想と全く関係がないとは誰も言えないだろう︒この草稿は書かれた時期︵一八

O

五年五月あるいはそれ以前︶がは

っきりしている︒この時期にへl

ゲルが未だ現象学の構想を全く持っていなかったとは考えられない︒他の現象学構

想に

関わ

る草

稿︵

C

学﹂草稿︶は書かれた時期を確定するために︑解釈を必要とするが︑この草稿はその点︑問題 がない︒執筆時期が確定していることは重要である︒それ故︑原現象学の構想を捉えるために︑最も重要な資料であ

る︒現象学の最初の構想を知るためには︑﹁C

学﹂草稿でなく︑﹁絶対知﹂草稿から始めるべきであ持︒

この草稿の余白に︑フォス宛の書簡の下書きが書かれている︒﹁私は︑秋に研究を哲学の体系として提示するでしょ

う︒

﹂︵

∞江

o

y g

︶それ故﹁絶対知﹂草稿に書かれた構想がこの﹁哲学の体系﹂に属していることは明らかである︒

この﹁哲学の体系﹂は︑現象学の絶対知の章で語られることになる体系︑現象学体系である︒この現象学体系こそ明 らかにしなければならない︒﹁絶対知﹂草稿はこの﹁哲学の体系﹂︵現象学体系︶の構想のもとで書かれている︒

﹁絶対知は最初に立法理性として現れる︒﹂このようにこの草稿は始まっている︒明らかに﹁立法理性﹂という言葉

一 O

(19)

一 O

六 は︑﹃精神現象学﹄の理性の章の最後

C

﹁即かつ対自的に実在的である個体性﹂において主題化される﹁立法理性﹂に 対応している︒とすれば﹁絶対知﹂草稿は︑﹁理性から絶対知へ﹂の移行を言い表している︒﹁最初に﹂という言葉は︑

立法理性において単に即自的に絶対知が現れているにすぎないことを意味している︒理性が自己を精神として知ると き︑絶対知は真に絶対知として現れる︒

ここ

で﹁

絶対

知﹂

草稿

の主

題的

な解

釈を

する

必要

はな

いだ

ろ河

︒草

稿で

語ら

れる

言葉

︑﹁

欺踊

﹂﹁

人倫

的実

体﹂

﹁義

務﹂

そし

て﹁

絶対

的意

識﹂

が︑

C

﹁即かつ対自的に実在的である個体性﹂の章で語られていることを指摘するだけで十分 であろう︒特に﹁絶対的意識﹂という語は︑﹁精神現象学﹄ではこの箇所にだけ現れる︒﹁諸法は自己意識自らの絶対

的意

識の

思想

であ

り︑

この

思想

を自

己意

識は

それ

自身

で直

接的

に持

って

いる

︒﹂

︵司

仏の

い呂

﹁絶対的意識﹂という語は﹃イエナ体系構想

I﹄における精神哲学に導く︒﹁しかしこの経験的な意識は絶対的意識

でなければならない︒:・これが目標︑意識の絶対的な実在性であり︑我々は意識の概念をそれへと高めねばならない︒

それ

は︑

意識

が民

族の

精神

とし

て持

つ総

体性

であ

り︑

民族

の精

神は

絶対

的に

すべ

ての

人の

意識

であ

る・

:︒

﹂︵

の巧

少白

血︶

この箇所に原現象学︵意識の経験の学︶の構想の萌芽を読み取ることは可能だと思う︒目標は﹁我々が意識の概念を それへと高めねばならない意識の絶対的実在性﹂である︒これは﹁経験的意識が絶対的意識であること﹂であり︑こ のことを知ることが絶対知である︒この箇所は精神哲学に属するが︑この構想が現象学に生かされている︒﹁意識の経 験の学﹂としての原現象学の誕生の地は精神哲学である︒

ともかくホフマイスタ!の解釈は基本的に正しいと思う︒﹁へ

lゲ

ルは

最初

︑理

性か

ら直

接的

に﹃

絶対

知﹄

に移

行し

︑ 絶対知の最初の段階として﹃立法理性﹄を扱おうとした︒従って一八

O

五年の計画において︑﹃精神﹄と﹃理性﹄の章

は未

だ欠

けて

いた

ので

はな

いか

︒﹂

(20)

J

﹃精神現象学﹄緒論と原現象学

原現象学が理性から絶対知へ移行するという構想のもとに書かれ始めたとすれば︑その構想は﹃精神現象学﹂緒論 の内に読み取れるはずである︒緒論は最初に書かれたのであるから︑最初の構想に従って書かれている︒絶対知への

移行は﹃精神現象学﹄緒論の最後に語られている︒

﹁意識がその真なる実存へ突き進むことによって︑意識は一つの地点に到達するだろう︒この地点において意識は︑

単に自分に対してのみあり他のものとしてある疎遠なものに囚われているという仮象を脱ぎ捨てる︒言い換えると︑

この地点において現象は本質と等しくなり︑意識の叙述はそれによってまさに精神の本来的な学の地点と一致する︒

そして最後に意識自身が自分の本質を把握することによって︑意識は絶対知自身の本性を示すだろう︒﹂︵司仏︵

Y目 ︶

﹁精神の本来的な学﹂はむろん論理学である︒そして﹁精神の本来的な学の地点﹂は︑理性の最後の到達点を意味

して

いる

︒理

性の

到達

点は

﹁理

性が

精神

であ

るこ

と﹂

︑﹁

すべ

ての

実在

性で

ある

とい

う確

信が

真理

へ高

まる

こと

﹂︵

司仏

Y

出ω︶である︒理性の章の課題は︑理性の確信を真理に高めることである︒﹁確信が真理へ高まる﹂とは︑﹁真理となっ

た確

信﹂

佳巾

N R

巧 与 吾 岳 唱

o a g

ぬの

め邑

田町

岳︵

の巧

口ω

ω︶

とし

て︑

論理

学の

次元

を意

味す

る︒

ある

いは

論理

学は

﹁純

粋理

性の

体系

﹂︵

口当

口い

H︶である︒この言葉は理性の章において﹁精神の本来的な学﹂としての論理学の地点に

達す

るこ

とを

意味

する

︒ しかし理性の最後の段階は︑精神であるというその本質を把握していない︒それ故︑﹁精神の本来的な学の地点﹂と は論理学の次元に即自的には︵我々にとっては︶達しているが︑それを未だ知らない地点である︒そして意識がその 本質︵精神であるという本質︶を把握することによって︑﹁自己を精神として知る精神﹂つまり絶対知に達する︒つま り意識自身にとって︑論理学の次元が聞ける︒﹁すべての実在性であるという確信が真理となる﹂とは︑﹁理性が自分

一 O

(21)

一 O

自身を自分の世界として︑世界を自分自身として意識する﹂ことである︒それは︑理性・ヌ1

スが

世界

を支

配し

てい

るというアナクサゴラスの思想に到達することを意味する︒この思想に至ることが︑論理学の次元に至ることである︒

だか

らこ

そ﹃

論理

学﹄

︵現

象学

体系

に属

する

︶の

緒論

でア

ナク

サゴ

ラス

に言

及す

るの

であ

る︵

︿包

・の

巧口

hH

緒論での﹁精神の本来的な学の地点﹂と絶対知との区別は︑思弁哲学のスケッチにおける﹁精神﹂と﹁自己につい

ての精神の知﹂の区別に対応する︒﹁精神﹂と﹁自己についての精神の知﹂という言葉は︑前者の精神が未だ﹁自己に

ついての知﹂に至っていないことを含意している︒

さら

にこ

の区

別は

︑﹁

絶対

知﹂

草稿

の冒

頭に

我々

を導

く︒

﹁絶

対知

は最

初に

立法

理性

とし

て現

れる

﹂と

は︑

﹁最

初に

﹁我々にとって﹂であって︑﹁意識にとって﹂ではない︒立法理性において︑﹁意識は一つの地点に到達する﹂にすぎ

ない︒立法理性は﹁絶対知が立法理性として現れる﹂ことを概念把握していないのである︒このことを把握するのが︑

絶対知である︒立法理性は自己の本質︵精神であるという本質︶を把握することによって︑絶対知となる︒絶対知が

意識の一つの形態として既に即自的に生じているということは︑現象学の基本的な構想に属する︒論理学の次元は概

念であるが︑﹁概念はそれ自身︑意識の一つの形態という形式において既に生じていた﹂︵

E F E

句 ︒

絶対知の成立について︑思弁哲学のスケッチ︑﹁絶対知﹂草稿︑﹁精神現象学﹄緒論は︑閉じ構造︑つまり﹁理性か

ら絶

対知

へ﹂

を示

して

いる

原現象学は理性から絶対知へと移行する︒精神と宗教の章は︑原現象学の構想を崩すことをはっきりへl

ゲル

が知

った上で︑書き加えられたのである︒へ1ゲルは夢遊病者のように現象学を書き続げて︑知らぬ聞に最初の構想が変

化したのではない︒そのようなことはあるはずがない︒へl

ゲル

は確

信犯

であ

る︒

(22)

思弁哲学のスケッチと原現象学との対応

以上の考察によって原現象学の構成は明らかとなった︒それは同時に思弁哲学のスケッチとの対応を確認すること

︵ お ︸

である︒既に現象学体系として提示したが︑その対応を改めて示そう︒

思弁哲学のスケッチ原現象学

︵論

理学

︶ 1 

絶対的存在

関係 感覚的確信知覚

悟性

2  3 

生命と認識

4知る知自己意識

5精神理性

絶対知6自己についての精神の知

三において対応が語りうるための三つの条件を挙げた︒︵1

︶一

対一

対応

︒︵

2ET

三構

造の

対応

︒︵

3︶

意味

の対

応︒

ここで上に提示した対応がこの三つの条件を満足するかを検討しなければならない︒

先ず条件︵l

︶であるが︑原現象学が六章構成であるから一対一対応が成立する︒これは言うまでもなく明らかだ

ろう

一 O

(23)

二 O

では原現象学は条件︵2︶を満たすだろうか︒原現象学は︑﹁感覚的確信︑知覚︑悟性﹂と﹁自己意識︑理性︑絶対

知﹂

とい

﹀フ

答え

るこ

とが

でき

る︒

自己意識の章がそれまでの章と決定的に異なることをへ1

ゲル

は次

のよ

うに

言っ

てい

る︒

﹁自

己意

識に

よっ

て我

々は

真理

の本

来の

固に

入っ

たの

であ

る︒

﹂︵

P

出 −

E S

﹁これによってすでに精神の概念が我々にとって存在している︒意識

にとってさらに生成するものは︑精神が何であるかの経験である︒:・意識は︑精神の概念としての自己意識において

初め

てそ

の転

換点

を持

つ︒

﹂︵

司仏

︵Y

EO

︶自

己意

識に

おい

て﹁

真理

の本

来の

固に

入り

﹂︑

﹁意

識の

転換

点﹂

に達

する

とす

れば︑悟性と自己意識の聞に大きな区別が存在することは明らかである︒原現象学は=丁三構造を持っている︒しかし

このことの意味をさらに考えてみよう︒それは条件︵3

︶の

問題

に関

わる

﹁精神が何であるかの経験﹂こそが自己意識以後の意識の経験の内実である︒精神の概念︵H

即自

︑可

能態

︑デ

ナミス︶が実在化すること︵現実態︑エネルゲイア︶︑つまり精神の生成が自己意識の章からの課題である︒

自己意識で﹁精神の概念﹂に到達し︑理性で︑精神がその真理︵現実態︶に至る︒理性の章の表題﹁理性の確信と

真理﹂は︑﹁すべての実在性である﹂という理性の確信が真理へと高められることを意味している︒理性の確信が真理

となることによって︑理性は真に精神である︒﹁理性が精神であるのは︑すべての実在性であるという確信が真理へと

高め

られ

︑そ

して

理性

が自

分自

身を

自分

の世

界と

して

︑世

界を

・自

分自

身と

して

意識

する

こと

によ

って

であ

る︒

﹂百

仏︵

Y

ωロ

︶そ

して

精神

が自

己を

精神

とし

て知

るこ

とに

よっ

て︑

それ

は絶

対知

であ

る︒

﹁自

己を

精神

とし

て知

る精

神﹂

︵司

仏︵

y

g e

としての絶対知において︑﹁精神が何であるかの経験﹂はその終り︵テロス︶に達する︒

自己意識において﹁精神の概念﹂が成立し︑理性においてその確信が真理へと高まることによって精神となる︒そ

して絶対知において精神は自己を精神として知る︑つまり﹁自己についての精神の知﹂となる︒原現象学の後半︑

(24)

まり

﹁自

己意

識︑

理性

︑絶

対知

﹂は

︑﹁

精神

が何

であ

るか

の経

験﹂

︑﹁

精神

の生

成﹂

であ

る︒

こうして一八

O

四五年の﹃イエナ体系構想

H﹂での﹁論理学と形而上学﹂の構想に導かれる︒﹁形市上学は精神の

契機

であ

る︒

﹂︵

の巧

ア可

︒︶

﹁形

而上

学は

精神

の生

成で

ある

︒﹂

︵の

巧戸

口吋

︶思

弁哲

学の

スケ

ッチ

の三

l三構造は基本的に

﹁論

理学

と形

而上

学﹂

の三

l三構造に対応している︒それ故﹁知る知︑精神︑自己についての精神の知﹂は﹁精神の生

成﹂を言い表していることになる︒しかしこのことはスケッチ自身の表現からも明らかだろう︒

﹁精神の生成﹂という意味において︑原現象学と思弁哲学のスケッチは︑その後半が対応している︒その限りで条

件︵

3︶を満たしている︒しかし﹁精神の生成﹂は精神哲学のテ

lマである︒そうであるとすれば︑原現象学とスケ

ッチの後半は精神哲学のテl

マと

関わ

るだ

ろう

︒こ

こで

現象

学体

系と

いう

問題

に突

き当

たっ

てい

るの

であ

る︵

ニ参

照︶

︒ 現象学と論理学との対応は体系の問題であるから︑それは当然である︒現象学体系全体の問題は後に︵九︶主題的に

論じることとして︑条件︵3︶についてさらに考察を続ザょう︒

原現象学の後半﹁自己意識︑理性︑絶対知﹂が思弁哲学のスケッチの後半﹁知る知︑精神︑自己についての精神の

知﹂

に対

応す

ると

すれ

ば︑

﹁自

己意

識|

知る

知﹂

﹁理

l

精神﹂﹁絶対知|白己についての精神の知﹂という対応が成り

立つ︒この対応を確認しなければならない︒

先ず﹁知る知|白己意識﹂の対応から始めよう︒﹁知る知﹂というこの表現は︑知の自己関係︵無限性の構造として

の自

己関

係︶

を言

い表

して

いる

︒自

己意

識は

意識

が意

識自

身を

知る

こと

︑﹁

自己

自身

につ

いて

の知

﹂百

円四

YZ

とである

から︑﹁自己を知る知﹂として﹁知る知﹂に対応する︒スケッチでの﹁知る知﹂は﹁論理学と形而上学﹂における﹁根 本命題の体系としての認識﹂が対応する︒これは﹁論理の自己知﹂︵論理そのものの自己関係・自己内還帰としての認 識︑論理が自分自身の構造を認識する・知ること︶であるから︒

次に﹁精神理性﹂の対応を確認しよう︒思弁哲学のスケッチと﹁精神現象学﹄を対応させる試みが自明の出発点

(25)

としている﹁精神﹂について改めて考察することである︒理性が精神に対応することはへ

1ゲルの術語としてそれ自

体奇妙なことではない︒﹁絶対知﹂草稿で立法理性が語られるが︑そこで﹁分離された精神﹂が同じ文脈で語られてい

︷ 部

る︒実際﹃精神現象学﹄の理性の章に︑﹁精神﹂という語は︑極めて多く用いられている︒このことは単なる偶然では ない︒現象学の理性の章は︑思弁哲学のスケッチの﹁精神﹂に対応しているからである︒図式的に言えば︑理性の章 の小川において﹁精神は物である﹂が︑そして倒において﹁物は精神である﹂が展開される︒そして

ω

において﹁精神

と物との同一性﹂が達成される︒これは﹁すべての実在性であるという理性の確信が真理へと高まること﹂である︒

最後に﹁自己についての精神の知|絶対知﹂の対応であるが︑絶対知は﹁自己を精神として知る精神﹂︵司

a o

虫 色

であるから︑絶対知が﹁自己についての精神の知﹂に対応することは明らかである︒

以上で一応﹁知る知︑精神︑自己についての精神の知﹂と﹁自己意識︑理性︑絶対知﹂との意味の対応は示せたと 思う︒次に原現象学の前半︑つまり﹁感覚的確信︑知覚︑悟性﹂と﹁絶対的存在︑関係︑生命と認識﹂との対応を確

認し

よう

八絶対的存在︑関係︑生命と認識

思弁哲学のスケッチの前半﹁絶対的存在︑関係︑生命と認識﹂と﹁感覚的確信︑知覚︑悟性﹂が対応することを確 認するために︑先ず絶対知の章に手がかりを求めよう︒絶対知の章において次のように言われている︒

﹁対象は一方で直接的存在︑言い換えれば物一般であるが︑それは直接的意識に対応する︒対象は他方ではそれが 他となること︑その関係つまり他に対する存在であり︑対自存在︑規定性であり︑それは知覚に対応する︒対象はま

た他

方で

は本

質︑

つま

り普

遍的

なも

のと

して

あり

︑そ

れは

悟性

に対

応す

る︒

﹂︵

司仏

のい

包︶

ここ

で論

理学

の概

念と

現象

学と

の対

応が

語ら

れて

いる

︒﹁

直接

的存

在︑

物一

般﹂

|﹁

直接

的意

識︵

感覚

的確

信︶

﹂︑

﹁直

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