九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
On Two Kinds of Sodōs' Autographs
杉浦, 正一郎
https://doi.org/10.15017/2332862
出版情報:文學研究. 56, pp.1-4, 1957-07-05. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
頃日︑福岡市浄水通の内本浩亮氏をお訪ねし忙時︑﹁九月十三
夜﹂と祖する素堂の真蹟一軸を拝見した︒文章は桃都の﹃陸奥府﹄
︵元禄十年刊︶に定稿か見えているが︑大分出入かあるから今真
蹟のまま︑字配り︑娯字訂正もそのままに左にかかげてみよう︒
几月十三夜
はせをの高に月をもて
あそ砂てたゞ月をいふ
こしの人ありつくしの
人ありまことに浮菜の
•ん水にあへるかことし
︑
︑
あるしも旅より帰りて黛消ら卜汀王︶いまたいくはくも日あらすヽ菊に月にもよほされて
吟身いそかしいかな
われき応﹃噌峠鱈すること支那にはあらす
素 堂 の 真 蹟
︱ 一 種 に つ
\、
いさよひのいつれか今朝に残る菊 ましてくたらしらさにもしらすわか日のもとの風月にとめるなるへし宮
'F
もろこしに月あら八ヽけふの月もみよ
以上か真蹟の全文であるが︑﹃陸奥昨﹄︱︱一の巻には︑此文寧の前
後に句文かあって︑其の年代が貞享五年の作である事が判る︒即
ち︑一貞享宣戌辰菊月仲旬一と前壽して︑
温池の主翁︑又菊を愛す︒`きのふ
は慮山の哀を閲苔︑けふは其酒の
余りをすすめて︑独吟のたはふれ
となす︒猶おもふ︑明年誰かすこ
やかならん事を︒
十日菊
以下︑略通・越人・友五・嵐雪・其角・嵐蘭・素堂ら八人の菊の
故 杉 浦 正
て
郎
遣
f 古
かけふた夜たらぬほとてる月見哉
後の月たとへは宇治の巻ならん
後の月名にも我名は似さりけり
我身には木魚に似たる月見哉
木曽の痩もまたなをらぬに後の月
の五句か並んでいるので︑︸叫屈素堂の文にいう︑越の人は越人を
指し︑つくしの個は路迎とも思とも思えぬから︑恐らく宗波をさ
すかと想像含れる︒宗波は又滸波ともかき︑江戸本所原庭の定林
寿の住職︑前年貞享四年の芭蕉の﹃罪島紀行﹄にも凶良と共に同
芭 宗 路 越 杉 蕉 波 通 人 風
句を並べ︑其のあとに今一句︑素堂の菊の句を前占附てのせ︑こ
あのとに一
9 + ︱︱一夜﹂と題して︑右の真蹟と同主旨の一文か見え
る︒ついでに異同を傍点で示しつつ﹃陸奥街﹄の全文を示してみ
よう゜ー﹁芭蕉の葉に月をもてあそひてた
A月をいふ︒越の人︑︑︑︑︑︑あり︑つくしの僧有︑まことに浮卿のう含くさにあへるかことし︒
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
あるしも浮雲流水の身として︑石山の螢応さまよひ︑さらしなの
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月に嘘て苓に婦る︒いまたいくかもあらす︒菊に月にもよほされ て︑吟身いそかしいかな︒花月も此処応咬あらし︒おもふに今宵を
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︑ 貫すること︑みつれはあふるA悔あれはなり︒中華の詩人︑わす
︑
︑
︑
︑ ヽ ヽ ヽ
. ヽ ヽ
れたるに似たり︒まして︑く亡ら︑しらきにもしらす︑我国の風
月にとめるなるへし一ーー以上の傍息の如苔異周があり︑旦つこ
︑︑
︑︑
のあとの素堂の句も一もろこしに不︱︱あらはけふの月見せよ﹂と
なっている︒なおこの句は︑久戚葱朝︑成美浄甚の松宇文庫本
︑︑
︑︑
﹃素堂家集﹄には﹁もろこしに不一一あらは後の月見せよ﹂とある︒
含て︑﹃控奥府﹄には︑この素堂の句についで︑ 行している︒叉︑﹃栞集r一や﹃続深川﹄所出の芭蕉の句ニ口巣に
︑ ︑
ハあはれあるべき隣かな﹂の前古に︑﹁隣附の僧︑宗波たびにお
も行かれけるを﹂とあり︑元禄一丘一年︵推定︶九月甘五日附︑杉風の
芭焦宛害筋にも﹁宗波老︑いよ/\遥意療治二て達者二成被記竺
とみえ︑芭烈のとなりに仕んでいたものと思われる︒同じく同年
九月廿六日︑首良の芭癒宛膏簡にも︑芭蕉庵附近の近況報告中
に︑﹁宗波息災二訃一と書かれてお勺︑なお︑素堂の文に﹁ある
︑ ︑ しも浮雲流水の身として︑石山の壼にさま卜5ひ︑さらしなの月に
累益に帰る」とあるは、同年(疇喜〗: □□ 〗旦)――一月、札
国を伴いての予笈の小文﹄の旅の⑳ち︑京で杜国と別れてから湖
南に移り︑六月初旬の頃美濃に下り︑八月中句まで︑大垣︑岐巨︑
嗚海︑名占屋︑熱田の間応悠造し︑八月中旬︑越人を従えて更科
の月を賞し善光寺に記で月末江戸に帰着した事をさしている︒湖
南から芙誤下りの日時は︑湖中の﹃芭蕉翁略伝﹄に︑一祖翁の日記
六月六日大津を白︑ゑち川に泊︒七日赤坂に一宿︒八 自筆にしてニ行ばかり日餃旱に到る︒秋芳軒宜白を主とす﹂とあり︑六月六日応大津を
山発︑東下の豚に出たらしいか︑この素堂の一文でみても﹁石山
の螢﹂の頃はまた湖南にいたのである︒
可陸奥約﹄には袖記工木曽の控もまたなほらぬに後の月﹂の芭
蕉の句の次に︑次の如き一文かついている︒内容から見ると︑芭
蕉の文章に相違ないと山心われるの令に︑従来の芭圧文集の類には不
思議なことに漏れている︒ついでに原本のまま記してふよう︒
中秋の月はさらしない里︑姥捨山になくめかねて︑なをあは
れさのめにもはなれすなから︑長月十三夜になりぬ︒こよ砂
は宇多のみかとのはしめて︑みことのりをもし︑世に名月と 2
見はやし︑後の月あるは二夜の月よと言める︒これオ子・文 人の風雅をくハふるなるへし°間人のもてあそふ[きものと いひ且ハ山野のたひ寝もわすれかたうて︑人!\を哀ねき︑
胴を掴︑峯のさヽくりを白鶉と誇る︒隣の家の素翁︑丈白老 人の一輪いまたみす一一分駈といふ唐亮ハ︑この夜折になれに りと︑たっさへ来れるを壁のうへにかかけて︑草の惹のもて なしとす︒狂客河某︑しらA・吹土とかたり出けれは︑月も 一きははへあるやうにて︑なかー\ゆかしきあそひなりけら し ︒ 之は支考の﹃笈日記﹄にも字句の小異で出ているが︑この文は素 堂の﹁十一二夜﹂の一文に対応すべ含今宵の主人としての芭蕉の感 懐であろうから︑署名はなくとも芭蕉の文章とすべ苔であろうと 思つ︒﹁隣の素翁﹂というは素堂のことであろうか︑素堂が石川 丈山を慕った事は︑﹃素堂家集﹄にも﹁石川丈山歳の六物になそ らへて芭蕉降六物の記﹂と題して︑二見の文台や四山瓢・小瓢・
檜笠・両菊・茶の羽織の六物とし︑それぞれの一文をかいている 事なども思い出される︒又﹁狂客何某︑しら
A吹上とかたり出﹂
というは﹃芭蕉廂小文庫﹄︵元禄九年刊︶所収﹁更科娯拾月之弁﹂
︑︑
︑ と題する芭蕉の文章の冒頭に︑﹁あるいしらら吹土と吾くにうち さそハれて︑ことし姥捨の月みむことしきりなりけれは・:﹂と あると符合する︒この文のつづきによると︑芭蕉は八月十一日美 濃の国を発ち︑道を急いで十五夜を丁度姥捨で月を賞する事加出 来たのであった︒九月十一二夜の月を賞するは︑素基・芭蕉の文の 如く我国丈であるが︑其起原について﹃華実年浪草﹄にも﹁中右 記に日︑保延元年九月十三夜今宵雲浄く月朋なり︒是寛平法皇︑
二 ︑
明月無雙の由仰出らる︒例て我朝九月十三夜を以て明月の夜と為 す﹂と引用している︒いうところの﹁四平法皇﹂は芭焦の云ず多
のみかど一である︒
なお︑索堂︑芭蕉の文中の句に関連して﹃素堂家集﹄に﹁寄芭 蕉翁﹂と悶する次の一文かあるので﹃家集﹄のまま掲げる︒
︵ イ こ ぞ
︶
︑
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︑ 今年のこよひ︑彼附に月をもてあそひて︑越の人あり︑つく しの僧有︒あるしもさらしなの月より帰りて︑木苗日の痩もま たなほらぬかなと詠しけらし︒ことしもまに月のためとて慮 を出ぬ︒松島・象潟をはしめ︑さるへき月の所︵をつくし
て隠のおも砂てよせんとなるへし︒
このたひハ月に肥てやかへりなむ
ーこの文の冒頭の﹁今年のこよひ﹂は嵐雪の﹃其袋﹄所出の文 の方では一こぞの﹂となっている︒安永阻年板︑直生の﹃俳諧五 子稿﹄の﹁山口素堂句集﹂にも﹁去年の今宵﹂とある︒之は﹃訂 くのほそ道﹄の巻頭﹁松島の月まつ心にかヽりて﹂と呼応する文 であるが︑恐らく﹃はそ道﹄は砂きつづ苔その芭蕉の旅中を思い やつて書いに元禄二年の作であろうと思われる︒
長崎片淵町住の浅香消氏の蔵せられる横物の幅に左の如き素堂 真蹟かある︒之はもと︑屏風の張交せになっていたのをはがした
もの
A由で︑次の幅の他︑霊頼・宗因・立圃などもあったよしで
ある︒索堂には︑
長崎にて
珠 は 鬼 灯 砂 糖 は 土 の こ と く な り 素 堂
の句が﹃素堂家集﹄にも見え︑直生の﹃俳諧五子稿﹄にも同様に
見えるから︑長崎に縁のない人ではない︒但し﹃家集﹄の方は句
のあとに﹁阿房宮の賦のことはをかりて所からその多合をいふ一
と註がついている︒
長崎にてを
ら ん た の 文 字 か よ こ た ふ 天 つ 雁 宗 因
の自筆短冊を持つているが︑共に長崎に遊んで︑そのニキノテイ
ックな風物をよろこんだ句である︒さて素堂の真蹟には︑
春 風 に 見 失 う 迄 は 雲 雀 哉 素 堂
はせを老人此句をよろこひてキジ
雲 雀 な く 中 の 拍 子 の 雉 の 声 蕉 翁
愚また此旬の
拍子をよろこひて
谷川に翡翠と落る椿かな
はしめの五文字
魚う苔てと申待りしを
とある︒この索堂の二句は﹃とく
l¥
`の
句会
﹄.
﹃俳
諧五
子稿
﹄.
﹃素堂家集﹄共にそれぞれ︑
谷I l l
に翡翠と落る椿かな
夕風に見うしなふまてハ雲雀哉
として見え︑春風かダ風に変つている︒芭蕉の﹁雲雀なくー一の句
は元禄四年の﹃猿蓑﹄が初出で﹃泊船集﹄や﹃陰奥衡﹄にも見え
る︒素堂の両旬の初めてみえる素堂の﹃とくー\の句合﹄は享保
二十年刊だから︑囲蕉生前のこうした関係はどうかと思えるかも 知れぬが︑﹃とく︷の句合﹄所収の句は﹁ばせを行脚に出て久しく帰らざりしころ﹂と前書の句もある通り︑古い句も混入しているので︑右の両句か古い作品であってもさしつかえないと考えられる︒いづれにしても︑この芭蕉句の成立の事情が判る珍らしい
資料
であ
る︒
︵附
記︶
長崎の渡辺庫輔氏の言によると︑其後︑浅香氏は亡くなられ︑
右の素堂真蹟は行方不明になった由である︒︵昭和三十一年八
月 ︶
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