九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
The Collapse of the Small Kao-chu-li Kingdom (小高句麗国)
日野, 開三郎
https://doi.org/10.15017/2244151
出版情報:史淵. 98, pp.77-110, 1967-03-01. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
小 高 句 麗 国 の 滅 亡
︵ 承
前 ︶
日 野 開
良 区
第二節阿保機の経略と小高句麗国の領土
トA←米論述した阿保機の泣東経略の地域は明かに小高旬一一国の領域に当る︒即ち小高句麗は契丹の大侵略を受けたわけ
で︑乙れでは小高句麗悶が健介れであり得た筈は如く︑比一助陀その悲速な末路が察日比せられるのであるが︑その滅亡の過程
を掠るには︑阿保機の遼東経略を更に此の立場から検討して見る︑必要がある︒
第一項阿保機の経略範囲と小高句麗国の領域
阿保機が経略した束遼河の北岸地域より遼河口に至る南北の長大な地帯はすべて小高句麗の領土であった︒小高句麗国
の領域は別に詳考すべき大きな問題であるが︑取敢ず乙ζ陀その概要を紹介すると次の如くである︒
小一品句麗凶の領域を知る最大の手持りは新旧両唐蓄の地理志に見えてゐる安東都護府叉は安東都松岡府の廊燦州で︑旧志
の十四州が小高句一路建国以来の領州であり︑此の十四州に更に追加せられてゐる新志の九州が開元末天荒初の交に奥満洲
より来投した純通古斯系掠鞠諸部を以て増置した新領州であることは先に詳考した所である︒そこで此れら二十一一一州に就
いて阿保機の経略した地待に存在してゐたことの明かなものを挙げると左の如くである︒便宜上︑戚州以南と以北とに分
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
︵日
野︶
七 七
小高
句凶
闘の
滅亡
︵一
水前
︶︵
日野
︶
七/¥
以南に於いては十州にも達してゐる︒づ十三一州中には今口そのけて示す︒戚州以北に於いては佑かに一州にすぎないが︑
位置を比定しねないものが七州もあり︑従って現此置の川かなものは
地 区 一 州 名 一 現
成州以南一延津州一銭嶺附近
同 一 新 城 州 一 撫 順 北 関 山 城 同 一 巡 城 州 一 遼 協 同一巡牟州一撫順千金邸内凶万古城子 同 一 踏 米 州 一 途 陽 附 近 と 推 定 同 一 狭 山 州 一 遼 陽 東 南 と 推 定 同 一 例 泥 州 一 堤 前 塔 同 一 鍛 利 川 一 機 陽 商 南 彰 剛 抑 制 同 一 安 市 州 一 海 城 東 南 義 子 同 一 辺 安 州 一 益 平 東 北 高 麗 城 子
威州以北一越山首州一懐徳又は新安鋭
在
位 置
十六州に止まるが︑その大半に近い十州が戚州以前の遼河流域に凡出
されることは︑比の地帯が小高句麗の領域内で心臓部とも一五ふべき主
要な京訟を占めてゐたことを示してゐると一五へょう︒小山川旬脱凶の飢
州には新旧両志に伝へられる二十三州の外にも尚かなりの州があった
様で︑既述の一花菰州︵撫順新市街地︶や後述する滞州︵奉天︶等はそ
の著名なものであるが︑さうした両志所伝外の梢州もその殆んどが戚
州以南の遼何流域に集中しており︑此の地川怖が小山向山肌凶の政治・経
済・文化の中心であったことは疑ふべくもない︒戚州以北の州として
確認し得るものは越喜一州のみである︒然し一↑Jlf
−州
中の
仰山
一院
不明
の
七州はその六州までが純通官斯系綜輔の来技者を以て川町附いたものであ
り︑その六州の大部分は戚州以北の地におかれたものの如くである︒
る 勿論︑此の
m f
一止を引ける具体的な沢拠は検山できないが︑大勢論的にいって此の俄定に大きな紅ひはないものと忠はれ嘗て詳論した如く︑戚州方面以北の地は久しく突臓の所領に服していた所で︑それが開元末・天常初の交に於ける突蹴
の崩壊によって店の勢力範囲に帰したものである︒此の突.欧の山川崎棋は同時に湖悔の北進を誘発し︑此の北進に虹抗して敗
れた払浬・的存・鍬利等の純通古川系紙鞠請族の者が続々と亡命来川はして来たので︑同は此れら市大仰者の出火抑的として突
厭より収めた右の地帯を充て︑北は東遼河北岸の此喜州から南は此の新収地帯を越えて遼陽近くの払浬・錨利州
K
至る間に九州を設山したのである︒つまり此れら九州はその大部分がそれまでの突賊領内︑即ち小高旬一向国の領外におかれたも
のである︒円以北の越存州より戚州以南に花る払︑出・錨利両州の地に至る長大な匝問に他の六州が配されてゐたわけである
から︑その多くは当然戚州附近を合むその以北に従ったであらう︒回目図や八面城方面はそうした六州の有力候補地として
考へられなくはない︒唐は純通十日斯族を以て新に置いた此の九州をすべて小高旬麗国王たる安東都督の隷下においた︒
てコ
まり新設の州通・円斯族九州の小山句一燃凶への隷属は︑当時会硲を誇ってゐた大鰐の東北政策に支へられた処日であって︑
小ぃ
日川
句一
一凶
の山
火力
によ
る力
州政
服で
もな
けれ
ば︑
両者
聞の
開議
によ
る合
同で
もな
かっ
た︒
かう
した
減割
放と
純一
辿十
什斯
族と
の盾朝を介した形式的結合が実符的に果してどれだけの融合を粛しねたかは大いに検討を︑必要とするが︑少くとも旧来か
らの本十一であり︑高句麗族の地である十四州
K
比して新殺の約泊市斯系九州に対する小高句麗の支配が弱かったζとは否むべくもないであらう︒崎通内斯系九州のうち︑戚州方而より雨の小向旬間本土の地比おかれた州即ち払出・錨利等の
州日以は高句麗人の中心部に往んでゐた関係からその同化融合が他の地域の者より著しかったにしても︑戚州民北の本土外
におかれた越高等の州民は高何一郎人への同化融合がかなり後れてゐたであらう︒先に論じた如く︑当時の文献が削似国の
四川
出壱
述べ
て︑
﹁間
接仙
一幕
綜鞠
﹂と
記し
︑前
蒋州
の綜
鞠を
川以
て仏
川も
独ム
V一の一勢力なるかの如く扱ってゐるのは︑右の推測
をたすける︒かく賊州以北に対する小山句麗悶の主権は旧来の本土に比して弱く︑従って領土としての時−桝帆も弱かった
と推測せられるが︑
たと
へ絞
沼町
民な
統轄
にも
せよ
︑
そ乙が小高旬開問の領域であった乙とには変り無く︑そとには的存の外
に尚数州があったと解せられるのである
遼河
川山
川以
︵文
比の
洋河
・太
子︑
何等
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域を
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︶に
次い
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嬰な
小一
日川
句⁝
一の
本土
は撫
順の
京労
政子
河の
流域
に治
って
今
の鏑京老械に至る街道一世間川の地であり︑文鴨緑江の.卜流布岸にも州があった︒左に掲示する︒鴨緑江口地方に於いては一
小高匂魁国の滅亡︵承前︶︿日野︶
ー 七
プL
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
︵日
野﹀
/¥
。
州にすぎないが︑鏑京附近は問州を計へる︒然も此れらの州は
↑ 州 名 一
鱗京方面一南蘇川一撫順東万薩溺時間城一木底州一木奇西北水手壁子
一倉
緩州
一一
興京
旧老
域
一一
脅勿
州一
興京
より
輯安
に向
ふ街
道上
鴨緑江口方面一穣利州一河口お岸の一地
現 地
在 位 置 区
大高句麗時代以来の高句麗人の拠地である︒鏑京方面は小高句
麗国の領域として設要な所であったといへょう
小高句麗国の領域を以上の如く四地区に大別し︑此れを霊要
性の版序に並べて見て︑戚州以南の遼河流域が特に震く︑鋪京
街道方面と戚州以北とが此れに次いで居るζ
とを
知り
︑
この
知
識に立って一内ぴ阿保機の経略範囲を顧るならば︑小一両伺麗国の運命に就いて自ら大きな推測が山てくるであらう︒阿保機
の経略は右四地区中でも特に重要な遼河流域戚州以南及びそれに次ぐ戚州以北で︑小高句麗領州の大部分を奪ってゐるの
であるから︑小高句麗闘が受けた痛手は正に致命的であったと云ふ外なく︑その健在は頗る信ぜられなくなる︒然し阿保
機の経略には尚鏑京方面及び鴨緑江口方面が残されてゐたのであるから︑此所に小一高句麗国が余鴨を保ってゐたのではな
いかとの疑念が抱かれぬではない︒阿保機の遼東経略が小高句麗の国運に致命的な打撃を与へた乙とは疑ひの余地なしと
しても︑その滅亡問題に就いては更に検討を進めなければならぬ︒
第二項阿保機設置の諸州と小高句麗国の州
阿保機が遼河流域に設置した先述の諸州を検討するに︑ぞれは殆んどすべて小高句麗国時代からの州や械業を承けつい
だものであった︒以下︑此の関係を考説し︑そ乙から小高句麗国の末運を掠ることとする︒但し小高旬蹴国の州県全般に
就いては此の国の行政制度の問題として専考すべきものであり︑此所ではただ小高句麗国滅亡の実相を探る手掛りとして
必要な範囲に於いて言及するに止める
先づ契丹の東平郡より見るに︑此れは今の遼協であるから︑小高句麗国の遼域州のあとに寵かれたものとなる︒次に契
丹の帰州は今の撫順に比定せられ︑乙乙は小高句麗国の新城州がおかれてゐた所であるから︑帰州は新城州のあとに置か
れたものとなる︒契丹の遼州は新民県の東北の遼浜塔の地
K
当り︑小高句麓国の払浬州の置かれてゐた所であるから︑遼州は払浬州を承継いだものとなる︒契丹の鉄利州はその名称及び位置の一致よりして小高句麗国の鉄利州をそのまま承継
いだものと解すべきである︒阿保機設置の九州中︑東平・鉄利・遼・婦の四州を一応右の如ぐ考へてから︑遼史唯一一一地理
志・東京道の右四州の記事を検討して見る︒
遼史・地理志の東京道の項は︑此の地理志文はその原典の燦者の此の地方の歴史地理に対する知識の甚しい欠除から︑
その諸州の説明記事に甚しい錯謬を含み︑史料として殆んど収拾し難い程の混乱を来し︑その為陀此れまで本道全体の史
料的価値さへ疑はれて来たものである︒そこで右四州の記事の検討に当つては︑こうした錯謬の有無と︑その由って来る
所以との追究につとめ︑従来疑はれて来た東京道の記事の史料的意義とその限界とを考へ直し︑東京道記事の正しい解読
への原則的方法を見出す心掛けを以て論議を進める乙ととする︒つまり記事の史料批判に重点がおかれるわけであって︑
若しそこから遼史・地理志の東京道の項の史料的活用法が見出されれば︑それは小高句麗国の研究のみならず︑契丹・崩
海や更に糊って大高句麗国の研究にも稗益する所が絶大である︒
内d
註お
先づ記述の簡単な帰州︵帰州には前帰州と後帰州があり︑此の判明人口は前帰州﹀より見るに
太祖平融海6
以降
戸置
︒後
廃︒
とある短い記事がその全文であるが︑比の短文の中にそのままでは理解し難い点が含まれてゐる︒即ち阿保機が帰州を置
いたのは紛れもなく撤海国討滅以前であるにも拘らず︑右記事には﹁平揃海﹂げて置くとある︒帰州をおく為に阿保機が
平げた国があったとすれば︑それは小高句麗国以外に考へられない︒従って此の﹁平織海﹂とは﹁平ハ小︶高旬麗﹂を指
してゐるのではないかとの見解が抱かれ︑延いては遼史・地理志の東京道の項に記されてゐる﹁泊海﹂には︵小︶高句麗
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
ハ日
野︶
}\
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
︵日
野︶
/¥
を指してゐる場合があるのではないかとの考へが生れて来る︒
次に鉄利州に就いては︑広州の条に
漢属裏平県︒高麗為当山県︒制海為鉄利郡︒太祖遷働海入居之︒建為鉄利州︒
井﹂ みの ヲ︒
︒
﹁謀一周裏平県﹂の句は直接関係がないので省略し︑又﹁高一一為当山県﹂のことも他に凶聯記事が無くて批判の子
掛りが得られないので後考に倹つこととし︑此所では﹁湖海為鉄利郡﹂と﹁太祖選制海人間之﹂との両句に就いて考察す
る︒郡は唐以後に於ける中国の制度では州の別名であるが︑制海の制度でどうなってゐたかは未だっきとめるに至ってゐ
ない︒湖海の州名はその殆んどが新唐蓄の働海伝に−記され︑その総数は大約六十を計へるが︑その郡名の所持はない︒然
し遼史の地盟志には蹴海の郡名が散見するので︑郡名の存在を否定するのは早計である︒制海の郡制に就いては専ら今後
の考究に倹つ外ないのであるが︑新伝に依れば糊海では鉄利・府をおいて所管の六州を統轄せしめてゐたとあり︑その州名
をも列挙してゐ乍ら鉄利郡の名はあげてゐない︒所で契丹の鉄利州は︑先述の如く︑小高句麗国の鉄利州を承継いだもの
で︑制海の鉄利府とは無関係であったのであるから︑比の事笑に立って言へば︑右の﹁削海為鉄利郡﹂とは﹁︵小︶同句
麗為鉄利州﹂に訂正すべきものとなる︒果して然らば遼史・地理志・東京道の此の湖海も亦︵小︶高句麗を指している用
例の一と言へる︒同様に︑此れに続く﹁太祖遷蹴海人居之建鉄利州﹂の湖海も小高句麗で︑精確には﹁太祖逮︵小︶高句
麗入居之﹂とすべきものとなる︒鉄利州の建置は蹴海討滅以前のことであるから︑﹁湖海﹂を﹁高句麗﹂に置き直さなけ
れば記事の内容が史実と吻合せ冒ず︑その意味で此の訂正は認める外ないと言へる︒
次に遼州の記事は頗る長いので︑取扱ひの便宜上適当に区切り︑その各々に番号を附して掲赦する︒
ω
遼州︒始平軍︒ド︒節度︒ω
本払
浬国
城︒
ω
削海為
東平
ぃ肘
︒
ω
唐太
宗親
杭↓
口同
盟︒
海中
世鋤
抜遼
城︒
一向
山市
謝料
名
振・
献定
方討
一両
閣︒
至新
城大
政之
︒池
田比
地也
︒
ω
太祖伐湖海︒先破東平府︒ω
故東
平山
川都
督伊
・蒙
・陀
・則
市・
比
五州b共領県十八︒皆廃︒の太祖故為州ハ遼州uo軍日東平︒太宗更為始平軍︒
此の記事は長いだけにそこに含まれている錯誤謬乱も頗る多く︑その批判は煩雑となるが︑労を一駄はず訂正を試ることと
する
先づ
ω
の始平軍は契丹の遼州の軍号を︑と節度とは共に州の格ぬを示したもので︑仰に記してゐる如く︑此の軍号はF
︒太祖が東平軍と名けてゐたのを太宗が更めたものである︒
ω
と仰とは契丹時代の越州に関する記事で︑此れには問題はなぃ︒次に
ω
の﹁本払視国城﹂の句は仰の﹁湖海為東平府﹂及びω
の﹁故東平府都督伊・蒙等五州︒ナ品
云︒
﹂の
旬と
共に
す
ベて湖海国内の払担に閣する記事である︒払浬掠輯の原住地は東北奥満州の瑚爾喰河以東一帯で︑開元末天宝初の交に渦
海は此れを征服してその地に東平府をおき︑伊州以下五州を統轄せしめたのであるから︑遼史・地理志の記事は此の事実
を伝へたものとして見る限りに於いては些かの誤りもない正しいものといへる︒然し此れを契丹の遼州の沿革を記したも
のとして見れば全くの謬伝となる︒契丹の遼州は小高句麗国の払担州を承継いだもので︑遼史・地理士心が遼州の沿革とし
て奥満洲の払浬駄輔ら︸持出して来たのは︑比の払浬の名称的一致によったものと思はれるが︑小一品句麗国の払出州は湖海
が奥満洲の払浬紘鞠を征服した際に削海への隷属を潔しとしないで唐に来投した一派の者を以て置いた州であるから︑奥
満洲原住地の払担とは全く別の一団となってゐたわけであり︑従って遼州の沿革記事に於いて崩海国内奥満洲の払連株鞠
を持出し︑此れを契丹の遼州
K
直接結びつけてゐるのは適切でない︒寧ろ小高句麗の払浬州をこそ遼州の由来を一店す記事に取込むべきである︒遼史の地剤一志が遼州の沿革記事に於いて遠く奥満洲の払担綜輯を持出し乍ら小高句麗の払浬州を脱
してゐるのは︑恐らく撰者が両払浬の別を知らず︑彼是混同してゐたζとに由るのであらう︒
開元末・天宝初の交に小高句麗国の所管としての払担州が置かれた地は︑此の方面の要地としてそれ以前から史に若れ
てゐた︒即ち陪の甥惜の時︑此所には遼束郡とその郭下の通定鋲とが嵐かれており︑且つ此の新遼東部は遼阪なる従来の
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
︵日
野︶
/¥
小高
句麗
函の
滅亡
︵承
前︶
︹日
野︶
/¥ 阻
遼東郡と区別する為に遼東新城と呼ばれ︑文略して単に新城とも呼ばれてゐた︒陪皆時代に於ける中国と大高句麗との交
戦
K
は常に作戦上の要地として登場するが︑遼東新械が略して単に新城とも呼ばれてゐた為︑後世からは撫順なる高句麗の新城と屡々混同せられ︑我が園の史家中にも混同に陥ってゐる者が見られる︒叉遼束郡が旧新二箇所にできた為︑旧遼
東郡の遼陽と新遮束郡の通定鎮とが混同せられる様にもなった︒殊に冊府元亀詳帝王郁・親杭門・貞観寸九年五月甲申
の条に︑高句麗を親征した唐の太宗が遼城州︵遼陽﹀を陥れた乙とを述べ
倖其
勝臣
︿高
徐人
︒口
四高
︒収
倉粟
五十
高石
︒以
其城
為遼
州︒
一戸
云︒
とある如く︑占領中の遼陽に対して一時遼州と命名してゐたととと︑契丹が通定鎮の地なる払浬州を遼州と改名したこと
とが︑益々後人をして両者を混同せしめる乙ととなった︒先掲
ω
の前
半に
︑
﹁唐
太宗
親征
一向
一践
︑李
情劫
抜遼
城︒
中略
皆此地也﹂とて︑季世動の抜いた遼城州︑即ち遼協を契丹の遼州の地なりとしてゐるのは︑明かに遼史・地理志の誤った
混同である︒新時書巻二高一一伝に二O永徴五年︒蔵︷高句麗国︶以株鞠兵攻契丹︒戦新域︒大風︒矢皆還激︒為契丹所乗大敗 J百
F王高裁﹂とある新械は︑一角句麗が攻撃したのであるから高句麗領外に在る通定鎮の遼東新械であるとと明かであるが︑続いて六年
の条
有詔︒営州都督程名振・左衛中郎将蘇定方率師討之︒至新城敗一品麗兵︒火外部及嘘落引還︒ に
とある新城は︑程名娠等に率ゐられた唐軍が攻焚したのであるから高句麗領内に在る撫順の新城である︒先掲
ω
の後
半
}ζ
﹁詔程名娠・蘇定方討高麗︒至新城大破之︒此地也﹂とて︑程名振等の破った新城を通定鎖なる新城と解して契丹の
遼州の地に比定してゐるのは︑新城なる名称の一致による遼史地理志の撰者の混同と日比るべきものである︒かくて遼州の
沿革を述べた遼史・地理士山の先掲
ω ω ω
及び
ω
は悉く撰者の誤謬として刷去すべきものとなる︒沿革記事として残るのは
ω
の﹁太祖平励海︒先破東平府﹂のみとなるが︑此の部分も亦重大な混同の謬りを回国してゐるものと仰せられる︒学界周知の如く阿保機が撤海討減戦に於いて先づ破ったのは扶余府であって東平府ではない︒そこで右の﹁太極平瀬
海﹂の励海も先め帰州・鉄利州め場合と同様に小高句麗を指レてゐるのではないかと類推せられるが︑それには次の破東
平府﹂の一旬が障碍となる︒東平府は瑚爾恰以東に住む払浬軟弱の地に置かれてゐたのであるから︑崩悔は勿論︑小高句
麗を伐つにしても︑共
K
最初に打破る筈のない所である︒然し遼史の地理志は捌悔の払浬昧鞠と小高句麗国内の払浬州とを混同してゐたと考へられるのであるから︑奥地払浬株鞠の地に置かれた東平府の所在を契丹の遼州とせられた払温州と
混同するζとも充分考へられる所である︒恐らく此の東平府とは払浬州を誤ったものであらう︒仮に此の京平府を払浬
州︑即ち契丹の遼州を誤ったものとすれば︑比の地は小高句麗国の西境に在り︑且つ阿保機の東進本地とせられてゐた龍
化州と相対する所に位置し︑両者聞は交通幹線路
K
よって結ぼれてゐたのであるから︑﹁先破﹂は一応あり得べき関係となって来る︒恐らく阿保機が最初に陥れた小高句麗国の州は龍化州より東進する丹軍の正面に位一直してゐた払浬州で︑此
れが払浬綜輔との混同を通して伝へられたのが﹁先破京平府﹂の一旬であらう︒払浬州を取った阿保機が遼州と命名した
のは︑嘗て比所に遼東郡︑所謂遼東新城が置かれたのに因んだのであらう︒東平の箪号は此れを突破口として小高臆国の
征服を完遂せんとした阿保機の気宇を現してゐるかに受取られ︑又太宗が筆号を始平と吏めたのは﹁先破﹂に因んでゐる
かに思はれる︒以上の論述
κ
基づき遼史・地理志・遼州の条の記事を添削訂正すれば左の如くになる︒遼州︒始平軍︒下︒節度︒本︵小︶高句麗国弘浬州︒鹿高宗永徽五年︒
︵大
﹀高
句麗
王版
以紙
輯兵
攻初
十人
丹戦
新域
︒却
読む為契丹一所大破︒比地也︒太祖伐︵小﹀高句麗︒先破払浬州︒改為遼州︒箪日東平︒太宗更為始平軍︒
此の原文の訂正陀於いても尚問題が残・される︒それは﹁先破払浬州﹂の部分である︒阿保機の東進に於いて最初に経略し
た所は戚州以北の地で︑彼の即位前に既に征服しており︑そ乙には小高句麗国隷下の越者州があった︒従って阿保機が先
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前﹀
︵日
野\
八五
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
︵ 日
野 ︶
司︑︑﹂\
︐ ︐ ︐ 一 ノ
づ破った州は乙の越害等戚州以北に花ったもので︑払浬州ではなかったことになり︑延いては右訂正文の﹁先破払浬州﹂
の一旬が此の立場から検討せられなければならない乙とになる︒阿保機の払温州攻破に対してわけもなく漫然と﹁先破﹂
の一誌が冠せられる筈はないから︑此の先破には当然此の表現に相当する事実が含まれてゐる筈であり︑此の払担州を承継
いだ遼州の軍号が始平軍と名けられたζとも﹁先破﹂の表現を裏づけてゐるかに解せられる︒果して払担州が小高句麗国
内の先破州であったとすれば︑それより先K経略せられた松存州等戚州以北の諸州は小高句麗悶の領土外であったと云は
なければならなくなる︒此の地方は湖海国の本土外であった乙と既述の如くであるが︑それが小高句麗国の領土でもな
く︑又阿保機の経略を受けるまで契丹の領土でもなかったとすれば︑比の撮爾たる小地区が自主的立場をとってゐたとと
になり︑それは些か大勢にそぐはぬ感がある︒設置当時の越存州等此の地方の州は小高句麗回の隷下に置かれた明証が存
してゐるのであるから︑小高句麗国の末年に於いても︑此の地方が助海や契丹の所領に移されない限り︑やはり小高句麗
国の隷下に在ったと見るのが最も担当であらう︒ただその隷同は綬漫な属探関係に止まっており︑小一向何一胤同の本土外務
属地的な観を呈してゐた為︑契丹は此れを小高句麗の直轄領土と見ず︑よって小高句麗園内の州として最初に破ったのは
払温州であると考へてゐたのではあるまいか︒越喜等純通士口斯系駄畑輔の九州は最盛時の唐が設置して小高句麗の支配下に
置いたものであるから︑唐朝の威力が満洲から後退した後陀於いて尚小高句麗がよく九州を威服し支配し得たかどうかは
専ら小高句麗摺と九州との力関係に点った筈で︑鉄利州や払担州の如く戚州以南の小高句麗国中心部附近におかれたもの
は早く融合したのに反し︑越査一百州等の如く戚州以北の小高句麗国遠辺部におかれたものは長く務属的端康関係に止まって
ゐたのではないかと思はれる︒此の推想は尚今後の検討に侠って当否吾決する必要があるが︑何れにしても﹁先破払浬
州﹂の旬は収々に見逃し得ない内容をもったものと解せられる︒
次に迷阪府即ち東平郡に関する遼史・地理志の記事を批判すべき順序となるが︑その全文は余りにも長大で此所に扱ひ
かねるし︑又それを敢て完行しなければ遼城州と東平郡との関係面に障碍を生ずるわけでもないので︑とこには思ひ切っ
て割愛し︑ただ批判の結果として獲た重要な結論だけをあげると︑遼史・地理志の遼陽
RM
K関する記述は︑安京都設府・
樹海国・東丹国等︑唐代より遼代にわたる満洲の複雑な政情の変遷推移に肱惑せられた志の撰者が平壊・龍泉府・顕徳府
・遼陽府の四地の沿革を混請して畜緩ったもので︑甚しい謬乱に陥ってゐるが︑比の混活紛乱を分解復原して整理して行
けば︑その中に右諸山川の研究に捨て難い好資料を含んでゐると云ふ乙とができる︒
以上︑帰州以下四府州に関する遼史・地理志・東京道の記事を批判して得たその甚しい混乱の要凶を務斑するに︑その
第一は小高句麗国のことをすべて別海と記していること︒第二は肋海・東丹・契丹乃至唐等が満洲に泣いた諸州でたまた
ま州名を同じくしてゐるものは︑たとへそれが遠く雄れた所の別州であらうとも︑特卒に混同同一視してそれら別州の治
革記事を寄せ集めて機り合はせてゐること等
κ
在る︒尚他にも混乱の要因があるであらうが︑取敢︑す知り得た右の知識は他の詰州に関する混乱記事の批判整理に役立つべきものである︒そ乙で此の知識に立って更に他の州の考察に移る乙とと
する
先づ巌州に就いて見るに︑地理志の記事は ︒
巌州︒臼巌軍︒下︒刺史︒本助海臼巌域︒
とある︒白巌械の名は南北朝時代に既に大高句一一国の要城として史に著れ︑賠の太宗が第一回の高句麗征伐で比の城を陥
れた時︑此れを巌州とし︑その際に士女一万︑勝兵千四百を伊へたζ
とは
先に
一一
一一
一目
した
が︑
比
φ
日巌城は小高句麗時代にも存続し︑契丹は此れを引き継いで唐の旧名K因み最州としたのであらう︒比の地方を勧海が商轄領土としたととは無
ぃ︒従って﹁本湖海臼巌城﹂の蹴海は比れ亦小高句麗を出してゐるものとなる︒次に播州に就いての地理志の記事は
本担援団︒潮悔建播州︒故廊九︒品目廃︒
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
︵日
野︶
/¥
七
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
︵日
野︶
/¥
}\
とある︒上来の用例より推せば比の劫海も亦小高句麗と受取るべきものの如く考へられぬではないが︑尚よく検討する必
要がある︒抱安は三問時代の前後︑瑚爾恰河流域以来日本海に至る地に拡ってゐた純通十日斯系族の一派で︑陪唐時代の払
浬駄
鞠は
その
族立
聞と
考へ
られ
る︒
抱融
安土
伏め
中︑
υ
ま瑚爾白川つな或であった︒新唐書巻二糊海伝に−J
J I
−
−
r
・1 i
一九
抱要故地︒為定理府︒
とある定理府は今の寧安地域
K
比定せられてゐる︒所で比の定理府は右の伝に依れば定・潜二州を領レていたと云ふ︒地理志が今の奉天の地なる溶州の沿革として遠く奥満洲の把婁族の名を持出してゐるのは︑恐らく此の抱婁の地に置かれた
潜州との閣係からであらう︒祷州と潜州とを結びつけたのは︑地理志の撰者が魯魚の誤りを犯したか︑又は現行湖海伝の
播州
が十
日く
は藩
州と
伝へ
られ
てゐ
たか
︑
その
何れ
かで
あら
う︒
何れにしても寧安方面の抱裂や潜州が奉天なる契丹の溶
州とは全く別の・ものであることには紛れない︒議州の名は先の臼巌州と共に唐の安東府の嘱燦二十一一一州︑即ち唐側に登録
せられた小高句麗国の二十三州中に見出せないが︑漆州が小高句麗園内
κ
存在してゐたことは確証が残されてゐる︒即ち﹁盛京東華内外に在る八面の石瞳を俗に十而石と一広ふ︑石には
設抑尊勝陀経尼を刻し︑其の基石には人物の像を刻せり︒唐開元三年及び溶州等の字︑模糊の閲
K
認む可し﹂とあり︑文金の 故内藤博士の満洲写真帖第六十六図﹁石経瞳﹂の解説に︑王寂の遼東行部志の境顕に
文韓
頴溶
州記
一玄
︒云
云︒
とて︑唐の韓頴の溶州記を引いており︑全店−文一章に韓頴は粛宗の乾元元年ハ七五八﹀に知司天ム量となってゐたとある
かくて播州は開元三年から天宝を経て安史の乱の勃発後まで存続してゐたことが確認せから︑安史の乱の頃の人である︒
られるわけであるが︑此れが小高句麗国の所領であった乙とはその位置より見て論議の余地の無い所である︒それが安東
府の騰臨時州の中に挙げられてゐないのは︑ただ農の総燦州の籍に上せられなかっただけのととであらう︒かうした州の例
は他にも先掲の巌州や元菟州等があげられる︒唐籍に載るか否かがもっ意味に就いては省略する︒武后時代に起った李謹
忠等の契丹人の叛乱を機として一度び唐の驚燦から離れ突慨に附してゐた小高句麗国が再び唐に帰属したのは十五年後の
開元二年であるから︑翌年の溶州の遺跡に店の正朔を奉じて問元三年の銘を入れた石嶋田がゐつでも不合理ではない︒契丹
の滋州は此の小高句麗時代からの祷州を引継いだものに相違なく︑従って此の州は小高句一一闘の末年まで存続してゐたも
のとけんるべきである︒比の様陀刻一︿丹の祷州は小高句嵐の滞州をそのまま引継いだものであり午ら︑遼史・地問志の畑山者は
溶と捕との魯魚の誤りから契丹の溶州の前身吾湖海が担裂の故地に置いた播州なりと
MT合点したものと解せられる以上︑
地理志に記す﹁湖海諸問濯州﹂の別海は文字通り糊海であり︑続いて記す﹁故鯨九﹂は此の助悔の満州の属県ぞ指してゐる
ζとになる︒全く関係のない励海の播州を渚州の前身と解した場合︑此の濡州九県をも溶州の岡県と巧く結びつけなけれ
ばならぬが︑実際にありもしなかった九つもの属県の引継ぎ関係を示す乙とは︑流石の地政芯の間刊︑者にも干に余ったであ
ら弓 ノ
﹁政県九﹂に続く﹁博廃﹂の句は九川県の処置に阿った技者の考へついた処理方法であったとれ併せられる︒湖悔は契
丹の
太祖
に滅
され
た・
ので
ある
から
︑
﹁些円廃﹂は手取り早くて然も尤ちげな机上処理の方法であり︑従って地理志・東京道
内の詰処に用ひられてゐる︒先掲遼州の条の﹁故京平府都叔円伊・蒙・陀・黒・比五州︒北ハ領県十八︒持廃﹂とあるのもそ
の一
例で
ある
︒
次に同州に就いての地理志の記事を見るに
同州︒鎮速筆︒下︒節度︒本漢裏平鯨地︒蹴海為束平案︒太祖置州︒軍日鎮束︒後更Mho
とあり︑崩褐の束平案に量いた州であると一五つてゐる︒此の間海は明かに小高句麗であり︑延いては小高句麗国には行政
区の性格をもっ棄のあったことが知られる︒それは必ずや州県より下の行政区で︑何れかの州尽に隷してゐたものであら
註都ぅ︒新城州を引継いだ却六月の帰州にも五つ以上の築があった乙とが知られるが︑それらも恐ら︿小一
ω
句麗時代からのもの小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
︵日
野﹀
J¥ 九
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
︵日
野︶
九0
であったのであらう︒
次に銀州に就いて見るに
配本湖海富州︒太祖以銀冶更名︒一五一玄︒
とあって︑制海の富州を太祖が銀冶に凶んで吏名したものであると一五つてゐる︒
然し此の所伝は大いに批判を必要とす
る︒契丹の銀州には三県が属してゐたが︑部下の延体県の条を凡るに
延神
伸一
勝︒
酔︒
隅境
有延
津故
城︒
一五
一一
ム︒
とて︑此の県の管内に延津故城があると云っており︑延体の県名が此の故城名に因んだものである乙とを察知せしめる︒
此の延枠故城とは小高句麗国の当初十四州の一として葬れる延体州のあとに外なるまいから︑契丹の州政州は大体小高句麗
国の延山州に当り︑ただその治所が少し動いてゐただけとなる︒次に三県の他の一なる新興県の条を此るに
新興勝︒本越喜闘地︒助出直銀冶︒嘗陸銀州︒
とあって︑契丹の新興県の地は越喜の故地で︑問海が銀治をおいてゐた所であり︑又嘗て銀州が置かれてゐた所でもある
と云ってゐる︒延津県と共に同一州下におかれた新興県は延伸と隣接してゐた筈で︑小高句麗国時代にはその領域であっ
たこと焼ひないから︑比所に鋭治を置いたのは小一高句麗であったことになり︑従って﹁淵海民銀治﹂の削海は小高句麗を
指してゐることになる︒小高句麗時代の鋭治は契丹時代にもそのあとを逃していたであらうから︑新興以内に小高句麗が
銀冶を開いてゐたと一五ふ右の諮伝は先づ間巡いないであらう︒銀治には人が集るからそこに州県が置かれることも充分考
へられ︑又その州名が産銀に因んで銀州とせられた乙とも怪しむに足らぬ︒即ち﹁肋海置銀治︒嘗間銀州﹂とある先掲の
一旬は︑ただ湖海を小高句麗に直せばそのあとはそのまま信じて業支へないが︑此の﹁嘗置銀州﹂の﹁嘗﹂をその前句の
削海︵小山句麗︶に引かけて小高句麗時代と受取るのは中計である︒此の﹁常﹂が何時の時代を折してゐるかを正しく現
解する為には遼史・地理志に於ける﹁嘗﹂の一般的な用法を検討じてみる必要がある︒遼史噌一一一地理芯・東京道・貴徳州
−泰徳県の条
κ
泰徳
一勝
︒本
糊海
一帯
域眠
円︒
常︵
時一
昭︶
置霊
山州
︒
とあ
る品
川ハ
嘗
uは先の銀州の場合の嘗と全く同じ用例で︑
巻一
!
るが︑遼史三互宗本紀・統和八年七月庚辰の条に
省遂・鳩・松・鵠・出向了海・瑞・王・鉄里・泰徳等十州︒
一 見 ︑
いかにも削海ハ小高句麗︶川代を指してゐるかに受取れ
とあって︑奉徳州は契凡の中頃まで泣かれてゐたととが臨められるから.﹁嘗買泰徳州﹂の﹁也H﹂は明かに契丹時代の中で
の﹁嘗﹂である乙とになり︑延いては先の﹁嘗置銀州﹂の﹁台﹂も契丹時代の中での﹁嘗﹂であることになる︒地理志の
銀州は延津を郭下県とし︑外県の新興県を嘗ての銀州の治所としてゐるわけで︑比れを総合して考へるならば︑岡山休機初
置の銀州は加政治のある新興県に就いて置かれ︑後に延津県広治所を移したと云ふ乙とになる︒小高句麗の延津州は廃せら
れて従治銀州の郭下県に下げられたわけである︒但し延律県治は旧の延津州の治所を少し動いたので﹁県境有延津故城﹂
註認と一五はれてゐる︒因みに県境の境は界と共犯管轄区域の意味で︑面を指し︑現花吾人の常用する境界の線ではない︒夢︑す
るに︑契丹の銀州は小高句麗国の延津州の故地に当る所に置かれたものとなる︒従って地理志の﹁銀州︒本湖栴富州﹂と
ある沿革の説明は疑はしいものとなり︑今迄の例から類推して撰者の勝子な附会ではないかとの考へが抱かれる︒新唐量百
の湖海伝に依るに︑富州の名は湖海が越五百株輔を征服して置いた懐遠府管下の九州中に見出される︒地理志の撰者が契丹
の銀州の前身なりと考へた励海の富州とは此れであらう︒かうした誤った附会の所以を求めるに︑それは鋭州の軍号の宮
固と富州との富の共通を措いて外に見出し難い︒軍号と府州名との共通から両者争直ら
K
結びつけてゐる例は地理忘の中に他にも見出される︒即ち戚州の条に
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
ハ日
野︶
九
小高 句麗 閣の 滅亡
︵承 前︶
︵日 野﹀
九
戚州︒安東軍︒下︒節度
とあり︑その郭
F
の戚平鯨の傑に戚平勝︒唐安東都穫︒天宝中︒治営・平二州問︒即此︒太祖滅揃海復置安東軍︒開泰中目︒
とあるのはその一例である︒戚州の軍号の安東と都護府名の安東との共通から直ちに戚州と安東部護府とを結びつけ︑よ
って戚州の郭下県の戚平県を安東都護府が嘗て置かれた所なりと記し︑史実と全く懸け離れた支離滅裂の内答を控造して
註惣ゐるのである︒銀州富国軍と富州との附会も此れと同じ手法と解せられる︒尚地理志は契丹の銀州の最初の邦
F
県とせられてゐた新興県を﹁本越存国地﹂と説明しており︑小高句麗国二十三州中の越喜州の領域が析も新興以の地にまで及んで
ゐたかの印象を与へてゐろが︑此の説明も銀州と富州との比定から割出された地理志問者の机上作文たる疑ひが濃厚であ
る︒湖仰の宮山州は越夜間鞍鞠の地に置かれたものであるから︑銀州守宮州に比定すれば︑銀州も越存椋鞠の地に置かれた州
となり︑延いてはその邦下県も越喜韓輔の地でなければならぬ乙とになる︒銀州の初めの邦ド児は新興である︒比の桜に
考へると︑﹁新興同一︒本越喜園地﹂なる一旬は銀州を富州に比定した地理士山撰者の手作りに成るものと日んられなくはない︒
最後に一樹州即ち後の棋州に就いては地理志に
駈︒
太祖
以一
桓州
停於
此建
一阻
州︒
とあり︑その唯一の管県慶雲に就いて
慶雲鯨︒太祖伊密雲員︒於比建密雲師脚︒後更名
とあって明かに河北の檀州密雲県で倖へた議人を以て制限した州である︒所が地理志の本州の条には上掲﹁上略﹂の郎分
i ζ
本湖
海家
州地
︒
以東の地に置かれてゐた筈のもので︑ とあって︑此の州の前身を湖海の豪州なりとしてゐる︒豪州は揃海国・東平府の五州の一であるから︑当然瑚爾槍河流域
比の比定も地理志撰者の安作で︑その所以は次檀州と同一地である道理がない
の州
であ
る︒
の如く解せられる︒崩海の東平府は伊・蒙・陀・黒・比の五州を領してゐた︒府の郭下州は当然伊州で︑豪州は序列第二
地理志の撰者は︑先に述べた如く︑契丹の遼州を以て東平府に比定したが︑此の比定に立てば府の郭下の伊
州も亦泣州の地に外ならぬζ
ととなる︒所で契丹の檀州は遼州に管轄せられる州下の州であった︒従って遼州下の檀州は 序列として東平山町の豪州に当るとの見方が出てくる︒
﹁本勘海豪州地﹂なる一旬は﹁遼州即東平山川﹂なりとの勝手な比定
阿保
機の
遼東
九州
と小
高句
麗国
の州
名 を立てた地理志撲者の次の推理として作り上げられた第二の勝手な比定と見るべきものである︒
以上に論述した結果に基づき阿保機設置の九州と小高句麗国の
↑ 抗 日 割 割 引
! 位 誼
東 平 郡 一 遼 城 州 一 巡 陽 帰 州 一 新 城 州 一 撫 順 猪 州 一 裕 州 一 溶 陽
︵ 奉 天
︶ 縦 州 一 白 磁 城 一 遼 陽
・ 本 渓 湖 関 の 燕 州 城 遼 州 一 払 泥 州 一 新 民 豚 東 北 巡 演 犠
鍛利州一銭利州一奉天西南彰駅的
銀州一一鉱山仲川一銭嶺
同州一東平築一銭嶺・開原の中間同
檀州一阿保機創霞一関原西方慶雲壁
小高
句麗
図の
滅亡
︵承
前︶
日︵
野﹀
州との関係を表示するに上の如くである︒即ち阿保機の九州中彼 が新に創置したのは唯一州のみで︑八州までが小高句麗の州︵六﹀
城・築︵各一︶を承け継いだものであった乙とが確められる
つま
り阿保機の州はその殆んどが小高旬鑑の要地を奪って置かれたも
のとなるのであるが︑此所に特K注意すべきは︑その中に小高旬
一麗国の遼城州と新城州とが含まれてゐることである︒両州は平壊 介住駐僅かに年余で後退を止むなくせられた店の安東都護府が相次 いで駐治した所であり︑特に新城州の駐治期間は長く︑
−+
444U
命 占
L I−
−
日日時代の唐の満洲統治の中心となった所である︒又遼城州は小高 句麗建国後の首都とせられた所で︑此の固に取っては第一の要地
九
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
︵日
野︶
九 四
でめ
った
︒
かかる二大要地︑特に首都たる遼城州を奪はれた小高句麗国の健在はもはや信ずべくもないであらう︒小高句
麗国の領域は尚蘇子河の上流域と鴨緑江下流右岸の地とを残してゐたとは云へ︑その国連の行方は滅亡を予想せし
U
るに
足るといへょう︒然しその滅亡を伝へた史料の見出されない現在︑滅亡の確認までには更に多くの考証を経なければなら
日 立
第三節
l
︑高 句 麗 国 の 滅 亡
阿保附仙の遼東進出の検討によって小高句麗国の受けた打撃の深刻さが知られ︑その滅亡が推恕せられるにも拘らず︑此
れを直接明記した史料がないとすれば︑小高句麗国滅亡の立証は間接的な方法に依らねばならぬが︑此の間接的究明に円以
も大きく奇与するのは朝鮮半島に於ける政情の勤き︑特に王氏一口同一蹴の建国問題である︒よって此の問題から論じて小高句
麗滅亡の実相に迫ることとする
阿保機勃興当時の東亜は各地共犯混乱の甚しい時代であった︒中国は唐末・五代初の大混乱の真只中に布り︑満洲は劫
海人と女真人との隆替に根ます大動揺の兆が発展しつつあり︑半島も亦新総の国勢褒へ︑半島の西南部に拠った盟去の後
百済︑北部を領有した弓蕗の泰封︑及び東南部に時定まった新維のご一国が鼎立して互に攻争してゐた︒弓式問の郎一卜の王建な
る者︑次第に勢力を張って自立し︑阿保機の神冊三年︵九一八U六月︑高麗悶を立て︑太宗の天顕十年︵九三五︶新縦を
降じ︑翌年︵九一壬ハ︶後百済を滅して半島を統一した︒此の王建の国号﹁高一一﹂は小高句麗の国号と関連して大きな問題
となる大一品句一風滅亡直前の領土は大きく四地区に分けられる︒比れら四地区の第三区は小高句麗の領域に当る︒此の国は大雨
区 大 高 句 麗 領 土 回 大 区 分 表
百〈
|葉護毒患
|自空 g i
I ! 号 車 i
l 住;域
域 分一 3
一高
句麗
始興
の根
本地
域
一大高句麗が首都を遷し要地域
一大
竹内
句麗
の財
政的
最大
要域
一燃
料な
兵力
の提
供地
域
概
句麗の王統高氏を王山本とし︑高句麗人を国民の根幹
とし︑大高句麗故領の一部に拠ったもので︑正しく
大高句麗の嫡統国家であった︒第一地区と第四地区
とは働海国の領土に当る︒助海は比の両地区の高句
麗人と粟末・白山両椋輯人とが一体となって建国
し︑後に北方の純通十日斯系軟抑制部放をも併呑して国
れに次ぐ国の右姓は高氏であった︒市北末・白山両鞍輯は高句麗人と同血・同語の同種族ハ減額種﹀であり︑久しく高句麗 勢を張ったものである︒王家は架末出身の大氏︑此
に服してゐたのが今や湖海国民として一体となり︑かくて次第に相混融して湖海人に帰一して行った︒湖海王家は采末の
出身であったが︑国の指導階扱として最も勢力を有してゐたのは高句麗の王肱高氏を中心とする高句麗系削海人であっ
日本
紀略
前篇
第十
︑型
武天
主・
神柏
町四
年︵
七一
一七
︑
た︒従って糊海人の間には高句麗意識の伝統が強く浸み渡ってゐた︒
即ら働海第二代武王に当る︶
1 7
月の条に
丁亥︒湖侮郡王使高斉徳笥八人入店︒丙巾︒遺使賜高芥徳等衣服冠躍︒助海国者旧高麗悶也c
一 五 一 五 ︒
それは日本に親近する為の方便的とあるは︑融海がその国を高句麗国の後身として日本に国交を求めたことを暗示する︒
なものを含んでゐたかも知れないが︑高句麗の遺畜を以て閏任する気持ちの現れでもあるといへょう︒
高句麗問地区のうち︑残る第二地区によったのが王建の高一一題である︒王氏一角麗は韓族の国家で減額系とは繋りが無く︑
両高麗の黙りは僅かに此の領域の而のみである︒但し王氏建国前の平壌方面は大新経時代を通じて化外の地とせられ︑又
湖海領にもならず︑両国中間の無主の地として刑榛繁茂し︑女直狩猟の荒地となってゐた︒主地は此れを開拓経営して北
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前﹀
︵日
野︶
九五
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
︿日
野︶
九ノ
、
方の要地としたのであるが︑然し彼の平壌方面経営は高句麗の旧壊復興と云ふ理念よりも寧ろ北辺に拾頭しつつあった女
直の控制と云ふ現実の必要に促された面が大きかった守即ち王建の高麗はその血縁に於いても︑建国の理念に於いても高
氏尚句一胞にきして深い因縁があったとは考へられないのである︒それを敢て王建が国号に取入れたのは︑当時の半島が天
下三分の形勢を戚し︑他の二国は新総・百済︵後百済︶を国号として︑往年に於ける三国鼎立の姿を再現してゐたので︑
彼も亦高胞の国号を以て彼等の向ふを張るのが得策と考へたからであらう︒高一一の名を取入れた恕由には尚他にも大切な
ものがあったかも知れないが︑此所に重視しなければならぬのは︑此の王建の高麗と小高句麗との両高一一の並存関係如何
と一
五ふ
こと
であ
る︒
小高句麗国は大高句麗を承け継いだは州統国家であり︑海京の議国として四隣の同族を悉く併呑した削海さへも︑現実に
は小高句麗を属凶同様に扱ひ乍ら︑その凶杵の伝承を認めた為︑岡山地は長く二百余年も続いて来てゐた︒この様に長年の
歴史をもっ小尚句麗国の存在が半島に知られてゐない筈はない︒もし王建の建国当時にも尚此の小出句麗凶が存在してゐ
たな
らば
︑
T土建の高一嵐は比の大高句麗の嫡統国家としでの小高句麗に対して俗称となり︑王建に取って高麗の国号は必ず
しも有利でなかったであらう︒王建が仕へてゐた旧主の弓志向は新縦・後百済の向ふを張って建国し︑王建よりも先に三国
鼎立の形勢吾作った者であるが︑その彼は国号を泰封とし︑高麗とはしてゐない︒乙の乙とは弓商建国の当時は高閣の国
号は小高句麗に対して俗称であったのが︑王建の建国当時は既に俗称でなくなってゐた︑換言すれば小高句麗は滅亡して
ゐたととを意味してゐるのではないかとの推測を抱かじめる︒若し果して然らぱ︑泰封建国の年︵九
O て
官の天復元年﹀には小高句麗国は存在し︑王氏建国の年︵九一八︑五代・後梁の貞明四年︑契丹・太祖の神間=一年l︶には消滅してお
り︑此の十八年間の或る年に滅んだとととなる︒但し此の推定は二つの高麗国は並存しないと云ふ文場に立つてのζと
で︑両高麗並存を木山定する確在は無いのであるから︑此の推定は更に他の面かち検討し︑出来叫べくんぱ十八年の年数を
一一層圧縮して行く必要がある︒さうした操作に役立つのは遼出入に見える高麗国入賞の記事とその年次とである︒左に此れ
阿保
3
機時代高麗及極東諸国人質表(儲.衣 )
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同 天 同 同 神ぬ ! 賛
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年 三年 位前年 号
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一 一
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後以 備
の
梁後
省貢7略\
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考を表示する︒採用の範囲は
阿保機の残した天顕元年
︵九
二六
︶七
月迄
とす
る︒
叉遼史のうち︑本記と属国
表との所伝を採り︑高麗伝
の入貢記事に就いては此の
去を論究する本文の中に於
いて扱ふこととし︑尚参考
の為
︑一
日川
町脱
以外
の極
東諸
国 の入賞記事をも掲げてお
く︒
走中
の制
作間
一一
一年
三月
の
入武記事は属国表にのみ見
えて本犯になく︑又その内
容が前月の記事と比べて具
ル外
的と
概一
帖的
との
表現
の差
があるのみで︑全く一致し
小高
句麗
悶の
滅亡
︵示
前︶
︵日
野︶
たものであるから︑一一月の記事が何かの引悩で飛抜記載せられるとととなったものではないかと以はれるので︑
71 七
乙ζ
では
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前﹀
ハ日
野﹀
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考察外におくζ
とと
する
︒
表を通観するに︑高一一の入貢は太祖の九年十月に始日んし︑太担の残する迄のイコ一年間に問問︵神間三年一一.月を除く︒以
ド同様︶を計へ︑一一一年一回の割となる︒然し尚仔細に観察するに︑四回のうちの前一一回は主砲の同一一建国前であり︑後の
二回は建国役であるのそして此の前一一同と後二同との問には七年の開きがあり︑
それ
は前
一一
同の
入買
が一
一一
年の
間閥
︑伎
の
二回が連歳となってゐるのに比して著しく間隔が長い︒此の一連の事実は当然問題とレなければならぬ︒
小一
日間
旬一
般国
の存
在を
抜き
にし
た場
合︑
王氏
高一
一の
出現
前に
於け
る二
回の
高一
一入
貢は
勝安
の感
を拍
かせ
る︒
却︿
列強
悶の
当
初に関する遼山人の本紀や属国表の外国記事には明かに嶋妄の記事を含み︑例へば表中の天照元年の減額︑太常記・会同元
年八月の条の心孫の入貢等の如く︑現存しない既往の民族の刈霊入買を載せてゐるので︑遼巾人は契丹の国威の川方への光
被が国初以米のζとであったと敢て誇示する為に比の様な蛾安の遠夷入貢記事を担造問入してゐるとの解釈が夙くから学
者によって担問せられ︑此の解釈は先表に見える遼初の新経・高一一・日本の入貢罰事陀も及ほされて︑それらは総て同じ
趣旨花山た事尖無根の樫造機入なりとせられてゐる︒ 3
此の
解釈
は杢
氏建
国前
のお
一嵐
入賞
をも
時判
官官
なり
と解
する
に好
都合
に
見えるが︑事実存在しなかった烏孫等の入貢記事の否定は当然としても︑厳存してゐた日本や新緑の入貢をも一府民円定す
るは行き過ぎであり︑高麗入貢の記事も小高句麗国を考へた上でその正否を決定すべきである︒殊に日本や新緑の入貢は
史実として受取り符るζと︑後
z X に論及する如くであるから︑両麗の入貢も否定に偏しない検討が必要である︒かうした
立場から王氏尚一蹴建国前に於ける一一日の一尚一路入賞記事を回顧するに︑その第一回の太祖九年の入買は新経の入貢と並べら
れており︑更に太視の﹁釣魚子鴨緑江﹂の一旬が添へられてゐて︑此の高麗はいかにも半品所布のものなるかの唯一面き振り
をしてゐるがさりとで半島の王民高麗と必惇しなければならぬ制約は無い︒
即ち
文一
山の
みか
ら見
れば
半烏
所杭
の一
品麗
と
受取るのが順当な解釈といはねばならぬであらうが︑それが動かし仰ない解釈であるとも云へないわけである︒従って王
氏建国前の此の入貢尚一践を小高句麗ではないかと考へて検討して見る余地も残されてゐる乙とになる︒仮に此れを小高旬
麗と見るならば︑第二回入貢の神間三年の二︑一二月頃まで此の国が存命してゐたととになるから︑此の存命が果して認め
られるかどうかを究明する乙とが必要となる
小高句麗の首都は遼陽であったと解せられる︒阿保機が此の遼協を占領した時期を考へるに︑精確な月は判らないが︑
料開一一一年十一−月に遼叫城の修葺に蒋子じてゐるから︑恐らくその少し前のζとと推測せられる︒山ち遼防は神冊三年の前
半頃
κ
は米だ焚付の飯外に在ったと考へ街るのであって︑乙乙
に小
高句
麗国
の命
運が
神冊
一一
一年
の二
︑一
一一
月切
まで
続い
てゐ
たと凡得る可能性が認められるのである︒又王氏一尚一践の建国は此の年に当るが︑
その
六月
の乙
とで
ある
から
︑小
一日
間句
麗の
存続を比の年の二︑一二月頃までと見ても︑
二一
日同
麗の
並存
には
なら
ない
︒然
し一
一つ
の一
向麗
固と
一五
ふ現
実性
の乏
しい
解釈
を避
けるためには︑王氏自一践の建国せられた六月には小高句麗は滅んでゐたと見なければならぬ@比れらの推論を総合すると
大体次の様な推浬が成立する︒即ち小出向句麗国は神冊三年の二︑三月頃には尚遼協を首都とレて存続していたが︑その直
後に阿保機に攻破られて滅び︑六月に主建が建国した時は滅亡後であったので︑その名を国号に取入れ︑又契丹は攻政後
数箇月のト二月から破壊せられた城郭の修理に着手したのではないかと︒北の推理は都めて四回の状勢に適合レ︑その当
否を検討して見る価値ありと思はれる︒
神間一一一年.一月に入立の白麗を小雨旬一節回と見︑日つ比の国はその六月には似んでゐたとすれば︑此の入誌は小高句麗一司
一似を目指す契けのふ県知地を免れんが為の契丹に対する最後の請和工作であったことになる︒当附の同院慣行では入貢は単な
る外交他国の仏礼的制川慨に止まるものではなく︑一裕一同国附の志味をもってゐた︒所で小一品句麗凶は交史の乱以後久しく湖
海の制圧下に置かれ︑内政・外交共に直轄地耐枝の扱いを受けてゐた︒制悔はその建国の際から央丹と悩敵の関係を続け
てゐたのであるから︑その子園の小高句麗が契丹に務属の入誌をすることを許す筈は知かった︒
それ
を小
一品
句麗
が敢
て入
小尚
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
︵日
野﹀
;IL
;IL
小高
句麗
国の
滅亡
︵承
前︶
︵臼 野﹀
一
OO貢してゐるのは︑比の国が契丹の進攻を前にして死活の岐路に立たされてゐたからであり︑叉削海に此れを引止めるカが
無かったからでなければならぬ︒即ち削海には今や契丹の進攻を喰止めて小高句麗の安全を保障してやる力がなく︑ょっ
て小高匂一一は契丹に入貢して宥和を詰ふたが︑契丹の詳す所とならず︑間もなく攻減ほされたとの解釈が生れて来る︒所
で入貢のもつ窓味を比の様比重大なものと解する時は︑神冊三年より更に三年前の太祖の九年十月に於ける小高句麗の初
入賞をどう解するかが問題となってくる︒
小高句麗の首都遼陽の攻陥が神間三年の前半であったとすれば︑阿保機の小高句麗討減を目刊す作戦はそれ以前から進
︐LK26\ められでおり︑遼陽への進攻路上に在る小高句麗の諸州で先に攻陥せられたものがあった筈である︒遼史叫一ノ食貨志下に
神冊
初︒
平山
肌海
︵則
一一
︶得
庭州
︒本
掛川
海織
利府
︵蜘
問問
⁝麗
︶改
日銭
利州
︒云
一守
とあって︑川大丹が小高句麗の錨利州を攻取ったのは科冊の初めであったと云ふ︒此の記事の謬乱とその批正とは先に詳述
した所で︑右の割設は此の批正の結果を略示した筆者の註である︒神間は六年迄であるから︑神冊の初めとは一死年か︑せ
いぜ
い−
一年
まで
と解
せら
れる
︒
A1
の彰騨姑に比定せられる鋭利州は溶州︿奉天︶の西南︑遼協の西北に当り︑西方の契丹
が遼陽に進攻するには必ず攻取しておかなければならぬ前面の州であった︒神冊の初めに於ける此の銭利州の攻取は︑同
三年の前半に首都遼陽を攻陥した契丹の小高句麗討減作戦が此の攻滅の数年前より展開せられてゐたことの有力な証拠と
なる︒一角麗の入買が遼史に始昆する太祖・九年はM仲間元年の前年に当る︒きすれば此の九年には阿保機の小高句麗討減作
戦は開始せられてゐたか︑少くとも進軍直前の緊迫した局面に在ったであらう︒九年の入貢は阿保機の鋭鋒を防ぎ切れす
と見た小向句麗が契丹への藩属国として宥和せられんととを請ふた懇願の交沙であったのであらう︒それは湖海に取って
小 一
u同旬一践に対する宗主権の喪失を意味するが︑潮海は契丹と戦って小高句麗を守り切る自信を史ってゐた為︑成行き陀任
せる外なかったのであらう︒この様に見て来ると︑王氏建国前に於ける二回の入貢高麗は共に小雨句麗であったとする牌