九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
近世史料の基礎的研究 : その2 『徳川加除封録』
について
藤野, 保
https://doi.org/10.15017/2338955
出版情報:史淵. 112, pp.37-60, 1975-03-31. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
近 世 史 料 の
基
礎 的 研 究
そ
の
一 一
l i
﹃徳
川
加 除 封 録
﹂
に つ い
藤
保 野
目 次
一﹃徳川加除封録﹄について
二﹃徳川加除封録﹄批判
ω
﹃ 徳
川加封録﹄について
ω
﹃ 徳 川除封録﹄について
結びにかえて
﹃徳川加除封
録 ﹄
について
近世史料の基礎的研究(藤野)
著者清田黙は︑
﹁凡 例﹂ おに いて
︑﹁ 此書 ハ
︑慶長五年九月︑徳川氏関ケ原ノ一戦︑天下ノ大権ヲ掌握シ而後︑昇平
二百 六 十余年ノ久シキ諸ヲ︑宇内ノ歴史ニ徴スルモ亦タ砂シ︑其昇平ノ根源ハ︑特ニ諸侯ノ賞罰思威ノ宜シキヲ得ル
一一
在リ
︑因
テ其
根源
ヲ知
ラン
為メ
︑此書アルナリ﹂として︑本書刊行の目的を明らかにしている︒
こうした目的にそって編纂されたのが﹃徳川加封録﹄と﹃徳川除封録﹂であり︑両者を総称して﹃徳川
加除
封録
﹄
3 9 5
(史37 )
とよ
んで
いる
︒ ともに三巻より構成され︑明治二十四年︑
鴎夢吟社より刊行された︒
著者は同じ﹁凡例﹂において︑﹁此書ハ︑一万石以上ノ加除封ニ
シテ
︑旗下ノ分ハ異日重テ上梓スヘシ﹂と断
わっ
ているため︑大名を対象に︑
大名の加封・転封
・新
知・
分知
を中
心に
︑
﹁ 徳
川除封録﹄は同じく除封
・減
封を
中心
に︑
その
HH加除封HHを究明しようとしたことは明らかである︒
すなわち︑﹃徳川加封録﹄は
関ケ
原の
役以
降︑
年月順に
記述・考察したものであり︑乙の意
味で︑江戸幕府の旗本︵御持筒同心︶小田又蔵彰信の編纂になる﹃恩栄録﹄・﹃廃 絶録﹄と同種の史料に属するものである︒異なっているところは︑﹃恩栄録﹄が年次別編纂の方式をとっているのに 対して︑﹃徳川加封録﹄は大名別編纂の方式をとっていると乙ろにある︒そのため︑両書は互に緯となり経となって︑
相互の欠陥を相補う性質をもち︑われわれは︑両書を併読・利用する乙とによって︑大名の加封・転封・新知・分知
年次別あるいは大名別により有効かっ迅速に知る乙とができる︒﹃徳川除封録﹄の場合は﹃廃絶録﹄の編
纂方式と等しく︑異なる点は︑前者は後者のような傍注部分︵改易に関する諸説・関係記事︶がない点である︒ に
つい
て︑
とこ
ろで
︑﹁
徳川
加除
封録
﹄は
﹁思
栄録
﹄・
﹃鹿
絶録
﹄と
異な
り︑
明治以降のいわゆる刊本に属するため︑底本とい
うべきものは存在しない︒したがって︑明治二十四年の当該刊行本が本書に関する唯一の文献である︒しかし︑著者
が﹁凡例﹂において︑﹁此書ハ︑独力ノ致ス所ナルヲ以テ︑
大数ノ諸侯中︑尚ホ遺漏・異同ナキヲ保セス︑多方ノ君
子補正スル所アレハ幸甚﹂と断わっているように︑本書にはまことに移しい誤謬が杏在する︒
いったいその理由は何か︒著者は﹃徳川加除録﹄編纂に際して利用した参考文献を挙げていないが︑諸種の史料を 対校しながら︑本書の引用書目を検索すると︑著者が﹃藩翰譜﹄を基本史料として用い︑
一部
﹃恩 栄録
﹄
・﹃
廃絶
録﹄
等を利用している乙とが解る︒
その他幾つかの文献を利用しているが︑
諸文献・諸記録の捜索範囲は狭く︑何より
も︑大名のP加除封dに関する基本史料ともいうべき﹁寛永諸家系図伝﹂・﹁譜牒余録﹂・﹃寛政重修諸家譜﹄・﹃徳川実
紀 ﹄
・﹃
続徳
川実紀﹄や各家文書・家譜
・日
記類をほとんど利用していないのである︒
﹃ 徳
川実紀﹄や﹃寛政重修諸家
譜﹄刊行以前の﹁徳川加除封録﹂編纂の仕事は︑多くの困難をともなったものと想像されるが︑
ほとんど利用しなかったと乙ろに︑移しい誤りを犯した理由が存在する︒ これらの基本史料を
﹁徳 川加 除封
録﹄は関ケ原の役を基点に年月順に記述・考察したものであるが︑
大名の取立・
除封年次に誤りがあるため︑まず配列の順序が極めて不正確であるという特色をもっ︒
加封録﹄の場合︑説明の仕方にアンバランスがみられ︑重要な大名の説明が簡略で︑
そう
でない大名の説明が詳
しい
という傾向がみられるが
︑﹃
徳川除封録﹄の場合は︑同一の大名をニヵ所に掲載したり︑大名の京
出︵ 陪臣
︶
を掲載
した例が
多い
︒ これ
らの諸点
は ︑
大名のHH加除封dに関する基本史料としての本書に疑義を生じせしめる所以
であ る
前述したよ
うに
︑慶長六年以降は
しか
も︑
﹁徳川
が︑より重要な
乙と
は︑
大名の加除封・新分知の石高︑城
地名
︑
当該大名とその一族子弟︑
およ び
加除封・転封・新
分知の年月日等にお
いて
︑
移しい誤謬が存在
する
乙とであり︑乙の点に
こそ
︑﹁ 徳
川加除封録﹄の根本的欠陥がある
といわなければならない︒
いうまでもなく︑本書は﹃思栄録﹄・
﹃廃 絶録
﹄や
﹁転封
録 ﹂
・﹃
藩翰
譜﹄・﹃徳川実紀﹄・﹃寛政重
修諸 家諮
﹄
・﹁武鑑﹄
などとともに︑今日までいわゆる﹁大名一監﹂や︑江戸幕府の大名統制の基本史料として利用されてきた︒とくに後
者の 典型 を︑
栗田元次氏の﹃江戸時代史﹄上
一 ・
二︵﹃綜合日本史大系﹄
﹁改
易
一覧
﹂
にみ
一七・
一八
巻
︶
に収
める
る乙とができ
る︒
しか
も︑
乙の
﹁ 改
易一覧﹂は何等の検討も加えられないまま今日においても広く利用されているの
近世史料の基礎的研究 (藤野)
である︒このことは︑幕藩体制史の基本的諸事実を確定するための近世史料に関する文献学的
・書誌学的研究がいか
いかに優れた理論といえども︑
それ が よっ て
立つ史料そのものに問題と誤謬に遅れているかを告白するものである︒
があり︑その問題を見極め誤謬を検討する乙となく︑誤った史料と解釈のうえに研究がおこなわれては
︑砂上の楼閣
に等しくなることを︑こ乙で重ねて強調しておきたい︒
本稿は︑以上のような観点から︑
﹃徳 川加 除封
録﹄に
対し て︑
史料批判を中心に文献学的・書誌学的考察を加えた
ものであり︑別稿﹁近世史料の基礎的研究ーその一ll﹃思
栄録
﹄・
廃絶録﹃﹄について|﹂とともに︑近世史研究を原
3 9 7
(史3 9 )
典にたち返って再構成するための︑筆者の意図するHH近世史料の基礎的研究dの一部を
なす
ものである︒
、
、、
その際︑別稿においては︑
﹃
恩栄録﹄
・﹁ 廃絶 録
﹄の史料の性質とその編纂方式にもとっ
き ︑
とくに焦点を石高
・域
地名・大名名
︑
および恩栄・
廃絶年月日に絞って
︑
一五
O
例を抽出し︑諸多の史料と比較考証しながら︑その異同誤謬を
指摘
し
︑
当該書についての批判をおこなったが︑
本稿においては︑同じ方法論・
分析視角に立ちながらも︑
﹃徳川加除封録﹄︵とくに﹃徳川加封録﹄︶の史料の性質とその編纂方式にもとづき
︑
これを大名別に抽出し批判を加えたいと
回一
一う
︒
同 註 困
︵1
︶藤野保﹁近世 史
料
の基 礎的研究その一
﹃恩
栄録
﹄・
﹁廃
絶 録﹄ に
ついて
I
﹂︵
﹃和
歌森
太郎
還暦
記
念論 文
集﹄
所収
︶
・
﹁同ーその
一
l ﹃
恩栄
録﹄
・
﹃廃絶 録﹄ に
つい
て
E
﹂ ︵﹃ 木 代修
一
喜寿記 念 論文 集
﹄所収︶0︵2
︶ 一
O
例につ
いて
抽
出し
検
討を
加え た
のは
︑紙数
の制 約 によ る もの
であ
り︑
﹁ 徳川 加除 封録
﹄収
載の全
大名
につ
いて
︑
ほと
ん
ど何 等か の形 で異 同
・
誤謬が存 在し
︑
その実数 は極 めて 膨大 とな る
︒そ
れら
につ
いての
全面 的な
検討・批判につい
ては
︑
筆者の校 訂 によ る﹃
徳川
加除
封録
﹄
︵近
藤出
版社
︶を参照されたい︒もとより︑同
校訂
本
は史 料批 判
そ
のも のを 目的
とし
たも
ので
はな く
︑ 原
本を 史書 とし て再 生し
︑ 原
典
を共 有財産
とし て広
く研
究者 に提 供す る
こと
を目 的と し
たも
ので ある
︒
﹃徳川加除封録﹄批判
﹁徳
川加封録﹄に収載された大名数は三五四名に達するが
︑
﹃徳川加封録﹄についてこれが二二巻に分けら
れ ︑ 次のような構成
巻示してい
る
( 斗
巻之
一︵慶長五年より同
六 年
ま で
︶
巻之二
︵ 慶
長 七
年より元
和 八
年 ま
で ︶
一一 九
名
(
→
一 四
一 名
(
三)
巻之三︵寛永元年より慶
応二 年ま で︶
九四
名巻之一の巻頭に池
田 ・
福島両氏を掲載して
い る
のは
︑ ﹁
関 ケ
原ノ役先鋒タルヲ以テナリ﹂
︵﹁ 凡例
﹂︶ とい う
著者の方
針によるものであるが
︑
以下の配列は加封・新分知の年次による大名配列の順序を示していない︒ただし︑
慶長五・
六年は関ケ原の役後のいわゆる戦後処理策の一環として
︑
大名に対する加除封が集中的におこなわれたため︑乙の両年度は別として︑それが平常に復する慶長七年以降は︑配列に一定の基準がなく︑かなり怒意的
にお こ なわ れて
いる
ので ある
︒
例えば
︑
菅沼正家︵定利の誤り︶は︑養子忠政︵実は
奥平信昌三男︶に松平姓を与えられた年次をもって鹿長七年
欄に挙げ︵八
O
頁︑以
下ペ
ー
ジ数は﹃校訂徳川加除封録﹄のページ数 を
一邪
す︶
︑
松平重勝は大番頭に補せられた年次をもって同じ慶長七年欄に挙げている︵八七
|
八頁
︶︒
乙の種の賜姓・役職就任の年次︵初年次
︶を もっ て︑
当該年
次欄に配列した例はかなり多い︒前者の例として島津忠恒︵
一 O
三頁︶・蜂須賀至鎮︵一二六頁︶・
柳沢時経︵ 経 隆 の
後者の例として松平正綱︵九
O l
九一頁︶・
三浦
正次
︵一
O
五|六頁︶・
安部信盛誤り
︶
︵一
八六
l
七頁︶等があり︑︵ 一
二四|五頁
︶・ 伊
丹勝重︵康勝の誤り
︶ ︵ 一五 五| 六頁
︶・ 内田
正世︵一五八
1
九頁
︶
・石川総長
︵一
五九
|
六O
頁︶・
堀田 正 俊 三 六
O
一 頁 ︶
・
松平信輿︵一 七
O
|一 頁 ︶
・大 久保
教寛︵一八二|
三頁
︶
・
堀田正虎︵ 一
八三
貰
︶
・
大岡山山相︵一八八九頁︶・大岡忠吉︵
一 九
O
|一
頁︶等があ
る ︒ 近世史料の基礎的研究(藤野)
乙の種の配列基準についで多いのが賜議
・
叙爵・
徳川一門への付属年次による配列である︒賜議の例として松平藤松麿
︵池 田忠 継の こと
︶︵ 一
O
九頁︶
・松平藤五郎︵池田忠雄のこと︶︵一
O
九1
一一O
頁 ︶
・松平鶴松麿︵蒲生忠知の
乙と
︶︵ 一二
O
頁 ︶・ 毛
利秀元︵一六九|一七
O
頁︶があり︑叙爵の例として本多紀貞︵一 二 四頁
︶・ 保科 正
之︵
一 五
五頁
︶
・
松平頼重︵一五九頁︶・
松平頼元︵一 六
五
|
六頁
︶
・
松平頼隆︵一 六
六頁
︶
・
松平頼純︵一七四
!
五頁
︶
・
松平義国︵一七九頁
︶・
松平義行︵
一 八
0
.頁︶・ 松平
直堅︵一
八一
一頁
︶・ 松
平頼房一
︵頼
方の
誤り
︶︵
一
八六頁︶
・
松平通春︵一︵一九一
|
二頁
︶ ・
徳川万次郎
3 9 9
(史4 1 )
九
O
頁︶ ・ 徳川小次郎︵田安宗武のこ
と︶
︵
一九
一頁
︶
・
徳川小
五郎︵一橋宗手のこと︶︵清 水
重好のこ
と︶
︵一 九 二頁
︶等がある︒また徳川一門への付属年次による配列の例として加納久利︵九四|
五頁
︶
−柳沢安忠︵一四
O
頁︶ ・
屋代吉正
︵ 忠
正
の誤
り︶
七頁
︶等 があ る︒
︵一四
一頁
︶・ 久能
宗安
︵又 は宗 能︶
︵
一四五頁︶・朝倉宜正︵一四
しか
も︑
これらの賜姓・役職就任・賜議
・叙爵・徳川一門への付属等による抽出が恋
意的で︑そこには
一定 の基 準
もな
く︑
何よりも加封・新分知の年次による配列との聞にアンバランスをきたしている︒
した がっ て︑
﹁徳 川加 封
録﹄は﹃恩栄録﹄と異なり︑大名のHH加封d
についての厳密な意味における年次別編纂という構成をもつに至ってい ない︒これは﹃徳川加封録﹄が大名別編纂の方式を採用したことからくるある程度やむをえない措置と考えられる 要は著者の見識の問題であり︑たとえ大名別編纂の方式を採用しても︑そこに一定の基準を設け︑
カ よ
大名のHH加
封d
について年次別に配列することは可能である︒筆者が校訂本の作成に際し︑原本になかった収載大名名を全部目 次に掲載するとともに︑詳細な人名索引を付した理由はそこにある︒基準のない原本を有効に再生し︑迅速に利用で きるようにするためには︑乙の方法が適切と考えられたからである︒
そこで次に︑﹃徳川加封録﹄と諸多の史料を比較考証し︑その異同・誤謬を指摘することとしよう︒
︹第
一例
︺ まず巻之一の巻頭に掲載された池田輝政︵五|六頁︶
につ
いて
検討
しよ
う︒
拾五万弐千石
居 城 二河国揖美郡吉田
従四位侍従
︵三
左衛
門︶
池間三左衛門尉輝政
︵ 十 二︶
︵ 十
三︶
慶長五年卜一月十八日︑関ケ原ノ役先鋒タルノ功ヲ以テ︑三拾六万八千石ヲ加賜セラレ︑封ヲ播磨国ニ移サレ姫
︵ 寛 政 譜 正 月
︑ 略 記 二 月
﹀
︵ 輝 政 次 男 忠 継
︶
︵ 二 十 八 万 石
︶
︵ 賜 ハ ル
︶
︵ ナ シ
︶
︵ 四
︶
︵ 十 八
︶
路城ヲ治ム︒八年正月六日︑備前国三拾壱万五千石ヲ加賜セラレ︑家口げ松平ヲ賜ハル︒十二一年十二月二十四日︑
︷ 家苛松平ヲ
賜 ハ リ
﹀
︵ 藤 松
︶
︹ 勝 五 郎
﹀
偏議ヲ賜ヒ︑次子藤松麿ハ忠継ト改メ︑
三子藤五郎ハ忠雄ト改ム︒雨後子
孫偏議ヲ賜ハルヲ恒式トナス︒
尋テ
叙爵
︵ 督
︶
︵ 少 輔
︶
セラレ︑忠継ハ左衛門尉︑忠雄ハ宮内大輔ト称ス︒
十四年十二月二十六日︑嫡子武蔵守利隆︑
湯休巴千石ヲ備中
近世史料の基礎的研究(藤野)
︵二
︶
︵
二十一一一
﹀
︵ 忠 雄
︶
︿ 六 万 石
︶
︿ 賜 ハ ル
︶
︵八
十六
万訂
︶
︷六V十五年三月二十八日︑六万三千石ヲ淡路国
ニ加
賜セ ラル
︒
前封ヲ例セテ八拾九万九千石︒十八年五
︵ 四 十 二 万 石
︶
︵ 倒 的
国・
播磨三郡︶︵一二十八h
︶
︵ 将
︶
︵賜
ハ リ
︶
︵ 六 万
h−
v
︵ ハリ
ノノマ
︑ ︶
月六日︑播磨国五拾弐万石ヲ武蔵守利隆二︑備前国三拾壱万五千石ヲ左衛門
尉忠 継ニ
︑
淡路国六万三千石ヲ宮内
︵ 少 輔
︶
︵ 腸 ハ
ル
︶
︷
ナシ
︶
︵ 二
十八
︶
︵宵内少輔︶︵忠雄
︶
︵
宍粟
︶
︵
三万八千石︶︵輝政四兇﹀︵赤穂
︶
︵
赤
穂︶
︵
三大輔忠雄
ニ分 封ス
︒元和元年間六月
二十
日︑武蔵守利隆︑完架郡山崎六万石ヲ四弟石見守輝澄
ニ ︑
佐用郡佐用五
万五千石
︶
︹
同五兇
︶
︵ 大 夫
︸
︵ 佐
用
︶
︵ 佑用︸︵二万五千石︶︹岡大男︸戸大夫d万四千七百石ヲ五指右京太夫政綱 ニ ︑
赤穂郡赤穂五万石ヲ六弟右近太夫輝興
一 一 分
封ス
︒
困テ各家日松平ヲ賜ハ
︵ 史 紀 一 一
一 日
円︑略記六月
︶
︹
利醗鏑
子 ︶
ル︒三年三月十二日︑新太郎光政︑封ヲ因幡・伯者
両国 ニ
移サレ凶幡同鳥取城ヲ治ム︒寛永九年六月十八日︑封
︵ 一 十−万五
千石
︶
phハ粟
︶
︵ 山
崎︸
︵利 隆次
男︶
︵備
後守︶︷覚史十三年六月十ヲ備前国ニ移サレ岡山城ヲ
治ム
︒
慶安二年十月五日︑播磨国完栗郡ノ綾
田三万石
ヲ弟 備前 守恒 一川 ニ
︑備前回ノ墾
一日︶︵備中鴨
方 ﹀
︵ 光 政 次 見
︶
︵ 備 申 生 坂
︶
︷
岡三 男︶
回弐万五千
石ヲ
次子信濃守政一五ニ︑備前国壱万五千石ヲ三子丹波守輝鉛
ニ分
封ス
︒
国ニ賜ハ
ル ︒
︵1︶本
文は
原文
を一
一小
す︒
但し
句点
・読
点は
筆者
が加
えた
︒
︵2︶本文検の
︵︶
内は筆者による校訂部分を示す︵︵1
︶ ︵ 2︶とも以下同
じ ︶
0
以下煩績にわたるため︑主要な異同・誤謬のみ指摘しよう︒理解を容易な
らし
める
ために池田氏の略系図を掲載す
く︑輝政の次男忠継慶長八年︑備前一国を与えられたのは輝政ではなで知行高は二八
O
︑ る0 0 0
石︒乙の点に関し輝ーー輝て寛政重修諸家譜には石高の記載がなく︑溶翰譜は輝政の
項において﹁備前の同を加へられ︑
存 千 万﹂ とし
︑
思栄
録もまた﹁新知三十一万五千石﹂としている︒徳川加封録
政
| | | | | | 輝 政 輝 忠 忠 利
隆ー
1
光﹁ 恒
元 政
政 綱
政||継政
継
=守
にコ
雄|
| 光 仲
一| 輝 録 澄
l
まこの藩翰譜・恩栄録の石高にしたがったものであろ
制
ぅ︒またこ
の記
事を輝政の項においている点において︑徳
4 0 1
(史43 )
長興
川加封録は藩翰譜と同一
の立
場に
立つ
︒池田一族で松平姓
士と
長 幸
を与えられたのは︑輝政の長男利隆がもっとも早く慶長十
二年六月二日︑
ついで次男忠継
・三男忠雄の同十三年四月十八日︑
さら
に
四男輝澄が同十四年四月二日︑そし
て輝
政 自身が五男政綱とともに同十七年八月
二十三日松平姓を与えられ
た︒この点に関する徳川
加封録の説明は混乱してお
り︑忠継・忠雄を問題とすれば︑
慶長十三年四月十八日としなければならない︒この日は両名にとって賜姓日であ
る
と同時に賜議日であった
︒慶長十五年における淡路一国の加封について
︑これ
を輝政に与えられたように記載
して
い る点も藩翰譜を継承したものである︒ここで播磨・備前
・淡路の合計石高を八九九︑
000
石︵実際は八六O
︑00 0
石︶としているのは
︑このことを証明し
てい
る︒
しか
し
︑淡路一国を与えられたのは忠雄で慶長十五年二月二十三
日︒その知行高について
︑徳川実紀・
寛政重修諸家譜には石高の記載がなく︑藩翰譜
・思栄録は六三︑
000
石︑池国家履歴略記は六六︑
000
石と
し
てい
るが
︑谷口澄夫氏はこれらをすべて異説と
し ︑
六
O
︑000
石としている︒慶長十八年正
月 ︑
輝政の死去にともない︑
一族聞に領有関係の変化がみられ
たが︑播磨を継承し
た利隆の
所領
は
︑
宍粟・赤穂・佐用の三郡を除いたものであり︑
その知行高は四二
O
︑000
石︒忠継は備前一国のほかに前記
三郡
が 加封され︑その知行高は三八
O
︑000
石︒忠雄は従来通り淡路一国︵六
O
︑000
石︶を領有した︒徳川加封録が乙のときの利隆・
忠継の知行高をそれぞれ五二
O
︑000
石・三一 五
︑
000
石と
しているのは藩翰譜・徳川
実紀 の 石高に
したがったものと思われる︒元和元年二月
︑忠継の死去にともない︑忠雄がその遺領︵備前一回二八
O
︑︒︒0
.る
のほ
か
︑母良正院の化粧田備中のうち四万石︶を相続︑播磨三
郡のうち︑宍粟郡は輝澄に
︑赤穂郡は政綱に︑佐
用郡は輝興︵輝政六男︶
に分封され
たが︑徳川加封録がこのときの石高を宍粟郡六
O
︑000
石︑赤穂郡五四︑七O
乙れ
ま
た藩翰譜の石高にしたがったものであふ
μ
︒但し︑佐用郡に関して藩翰譜は﹁如何程と
O
石と
しているのは
︑
一五
ふ一 事未 詳﹂ とし てお り
︑五
O
︑000
石説をとるのは徳川封加
録の
みで
ある
︒
とも
あれ
︑郡の石高を宍粟郡
八︑
000
石・赤穂郡三五︑000
石・佐用郡二五︑000
石とする点において諸史料は
一致し
てい
る︒
元和二年六月︑利隆の死去にともない︑翌三年︑
嫡子光政幼少の理由によって
︑因
幡・
伯者両国︵居城
HH
鳥取
﹀に
転封と
っな
た︒徳川加封録は︑このときの知行高を記載していないが︑三二
O
︑000
石とする点において諸史料は一 致
し
てい
る︒
と
ころ が
︑寛永九年
六月
には
︑忠雄の嫡子光仲︵備前岡
山 ︶
と交換転封となり︑備前岡山を領有する
こと にな っ
た︒徳川加封録は︑このときの知行高も記載してい
ない が
︑
三一 五
︑
000
石︵ 厳
密
には
三
一 五
︑二
OO
石︶とする点において諸史料は一致している︒光政の弟恒一川︵利隆次男︶は︑盛安元年三月十九日︑備前児島
にて
こ
︒︑
000
石を分封主れたが︑徳川加封録が記載する同二年
十月五日は︑輝澄の旧領播磨宍粟郡に転封され一万石加
封さ れた 目︒
著者はこの関係を混同し︑播磨宍粟郡にお
いて 一 挙に
三
O
︑000
石与えられたよう に記 述し てい る︒
光政の次男政言が二五︑
000
石︑同三男
輝録が一五︑
000
石分封された日は寛文十二年六月十一日︒徳川加封録には
︑この分封年月日が欠落している︒政言の場合は備中の新田より分封されたが︑輝録の場合は各地を分散的
に宛
のち宝永五年備中のうちにまとめられ
た︒ した がっ て
︑徳川加封録の政言に関する記述には誤り
があ る
︒行われ︑
︹
第二例
︺
同じ巻之一のなかから京極高知︵一八頁︶
を抽 出し
検討し
よう
︒
内十 万石
︾
八万 石
従四位侍従
近 世史料の基礎的研 究 (藤野)
︵大夫︶京極修理太夫高知居城信濃国伊那郡飯田
︵二 万三 千
二百
石︶
慶長五年十一月十
八日
︑関
ケ
原ノ役ノ功ヲ以テ︑四万七千石ヲ
加賜
セラ
レ ︑
封ヲ丹後国ニ移サレ
宮津 城ヲ 治ム
︒
︵十 二万
三千二
百 石
︶
︵ 八
︶
︵ 十
二
︶
︹
大夫 ︶
前封ヲ併セテ拾弐万七千石︒
名ヲ
丹後守卜改ム︒元和六年八月八日︑丹後園田辺三万五千石ヲ次子修理太夫高三
︵ ト ル
﹀
︵ 一
万石
︶
︵高
知養 子︶
︵六
︶︵ 六︶
︵十
四︶
︿高通
ニ ︑
丹後国峰山及ヒ
近江
・下総・常陸三国壱万三千石ヲ義子主膳正高通ニ分封ス︒寛文三年三月
二十 五日
︑主膳
嫡子
︶
︵伊織ニ干石︑左門ニ五百石分封ス︸︵寛文
三年
三月 ﹀
正高供︑其弟伊織・左門
両人 ニ
︑各千石ヲ分封ス︒伊勢守高感弐千石
ヲ ︑
其弟兵部高門ニ分封ス︒八年五月二十
︹ 高 国
︶
︵ 高 広
三男
︶
︵
五千
俵
︶
︵ 寛 文 八
年五
月二十
一日
X伊勢守﹀︵高盛︶
一 目
︑丹後守高広︑封除セラ
レ ︑
更ニ姪信濃守高勝ニ康米千萄ヲ賜ハル︒同二十二日︑飛騨守高直︑封ヲ但馬国
︵ 四
︶
︹
二十九︶豊
岡ニ 移サ レ ︑
移封資トシテ金弐千両ヲ賜ハ
ル︒元禄
十
二年
月日︑主
殿高
之五百石ヲ弟外記高重
二分
4 0 3
(史45 )
︵ 俵﹀
封ス︒正徳四年七月二十九日︑修理高栄︑康米弐千萄ヲ弟水野左衛門善興
− 一 分
封ス
︒
享保十一年九月十
三日
︑土
︵叉
ハ高
永︶
肥之助高寛︑
封除 セラ レ︑
更ニ族修理高平ニ壱万五千石ヲ賜ハル︒
︵
3
︶前掲
︵
1
︶ ︵
2
︶と
同じ ︒
理解を容易な
らし
めるために︑同じく京極氏の略系図を
掲載 する
︒ 高
,±:
高 高
政ー
ー高
和
豊−
1
高 或
一 l
高 通
︵ 開 肝
ur u⁝ いは京極高知の旧封高︵信濃飯田︶を︑
次
高 忠
~
高
徳川加封録は八
O
︑000
石としてい矢 f l
1 1
r I
漏石高
高高
次木
き笠通
| | |
高 高 高
広 ︵
口
規
るが
︑こ の八
O
︑000
石説をとるも勝
のに太閤時代諸大名分限・石卵余史・直
J 1
日 盛H H
高住
1
− 口同
一|
五 日
栄﹂
l
高一| 高
可p見』
F 司
興
刀く
大三川志等がある︒しかし︑徳川実紀
回 目 ︵
伊 識
︶ 明−
1
高﹁ 高
之
−寛政重修諸家譜・京極家譜・思栄録
供ー
ーー
高
主主
等は
一
0 0 000
︑石と
し︑
藩翰 譜は
成
︵ 左 門 ︶
0 0 000
︑石と しつ つも
︑
一説に八
︒︑
000
石とし﹁不審﹂としている︒また新封高︵丹後宮津︶につ いて
︑徳川加封録は
一 二 七 ︑
000
石としているが︑乙の説をとるものは藩翰譜・大
三川
志等であり︑乙れにしたが
った
ものであろう︒乙の点に関して︑思栄録・
日本戦史は一
三二
︑
000
石とし︑実紀・寛政譜・家譜等は二一三︑二O O
石と して
︑
その端数を明記してい
る ︒
こ
れらの諸史料にしたがえば︑慶長五年における高知の加封高は
二三
︑二
O
石とな
O
る ︒
元和八年八月︑高知の死去にともない嫡子高広が高知の遺領のうち七八︑二
O
O
石を相続︑乙のとき次男高三は三
五 ︑
000
石︵ 丹後 田辺
︶︑
養子高通は一
O
︑0
00
石︵丹後峰山︶分封された︒これより先︑高通は武蔵・下総
・近 江の 三 国三 郡に おい て三
︑
000
石を領有しており︑分封高と合わせて一 一 二
︑
000
石と
なっ
た︒徳川加封録は
の乙
聞の
事情
を混
同し
︑
元和八年
における高通への分封高を
一三 ︑
000
石としている︒藩翰譜が高知の項において︑
﹁元
六和
年八
月
十二日五十一歳
にし て
卒し︑
子息三人に所領分ち諮る﹂
とし
︑高通のM
引に
お
いて
︑﹁
高知 が所 領分
ち譲らる︑
丹後国丹波郡を領す︑
4
由一一
千甘
んね
﹂と
して
いる
のに
した
がっ
たも
ので
あろ
う︒
また常陸とあるのも誤り
であ
る︒
徳川加封録は﹁寛文三年
三月
二
十五日︑主膳正高供
︑其弟伊織・左門両人ニ︑
各千
石ヲ分封ス
﹂としているが︑
ζ
の寛文三年三月二
十五
日は
︑ 高三の嫡孫高盛が弟高門に二
︑
000
石分封した日︒高通の嫡
子高
供が弟伊織・
左門両
名に分封した日は寛文六年六月十四日︒また乙のときの分封高を伊織一︑
000
石・左門天
O
O
石とする点においてat dJz
︑ 一
万
乙れまた藩翰議が﹁嫡子主膳
HF
伊家を継き千石
舎弟等に所領は諸史料一致
している
︒徳川加封録
の分封
高は︑
近世史料の基礎的研究(藤野)
を分
つ︑
一一
頭誠
一一
竹田
﹂と
して
いる
のに
した
がっ
た
もの
と思われる
︒高 広の嫡子高国︵高広とあるのは誤り︶が改
易
された日は寛文六年五月三日
︒徳川加封録は
大名別編纂の方式をもつため︑除封録の
意味を合わ
せもつが︑乙の
ように改易大名名
と改易年月日の双方を誤つては︑
HH
徳川加除封録d
としての
意味を喪失すること
なに
ろう
︒ 高広の
三男
〜口
同勝
に与
えら
れた
康米
は高
五︑
000
俵︑これより先︑高広の嫡子高規は扶助料
三︑
0
0
0
俵を与えられたが︑徳川加封録はこ
の点
につ
いて
言及
していない
︒
一方︑高三
系の高盛が丹後田辺から但馬
豊岡に転封された日は寛文八年五月二十
一日
︒徳
川加封録に飛騨守高直とあるのは伊勢守
高盛の誤り︒さらに高通系の高之が
弟高
重に五
O
十九日二年四月二
O
石分封した日は元禄十︒徳
川加
4 0 5
(史4 7 )
封録は﹁元禄十二年
に多
い︒
日﹂
という形で示しているが︑著者自身不明の場合︑
ついで高三系の高寛が改
易
された日は
享保十一年九月十
二日
︒
こうした形で示した例はひじ
よう
月
︹第 三例
︺ 次に巻之ニのなかから譜代大名の例として土井利勝︵八
三|
四
頁︶を抽出し検討しよう︒
千五百石︵従
凶 位
︶
︵大
欽頭
︶
来 口 白 土 井 甚 三 郎 利 勝
︵ ナ シ
︸
︹ 八 千 五 百 石
︶
︵ 慶 長 十 年
四月二十九日︶︵助︶慶長七年十二月二十
八日
︑大番頭
一 一 補 セ
ラ
レ ︑
壱万石
ヲ下
総国ニ加賜セラレ小見川
ヲ治 ム
︒叙
爵セ
ラレ大炊頭ト
︿正 ﹀
*
︵ 一 万
二千
四百
石︸
称ス︒十
三年十月十五日︑壱万石ヲ加
腸セ
ラル
︒
十五年二月二日
︑壱万石ヲ加
賜セ
ラレ移テ佐倉城ヲ治ム︒
*
︵ 一 万
二千六
百 石
︶
︵ 合 四
万五
千石
﹀
十七年十二月十一日︑壱万弐千石ヲ加賜セ
ラル︒元
和一
万年 十 二月 二 十五 日︑
大坂ノ役ノ
功ヲ 以テ
︑
弐万石ヲ加
︵四﹀︵
七
︶ ハ 一
万八千石
﹀
︵ 合 十
六万
石︶
︵ 十
賜セラル︒寛永三年八月
日 ︑
老中職タルノ累勲ヲ以テ︑弐万石
ヲ加
賜セラレ移テ十
日河
域ヲ
治ム
O L
五年十
一V︵七
︶
︵
ル ︒
︶︵ ナ シ
︶
︵
朔
︶
︹ 嫡 子 利 隆
︶
︵ 一
万
二 月 日
︑大老ニ補セラレ︑五万石ヲ加賜セラル︒前封ヲ併セテ拾六
万 石
︒ 正 保 元 年 九 月 日
︑弐万石ヲ次
石ヲ三弟︶
︹ト
ル︶
︵四 弟
﹀
︹
五千石ヲ
五弟
︶
︵ ナ
シ ︶
︵ 閏四
︶︵ 二
十九 ︶
子兵庫
頭利 長ニ
︑ 各壱万石ヲ三子能登守利房
︑ 四 子信濃守利直
及ヒ孫周防
守利益ニ分
封ス︒延宝三年四月
︹利
隆 嫡 子 利 震 養 子
︶
︵ 七 万 石
︶
︵ 天和
元︶
目 ︑
帯万利久封除セラレ︑更ニ支封周防
守利
益−
一六万石ヲ加賜セラレ宗記ヲ継カシム
︒九年二月二十五日︑封ヲ
下宗 総き 国
志摩国ニ
移サレ鳥羽城ヲ治ム︒元禄四年二月九日
︑宝暦十二年九月晦日︑大封ヲ肥前国ニ移サレ唐津域ヲ
治ム
︒ 炊頭 利里
︑
大炊頭利厚︑老中職タル
ノ累 勲ヲ
以複タ封ヲ下総国
ニ移 サレ 古河 城ヲ 治ム
︒
文政五年三月二
十八 日︑
テ︑壱万石ヲ加賜セラル︒前封ヲ
併セ テ八 万石
︒
︵3︶
前掲
︵1︶ ︵
2︶
と同 じ
︒︵4
︶本 は他 の史
料に
関係
記事
が なく
︑ま たは
不明
確で
︑﹃ 徳
川加
封録
﹄の
みに
記載
があ
るも
の︒
同年における加封高は八︑五
O
O
石︒徳川加封録は
旧封
五
O
O
石を無視し︑こ
乙で
一
O
︑0
0
0
石加封としたため︑以降の石高計算に誤謬を生む結果となった︒慶長
十年四月二十九日︑大炊助に叙任された︒同十
三年十二月︵十月
とあるのは誤り︶における加封高について︑徳川実
慶長
七年
︑
土井利勝が大番頭に補任された事実
はな
い︒
高一
︑
紀・寛政重修諸家譜は石高を明示せず︑藩翰譜は﹁所領の地一倍を加
へ玉
ふ
﹂と
し ︑
思栄録は﹁
加一 万石
﹂
と明記し
てい る
︒徳川加封録はこれら
の説 に
したがったものであろう︒同十五年正月︵栄松録は二月十五日︑土井家識は間二
月︑恩栄録は
二月
とし
て
いる︒徳川加封録はこれにしたが
った
ものであろう︒ここでは武徳編年集成・徳川実紀にし
にお け
る新封高︵下総佐倉︶
を三
二︑四
O
たがう︶
O
石とする点については︑恩栄録を除く諸史料は一致しており︑した が
って
︑同年における利勝
の加 封高 は一
二︑四
OO
石となる︒同十七年における加封
高に つ
いて
は︑
恩栄録は一
二 ︑
000
石︑徳川実紀は一二︑六OO
石としてい
るの
に対し︑寛政重修諸家議は石高を明示せず︑藩翰
譜は
﹁利勝
に知行賜ひし次第︑諸記に記する所異説まちまち
なり﹂と
して
︑
そこ
に新井白石の学識の一お手上げの状態であり︑
端が
一不
され
てい
る︒
徳川
加封
録の
二一
︑
000
石は
思栄録の石高にしたがったものと思われるが︑このときの合計石
世間
を四
五
︑
000
石とする点においては諸史料一致して
い
るか
ら
︑徳川実紀の加封高
一 二
︑六
O O
石 が 正し い ︒徳川
加封録は合計石高を示していな
い が
︑
これまでの計算でいけば四三︑五
OO
石と なり
︑一︑五
OO
石の
誤差を生ず
る ︒
出発において誤りを犯し︑
その
後の
加封高を間違ったため
であ
るが
︑
徳川加封録はそのときどきの合計石高を示さな
乙の傾向は加封の頻繁な譜代大名に多く見受けられる︒煩墳な石高計算に対する努力を怠い場合がひじように多く︑
近世史料の基礎的研究(藤野)
たっ たも ので あろ う︒
利勝は︑その後も頻繁に加封をうけるが︑元和元年の二
O
︑000
石の加封に つ
いて
︑その月
日を
示しているのは
徳川加封
録の
みで
︑
つい
で同
九年
に五
︑
000
石加
封︑
その後数回の
加封 をへ
て︑寛永二その出典は明らかでない︒
年までに一四二︑
000
石︵領知御判物︶となった︒徳川加封録には乙の聞の説明が欠落している︒また下総佐倉から同国古河に転封された年次は寛永十年四月七日︒徳川加封録がこの転封年次を岡三年
にお いて
いる
のは
︑
誤謬の最
た る も の で
︑
﹁ 土 井 利
勝﹂の項は史料としての生命を喪失するものであ
る ︒
4 0 7
(史49 )
この一事をもってしでも︑
この
ときの加
封高を徳川加封録は二
O
︑000
石と して いる が︑
乙の点に関して︑徳川実紀は二
O
︑000
石︑寛政重修諸家譜は永十五年十一月七日︒このとき五
O
︑000
石加封された事実はなく︑それをもって合計石高を一六O
︑000
石と一 八 ︑
000
石︑思 栄録 は一
七 ︑
000
石と し︑
異同が著しい︒しかし︑同年における新封高を一六
O
︑000
石と乙の
場合
は寛
政譜
の一
八︑
000
石が正しい︒大老に任命された日は寛する点においては諸史料一致しているた
め︑
しているのも︑誤謬の最たるものである︒
正保元年七月︑利勝の死去にともない︑嫡子利隆が利勝の遺領の
うち二
二 五 ︑
0 0
0
石を相
続︑
このとき三男利長
−四
男利房はそれぞれ一
O
︑000
石 ︑
000
石分封された︒徳川加封録が利長の分封高を二O
︑︒000
石としているのは誤
り︒
藩翰譜が三者の分封高を︑それぞれ二
O
︑000
石・ 五男利直は五︑00
石︑利自の分封高を一
O
︑000
石としているのを適当に参酌したものであろうか︒この
と
き利
隆の
次男利益に一
O
︑000
石分封された事実はない︒利隆の嫡子利重︑万治元年に利隆の遺領のうち一O
︑000
石を相続︑乙の日利長・利
房
・利 益に
それ
ぞれ
一
O
︑0
00
石︑および利直に
五 ︑
0
石分封し川
0 0
た︒徳加封録は︑以上二固にわたる一 二O 0
︑0
0
石・ 一
O
︑族への分封を混同して記述
して
い
る︒利重の養子利久
︵利 隆三
男︶が改易された日は延宝三年間四月二十九日︒しか
支封周防守利
益一 一六 万石 ヲ加
賜セラレ﹂とすると
き ︑
し︑利勝
の功
によって︑利益に新
たに
七
O 000
石︑与え られ
︑
先の一
O
︑000
. 石
は没収され
た ︒
徳川加封録が﹁
この
聞の事情に対する考慮が無視されている︒利益はその後天
さらに元禄四年には肥前唐津に転封されるが︑﹁
土井 利勝
﹂
の項に限ら
ず︑大名領国が固定化する中期以降になると︑徳川加封録の誤謬は少なくなるという皮肉な現象をきたし
てい
る︒
和一克年に下総古河から志摩鳥羽に転封され︑
(2)
﹃徳
川
除封
録﹄
につ いて
次に﹃徳川除封録﹄について︑諸多の史料と比較考証し︑その異同・誤謬を指摘するこ
とと しよ う︒
﹃徳 川除 封 録 ﹄
に収載された大名数は三八九名で︑これが同じく
三巻 に
分けられ︑次のような構成を示し
てい
る︒
同巻之
︵慶 長五 年よ り同 十五 年ま で︶
一 二
八 名
( 斗
巻之二
︵慶 長十 六年 より
正
保二年 まで
︶
巻之
三︵慶安元年より慶応一五年
まで
︶
一
四
二
名
一 一
九名
(三)
﹃徳川除封録﹄は﹃徳川加封録﹄
と異なり
︑大名家系とは関係なく︑個々の大名に 対 す る
除減封を年月順に記述・
考察したものであり︑勢い
﹃ 廃
絶録﹄と同じ編纂方式をとらぎるをえない︒
そ乙 で︑
﹃廃
絶録
﹄
に収載された大名数
︵三 五
人名︶と
比較 する と︑
そ こ に コ
二 名 の誤差
を生 ずる
︒
いったい
この 誤
差はどこか
ら生 じ たの であ ろう か
︒
第一の理由は︑坂井与右衛門︵
二七
六 頁
︶
・毛利一
万
万石以下ないし大名の家臣︵陪臣︶を挙げているこ と
であ
る
︒
康︵二七七頁︶・藤懸永勝︵二八
五
頁︶
・堅 田広
澄︵
二八八 頁︶
・吉川広家︵
二九
O
頁︶・ 川
勝継武︵秀氏の誤
り ︶
九 七 頁 ︶
・三
淵光行︵二九八頁
︶ ・
直
江兼
続︵三 O
一頁
︶等がこれに属する︒第二の理由は︑著者の誤謬によるもので
ある︒太田政之︵一吉
のこ と︶
︵
二七三頁︶・伊東祐隆︵又は祐兵
︶ ︵ 二八
一頁 ︶
・福原直高︵二
八
二頁 ︶
・垣
見家 純︵ 又 は一 直︶
︵
二八
三頁
︶・ 熊谷
直陳︵同
︶・ 前田
宗利︵玄
以の 誤り
︶︵ 二九 二頁
︶
・毛 利
高政︵二
九
三頁
︶・
別所音治︵一一九 ︵一一
九頁
︶・ 松
平家広︵三
OO
頁
︶等がこれに属する︒ 第
三の理 由は
︑
重複に
よる
誤謬か
ら生じたも
のである︒太田但馬近世史料の基礎的研究(藤野)
守︵ 一 吉の こと
︶︵
二七 七
頁
︶ ・
奥田貞信︵奥山貞信又は
正之 の 誤り か︶
︵
二八二頁
︶・
小野弥七郎︵小野寺弥七郎H義
道の 誤り か︶
︵
二九
八頁
︶
・川尻肥後守︵
直次
︶
︵二
九六 頁 ︶
・高田頼忠︵治
忠の 誤り
︶︵
同︶ ・
杉若越後守
︵氏 宗 のこ と
︶
︵同
︶等 がこ れに 属す る
︒
以上︑関ケ原の役後の戦後処理策の一環としてお
こ な
われた改
易
︵H 除減
封︶を取り上げてみ
ても
︑
二三名の項目
これのみで﹃
廃絶録
﹄との誤差の
大半を占めている
︒もちろ
ん﹁廃絶録﹄に取 り 上げ
られた大名がす
べて 正し い ので
はなく︑筆者の調査との聞に一七名の誤
差が ある
︒ に誤 謬が
あり
︑
4 0 9 C
史51 )
﹃徳川除封録﹄について検
討す ると
︑
第一
の
例では毛利元康
・堅固広澄
・
吉川広
家な
ど毛利氏の家臣を取り
当 面
︑
上げたものが多く︑直江兼続は上杉氏の家臣である︒﹁徳川除封録﹄
は ︑
兼続の旧封高
︵出
羽米
沢︶
を三
0 0 000
︑石としているが︑上杉家紀・
紹襲
録・慶長五年直江支配長井郡分限帳によれば︑兼統の旧封高は六
O
︑00
0
石であり︑
こ
れに兼続家臣団
の知
行高
一
八五
︑七
O O
石を加える
と︑
合計石高は二四五︑七
OO
石となる︒このように大名
の除減封を対象とする﹃徳川除封録﹄に兼続を取り上げること自身不当であるが︑その石高にも誤りがある︒藤懸永
勝の旧封高
︵丹 波の うち
︶を
︑
﹃徳川除封録﹄と同じく二二︑
000
石とするものに大三川志があり︑太閤時代分限高は二
O
︑000
石 と し て い る が
︑ は じ め 織 田
信長に仕え︑寛政重修諸家譜によると︑
永勝
は︑
つい で
男秀勝に仕
000
石を知行︑秀勝の死後豊臣秀告に仕え︑次男永元に一︑000
石分封
すと
ある
︒
これにしたがえば︑
永勝の旧封高
は五
︑
0 0 0
石となる︵宮村出雲覚
書・
家記
︶
︒川勝継武は継氏の誤
り ︒
秀氏が継氏の所領を相続し︑
えて
六︑
しかも︑天正十年には︑
嫡 子
丹波何鹿郡のうちにお
いて
三︑五三
O
石を知行している
︒﹁徳川除封
録﹄
の記述には誤
りが多く︑三淵光行は顕家︵又は藤英︶
の嫡子︒顕家は天正元年に自殺︑光行は細川藤孝に養育され︑関ケ原の役
には
東軍に属
し ︑
慶長十四年近江神崎郡の
000
石与えられた︒旧封高・城地ともに不明で
︑
これまた大名として取り上げることは不当であ 大名として取り上げるのは不当
であ
る
︵宮
村出
雲覚書・寛政重修諸家譜︶︒
うちにおいて一︑
る︵寛政重
修諸
家譜
︶︒
第二
の例では太田政之︵一吉︶・福原直高・垣見家
継︵
一
直︶・熊谷直陳
など
︑ 慶長
四年段階で︑朝鮮出兵中の私曲
によりすでに改易となった豊後の大名群が含ま
れて
いる
︒
︵祐 兵︶ は日 向妖 肥城 主︒
﹁廃
絶録﹄伊東祐隆
いわゆる旧領安培組の外様大名で︑﹃徳川除封録﹄が乙の種の もっとも乙
の点
は
も例外ではない︒
旧封
高は
五七
︑
00
0
石 ︒
大名を除封大名として取り上げている
ζ
と自
身︑
大名の除減封に関する史書としての性格を稀薄ならしめるものであ
り︑前田宗利︵玄以の誤り︶・別所吉治等は︑
この
系列に属するも
ので
ある
︒
毛利高政は旧封高︵ニ
O
︑00
0
石 ︶
のまま豊後日田から同国佐伯に移されたいわゆる転封組に属し︑乙れを減封大名に加えていることは不当である︵豊
府間書・豊城世譜・慶長見聞集・真田文書・武家事紀・伊東系譜・義演准店日記・党舜日記・大三川士山・宮村出雲覚
書
・寛
政重
修諸
家譜
︶︒
第三の例はも早問題とするに足りない︑というより以上に本書の価値を減殺するものである︒太田但馬守には議が
付し
てな
く︑
﹁太田飛騨守政之﹂と官職名の違いのみで別人を立てたものと思われる︒
前述したように太田政之はす
でに改易された除封大名であり︑
乙乙で﹃徳川除封録﹂は二重の誤謬を犯したことになる︒奥田貞信なる人物は検索
しが
たく
︑ 奥山貞信︵又は正之︶の誤りとすれば︑
﹁奥山雅楽介︵実際は助︶正之﹂と
重複
する
︒小野弥七郎は﹁三
万石﹂とあるのみで﹁居城﹂を示さず︑
その判断に苦しむが︑恐らく小野寺弥七郎の誤りであろう︒
とすれば﹁小野
﹁川尻肥後守直次﹂と章一複し︑高田豊後守・杉若越後守
は︑太田氏の場合と同じく官職名の違いをもって﹁高田河内守頼忠﹂︵治忠の誤り︶・﹁杉若主殿介︵実際は頭︶﹂とは 寺遠江守義道﹂と同一の人物と考えられる︒
川尻肥後守は
それぞれ別人を立てたものと思われる︒
以上
︑ 慶
長五年におけ
る関
ケ 原の役後の改易を一
部取
上り
げて
みて
も︑
する
か判
明す
る︒
近世史料の基礎的研究(藤野)
﹃ 徳
川除封録﹄がいかに多くの誤謬を内包
そのうち太田・福原・垣見
・熊谷・藤掛︵懸︶・堅田・川勝氏等は︑栗田元
次氏の関ケ原役後の﹁
改易一覧﹂に例挙され︑垣見・熊谷・藤掛・堅田氏等は︑中村孝也氏の﹁関ケ原戦後除封・減封︑及び旧封据置大名 国別表﹂ならびに﹁城地未詳・除封大名一覧﹂に含まれている︒従来のいわゆる﹁改易一覧﹂がいかに杜撰なもので あったか明らかになったであろう︒
そこで以下若干例を抽出し検討しよう︒
︹第
一例
︺ 佐竹義宣︵巻之一
0
入手)頁
万
拾函室 石 丈
百 石
4 1 1
(史5 3 )
︻ 従︸
正四位中将
居城常陸国茨城郡水戸
︵大
夫ザ
佐竹右京太夫義宣