〈新出資料〉石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大 江頼之助宛新島襄書簡について : 徳富猪一郎旧蔵 資料より
著者 石倉 和佳
雑誌名 同志社談叢
号 35
ページ 73‑88
発行年 2015‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014641
七三石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より
〈新出資料〉 石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵 大江頼之助宛新島襄書簡について
―徳富猪一郎旧蔵資料より
石 倉 和 佳
本書簡は、新島が「同志社大学募金日誌」の五月九日の項に、「但馬城崎郡瀬戸村ノ大江頼之助氏ニ一書ヲ送ル」(『全集』五 四六六)と記載している書簡に対応するものである。石川武美記念図書館(旧御茶ノ水図書館)の成簣堂文庫に収蔵されており、「新島襄書簡」として巻物にされた二巻の収蔵物の箱に収納されていた。二巻の巻物には、古澤滋、大隈重信、頭山満等に宛てた新島の書状が表装されており⑴、この文庫にはその他明治の元勲など著名な人物に関する資料も含まれているため、これらの新島の筆になる書き物もここにまとめられる経緯があったと推測される。成簣堂文庫は、徳富が明治から大正にかけて収集した古典籍(善本で三千五百冊以上、雑本を合わせると数万冊)の総称であるが、大正十三年に完成した大森の山王草堂には、成簣堂文庫のための書庫が建てられ、徳富は折に触れ書庫の中で過ごしていたということである。旧居は現在山王草堂記念
七四石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より館となり部分的に保存されているが、書庫の建物は現存しない。昭和十五年、徳富は山王草堂および成簣堂文庫を主婦の友社の石川武美に売却した。但し、昭和十八年に熱海市伊豆山の晩晴草堂に移るまでは徳富が引き続き利用していた模様である⑵。大江宛の書簡には封筒がなく、代わりに民友社の封筒に徳富の筆で「新島先生手簡」と書かれたものに入れられている。「東京銀座西八丁目 民友社徳富猪一郎」と裏に印字された封筒で、これは昭和に入ってからのものと考えられるので、徳富が成簣堂の書庫を整理している際に出てきたので自ら封筒に入れたのではないかと推測される。新島が大江に出した書状が何故徳富の元にあったかということであるが、今回見つかった書簡は、新島が直接徳富に手渡した大江宛書簡の写しである可能性が非常に高い。そのように考えられる理由として、封筒がないこと以外に次のことが挙げられる。(1)書簡の保存状況が極めて良いこと。徳富に宛てた書簡ではなく、封筒に入っていないにもかかわらず、用紙自体もほとんど痛んでいない。当初から徳富の元で大切に保管されていたと考えれば、非常に状態の良いことが理解できる。(2)徳富と大江の直接的な交流は、筆者の知る限り確認されていない。大江が徳富に渡したものとは考えにくい。(3)新島には自分が送った書簡の写しを徳富に見せたり渡したりする習慣があった。例えば、明治二十二(一八八九)年六月十五日徳富宛新島書簡には「先日モ直ニ一寸コピーヲ御覧ニ呈し候通」とあり、小崎宛ての書簡の写しを徳富に見せていることが分かる⑶。また、同年六月二日の小崎宛新島書簡(『全集』四 六五九号)は、昭和十七(一九四二)年に発行された『新島先生書簡集』では徳富宛の封書に入っていたとされているものであり、長く徳富宛と考えられていたものであるが、実際は新島が小崎宛ての書簡の写しを徳富に送ったのでこのようになったと考えられる⑷。また、成簣堂文庫にある新島書簡の多くは封書がなく、徳富ではなく別人に宛てたものであるが、これらも徳富に渡
七五石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より した写しもしくは下書きの可能性が高い。これらに加えて、この大江宛書簡が書かれた日の一週間前、明治二十二年五月二日より徳富が来訪して数日滞在しており、その間浮田和民、金森通倫らとともに新島と同志社大学設立運動について協議している。新島は徳富が帰京した後も徳富に続けざまに書簡を何通か送っている。当時の頻繁なやり取りの中で、徳富に但馬方面への対応の報告もかねて何らかの形で書簡の写しを渡したとしても不思議ではない。また、この書簡中には『国民之友』への言及があることも、写しを渡す理由になると考えられる。以下は本文である。過般来壱書相呈度存居候處帰宅之已後彼是多忙大ニ延引ニ及候段不本意之至ニ奉存候陳者先般小生より廣津松尾之両氏貴地へ差向敞社大学資金募集之義ニ付御地方有志家之御賛成を被仰候際貴殿ニハ折悪久
七六石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より御不在之趣甚残念之至貴地ニ於而は御同姓甚助君ニ諸事御依頼申上置候由何卒将来之御運動は同君と御協議之上宜しく御取計被下度奉希候其後御地方より別ニ御通信も無之如何之御運ひに相成居候哉但馬一円は充分御奨励被成置度奉仰候御序も有之候ハヽ岡、春田、中井之諸君をも宜しく御鳳聲被下度奉切望候右御依頼旁御左右奉伺度如此候也草々拝具 五月九日夜 新島襄
七七石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より 大江頼之助君 梧下
其後何ソ御名吟無之候哉小生ハ近来大学之為全天下ニ向乞食人之如き者と相成如此も全天下ニ向哀求するは縦令大学之為とは乍申随分堪忍を要する仕事ニ有之無風流之感なき能ハす何卒御了察被下度候御同姓甚助君ニも宜しく御致声被下度奉仰候近頃或ル大同派之御人ニ国民之友ハ非常ニ大同派を駁セり而して該誌ハ同志社之機関なり故ニ同志社カ大同派を駁する事なれハ吾人ハ該社
七八石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より之大学を助けましと被陳候人も有之候由是は大ニ想像ノ説ニして甚誤れるものなり国民之友ハ全ク之獨立之雑誌ニして同志社へハ好意を表するも決して同志社之機関雑誌ニ非らす又吾人ハ一切政党之一派に左胆して他ノ一派を駁するか如きハ曽テ為さヽる所なれハ万一御地方にも斯様之誤解説を吐かるゝ御人ある節ニハ宜しく御弁護被下置度候
ここでは次の四点について、順次述べていきたい。【1】大江頼之助と大江甚助、新島との交流【2】但馬地方における大学募金運動について【3】大同団結運動について
七九石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より 【4】『国民之友』における大同団結批判について
【1】大江頼之助と大江甚助、新島との交流大江頼之助(一八六〇―一九二九)については、『新島襄全集』に城崎郡瀬戸村の県会議員として簡単な紹介があるが(『全集』三 八七一頁)、ここでは但馬の自由民権運動の背景も含めて資料で確認できる点について記述する。但馬地方の自由民権運動は、明治十年代半ばには小室信介、沢辺正修などの活動により非常に盛んとなり、強成社、猶興社、改進社などの数多くの結社が作られ政治運動へと発展していった。大江頼之助は明治十四(一八八一)年に立憲政党員となり、翌年には政党談話会の会主となるなど、北但地方の自由民権運動の中心人物の一人と見なされていたようである⑸。明治十六(一八八三)年には立憲政党が解党し、大江は明治十七年、自由党と改進党とが大同団結を目指した際の関西有志懇談会に参加している記録があるが、ほどなく自由党も解党し、自由民権運動は逼塞することになる。これらの政治活動と並行して、大江は明治十六年、十九年の県会選挙の得票者に名があるが当選せず、二十二年に初当選している⑹。新島と大江の交流の最初は明治二十年十二月六日の新島書簡で確認できるが、この書簡では「通鑑鋼目」を大江が同志社に貸与したこと、新島が同志社専門科を中村栄助および浮田和民等の教員により発足させるので但馬地方においても推奨を願いたい旨が書かれている(『全集』三 三四五号)。同年十二月十二日の書簡では、「未タ拝眉を得不申候」(『全集』三 三四九号)とあるところから、直接の交流はなかったと思われる。明治二十二年(一八八九)年、三月十四日、大江は神戸諏訪山に滞在していた新島を中井幹造、岡精逸、田尻東一郎といった兵庫県議達とともに訪ねた。これは三月四日から十日まで開かれていた明治二十二年第一回臨時県
八〇石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より会の終了後から、十八日から二十一日まで開かれていた第二臨時県会の間の時期にあたる⑺。当時の県会議事堂は神戸市生田区下山手通四丁目にあり、現在の兵庫県庁のある場所である。新島が滞在していた諏訪山和楽園(地図には公園や温泉が併記されており、英和女学校(現在の神戸女学院)に近い)へは、上り坂ではあるが徒歩圏内である。大江ら四人に面談したあとも、三月二十日には十五名の県議と面談しており、これらは新島が神戸に滞在したゆえの交流であったと考えられるだろう。書簡中新島は、「貴地ニ於而は御同姓甚助君ニ諸事御依頼申上置候由」と、そちらのことは大江甚助にいろいろ頼んであると書いている。大江甚助の名は「同志社大学設立募金日誌」には見られないが、「貴地に」とあることから、瀬戸村の県会議員であった大江甚助ではないかと考えられる。大江甚助と新島との間にどのような交流があったかは不明であるが、何らかの形で大学設立への協力を依頼していたと考えられる。甚助は生糸商で大地主であった八鹿村西村庄兵衛の三男として生まれ、天領城崎郡瀬戸村の大江家に養子に
『神戸兵庫名勝絵圖』明治19年 兵庫県廳(神戸市立文書 館蔵)神戸市の概略図で、図は上が北である。矢印のところ が県会議事堂。諏訪山は山手(北側)にある。新島の滞在先 は山本通り近辺と考えられる。
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八一石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より 入った人である。当時大江家は酒造業、廻船業、農業など多角経営を行う富農であり、幕末には飢饉や外国船の為の海岸整備などに大量の資金援助を行い、その功績のために子孫まで苗字を名乗ることを許されたという。後述する文久三(一八六三)年の生野義挙の際には、浪士や農兵のための活動資金を調達する役を引き受け、そのために一族閉門となった時期もあった。明治に入ってからは、続けて地方自治の役職に就き、明治十五、十八、十九、二十一年には県会議員に選出されている。明治二十年、但馬における地租修正運動がおこった時には、中心人物として活動した⑻。大江頼之助は大江甚助の分家に当たるということである。【2】但馬地方における大学募金運動について書簡中新島は、三月末から四月にかけて行われた、広津友信と松尾音二郎による但馬地方での募金遊説について言及しているが、「貴殿ニハ折悪久御不在之趣甚残念之至」と、その際大江が不在で大変残念であったと述べている。当地での運動は大江甚助に頼んであるので相談のうえ宜しくお願いしたい、岡、春田、中井の皆さんにもくれぐれも宜しくお伝え願いたい、と但馬の人々との連絡を大江に頼んでいる。「同志社大学設立募金日誌」によれば、神戸で面談した田尻、岡、中井とは広津、松尾の一行は直接面談している。【3】大同団結運動について新島の書簡中には、「大同派」として、大同団結運動支持者のことが言及されているが、ここでは全国各地の政治団体を巻き込んだ大同団結運動が意識されていると考えられるので、まず当時の状況を整理したい。明治二十年より後藤象二郎などの主導により、自由民権運動各派が大同団結をして国会に臨むべきであるという、いわゆる大同団結運動がおこる。但馬にこの運動の影響が及んでくるのは、明治二十一(一八八八)年、植木枝盛が豊岡で有志会を開き、大同団結の必要性を訴えたことなどがきっかけになったようである。二十二年一
八二石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より月には豊岡で大同団結を目的とした城崎郡倶楽部が結成され、新島に面談した県議の一人、中井幹造は大同団結に積極的に活動したようである。三月二十日からは、大江甚助らが北但地方の大同派の活動の中心となり、湯島村では四月に大規模な政治演説会が行われた。これらの大同派の動きは、五月に東京で行われる大同派会議に向けての勢力固めの意味があったが、直後の城崎での大同派懇親会では、東京での大会に出席した岡精逸が合流しないなど、但馬地方の動きは再編期に入ったため錯綜している⑼。新島が大江に会い、広津と松尾が但馬遊説を行い、本書簡を出すまでの間、但馬では大同団結をめぐって様々な動きがあったわけである。実際大同団結運動は、すでに明治二十二年三月後藤が藩閥内閣の逓信大臣となったことでいわば腰砕けの状態になっていた⑽。民権派の人々は、翌年に控えた第一回衆議院選挙に向けて、勢力の統合を様々に図っていた。但馬地方の大同団結の動きは地方新聞で報道されることもあり、徳富の『国民之友』でも大同団結の話題はしばしば取り上げられた。新島が、面会に来た兵庫県議の人々の背景に大同団結の波を感じていたとしても不思議ではない。【4】『国民之友』における大同団結批判についてこの書簡の後半は追記として書かれたものかと考えられるが、前半とほぼ同じ長さになっている。「小生ハ近来大学之為全天下ニ向乞食人之如き者と相成」など、大学のために資金を集めることについて天下に向かって物乞いをするようだと、愚痴にも思える言葉を書いているが、これは新島一流の大江への共感の表現とも読みとれる。そちらも辛いこともあるだろうがこちらもそうだ、という訳である。次に「大同派之御人」以下の部分である。『国民之友』は大同団結派を非常に批判しているが⑾、この雑誌は同志社の機関誌なのだから同志社が大同団結を批判しているのだ、と大同団結推進派の中には言う人がいる、と新
八三石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より 島は述べている。『国民之友』が同志社の機関紙であるという誤解は、前年十一月、『国民之友』に「同志社大学設立の趣意」が掲載され(第三十四号)、その後寄付金の広告が恒常的に掲載されている上に、記事の中にも同志社大学を応援する内容が見られることからある程度理解できるものである。明治一〇年代には、但馬地方でもそうであるが、○○社という名の結社団体が各地で多く作られた。明治二十二年においても、同志社という名称はそうした政治結社の一つと誤解されても不思議ではなかったと考えられる。その上、当時の新聞は政党機関誌化するものも多かった事を考えると、このような誤解を口にする人がいることはそれ自体考えられないことではない。三月末から四月初旬にかけて、広津と松尾が但馬遊説を行った時期には、但馬地方において大同団結派の集会なども行われていたが、同志社の募金活動の際に姿を見せなかった大江に対して、新島は『国民之友』を持ち出して、婉曲にではあるが大江の近況と同志社に対する心情を改めて聞き出そうとしているかのようである。新島が「国民之友ハ全ク之獨立之雑誌ニして同志社へハ好意を表するも決して同志社之機関雑誌ニ非らす」と断言するとき、同年二月十二日(第四十一号)の『国民之友』の記事、「獨立の政論、獨立の雑誌」が念頭にあったと考えられるだろう。この記事に署名はないが、雑誌の独立姿勢を徹底して述べており、文中「吾人は初めより平民主義を唱導し」云々とあるところなどから、徳富の手になるものと考えられる。新島はかねてより『国民之友』の愛読者であり、徳富にその内容について時に書簡で感想を述べることもあったが、記事の内容を勘案すれば、この書簡は大江に語りかけながら、『国民之友』の独立を理念として支持する姿勢を見せているものとして興味深い。同志社が徳富の雑誌を利用しているのではなく、その逆でもなく、あくまでも独立した者同士として協同しているという点、党派性を越えた同志社の独立も明示しているものである。徳富は「獨立の政論、獨立の雑誌」において、『国民之友』は何党の機関紙であるのかと疑問に思う人がおり、
八四石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料よりそのために金を受け取っているのかという風説まであるが、この雑誌は「獨立の政論」を掲げるものである、として次のように述べる。
各種の政黨各々自黨の言ひ前のみを主張する中間に於て、各黨以外に其の領地を有し、直に國民を以て相手となし、恒に其の朋友たるを期するものあらんか、是れ國民に取て實に大なる幸福なりと謂はさるへからす、我か「國民之友」は不肖なりと雖も、自ら此の位置に立たんことを欲するものなり
(中略)惟た吾人か意に關する處ハ、孰れの黨派か勝を制し、孰れの政略か行はれ、孰れの人か内閣の位置に立つを以て最も我か國民の福祉たる可きやと考ふるのみ、故に若し吾人か一の黨派の政客を賛成することあらは、其の黨派を賛成するにあらす、其の政客の國民多数の福祉と一致するを信するに由るなり、此時に於て尚ほ「國民之友」は或る黨派の機關と謂ふを得へきか、若し吾人か或る黨派に反對するあらは、其の黨派に反對するにあらす、其の黨派の政略の国民多数の福祉にあらさるを信するか故に反對するのみ、此時に於ても尚ほ「國民之友」は或る黨派の機關なりと謂ふを得へきか、世は如何に政黨流行の世となるも、言論の世界は如何に機關新聞流行の世となるも、豈に頂天立地獨立不羈の雑誌を容るヽ餘地なしとせんや、(以下略)
(『国民之友』第四十一号 明治二十二年二月十二日号 原文の傍点は省略)
本稿で取り上げた新島書簡への大江の返信は確認されていないが、明治二十二年十月に、新島と大江の書簡のやりとりが記録されている。大江が新島に葉書を送り、新島がそれに返信し⑿、その新島の書簡への大江の返
八五石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より 信(『全集』九下 七四〇号)が残っているのである。大江の葉書に書かれた短歌の内容から、新島は大江が留置される等のことが起こったのではと心配しているのだが、大江は新島の考えは杞憂であるとして、病気の為欠礼し続けていることを詫びている。そして歌については、「机辺凶傑平野次郎(国臣)氏之短冊顕れ候ニ付、不思揮毫不取敢同氏之意中申上候」と、平野国臣(一八二八―一八六四)の短冊が出てきたので思わず平野の心中を言葉にした旨、返答している。平野国臣は尊王攘夷派の武士であり、多くの和歌を残している。文久三(一八六三)年、公卿沢宣嘉を奉じて北垣晋太郎(国道)らとともに但馬国生野で挙兵(生野義挙)したが、捉えられ京都で斬首された。平野の挙兵は勤王派の過激な武力闘争を平定しようとするなかで、自らもその闘争に巻き込まれて行動に至ったものであり、会津藩、薩摩藩の公武合体派による突然の政変により急変した政治状況に翻弄された最期であった。蜂起の際、豪農、富農層の人々は、戦いに参加する浪士たちを大切にして彼らと交流したことが記録に残っている。大江甚助も北垣を助け資金調達役として活動した⒀。大江家が生野義挙に深くかかわった家であることを考えると、頼之助の手元にあった平野の短冊が、平野本人の筆になるものだったことも十分考えられる。平野に共感する大江の心境は、大同団結運動が挫折し、但馬における地域の指導層の政治活動が転換期を迎える中で、不如意な中に置かれた状態であったことと決して無縁ではないはずである。大江にとって新島との交流は、図らずも彼の人生の一つの節目と重なっていたと見ることも可能だろう。
⑴石川武美記念図書館にある「新島襄書簡」二巻については、現在筆者が調査中である。書簡、はがき、書簡断片などが表装されている。多くはすでに『新島襄全集』に森中章光の筆写として収録されているものと考えられる。この書簡群については、川瀬一馬編『新修成簣堂文庫善本書目』に概略がある。
八六石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より
⑵徳富は同志社時代からの友人である綱島佳吉からの紹介で主婦の友社社長であった石川を知った。石川は関東大震災後経営難に陥った国民新聞社の立て直しのため副社長となるが、すぐに経営からは身を引いた。その後後継者とされていた徳富の二男萬熊が病死し、国民新聞社の経営は他者に移り、しばらくして徳富も社を去ることになった。以後、徳富は大阪毎日新聞社の社賓となったが、『近世日本国民史』編纂事業の継続と大家族と多くの秘書を抱える生活を維持するために、大森の山王草堂と成簣堂文庫を処分したと考えられる。ただし、昭和十八年に徳富が伊豆に移るまでは、大森の書庫には書籍が収納されたままの状態だったと推測される。⑶この書簡は『新島襄全集』には収録されていないものである。拙稿「〈新出資料〉徳富蘇峰記念館所蔵新島書簡について⑵―教会合同問題をめぐって―」
『同志社談叢』第三十四号
一五二―五八頁に翻刻及び注解がある。⑷明治二十二年六月二日、新島は徳富と小崎に書簡を出し、小崎宛の写しを徳富にも送っている。徳富宛の書簡は「御用スミノ上は別紙御ヤキ捨被下度候」と書かれている。⑸大江頼之助の自由民権運動における活動については、『豊岡市史』下 六十三―七十一頁に詳しい。また、宿南保『但馬史5』一五五―五九頁、『城崎町史』五○八―一二頁にも言及がある。⑹明治十二年から三十二年までの城崎郡の県会議員選挙名簿およびその結果は、『兵庫縣會史』 五十三―五十九頁にある。なお、二十二年度の議会記録の末尾に、「郡部會議員半數退任者ヲ定ムル為閉會ノ當日各議案終了ノ後抽籤ヲ行フ退任者左ノ如シ」とあり、三十七名の中に大江頼之助の名がある。⑺明治二十二年の兵庫県会については、『兵庫縣會史』三三七―三七八頁に議事等の詳細がある。⑻大江甚助については、前嶋雅光『幕末生野義挙の研究』を参考にした。特に一六六―七〇頁参照のこと。また、『城崎町史』、『但馬史5』にも言及がある。議員としての任期は、『兵庫縣會史』参照。⑼明治二十一年から二十二年にかけての但馬における大同団結運動については、『城崎町史』 五五三―五五六参照。新島にも面談した岡精逸は、その後第二回衆議院選挙で当選している。⑽『豊岡市史』では「首導者後藤象二郎の裏切りで大同団結運動は分裂して挫折、以降湯島を中心とする立憲政党但馬自由党は次第に退潮を余儀なくされた」(下 六九―七〇)と書かれている。湯島は大江の住む瀬戸村から円山川を上流の方に五キロほど行った近隣の地域である。
八七石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より ⑾明治二十二年前半の『国民之友』における大同団結に関する記事は多く、政治家の動向から政論に至るまで、様々な観点の記事が掲載されている。大同団結に批判的であるというのは、徳富が後年後藤の人柄が信用できなかった旨述べるように(『蘇峰自傳』二三八頁)、民権派の政治勢力を自らの利益に転換しようとする利己的な動きをかぎ取っていたからともいえる。新島の書簡に近い時期の『国民之友』では、大同団結派は政治的には未熟であり、政治勢力として一つにまとまることは困難であると見ており(「大同団結派の善後の策如何」第四十六号 同年四月二日発行)、実際その後大日本帝国憲法の発布に続き、地方自治制度が改革されていくとともに、民権派の運動もその形を変えていくことになる。徳富による、当時の大同団結への寸言は、次の通りである。「後藤伯は危機存亡を踏臺として、二十二年三月三日には黒田内閣に入り逓信大臣となった。此に於て大同團結に随喜し、後藤伯に謳歌したる連中も、今更ら呆氣にとられて、何れも尻餅をつかんばかりの有様であったのは、如何にも氣の毒千萬であった」(『蘇峰自傳』二三九―四〇)。⑿この返信の書簡は同志社大学社史資料センターが収集したもので、詳細は布施智子「新出新島襄書簡の紹介」にある。⒀前嶋『幕末生野義挙の研究』一二七―三三頁、および『城崎町史』四四四―五頁参照。
解説中の新島書簡および徳富書簡からの引用は、以下による。『新島襄全集』三 書簡編1 新島襄全集編集委員会編 同朋舎出版 一九八七年 『新島襄全集』四 書簡編2 新島襄全集編集委員会編 同朋舎出版 一九八九年『新島襄全集』九上下 来簡編 新島襄全集編集委員会編 同朋舎出版 一九九四年文中敬称は省略した。
(参考文献)
『國民之友』 複製版 明治文献資料刊行会編 一九六六―一九六八年『城崎町史』城崎町史編纂委員会 一九八八年「神戸名勝絵圖」兵庫縣廳 一八八六年
八八石川武美記念図書館成簣堂文庫収蔵大江頼之助宛新島襄書簡について―徳富猪一郎旧蔵資料より
『新修成簣堂文庫善本書目:お茶の水図書館蔵』川瀬一馬編 お茶の水図書館 一九九二年宿南保
『但馬史5』
のじぎく文庫 神戸新聞出版センター 一九七九年徳富猪一郎
『蘇峰自傳』
中央公論社 一九三五年『豊岡市史』 上・下巻 豊岡市史編纂委員会 豊岡市 一九八一―八七年『豊岡市史 資料編』 上・下巻 豊岡市史編纂委員会 豊岡市 一九九○―九三年『新島襄全集』 全十巻 同志社 全集編集委員会編 同朋舎出版 一九八三年―一九九六年『新島先生書簡集』 森中章光編 同志社校友會 一九四二年『新島先生書簡集続』 森中章光編 学校法人同志社 一九六○年『兵庫縣會史』兵庫縣 一九〇四年布施智子「新出新島書簡の紹介」『同志社談叢』三四号 一二七―一四一頁 二〇一四年前嶋雅光『幕末生野義挙の研究―但馬草莽の社会経済的背景』明石書店 一九九二年
謝辞本稿の執筆に当たっては、兵庫県立図書館、姫路市立図書館、および神戸市立文書館にお世話になった。また、同志社大学名誉教授露口卓也氏には原稿の内容について有益なご指摘を頂いた。同志社大学社史資料センターの布施智子氏には、原稿についてお世話になった。皆様に感謝を申し上げたい。石川武美記念図書館の佐藤祐一氏および図書館の方々には、閲覧の段階から大変お世話になった。重ねて御礼申し上げる次第である。