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ルネ・ジラールの聖暴力論の射程

一橋大学社会学部4103201c宮川拓 深沢英隆ゼミナール 一族の滅亡において、永遠なる一族の ダ ル マ 美徳は滅びる。美徳が滅びるとき、 アダルマ 不徳がすべての一族を 支配する。不徳の支配により、一族の婦女たちが堕落する。婦女たちが堕落すれば、 ヴァルナ 種姓の混乱が 生ずる。このような混乱は、一族の破壊者と一族とを地獄に導く。というのは、彼らの祖先は ビ ン ダ 団子 と水の供養を受けられず、地獄に堕ちるから。一族の破壊者の、種姓を混乱させるこれらの罪過に より、永遠なる ジャーティ 階 級 の美徳と一族の美徳は破壊される。一族の美徳が滅びた人々は、必ずや地獄 に住むと我らは聞いた。ああ、我々は何という大罪を犯そうと決意したことか。王権の幸せを貪り 求めて、親族を殺そうと企てるとは。もしドリタラーシトラの息子たちが、合戦において武器をと り、武器を持たず無抵抗の私を殺すなら、それは私にとってより幸せなことだ。 ―――上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』より

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目次

第1章 序論 1 第2章 模倣的欲望論の整理と評価 4 2.1 整理 . . . 4 2.2 評価 . . . 7 2.3 聖暴力論への寄与 . . . 9 第3章 聖暴力論の整理 11 3.1 供犠の機能. . . 11 3.2 差異と暴力. . . 12 3.3 暴力的満場一致と贖罪のいけにえ . . . 13 3.4 宗教の起源と機能 . . . 14 3.5 畸形の分身としての怪物 . . . 15 3.6 神話の文法と聖なるものの変遷 . . . 16 3.7 聖なるものの系譜 . . . 18 第4章 宗教研究としての議論の位置づけ 20 4.1 構造主義との関係 . . . 20 4.2 宗教機能論かつ起源論として . . . 23 第5章 方法論の検討 27 5.1 論証のプロセス . . . 28 5.2 反証可能性にかかわる問題 . . . 29 5.3 神話テキストを論証の材料とすること . . . 30 5.4 他者を表象することにかかわる問題 . . . 34 5.5 ジラールによる懐疑主義批判 . . . 35 第6章 評価と批判 39 6.1 説明可能性の検討 . . . 39 6.2 仮説の強度の検討 . . . 43

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6.3 仮説の有効範囲 . . . 51 第7章 結論 53 7.1 本稿の議論の再確認 . . . 53 7.2 宗教の領域における聖暴力論の適用可能性 . . . 54 7.3 文化一般の領域における聖暴力論の適用可能性 . . . 54 第8章 補論―――ジラールの福音読解について 56 8.1 福音読解の要旨 . . . 57 8.2 基本的な評価 . . . 58 8.3 群衆とピラト . . . 59 参考文献 62

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序論

本稿の目的は、宗教と暴力に関するルネ・ジラールの議論を整理し、その仮説の有効性を吟味し、 それが現代社会の分析に資するものであるかどうか検討することである。題材としては主に、1972 年に原著が出版された『暴力と聖なるもの』を対象としている。ジラールの議論は、きわめて単純 な議論の構成によってきわめて大きな射程をおさめようとする点において特徴的である。もっとも 簡単に切り詰めれば、宗教と暴力に関する彼の仮説はたったの一文に要約できる。すなわち、人間 社会の根源には暴力があり、暴力の危険を避ける方策としていけにえの儀礼があみ出され、その事 実を隠蔽するためのからくりとしてすべての宗教的なものと、ひいてはすべての文化的なものが構 築された、というものである。巨大な問題をいっぺんに解決できると吹聴する人は、アカデミック な香具師とみなされるのが通例である。ジラールについても、宗教と暴力に関する彼の議論が、ガ マの油に過ぎないのではないか、という疑念はぬぐいがたい。しかし後に確認するように、ジラー ルの言うところの供犠のメカニズムを、我々の経験的な事実や知識の内に見出すことができるのは 確かであり、それによって物事が分かりやすくなる場合があることも確かである。したがって少な くとも、ジラールの議論のはじめから終わりまですべてがデタラメであると断じることはできな い。彼の議論が、ある問題領域において有効性を持っているとするなら、その利点を生かしながら 議論の有効範囲を慎重に確認する作業が必要だと考える。本稿の課題はそのような作業である。 以上の問題関心から、本稿では次のような構成で分析を進める。第2章では、聖暴力論について 考察する前提として、『欲望の現象学』において展開される模倣的欲望論の整理と評価を行う。模 倣的欲望に関するジラールの議論は、近代文学を対象にして展開されるが、のちの聖暴力論におい てもその一部分をなしている。また『欲望の現象学』においては、彼の議論の進め方の特徴がかな り荒っぽい形で表に出ているため、模倣的欲望論を概観することは、聖暴力論の分析の役に立つ。 第3章では、分析を行うための準備として、『暴力と聖なるもの』の流れに即して、聖暴力論の全体 像を整理する。第4章では、ジラールの議論が宗教研究史の文脈においてどのように位置づけられ るべきか検討する。『暴力と聖なるもの』の範囲において、ジラールは自らの議論について、構造 主義人類学の成果を用いて宗教の機能や起源についての伝統的な問題領域を再論するものであると 述べているが、これはおおむね妥当な位置づけであると考える。第5章では、聖暴力論におけるジ ラールの方法論がどの程度妥当なものであるか検討する。上で述べたとおり、ジラールにはイカサ

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マ師とみなされかねない状況証拠があるのだから、その手口が真っ当なものかどうかを検証するこ とは、どうしても必要な作業である。つづく第6章が本稿の考察の主要な部分である。ここでは、 それまでの分析を前提として、宗教と暴力に関するジラールの理論的仮説がどの程度の強度と説明 可能性をもつものであるかを検討し、いくつかの問題点を指摘した上で、仮説の有効範囲を確定す る。第7章ではそれまでの議論を総括する。その上で、ジラール聖暴力論を現代社会の分析に役立 てることができるか、またその際に何に留意するべきかを考察する。 以上が主論であり、第8章では補足的な問題を扱う。この章では、『世のはじめから隠されてい ること』以降の著書で展開されるジラールの福音読解について考察する。『暴力と聖なるもの』の 段階では福音の真理性の主張は表明されていないため、本稿の主論ではその範囲において、ジラー ルの理論を彼のカトリック信仰と切り離して取り扱っている。しかし両者は強固に結びついてお り、福音読解について分析することは、理論の分析の助けになる。また、彼の福音読解それ自体が 興味深いものでもある。 ジラールの著書の邦訳は多くが法政大学出版局から出版されている。著者は原文のフランス語を 解さないため、これらの邦訳に全面的に依拠した。本稿で言及しているのは以下の四つの著作であ る。『欲望の現象学』(ジラール, 1971)は、欲望を三者関係の中で働く模倣のメカニズムによって生 まれるものとして論じる。ここで分析の対象となるのは、近代文学作品の中でも特に彼が「ロマネ スク」と名づける諸作品である。セルバンテス、スタンダール、フロベール、プルースト、ドスト エフスキーなどによるロマネスクの諸作品は、きわめて凡俗な心的過程を執拗に描くことによって 模倣的欲望の真実を明らかにしているとされる。この著作は多くの点で聖暴力論の前駆をなしてい るため、本稿の冒頭で予備的に取り扱う。『暴力と聖なるもの』(ジラール, 1982)は、聖暴力論を提 起した著作であり、本稿の分析の主要な対象である。『世のはじめから隠されていること』(ジラー ル, 1984)は、ジラールと二人の精神分析学者との鼎談である。ここでは『暴力と聖なるもの』で提 示された理論についての議論が交わされたあと、宗教的な欺瞞を超克するものとしてのキリスト教 の福音の優越性がジラールによって表明される。きわめて刺激的な書物だが、鼎談という形式ゆえ に体系性を欠いているため、本稿では補論第8章をのぞいては取り扱わない。『身代わりの山羊』 (ジラール, 1985)は、前のふたつの著作に向けられた批判に対する反論というかたちで、特に神話 テキストの読解について詳しく再論すると同時に自らの方法論の正当性を主張している。したがっ て、特に第5章での方法論の検証において中心的に取り扱われているのだが、反論の対象である批 判的論説を入手できなかったので、本稿では論争の一方の側だけを取り上げることになってしまっ ている。とはいえ、それらの批判の重要な論点については順を追った考察によって再構成している ため、必ずしも致命的な問題にはなっていないと考える。また、本書の後半は福音の優越性の主張 にあてられている。 本稿の考察は、ジラールの議論について論じた著作のいくつかを参照している。M.ドゥギー・ J.-P.デピュイ編『ジラールと悪の問題』は、『暴力と聖なるもの』と『世のはじめから隠されてい ること』を受けてフランスで出版された論集であり、さまざまな著者によるジラールの議論につい ての考察がおさめられている。P.デュムシェル・J.-P.デピュイ『物の地獄』は、近代市民社会と市 場経済の分析にジラールの理論を応用している。西永良成『〈個人〉の行方―――ルネ・ジラールと

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現代社会』は、ジラールの模倣的欲望論を整理し、またそれを用いて近代日本文学の批評を行って いる。松谷邦英「ジラールの暴力論と政治の論理」は、現代の政治的問題にジラールの暴力論を応 用するための試論であり、いくつかの観点からその有効性と限界を指摘している。これらの著作を 用い得たことは大変助けになったが、しかし私自身の問題関心と完全に一致するような論考は見当 たらなかったため、本稿の考察はかなりの程度を手探りのようにして進めざるを得なかった。しか も、『暴力と聖なるもの』で言及されている膨大な量の民族誌、理論書、神話叙事詩、悲劇などのテ キストをすべて参照することはできるはずもなく、本稿で取り扱ったいくつかの文献についても、 充分に整理し相互に関連づけるには、時間も能力も圧倒的に不足していた。したがって当然のこと ながら、本稿の考察は、理想的な水準からすればきわめて部分的で不充分なものにすぎないが、そ れでも私にとっては最大限の成果である。

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模倣的欲望論の整理と評価

ジラールは『欲望の現象学』において、セルバンテス、スタンダール、フロベール、プルースト、 ドストエフスキーなどによる「ロマネスク」の諸作品を分析の対象として、これらの作品が欲望が 自己・対象・媒介の三角形的構造に由来することを明らかにしていると論じた。ここでジラールの 批判の的となるのは、欲望を自発的なものとして称揚する「ロマンティーク」*1の傾向と、ロマン ティークな見方によるロマネスクな作品の誤った読解である。分析の対象は文学作品にとどまる が、ジラールが明らかにしようとするのは人間一般の欲望の本質である。すなわち本書は文学の助 けを借りた社会心理学を目指しているのだが、しかしながら同時に文学作品の評論という側面も 持っている。この点が不分明なことは、本書の根本的な問題を引き起こしているように思われる。 本稿の課題はジラールの聖暴力論について論じることだが、そのためにはまず模倣的欲望論を整 理しなければならない。のちに示すように、模倣的欲望論は聖暴力論において重要な一契機の位置 をしめている上に、聖暴力論と同じような、しかしもっと単純な構成によって理論が構築されてい るため、聖暴力論の基本的な着想を理解・評価する助けになるからである。したがって本章では、 『欲望の現象学』における模倣的欲望論の骨格を簡単に整理し、評価と批判を行ったうえで、のち に展開される聖暴力論への寄与をまとめる。

2.1

整理

本項では『欲望の現象学』で展開される模倣的欲望の理論と、それと関連するロマンティークの 虚偽の告発を概観する。 *1‘romantique’は「ロマン主義」と訳されるべきだが、おそらくは「ロマネスク」と対比されるために、邦訳書ではそ のまま「ロマンティーク」とされている。本稿もこれに従う。また「ロマンティーク」、「ロマネスク」の双方ともに、 美学史上の概念から大きく拡張された独自の意味合いで用いられている。

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2.1.1

欲望の三角形構造

欲望は通常、主体が対象を欲望するという直線的関係として描かれるが、ジラールは媒介という 第三者が挿入された三角形構造を見出す。主体は媒介が対象を欲望するのを見て、それを模倣して 同じようにその対象を欲望する。したがって、主体が自発的になにかを欲望していると見えると き、実はその主体は他者を真似しているのだ、というのがジラールの見解である。 ロマネスクの諸作品のうちで、この構造がもっともあからさまに、それと分かり易い形で描かれ ているのは『ドン・キホーテ』である。すなわちドン・キホーテは全生涯において騎士道小説の主 人公アマディースの真似をし、アマディースが欲望するものを欲望するのである。

2.1.2

外的媒介と内的媒介

模倣によって駆動される三角形的欲望は、媒介と主体との距離によって外的媒介と内的媒介に分 類でき、この間のグラデーションの中に固有の形態をおいて見ることができると論じられる。 ■外的媒介 主体と媒介の願望の対象が重なり合わないとき、したがって主体と媒介とのあいだに 競合的関係がないとき、その媒介は外的媒介と名づけられる。たとえばドン・キホーテにとっての 媒介は小説の主人公なので、彼が媒介と接触することは不可能であり、したがって競合関係はあり 得ない。外的媒介の場合には、主知はみずからが媒介に従うものであることを包み隠さず明らかに し、したがって主体はその欲望の性質は見定めやすい。ドン・キホーテは自分がアマディースを手 本にしていることを率直に言い表している。外的媒介による欲望は深刻なものではない。 ■内的媒介 主体と媒介の願望の対象が重なり合うとき、したがって主体と媒介とのあいだに競合 的関係があるとき、その媒介は内的媒介と名づけられる。たとえばプルーストの『失なわれし時を 求めて』の場合には、欲望の媒介は社交界において交際する他人である。内的媒介の場合には、欲 望の手本としての媒介は主体が欲望するべきものそのものを所有している。この場合、三角形の二 辺、すなわち媒介の対象への欲望と主体の対象への欲望はほとんど瓜二つのものになる。 内的媒介との関係において、主体が媒介の欲望を模倣しようとすれば、媒介とのあいだに競合関 係が発生する。媒介は主体にとって手本であると同時に打ち倒すべき敵となる。したがって、主体 は模倣の構造を否定し、みずからが敵を真似ているのではなく、自発的に欲望しているのであるこ とを宣言しようとする。主体の欲望は敵である媒介の欲望と対立するが、この欲望は敵による対象 の承認を必要とするため、媒介に対する主体の感情は不可解に錯綜したものになる。錯綜した感情 が亢進するほどに欲望はますます切実に感じられるが、しかしこの対象の魅惑は敵をとおしてもた らされるものである。したがって、主体と媒介と距離が近くなり、敵対関係が激しくなるほど、対 象自体に内在する価値は低くなる。これは、敵に打ち勝って欲望の対象を手に入れたあとに訪れる 失望によって裏付けられる。もはや媒介は存在しないので、欲望も消え失せるのである。 ジラールは、スタンダール・プルースト・ドストエフスキーなどによる諸作品が、このような内

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的媒介との関係による欲望を描いていると論じる。

2.1.3

相互的媒介

ジラールの関心の中心は内的媒介による欲望にある。内的媒介は必然的に相互的媒介となり、人 間関係の諸相をもたらす。また「ロマンティークの虚偽」も、この諸相に関連するものとして論じ られる。 ■欲望の三角形構造の二重化 内的媒介による欲望は、欲望の三角形構造が二重化するために、よ り一層亢進する。すなわち、同じ対象を欲望する敵対関係においては、お互いにとって自分の敵が 自分の欲望の媒介なのである。したがってこのような局面において、欲望は同質的な人々相互の模 倣と敵対意識によって形成される。 ■性的欲望における三角形構造 恋愛において、愛するものと愛されるものとの関係は直線的関係 のように見えるとしても、ジラールは、恋愛における欲望も三角形的欲望の範疇の中に位置づけら れると主張する。すなわち、愛されるものが欲望の対象と媒介との二者に分割されることによっ て、三角形構造が出現するのである。愛されるものは愛するものを模倣して、自分自身を欲望し、 他者への無関心を表現する。愛するものは対象の無関心のうちに自己愛を見抜き、模倣によってさ らに欲望を増幅させる。 ■無関心の役割 以上のように、恋愛において愛を獲得するためには、欲望を自分自身に向け、外 に対して無関心であることが必要である。対象と媒介が一致しない局面においても無関心は必要で ある。自分が欲望をあらわにするなら、他人の欲望を煽り立てるために成功がおぼつかなくなるか らである。したがって、いずれの場合においても欲望の成功のためには欲望の放棄が必要となる。 ■マゾヒズムとサディズム 欲望において常に成功するものは、成功のたびに幻滅を味わう。なぜ なら、敵を打ち倒した瞬間に対象の魅惑は消え去るからである。したがってこのような人は、徐々 に乗り越えがたい障害を、すなわち挫折が運命づけられた欲望へと向かう。これがマゾヒズムであ る。失敗の境遇もまたマゾヒズムを帰結する。乗り越えられない障害は欲望をますます亢進するか らである。 サディズムはマゾヒズムの裏返しとして説明される。すなわち、自分が痛めつけているところの ものに別の場面で痛めつけられる自己を同一視することにより、自己のマゾヒズムを模倣するので ある。

2.1.4

ロマンティークの虚偽

以上に整理された模倣的欲望の構造を、ジラールはロマネスクの作家が明らかにした真実と呼 ぶ。ロマネスクの真実を隠蔽しようとするすべてのものを、ジラールはロマンティークの虚偽ない し主体論的病として告発する。ロマンティークの虚偽という告発は、欲望の構造の中に見出される

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一方で、ロマネスクの諸作品をロマンティークな欲望を描いたものとして誤読するやり方にも向け られる。すなわち、後者は前者に由来するものとされるのである。 内的媒介による欲望の構造において、主体はみずからの欲望が媒介から来たものであることを否 定し、それが自発的なものであることを主張する。これが第一の虚偽である。自己愛と無関心、つ まり欲望のためになされる禁欲も虚偽であり、相互的恋愛もまた虚偽である。 不可能なものである自発的欲望、完全な自律性、相互的恋愛を体現すると自称すること、あるい はそのように装うことがロマンティークの虚偽である。また、そのようなものをはるかに遠い他者 や文学作品のうちに見出し、称揚することもロマンティークの虚偽とされる。カミュの「異邦人」 は絶対的に自己完結的な殺人を描く点でロマンティーク文学の代表とされるが、異邦人の自律性は 実際には不可能なのであって、その強弁には欺瞞がうかがえる。ロマンティークの虚偽にとらわれ た人は、自発的欲望や自律性を崇めたてると同時に、おのれに近しい隣人の内に、あるいは自分自 身の内に目ざとく模倣的欲望の真実を見つけ、これを嫌悪する。

2.2

評価

前述したとおり、『欲望の現象学』は社会心理学であると同時に文芸評論という側面も持ってい る。この二つの面は、少なくとも暫定的には分けて評価されなければならない。ロマネスクの諸作 品に対するジラールの評価は、それらが模倣的欲望の構造を明らかにしているという点にもとづい ているのだから、まずは社会心理学としての欲望論が、つづいて文芸評論として評価されるべきだ ろう。

2.2.1

社会心理学の議論として

模倣的欲望論がフィクションの作品から導かれていることは、社会心理学的論考としては不利な 点だが、しかし実際の社会生活においてもかなりの説明力を持っていることは確かである。そもそ も、ここで論じられた模倣的欲望の諸過程は、目新しいが故にいかがわしいものであるどころか、 われわれが常に隣人の内に、あるいは自己の内に見出して、嫌悪を覚える種類のものであり、つま りこれは身もふたもない真実の暴露である。われわれの欲望や無関心や恋愛がここで描写されたよ うな性格のものであることは、苦々しくも容易に了解できる。したがって、他者が自己とそう大し て変わらないものであると仮定するなら、われわれが他者の内に見出して称揚する偉大な自発的欲 望や自律性もまた、実際には模倣によって駆動されるものであろうこともまた了解できる。 おそらく、ジラールが模倣的欲望の構造を発見するためには、偉大な「ロマネスクの作品」を参 照する必要はなかったのだろう。たとえば、ほとんどあらゆる少女漫画の恋愛劇は、あからさまに 三角関係によって駆動されている。これらの作品はロマン主義的な恋愛を描こうとしているのだ が、その手並みが「異邦人」のような偉大な「ロマンティークの作品」ほどには洗練されていない ために、欲望の構造があらわになってしまっているのである。このような認識は作者にも読者にも

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共有されており、作品の中で冗談として暴露されることすらある。*2 以上のように、ジラールが指摘する模倣的欲望のメカニズムが存在するということは、確度の高 い真実として認められるのであるが、それを展開する議論は必ずしも満足の行くものではない。ま ず第一に、用いられる概念の粒度が粗いために、議論が混乱しているように思われる。たとえば、 模倣的欲望の理論において、二者関係において相手をひきつけるための無関心と三者関係におい て敵を刺激しないための無関心とは、別々の契機と機能を持つものとして描かれるにもかかわら ず、両者ともに欲望の勝利のためのものであるという観点から、性急に同一のものとみなされてし まう。おそらく、外的媒介による欲望を手近なものへの無関心と関連づけることで、二種類の無関 心を有機的に結びつけられるのではないかと考える。騎士道小説の主人公を模倣するドン・キホー テは、内的媒介による欲望によって苦悩する他の登場人物と比べると、比較的に自足しているとジ ラールは論じている。ある種の隣人からすれば、このようなドン・キホーテは高貴で自律的な無 関心の人に見えるだろう。*3これらの点についてジラールを超えて考察することは有用だろうと考 える。 第二の欠点として、模倣的欲望と自然的欲望との関連が不分明であることが挙げられる。すべて の欲望が模倣に発するのではなく、ある種の欲望が自然的なものであることをジラールは認めて いる。 サンチョの欲望のいくつかは、他人から暗示されたものではない。たとえば、チーズの 塊やブドー酒の革袋をながめて湧きおこる欲望といった類いは自発的なものだ。(ジラール, 1971, 3ページ) まず、自然的欲望と模倣的欲望をまったく無関係のものとして論じることが考えられる。この場 合、両者の境界が明確にされなければならない。次に、自然的欲望が社会関係に組み込まれ、模倣 を通じて強化されるという論法が考えられる。ジラールはこの点について立場を明らかにしてい ないが、性的欲望のありようを考えるなら、有望なのは後者の選択肢である。この場合、「ロマン ティークの虚偽」に対する告発はある程度やわらげる必要がある。欲望の自発性が部分的には真実 のものと認められるからである。 模倣的欲望論を社会心理学の理論として読む上で第三の欠点は、『欲望の現象学』が「ロマン ティークの虚偽」を告発しているということである。社会科学の約束事にしたがえば、虚偽の観念 であれ真実の観念であれ、社会的事実である以上は同じように扱わなければならないはずだが、ジ ラールはそのような配慮をせず、あくまで「真実」を描く作家を称揚し、「虚偽」を告発する。議 論のこのような特徴は、おそらく彼自身のカトリック信仰と強い関連があるだろうと考えられる。 『欲望の現象学』においては、「ロマネスクの作品」の直観の正しさを証明するために、それを先駆 *2柊あおい『星の瞳のシルエット』第9巻所収の番外編「お稲荷さん大パニック」は楽しい例である。この小篇では、 登場人物が二人ずつに分身することによって、本篇における救いがたい三角関係の連環がいともあっさりと解決され てしまうのである。 *3実際にジラールは、「ロマンティークの批評」によるドン・キホーテの評価がこのような種類のものであることを指 摘している。

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的に明らかにするものとして、しばしば聖書の文句が引かれている。 最後に、『欲望の現象学』がフィクションの分析に終始していることは、社会心理学の理論とし てはやはり不利な点であり、この点に関しては、実際の社会現象の分析に役立つことを示すことが 課題となるだろう。デュムシェル・デピュイ(1990)はこのような試みのひとつであり、模倣的欲 望論を市場社会の分析に応用した論考である。

2.2.2

文芸評論として

以上のように、社会心理学の議論としての模倣的欲望論は、弱点を抱えており、また洗練の余地 があるとしても、根幹の要素は有用なものだといえる。しかしながら、文芸評論としてはまた別様 に評価される必要がある。そもそも文学作品が虚構を巧みに面白く語るものであるとすれば、その 虚構が嘘であるからといってすぐさま非難されるいわれはないし、嘘を効果的に物語って感動的 な作品を作り上げることができたなら、その腕前によって作者はむしろ評価されるのである。した がってこの分野においても、「虚偽」を告発するジラールのやり方には疑問符がつく。 たとえばメルヴィルの『白鯨』は、圧倒的な驚異であるところの巨鯨モービー・ディックに復 讐しようとする船長と彼の捕鯨船が、宿命的な破滅へと落ち込んでいく物語であるが、モービー・ ディックの偉大さと、この巨鯨に対する暗い情熱が、「ロマンティークの虚偽」であることは明白で ある。この作品から一世紀以上を経た現在では、人間と鯨との拮抗関係は人間の圧倒的優位へと転 換してしまっているために、鯨が比較を絶する脅威であるようなことはもはやあり得ないし、『白 鯨』の時代においてもまた、鯨の側がある程度以上人間に対抗できるという力関係の拮抗によって、 実際には相対的な脅威があったのにすぎないのである。しかし、このように虚偽が明らかになった 現在においてなお、『白鯨』は感動的な作品であり続けている。その反対に、ジラールがロマネスク の代表的作品として評価するフロベールの『ボヴァリー夫人』は、それが確かに人間の欲望の凡俗 な真実を明らかにしているとしても、あるいはそれゆえに、苛立たしい退屈を読者に引き起こす。 もちろん上の見解は「ロマンティーク」の見解に他ならないが、それは文学の領域に固有の判断 基準なのである。このように、文学の領域を現実世界から独立した特権的な領域とみなすのであれ ば、ジラールの議論はまったくの的外れということになる。しかしもちろんジラールは、このよう な特権性を承認しないだろう。

2.3

聖暴力論への寄与

本稿の主要な分析対象は、『欲望の現象学』からおよそ十年を経て刊行された『暴力と聖なるも の』以降の著作において展開される、宗教的なものと暴力との関係に関する議論である。この関心 の範囲において、本章で整理した模倣的欲望論の意義は以下のとおりである。 まず第一には、模倣的関係によって社会心理学を構成することの有効性を示したことが挙げられ る。欲望と闘争が模倣から生じるという仮説は、人間の見えざる本質や傾向のようなものを強く仮 定せずに、おそらく誰もが了解できるだろう模倣という契機のみを前提し、その上で、単純な二者

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あるいは三者関係の中で模倣が行われることによって、欲望と闘争が現象として立ち現れるのだと 説明する。したがってこの仮説は、きわめて簡潔に構成されているという利点をもっている。くわ えてこの仮説は、上述したように、一見すると相互に無関係と見えるようないくつかの現象を同時 に説明できる。これらの利点のゆえに、模倣的欲望の社会心理学は、近代社会にとどまらず広い範 囲に適用できるだろうと期待できる。ジラールの聖暴力論はそのような試みであり、模倣的欲望は 彼の暴力論の主要な契機となっている。 第二の意義としては、模倣的欲望論がロマンティークの虚偽を分析することによって、宗教にお ける聖なるものの特徴を先駆的に述べたことが挙げられる。後に見るように、宗教における聖なる ものもまた、ロマンティークの虚偽と同じように、模倣的欲望の真実の姿を隠蔽するものとして描 かれる。両者はよく似た構造と特徴を持っており、暴力の系譜の分析が文化一般におよぶと、ほと んど同一のものとなる。 第三に、模倣的欲望論においてはジラールの議論の特徴があからさまに現れているため、聖暴力 論における方法を把握し、評価するための手がかりとなる。文学者の直観の重視やテキストへの信 頼は、聖暴力論においてももっと慎重なやり方で、しかし同じように現れる。虚偽の告発とカト リック信仰は、『暴力と聖なるもの』においては表舞台から退いているが、『世のはじめから隠され ていること』以降の著書では強化された形で再登場する。

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聖暴力論の整理

宗教と暴力に関するジラールの議論においては、供犠すなわちいけにえの儀礼が、模倣としての 暴力によって説明され、この供犠のメカニズムこそがすべての宗教的なもの、すなわち神話や儀礼 などの中心にあると論じられる。また、供犠によって構成された聖なるものの運動は、人間文化一 般を形作っているのだと論じられる。 ジラールの聖暴力論は、模倣的関係を基本的要素として展開されるという点において、前章で概 説した模倣的欲望論と共通している。また、模倣的欲望が引き起こす争いは、暴力論の重要な一部 分をなしており、構成上のつながりも密である。ただし、議論の範囲は個人における欲望から文化 一般へと、大きく拡大している。 本章では、『暴力と聖なるもの』の流れに沿って、宗教と暴力に関するジラールの理論的仮説を 概観する。神話の役割についての議論は『身代わりの山羊』において詳しくなされているので、こ れらの話題については主に『身代わりの山羊』を参照する。本章の意図は理論の枠組を整理するこ とであり、立論の位置づけや方法に関する言明については、基本的には触れない。これらの問題は 第4章および第5章で扱う。ただしジラールの宗教論は、知的な領域における宗教の論じられ方ま でをも供犠のメカニズムによって説明しており、いわばメタ理論的へといたる射程をもっている。 このような側面については、本章の中で概略されなければならないだろう。

3.1

供犠の機能

ジラールの考察の大前提は、復讐が復讐を呼び起こし、共同体を破滅に追いやるような再帰的暴 力状況という観念である。宗教現象は、このような危険を回避するための方策として説明される。 議論のとりかかりに注目されるのは、多くの社会の宗教的儀礼の中に見られるいけにえの儀礼、す なわち供犠である。供犠は、暴力を無害な対象に発散させることによって危険な暴力状況を避ける 方策と位置づけられる。 ■暴力状況の脅威 原始的共同体は常に暴力の危機にさらされている。共同体の内部で暴力がふる われると、それは血の復讐を引き起こす。復讐の暴力はさらなる復讐を呼ぶ。したがって暴力は、

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きっかけが何であれ、一度生ずるやいなや社会全体をその渦に巻き込み、破綻させる。 ■暴力の代償作用 そして暴力はしばしば、「本来」ふるわれるべきであった相手の代わりに、単 に暴力をふるい易いというだけに過ぎない手近な対象に矛先を変えることがある。 ■供犠の機能=代償による暴力状況の回避 供犠とは、共同体の破綻を回避するために、暴力を沈 静化させる機能を持つものと考えられる。すなわち、暴力の代償作用を利用して、その矛先を無害 な人間や動物に向けることによって復讐の連鎖を断ち、共同体内部の暴力の種を解消することを目 的にするのである。 ■禁忌の機能=遠ざかることによる暴力状況の回避 法体系を持たない未開社会において、暴力を 収拾することはきわめて困難なので、人々は暴力を引き起こすものから遠ざかり、触れないように することによって暴力を回避しようとする。これが穢れたものや聖なるものを忌避すること、すな わち禁忌の意味合いである。 ■穢れの浄化としての供犠 しかし穢れを完全に避けることはできないから、何らかのかたちで穢 れを潔めることが必要である。それが供犠の役割であり、すなわち暴力をいけにえに集中すること で蓄積した穢れ、すなわち暴力の種を解消するのである。

3.2

差異と暴力

暴力状況は共同体の中の差異の秩序が崩壊した状況として説明される。供犠の目的は、いけにえ に暴力をふるうことによって差異の秩序を維持することにある。しかしながら、供犠もまた暴力な のだから、行き過ぎれば相互的暴力状況の引き金を引きかねない。したがって、供犠の体系は適度 に調整された暴力を用いることで暴力を回避する技術であるとされる。 ■いけにえの特質 いけにえにはいくつかの適性が要求される。まず、暴力の代償作用が働く程度 に共同体の成員に類似していなければならない。同時に、誰をいけにえにするべきか決定するため に、いけにえの候補を見分けられるようにする差異もなければならない。このため、人間がいけに えにされる場合、その候補は捕虜や障害者、時には王のように、共同体から逸脱した特殊な人物で ある。また、このようなあぶれ者は復讐の義務を負うような近親者を持たないため、共同体は報復 の連鎖の危険を免れる。 ■供犠の恣意性 共同体の成員といけにえとの差異は、大きすぎても小さすぎても暴力を誘発する 危険が増大する。ズレが大きすぎれば供犠は暴力を沈静化できないし、小さすぎればむしろ報復を 引き起こし、暴力の起爆剤となりかねない。したがって、供犠の暴力とそうでない暴力の差異は微 妙で恣意的なものである。 ■無差異化としての供犠の危機 浄化をほどこす供犠の暴力とそうでない穢れた暴力との区別がつ かなくなるとき、もはや暴力はおしとどめられないものとなる。供犠が無力化することで共同体を

(16)

暴力が席巻するとき、あらゆる文化的差異、すなわち階級、親族関係、禁忌などの秩序が崩壊する。 すなわち、供犠の危機と差異の崩壊は同義であり、いずれも秩序の崩壊をもたらす。このために、 未開人は暴力と同様に差異の消失を恐れる。ここでは、自然的な差異と社会的な差異との区別はな されない。双生児への特別視と恐怖はこれによって説明される。すなわち、そもそも兄弟は社会的 に区別することが難しいために相互間に争いが生まれやすいのだが、双生児の場合にはなおさらそ うだからである。

3.3

暴力的満場一致と贖罪のいけにえ

考察は供犠から離れ、暴力状況が到来してしまった時に、それを最終的に収拾する贖罪のいけに えのメカニズムへと移る。贖罪のいけにえとは、暴力状況の最終段階において、混乱についてのあ らゆる責任を負わされて、殺されるか追放されるかする存在である。供犠のいけにえと贖罪のいけ にえの関係についての論考は、3.4以降の項で要約する。 ■模倣的状況としての暴力状況 暴力状況は模倣が支配する状況である。すなわち、「やられる前 にやれ」、「やられたらやり返せ」の論理によって、争いあう者同士が互いを模倣しあっているので ある。激しい暴力の模倣は、さらに激しい模倣をもたらす。結果として供犠の危機においては、傍 から見ればあらゆる者が似たもの同士、すなわち分身になる。 ■満場一致の準備 しかし、このような救いがたい模倣の蔓延が、逆説的に贖罪のいけにえのメカ ニズムによる秩序回復の前提となる。災厄を引き起こした責任の所在について、ほんの些細なきっ かけによってであれ、だれかひとりに疑念が持たれると、ただちにそれは模倣によって共同体の全 員に共有される。模倣によって互いの疑念が互いを正当化し、疑念は確信に変わる。 ■疑念の中身 共同体が危機におちいったのは、誰かが禁止に違反した、すなわち罪をおかしたた めに、秩序が根本的に踏みにじられ、差異が無化されたためだろうと考えられる。あるいはそもそ も禁止とは、そのような危機を防ぐために設けられているのである。 ■満場一致による殺害 いまやすべての災厄の責任はこの特定の人物にあると、当人をのぞいた全 員が一致する。共同体に暴力を引き込んだのは彼である。災厄に巻き込まれたほかの全員は、彼に 対して憎悪、そして暴力を集中する。この贖罪のいけにえは殺されるか、あるいは痛めつけられて 追放され、共同体には平和がもたらされる。平和がもたらされたという事実が、さきの確信を正当 化する。彼が禁止に違反し、罪をおかし、したがって災厄を招いたのである。たとえば『オイディ プス王』において、オイディプスは親殺し・王殺し・近親相姦の罪をおかし、テーバイの街に災厄 を引き入れたたものとして追放される。

(17)

3.4

宗教の起源と機能

つづく課題は、贖罪のいけにえとのかかわりで供犠の起源を説明することであり、同時にあらゆ る宗教現象の起源と機能を明らかにすることである。すなわち、供犠は原初的殺人を模倣すること で贖罪の一致のメカニズムを反復するものであり、神話は原初的殺人の事実を、満場一致の観点か ら歪んだ形で記録するものだと説明される。ここでジラールは、自らの仮説が実証科学の名に値す るものとなるためには、供犠の発生が経験的事実として説明されなければならないとし、そのよ うな事実を確定することができるという作業仮説の元に議論を組み立てている。『暴力と聖なるも の』はどちらかといえば儀礼についての記述に比重を置いているが、神話については『身代わりの 山羊』において詳しい議論がなされる。したがって、神話の形成と機能については『身代わりの山 羊』を主に参照する。また、『身代わりの山羊』においては贖罪のいけにえを指すために「犠牲の 山羊」という言葉が多く用いられる。この言葉には原初の殺人と儀礼との間にジラールが設けた区 別をあいまいにしてしまうという欠点があるが、直感的であるという利点ももっているため、明ら かに誤解を生じないだろう範囲では用いる。 ■満場一致の殺人と宗教的なものの発生 宗教的なもの、すなわち神話や儀礼の起源に、歴史的な 事件があったとするなら、それは強烈な印象を与えるある事件、すなわち供犠の危機に続く満場一 致の殺人と、それによる秩序の回復だったはずである。共同体における宗教的なものの機能は、供 犠の危機の最後の段階に起こった贖罪のいけにえのメカニズムを持続し、反復的に再現することに よって共同体の秩序を維持することにある。 ■贖罪のいけにえと供犠 贖罪のいけにえとの関連で、供犠についてあらたに共同体のレベルでの 説明が与えられる。すなわち、供犠は共同体の危機から満場一致の暴力へといたるプロセスを模倣 し再現しているのである。したがって儀礼のいけにえは、原初の殺人における贖罪のいけにえの身 代わりの役割を果たしている。この事実を裏付けるように、実際の儀礼においては、共同体の成員 みなが闘争状態に入り、何かをきっかけにその暴力の矛先がいけにえへと向けられ、全員がいけに えに殺到してこれを打ち殺す、というパターンや、それが変形したパターンが多く見られる。 ■禁忌の発生と機能 禁忌も贖罪のいけにえのメカニズムと関連付けられる。すなわち、秩序が回 復されたからには、再度ふたたび共同体に危機が訪れないために、暴力状況を招来したきっかけと みなされるものすべてに接近することが禁じられるのである。 ■神話の発生と機能 神話は、共同体の危機から満場一致の暴力による殺人・追放にいたる一連の 事件のプロセスを記憶するために語られるものである。ただし、そのプロセスを文字通り客観的な 形で描写するのではなく、犠牲の山羊にすべての災厄の責任があるという、贖罪のいけにえのメカ ニズムにおける満場一致の見解にもとづいて語る。このような性格から、神話は3.6に示すような 仕方によって、次第に変形される。

(18)

3.5

畸形の分身としての怪物

3.4において、暴力的満場一致が宗教の行動様式を発生する過程が論じられた。つづく課題は、 暴力的満場一致がどのようにして可能になるかを明らかにすることである。ジラールはこれを、模 倣的欲望の理論を用いて説明する 『暴力と聖なるもの』第六章においてジラールは、『オイディプース王』や『バッカイ』などのギ リシア悲劇、および叙事詩『イリアス』などを材料として仮説を導き出す。この仮説は、材料と なったギリシア悲劇や叙事詩ときわめて強く関連して論じられているので、以下この項では、適宜 これらに触れつつ議論の整理を行う。 ■争いにおける欲望 相互的暴力の状況を分析するためには、勝利によって獲得されるだろうもの を説明の手がかりにすることはできない。なぜなら、暴力によって獲得されるものは、あまりにも しばしば不毛なものだし、多くの場合獲得されたとたんに魅力がなくなってしまうからである。ま た、暴力へ導かれる人間の本能によって説明することも不適当である。暴力の本能を仮定すること は、問題を別の言葉に置き換えることにしかならないどころか、暴力を特権視することによって説 明されるべからざるものへと棚上げしてしまう。それにそもそも、動物については暴力を回避する 機制が本能と呼ばれるのだから、人間についてのみ暴力そのものを本能と呼ぶのは一貫しない態度 である。 ■模倣的欲望と相互的変転 したがって、争いにおける欲望は、模倣的欲望の理論によって説明さ れなければならない。争いの当事者たちは、模倣によって互いに似たようなものとなる。このよう な状況では、一時的な栄光や勝ち誇りが、ほとんど似たような分身である当事者の間で次々と受け 渡される。栄光は一時的で不毛なものだが、しかし人々はこれを決定的な勝利と誤解して追い求め る。このような状況においては、あらゆる差異が速いテンポで繰り返し設定しなおされる。3.2で みたような無差異化の状況とは、実際にはこのように、差異の絶え間ない引きなおしによって、一 定したものが何もなくなってしまう状況である。 ■外部の視線と内部の視線 争いの当事者は、敵と自らとが決定的に異なっており、それゆえに対 立しているのだと考える。これに対して、争いを外から眺める者にとっては、無差異化状態を見極 めることはたやすい。すなわち、自分が争いの当事者でない限りは、争っている者同士がほとんど 似たような分身であることは明らかに見て取れる。それゆえに外部の人は、実際には差異などない ことを示すことによって、争いを調停することができると考える。たとえば『オイディプース王』 において、テーバイの街の外から来たオイディプース、クレオーン、テイレシアースは、いずれも 自分が疫病を癒すことができると思い込む。しかしながら、ひとたび調停に乗り出すと、瞬く間に 彼は争いの只中に巻き込まれ、自らが当事者になってしまう。したがって、争いは外部の叡智に よって収められることはない。無差異化の争いの中に内在するメカニズムによってはじめて収拾で きるのである。

(19)

■畸形の分身としての怪物 危機が激化するにつれて、あらゆるものの変転運動が加速する。ある 臨界を越えると、あまりにも変転が激しいために、もはや自分と敵とをわかつ差異ではなく、すべ ての差異において分割されるはずの領域が重なり合ったなにものか、つまり、Aであり同時にA˜、 Bであり同時にB˜ であるような存在が感覚されるようになる。これがすなわち怪物であり、神性の 一要素である。怪物は、争いの様相をあらわにしたもの、ただし幻覚的な形で、畸形の存在として 現れたものである。怪物を、このようにして分析しようと試みることは有益である。なぜなら、怪 物の妄想を単なる無意味な想像の産物と切り捨ててしまうことは、その神秘性を受け入れてしまう ことと同様だからである。 ■満場一致の暴力と平和の回復 畸形の分身としての怪物は満場一致の暴力を準備する。なぜな ら、怪物は絶対的に異様な他者として現れるから、争い合っていた人々は、もはや自分たちの間に 争うべき理由としての差異はないということを確認できる。したがって、暴力はもはや相互にふる われるのではなく、この絶対的に異様な怪物に対してふるわれる。怪物とみなされる犠牲の山羊に すべての災厄の罪責が負わされ、これが排除されることによって平和が回復する。すなわちこれが 満場一致の暴力による贖罪のいけにえのメカニズムである。 ■怪物と神性 平和が回復されたいまとなっては、すべての災厄が追放された怪物のせいであるこ とが明らかになった。したがって、この怪物は災厄をコントロールする能力をもつと考えられる。 災厄を共同体の内に招き入れることができるのだから、そうしないことによって、災厄を押しとど めておく肯定的な力も持っているのである。ここにおいて、怪物と神とが同じ聖なるものとしてひ と続きのものとなる。罪と汚辱にまみれたオイディプスはテーバイの災厄の責任者であるが、ス フィンクスを退治することによって街を救った英雄でもある。ディオニソスはわけの分からないも のが混合した畸形の怪物であると同時に神でもある。アポロンは肯定的な色彩の強い神だが、遠矢 を射ることによって悪疫を引き起こす神でもある。

3.6

神話の文法と聖なるものの変遷

ジラールによれば、儀礼が贖罪のいけにえのメカニズムを、身振りと行動によって比較的素直に 再現するのに対して、神話は言葉の上でことの成り行きを大きく変容させ、暴力を押し隠そうとす る。また、原初的暴力から時代がくだるにつれて、神話は倫理的要求を満たすために変形をこうむ り、それにともなって犠牲の山羊=怪物=神の表象もまた変容する。これらの変容のあり方につい ては、『身代わりの山羊』において詳しく展開される。ここでジラールは、中世ヨーロッパにおけ る迫害に関する文献との対比によって、原初の暴力を記録するテキストとしての神話を論じるのだ が、この対比の妥当性については5.3で検証する。

(20)

■神話の常套形式 神話は差異の危機から満場一致の暴力へといたるプロセスを満場一致の観点か ら記録するものであり、したがって以下のような常套形式によって構成されている。*1 1. 差異の消滅としての危機 2. 差異を消滅させるような犯罪 3. 犯罪の下手人の目印 4. 暴力 たとえばオイディプスの神話はこれらの図式のすべてをはっきりと示しているが、はっきりと分 かりにくい神話も、これらの基本図式の変形として解読することができる。 ■犠牲者の理想化 神話が語られるのは平和が回復した共同体においてである。したがって彼らに は、神話の中で最悪の犯罪者として描かれ、危機の責任を負わされる犠牲者が、社会秩序を構築し たように見える。この逆説的な事実は後世の人を悩ませるため、神話に敬意を払いつつも矛盾を払 拭する努力がなされる。たとえばプラトンは、神々がきわめて反道徳的な性格をもっていることに ついて嘆き、神々の反道徳的性を和らげ、押し隠そうと提案している。このような変容の段階があ る程度すすむと、暴力的満場一致における犠牲者は、犯罪者の地位から力ある神々の地位へと転倒 する。いまや肯定的な性格の存在となった犠牲者は、そもそもの危機の引き金になったとされる犯 罪についても免責されるようになる。たとえばそれは単なる過失であったとか、悪気のないいたず らであった、というようにである。 ■暴力の抹消 いまや贖罪のいけにえは神となったのだが、このままでは不都合がある。すなわ ち、犠牲者を殺害した原初の共同体は、秩序の源泉となったという意味で倫理的に理想的なものな ので、この共同体に神殺しの汚名を着せるわけにはいかないからである。したがって、犠牲者の犯 罪がないものとされるのと同時に、満場一致の処刑も隠されなければならない。神の死は完全に削 除されるのでなければ、それが殺人ではなく自発的な自己犠牲であったように語られたり、*2意図 によらない偶然の事故死であるように語られるようになる。あるいは、完全に無罪で理想的な神々 のかたわらに、完全に有罪であるような神々あるいは悪魔が生まれ、神の死についての責任が負わ されるようになる。*3このようにして、もともと渾然一体とした性格を負わされていた怪物的犠牲 者は、善の表象と悪の表象へと徐々に分離されていく。この過程にともなって、そもそものはじめ にあった危機的状況についての語られ方も変容し、差異の消滅した状況はしばしば、分け隔てのな い友愛に満ちた理想的なユートピアとして語られるようになる。 *1ジラール(1985, 37ページ) *2その例として、ジラール(1985,5)において、アステカ族の太陽と月の創造神話が取り扱われる。 *3ジラール(1985,6)では、北欧神話における例としてバルデルの死の逸話を取り上げている。この神話では、ロ キの悪だくみによって、バルデルの盲目で無力な弟が、まったく無邪気な遊びの中で、まったく意図せずして兄を殺 してしまう。

(21)

3.7

聖なるものの系譜

以上に要約された各章において、ジラールは基本的には未開社会の宗教において働く供犠のメカ ニズムのモデルケースを論じている。しかしこのような供犠のメカニズムは、一見そうとは見えな いような多くの事象、宗教的と考えられるものから、そうとはみなされないものまで含むあらゆる 事象の中で働いていると論じられるのである。すなわち、人間文化を供犠の系譜として描くことが 彼の最終的な目的である。このような主題は主に第十章以降で議論されるが、必ずしも体系的にま とまった形で論じられるのではないし、問題の大きさに比べて記述の量も充分ではない。したがっ てこの項では、重要と思われるいくつかの主題について、大幅に整理しなおして触れることとする。

3.7.1

儀礼の単一性

ジラールは、あらゆる宗教的な儀礼が供犠のメカニズムを背後に持っていると論じる。 ■死者儀礼 死者に対する儀礼はほとんど供犠と同じようなものである。ここでの危機は死と生の 間の差異であって、いけにえの儀礼と同様の過程が行われることによって危機が鎮められる。同様 に、死者に対する崇拝は神々に対する関係と同じである。 ■通過儀礼 人が成長して社会的身分を変えるということはひとつの変化であり、差異の喪失に対 する恐怖を呼び起こす。したがって、身分の変化にはなんらかの工夫が必要である。典型的な通過 儀礼においては、成人になろうとする青年は一度共同体から追放され、まったくの不安定な状況に 置かれる。彼に触れることは禁止される。ついで彼は新しい身分をもって共同体に復帰するが、身 分を失う瞬間と新たに得る瞬間は明確に区別される。一連の過程の機能は、共同体の中での差異の 消失を防ぐことであり、そのために通過儀礼では、いけにえの儀礼と同様に、満場一致の暴力の模 倣が行われる。通過儀礼の特殊な機能は、原初の暴力を繰り返し思い出させる教育的効果である。

3.7.2

文化の一元性

供犠のメカニズムは宗教的と普通に呼びならわされるものにとどまらず、社会のあらゆる領域を 支配しており、西欧近代社会もその例外ではないと論じられる。 ■戦争 チュピナムバ族の人肉食として知られている事例においては、戦争の結果として連れて来 られた捕虜は、しばらくの間共同体の中で親密な、しかし特殊な仲間として生活する。かなりの長 期間を経たあと、彼は脱走や盗みといった罪を次々と犯すように強いられ、その罪責のために殺害 され、食われる。これは内部の暴力を外部に移すという意味で典型的な供犠である。しかもこの暴 力の移動は戦争にともなって起こっている。同様にしてあらゆる戦争は、暴力の外部への移動とい う目的を達成するための、複数の共同体の合作による供犠とみなすことができる。

(22)

■法体系と自由な近代社会 われわれの社会は少なくともあからさまには供犠を持っていないにも かかわらず、相互的暴力によって全面的な破局に瀕することはない。この新たな事態は、復讐の合 理的な体系としての刑法によって可能になる。刑法は報復をそれ以上引き起こすことのない絶対的 な暴力であり、供犠による予防よりもずっと大きな治癒力を持つ。したがって、法体系の成立した ところでは供犠は衰退する。われわれの自由であけっぴろげな社交は、暴力の恐怖から解放された ことではじめて可能になったのである。しかし、法体系それ自体もまた供犠に起源を持っている。 すなわち、死刑が供犠の延長であることは明らかである。 ■王権と中央集権 王権もまた供犠に起源を持っている。アフリカにおける宗教的神聖君主制にお いて、王がいけにえであると同時に供犠者であるのと同様の構図は、近代王制にいたるまで存続し ている。そしてこのメカニズムは、中央集権を基礎づけるものでもあるかもしれない。

3.7.3

知の領域における聖なるもの

供犠のメカニズムは文化として外的に現れたもののみならず、思考それ自体をも基礎づけている のであり、宗教について語ることが困難である理由はそこにあると論じられる。 ■象徴的思考の起源 象徴的思考は原初の殺人というひとつのできごとに起源を持つ。満場一致の 暴力によって平和がもたらされたあと、その奇跡を永続するために作られたものが神話であり、儀 礼であり、親族体系であり、すなわちすべての文化的な差異の秩序である。思考を可能にするこの ような差異の秩序は、恣意的にもうけられたものではあるが、しかしすべての科学的真実の認識を ももたらしたものでもある。 ■悲劇と神話 神話は、3.4において触れたように、贖罪のいけにえのメカニズムを差異の視点か ら、怪物を強調して語るという機能を持っている。すなわち、神話においては真実は覆い隠されて いる。これに対してギリシア悲劇は、たとえば「オイディプス王」のように、神話において隠され ていた相互的争いをあからさまにすることで、いくらかその真実を見やすくしている。 ■宗教研究における供犠のメカニズム 近年の宗教研究は、宗教の根源的意味の探求は不毛であり それを問うことは科学的な態度でないとして、問題自体を放棄しようとしている。しかし、このよ うな態度は宗教の領域の特権性を承認し、神話をそのままに保持することなのだから、宗教の虚偽 それ自体と同一である。

(23)

4

宗教研究としての議論の位置づけ

『暴力と聖なるもの』が出版された1972年は、C.レヴィ=ストロースが『野生の思考』などの著 書で構造主義人類学を提唱したあとの時期である。このような時期にあって、『暴力』のように宗 教の根源的意味や起源について再び論じることは、ジラール自身が言及しているように、一見する と時代遅れのように思える。したがって、彼の議論を単なる時代遅れとして切って捨てるのでなけ れば、宗教研究史においてどのように位置づけられるべきかを見定めることが必要だろう。 ジラールは『暴力』において、レヴィ=ストロースの研究の意義を高く評価している。その上で 彼は、自らの議論が構造主義人類学の理論をさらに精緻化するものであり、またその成果を利用し て宗教に関する伝統的な問題領域、すなわち『今日のトーテミスム』においてレヴィ=ストロース が廃棄したような諸問題を再び論じなおすものであると主張している。 仮説の正否は別として、議論の位置づけに関しては、ジラール自身の言い分はほぼ正当であると 考える。議論の射程の大きさからして、その全体について明確な位置づけを与えることは困難だ が、原始宗教の研究という点に限定するなら、構造主義をふまえた上での、宗教機能論、起源論の 再論と位置づけられるべきだろう。以上のような見方に立って、本章では、まず『暴力』の議論が レヴィ=ストロースの論点をどのように継承しているかを整理する。つづいて、伝統的な宗教機能 論、起源論との関係を見るために、E.デュルケムの『宗教生活の原初形態』との比較を行う。

4.1

構造主義との関係

ジラールは『暴力と聖なるもの』の中で、レヴィ=ストロースの構造主義人類学の理論、特に親 族関係論をみずからの理論と関連づけて論じるためにひとつの章を割いている。レヴィ=ストロー スに対する評価はかなりはっきりしている。すなわち、レヴィ=ストロースの発見は正当であり、 画期的なものだが、まだ充分に展開されておらず、その理論自体が要請するところにしたがって、 いっそう精緻なものにしなければならない、というものである。この姿勢は、以下のように要約さ れている。 目下われわれがしようとしていることは、基本的家族についてのレヴィ=ストロースの批

(24)

判を、レヴィ=ストロース自身が進めていった地点より、いっそう先に推し進めることなの である。(ジラール, 1982, 359ページ) したがって、以下本項では、『構造主義人類学』中の各論文を中心にしてレヴィ=ストロースの理 論を簡単に整理し、それに対するジラールの姿勢を要約する。

4.1.1

レヴィ

=

ストロースの理論の簡単な整理

レヴィ=ストロースは人類学*1の課題を、歴史学と相補するものとして定義する。すなわち、両 者ともに「われわれが現に生きている社会とは 別、 の社会を研究する」、 (レヴィ=ストロース, 1972, 21 ページ)ものであり、対象、目標、方法においても一致しうるが、「歴史学は社会生活の意識的な表 現との関連でデータを整序し、民族学は無意識的諸条件との関連でデータを整序する」(レヴィ=ス トロース, 1972, 23ページ)という点において区別される。 その上で、人類学の領域で未開社会の無意識的表現の分析を行うために、彼は言語学の、特に音 韻論の方法を導入する。音韻論の対象は言語現象の無意識的下部構造である。それは各々の音素を 独立したひとつの実体として取り扱うのではなく、音素と音素との間の関係に着目し、その体系と 一般的法則を明らかにしようとする(レヴィ=ストロース, 1972, 39ページ)。このような音韻論の 方法は、社会科学の枠内において例外的に洗練されているがゆえに、他の領域においても導入が試 みられるべきだと主張される。この試みは、母方の伯叔父と甥との関係の問題を、「基本的親族関 係」のひとつの要素として説明する分析において、まずは実現される。すなわち、多くの未開社会 において伯叔父と甥との間柄は父と息子との間柄と対称関係にあり、一方に親密な態度が見られれ ば他方の間柄は畏怖に支配されている。レヴィ=ストロースは、いくつかの社会における親族関係 の比較を通じて、この問題がそれ自体の微細な分析によって説明されるのではなく、父と子、甥と 伯叔父、夫と妻、姉妹と兄弟という四つの間柄それぞれの関係の中に体系的に位置づけられるべき であることを示している(レヴィ=ストロース, 1972, 45–58ページ)。

4.1.2

ジラールとレヴィ

=

ストロースの比較

ジラールは構造主義人類学の成果をほとんど全面的に受け入れる。その理由は、それが差異を見 定め、構造を明らかにすることによって、物事をはっきりさせるから、つまり仮説体系として優れ ており、しかもその正しさをかなりの程度検証できるからである。したがって、ジラールの理論自 体も構造主義人類学の影響を強く受けている。すなわち、社会秩序を差異の観点から捉えようとす るのである。ただしその際、レヴィ=ストロースは差異的構造が生み出すものに注目するのに対し て、ジラールはそれが暴力の危機を避けるために導入されるものであることに注目する。ジラール 自身は、近親相姦の禁止と親族構造の分析においてこの相違を表明している。すなわち、レヴィ= *1レヴィ=ストロースは「人類学」と「民族学」の両方の単語を用いているが、これらはほぼ同義語とみなしてよいだろ うと考える。人類学教育に関する論文の中で、彼は人類学と民族学との関係を、前者が後者を総合するものと位置づ けているが(レヴィ=ストロース, 1972, 395ページ)、すべての論文でこの区別が厳密に適用されているわけではない。

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