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神話テキストを論証の材料とすること

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第 5 章 方法論の検討 27

5.3 神話テキストを論証の材料とすること

神話のテキストを歴史的事実についての論証の材料とすることの妥当性については、方法論への 批判に対する反論という形で、『身代わりの山羊』の中で詳しく論じられている。神話についての

ジラールの基本的な認識は、3.6に要約したように、差異の危機から原初的殺人へといたる歴史的 事件の過程を、変形された形で記録したテキスト、というものである。しかしながら、多くの神話 について、満場一致の暴力は直接的に読み取ることはできないのだから神話がそれを記録している ということは少なくとも自明ではない。しかも、神話はさまざまな文化圏においてさまざまな意匠 をとって現れるのだから、それらがみな同様に満場一致の暴力を記録しているのだとみなすことに は疑問が生じる。したがって、ジラールの議論が妥当であるとみなされるためには、この点でさら なる正当化の必要がある。この課題に対して『身代わりの山羊』では、中世ヨーロッパにおけるユ ダヤ人迫害や魔女狩りに関するテキストとの比較をとおして、神話の背後にも中世における迫害と 同様に実際の迫害事件が想定できると主張される。したがって本項では、神話の史実性とそれを史 料として用いることの正当性についてのジラールの主張を整理し、その上で、それが妥当なものと みなせるかどうかを検討したい。

5.3.1

神話と迫害文献との形式的な対比

ジラールはまず、神話と中世ヨーロッパの迫害文献とが形式の上で同様の特徴をもつものとみな せるため、迫害文献を史料として扱えるのであれば、神話も同様に史料として扱うことが許される はずだと論じる。この議論のためにまず引き合いに出されるのは、14世紀中頃のフランスの詩人 ギョーム・ド・マショーの長詩『ナヴァール王の審判』である。ジラールによれば、この長詩は冒 頭においてペストの惨禍とユダヤ人の迫害について言及している。

空にしるしがあらわれる。石が雨のように降り注ぎ、生あるものたちを叩きつぶす。雷が いくつもの町を完全に打ちこわす。ギョームの住まっていた町―――彼はそれが何という町な のかを語ってはいないが―――でも、多数の人間が死んでゆく。そのうちいくつかは、ユダヤ 人とキリスト教信者の間にもいた彼ら[引用者註:ユダヤ人たち]の仲間たちの悪意に満ちた 仕業のせいである。彼らはどんなふうにして、町の住民に広範な害を及ぼしたのだろうか。

河や飲水を供する泉に毒物を投げこんだのだ。点の正義がこれらの悪行の張本人が誰である かを明らかにしてくれたので、住民は彼ら[ユダヤ人たち]を皆殺しにし、秩序が戻ってき た。しかしながら、あいかわらず人びとは死んでゆき、その数はふえる一方だった。それは、

ある春の日、ギョームがとおりで音楽と男女の笑い声を耳にするときまでつづいた。こうし て一切の災難が終り、宮廷風恋愛詩の世界がまた戻ってくる。(ジラール, 1985, 1–2ページ) まず前提として、一連の災禍の実際のことの成り行きがどのようであり、また詩人の記述のうち で歴史的な真実でないものはどの部分であるかは明らかである。すなわち、ペストが街に襲いかか り、社会全体が暗黒のうちに叩き込まれた。ひとびとは疑心暗鬼におちいり、この災厄の責任者を 捜し求めた。結局ユダヤ人たちが犯人としてつるし上げられ、虐殺された。もちろん、泉に毒物が 投げこまれたなどということは事実に反する不当な言いがかりにすぎない。

事実とそうでないものは、詩人の記述の中ではごちゃまぜになっている。というのは、泉の毒と いう言いがかりを中世の詩人が信じているからである。しかしながら現代人は、一連の記述の中の

事実とそうでないものを容易に、おそらくはかなり正確に弁別できる。このような弁別が可能に なったのは、現代の歴史家がユダヤ人迫害にかかわる多くの文献を比較してその図式を明らかに し、同時に頻発するユダヤ人迫害の実態も明るみに出たからだ、と論じられる。

したがって迫害文献は以下のような形式的特徴を持っている。暴力について述べられているのだ が、その記述は殺害者の共同体の観点から歪められている。事実が正しい形で述べられていないに しても、それらを比較検討することで背後にある迫害の実態についてほぼ正しい認識を得ることが できる。迫害文献はつぎの常套形式を持っている。*2

1. 差異の消滅としての危機(ギョームにおいてはペストの病渦)

2. 差異を消滅させるような犯罪(泉の毒)

3. 犯罪の下手人の目印(ユダヤ人)

4. 暴力(ユダヤ人の虐殺)

このような文献から、現代の読者は以下のような事実を認識できる。*3 1. 暴力は現実にふるわれた。

2. 危機は現実に存在した。

3. 犠牲者はほんとうに罪をおかしたのではなく、犠牲者たるべき目印を持つがゆえに選ばれた。

4. 迫害は、犠牲者に責任を押しつけることで危機が去るよう働きかけるためになされた。

ジラールによれば、歴史家はこのような迫害文献の形式を多くの社会と時代に見出している。し たがって、この図式が普遍的なものだとするなら、民族学が対象とするような社会にも同様の文献 を見出すことができるはずである。神話こそがそれに該当するものであり、3.6で要約したように 迫害文献の常套形式を踏んでいる、というのがジラールの主張である。それが正しいとすれば、直 接言及されていない暴力の実態を、歪められた記述を比較検討することであぶり出すことができる ため、神話は史料としての価値を持つことになる。

5.3.2

神話と迫害文献との内容的な対比

以上のように神話と迫害文献は同様の形式的特徴を持ち、両者とも迫害の事実を歪められた形で 述べている、というのがジラールの主張である。二種類の文献の相違は、神話においては3.6に整 理したように犠牲者が聖なるものと化しているのに対し、迫害文献においてはあくまで憎しみが優 越しており、基本的に聖化が見られない、というものである。

しかしながら、ジラールによればこの相違は程度の問題であり、中世ヨーロッパの迫害において も犠牲者の聖化は弱い形で見出すことができる。ギョームの文献のいてユダヤ人はペストについて 責任を負わされているが、しかし同時にユダヤ人の医師は病気を治す能力において優れているとみ なされ、高い名声を得ている。これは彼らが実際に高い能力を持っていたというよりも、聖なるも

*2以下の箇条書きは3.6に挙げたものと同様で、ジラール(1985, 37ページ)に由来する。

*3ジラール(1985, 37ページ)

のの残存としてとらえるべきである。*4魔女裁判は魔女を邪悪なものとして告発するのだが、その 一方で魔女は有用な魔術を用いることができる。また神話における怪物が人間と動物の入り混じっ た相貌を持っているのと同様に、魔女に対しても山羊をはじめとする動物に変身するという嫌疑が かけられた。*5

形式上の一致に重なるこのような内容上の一致により、神話と中世ヨーロッパの迫害文献は遠く 連続するものとみなすことができる。したがって、迫害文献を歴史的資料として用いることは正当 であるのだから、それと連続するものである神話を史料として用いることもまた正当であり、また 必要なことだ、というのがジラールの立場である。

5.3.3

神話の史料性

以上にまとめた神話の史料性についてのジラールの考えは、明らかに循環論的である。すなわ ち、暴力的満場一致という歴史的事実の歪曲された記録として神話を扱うことによって、それを比 較することで語られるところの事件を見定めることができ、したがって神話が歴史的事実を記録し ていることがはっきりする、というのである。多くの神話の中に暴力の直接の表象が見出されない のは、3.6に要約したような神話の変容の過程によるとされるが、しかしこの説明もまた神話が上 記のような性質をもつテキストだという前提の上に成り立っている。つまり史料の確かさが理論を 根拠とし、その史料によって理論が裏付けられているのである。

ただし循環論は必ずしも常に許されないのではない。最高度の懐疑精神にとってはあらゆる物事 が不確かなのだから、言葉によって構成される理論は言葉の不確かさを捨象するがために循環論的 であるし、理論が経験的世界に言及するものであれば、経験的世界を概念的世界へと取り込む際の 観測の確かさが前提されているがために循環論的である。このようにしてあらゆるものを疑うとい うことは、疑う対象と疑わない対象との間に区別を設けないという点においてなにも疑わないこと と同様であり、科学的な態度ではない。したがってある理論の方法の妥当性について合理的な判断 を下すためには、その確かさについてある程度妥協し、循環論をある程度許容しなければならない。

もちろんジラールの方法論に対する疑念はこれほど極端で不合理な懐疑精神の例には該当しない が、それでも上の考察からはジラールにとってある程度有利な結論が引き出される。まず、神話を 史料として扱うことは明らかに手続きとして確立していないのだから、それに対して疑念がもたれ るのはもっともなことである。しかしながらこのような方法論の不確実さは、ジラールの理論その ものが基本的には未開拓の領野に踏み込もうとするものだという事実に由来している。一般に、あ たらしい領域でものごとを論じるためにあたらしい方法を用いることは、場合によっては不可欠の ことだと考えられる。したがって、ある方法を採用することについては、合理的な正当化がなされ るのであれば受け入れられるべきであり、それにもとづいて展開される理論の真偽と一体のものと して改めて評価されるべきだろう。ジラールの例についていうなら、彼は神話を史料として用いる ことについて、『身代わりの山羊』において充分な正当化を行っていると判断してよいだろう。微

*4ジラール(1985, 74–75ページ)

*5ジラール(1985, 78–79ページ)

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