• 検索結果がありません。

仮説の強度の検討

ドキュメント内 i (ページ 46-66)

第 6 章 評価と批判 39

6.2 仮説の強度の検討

前項において、ジラールの聖暴力論の基本的な諸点には宗教現象についての説明可能性があるこ とを確認した。しかしながら、そのような説明可能性は理論を構成する個別の要素を正当化するも のではない。したがって今度は、理論に内在してその仮説の強度を検討しなければならない。以下 の考察はスキュブラ(1986)、デュムシェル(1986)、松谷(2007)によるジラールの理論に対する批 判的分析を参照している。

個別の論点に入る前に、まずジラールの理論の特徴と本稿の課題について確認しておきたい。

3.7で指摘したように、ジラールの聖暴力論は基本的に未開社会の宗教を解明することに焦点が絞 られている。近代社会については、その構成要素が宗教に端を発するとされるのだが、それらがま とまって論じられることはないし、国家への暴力の集中や知識の偏在のような重要な諸点について も触れられない。このことは、単に言及されなかったというよりも、ジラールの理論が内在的な理 由によって、これらの論点を扱う能力に欠けているのだと考えられる。そうでなければ、文化につ いての一般的理論を自称する彼の議論が、近代社会をおざなりにしか扱っていないことを説明でき ない。本稿の課題は、ジラールの聖暴力論の有効範囲を吟味し、それがどのようにして現代社会の 分析に適用できるかを探ることにあるのだから、この問題点について留意した上で考察が進められ なければならない。

6.2.1

聖暴力論の構成の特徴

松谷はジラールの議論において「暴力が実体論的にではなく関係論的に究明されている」*3とい う特徴を指摘する。すなわち暴力は、主体の本能や無意識的衝動といったものによって説明される のではなく、複数人の模倣的関係から演繹されるのである。このことは暴力の問題に限らずジラー ルの議論の全体に関してあてはまる特徴であり、自身もその原則をしばしば宣言している。*4

議論が関係論的に構成されていることは彼の議論の長所だといえる。ある現象に関してその実体 が存在すると断言してしまえばそこから先に議論は進まないが、現象が関係によって構成される

*3松谷(2007, 270ページ)

*4たとえばジラール(1982, 228ページ)では、暴力の本能や欲動といった実体論的な用語は何も説明しないのであっ て、そのメカニズムを押し隠すがゆえに神話的である、としている。

とすれば、その関係についてさらに分析することができるからである。たとえば究極的にはかりが たく深遠で、論じるべからざる実体とみなされる聖なるものは、ジラールの理論においては暴力の 関係において構成されるものとされ、それについて議論することができるようになる。しかしなが ら、議論のすべてを関係によって埋め尽くすことはできない。模倣的欲望論において、あらゆる欲 望を模倣によって分析しようとする試みが成立していないことは2.2.1において指摘した。暴力に おいても、それが代替的な対象で満足するという代償作用については、関係を構成する要素として 前提されている。にもかかわらず、あらゆるものが関係によってのみ説明できるとするジラールの 傾向は、彼の議論に以下で考察するような弱点を招いていると考える。

6.2.2

供犠と贖罪のいけにえの区別の問題

ジラールは供犠と贖罪のいけにえとの間の区別を強調する。供犠のメカニズムは贖罪のいけにえ のメカニズムを模倣するが、それは暴力を抑制することを目標とするので、原初の贖罪のいけにえ のメカニズムにおけるような共同体の危機を招かない、というのである。すなわち、贖罪のいけに えは共同体の身代わりであり、儀礼のいけにえは、贖罪のいけにえの二次的な身代わりだとされ る。したがって、贖罪のいけにえと儀礼のいけにえの間には、その資格においても違いがある。贖 罪のいけにえが共同体の中から任意に、偶然的に選ばれるのに対して、供犠のいけにえは暴力の誘 発を防ぐために共同体の周縁から連れて来られる。

しかしながら、この区別は明らかに不自然だ。第一に、贖罪のいけにえと供犠のいけにえの中間 的な形態はいたるところに見出せる半面で、このように区別される限りでの純粋な贖罪のいけにえ も、また純粋な供犠のいけにえも見出すことはできない。第二に、このような区別が不可能である ことはジラール自身の理論から演繹できる。

まず、贖罪のいけにえの典型例として論じられるオイディプスについて見ることにしよう。オイ ディプスが贖罪のいけにえとなったのは決して偶然によるのではない。彼は王であり、よそ者であ り、共同体の周縁に位置しているからこそテーバイを叩き出されたのであるとジラールは論じてい る。また、ジラールはアフリカの諸地域における聖なる王の儀礼とオイディプスとの類似を指摘し ている。これらの王はあらゆる汚辱にまみれた犯罪を犯し、とりわけ近親相姦を犯し、そのことに よって告発される。ただし供犠において殺されるのは王自身ではなく、身代わりの動物である。ま た、王位の継承は親子あるいは兄弟の間の儀礼的闘争をともなう。しかしこの闘争は時として現実 のものと区別できなくなる。

結末がもはやモデルによって規制されていない争いの現実の姿の中で、儀礼と、それが 歴史的なものの中で崩れていったものとを区別することは不可能である。(ジラール, 1982, 173ページ)

『身代わりの山羊』で例に挙げられる中世フランスのユダヤ人迫害もまた、供犠のメカニズムと 贖罪のいけにえのメカニズムの中間的な形態といえるだろう。迫害は自然発生的に、非形式的に行 われるという点で贖罪のいけにえのメカニズムの要件を満たしている。しかしユダヤ人に暴力が集

中されることは、決して偶然的なことではない。ユダヤ人は、社会の周縁に位置するために、危機 の際に暴力が集中されるべき対象としてあらかじめ選び出されている存在である。したがってユダ ヤ人は、供犠のいけにえの要件をも満たしているといえる。

クラストル(1987)は、南アメリカのいくつかの社会において、シャーマンが人々によって殺さ れることがあると述べている。

彼を医者たらしめる能力、すなわち生命を誘発しうる能力はまた、死を支配することを可 能にする。シャーマンは人を殺すことができる。この意味でシャーマンは危険で人を不安に させる存在であり、人々は彼を常に疑っている。生とともに死を支配するものとして、あ らゆる常軌を超えたできごとはシャーマンの責任に帰せられ、しばしば人々は恐怖の余り シャーマンを殺すのだ。(クラストル, 1987, 177ページ)

この事例は基本的にはジラールの理論を裏打ちするものである。集団の危機・無実の罪による集 団的殺害・犠牲者の聖なる力・聖なる力の二面性などの要素が確かに現れている。しかしながら、

この事例を完全な供犠のメカニズムあるいは完全な贖罪のいけにえのメカニズムのどちらかに配 置することはできない。暴力は自然発生的だが、犠牲者は偶然に選ばれるのではない。また、犠牲 者の聖なる力は、危機が亢進した最後の瞬間に現れるのではなく、日常においてすでに見出されて いる。

これ以上例を並べる必要はないだろう。両者の区別は明らかに微妙で、流動的なものである。ジ ラール自身が、このような中間形態の存在を、留保という形ではあれ認めている。

たとえ自然発生的な暴力とその宗教的な模倣の間には無数の中間形態があるにしても、そ してそうした宗教的模倣しか直接的に観察することができないにしても、創始的なできごと の現実の存在を肯定しなければならない。(ジラール, 1982, 500ページ)

供犠のメカニズムと贖罪のいけにえのメカニズムが区別されるべきだという主張に関連して、ジ ラールは、原初の贖罪のいけにえに要求される資格と供犠のいけにえに要求される資格は異なるも のであると言っている。すなわち、贖罪のいけにえは共同体内部のもので、供犠のいけにえは共同 体外部のものでなければならないのだという。

実際の例においてこのような区別があいまいであることは既に示した。贖罪のいけにえ・供犠の いけにえともに、完全な内部あるいは外部というよりも、共同体の周縁部に見出されるのである。

ジラール自身の議論からも、このあいまいさの必然性を演繹することができる。供犠の機能に関す る議論の中で、ジラールは再三このことに言及している。供犠のいけにえの候補者は共同体の縁辺 部に見出される(『暴力と聖なるもの』、19ページ)。供犠がうまく働くためには、共同体の成員と いけにえとの間に類似が作り出さなければならないが、あまりにも両者が近づくならかえって暴力 を誘発してしまう(62–63ページ)。「供犠の暴力と、供犠でない暴力の間の差異は決して絶対的な ものではない。すでに見たようにその差は、恣意的要素を含んでいる」(65ページ)。これらの記 述は、供犠のメカニズムと贖罪のいけにえのメカニズムとの間に区別を設ける主張と対立する半面 で、さきほど列挙したような中間的形態のいけにえの例とうまく適合する。したがって、この区別

ドキュメント内 i (ページ 46-66)

関連したドキュメント