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井上円了と新渡戸稲造 : 田学と地方学を中心に (【退職記念号】 佐藤 俊一 教授 三沢 元次 教授 盛岡 一夫 教授) 利用統計を見る

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井上円了と新渡戸稲造 : 田学と地方学を中心に (

【退職記念号】 佐藤 俊一 教授 三沢 元次 教授

盛岡 一夫 教授)

著者名(日)

佐藤 俊一

雑誌名

東洋法学

53

3

ページ

313-341

発行年

2010-03-01

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00000741/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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︽特別寄稿︾

井上円了と新渡戸稲造

   −田学と地方学を中心にi

はじめに 一、円了と稲造の略歴 二、円了と稲造の共通項の比較 三、円了の田学と稲造の地方学 むすびに はじめに

佐 藤

俊 一

 二〇〇八年は、東洋大学の学祖である井上円了の生誕一五〇年にあたる。学長室は、それを記念し、学生達に改 めて学祖・円了の多面を知ってもらうと同時に、ともに円了を語る談話会﹁カフェ・エンリョウ﹂を設けた。その 第一回は二〇〇八年七月の山田利明副学長による﹁哲学館と井上円了の精神﹂で、第二回は九月の米山正秀副学長 による﹁幽霊・妖怪の世界と井上円了lM.R.ジェイムズとの対比﹂、第三回は一二月の松尾友矩学長による 313

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﹁創作格言にみる井上円了の教育理念﹂となった。二〇〇八年に副学長に就任していた私は、私にもオハチが回っ てくるのではないかと内心ハラハラしていた。というのは、正直、これまで学祖・円了の著書は全く読んだことが なかったからである。  しかしながら、いずれはオハチを受け取らざるをえないと思い、円了を調べることにした。そこで、円了が哲学 館の運営資金を得るために全国を巡回して講演を行い寄付を募ったことは知っていたので、私の専門分野である地 方自治の観点からその全国巡講が素材になるのではないかと考えた。早速、東洋大学が出版した円了選集の﹃南船 北馬集﹄に眼を通したところ、円了が田学︵デンガク︶なるものを提唱していることが分った。新渡戸稲造がそれ と類似するような地方学︵ヂカタガク︶を提起していたことは知っていたので、両者の異同を明らかにすることは 話題提供になるのではないかと思い、改めて両者の著書や関連文献に当り始めた。  こうして両者に眼を通すと、意外にも田学と地方学の提唱という類似性の他に、両者には比較に値するといえる 共通項が幾つかあることに気づいた。まず円了と稲造とも、幕末にかけて生まれた他の知識人と同様に明治維新後 の啓蒙王義の影響を受けつつ、単に近代化に満足しない思想家であったことである。しかし、そうした広義の共通 項だけではなく、円了は仏教徒、稲造はキリスト教徒という宗教人であり、また円了は︵仏教︶哲学者で、稲造は 農政学者や農業経済学者でもあること、それに両者とも教育家、とりわけ修身・修養を重視する社会教育家であっ たことである。  私は、二〇〇九年六月の第四回﹁カフェ・エンリョウ﹂において、円了と稲造のそうした共通項を比較しなが ら、両者が提唱した田学と地方学とは何を意味し、その異同について話題提供した。本稿は、その談話をより拡 大・緻密にしたものである。ただ、新渡戸稲造はともかく、井上円了については仏教や東洋大学関係者以外、世間 314

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的にはほとんど忘れられているといってよい。そこでまず、円了を中心に両者の略歴1これは両者の同時代性と人 間関係を明らかにすることにも欠き得ないことであるーを見ることから始めることにする。         ︵1︶ 、円了と稲造の略歴  円了は一八五八︵安政五︶年に現在の新潟県長岡市に、稲造は一八六二︵文久二︶年に現在の岩手県盛岡市に生 まれた。ともに長岡藩と南部藩という賊軍の地に誕生したわけである。しかし、重要なことは、両者とも﹁明治維 新を遂行した﹃天保生れの青年﹄世代にかわって、また自由民権運動をになった﹃明治の青年﹄第一世代︵徳富蘇        ︵2︶ 峰の用語︶にかわって、⋮一八六〇年代生れの明治青年の第二世代﹂に、あるいは福沢諭吉や加藤弘之などの        ︵3︶ ﹁天保期︵一八三〇年代︶生れの世代に代る新しい世代﹂に属していることである。この同時代性こそが、円了と稲 造の比較基盤となる。というのも、この第二世代は自由民権運動の挫折期と重なりながら、各人の生き方も分化す       ︵4︶ ることになったが、第一世代と通底する﹁民権期に深く身内に蔵したようなナショナリズム﹂を共通基盤にするか らである。  さて、円了は、一八六八︵明治元︶年、一〇歳から蘭方医・石黒忠恵の塾で漢学を学ぶのだが、一六歳には新潟 学校第一分校︵旧長岡洋学校、現県立長岡高校︶で洋学に転じた。この石黒の長男・忠篤︵農商務官僚、農商務大臣︶ は、柳田國男︵農商務官僚、民俗学者︶とともに、後に稲造の自宅において一九一〇︵明治四三︶年に創設した郷土 ︵研究︶会のメンバーであった。それについては後述することにして、円了は真宗大谷派の慈光寺の長男に生まれ たこともあって、一九歳の時、全国から選抜された英学科生として京都東本願寺の教師学校に入学し、翌年には東 315

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本願寺の留学生として東京大学総理であった加藤弘之のアドバイスにより東京大学予備門に入り、一八八一年︵明 治一四︶年に東京大学文学部哲学科に入学した。在学中、円了は哲学研究会を立ち上げ、西洋哲学の視点から仏教 を見直すとともに、一八八四︵明治一七︶年に哲学会を創設した。メンバーには、後に国粋主義・日本主義を唱導 するため一八八八︵明治一二︶年に結成された政教社の同人となる三宅雪嶺︵雄二郎︶と棚橋一郎がいた。  東京大学を卒業した円了は、宗教的教育事業に従事することを目標にしたことから、陸軍軍医総監になっていた 石黒忠恵による文部官僚への推薦を辞退し、また東本願寺への復帰も固辞した。そして、学校の講師をしながら、 哲学や仏教の著作に専念し、一八八六︵明治一九︶年以降には﹃真理金針﹄﹃仏教活論序論﹄﹃哲学一夕話﹄の出版 によって社会的評価を得るとともに、一八八七︵明治二〇︶年には念願であった哲学普及のための私立学校哲学館 を現在の文京区湯島の麟祥院で開設した。続いて、翌一八八八︵明治二︸︶年には前述した政教社結成に参じると ともに、杉浦重剛、志賀重昴らの同人が﹁海外における体験とその文化の摂取・批判に裏付けられた日本主義者で   ︵5︶ あった﹂ことから、円了も第一回の欧米外遊に出立した。  一八八九︵明治二二︶年、帰国した円了は、哲学館を日本主義の大学へと発展させることに着手し、教育勅語が 発布された翌一八九〇︵明治二三︶年には大学開設資金と地方民の啓蒙活動のために全国巡講を始めた。途中、一 時休止した時期もあったが、この巡講は円了が一九一九︵大正八︶年に中国の大連において客死するまで続けられ       ︵6︶ た。この間、一九〇二︵明治三五︶年には著名な哲学館事件が惹起した。しかし、一九〇三︵明治三六︶年の専門 学校令の公布により哲学館は私立哲学館大学として認可され、校舎を現在の文京区白山に移転した。そして、円了 は、学長に就任するとともに、国民の倫理・道徳の向上を図るため、今日でいう社会教育・生涯学習にあたる修身 教会運動に着手し、まさに全国を﹁南船北馬﹂する巡講によって多くの地方民に接した。しかしながら、大学の在 316

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り方をめぐる学内講師・学友との確執から、円了は一九〇六︵明治三九︶年に学長等を辞任し、哲学館大学は私立 東洋大学へ改称した。そして、円了は、中国の大連において客死するまで修身教会︵後に国民道徳普及会︶運動の ための巡講を続けた。  次に、円了より四歳年少の稲造の略歴であるが、一八七七︵明治一〇︶年、一六歳の稲造は東京外国語学校から 札幌農学校に第二期生として転じた。祖父が南部藩領の三本木原の開墾事業に成功し、父もそれを継承していたこ とが背景にあったといえそうだ。それはともかく、同期生には、一八九〇︵明治二三︶年、教育勅語への礼拝を拒 んだ不敬事件や絶対的非戦論者として著名な内村鑑三、稲造の﹁小伝﹂を書いた宮部金吾らがおり、稲造は彼らと        ︵7︶ ともに翌年、洗礼を受けてキリスト教徒になった。なお、円了とともに政教社の同人で、三宅雪嶺︵雄二郎︶とと もに国粋主義・日本主義を領導した志賀重昴は、札幌農学校の第四期生であった。  さて、稲造は、札幌農学校を一八八一︵明治一四︶年に卒業すると開拓使御用掛を拝命したが、一八八三︵明治 一六︶年には職を辞して東京大学に入学した。二一二歳であった。それは、﹁日本の長所を西洋に教へ、西洋の長所 を日本に輸入する橋渡し﹂をしたいことと、﹁日本にはまだ形がととのってゐない農学と云ふ学問を起したい﹂た       ︵8︶ めだったという。しかし、大学への不満から翌一八八四︵明治一七︶年には退学し、アメリカとドイツに留学し た。そして、一八九一︵明治二四︶年に帰国し、出身校である札幌農学校教授に就任する。ところが、心労から神 経衰弱になり、農学校を辞して静養のために渡米した。この間、﹃農業本論﹄﹃農業発達史﹄とアメリカで冨dω田− UO9を執筆・出版する1邦訳の﹃武士道﹄は一九〇七︵明治四一︶年に出版されるー一方、後藤新平・台湾総 督府長官の熱心な勧誘により、一九〇一︵明治三四︶年に台湾総督府の官吏となった。  一九〇三︵明治三六︶年には、台湾総督府嘱託を兼任する京都帝国大学法科大学教授に、一九〇六︵明治三九︶ 317

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年には第一高等学校校長に就任し、現在の文京区小石川に居を構えた。そして、一九〇九︵明治四二︶年には東京 帝国大学法科大学教授に就任するとともに、一九一〇︵明治四三︶年には前述したように自宅で柳田國男や石黒忠 篤らと郷土︵研究︶会を立ち上げた。翌一九一一︵明治四四︶年には、日本で最初に選出された日米交換教授とし て渡米し、各地で講演を行い、帰国後は一校校長を辞して東京帝大教授に専任した。そして、一九一八︵大正七︶ 年には東京女子大学の初代学長に就任したが、一九一三︵大正二︶年に一校校長を退くまで将来、官僚や学者とな る若い世代に大きな影響を及ぼした。例えば、前田多門︵内務省︶、青木得三︵大蔵省︶、鶴見祐輔︵鉄道院・鉄道 省︶、金井清︵学者︶、森戸辰男︵学者︶、吉野信次︵農商務省︶、河合栄次郎︵農商務省・学者︶、川西実三︵内務省︶、 三谷隆信︵内務省・外務省︶、矢内原忠雄︵学者︶、田中耕太郎︵内務省・学者︶、南原繁︵内務省・学者︶、膳桂之輔          ︵9︶ ︵農商務省︶などである。  ところが、第一次世界大戦の終了とともに国際連盟の創設が始まり、日本にも一人の事務局次長の選出が求めら れたことから、後藤新平伯爵の推挙により、一九二〇︵大正九︶年、国際連盟の事務局次長に就き、以後七年間、 スイスのジュネーブにあった。しかし、一九二六︵昭和元︶年には事務局次長を辞して貴族院議員になる一方、 一九二九︵昭和四︶年には毎日新聞社編集顧問、太平洋問題調査会理事長、太平洋会議議長の役職に就いた。そし て、一九三三︵昭和八︶年、カナダのバンフで開催された第五回太平洋会議に日本代表として出席したが、会議終 了後に病魔に襲われ、一〇月に円了と同じように客死した。享年七二歳であった。 318

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二、円了と稲造の共通項の比較  既に述べたように、円了と稲造はともに﹁明治青年の第二世代﹂として幾つかの共通項を有していた。そこで、 共通項ごとに両者を比較し、両者の異同を明らかにしてみよう。  第一に、両者はともに学者・研究者であり、第二に、宗教家であった。﹁明治青年の第二世代﹂論を展開した色       ︵10︶ 川大吉は、稲造を宗教家としてのみならず学者としても扱っている。実際、略歴で見たように、彼は農政論や農業 経済学等の研究者として官学の講壇に立っていた。他方、円了も哲学者あるいは仏教哲学者であった。後述するよ うに、稲造を折衷主義思想家と捉えた哲学者の鶴見俊輔1ー前記した稲造を師とした鶴見祐輔の息子ーは、また        ︵n︶ 円了を﹁西洋哲学の方法をもって仏教の学説の改良と体系化を計﹂った学者として扱っている。ただ、円了は、官 吏へのポストを棄てて教育研究活動に乗り出した時の初心を次のように語っていた。﹁それ余は赤貧多病、もとよ り権勢の道に狂奔して営利を争ふの念なく、殿誉の問に出没して功名をむさぼるの情なく、ただ終身随巷に潜んで        ︵12V 真理を楽しみ、草茅に座して国家を思ふの赤心を有するのみ﹂と。このように官を忌避し、生涯、民に徹した。そ うした官の忌避という態度は、後述する政教社同人の多くに共通するものであった。これに対し、稲造は略歴で見 たように官吏として出発し、次いで官学を講じつつ官吏を兼任し、円了とは対照的にいわば権勢の道を歩んだので ある。  次に、円了が哲学的仏教徒であったことは、彼が真宗派仏門の家に生まれたことを背景にしていたといえるのに 対し、稲造は何故にキリスト教徒になったのかは分らない。しかし、この点においても両者は対蹟的であった。す なわち、円了はキリスト教を批判し排撃したのに対し、稲造は他宗教に寛容であった。それは、次に起因してい 319

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た。  円了においては、学問と信仰は一体化していた。彼が仏教哲学者として社会的評価を得ることになった﹃真理金 針﹄︵一八八六年、明治一九年︶は、キリスト教批判論と仏教擁護論の著書であった。そこで円了は、キリスト教の       ︵B︶ 天地創造説は進化論と両立しない等、一一項目にわたってキリスト教を批判する。これは﹁近代科学の法則に合致       ︵14︶ するか否かという⋮一見啓蒙思想の主知主義の外装をまとっ﹂た批判であるとされる。誠にそうであった。 というのも、本意は仏教の復興、近代化と天皇制国家の擁護にあったからである。そのための続く﹃仏教活論序 論﹄︵一九八七年、明治二〇年︶の﹁緒言﹂では、かく宣べる。﹁余が仏教を助けてヤソ教を排するは、釈迦その人 を愛するにあらず、ヤソその人をにくむにあらず。ただ余が愛するところのものは真理にして、余がにくむところ のものは非真理なり。今、ヤソ教は真理としてとるべからざる成分あり。仏教は非真理として捨つべからざる元素 あり。これが余があくまでその一を排しその二を助くるゆえんなり。﹂そして、既成仏教が﹁無学無識、無気無 力﹂の僧侶のもと衰滅状況にあることを﹁余が大いに慨嘆するところにして、真理のためにあくまでこの教を護持       ︵15︶ し、国家のためにあくまでその弊を改良せんと欲するなり。﹂       ︵16︶  これは、さらに﹁人だれか生れて国家を思わざるものあらんや。人だれか学んで真理を愛せざるものあらんや﹂ という﹁護国愛理﹂論に凝縮される。こうして円了は、国粋主義・日本主義を掲げる政教社の同人となる。ただ、 護国と愛理は表裏一体といえども、仏教の真理を愛することが日本人として国家を護ることになるわけだから、円 了のナショナリズムは原理主義の色彩を帯びるといえる。だから、政教社結成の直後の欧米への外遊から帰国した        ︵17︶ 後には、キリスト教と国家を一体化して欧米国家をそのものを敵視することになる。ここに、後述するように、円 了は政教社の他の同人と微妙な相違を示すことになるのである。 320

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 他方、稲造の他宗教に対する寛容性は、彼の折衷主義思想の基軸をなす修養論にあった。稲造にとっても信仰と 学問はある意味で一体的であった。しかしながら、彼にとって学問の目的、広義には教育の目的は、職業選択、道 楽︵高尚な趣味︶、社会的装飾、真理探究、人格修養と複数あり、その中で﹁最大且つ最高の目的は、恐らく此の人      ︵18︶ 格を養ふこと﹂であるのだ。そして、青年が人生において志を立て、それを実現する1研究・教育はそのための 手段とされる  には、社会関係すなわち人間と人問との水平的な横の関係のみならず、垂直的な﹁人間以上のも のと︵の︶関係﹂すなわち﹁縦の空気をも吸ふ﹂ことが大切なのである。そこで、稲造にとって﹁人間以上のも        ︵19︶ の﹂とは、キリスト教に限らず﹁仏教の世尊でも、阿弥陀でもよい、神道の八百万の神でもさしつかえない﹂とす るのである。こうして、他宗教に寛容になるのである。  第三の共通項は、ともに教育家・社会教育家であることだ。円了には、﹁仏教哲学ないし哲学の研究者としての        ︵20︶ 側面と、この研究成果を教育・啓蒙家として実践する側面﹂があるとされるが、もちろん稲造もそうした二側面を 有する。しかし、稲造は文字通り︵社会︶教育家といってよいが、円了の場合はそれ以上の︵社会︶教育事業家と いえるのである。  さて、円了は、教育の目的には個人レベルと社会レベルがあるとする。そして、社会の存立において教育が成り 立つものであるがゆえに、﹁吾人はただ利己のみの心ありて一意これを達せんするも、かえってその目的を達成す るにあたわず、社会のために尽しつつ己の欲望をも達することをはからざるべからず。故に自己を発達せしむると 同時に社会をも発達せしめざるべからず。⋮しかれども、この二つの目的は全然相隔つものと思惟すべから        ︵21V ず。畢土見二にして一、一にして二なるものなり﹂とする。しかも、かの﹁護国愛理﹂を実現するには、教育と宗教 を振興することが急務であるという。﹁すなわち、国家よりいえば教育を振起せざるべからず、真理よりいえば仏 321

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護国 教育 国家  これに対して、 た。その場合、修養とは修身と養神から成り立ち、 することであり、 養論の背景には、 る。すなわち、上からの家族国家観に基づいた忠君愛国の国民教化運動ーまさに円了の修身教会運動は、 ら分るようにこれであったーと、 義の展開、その中間に東洋的道徳思想に根拠を置きつつ、 ﹁修養団﹂や西田天香の ヒューマニズムの興隆である。 らゆる種類の思想学説、    教を再興せざるべからず。しかれども教育もこれを学問上より研究するには真理と関係し、      ︵22︶    有する﹂のである。こうして円了は哲学書院を興し、哲学館を創設︵哲学館大学から東洋大    けでなく、隠退後はキリスト教の日曜教会に対抗するがごとく、﹁国民道徳のおおもとたる    教育勅語の聖旨を開達敷街﹂するため、町村寺院などを拠点とする修身教会︵後には国民道    たることがみられる。  稲造における学問・教育の最高目的は、前述したように、まさに個人レベルでの人格修養にあっ       修身とは身体を鍛錬して動作または志の行く所を誤らぬように       ︵璽︶  養神とは自己の精神を覚醒させ正道を誤らぬように養育することであるとする。稲造のかかる修  実は、日露戦争後から大正時代にかけて大正デモクラシーのもと次のような状況があったとされ       前述か          大正期にかけて知識階級の問に普及した西洋ヒューマニズムに基づいた教養主        必ずしも西洋の思想や宗教などを排しない蓮沼門三の     ﹁一燈園﹂、田沢義鋪の天幕講習会、伊藤証信の無我愛運動など民間の、下からの土着      ︵25︶        そうした中で、鶴見俊輔が適切に、稲造の修養論は、﹁各個人の人格を軸とし、あ     あらゆる種類の経験から自在に養分を吸収できるように、その人格を準備するすじみちを 理 愛宗教もこれを実際上に応用するには国家と関係するをもって、図のごとく相互密着の関係を 教  学へ︶し・さらに京北中学・京北幼稚園を開設、そして隠退後は哲学堂を建設した。それだ 宗 理 真  徳普及会︶運動を展開したのであ麗・ここに・円了の︵社会︶教育事業家としての面目躍如 322

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       ︵26︶ つくる方法を説く﹂ものであると要約していることが示すように、民間の土着ヒューマニズムの折衷主義と類同的 である。  しかし、稲造の修養論が民間の土着ヒューマニズムと異なる点は、個人と国家との相似的関係をとる国体論1ー 再び鶴見によれば、﹁現実の日本国家の制度を軸とし、それがあらゆる種類の先進国の最新の智恵をとりいれて国        ︵27︶ 民大衆の信用をつなぐにたるような政策として実行にうつす方法を説く﹂ーとセットになっていたことである。 かくして、︵社会︶教育家としての稲造の教育は、略歴で見たような学者とともに開明的なエリート官僚を輩出さ せることになったのである。  これに対して、︵社会︶教育事業家としての円了に対する評価は厳しい。例えば、哲学館講師を勤め、政教社の 同人であった三宅雪嶺︵雄二郎︶は、円了の死に際し、円了は﹁学問の才と経営の才を兼ね、人の着手せざる方面       ︵28︶ を開拓せるも、往々学問と経営との板挟みとな﹂ったとする。そして、﹁井上氏が大学をでてから数年間の活動振 と云ふものは、前後幾多の卒業生中にも敢えて追随する者有るを見ぬ所、其れ以来の事業として挙ぐるに足るべき ものは、之れ多くは隠退後に属するものと見て然るべし﹂とか、﹁其の一生涯の事業は実に著るしいものである。        ︵29︶ 然れど、彼の才識及其の精力とを以てしても而も此辺に止まった事は、或は遺憾とすべきであらう﹂とする。  最後に、第四の共通項は、以上の共通項を貫徹するものといえる広い意味での啓蒙思想家であることだ。それを 言い換えると、円了と稲造とも、前節の冒頭で述べた明治青年の第一世代と通底する﹁民権期に深く身内に宿した 宿命のようなナショナリズム﹂を共通基盤にしていたことである。  既に述べたように、円了は、一八八八︵明治二一︶年に三宅雪嶺、志賀重昴、杉浦重剛らとともに政教社を結成 した。その同人には、哲学館系と東京英語学校︵札幌農学校︶系からなり、円了をはじめ官僚にならず、あるいは 323

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      ︵30︶ 官途を辞した者が多かった。結成の趣旨は、鹿鳴館時代と称される時の政権の欧化主義を批判し、日本の国民性の 自覚とその歴史・伝統・文化の独自性を主張する国粋主義・日本主義を啓蒙することにあった。そのために、雑誌 ﹃日本人﹄と新聞﹃日本﹂︵主筆・陸渇南︶を発行した。そこで注意を要することは、この国粋主義・日本主義は、 後年昭和期の国粋主義や国家主義とは相違していたことである。その第一は、独善的・非合理的な民族主義に陥る ことがなかったこと、第二は、偏狭な欧米文化の排外主義を伴うものでなく、常に国際的な視野を失うことがな かったこと、第三に、現実を直視し、正しい現実認識に基づいて政府の在り方を考えようとする着実な視点を有し ていたことである。だから、彼らはナショナリストとして富国強兵を追求はするが、それは決して中央・上からで       ︵3 1︶ はなく地方・下からの視点によっていたとされるのである。  円了の﹁護国愛理﹂論は、まさに政教社の趣旨に沿うものであったし、そうであるがゆえに、円了は結成の積極 的メンバーでもあった。しかし、前述したように、その結成直後に出達した第一回の欧米外遊から帰国すると、円 了は欧米諸国とキリスト教を一体化して排外主義的論調を強めるのである。だから、政教社の国粋主義・日本主義 は、前述した特色が示すように健康的で﹁開明的ナショナリズムであったが、三宅雪嶺、志賀重昴、陸錫南にくら        ︵3 2︶ べて、井上円了の場合はより保守的であ﹂り、﹁円了と他の三者の思想には本質的に異なる面がみられる﹂とされ るのである。実際、外遊から帰国した円了には、﹃日本人﹄への掲載論文がほとんど見られなくなるのである。そ して、一八九四︵明治二七︶年の日清戦争の勃発にあたり、円了が﹃戦争哲学一斑﹄を公刊して戦争の哲学的正当       ︵3 3︶ 化を試みたことは、国家主義への道を掃き清めたとされるのである。  他方、稲造については、彼を以て﹁福沢精神の後継者と呼ぶを揮らない。なぜかといへば、最も典型的な”啓蒙          ︵3 4︶ 的自由主義者”だった﹂からであると捉えられたりしている。しかし、鶴見俊輔は、それだけでなく福沢諭吉と新 324

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東洋法学第53巻第3号(2010年3月) 渡戸稲造を明治の折衷主義思想家の正統派と捉えている。  そもそも、鶴見は修正主義と折衷主義を区別する。修正主義とは、一つの思想に自己を結びつけるという行為が あり、その上で自己をとりまく状況に対して働きかけて行くことから新しく学びとった智恵をもとにして既に学習 した思想を修正することである。これに対して、折衷主義とは、一つの思想流派に自己を結びつけるという行為が なく、むしろ考える主体あるいはその働きかける状況を中心として思想を構成することである。ここで、既成の思 想や学説は模倣の手本とはならないが、主体にアクセントを置くか、それとも状況にアクセントを置くかによって 折衷主義は二つのタイプに分れる。前者の系列には、大杉栄、辻潤、小林秀雄らが、後者のそれには福沢諭吉や新 渡戸稲造らが連なる。そして、後者の状況本位の折衷主義は、主体本位に比してインサイダー的であり、技術者、 官僚、会社員など大組織の中で働く人びとに多いとしつつ、福沢の影響力が主として実業界、新聞界で発揮された のに対し、稲造の影響力は、この時期の官僚の思想の最も優れた範型の一つとなり、国家体制への多くの奉仕者を        ︵35︶ 生み出したとする。  そうした稲造の折衷主義は、既述したような修養論と国体論から構成される。そして、両者は相似形的な関係に あり、修養論が﹁個人にたいする思想服用の処方箋﹂であるとすれば、国体論は﹁国家にたいする思想服用の処方         ︵36︶ 箋﹂であるとされる。その修養論については既に触れたので、国体論について見てみることにしよう。それは、国        ︵37V 民代表の原理を提示したE.バークの政治思想に基づく王道論として次のように展開される。  まず、権力と権威の相違に相当するといってよい覇者と王者を区別し、その王者が踏むべき道が王道であるのだ が、それは﹁統治者の職責を全うする道の原理﹂であるとする。そこにE.バークの政治思想が投入され、統治者 としての王者が職貢を全うするには、理屈一方ではなく、国民が信じている限り伝統や迷信、偏見なども尊重され 325

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なければならないとする。そして、日本の王道とは、建国の精神としての国体であり、天皇の即位における大嘗祭 の目的は、﹁日本の皇室の最良なる伝統が、潜在意識より浮出してくるように仕組んであり、更に昔はかうであっ たから、この後はかうでないかというところまで、想像が出来、そこで始めて我が皇祖皇宗から伝った我が責任、 我が職務が何であるかといふことを、十分御自覚になるのだらうと思ふ⋮日本の王者と外国の王者とは、ど ういふところが異ふのだろうか。日本の王者は、人民に対して権利を主張するやうな王者ではない。権利に対し て、一つの義務と職責を感ずる。これが王者たる道の根抵である。吾々は大嘗祭に当って、この心持を体験するこ とが出来ると思ふ。畏多いことであるが、不敬なことではない。真に我国の王者の大御心を察し奉るには、その万 分の一を自ら体験するより、よい方法はない。﹂のであると。こうして、より進展が望まれるデモクラシーと国体 は、王道論において宥和されるのである。  かくして、鶴見に言わしめれば、稲造がいう国体とは、﹁神秘的意味あいのものでなく、まったく経験主義的・ 習慣尊重的意味あいのものである。国民的慣習のことだと考えてよい。⋮したがって日本にはあっているが、 他の国におしつけるわけにはいかぬ﹂もので、天皇はかかる﹁国民的習慣の記憶をもっとも見事に保持する役割を        ︵38︶ になう人、国民のための記憶担当者﹂なのである。だからまた、﹁天皇家は国民と一体であり、日本国民全体が和 をもって天皇の心にしたがっている。欧米人のごとく国民が分裂抗争したりする方法は、日本国民にとって実りあ る方法ではなく、つねに和をもって天皇によりよく奉仕するみちを工夫する方法が、日本の方法だ。日本の国民性 に根ざしたこの方法を主とするかぎり、この方法にそうてうけいれられた自由主義の原則は分裂をつねにさける和 解本意の国家的自由主義となり、キリスト教は政府の政策をやややさしく手ごころをくわえさせる穏健な国家主義   ︵39︶ となる。﹂とされるのである。こうして、稲造の国体論は、彼がナショナリストであったことの証左となるが、そ 326

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こには次の特色を見ることができる。  一つに、円了の保守主義的な国粋主義・日本主義は、排外的で、戦争を積極的に肯定する過激な国家主義へ至り かねないのに対し、稲造の状況本位の折衷主義に基づく国体論は、欧米先進国の技術や文化を一義的に排するもの ではない点で、政教社本流の開明的ナショナリズムに近い位置にあったといえることである。もう一つは、稲造の 国家的自由主義は、彼を﹁原型とする官僚的自由主義﹂を形成しながら、国家の勢力伸張のための政策を推進する という前提を離れられないことから、戦争政策を押しとどめることが出来ず、彼の穏健な国家主義の延長上には        ︵40︶ ﹁穏健な超国家主義、軍国主義、全体主義が生まれることになる﹂ことである。稲造の折衷主義思想のこの限界・ 問題点を鋭く指摘していたのは、彼の弟子で社会主義に共鳴していた森戸辰男であった。彼は、教育者としての稲 造を最高度に賞賛しつつも、﹁先生は社会思想の見地からすれば、立派な進歩的デモクラットであった。とりわけ 国際問題については平和主義者であり、国内問題については自由主義者であった・・︵中略︶・・だが他面におい て先生はみづからその雰囲気の下で生育せられた封建主義・資本主義的制約をも担うてゐられた。だから先生は資 本主義や封建的遺習に対して或程度の共鳴を感じ、帝国主義化せる資本家諸国家の間において世界平和が可能なる      ︵41︶ が如く説かれて﹂云々というように捉えていたのである。 三、円了の田学と稲造の地方学  円了は、一九〇六︵明治三九︶年に哲学館大学の学長等を退いた後、修身教会運動や哲学堂の建設に専念してい たのであるが、一九一六︵大正五︶年の東洋大学新年会に出席して、我が身の研究者たるスタンスを田学︵デンガ 327

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ク︶と称した。すなわち、﹁紳士が田舎にあれば人これを呼びて田紳という。されば学者が田舎におれば、人必ず これを田学というべき理なり。余の今日の境遇はいわゆる田学なり。これに反して常に都下に起居し、位階を帯 び、官禄にはむ学者は官学というべし。官学もとよりとおとしといえども、田学また決していやしむべきにあら ず。・・︵中略︶・・豆腐の田楽は貴人にも貧民にも通じ、その調法なることは鯛の比にあらず。田学はすなわち田       ︵42︶ 楽にして余は田学となり、学問の料を貴賎貧富に向いて供給するを本分とす﹂としたのである。  あまり上手とはいえない駄洒落を混じえたこの宣言を素直に読めば、円了のいう田学とは官学に対する在野学問 を意味しているといえる。これまで一度も口にしたことのない田学なるものを、何故に急に口にすることになった のであろうか。これは、これまで次のように解されている。この宣言は、﹁哲学館の初志、すなわち晩学のもの、 貧困者、外国語力のないものに勉学の機会を与えるという思想を包みこむものであり、円了は哲学館そのものの社 会化過程で、田学という自己の立場をはっきりつかんだ。円了は叙勲の沙汰を二度辞退し、このとき﹃無位無官 吾事足、終生何教向権門﹂と賦している。権力の門に屈しない在野の学者・研究者として、円了は田学の道を選  ︵43︶ んだ﹂ことを鮮明にしたものであると。  円了は、略歴で触れたように、東京大学を卒業するにあたり、官僚への道や東本願寺への復帰を固辞した。その ことが、既述した﹃仏教活論序論﹄における﹁ただ終身随巷に潜んで真理を楽しみ、草茅に坐して国家を思う赤心 を有するのみ﹂という覚悟になったといえる。そして、二度にわたる叙勲の辞退に対しても、かかる初心から、改 めて﹁自分は疾くに官海に志望を断ちて無位無官民間教育家を以て任じ国民道徳の向上に一生を託するものである       ︵44︶ から位階や勲等を授かる素心ではない﹂としたのである。かかる意味で、円了は﹁権力の門に屈しない在野の学 者・研究者﹂であったとは言えようが、田学についてはいささか解釈不足といえる。そこで筆者は、田学について 328

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東洋法学第53巻第3号(2010年3月) は以下のような指摘と解釈をしたい。  第一に、単に在野にある研究・学問を田学と称するのであれば、あまり意味がないといってよい。田学を官学に 対抗的に位置づけようとするならば、当然、その対象と方法を明示しなければならないといえるが、円了はそうし た点について明確に語っていない。前記の解釈では、田学は﹁哲学館の社会化過程﹂で生み出されたとする。それ を敷街していうと、解釈者の﹁筆者は、円了の﹃南船北馬集﹄の世界に踏みこみ、巡講とは何であったかを確かめ        ︵45︶ たいと考えた。そこに円了の後半生の素顔と、社会に対面した田学者の世界を発見するのである﹂ということにな ろう。  ここにいう巡講とは、教育勅語や戊申詔書︵日露戦争後の一九〇八︵明治四一︶年、国民の精神的統合を目的に桂 太郎内閣が策定したいわば第二次の勅語︶を教材とした全国の地方民に対する啓蒙的かつ教導的な道徳普及の社会 教育かつ生涯教育であるとともに、哲学館の拡張や哲学堂の建設を図るために必要な寄付を地方民に求める活動で あった。そうした全国巡講は、前期と後期に分けられる。前期は館長として哲学館の拡張を図るためのもので、 一八九〇︵明治二三︶年から一九〇五︵明治三八︶年の一六年間のうち延べ一三年間で、九六六日、四四県の三三 市⊥二区・七一七町村にわたった。後期は、哲学館大学等を隠退することになった一九〇六︵明治三九︶年から中 国の大連で客死することになった一九一九︵大正八︶年までで、哲学堂の建設と修身教会︵後に国民道徳普及会︶運 動を展開した延べ一四年問の二六一二日、六〇市・三島・二二四五町村にわたったのである。そして、前期の踏破 は﹃館主巡回日誌﹄としてまとめられ、後期のそれは﹁紀行﹂﹁巡講日誌﹂とされ、それらをまとめたものが﹃南        ︵46︶ 船北馬集﹄として出版された。  当時の交通事情からすると、驚嘆されるこの南船北馬行において、円了は、例えば自然景観や家屋、風俗、方 329

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       ︵47︶ 言、習慣、宗教などに関心を寄せている。そして、﹁巡遊中、各所において有志諸氏の多大なる歓待厚遇をかたじ   ︵48︶ けのう﹂したと回顧している。だから、自然景観や家屋、風俗などがおそらく田学の対象であったと推測される し、巡講において円了は多くの在野人と語り、それらを研究する多くの田学者と出会い﹁田学者の世界を発見﹂し たと思われる。そして、かかる対象を研究する田学とは、種明かしをすれば、彼が一九一二︵大正元︶年に設立さ れた日本民俗学会に参加し、評議員となっていることからして、実は民俗学を意味していたといえるのである。幹 事は、石橋臥波と長井如雲で、評議員には円了の他、大槻文彦、高木敏雄、白鳥庫吉、吉田東伍らがみえる。  その学会設立趣旨は、﹁我が日本民族に関する各種方面の研究は近時漸くその歩を進めつつあるも、その精神的 生活及び物質的生活の全方面に亙りて、之を民俗学的及び人文史的に研究する即ち所謂最広義に於ける民俗学的研 究に至りては、尚未だその緒に就かず、我が学会の為に一大恨事とする所なり。⋮此に於て同志相謀り、﹃日 本民俗学会﹄を設立し、以て我が民族の由って来る所、文化の基く所を究め、国民の性情を明らかにし、聯か日本 民俗の研究に貢献する所あらんことを期す﹂とする。そして、最大の目的は、﹁日本民族の精神的生活及び物質的 生活の全方面に亙りて、古来民間に行はるる信仰、思想、風俗、伝説、童話、里謡、俗諺、美術、工芸及び経済的       ︵49︶ 方面に就きて、之を民俗学的に研究するに在り﹂という。しかしながら、民俗学としての田学の対象もそのような ものであったとしても、その研究方法がそれなりに明らかにされない限り、田学なるものは後述するように稲造が 提唱した地方学に比し、デレッタンテイズム、すなわち好事家による地方生活上の多様な対象に対する素人的な手 法による研究という道楽の域を出ないといえよう。  第二に、それでは、円了は全国巡講において何故に自然景観や家屋、風俗、方言、習慣、宗教などに関心を寄せ たのであろうか。その解答は、田学を提唱した翌年の一九一七︵大正六︶年に最後の著書として出版された﹃奮闘 330

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哲学﹂が示唆しているといえそうだ。そこで円了は、﹁余の活哲学は向下門に重を置き、哲学は人生を向上する学 という以上は、風俗改良をもって自ら任ずべきが当然である。しかしてこの要は有害を除きて有益をとり、死的を 廃して活動を興し、道徳的活動世界を実現して、宇宙の精神に包有せる真善美の光景を社会国家の上に開眼するに    ︵50︶ 外ならぬ﹂として噂習慣、動作、習礼、座談、俗謡、娯楽、遊技、美術、交際、儀式という一〇点の改良項目を挙 げているからである。さらに、﹁余は三十余年前よりわが国の妖怪迷信につき研究しているが、世間および世間の 学者は物好きか道楽と思い、学者らしくないように考える人が多い。しかし余の本意はわが国民をして文明の光輝        ︵51︶ を仰ぎ、恵沢に浴せしめんとする考えである﹂としている。  この社会改良論に見えてくることは、広義の民俗学としての田学なるものは、柳田國男流にいえば、実は民俗学 ︵フオクロア︶の前史をなす土俗誌学ないしは土俗学︵エスノグラフィー・エスノロジー︶であると捉えることができ     ︵52︶ るのである。というのも、エスノグラフィー・エスノロジーは、近代国家の誕生後、それら西欧諸国が海外侵略を 始めると非文明社会と接することになり、キリスト教の布教や、植民地開発などのために非文明社会の土俗、風習 等を観察し、理解しようとしたことによって誕生したものである。それには、まさに非文明人の蒙を啓くことが随 伴する。円了もまた、全国の地方を巡講した時に眼にし耳にしたものは、伝統的な風俗や迷信等に囚われて生活し ている地方民であったといえる。だから、社会改良のために、それらを観察し、その非なることを明らかにし、ま さに﹁文明の光輝を仰ぎ、恵沢に浴せしめ﹂る必要を説いたといえる。この意味において、田学は、土俗︵誌︶学 であったといいうるのである。  他方、稲造が地方学︵ヂカタガク︶を初めて提唱したのは、一九六七︵明治四〇︶年五月の雑誌﹃斯民﹄に掲載さ れた報徳会における講演においてであった。そこで、地方をチホウではなくヂカタと読んで欲しいとながら、﹁地 331

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方といふのは、無論土地といふものに最も関係は近い。けれども唯地面といふことではない。土地に直接関係ある       ︵53︶ 農業なり制度なり其他百般のことを含んで地方の研究といふのである﹂とする。そして、かかる地方学の研究対象 として、稲造自身は地方の制度の変遷、習慣・風俗の変化、家屋の建築法、村の形状、土地の分割法、方言、里          ︵54︶ 歌・童謡などを挙げる。こうしてみると、地方学の研究対象は、円了のそれと重層している。しかし、稲造は、そ の研究方法を明示するのである。すなわち、生物学にけるバクテリアの研究﹁方法を幾らか社会学の研究に用ゆる ことも出来る。私が亜米利加に居った時分、就いて居った先生のアダムスといふ人が、米国の憲法を調べるに、小 さな自治団体から調べろといふことを頻りに主張した。と云ふのは︼国の議会たるものも、即ち村の議会にチャン と出来て居る。内閣もあれば、官中顧問官員のやうなものもある。何もかも小さいながら機関がチャンと備って居 る。・・︵中略︺・・故に自分の力の及ぶ小さなものを研究して、それを伸ばしさへすれば、大きなことに応用出来るとい ふ議論で、アダムス先生はお前達は亜米利加の憲法或は行政を調べやうとするならば、先ず小さな村なり郡なりを調べよと    ︵55︶ いふて奨励﹂したというのである。そして、ヨーロッパでは四〇年程前から地方の科学的研究が始まったのに、﹁日 本の学者といふものは忙しいから、地方の研究杯はやって居られない、天下の大勢とか大きな事に関係して居るか ら、さういふ小さな事はやって居る余裕がない﹂と批判しつつ、地方を研究することは﹁自治制度を全うするに付 けても、亦他に逃げて行く青年を土着せしむるに付けても、即ち教育するに付けても、最も効用あることと思いま     ︵56︶ す。﹂とする。  さらに、稲造は、一九〇八︵明治四一︶年に増補した﹃農業本論﹄で、﹁以上余の選述したる村落の形状考は徒 らに好事家の腸を肥やすの材料に過ぎざるが如くなれど、反て是れ社会学の有用なる事情を充すもの﹂だとして地 方学︵肉鼠・一・唆菊邑ω田舎8碧ω学問︶の重要性を改めて強調する。そして、長文になるが次のように述べる。ヨー 332

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ロッパではかかる新科学が形成されているのに対し、﹁翻って我国を察するに春眠暁を覚えざるにや、斯学の呼 声、寂寛聞くべからず。されば、僅か三十年以前に廃止せられたる封建制度の、社会形成の状況に就きても、智識 徐ろに漸減せむとするの時運に際せるものの如し。今にして我が﹃地方学﹄に尽痙するなくば、絶を招き廃を発す るの効、復た収むべからざるものあらむとす。議論弦に至りて、余は大に斯学を呼号せざるべからず。⋮回 顧すれば明治維新、国是一変して、粋を英仏に汲み、華を米独に咀み、従来の制度を種々刷新して、或は村落の分 合を行い、自治制を布けるが如き、因って以て従来の田舎社会を全然壊敗し了らしめ、我が地方学の研究に一大錯        ︵57︶ 雑を来すに至りぬ﹂とする。  以上のような地方学︵田舎学︶形成の構想は、記述したように一九一〇︵明治四三︶年二月、稲造の自宅におい て柳田國男や石黒忠篤らとともに創設した郷土︵研究︶会として現実化した。柳田は、前年の一九〇九︵明治四二︶ 年に日本における民俗学︵一国民俗学︶の誕生を告げる﹃後狩詞記﹄を自家出版していた。そうした柳田は、研究        ︵58︶ 会誌名を﹁新渡戸博士のやうにルリオロジーとかルリオグラフィーとでも言った方がよかったかも知れ﹂ないが、 ﹁我邦で最初にフオクロアの学問を唱えた故高木敏雄君が、我々少数の有志者を説いて、一の月刊誌を創立せしめ       ︵59︶ たときに、この郷土研究という名称は始めて用ゐられた﹂としている。だから、郷土︵研究︶会は、稲造が指摘す るヨーロッパでの新科学すなわち民俗学︵フオクロア︶の形成に刺激を受けながら、土俗誌学ないしは土俗学︵エ スノグラフィー・エスノロジー︶を越えるー次年に円了も参加して設立されることになる日本民俗学会とその機関 誌﹃民俗﹄の動きを意識しながらの1民俗研究会の形成であったし、稲造の地方学︵田舎学︶とはまさにかかる 民俗学を意味していたといえる。  稲造は、この後、郷土︵研究︶会での発表を行いながらも地方学︵田舎学︶については言及していない。それは、 333

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稲造と柳田の構想が交錯・合致する中で、柳田が基軸となった郷土研究︵一国民俗学︶に地方学︵田舎学︶の形成・ 発展を委ねたからであろう。そこで、柳田は、郷土研究の対象はほとんど文字記録に頼ることのできない﹁国民生 活誌﹂であり、方法としてはコ、最終の目的はどんなに大きくてもよいが、研究の区域は出来るだけ小さく区画 して各人の分担を以て狭く深く入って行くこと。二、其便宜の為には、成るべく自分の家の門の前、垣根のへりか ら始めて、次第に外へ出て行くこと。即ちよくわかるものから解らぬものへ進むこと。三、文書の価値は勿論軽じ        ︵60︶ ないが、その材料の不足な場合が多いことを知って、常に力を自身直接の観察に置くこと。﹂などの七点を示す。 そして、﹁自分等の謂ふ地方研究が、道楽や物ずきや閑人の慰みでは無くして、今後も充実した地方生活をする人       ︵61︶ の、欠くべからざる学問﹂であることを強調した。  以上のように、円了の田学は広義の民俗学を、狭義には土俗︵誌︶学︵エスノグラフィー・エスノロジー︶を意昧 し、稲造の地方学︵田舎学︶は一国︵自国︶民俗学︵フオクロア︶を意味することを明らかにした。しかし、稲造の 地方学︵田舎学︶については、つぎの二点について触れておきたい。  第一は、橋川文三は、地方学︵田舎学︶を提唱した稲造の動機が正確には何であったかは必ずしも明確ではない としつつ、鶴見俊輔が稲造を折衷主義者と捉えるその折衷主義のケース・スタデイとして地方学︵田舎学︶をどう        ︵6 2︶ 位置づけるかは興味ある問題だとする点である。橋川は、この問題に対する解答を示していない。筆者は、鶴見が 言う稲造の折衷主義とは、まさに彼の修養論と国体論の内実が世界のあらゆる種類の思想・学説や経験、先進国の あらゆる智恵や技術を吸収することを意味していたことが示すように︿空問軸﹀の折衷主義と捉え、地方学︵田舎 学︶を︿時問軸﹀の折衷主義と位置、づけうると考える。というのも、稲造は、前記した﹃農業本論﹄で地方学︵田 舎学︶を呼号するゆえんは、﹁僅か三十年以前に廃止せられたる封建制度の、社会形成の状況に就きても、智識徐 334

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ろに漸減せむとする﹂ことにあるとしていたからである。いや、それだけでなく、柳田もまさに﹁何のことは無        ︵6 3︶ い。地方研究の振興は一種の罪滅ぼしである。過去世と当来に対する、現代人の免がれ能はざる義務である。﹂と しているからである。  第二は、稲造が地方学︵田舎学︶は﹁自治制度を全うする﹂ことなどに最も効用あるとしていた点である。それ は、地方学︵田舎学︶が愛郷心を喚起し高めるためということにあるようだが、いずれにしろ、そのため稲造は円 了が全く言及していない地方自治制度論を展開する。すなわち、稲造は地方自治制の必要十分条件は、﹁第一、地 方行政に関することは、直接利害を感ずる関係者即ち人民の手に籍ること。第二、行政の局に参する者は、公益の 為、名誉職即ち無給に勤むること﹂であるとする。そして、現在の農村をみると第一の必要条件は満たされている といえるが、第二の十分条件につきコ家の生計に汲々たるものより成立する農村にありては、事務を処理する奇 抜なく、又無給にて之に当る余裕なきを如何せん。然れども若し一村幸いにして中等以上の農家生計に余裕あり、 又多少の教育徳あるものあらんには、能く其の任に適すべし。是れ即ち大中農の政治上最重要なる関係をゆうする       ︵6 4︶ 所以にあらずや﹂﹁然れども府県、今日の状況を観察するに、田舎に細民多く、奮って名誉職に当るもの少く、村 長の薄給をも尚ほ且つ生計の支持費として、金銭の為め∈一垣の名誉職を望むに至りては、吾人殆ど言ふに堪えざる       ︵65︶ ものあり、憶呼、我国に於て完美せる自治制を施さんことを殆ど難しと謂うふべし﹂と嘆くのである。  ﹃農業本論﹄におけるこの言及は、増補版であったとしても一九〇八︵明治四一︶年である。だから、未だ公民 権︵制限選挙︶制度にあった。にもかかわらず、あたかも自治行政が﹁人民の手に籍﹂ねられて地方自治制の必要 条件が満たされているかのように述べるのは、実は、第二の十分条件の現状に対する慨嘆がしめすように、稲造が 求める﹁完美なる自治制﹂とは﹁大中農﹂すなわち名望家の地方自治を前提にしているからである。そして、明治 335

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の町村制は、まさに﹁大中農﹂名望家を前提にして創設されたものであった。  しかるに、﹁大中農﹂名望家を前提にした名誉職自治制度が定着・機能していない  その要因については、こ      ︵66︶ こでは別研究に譲ることにしてーことを慨嘆するところに、鶴見が指摘する稲造の折衷主義の特性がかいま見ら れるのである。すなわち、稲造の折衷主義思想において﹁世間智の多くは当時の先進国であるヨーロッパから得ら れたということが、新渡戸の提案を進歩的なものであるかに見せたが、しかし、具体的なものに固執するという思       ︵67︶ 考方法﹂という点では、K,マンハイムが定義した﹁保守主義的思考﹂にぴったりと当てはまることである。さら に、﹁具体的と抽象的﹂との対立としてマンハイムが言うところの、﹁進歩主義的思考がつねに可能なものからのみ ならず、規範から現存しているものを見るのに対して、保守主義者が現存するものをその被拘束性においてとらえ        ︵68︶ ようとするか、あるいは規範的なものを存在から理解しようとする﹂点においても、そういえる。そして、こうし た点においても、稲造の時代的限界性をみてとることができる。 むすびに  本稿では、東洋大学関係者ないしは井上円了研究者がこれまで十分に明らかにしてこなかった田学の内実が、新 渡戸稲造の地方学︵田舎学︶との対比において広義の民俗学、狭義ではその前史的な土俗︵誌︶学︵エスノグラ フィー・エスノロジー︶を意味することを明らかにした。また、稲造の地方学︵田舎学︶は、柳田國男をと合流する ことが明示するように一国︵自国︶民俗学︵フオクロア︶を意味するものであった。だがまた、鶴見俊輔は、稲造 の思想を修養論と国体論を基軸とする状況本位の折衷主義と捉えたが、筆者はそれを︿空間軸﹀の折衷主義とし、 336

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稲造の︿時間軸﹀における折衷主義が地方学︵田舎学︶の提唱となったと捉えた。  さらに、鶴見は、稲造の折衷主義思想は彼の生きた﹁時代における日本の官僚の思想のもっともすぐれた範型の 一つをつくった﹂とか、﹁新渡戸を原型とする日本の官僚的自由主義﹂を形成したとしていた。そうであれば、す くなくとも戦前の日本官僚制分析において、それを検証してみることは興味のそそるところである。 ︵1︶ 井上円了の略歴については、さしあたり三浦節夫﹃ショートヒストリ東洋大学﹄︵改訂第一四版︶東洋大学、二〇〇五年に、 また、新渡戸稲造の略歴については、﹃新渡戸稲造全集・別巻﹄教文館、一九八七年所収の宮部金吾﹁小伝﹂や﹁新渡戸稲造博士 略年表﹂による。 ︵2︶ 色川大吉﹃新編明治精神史﹄中央公論社、一九七三年、四五三頁。色川は、この第二世代の宗教人の項で、両者の他に植村正 久︵一八五八年︶、内村鑑三︵一八六一年︶、鈴木大拙︵一八七〇年︶を同世代人としている。しかし、実は、円了自身が世代論を  展開し、 自らを明治第二世代と規定しているのである。桶谷秀昭﹁井上円了とその時代﹂﹃井上円了センター年報﹄く9F  二〇〇二年七月、一二∼一三頁。 ︵3︶ 松本三之介﹃明治精神の構造﹄岩波書店、一九九三年、一〇三頁。 ︵4︶ 色川、前掲書、四六〇頁。 ︵5︶ 田中菊次郎﹁政教社のナショナリズムと井上円了の﹃護国愛理﹄﹂︵以下、田中Aとする︶、高木宏夫編﹃井上円了の思想と行 動﹄東洋大学、一九八七年、一六二頁。 ︵6︶ さしあたり、三浦、前掲書、第三章を参照されたい。また、この哲学館事件の一つの位置づけについては、石田雄﹃明治政治 思想史研究﹄未来社、一九五四年の後編・第一章第二節﹁教育勅語以後の権力と思想﹂を参照。 ︵7︶ 前掲の宮部による﹁小伝﹂によれば、内村鑑三らと異なり、稲造は札幌農学校に入学する以前からキリスト教に関心を抱いて  おり、すでに聖書を読んでいたという。なお、この時、かのクラーク博士は帰国していた。 337

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           ハ                      ハ         

簗鞄嬰嬰磐包怨係先坦馨乎珍雄邑馨珍菖珍2.邑

係﹂ 先生の思想と人﹂ 宮部﹁小伝﹂、前掲書、一四頁。 水谷三公﹃官僚の風貌﹄︵日本の近代13︶中央公論社、一九九九年、二二七∼≡二〇頁。 色川、前掲書、四五八∼四五九頁。 社会科学大事典編集委員会﹃社会科学大事典!﹄鹿島研究所出版会、一九六八年、三三六頁。 ﹃仏教活論序論﹄︵井上円了選集・第三巻、東洋大学、一九八七年︶、三二八頁。 ﹃真理金針﹄︵同前書︶九四∼一〇一頁。 家永三郎﹁天皇制思想体制の確立﹂、同編﹃近代日本思想史講座1・歴史的概観﹄筑摩書房、一九五九年、八三頁。 ﹃仏教活論序論﹄︵前掲書︶、三二七∼三二八頁。 同前︵同前書︶、三三〇頁。なお、同前書の﹁本論﹂は、この﹁護国愛理﹂論の展開である。 田中、前掲論文A、前掲書、一六五∼一六六頁。 ﹁教育の目的﹂︵新渡戸稲造全集・第五巻、教文館、一九七〇年︶、二〇八∼壬二五頁。 ﹃修養﹄︵新渡戸稲造全集・第七巻、教文館、一九七〇年︶、五七∼五八頁、括弧内は筆者補充。あわせ、田中耕太郎﹁新渡戸       ︵新渡戸稲造全集・別巻、教文館、一九八七年︶、二八九頁参照。なお、垂直的な﹁人間以上のものと︵の︶関 おいて、志︵仕事・職業︶を定め、実現を図るということは、M.ウエバーの﹁天職﹂︵ベルーフ︶概念に当るといえよう。 世良民平﹁井上円了の人間像﹂、高木編、前掲書、三〇九頁。 ﹃教育総論﹄︵井上円了選集・第一一巻、東洋大学、一九九二年︶、三七九頁。 ﹃教育宗教関係論﹄︵同前書︶、四四八頁。 ﹃南船北馬集・第一編﹄︵井上円了選集・第一二巻、東洋大学、一九九七年︶、一九〇∼一九一頁。 ﹃修養﹄︵前掲書︶、二一∼二一二頁。 武田清子﹁解説﹂︵同前書︶、六九四∼六九六頁。 鶴見俊輔﹁日本の折衷主義ー新渡戸稲造論﹂、伊藤整・清水幾太郎編﹃近代日本思想史講座3・発想の諸様式﹄筑摩書房、 338

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一九六〇年、 44  43  42  41  40  39  38  37  36  35  34  33  32  31  30  29  28  27 )      )      )      )      )      )      )      )      )      )      )      )      )      )      )      )      )      )     一八六∼一八七頁。 鶴見、同前論文、同前書、一八七頁。 三宅雪嶺﹃同時代史・第五巻﹄岩波書店、一九五三年、一六六頁。 三宅雪嶺﹁感想﹂、三輪政一編著﹃井上円了先生﹄︵伝記叢書一二五︶大空社、一九九三年、二〇七∼二〇八頁。 田中、前掲論文A、前掲書、一四五∼一四六頁。あわせ、松本、前掲書、一二四頁も参照。 松本、同前書、一二二∼一≡二頁。 田中、前掲論文A、前掲書、一七五∼一七六頁。 家永三郎﹁平民主義から軍国主義へ﹂、同編、前掲書、九七∼九八頁。 伊藤正雄﹁新渡戸博士と福沢諭吉﹂﹃新渡戸稲造全集・月報六﹄教文館、三頁。 鶴見、前掲論文、前掲書、一八五∼一八六および二一二∼二ニニ頁。 同前論文、同前書、一九八頁。 ﹃内観外望﹄︵新渡戸稲造全集・第六巻、教文館、一九六九年︶の﹁東西王道の比較﹂︵二五八∼三〇四頁︶による。 鶴見、前掲論文、前掲書、二〇四∼二〇五頁。 同前論文、同前書、二〇八頁。 同前論文、同前書、二二頁。 森戸辰男﹁教育者としての新渡戸先生﹂︵新渡戸稲造全集・別巻、教文館、一九八七年︶、一一二八頁。 ﹃南船北馬集・第一二集﹄︵井上円了選集・第一四巻、東洋大学、一九九八年︶所収の﹁鎌倉遊寓記録﹂、三九五頁。 田中菊次郎﹁円了と民衆ー南船北馬の世界﹂︵以下、田中Bとする︶、高木編、前掲書、三二八頁。 ﹃南船北馬集・第一二集﹄︵前掲書︶所収の﹁鎌倉遊寓記﹂、三二八∼三二九頁。官嫌いだった三宅雪嶺は一九四三 ︵昭和一八︶ 年に文化勲章を受けているので、円了は福沢諭吉と似た痩せ我慢のようにも見えるが、官忌避は雪嶺以上に徹底していたといえる。 ︵菊︶ 田中、前掲論文B、前掲書、三二八∼三二九頁。 339

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︵46︶ 三浦節夫﹁解説−井上円了の全国巡講﹂︵井上円了選集・第一五巻、東洋大学、一九九八年︶四四四∼四四六頁。 ︵47︶ ﹃館主巡回日記﹄︵井上円了選集・第一二巻、東洋大学、一九九七年︶所収の﹁南紀巡回報告演説﹂。 ︵48︶ ﹃南船北馬集・第一編﹄︵同前書︶、一九〇頁。 ︵49︶石橋臥波編﹃民俗﹄︵第一年第一報︶、人文社、一九二二年、二頁。この第一報では、巻頭において、芳賀矢一﹁民俗に就い  て﹂が、研究の方向を﹁郷土の趣味を発揮し、更に愛国の精神を養ふといふ風に進ませるのが今日の最大急務である﹂︵同、五∼  六頁︶する他、伊波普猷や南方熊楠の論文もみられる。 ︵50︶ ﹃奮闘哲学﹄︹井上円了選集・第二巻、東洋大学、一九八七年︺、三四七頁。なお、﹁余の活哲学は向下門に重きを置き﹂という  時の﹁向下門﹂とは、﹁向上門が宇宙絶対の学ならば、向下門は人類社会の学である。向上門が絶対を考定する学ならば、向下門  は人生を改善する学である﹂という意味である。同書︵同書︶、二三三頁。 ︵5 1︶ 同前︵同前書︶、三七五頁。 ︵52︶ ﹁郷土研究の将来﹂および﹁東北の郷土研究﹂︵定本柳田國男集・第二五巻、筑摩書房、一九六四年︶、四七八∼四八○頁およ  び四九三∼四九五頁。なお、旧漢字は新漢字に改めてある︵以下、同︶。また、伊藤幹治﹃柳田國男と文化ナショナリズム﹄岩波  書店、二〇〇二年、七九∼八六頁を参照。 ︵53︶ 新渡戸稲造﹁地方学の研究﹂﹃斯民﹄第二編第二号、一九〇七︵明治四〇︶年五月、一頁。なお、同旨の講演録﹁地方学の研  究﹂が全集︵新渡戸稲造全集・第五巻、教文館、一九七〇年︶に収録されている。しかし、それは、地方とは﹁元は地形﹂とも書  いたとか、地方学とは﹁田舎学﹂とも称すべきであるとしていることから、おそらく﹃農業本論﹄増補版の出版時に、﹃斯民﹄の  講演論稿を補正したものだと思われる。 ︵5 4︶ 新渡戸、同前論文、同前誌、一三∼一九頁、同前全集、一八二∼一八五頁。 ︵5 5︶ 同前論文、同前誌、八∼九頁、同前全集、一八○∼一八一頁。 ︵56︶ 同前論文、同前誌、一二頁および二〇頁。なお、ルビは削除してある。 ︵57︶ ﹃農業本論﹄︵新渡戸稲造全集・第二巻、教文館、一九六九年︶、≡二八∼二四二頁。 340

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︵58︶ ﹁﹃郷土研究﹄小篇﹂︵定本柳田國男集・第三〇巻、筑摩書房、一九六四年︶、三三五頁。 ︵59︶ ﹃青年と学問﹄所収の﹁郷土研究といふこと﹂︵同前書、第二五巻︶、二一四頁。 ︵60︶ 同前︵同前書、第二五巻︶、二二九∼二三〇頁。 ︵6 1︶ ﹃青年と学問﹄所収の﹁地方学の新方法﹂︵同前書、第二五巻︶、一九〇頁。もっとも、エスノグラフィー・エスノロジーから  フオクロアヘの発展は、﹁最初は道楽であろうとも、後には立派な一つの学問になり得る﹂例であるとする。前掲﹁東北と郷土研  究﹂︵前掲巻︶、四九五頁。 ︵62︶ 橋川文三﹃近代日本政治思想の諸相﹄未来社、一九六八年、五九∼六〇頁。 ︵6 3︶ ﹃青年と学問﹄所収の﹁郷土研究といふこと﹂︵前掲巻︶、二三一頁。 ︵留︶ ﹃農業本論﹄︵前掲巻︶、四〇〇頁。 ︵65︶ 同前︵同前書︶、四〇四頁。 ︵66︶ 石川二二夫﹃近代日本の名望家と自治−名誉職制度の法社会史的研究﹄木鐸社、一九八七年、第且部。もっとも、同著への書  評を収録した高久嶺之介﹃近代日本の地域社会と名望家﹄柏書房、一九九七年、をあわせ参照されたい。 ︵67︶ 鶴見、前掲論文、前掲書、一九七頁。K.マンハイム、森博訳﹃歴史主義・保守主義﹄恒生社厚生閣、一九六九年、九三頁。 ︵68︶ K。マンハイム、同前訳書、一〇七頁。 追、筆者は、二〇一〇年一月七日、本稿に基づいた最終講義を行った。       1さとう しゅんいち・法学部教授1 341

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