九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
近代日本における中学校教育成立に関する研究 : 中 学校教育の地方的形成と統合
新谷, 恭明
https://doi.org/10.11501/3106933
出版情報:Kyushu University, 1995, 博士(教育学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
第四章
中学校正格化政策と地方
二七
頁
問題の設定 周知のように初期の中学校教育政策は文部省の政治的判断や経済
的事情などか
ら比較的自由度の高い人民自為 の措置がとられてきた。
しかし、
明治十三年末の教育令の改正後、
文部省は中学校教育への干渉をすす
め、
明治 十四年七月の中学校教則大綱、
明治 十七年一月の中学校通則の制定などに示される所謂正格化政策を進展させて いくことになった。
正格化政策は地方(郡部)における自生的な中学校教育の要求を中央のア!ティキュレ!シ ョン とインテ
グレー
ショ
ンの 論理枠の中に取り込むことを意味していた。
その意味で確かに正格化政策は地方中 学校の整理において有効に機能はしたが、
それでも地方中学校は近代的学校教育システムの中に明確な位置を得 たわけではない。
その教育目的等についても暖昧な状態が続いていたと言えよう。
また
、文部省も府県の学校制 度に立ち入って干渉を加えるというまで
のことはしていなかったの
である(二。
そのことは近代学校教
育制度の 枠組みと日本的高等普通教育の底流とのせめぎあいの場面でもあった。
第三章で一不すように人民自為の時期に福 岡県内においては広汎な中学校教育の要求とそれに
裏づけられた中学校教育の試みが登場していた。
その中で早 くか ら正格化の方向性を理念的に含み込んだかたちで六本校十三分校というシステマティックな中学校制度が構 想されていたの
である。
明治十二年の福岡県会の開設以来、
県会ではこの中学校制度をめぐる問題はつねに重要 な議題であったし、
毎年のようにその制度は変更を余儀なくされていった。
それは基本的には
中学校費に対する
地方税の支出にかかわる問題として議論されたのであるが、
ところにあったと言ってよい。
その論点は中学校教育の性格・をどう従えるかという
二七二
一方県内のそれぞれの地域にあってはそうした県会での論議や県の中学校教育施策に対して主体的な中学校教 育の要求を示していくことになる。
一つは中央への人材の輩出であり、
もう一つは地方的な中学校教育の確保の 要求である。
その中で地方的教育要求は近代学校制度とのせめぎあいをおこない、
ある種の変質を遂げていった と考えられる。
そうした県会内での着目して中学校教育に対する民意の構造を解明したい。
緒田川一依則
市剛lめ寸杭刊同紙割以虫同爪w,掬也会dハ・珍』仏削りん\XUF鵠拍間同開阻
二七三
頁
福岡県における中学校教育制度の展開 府県会規則による
福岡県会が関かれたのは明治十二年三月である20
ここ では県会での中学校費
をめぐる審 議の中から当
時の中学校教育観の様相について検討してみよう
〔三)O すでに述
べたよう
に県会開設以前
の明治十一
年中に福岡、
久留米、
柳川の
三師範
学校に附属変則中学校が併置
され、
豊津の育徳校と合わせて県下に四校の県費による中学校が存在していた。
そして県会開設直前
に福岡の中 学は師範
学校か
ら独立
して独
立の県立中学となっていた〔問)O
これは
福岡県下の学事の進歩の状
況が進
みつつ
あ
るというところに由来する。
すなわち「其進歩ノ景況ハ己ニ上等ニ昇リシモノ七百六十余人既ニ小学全科ヲ卒へ シモノ四
百余人ニシテ目下中学ヲ設置セサ
ルヲ得サルノ時ニ進ミタルヲ以テ明治十一年ニ於テ福岡久留米柳川師 範学校ニ中学ヲ附属セシ所以ナリ」きというよう
な小学校全科
卒業生の増大に対応す
るた めにとられた暫定的 措置であった。
県はこれらを県立中学校として独立させようと考え、
これを最初の県会に提案したのである。
四
月二日に中学校建設費予算案が提出された。
番外一番の牧朴真(県属)による議案主旨説明は左の通りであった。
教育ハ一国盛衰強弱ノ係ル所一日
モ忽諸ニ付ス可ラサル論ヲ侠タス。
今ヤ歪運ノ日進ニ際シ県下三国ノ 青年子弟上等
小学科ヲ卒業シテ将ニ中学ノ級ニ昇ラントスル者随在是ナリ此ノ子弟ヲシテ悉ク不学ノ憾
ナカラシメンカ県下六中学区毎ニ各-校ヲ創立セサルヘカラス然リト難トモ建設費用/巨額ナル実地民 力ノ耐ル所ニアラサルヲ以テ姑ク従来開設セル福岡久留米柳川豊津ノ四中学ニ就キ益其改良ヲ加へ正変
二七四
二科をヲ折衷
77シテ 現時適応
ノ教則ヲ
立テ 以テ
生
徒ヲ誘導スルハ実ニ今日ノ急
務ト
ス是レ 本案ノ費額ヲ 要スル所以ナリ。
しばらく予算の内容について実務的なやりとりがおこなわれたところで、
那珂御笠席田郡選出の岩崎一太郎が 左のように原案に対する異論を展開した。
中学建設ニ
付聯意見アリ
。
費用節減ノ精神ヨリ巳ムヲ得ス
施行上ニ論究
スルヤモ計リ
難
ケレハ
一言
以テ 之ヲ謝ス。
夫レ学事ノ益更張振起セサルヘカラサルヤ論ヲ侠タス。
故ニ教育ノ一点ヨリ論スレハ人文日 進ノ今日ニ際シ県下六中学区
ニ於テ普ク一校ヲ創立スルモ誰カ之ヲ不可トセ
ン。
然リト難トモ眼ヲ転シ テ民間ノ情況ヲ
回顧スレ
ハ其実力ノ
薄弱ナル其生業ノ困難ナル実
ニ倒然ニ
勝ヘサルモノアルナリ。
而シ テ今日地方税徴収ノ初メニ際シ種々ノ費額ヲ其頭上ニ負担セシメハ宣々ノ人民其レ何ヲ以カ堪ヘン。
故
ニ該建設ノコトハ姑ク四中学区人民ノ協議ニ附シ其費用ノ幾分ヲ地方税ヨリ補助スル者トセハ則県下人 民ノ実力ニ適応スルニ庶幾カラン是レ一番(注l岩崎)
カ精神ナリ。
中学校費の支出は現在の地方税の中では負担が大きいので四中学区の協議費に任
せ、
地方税からは補助金を出 すにとどめるという対案である
。
本来中学校の設置は望むところではあるが、
現在の財政事情では支出は困難で
頁
あるという意見である。
この意見には十時一一郎(山門郡)、
北原範一
(三
瀦郡)、
福江
角太郎(企救郡)の
三議
員が賛意を表し、
議事は第
二次会へと移
った。 第二次会では守田精
(京都仲津郡)、
本庄武八郎(山門郡)、
入江淡(京都仲津郡)らが原案支持を表明し、
中でも入江淡は「今各県ノ景況ヲ見ルニ多ク県設ノ中学校アラサル無シ。
故ニ本県ニ於テモ建設スルヲ可トス」
と全国的な視野から中学校設立を押し進める発言をしている。
こうした原案支
持の見解に対し反論が続出した。
その一つは一種の正論としての自由教育論に基づく協議費委託論である。
教育ノ自由ハ成丈ケ人民ニ放托スヘキモノナルニ地
方税ヨリ支弁シテ官ヨリ之
ニ干渉セハ人民却テ萄且 ニ安シ其干渉ニ委托シテ
其学費ヲ自己ノ頭上ニ負担スルノ意想ヲ
発起セサルヘシ
(由布惟義・三池郡) もう一つは六中学区中の四中学区にのみ中学校を設置することへの不公平感に基づく反発であった。
管内六中学区ニ於テ本年特ニ四中学区ノミヲ建設スルハ
不公平ヲ免カレス然レトモ一時ニ之ヲ建設スル
二七五
ハ亦民力ノ耐ユル所ニアラサルヲ以テ之ヲ各中学区ノ協議ニ任スヘ
シ
ハ毛利与八郎・遠賀郡) 採決の結果は原案に
対して賛成十
四名、
反対二十三名で原案は否決された。
しかし、
賛否の議論の中で今後の 福岡県での中学校政策に対する考え方の萌芽があらわれているといえる。
それは第一に自由教育論に代表される 民権派的近代教育観が見え隠れしていること、
第二 にその中に見
られる中学校教育を一定の人民の聞に普及せし めるという考え方である。
第三には不公平感に基づく反発の中にある地方的な損得の意識である。
これは旧藩、
旧国といった幕藩体制下で培われた帰属意識ともおそらくは無縁ではないと思われる。
翌明治十三年の県会に県は四本校十五分校と
いう中学校設立案を提出してきた。
その主旨は県属荻原汎愛の説 明によれば左の通りである。
-・・就中中学校費ノ事ハ尚ホ詳ニ之ヲ弁明セザルベカラ
ズ。
中学ノ欠クベカラザルコトハ既ニ昨年ノ議 場ニ一於テ各員ノ領知セラレタル処ナレトモ十一年来蜂害水損等打続キ民力疲弊ノ際ナレパ暫時之ヲ各都 ノ共議ニ任シ本
年ハ其費用ヲ望マズト云フニ決シタリ。
然ルニ昨年ノ景況ヲ察スルニ当時中学ヲ設立セ ザルトキハ衆多ノ生徒ヲシテ忽チ所ヲ失ハシムルガ故ニ県庁ニ於テ一時民力ノ休養ト眼前中学ノ維持ト
二七六
両ツノ者併全ノ方法ヲ考フルニ幸ニ学資金ナルモノアルヲ以テ之ヲ以テ補
助ヘ
シ四中学校ヲ維持シテ今 日ニ至レリ。
全ルニ学事ハ日ニ進歩シ小学卒業ノ生徒ハ昨年ニ倍シ本年ニ於テハ十分ニ中学ノ普及ヲ謀
二七七
頁
ラザルベカラズ。
其ノ之ヲ如何
シテ普及セシメント云フニ管内ヲ六割シテ六中学ト十三分校ヲ置クニ在
リ。
此クスルトキハ中学十分普及ヲ
得ルヤト云フニ尚ホ未タ以テ足レリト
セズ。
而シテ本校ヲ置クニハ 其ノ費用モ彩キガ故ニ方
今ノ 形勢ヲ察シ本年ハ先ツ久留米福岡柳河ノ四
校ニ止メ他ノ両校ハ費用ヲ謀リ 分校トシテ之ヲ設ケントスルモノナリ。
県と して はこの一年間四中学校を学資金2Cなる資金
を以て維持し
て き たのであるが、
以後小学卒業生徒の増 大や中学校教育の全県
的 普 及をもくろ
んでこの原案を提出したのである。
基 本 的には六中学区に一校づっ中学校 (本校)を置き、
郡部に分校を置くことでまんべんなく県
下に中学校教育を定着さ
せる ことがで
きるという考え 方に基づいていた。
この 六本校十三分校という体系は福岡県の中学校政策
の理想型とす
る も のであったといって もよい。
しかし、
原案は六本校とするべきところを四本校に押さえてい
た。
甘木藍屋を本校とせずに分校とした 理由を問いただされて、
県属の仁尾惟茂は「実際ニ中学ニ入校スヘキ人数等ヲ調査セシニアラス唯福岡其他三ケ 所ハ既ニ中学校アリテ生徒之ニ満チ其進歩モ顕然タレ共甘木瑳屋ノ如キハ未タ如此原形ヲ見サルヲ以テ其原形ニ 於テ下ニ位スト言フノ意ナリ今ヤ学事普及其実際ヲ調査スレハ甘木瑳屋ノ如キモ久留米柳川等
ト同シク本校ノ力 ヲ有スヘシト雛トモ未タ其原形ナキト費用ノ如何
トニ依リ創酌シテ当時之ヲ分校トシ明年ニ至ラハ必ス之ヲ引直
サントスルノ意ナリ」
と答え、
これが費用面の事情によるものであるとしている。
この原案に対しいくつかの異論が出たが、
まず出てきたのがいわゆる自由教育論であった。
二七八
夫レ書ヲ読
ミ事ヲ知ル
ハ一身ノ
慾ヲ逗ス
ルカ為メニアラ
スシテ必ス国
家ノ維
持ヲ計ルモノ
ナルヘシ。
然
ルヲ徴兵ノ国家ニ欠クヘカラサ
ルモノヲ逃レントスルハ甚タ謂レナ
シ。
故ニ地方税ヲ以テ支弁スルトキ ハ人民ヲシテ国家ヲ保護スヘキ義務ヲ尽サ旨ラシムルニ至ル。
是レ本員カ協議費ニ付スルヲ好ム所以也。
又タ人民ノ依頼心
アルヤ必ス官ノ干渉ヲ受クレハ自カラ
自治ノ精神
ヲ失プハ情ノ己ム能ハサルモノナレ ハ是非トモ之ヲ地方協議費ニ付スヘキナリ。
(熊谷又七・福岡区) この自由教育論の論点は二点ある。
ひとつは徴兵逃れに県立中学をつくるというのは国防という人民の義務を 尽くすこと
に反するということと、
地方税の支弁は人民の国
家に対する依頼心
を強め、
自治の精神を損なうもの であるという二点である。
こうした自由教育論に対しては
「近頃ノ学歩ヲ察スルニ彼ノ小学年齢ニシテ未就学セサルモノ幾千ゾ其十ニ四 三ヲ残セリ。
其小学ノ欠クヘカラサルタメ之ニ就カサルハ何ノ原因
ソ。
其実ヲ察スレハ其協議費ニ原因スルモノ ニシテ其席上ノ理論ノ
実施シ難キ知ルヘキナリ。
此ノ如ク論シ来タラン或ル議員ハ謂ハントス。
鞍手校ナリ嘉穂
校ナリ上妻ノ如キ之ヲ設置スル。
量之ヲ有名無実トスルヲ得ンヤト。
然レトモ本員ハ上妻'/事情ヲ知ル。
共事情
タル有志者アリ良教師アリ頗ル之レカ盛大ヲ計ル。
而シテ近時ハ己ニ衰兆ヲ顕セリ。
如此其他モ亦知ルヘシ。
然
二七九
頁
ラハ 則チ其ノ行
ハレサル
ノ協議費ヲ以テ之ヲ立テントスルカ其ノ費用ノ纏ラサル其金額ノ少ナル其教師良善ナラ サル所謂彼ノ人ノ子ヲ傷フニ至ラ
ンヵ。
本員 ハ名ヲ取ラスシテ実ヲ取ルノ精神ナリ」
(三谷有信・御井御原山本 郡)と小学校の就学率が上がらないの
も、
鞍手学校、
嘉穂学校そして中洲学校などが衰退しつつあるのは協議費
「名ヲ取ラスシテ実ヲ取ル」という現実論からの反論がなされている。
ま には負担が大きすぎるからだとして、
た、
占部三折(鞍手郡)は「今開明ノ
歳ニ当リテハ自由教育ヲ奉シ協議負担ヲ好メトモ眼ヲ三万四方ニ注クニ財 政ノ穀難民情ノ適否
募金ニ至リテ可言不可行ノ事実ヲ如何セン因テ昨年ニ在テハ細民ノ情ヲ述ヘ小学補助金増加 ノ修正論ヲ出
シタル位
ノ民度ヨリ参スルニ
本年ノ中学
設立ハ創業ノ
際ナ ルヲ以テ
姑ク
官ノ干
渉ヲ受ケ
衆分校ヲ監 督スル一本校ヲ福岡ニ設ケ外十八ヲ分校トナシ本校ノ額ヲ削リ
分校ノ費ヲ増シ各郡ニ均一平等ナラシメ人民ノ苦 情ヲ防キ漸次強弱相競ノ日ヲ待テ本支ノ区別ヲ廃シ同位置ヲ得セ
シメン ト欲ス。
時機不得止暫ラク
実ヲ取リテ名 ヲ捨テ漸次之ヲ恢復セントスル本員ノ志望ナリ。
問題ハ理ニシテ否ナリ。
」と自由教育論の理想はともかく現実 には民力の耐え得るところではなく、
現実的には「可言不
可行」になっていることから
「理ニシ
テ否」という形 で自由教育論を否定した。
それと同時に占部は反論の中で今年度は
本校を福岡
の一一校に限定して充実をはかり、
残り十八校を分校として地方税の支弁をさせようとい
う案を提起していた。
結果的に自由教育論はわずか五名の同意者を得
ただけで否決されることになった。
次いで問題となったのは本
校と分校という区分をなくそうという提案である。
二八O
夫レ此ノ地方税ヲ出スモノハ則チ福岡県下同等ノ権力ヲ有シ平等ノ保護ヲ受クルニ当リ分校下ニ居住ス ル者不十分ノ教育ヲ受クルト
セパ決テ安ズル能ハザル所タリ。
故ニ本分ノ名ハ
必ズ削ルベキナリ」
(北原範
-三瀦郡) これは県内諸地域の地方税還元の平等と公平の意識に基づく考えであった。
この案については県当局は「(本 校分校の区別を廃するならば)本校費一校ニ千百円余ヲ減殺シテ殆ンド半額ノ少ナキニ至レリ。
然ルニ中学ノ学 科ハ各員熟知ノ通リ小学ノ如ク平凡ナルモノニ非ズシテ別一二層上等上等ノ人材ヲ選抜セザル可カラ
ス。
然ラザ レパ中学ノ
名アルモ其実ナク又切角地方税即チ県立中学ノ名ニ背クヘキナ
リ。
」と県立中学の体裁を維持できな くなることを危倶し、
「各員夫レ深省思慮スル処アレ。
」と議員たちに慎重な対応をするよう訴えていた。
し か し、この公平
論は「分校
ニテ
授業スル能
ハザルノ高等
ニ上ラパ遠ク本校
ニ就キ授業スル是レ原案ノ意ナレドモ遠 ク他所ニ就キ
勉学スルヲ好マサルヨリ今ヤ各郡ノ中学校ヲ設立セルニアラズヤ。
」(津村官一哲・三池郡)という 利便の公平きであり、
「其父兄カ其子弟ヲ
入校セシ
ムルニ当テ必ス謂ハント
ス。
分校入ラシムルモ卒業スヘカラ
ス。
是非本校ニアラサレハ不可ナリト。
」(同)とする受益の公平きであった。
こうした公平論・平等論は中学 校教育の普及を求める考え方として県会の中の大きな潮流を形成しつつあったと言える。
但し、
一校あたりの経
費(の中途半端きが災いして十三名の同意しか得られず少数廃棄に終わった。
次いで本校数を四校から五校ないしは六校とすべきである、
という提起が出された。
これも中学校の位地の公
二八
頁
平を期す
ところから出た見解であった。
本員モ亦タ大意ニ至ラハ不可トセサレトモ中学校ノ条ニ於テ大ニ修正セサルヘカラサルモノア
リ。則チ 置校ノ位地ナリ。
夫レ此ノ位地タル旧学区ヨリ見ルモ土地ノ広狭ヨリ見ル
モ筑後ニ二個ヲ置キ筑前ニ一 校アルヘキ理ナシ。
説明ニ因レハ小学卒業生ノ寡少ナルニ依テ生徒ノ之
ニ充満セサルヲ患フル如シト難 トモ既 ニ其ノ地方ニ小学
卒業生 ニ非スシテ
或ハ怠塾
ニ入リ或ハ其開
校ヲ待ツモノアリ
。其生徒ノ少ナカ ラサル知ルヘ
シ。故ニ
是非トモ六本校十
三分校ヲ設置センコトヲ糞
望ス。
或ハ費目ノ
一点ヨリ之ヲ
難ン
スル論者モ有
ン乎。二
分校ヲ廃
シ二
本校ヲ設ルモ其差異ハ僅
々ノミ。
況ンヤ目下教育ノ旺盛セサル可ラ サルハ更ニ喋々ヲ要セサルヲ乎。
是レ本員カ原案ノ中学設置方法ヲ不可トスル所以ナリ。
(岩崎一太郎・那珂御笠席回郡) 最も、
利害の絡んだ甘木地区の議員の反発は大きかったが、
その背景には次節で再び論ずることになるが、
中
学校教育を必要
とする地域的な要請があったからである。
この地域選出議員による本校誘致論は左のように主張
している。
教育ノ重大ナル固ヨリ論ヲ待タス罵ソ費額僅少ニ
(の)差異ヲ以テ之ヲ不公平スヘケンヤ。
諸君ハ彼ノ 昨年中ニ於テ本会
議員ハ徒ニ減額ヲ主義トスルノ議員ノ恥称ヲ受ケシニアラスャ。
其ノ滅スヘキヲ減ス ルモ猶此ノ如
シ。
況ン
ヤ此ノ僅々少額
二泥ンテ
不公平ヲ醸
スコトヲ為ンヤ依テ各員ノ
説ニ就
テ之ヲ論セ ン夫レ小学卒業生ニ兆スルノ不可ナレハ既ニ陳フル所ロニシテ敢テ賛ヲ用ヒサルモ今眼ヲ筑前全国ニ注
ケハ
国会ナリ条約改正ナリ皆ナ喋々ト
シテ
民権ノ伸張
ヲ
企望スル
ニアラスヤ。
此ノ時速
ニシテ室万般ノ 大基礎タル教育ヲ希望セサルノ子弟アラサランヤ。
(岡部啓五郎・上座下座夜須郡) 岡部の発言の底流には「民権ノ伸張」という時速の中で教育(特に中学校教育)の果たす役割は大きいことを
自覚し、
その ために県
立中学校の
本校を旧中学区(本来の予定地)
である甘木に設置せよ、
という趣旨である。
そのことは彼ら
にそれだけの発言を促す中学校教育を必
要とする社会的階層の教育要求
が存在していたことを意 味している。
「民権ノ伸張」という標語が民権運動の支持基盤とまったく重なるとは言わないが、
ほぼそうした 民権運動の支持基盤と重なり合う部分の教育要求が中学校教育に対する強い期待となってあらわれているといえ ょう。
それは旧士族層であり、
また新たに台頭しつつあるさまざまな新興勢力でもあった。
彼らは近代社会にあ ってかつての武士たちが請け負っていた社会的政治的役
割を引き継ごうという人々であり、
議員たちをも含むそ
二八二
の支持層を指している。
先に自由教育論への批判について触れたがその中で占部三折ハ較手郡)は彼自身の本音 の部分として「今日下等ノ人民ニ於テハ小学校ノ出金ヲモ尚ホ上等人士ノ為ニスル者ト唱へ苦情百出之カ為メ小
二八三
頁
学ノ退歩ヲ懸念スルニ至レリ」とか「中等以下ノ人民ニ於テハ地方税ノ何物タルヲ知ラス」といった愚民観(!) を吐露した。
この発言に対
して多国作兵衛(上座下座夜須郡、
、民
権派、
平民)との応答がなされた
が占部
は
「頑愚ニシテ時勢ヲ知ラサルモノ之ヲ下等人民トス」
「(代議士は)上等人民ノ志想
ヲ心トセ
サルベカラサレト モ全ク下等人民ヲ顧ミサルハ不可ナリ」と答えている。
それに対
し多国は「然リ誠二言ノ如シ。
代議士ノ国会ニ 臨ミ県会ニ臨ムハ国民ノ休戚ヲ謀ルナリ。
固ヨリ上等人民ノ心ヲ心トシ亦タ
下等人民ノ情ヲ察セサルヘカラス。
」
と一応占部を受け入れた。
おそらく多くの議員たちの代弁する世論とはそう
した上等人民の声であるというのは まちがいないところである。
但し占部と多国の違いは
多国 が占部の発言を
いったんは受け入れたところで「五番 議員(占部)ノ為メニ本会規則ノ厳ナルヲ賀
スルナ リ。ザ右シ此ノ法律ナキカ如キハ傍聴列席ノ土ハ其人民ヲ暗愚 視スルヲ怒リ議場ニ突入シテ之レヲ燭出シ去ラントス」と占部とその
発言を罵倒し
ている点である。
とはいえ
「上等人民ノ志想」が中学校教育を論ずるときの共通認識であり、
その上等人民なるものが中学校教育を必要と する社会的な層と重な
っていたであろうと思われる。
そう して「上等人民ノ志想」に支えられた中学校教育に対 する教育要求は当然のことながら甘木のみならず広く県内に存在していた。
夫レ教育ハ人民ノ精神ヲ発養シ一国ノ元気ヲ撃固ニスル所以ニシテ
一国ノ強弱ハ教育ノ盛衰ニ基トハ宣
ナル哉。
安政年間「ヘルリス」
ノ我国二来ルヤ天下挙テ援実/説ヲ唱ブ比/時ニ当リ山村mwgJJ至ル'造 殆ト其ノ志ナキモノアラス今ヤ時勢一変其援夷ノザ句旦ニナシ難キヲ信スト雛トモ彼レ若シ暴慢無礼ヲ以
二八四
テスルトキハ又タ嬢夷ノ説ヲ再興セサルヘカラス。
然レトモ
彼カ暴慢無礼ヲ防禦スルニ腕力ヲ以テスル モノハ策ノ得
タルモノニアラス。
智力ヲ以テ之ヲ禦クハ尤モ策ノ得
タルモノトス。
今ヤ皇国人文ノ度彼 ノ現行条約二就キテ利己主義ヲ主張スル英仏日等ノ各国ニ及ハサルモ
ノアリ。
日耳受ノ如キハ文字ヲ知 ラサルモノヲ平均スルニ百ニシテ十人ニ過キスト
。
今日本ハ是ニ反シ文字ヲ知ルモノヲ平均スル時ハ百 中ノ十ナルモ知ルヘカラス。
随テ智力ニ乏キヲ以テノ故ニ動モスレハ彼等ニ軽侮牽制セラル旨ニ至ル実
ニ
慨歎
ニ
…堪ユヘケ
ンヤ。
今日
ニ当
リ現行条約ノ改正意ノ如ク行ハル弘モ人民ノ
智
識ニ富マサル以上ハ之 ヲ永世ニ維持スル能ハサルハ理ノ明カナルモノナリ
。 故 ニ外夷ニ侮ラル旨ト之ヲ禦スルトハ教育ノ盛衰 ニ関ス。
是ヲ以
テ
轡キ
ニ嬢夷ニ熱
心セシ者ハ死ヲ決シテ
教
育ヲ進メ
サルヘカラスc
又天下国
家ノ為ノミ ニアラス。
一身一家ノタメニ必ス欠クヘカラサルハ敢テ喋々ヲ待タス。
(二一谷有信・御井御原山本郡) この三谷の発言に見られるよう
に中学校教育を必要とする教育要求は幕末維新の政治変動
の中 で否応なく形成 されてきた政治感覚の中から生み出されたものであった。
そしてそうした政治感覚を共有する人間が学校教育を 通じて再生産されるような機能を中学校本校に期待したのであったと考えられるし、
その感覚は発言中
にも窺わ
れるように非常に切迫した危機意識をはらんだものであった。それ故に本校の設置は当議中学区の浮試に・か・か-Pる問題であって、
それは分校(嘉穂学校などの系譜として位置づければ)であってはならず、
本校であることに
よってのみ存在意義を持つ
ことができるものであった。
こうした教
育要求は第一に一定の水準
を維持した社会階
層再生産機能を擁した中学校本校の全県的普及(少なくとも自身の
選出地域を含んだ)を求めるものであった。
但し、
こうした中学校教育を普及させようという発想は県が
構想する中学校観とはやや趣を異にするものであ
った。
県と しては「学歩ノ進ムニ従テ中学ノ普及ヲ謀ラサル可ラ
ス。
普及ヲ謀ル
トキハ多校ヲ要セサルヘカラサ ルノミナラス況ンヤ既ニ構設セシ者ヲ破潰シテ一校
或ハ二校トスルハ情実ノ忍ヒサル所ニシテ且折角進歩セルモ ノヲ退却セシムルニ至リ芳以テ本年ハ先ツ六本校十三分校
ト為スヲ適宜恰好ノ設ケ方ト信スレハナリ」
(仁尾惟
茂・県属)と普及その
ものの流れは良しとしつつ
も「E又中学ノ教科
ハ高尚一貫シテ大
学ノ根基ヲ為ス者ナレハ 其教師タル者ハ大学
卒業各科専門ノ人ヲ要セサル可ラス。
従テ其費用モ彩多ナルノミナラス」
(仁尾惟茂)と学
校数制限の根拠を大学卒業
者の教員登用に求めざるを得ないので「固ヨリ一町村
又ハ一郡区父兄ノカヲ為シ能ハ サル所ニシテ一一県父兄ニ代ル議会ノ費用則地方税ヲ以テ支弁スルコト決シテ各員唱ル処ノ自由教育又分権主義等 一抵触スルコト莫ク之ニ応答セリト認ムルナリ」
(仁尾惟
茂)と同意を求めた。
しかし、
県の中学校観はあくま で「大学ノ根基ヲ為ス者」
であって、中央の
大学と地方の中学との接続の観点からの体系的中学校教育を構想し ているのであって、
そ こには基本的な発想のずれはあった。
六本校論に内在する中学校教育要求の求める第
二の点は人材の中央への輩出である。
これは中学校を全県的に
二八五
頁
二八六
普及するという考え方とは相対立するものにみえるが、
国家的人材を章出することは西南の役後の地域的出遅れ を回復し、
国政のイニシアチブをとるという意味に於いても重要なことであった。
彼ら「上等人民」の代表にと って中学校の普及を
主張する一方で何らかの人材輩出の手段は考えられなければならなかった。
人材の中央への 輩出という課題は中学校の普及とは表裏一体の問題であったのである。
しかし、
これをじっくりと中学校が充実 してくるまで待つ余裕はなかった。
実際中学から大学への道は途はまだ作られていなかったからである。
彼らは それ故に県がい
う中学校の充実↓大
学進学 という理念型を
信用していなかったのである。
六本校説を提案した岩 崎一太郎が「本
校ニ各千五百円分校ニ各千円ニ減セン」
七)と発言したと
きに、
本校 の拡張を主張する三谷は
「其費用ヲ減ス
ルノ点ニ至リテ本員ガ決テ左祖スル能ハサル所タリ」と反駁し、
その 理由を「本県学生ノ景況ヲ 見ルニ 本県内 一ノ語学ノ教授所ナク偶々官ノ召集ニ応ジ其試
験ヲ受ク
ルニ当 リ港第スル者多クシテ己ヲ
得ズ他府 県ニ留学セザルヲ得サルノ場合ニ至リ学生ノ難渋思ブベキナリ。
故ニ此ノ語
学モ亦夕起サ旨ルベカラズ。
労タ此 ノ問題ノ費用ヲ節減スルヲ不可トス」と述べている。
すなわちこの語学所とは中央の高等教育機関(東京大学等) への捷径を設けようという
構想にいたるものと
考えることができ
る。
これは後の英語専修
校構想につながるもの として注目できる。
県会ではまず五本校を設置する動議をいったん二十六名の過半数で可決した
あと、
「地勢ヲ按スルニ福岡ニ萱 屋豊津ニ久留米ニ柳川ニ本校ヲ置キ独リ甘木ノミヲ除クハ実ニ不公平ノ甚タシキモノト言フヘキナリ」
(内藤半
次郎・御井御原山本郡)の動議を再議して三十五名の多数を以て六本校制を採択したのであった。
二八七
頁
この決定は中学校教育要求の求める普及と充実というこつの課題を明確にしたことと、
ある意味では次に積み残したと言えるのである。
それらの婦が困μのω附ゆいを
正格化政策と福岡県の地方的課題 明治十四年七月、
中学校教
則大綱が定められ、
ようやく中学校についての文部省の積極的指導が始まった。
所
謂中学校教育の正格
化政策が開始されたのである。
中学校教則大綱5は中学校教育の目的を「中人以上ノ業務 一就クカ為メニ必須ノ学科ヲ授クルモノトス」
(第一条)と定め、
組織を初等科と高等科に区分した(第二条)。
そして高等科について「高等中学科卒業ノ者ハ大学科、
高等専門学科等
ヲ修ムルヲ得へシ」
(第九条)とし、
上
級学校とのア!ティキュレlショ
ンを明確にした。
加えて「但大学科ヲ修メ
ントスル者ハ当分ノ内必須ノ外国語 学ヲ修メンコトヲ
要ス」
(同但書)とそのために外国語の素養を求めたのであった。
これは東京大学予備門が果 たしていた役割を
中学校に拡張しようとしたものであったといってよい完vo 明治十五年の県会において中学校教則大綱に基づき、
従来の六本校を以て新制度に於ける中学とする旨提案し たのである。
その趣旨は左の答弁にあらわれている。
原案ハ元ト中学校ヲ悉ク維持スル処ノ按ニ非ス。
即チ十五年度ハ
初等科丈ヲ置ク見込ナレハ初等科丈ノ
授業ニ齢テハ原技ニテ柳カ支ヘナシ。
文タ英語ヲモ雑ユル精神ニテ文部省ヨリ英語ヲ加ユルモヌ〈ナシ トノ逮アリシニモ拘ラス管内ニ六校アレハ十分ナリト信セリ
。現今ノ中学多キハ二校百名以上ニ超ルモ
二八八
ノアレトモ少キハ僅々弐三十名位ノ処モアリ故ニ中学
ノ数多キトキ
ハ従テ教員ニ匿シキヲ以テ月給等モ 多ク与ヘサレハ容易ニ承諾
セス故ニ僅々タ
ル弐三十名ノ生徒アル学校ト難トモ定額ノ費金ハ支消セサル ヲ得サルナリ。
然ラハ其効益アルヤト顧ミレハ斯ク高額ノ金ヲ費ス丈ノ効益ハアラサルナリ。
又タ英語 ヲ交ユルハ中学校ハ大学ニ進ムノ階梯ナレハ適々東京ニ到リ入学試験ヲ受クレトモ英語ヲ知ラサルカ故 ニ他ノ学力ハアリト難トモ為ニ落第スルモノアレハ福岡久留米柳川等ヨリ屡々原書ヲ加ヘンコトヲ切望 スレトモ是迄ハ費額ノ不足ヲ生スルヨリ線テ拒絶セリ。
故ニ今改正シテ六校トナシ費額ヲ多クシテ充分 生徒ヲ養成センコトヲ欲スルノ精神ナリ。
(谷直行・県属) 県の基本的考えは教育令改正及び中学校教則
大綱の制定による正格化政策を受け入れ、
「中学校ハ大学ニ進ム
ノ階梯」
であるという認識を明確に打ち出した。
その上で東京での福岡県出身生徒の入学試験対策としてまずは 英語を六中学校で教えられるようにしようと
いうものであった。
そして具体的には①初等中学のみをつくる、
②
大学志望者のために英語を教える、
③そのために一校あたりの費額を増やし
て校数を六校に限定するというもの であった。
この原案について常置委員会の意見書が提示された。
それは左のようなものであった2;
二八九
頁
常置委員会意見書 右原妓ヲ賛成
シ或ハ本分校共
昨年決議額通リ
ニシテ 本校而己
三
失語科ヲ置クノ説アリシモ遂
ニ八千六
百八十二円ト修正スルノ意見過半数ヲ得タリ其理由ハ今日ニ当リ文部省達
教則ノ 大綱ニ 基キ完全ナル学 科ヲ布キ善良ノ教育ヲ施サント欲セハ須ク其力ヲ一所ニ集メ其規模ヲ大ニシ是カ拡
張ヲ謀ラサルヘカラ ス然ルニ今其力ヲ分チ六本校ヲ設置シ之ヲ将来ニ維持セントスルトキハ費額ノ充分ナラサルヨリ皆共ニ 充分ノ拡張ヲ謀ルニ足ラス学歩ヲ
シテ退却セシムルコトアランコトヲ恐ルルナリ依之五本校ヲ廃シ一校 ヲ福岡ニ設置シ完全ノ教育ヲ施スヲ以テ良策トス而シテ従来ノ五本校十三分校ノ如キハ地方費ヲ以テ年 々幾干ノ補助ヲ為
シ之ヲシテ公立タラ
シメハ決シテ学事ノ
進歩ヲ妨クルコトナク大ニ実際其功
ヲ見ルヘ
シト信認ス
常置委員会は正格化政策を受けとめ、
「完全ノ教育」を求める方向で福岡に一校の中学校を置くという論を展 関したのであった。
この意見書の主旨は中学校教則大綱に
準拠した
中学校をつくるには従来の地方的な中学校教 育の要求に応えていく中学校、
すなわち地域内で完結していく中学校教育を脱却し、
卒業後は大学と結
びついて
いく中学校となるべきである。
そのためには福岡県では一校に力を注ぐべきであるとするものであっ
た。
こうし
た中学校について
「完全ノ教育」を求める意見の流れを前述の中学校教育面ヌ求の課題のJ面・から「充実論レ
と呼び、逆に中学校教育の普及を進めようという議論を「普及論」としておきたい。
二九O ところで、常置委員の一人で県議会議長でもあった中村耕介(早良郡)は敢えて一時議長を交替して自身の発
言の機会を設け「本員ハ原案ノ六本校ヲ維持スルノ説ヲ賛成スルナ
リ。
本員ハ常置委員会ノ時ヨリシテ其説ヲ吐
ケリ。而シテ遂ニ過半数ノ為ニ一中学ニテ委員会ノ意見ヲ報道スルニ至リタルハ甚タ遺健トスル所ナリ」と述べ、
この意見書が作成される過程で常置委員会内部での意見が分かれたことを示している。当時の常置委員名と
県会
での発言から拾ったそれぞれの意見を列挙しておく。
堀尾彦六郎(福岡区)一校説
中 村
耕介(早良郡)六校節
入江淡(仲津郡)十九校説
郡
利(福岡区)一一校説
師富進太郎(上妻都)一校説
古賀小太郎(山門郡)十九校説
南 J 11
正雄(志摩郡)会議中自説は表明していない
令市置委員会では一校説が過半数で他を制したというから南川は}校説であったと思われる
。
そうすると常習委 員会は四対三で押し切ったことになる。
わずか七名の常置委員会で意見書の内容を強引に押し切ったところに中
二九
頁
学校
教則大綱以後の県会内での中学校観の動揺があらわれ
ているといえ
よう。
県会では充実論、
普及論の双方から反論が出た。
充実論は「中学校ノ成立ヲ
見ル ニ六中学ニスルモ
完全無欠ノ 教育ハ出来サルナリ故ニ寧ロ一本校トセント欲ス」
(梅津慾・早良郡)という一一校説に代表されるものである。
梅津が明瞭に言い切るように一校説の主眼は一刻も早く「完全無欠ノ
教育」を構築し
ようというところにあった。
故に「抑モ都会ハ人物ノ頼湊スル処ニシテ愛ニ設置セサル可カラサルナリ。
是レ大学校ノ設ケ三府ニ限ル所以ナ 一体学事ハ
都会ヨリ始ムヘキモノ
ニテ去リトテ辺郡
ニモ欠ク
,ヘカラサル
ハ論ヲ侠タサル処ナレハ各部共ニ小 学校ノ設ケアル所以ナリ。
文タ経済上ヨリ考案ヲ下スモ県立ヲ一校ト
シテ他ハ補助ニスル方ヲ可ナルヘシト信ス
ルナリ」
(師富進太郎・上妻郡)という一点集中の方法に到るのである。
そして「今日ノ民度未タ
放任シ難
キヲ 以テ一ノ完全ナル本校ヲ福岡ニ置キ充分ノ教育ヲナシ他ハ線テ補助スヘキ者ト信スル」
(内藤茂三郎・上妻都) と成り行きとして福岡にその一校を置くというものであった。
そのため一校説はやや
もすると福岡偏重の観を与 えて反発を招いたため
、充実論者は懸命に防戦した。
-・此迄 ノ十九校ヲ一中学ニスルハ此迄中学ノアリシ郡ニ対シテハ不信切ノ様ニ思フ人モアルヘシ。
然
レトモ教育ノ要迄ヨリ見レハ充分全
力ヲ一校ニ注テ完全ナル中学ヲ置クヲ以テ効益アルモノト
ス。若シ
マタ各都ニ於テモ必ス中学ヲ置サルヘカラスト五フ程/葬アラハ自カラ番テ起サハ可ナリoX/中学ニ スレハ他郡区ヨリ里程ノ遠キヲ憂へラル》人モアルヘシ
。
然レトモ此中学ハ小学ト異ナリ真ニ志アリテ 勉学セント欲スルモノハ決シテ道ノ遠近ヲ間ハサルヘ
シ。
旦ツ一中学ニスルモ他ハ全ク廃止スルト云ブ
ニアラス。
幾分ノ補助ハ必ススル積リナレハ其ハ九号議案ニテ議スヘキナ
リ。
又其位地ノ如キモ固ヨリ 満場輿論ノ帰スル所ニ任スルノ意ナリ。
(郡利・福岡区) この郡の発言に象徴されるように充実論は中学校教則大綱下での中学
校教育は特殊俊秀のための教育と考えて
おり、
その意味では小学校に続く完成教育ではなく、
「(一本校説は)残酷ノ仕方ト云人モアレトモ此一本校タ ル県下ノ為メニ設クル者ナレハ志アル者何処ヨリモ来リテ入校シ充分修業ヲ為シテ可ナリ。
却テ奨励ノ端トナル
ヘシ」
(堀尾彦六郎・福岡区)という発想に基づいてお
り、
俊秀を世に出していくための教育であると考えてい
た。
それは藩閥政府の中
に人材を送り込めていない福岡の
「上等人民」
の焦りを示してもいたのである。
ところで充実論は「完全無欠ノ教育」すなわち正格化政策に
則って上級学校とのアlテ
ィキュレlショ
ンを持
った学校を設立するという考え方を根底に持っていた。
その立場から吉田柄二郎(那珂郡)は梅津の一校説を補 強する形で左のような修正説を提示している。
-・・・今本員ノ陳セント欲スル処ノ金額ハ四万五千百四拾六円
ナリ。
此内俸給ハ二万零百三拾六円トス。
二九二
而シテ中学教則ノ初等高等ノ全科ヲ備ヘタルモ/-校ヲ設ク。英語学ハ本年高等ニ進ムモ/ナカル〈シ ト思ヘトモ他ノ学事ハ高等ノ点ニ昇ルモノアルヲ信スレハナリ。
故ニ此ノ二枚ノ俸給ヲ四千六百八十四 円ニシテ総計六千四百四拾四円トシ仮令ヒ生徒
ハ一
人ニテモ百名ニテモ此ノ金額ハ興コルナリ。
又タ残
リ十八校中ニ
ハ二十人乃至百七十人迄ノ生徒ヲ昨年来養成セリ。
然ルニ各校生徒ノ数ヲ平均スルハ能ハ サルヲ以テ分校ニハ補助トシテ八百円ヲ与
ヘ生徒百名
ニ充ルノ校ヲ以テ
一ノ中学校トス。
而シテ八
百円 ノ補助ハ高等小学以上変則中学等ニ支用スルモノト
ス。
百名以上ハ弐千五百円ヲ与ヘ
テ中学校ト定メ八 教場ニ教員九名一人平均月給拾五円一校一千七百弐拾六
円、
百名以上十人ヲ増ス毎ニ弐百円ヲ与へ四千 円ニ至リテ止ム。
然ルトキハ百五十人ノ生徒アルモノハ三千五百円ノ費額ニシ
テ二百名ノ極度ニ達ス。
又タ三千五百円以上ニ至レハ英語教師モ璃スルコトヲ得ルモノト信認セリ。
因テ十八校ヲ平均シテ半数 即九校ハ百名ニ充タサルモノト見、
九校ハ百名ニ昇ルモノト仮定シテ
百名以下ノ校ニハ八百円ヲ与へ他 ハ平均百五十人トシテ三千五百円ヲ与へ合シテ前陳ノ額ト
ナルナリ。
先ツ本年ニ於テ此ノ如クナシ置カ ハ来年ニ至リ完全無欠ノ
モノニ成スヲ得可キナリ。
吉田の考えはまず初等高等の全科を擁する完全無欠の中学校を一校設置する。
そしてそこで英語学を取り込み 進学機能を持たせる。
そして残り十八校
のうち百名以上の十校は中学として認め、
生徒数に応じた所定の金額を 渡す。
そして生徒数百名に満たない学
校は
八百円の補助金を与えて
高等小学校ないしは変則中学校として運営さ
二九三
頁
二九
四 せるというものである。この考えは何より初等高等全科を備えた完全無欠の中学校をともかくJ校設置すること
にした上で他の学校の階層化をはかったものである。
一方、
普及論は十九中
学校(従来の六本校十三分校をすべて含む)を主張するもので、
口火を切ったのは牛島 正九郎(上妻都)であった。
牛島は本
校分校の区別にまず反対する立場をとり、
そこからの十九校説であった。
本員ハ中学ニ本校分校ノ区別アルヲ好マサルナリ。
之ヲ廃シテ一一般ニ中学校トセント欲スルナリ。
或ハ
十九中学ハ多キニ過ルトノ説アレトモ元ト中学ハ普通学科ナレハ之ヲ小学校ノ数ヨリ割出ストキハ決テ 多キニアラサルナリ。
且ツ一方ニ一偏スルハ普通学科ノ性質ニ組甑スルモノナ
リ。
故ニ八号議案でアハ全 ク剛除シ此ノ金額ヲ九号議案ノ補助費ニ加へ在来ノ学校ヲ悉ク補助セント
欲ス。
尤モ英語科ハ一様ニ設 ケ配布法ハ原案ニムハ歩ヲ増シ三万六千円トシ各中学校ニ千円宛ヲ配当シ其余ハ生徒ノ数ニ割当テ五十人 以下三十五人迄ハ千円五
十人以上ハ十人増ス毎ニ百七拾円を給シ四千円ヲ以テ極点トス。
而シテ又タ授 業料ヲ上ケ費額ノ幾分ヲ補フ積リナリ。
果シテ然ルトキハ文部省ノ教則ニ拠リ充分養成スルコトヲ得ル
ト確認セリ。
牛島の発言には中学校教育を普通教育の完成教育であるとみなし、
それが故に県下に平等に教育機会を与える べきであるという視点が含まれてい
る。
これは充実論が持つ上級学校とのア!ティキュレiショ
ンを意識する発
二九五
頁
想とは根本的に異なるところであった。ヰ島は「抑モ中学校ハ小学校/老歩ヲ進メタルモ/ニテ性質ヨリ論スルモ普子カラシメサルヲ得ス。
今十九校ハ多シト陳スルモノハ畢寛維持ニ苦ムヨリ出ルモノト信ス。
又タ福岡ニ壱
ノ本校ヲ設置スルト
ハ大ヒナル考エ違ニテ中学校ニ
テ大学者ヲ養成セン
ト欲 スルモ又タ誤マリナリ。
」と一一校説
を論駁しつつ小学校に続く課程としての中
学校を構想していた。
そして牛島はさらに積極的に十九中学校を公立 中学校に転換することを提起した。
本員カ殊更ニ公立ト云フ事ヲ主張スルモノハ県立ニシテ之ヲ地方税ヨリ維持補助スレハ何時迄モ際限ナ
カルヘシ。
是非共一度ハ残酷ナル処置ヲ為シテ公
立二セサルヲ得サル
ナリ故ニ寧ロ今日ニ断行シテ公立 トセ ント欲スルハ彼ノ残酷ノ処置ナカラシメン
ガ為メナリ。
ザ右シ地方
税ヨリ補助スル処ニテ不足スル箇 処ハ人民カ奮発シテ協議費ヲ以テ補助セハ可ナリ。
其レカ出来ス位ナラハ其所ノ人民ハ中学校ヲ設置ス ルノ民度ニ進マサル者ト見倣サ旨ルヲ得ス。
故ニ高等小学ヲ置テモ満足ナルヘシ
一方、
入江淡(仲津郡)は「県立トシテ十九中学校悉ク存スルノ説」を提案した。
この提案は「現ニ県立中学 テサヘモ充分ノコト出来サル
ニ之ヲ公立ニシテ人民ニ放任スレハ漸次中学ハ消滅ニ帰スルヤ」(佐々木七五三・
三池郡)という維持面から支持を得た。
それと同時に背景には充実論派の議員たちの多くが福岡近郊選出の議員 であることによる反発も少なからずあった。
例えば民権派議員である多国作兵衛(夜
須郡)は「各員等ノ論旨ヲ
聞クニ一本校ヲ主張スルハ皆ナ福岡近隣ノ人ノミ三本校ヲ主張スルハ皆ナ共地方ニ設置ス〈シト思ブ菌製/人/
ミナリ。
是レ実ニ利己ノ論旨トモ思ハル。
又タ自己ノ信スル処厚キヨリ起ルコトモアランヵ。
併シ右ノ如クナレ ハ一本校ナリ三本校ナリ其地位ニアラサル箇処ノ生徒ハ甚タシキ残酷ノ処置ヲ受ケ云ブヘカラサル不幸ヲ来スノ 理ナレハ本員ハ一本校三本校ノ論者ニ対シテ徹頭
徹尾駁撃ヲ試
ミン
ト欲スルナリ」と
一校説が福岡近郊の
議員の 地域的な利己主義であると責めたてた上で入
江説の支持を表明している。
しかし、
そうした議論と並行してタテ マエとして所謂正論としての自由
教育論は県会内でも一定の説得力を持って
いた。
充実論の立場に立つ占部三折 (鞍手郡)は「二十一番(入江)
ノ説ハ悉ク県立トシ生徒ノ多少ニ依テ
金額増減スルトナレトモ本員ハ公立トシ テ人員ニ依リ金ノ
増減ス ルヲ欲セス
。萄シ二十一
番ノ如クセ
ハ不進歩ノ処ハ益衰額シテ終
ニ消滅スルニ至リ
進歩
セル処ノミ益幸福ヲ得ヘシ。
現今隆ナル処ハ干渉セサルモ退歩スルコトアラサルヘシト灘トモ
微々タル処ハ是非 干渉奨励セサレハ能ハサルモノト信セリ」と無条件の干渉主義が教育ヲ衰額させ
るのだと入江らの
言説を批判し
ている。
そして「本員モ地方税ヨリ補助ナドト云ブコトハ好
マサレトモ今日ノ勢干渉セサルヲ得サルヲ以テ止ム ヲ得ス補助スルモノニテ実ハ本年ニ於テ是レカ端緒ヲ関キ地方自治ニ任
カスルノ精神ナリ」と自身の充実論こそ が自由教育の精神に則っているものだと明言し、
多国に対して「六十七番(多国)
ハ平生改進
ヲ取テ本県ノ板垣 君トモ尊敬セ
シニ宣ニ図ラン
ヤ意外ノ論説ヲ出サル
ニハ蓋シ猿モ木カラ落チ玉
ニ一批トモ謂フ可キ歎。
六十七番ノ
為メ切ニ…倍ム処ナリ」と民権議員多国を非難した。
これに対して多国は「本員ハ平生改進ノ持論ナ
リ。
然レトモ 之レハ中央政府ニ向テノ仕事トニ
シテ地方ニ向テ急進ヲ取ルニハアラサルナリ。
先日来陳スル如ク他ノ議按ニ対
二九六
シテハ成ル丈ケ自由ニ任カスルモ学事ノ一点ニ決テハ干渉セサルヲ得サルナリ。
ヌタ中央政府ニ向テ急進ヲ取ル' ハ地方ノ人物ヲ養成スルニ在リ。
然ラハ人民ニ放任セン乎。
未タ民度ノ進マサルヲ奈何セン」と応答している。
中央に対しては
急進だが地方では別だというのである。
民権派の自由教育論と公教育の組織化について、
かつ
て黒崎勲氏は福島県会における民権派の発
一吉
を分析して
「公教育の自主的な組織化の志向」をその中に見出し、
「福島民権派の場合、
こうした公教育の自主的組織化を 在村の実践として現実化させていた
ところに重
大な意義があった」と指摘した。
そして「地方税による中学校が 特定の社会的性質を必然的にもつことを認識し、
そうした中学校
を自らの
教育発想に照して批判した
のであった」
と評価した(十二。しかし、
福岡県の場合、
そうした理論は一種の「正論」としては遡上にのぼるが、
多国の発言 にあるように最も肝心な実践に於い
ては組織化より現実に中学校が自身の選出地区もしくはその近傍に置かれる か否かに関心が集中したのである。
県立ではなく協議費を主体とした公立を提案する牛島でさえ、
自主的組織化 の発想はないのである。
どうしても公立でなければならないのか、
とい う質問に対して牛島は
「精神ハ県立ニテ モ公立二テモ可ナレトモ議会ニ提出スル処ハ一方ニ確定セサルヲ得サルニ付先ツ公立ヲ以テスル意ナリ」と答え ており入江との違いは「大同小異ナリ」
(古賀小太郎・山門郡)とまと
められ る程度のもので
しかなかった。
ところで充実
論と普及論には根本的
な違い があるように思われ
るが、
すでに言及したように議員の代弁する
「上等人民」の中に存在する二つの
中学校教育に対する
教育要求が形を変えてあらわれているのだと見ることが
できる。
ひとつは自分たち上等人民を再生産するための
地域的に完結する完
成普通教育の要求であり、
もう一つ二九七
頁
は一日も早く自分たちの子弟の中から中央ヘ人材を章出するためのルートを確立したいという要求である。
二つの教育要求はいずれも原点は同じ階層的欲求に基づいているが故にジレンマをかかえていた。
このジレンマ
ザレ爪W
が中学校教則大綱を契機に表出してきたのが充実論と普及論の対立であったといえる。
それ故に両論の板ばさみ となって原案通りの六中学校説を支持する議員も少なくはなかった
。先
にあげた議長の中村耕介は「本員ト難ト モ今日一
校モナキモノト
シテ見レハ一中学カ三中学カヲ適当
ト思ヘトモ既
ニ十三
年ヨリ六本校十
三分校 ニテ維持 シ来リタレハ今之ヲ一時ニ廃スルハ甚タ好マサル所ナリ」と述べたが、
それは彼之の胸中の葛藤を物語っている。
また六中学校説
の最も熱心な支持者であった三谷有信(御井郡)は
「中学校ハ普通学科ナレハ農学校等ノ如キ専 門学校ノ類ニアラス。即チ小学科ヲ卒業シタル
モノ注入校スル処ナレ
ハ地方々
々ノ便利ヲ図リ設置セサルヲ得ス。
然ルヲ一本校ニスルトキハ偏モ亦タ甚タシ
ク先キニ建議シタル始審裁判所ヲ以テ其如何ヲ知ルニ足ルヘシ。
又タ
四十七番(牛島正九郎)
ノ如ク三
万六千円ニモセハ宜シカルヘシト
難トモ実
際上費用ノ一
点民力ノ
如何ヨリ
考フ
レハ其丈ケ増額シタル程ノ効益ハアラス。
本員ハ益六本校ノ至公至平ナルヲ覚ユ」と両論の欠を補う観点からの 六校 説を展開した。
しかし、
三谷は「今之ヲ六本校ニスルトキハ多少ノ不便ハアルヘキモ区域狭陰ナルニ依リ全
二三里ヲ
隔フル位
ノコトナレ
ハ随分ン忍ン
テ寄宿スルコ
トモ出 来スヘシ実ハ本員カ六本校ノ地位ニアリナカラ此 クノ如キ
説ヲ主張スルハ少シク利己ノ如クナレトモ一般生徒ノ為メヲ慮リ復タ其額ノ事ヲ願ミ止ムヲ得サルニ出 ルモノナリ」と口を滑らせ、
彼もまた「六十三番(三谷)
ハ自己ノ住所カ六本校ノ地位
ナルニ付テ決テ他ノ方法 ニハ変換セスト一五ハル弘ハ実ニ不都合ノ議論ト思惟スレハ
飽マテ之ヲ駁スルナリ」
(朽網浪江・三瀦郡)と応酬
二九八
二 九九 頁
されている。ここでも選出選挙区との利害関係が少しずつ見え隠れするようになってきていたし、六枚J説じたい
が「上等人民」内部の揺れ動くふたつの中学校教育への教育要求のジレンマを象徴するものであったといってよ
いだろう。
結果的にこの県会では入江の県立十九中学校説が賛成三十一名で過半数を制し
た。
但しこの日の出席者は六十 名であり(欠席十三名)
、かろうじて半数を上回ったに過ぎなかったが、
ともかく可決したのである。
ところが第三次会で藤金作(粕屋郡)から「本案
中々学校費カ二次会ノ
修正通リニテ
ハ実施施行ニ不便ヲ生ス ヘシ依リテ不得巳修正説ヲ提出ス」との動議が出されたのである。
その内容は左のようなものであった。
中学校費ヲ二万弐千五百円トス。
内訳九千三百九拾六円俸給八百九拾壱円給与六百拾弐円旅費
七百九拾
弐円営繕費千
六百八拾三
円校 費百弐拾六円賞与九千円増員費ニシテ
県立中学校ヲ置ク処ハ福岡久留米柳 川豊津甘木橘香春小倉芦屋ノ九校ナリ。
各項費目ノ割合ハ二次会ノ節二十一番(入江)
ヨリ修正説ヲ陳 セラレタルト同一ナリ。
又タ芦屋香春両校ハ二十人ノ生徒ヲ増スモ三百円ノ増員費アレハ可ナリ。
実際
二十人宛ヲ増スモノニアラス。
或ハ十人或ハ三十人モ増ス処アルヘシ。
八十人以上ノ増員費ハ二次会決 定ノ割合ナリ
。而シテ別ニ生徒授業料ハ
其校限リ云々トアルヲ生徒授
業料ヲ廃シ其校限リ寄附金ヲ募集 シ其項ノ費用ニ加フルハ適宜タルヘシト修正ス。序ニ陳ス。九号議案ノ金額
ハ壱万五千五百七拾五円
ニ
シテ内壱万五千円ハ郡区公立学校補助費
ニシテ賞与費ハ二次会決議
ノ通リ五百七拾五円ナリ。
一一一cc すなわち、県立十九校といったん決定したものを県立中学校を九校とし、他は各都に郡区公立学校補助費とし て投げ渡して、
「高等小学校以上」の維持にあてるというものであった。
この修正案は藤
によれば「二次会ノ節
満場各員ノ説ト実際トヲ創酌シテ斯ノ如クセハ双方益アルヲ信シテ修正シタル也」
というもので、
普及論と充実
論をさらに調整しようとしたものと考えられる。しかし、反対意見が続出した。
この藤金作の修正案に対して賛 成意見を述べた議員と反対意見を述べた議員の一覧を見てみると(別表
一)、二次会での主張説と藤修正案に対
する賛否とは一貫性がないことがわかる。賛成者についてみると二次会で一校説を主張した者が三
名、
十九校説
を主張した者が五名であった。
彼らは概ね詳細もしくは積極的な賛
成意見は述べてい
ない。とくに二次会で十九
校説を支持していた議員は全員が意見を展開せず、
「賛成である」旨の意思表示のみを行っている。
また一一校説
をとっていた議員は「中学ノ事タル本員ハ県下ノ景況ヲ見テ何時迄
モ維持スルコトヲ得ル丈ノ数ヲ置テ完全ナル
中学トセント思ヒシモ二次会以来是迄ノ
中学ヲ廃スルコトハ各都ノ苦情
モアリ
テ到底行レサルコトヲ看破セリ。
実ハ大学ニモ入ルモノh為ニハ二三校ナリ
トモ完全ナルモノヲ設ケサレハ甚タ不幸ナレトモ去ル訳ニモ行カサレ
ハ己ムヲ得ス七十三番ヲ賛成ス」
(南川正雄・志摩郡)とか「修正説ハ二次会ノ決議ニ比スレハ本員カ旨趣ニモ
稲ヤ相近キカ故ニ之ヲ賛成スヘシ」
(野依範治・上毛郡)というように、
一定の妥協の中での賛意を示している。
その妥協点は十九校説よりは「完全無欠ノ中学」に近いものが出来る可能性
があるというところであ
った。要は
十九校説が二次会でギ
リギ リの過半数は得たものの三
次会を通過させることは難しいと践んだの
ではなかろうか。
一一一C一
頁
そこで一二次会を通過させるための交渉が普及論支持者と充実論支持者の間で行われ・たと推測することができる。
この九県立中学設置案は残りの十校に補助金を与えることで公立中学としての維持を可能にする二刀で、校数を
絞ることで一部の
学校の質
を向上させることもできるというまさに妥協案であった。
ところでこの修正案に反対した議員も二次会で
の発言は
多様であった。しかも「七十三番(藤金作)ニ質問ア レハ着席ヲ促サレタシ」
(牛島正九郎・上妻郡)とか「説
ヲ述テモ離席多クシテハ云ヒ甲斐ナシ。
願クハ議長ヨ
リ今少シ離席ノ濫リナラサル様制セラレタシ」
(川口束・上妻郡)
との発一百から議場が騒然としている様子がわ かるほどこの修正案は反対派の議員
には相当な反発を与えたのである。
その理由はどういうところにあったので あろうか。
まず修正案に反対
を唱えた議員はすべて筑後選出の議員であり、
修正案
を支持した議員は筑前豊前の選出議員
であったことに注目したい。発言の中には中学校説立に関して選出地域の利害に
言及するも
のは必ずしも多くは
ない。
例えば倉富恒二郎(竹野郡)は「元ト六本校十三分
校ヲ置キタルトキハ地形ニ依リ権衡ヲ取リタルナリ。
然ルヲ昨年ニ
至リ本分校共経費ノ異同ヲ生セ
シモ生
徒ノ多寡ニ依リ権衡ヲ取リタルモノナレハ
柳カ不都合ナシト
難トモ七十三番ノ説ハ十校ヲ切リ下ルモ実際ニ就キ調査シタルモノニアラスシテ地方議
員 ノ 説ト
一己ノ意想トヲ
以テ定メタルモノニテ甚タ其権
衡ヲ失シタルモノナリ。
又タ九中学ノ内芦屋香春ノ如キハ生徒モ少ナク萎扉振ラ
サルモノアリ。
而シテ配付法ハ生徒ノ数ニ依リシモノニモアラス。
補助ノ方法ニ於テモ甚タ権衡ヲ失シタルモノ ト認ムル」と設置地域及び補助方法の不権衡を
ついているが、
それが筑後の議員がそろって反対する問題である
Cコ
とは思えない。もしそれが問題ならば適切な位地について修正動議を・出せば済むことだからである。反対意見を検討していくと多くの議員が土木改正に言及している2:
土木改正問題とは明治十五年一月に地方税規則が改正となり、
「地方税ヲ以テ支弁スヘキ費目」に区町村土木 補助貨が加えられたことに端を発していた。この地方税規則改正により地方税から区町村の土木費ヘ補助費を出 す こ
とができるようになったのである。そこで「本年度は、改正準備の年間とし、其基礎を確立し、十六年に至
り改正を実行すること」として改正順序及び調整費用三千九百四十八円を計上した(十三)Oしかし、県会では審議 の結果この案を廃棄とした(十四)経緯があったのである。この土木改正否決という
結果
が筑後選出議員の修正案反
対につながってくるのである。修正案に対する反対意見を見てみよう。
七十三番(藤金作)
ハ各員ノ議論ヲ折衷シテ此説ヲ提
出セリト言ハ
ルレトモ其実意ヲ叩ケハ九校ノミ地 方税ニテ支弁シ他ノ十郡ヲ補助セサレハ我郡ニ損失ヲ生スル杯ト云フ卑劣ノ精神ヨリ該ル修正説ヲ発セ ラル注者ナルヘシ。然ルニ斯クノ如キ配付法テハ何様郡々ノ権衡カ取レサルナリ。土木賞ノ困難スラ地 方税ニテ支弁スルコト出来スト云ハルLニ協議費ニテ負担スヘキ中学ヲ地方税ニテ設置スルトカ補助ス ルトカ云フハ実ニ倒行逆施ト云ヘキナレハ此頃ハ全ク廃棄シタシ
(鐘ケ江義男・三瀦郡)
o
頁
すなわち、
土木費を地方税から支出できないのにどうして中学校費を地方税から支出できるのか、
という論法である。他の議員もおしなべて同様の主張を繰り返して反論した。筑後選出議員が土木貨を中学校費より重要視
して中学校費に反発するのは筑後川の治水の問題があったからである。筑後川は古来より反乱を繰り返し、筑後
川流域の人々は洪水に悩まされてきていた。廃棄された土木改正案には筑後川をはじめとする河川の修繕貨があ
げられていたのである。地方税規則改正にともなって可能となった区町村土木補助費の支出はこの土木改正案に
具体化されることになっていたのである。
ところが中学校費第二次会(六月十四日)とこの第三次会(七月六日)
の間の六月二十三日に久留米は洪水に見舞われている(十五vo
そういう情況での土木改正案の否決と九中学校設立
の修正案はは筑後選出議員の神経を逆撫でしたものと考えられる。
それ
は「土木ノ困難ナル洪水ノ為メニハ人馬
ノ流亡スルニモ地方税ニテ支弁スルコトヲ得スト云ヘハ中学校ノ県立ニテ設置スルハマタマタ愚カナリ。本員等 ハ此校モ分離シテ地方ノ土木費二打込ミ余力アラハ文ヲ学フコトモアルヘシト難トモ其ハ地方ニ於テ充分盛大ナ ラシムルノ意ナリ」(田中新五ロ・御井郡)と洪水の被害がなくなった上で初めて学ぶ余裕もできるものだとい う理屈になるのである。また二次会では一校説を主張した議員が「中学ノ如キハ元ト協議費ニテ維持スヘキ者ナ
ルヲ地方税ノ負担トセシハ未タ民度ノ進歩セサルニ依テナリ。最早ヤ今日ノ民度ニ至リテハ吃度協議費ニテ負担
セシムルモ不可ナカルヘシ。然ルヲ矢張リ旧慣ニ依テ地方税ノ支弁トシ土木ノ如キ困難ニシテ協議費ニ堪ヘサル
者ハ地方税ニテ支弁スルコト出来スト云ハ不権衡モ亦甚タシキニアラスヤ。」(内藤茂三郎・上妻郡)と中学校
費一は儲議費(で支弁すべきものという自由教育論的な発言をも行っているほど理論はタテマエだけのものになって