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場面と英語教授法 : GDMの研究

著者 岡 良和

雑誌名 主流

号 50

ページ 183‑197

発行年 1989‑03‑20

権利 同志社大学英文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015006

(2)

場面と英語教授法 GDM

の研究一一

岡 良 和

183 

Graded Direct Method (GDM)は, 1. A. Richardsとその協力者Christine Gibsonにより開発された英語教授法である.そのテキストとしてEnglish ThrghPictures Books  ,111を,そして教授用書として RevisedTeachers'  Handbook for English Through Pictures Books  ,111を利用できる.この教授法 の最大の特色は,教授者が,学習者の第1言語を用いずに,場面 (situation) を示すことにより授業を進めていくことである.本稿では,第I章で「場面 を見るとはどういうことか」を聞い,第

H

章では「学習者が,教授者の期待 通りの場面の見方ができるのはなぜ、かj を問うことにより, GDMのような 教授法がなぜ、可能であるのかを解明することが目的である.

最近の英語教育では,言語活動が重視されてきているものの,場面に注意 を払わずにこれが行なわれていることが多い. 1study every day."という 基本文を, yesterday"というキュー(cue)で過去形の文にしたり,寸om"

というキューで動詞を studies"に変えたりする,パタンプラクティス (pattern practice)がその典型である.ここでは,実際の経験を相手に伝 えるという,言語活動の基本が無視されている.学習者にしてみれば,自分 は昨日勉強したにもかかわらず, 1didn't study yesterday."と言わされた り,自分は13歳なのに, I'm twelve years old."と言わされたりする.これ に対しGDMでは,教授者は余りしゃべらずに,場面に応じた発話を学習 者から引き出すという指導方法が取られている.たとえば教授者が本を手に

(3)

184  場面と英語教授法

しただけで,学習者は Youhave a book.,"Y ou have a book in  your  hand.,"寸hatis  a book."などと,場面に適合した文を次々に発する.

GDMが場面を重視する理由は,日常,文を発する場合は,常に場面にお いてなされるからである.たとえばポケットに手を入れてみると,指先にさ わるものがある.さて何だろうと思い,出してみると鉛筆である.こういう 場面で,英語であるならば, Whatis  this?一一一Itis  a pencil."という文が 発せられるのである 1 GDMのいう場面では,言いたいことを発するので あるから実感が伴う.英語の授業で,教授者が本を持ち,学習者に What is  this?"と聞いたとすれば,わかり切った物をさして what"を使うことに なる.これは実感を伴っていないために,場面に根ざした文の使用とは言え ない.こういうわけで,英会話の入門書や中学校の教科書に出てくる,

r

便局にて」ゃ rJaneの部屋にて」というようないわば仮空の場面は, GDM  のいう場面ではないのである 2

GDMでは,新しい丈型の導入は,学習者の第1言語を介さず,場面を使つ てなされる.これを no+名詞"の導入を例にして説明する.

l.教授者が本を5冊手に持って示すと,学習者は,既習の文型を使い,

You have five books in your hand."と発言する.

2.順次1冊ずつ減らしていくと Youhave four  (three,two)  books  in your hand,"と反応する.

3.  2冊になった時,全部置いてしまうと,手に何もなくなり,学習者 はイ可も言えなくなる.

4 ここで教授者が, 1have no books in my hand."というと,学習者 は,実感を持って You have no books in your hand."と言える 3

第2例として,不定冠詞の導入方法を挙げる.

1.自分や周囲にいる学習者の体の部分をに Thisis  my (your,his,her) 

(4)

場面と英語教授法 185  一 で 発 表 さ せ る .

2.図1, 2を用いて,教授者が図の中の人物の鼻,耳,口,目,頭な どを無言で指すと,学習者は Thatis  his  (her) で発表する.

3.図3のような絵を見せると,学習者は hisnose"とも hernose" 

とも言えなくなる.ここで Thisis  a nose."と導入する.

4.更に,口,耳,目に進み, amouth,"an ear,"an eye"に移る.

an"については, a"だと発音しにくいということをわからせるよう に,実例を多く与える 4

図1 図2

図3

これら2例のような教授法は,

r

ことばとは,見たものを描写するための 道具である.

J

とする,いわば言語描写説とでも言える言語観の上に,成立 していると思う人もいるだろう.この説は,神がアダム (Adam)に諸々の 物を見せ,それらを名づけさせたと旧約聖書の記述にもある通り,語句は物 につけられた名称であり,そして物同士が集まり関係しあって,ある事態を 作り出すのに対応して,物に対応する語同士が,物が関係づけられるのと同 じ仕方で関係づけられて,文が形成される,と説く 5 GDMでも,図3の 名称として anose"が導入されている.また 1am putting myhat on the  table."という丈は,図4のように導入されるが ここでは 1つ1つの事

(5)

186 

項に語句が対応しており,更に,事項の結合に照応させる仕方で語句を結合 すれば, この事態を示す文が形成される.

am putting  my hat  on the table  図4

ところが言語描写説の欠陥は,実際に知覚することのできる具体的な事態 を記述する丈以外の,主張・命令・疑問・未来・過去などの文を扱う時に,

露呈される. たとえば Iam putting my hat on the table."という文が,現 実の事態に対応しているのと同じ意味で, Didyou put your hat on the  table?"や, Willyou put your hat on the table?"という文が,現実の事態 を描写していると言えるのだろうか.第

E

章で検討するように, GDMでは,

このような直接自にすることのできない事柄を表わす否在の文も,場面を 使って導入される.すると場面とは客観的な実在物ではなく,学習者により 解釈されることによって存在化されるものではないのだろうか.

ここで,

1

可かを「見る j とはいったいどういうことなのかを考えてみる.

Ludwig Wittgensteinは,次の言明により,見るとは事実を認識することだ と主張している.

複合物を知覚するとは,その構成要素同士がかくかくに関わり合って と知覚することである.

いる,

(6)

187  このことは,次のような図形が二通りの仕 方で立方体と見られること,及びこれに似た をも十分説明するものである.

場面と英語教授法

全ての現象,

一 円 由 一

というのも我々はまさしく現実に二つの異 なった事実を見てとるからである.

5

そしてbをほ そして逆に行うと逆の (私がまずGの角を見つめ,

んのちらっと見やる場合 aが前方に現われる.

関係になる.)

つまり何かを見るということは,単に網膜に映像が写るということではなく,

有意味に構造化することなのである.

これを見て,

r

熊が木の向

このように解釈す である.

このことを更に強化するのが,図68

こうffllJにしがみついている.

J

と見る人が多いだろうが,

る人は,実際には見えていない物をも見ているのである.図5では,構造化 するための材料である線分は,すべて見えたのだが,今の場合はそうでない.

この図に有意味性を持たせることができる理由は, 前もっ それにも拘らず,

て熊を知っているからである.熊に関する知識のうちには,熊の足や爪につ これを持っていて初めてこの図を意味あるものと いての物も含まれている.

もし熊を今までに見たことのない人がこの図を見 ても,何の絵であるのかわからないか,あるいは別の解釈を施すかのいずれ かであろう.

して受け取れるのである.

いわゆる文脈が見方を決定するこ とを関連させると,

更に図7と図89

ウサギは見えてもアヒルは見ることができな とが理解される.図7を見て,

アヒ ウサギは見えにくくなり,また同時に,両図のアヒルーウサ ギの絵が同ーのものであることまでが,気付きにくくなる.

ところが同じ絵が図8の中に組み込まれると,

い人がいると思われる.

ルは見えるが,

(7)

188 

ll

γ ム

T L

11 λH Ml lA V/

 

図6 図7

以上の考察により,

r

見る」ということは,

r

ーとしで見る」あるいは

r ‑

で あることを見る

J

ということであり,虚心坦懐に与えられた物を眺めるとい うことは,通常あり得ないことが明瞭になった.

このことは,言語描写説に対する批判となる.ある事柄を見た人は,既に 解釈を行ったのであるから,ことばでありのままを描写するということはあ り得ないのである.こう考えてくると, GDMを説明するのに今までに使用 した「場面」という用語は,センス・データ (sense‑dta)としての意味仁 認識された構造体としての意味とが未分離であるために,あいまいであった ことがわかる.そこで「場面

J

という用語に加えて「場

J

という用語を取り 入れたい.

r

J

とは,生物学上の種としての人聞に,共通して知覚可能な 受動的認識像である. しかしながらこの水準では,その像は混沌とした感覚 印象の錯綜状態であるので,それとして有意味に認識されていない.

r

場面j

とは,この不分明な素材としての「場」が,一定の方向に有意味に構造化さ れた状態をいう.すると,教授者が,ある文型を導入するために,動作や絵 を示しても,学習者にとっては,それが何のことかわからないという場合に は,それらは教授者にとっては有意味であるために場面と言えても,学習者 にとっては,有意味化できていないために,場でしかないことになる.また 後に詳しく見るように,学習者が目標文型の意味を誤解した時には,同ーの 場に対する教授者と学習者の場面化の仕方が一致していないのである.これ らに対し,たとえば現在進行形を習得した学習者は,犬が走っていることに

(8)

場面と英語教授法 189  ついても,人が読書していることについても,この文型を使うことができる

ことからして,ある文型を習得するためには,異なったセンス・データとし ての場を,同ーの場面として捉えることができなければならないのである.

こう考えてくると, GDMで,教授者が示す身ぶりには意味が結び、つけられ ていることは確かであるが,しかしこのことから その身ぶりそのものが客 観的な意味を持っているのではないことがわかる.

前に挙げた no+名詞"の導入の場を,学習者はいかに見ているのか,つ まり場面化しているのかを考えてみる.教授者が,場面を作るポイントは,

「復習の段階まではどんどん発表できるのに,ある場面に来るとはたと生徒 が困って

r ‑

と言いたいんだがな.j という気持ち……

J

10  にさせること である.これでわかるように,場の意味づけが,学習者によって行なわれる のである.テーブルの上に5冊の本が置かれており,側に教授者が立ってい る場を,学習者は,

r

何も持っていない時にどういうのだろう

J

11  という 意味づけをして見ているのである.

r

ーでない」という意味づけは,否在の 場面であるので,単なる景色として眺めているのではでてこない.さて,こ の文型を導入した直後に,ある学習者が 'Theyare there."という丈を発し たとする.図5が視点の違いで2通りの別の事実として認識されたごとく,

この学習者は,同ーの場を別の仕方で場面化したことになる.

教授者の意図している通りの場面化を学習者が行なうことができるのは,

なぜだろうか.まず挙げられることは,場が,語や文型の持つ意味内容と,

形態上・構造上・その他の有契性を持っていることである.例えば, 1"と you"の導入は,次のようになされる.

1.教授者は学習者の1人を皆の前に出し,自分と向い合って立たせる.

教授者は自分を指して 1",その学習者をを指して you"という.

(9)

190  場面と英語教授法

2.学習者にも同様に自分を指して"1",教授者を指して you"と言わ せる.

3 .これを2,3人の学習者を使って繰り返す 12

また, 1am putting my hat on the table."や 1will give my hat to him."と いう文の持つ,

r

動作をする人+動作+動作の目的となる語+動作の方向十

目的地j という語順に,教授者の動作が一致していることも,有契性の例で ある 13 これに対し無契の場の例としては,文化の中で慣習化されたジェ スチャーが挙げられる.GDMでは有契性を保持することに留意がなされて いる.例えば第4文型では,

r

間接目的語+直接目的語」の部分に対し,有 契的な動作を示しにくいので,この文型の導入は後に回し,上に例として挙 げた文型に直したものをまず導入することになっている.

しかしながらこのような工夫があっても,示された場のどの部分が,どの ような有契性を持っているのかを認めるためには,積極的な解釈が必要にな る.そして解釈が介入する限り,誤った意味づけがなされる可能性があるこ とは,次のWittgensteinの説明を見れば納得がゆく.

「これを二という」 と言って二つのくるみを指すーーといったこな る数の定義は,完全に精確である. だが,それなら,どうしてこと いうものをこのように定義できるのか.この定義を与えられた者は r二」 ということばによってひとが何を名ざそうとしているのか分らず,この くるみの集まりが「二j と呼ばれているのだ,というふうに受けとるだ ろう. かれはそのように受けとることができるが,ひょっとしたら そのように受けとらないかもしれない.逆に,わたくしがこのくるみの 集まりに一つの名前をつけたいと思っても,かれがそれを数の名だと誤 解することさえありえよう.同様に,わたくしがある人名を直示的に説 明しでも,かれはそれを色の名,人種のしるし,さらにはある方位の名

(10)

場面と英語教授法 191  と取るかもしれない.すなわち,直示的な定義は,いかなる場合にも,

あれやこれやに解釈されうるのである 14

あることを直示的に定義する時,そこには無数とも言える情報が含まれてい るため,意味づけの可能性も,また多様なのである.同様のことが, GDM  についても言える.先に挙げた 1"と you"の場合では,

I

自分

J

と「相手」

以外にも,それぞれの場における情報は,性別・年令・服装・ 1"や you"

を繰り返す回数・どちらの手で指すのかなど,数多くある.また 1am put ting my hat on the table."という文の場合にも,置く速度や,帽子やテーブ ルの形や色や大きさなども,情報として存在する.

ある場を,どのような場面にするのかは,学習者の,それまでに積み上げ て来た経験や,教授者の動作の示し方によっても左右されるが,ここではそ のような要国は除外しておく.そしてGDMも外国語教授法の一つであるこ とからして,場面化に対する第1言語の影響を, B. L. Whorfの言語論を例 に採り,考える.Whorfは,ホビ語では,点的な現象を表現する相である,

点相を表わす原形語根の末尾を重複させた後に,継続接尾辞却を付加した 形が,一連の反復現象を表現することを指摘している.たとえば,

I

一つの きつい鋭角をなしている(itforms a sharp angle) 

J

という意味のho万は,

「ジグザグになっている(it is  zigzag) 

J

という意味を持つ ,hoci'citaに変化 する.そして

f

皮は,

The Hopi aspect‑contrast which we have observed, being obligatory  upon  their  verb  forms, practically  forces  the  Hopi  to  notice  and  observe  vibratory  phenomena, and furthermore  encourages  them to  find names for and to classify such phenomena.15 

と述べている。経験したできごとをどう見るのかが,言語によって強制され るということは,我々のことばで言えば,同ーの場に対する場面化の仕方が,

(11)

192  場面と英語教授法

それぞれの言語によって決定されるということである.

しかし,異言語間で,ある場に同ーの意味づけをすることは可能なのであ る.これはホピ語の表現を,英語や日本語に翻訳できることで証される.ホ ピ語により意味づけられた場面を認識できるからこそ,翻訳は可能になるの である.別の例を,エスキモ一語の中の,雪に関する語いに関して考えてみ る.エスキモ一語では,雪のさまざまな状態を表現するのに,多様な語いを 使っている.しかしこのことから,エスキモ一人が雪の状態を識別できるの は,語いのおかげであるとは言えない.英語の話者は, snow"では表現し 切れない場合には, wetsnow"や powdersnow"という言い回しを使うし,

また,更に詳細にある雪の状態を表現する必要に迫られた場合には,新たな 表現を作り上げることさえもするであろう.これらのことは,言語が知覚を 支配するのではなく,言語に先行する段階として,あることを表現しようと 志向する意識が存在することを示唆している.ホビ語を学ぶ者の意識が,反 復運動の表現を志向すると,彼はこの志向意識と語尾‑taとを結びつけるこ とができるし,またホピ語の話者も,反復運動を含みながらも,語尾 taを 使って表わすのにはふさわしくない場面であることに気づけば,別の志向を するようになる.

ではどのようにすれば,学習者の志向を導くことができるのであろうか.

先に我々は図7と図8とを比較して,文脈の中で見え方が決定されることを 見た.GDMでも,文脈形成が学習者の誤った見方を排除するのである 16

たとえば不定冠調の導入の際, anose"が理解される理由は,

r

所有格+名詞j が既に習得されていたため,これとの比較により,

r

だれの物とも言えない

J

ということに注意が向いていたからである.もし,この連闘がないと,特に,

日本語のような,冠詞を明確に概念化された形で持たない言語を既に身につ けている学習者は,突然図3を見せられでも,これを適切に意味づけること はできない.

更に複雑な例として,未来形・現在進行形・過去形の導入方法を挙げる.

(12)

場面と英語教授法 193  1.教授者が帽子を机の上に置くと,それを見て学習者は,

Your hat is  on the table."などと,既習の文型を使った英文 を発言する.

2 .未来形導入の手順は,教師が自分を指して I",次にテーブ ルの上の帽子を取り上げる動作をしながら willtakeヘ 帽 子 を指して myhat",テーブルから帽子が離れる動作をして off",テーブルを指して thetable"と導入する. 2, 3回繰 り返せば,学習者は you"を使って繰り返す.

3.現在進行形は,ゆっくりと晴子を取り上げながら, 1am  taking my hat off the table."と言い,導入する.

4 .過去形は,すでに取り上げた帽子を片手で持ち,何も持って いない方の手で,今行なった動作を示しながら, 1took my  hat off the table."と導入する 17

さて次に,以上の一連の動作が,どのように文娠を形成しているのかを検 討する. 1.で学習者がこのような文を発するのは,既習の文型を使おうと する意識によるのであるが,既習の文型は数が限られているため,発言され る文も 1.のような丈に限られてくる.しかもこれらの文は,静的な場面 r を使って導入されているので,学習者は,この場を,

r

ある物が静止した状 態にある j と見るように方向づけられるのである. 1.の場の見方が決めら れている上,動作を示しながら丈が導入されるのは,これが初めてであるた め 2.の教授者の動作を,学習者は,静止物を動かす動作として見る.

ところで,これらの3文型の導入は,日本語によるのではなく,動作のみ で行なわれる.このように,文の意味内容と類似した動作が、提示されるのな らば,学習者の誤解はあり得ないと考える人もあるかも知れない. しかしな がら,事態をそのまま文が描写しているのは,現在進行形の丈だけであり,

未来形と過去形では,現前しているのは物と手の動きだけである.これを未

(13)

194  場面と英語教授法

来形では「これから帽子を取る jと解釈し,過去形の丈では,

i

帽子を取ったj と解釈するのであるから,いわば見えていない物を見て取るわけである.そ のためには,動作そのものを見るのではなし未来や過去の概念を持って見 る必要がある.

複数の時制を同時に組み込んだ文脈を作り上げると,それぞれの時制問の 相異に学習者の意識は引かれるため,それぞれの動作を一義的に意味づけら れるようになる. 1つの時制だけを教えようとしても,学習者は理解できな い.GDMが他の教授法と違う所は 3つの時制がほぼ同時に導入されるこ とである.このことについて教授用書では,

i

時という観念を確立するため には,なるべく少くとも 2つの時制をまず導入するほうがよい.動詞をひと つだ、け使って,現在進行形,または未来だけを教えたのでは,何のことを言っ ているのかわからない.J18  と述べ,未来形と進行形を教え,次に過去形を 加えるか,あるいは進行形と過去形を先に教え,未来を次に教えることを勧 めている 19 ある場を場面化するための見方は,既習の文型群に関する縦 の場面群と,新出文型に関する横の場面群とが形成する,文脈体系の中に位 置づけられて,得ることができる.

文脈があれば何故見方が方向づけられるのかと言えば,それは文脈が一貫 性(coherence)を有しているからである 20 一貫性という用語は,日常で もよく使用されるので,場面における一貫性とは何かを明らかにしておく必 要があろう.これを一言で言えば,新しく提示される教授者の動作や絵は,

学習者が今までに経験した場面と連続性を持っている約束になっている,と いうことである.学習者が既習の文型を使い表現できる場面と,次に示され る新文型の導入に際して示される場とは,密接に関連しているのである.密 接な関連があるとは,ある場の持つ情報量が最小で,その冗長性は最大であ るということである.場の見方が誤解なく決められるためには,情報量はな るべく少いことが望まいん教授者の最初の動作と次の動作とが全く同一で あると認められれば,冗長性は最大であり,逆に情報量はOである.このよ

(14)

場面と英語教授法 195  うな時には,学習者は閉じ文を言えばよいのであり,場面の不一致は起こり 得ない.逆に冗長性Oの場合は,既習の場面と新しく示される場との簡に,

何ら連関が認められない場合であり,情報量は最大値に達するが,これでは 学習者が,教授者の期待している場面として見ることができなくなろう.

不定冠詞と時制に関する場をもう一度考えると,それぞれの見方が一義的 に決定された理由は,文脈が情報量を最小にしていたからだということがわ かる.たとえば3時制では,それぞれの時制の観念を表わす部分以外は,互 いに同ーの場を示して,導入がなされている.教授用書では,授業を進める 際の一般的注意の1っとして,

r

新しいword又はsent cestructureを教え

る時には,新しい要素をできるだけ少くしなければならない.J21  と説いて いる.その理由は,文脈と情報量・冗長性の関係からすれば明瞭となるであ ろう.

以上の考察をもう一度振り返ってみると,第

I

章で,場面は無色中立的な のではなく,解釈されて場面となることを示し,第

E

章では,既習文型の持 つ場面群と新出丈型に関する場面群が形成する文脈が,場の持つ情報量を最 小にするために,その場の見方が一義的に決定されるということを示した.

この2点についての考察によって,第1言語を使わずに,場面によって英語 教授が行なえる主要な理由が明らかになった.ところでGDMと比較すれ ばわかるように,現在の英語教育では,記号としての言語に注意が集中され,

発話を支える場面には,副次的な意義しか認められていないうらみがある.

しかしながら,語学的知識のみならず,運用力を重視するという、昨今の潮 流からすれば,場面の活用法が更に検討されなくてはならない.この要請に 対しでも,本稿は寄与するところがあろう.さて本論では,具体的な実践面 について述べる所は少なかったが,この研究は今後の課題である.文型を導 入する順序に関しては,目標文型がより明確に示されるような文脈づくりの 工夫が,そして個々の動作の提示法については,その動作と目標丈の意味内

(15)

196 

容とがより大きな有契性を持つように工夫することが必要であろう.

1 吉沢美穂, rGraded Direct Methodとは何かJ r英語教育.1 (東京:大修館, 1969  2月), p.14 

2 升川潔, r英語による自己表現の指導Jr英語教育j (東京:大修館, 1973年6月), pp.23‑24 

3 吉沢美穂・東山永・升川潔,Revised Teachers' Handbook for English Through Pic tures Books  ,111  (東京:GDM英語教授法研究会, 1980), p.  24 

4 1bid., p. 

5 増成隆士, r理解の理解一一ことばの世界 j (東京:開拓社, 1980), pp. 67‑

70も指摘する通り, Ludwig Wittgensteinの前期哲学における言語論が,この立 場を採っている.

6 吉沢美穂・東山永・升川潔, p.9. 

7 Ludwig Wittgenstein, r論理哲学論考.i,奥雅博(訳) (東京:大修館, 1975),  pp. 92‑93ただし, ["図5Jという表記は筆者による.

8 N. R. Hanson, r科学的発見のパターンj,村上陽一郎(訳) (東京:構談社, 1986),  p. 29ーから借用.

9 本間謙二,

r

自然科学と生活世界

J r

哲学の再構築j,滝浦静雄編(東京:南窓社,

1987年), p.85から借用.

10  升川潔, r言語理論の生かし方j (東京:関隆堂, 1975), p.  165. 

11  ただし意味づけに第1言語が介在しているのかどうかは,ここでは問わない.

12  吉沢美穂・東山永・升川潔, p.1  13  1bid.,  p. vi 

14  Ludwig Wittgenste瓜『哲学探究:1,藤本隆志(訳) (東京:大修館, 1976), p  36. 

15  B. L. Whorf, LangrgeThought, and Reali,の ed. J B.  Carroll  (Cambridge,  Mass.:  The Technology Press of  Massachusetts Institute  of  Technology; New  York: John Wiley & Sons, 1956), pp.55‑56. 

16  吉沢美穂・東山永・升川潔, p.  ivーによれば,新出事項のgradingには,次のよ うな注意が払われている.

1.はっきりしたsituationを実際に示すことのできるsentenceからさきに教え る.Richardsはsentenceとその意味を示すsituationの組合せをSEN‑SITと よんでいる. 2.次に教えるSEN‑SITの下ごしらえになるようなものから教 える. 3.次に教えるSEN‑SITによって,前に教えたSEN‑SITをーそう確

(16)

場面と英語教授法 197  実にすることができるように順序をたてる.4.新しいSEN‑SITを教える時は,

すでに教えたものと比較して,新しい要素をできるだけすくなくし,また,すで に教えたSEN‑SITを乱さないように注意する.

17  吉沢美穂・東山永・升川潔, pp.9‑10. 

18  Ibid.,  p. 

19  Richards 1. A. and Christine Gibson, English Through Pictures Book 1 (Tokyo:  Yohan Publications, Inc., 1975), pp. 1‑11では,Iとyou,heとshe,hereとthere, onとmが,対照して同時に導入されている.

20  この項目についての考察にあたっては,安井稔,

r

言外の意味J(東京:研究社,

1978), pp.11‑13が参考になった.

21  吉沢美穂・東山永・升)11潔, p11

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