ポスト・ケインズ派経済学における流動性選好の位 置 : ケインズ‑‑ミンスキー・アプローチ
著者 渡辺 良夫
雑誌名 同志社商学
巻 70
号 6
ページ 965‑982
発行年 2019‑03‑15
権利 同志社大学商学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000053
ポスト・ケインズ派経済学における流動性選好の位置
──ケインズ−ミンスキー・アプローチ──
渡 辺 良 夫
Ⅰ はじめに
Ⅱ 銀行恐慌がケインズ経済学の形成に与えたインパクト
Ⅲ 資産価格決定論としての流動性選好
Ⅳ 投機の優位性と市場流動性のジレンマ
Ⅴ マクロ・プルーデンス政策への若干の含意:むすびに代えて
Ⅰ は じ め に
2008
年のリーマン・ショックに端を発したグローバル金融危機は,一方で主流のマ クロ経済学やファイナンス理論に対する信頼を失墜させたが,他方で図らずもケインズ の貨幣経済思想に対する関心を復活させる契機になった。主流の経済学者によって無視 されてきたハイマン・ミンスキーの金融不安定性仮説は,「ミンスキー・モーメント」というキャッチ・フレーズとともに一躍脚光を浴びた。当時の強烈なインパクトは薄れ たかもしれないが,金融危機の発生からすでに
10
年が経過したものの,現在になって もミンスキーに対する研究上の関心は衰えることがな1
い。
かつてミンスキーが指摘したように,『一般理論』(以下では
GT
と略記)は経済学に 革命的変化をもたらしたものであったにもかかわらず,ケインズ理論のありふれた解釈 と理解が普及する過程で,ケインズの意図していた理論的革命の特徴の多くが見失われ てしまった。そうした中でも流動性選好説は,主流派によって誤った研究進路へミスリ ードされた構成要素のひとつであるといえよう。ケインズのGT
が資本主義経済におけ るマクロ的関係を分析した「実物的」な理論であることを強調する初期の典型的な例と して,サムエルソンの評言を取り上げることができよう。サムエルソンは,「利子率は ケインズが考えたほど重要ではない。それゆえ,流動性選好は非常に決定的な重要さを もつものではありえない」と述べ,GT2 の貨幣的側面にはほとんど目もくれない。クラ
インもまた,「この流動性選好説をもって,現代ケインズ体系の本質的要素と見る必要
────────────
1 ミンスキーの金融不安定性仮説を取り上げた近年の研究は,わが国においては青木〔1〕,服部〔4〕,鍋 島〔17〕および二宮〔18〕である。また,海外におけるポスト・ケインジアンによるミンスキー研究に ついては,Jesperson and Madsen〔5〕,Kregel〔15〕,Wray〔29〕および〔30〕など,単行書や論文集の 形で多くの出版が行われている。
2 Samuelson〔27〕訳書229ページ。
(965)359
はない。それはたんに所得決定理論をまとめあげて完結させているだけであ
3
る」と冷淡 に評価している。代表的なアメリカ・ケインジアンによるこうした評価は,その後のケ インズ研究を実物的理論へと方向付けた点で大きな影響力をもった。
このような実物的分析を志向する流れに抗して,ミンスキーは流動性選好説をたんな る貨幣需要理論として狭く解釈することなく,資本主義経済における複雑精巧な金融的 関連がもたらす不確実性のもとでの「資産価格決定の理論」である点に注目してきた。
主流の経済学が効率的市場仮説に盲目的なまでの信頼と忠誠心を示してきたのに対
4
し,
ミンスキーはケインズの貨幣経済理論をベースに置き,カレツキやフィッシャーの考え 方も摂り入れて資本主義経済における投資決定の金融理論を構築し,内生的に生じる金 融脆弱性が景気循環を引き起こすという金融不安定性仮説を一貫して唱えてきた。ミン スキーの金融不安定性仮説はこれまで数多く取り上げられてきたが,金融不安定性仮説 と流動性選好説がどのような形で結びついているのか,必ずしも明確に考察されてこな かった。
この論文の主たる目的は金融不安定性仮説そのものを検討することではなく,うえで 指摘したような視点から,ケインズの流動性選好説がミンスキーによってどのように拡 張され精緻化されて,金融不安定性仮説に組み込まれているかを考察することにある。
Ⅱ 銀行恐慌がケインズ経済学の形成に与えたインパクト
おおまかに振り返ってみれば,大不況は
1929
年ウォール街での株価大暴落に端を発 し,1933年の銀行システム崩壊で危機の頂点に達した。大不況は資本主義経済にとっ て最大の悪夢であり,そこかしこに資本主義の欠陥が露呈した。ミンスキーによれば,この株価暴落から銀行恐慌へ至る未曾有の惨事は,ケインズの経済思想と
GT
の形成に 強い影響を与えたとされ5
る。
『貨幣論』を刊行した翌年にあたる
1931
年,ケインズはハリス財団の招待講演を行う ため訪米し,当時のアメリカ経済の惨状から受けた印象を「アメリカ経済の現状に関す────────────
3 Klein〔12〕訳書46ページ。
4 早くも1980年代の半ばに,ミンスキーは次のように指摘している。すなわち,「今日の最先端をゆく経 済理論では,市場は安定的かつ効率的であると論じられている。この見解によれば,連邦準備制度は,
金融業務を市場諸力に反応して自由に展開させようとする圧力に従うべきであるとされる」(Minsky
〔21〕訳書52ページ)。こうした効率的市場仮説では,予想外のことが生じたり支払い不能や破産が起 こったとしても,金融規制が状況依存的な諸契約を結ぶことを妨げているためであるとされる。金融不 安定性は金融市場が規制によって不完全にしか機能しないために生じるのであり,諸規制によって邪魔 されることがなければ,完全な市場で常に均衡がされ,金融危機が発生することはありえない。さらに また,この効率的市場アプローチは金融の自由化や規制緩和がもたらすメリットを強調する理論的基礎 として用いられたが,今回のグローバル金融危機の発生により,過度の金融自由化が大きなデメリット も併せ持っている「両刃の剣」であるということが明らかになった。
5 Minsky〔19〕pp.5, 64, Minsky〔24〕pp.78-79.
360(966) 同志社商学 第70巻 第6号(2019年3月)
るノート」と題する覚え書きを遺してい
6
る。この覚え書は英経済諮問委員会のメンバー 間で配布されたものであり,広く公刊されたものではない。幸いにも,われわれは『ケ インズ全集』が刊行されたおかげで,手軽にこの覚え書にもアクセスすることができ る。この覚え書の第Ⅱ節「アメリカ銀行の弱点」の中で,ケインズはアメリカ中西部で 頻発した銀行倒産が含意している銀行システムの脆弱性および不安定性と,銀行倒産や 預金封鎖の前に預金を引き出したり資産売却をしようとする流動性に対する欲求の強さ について指摘し,次のように述べている。
「この国の多くの銀行および預金者が抱いている不安心理が支配的な要因であり,
その重要性について私は合衆国を訪れるまで十分に評価することがなかった。それ は正常な回復プロセスに戻るのを邪魔をしている最大の障害のひとつである,と私 は思う。・・・・・かなりの数そして相当高い割合の加盟銀行は,もしそれらの資産が 厳密に評価されるならば,おそらく現在では支払い不能の状態にあるであろ
7
う。」
ケインズは,帰国後この覚え書とほぼ同じ時期に並行して執筆したと思われる「貨幣 価値の崩壊が銀行に及ぼした影響」と題する有名な論文の中で,次のように述べてい る。
「議論を最初から始めることにしよう。世界には資本資産を構成する多数の実物資 産が存在している。しかし,このような資産の名目上の所有者は,それを所有する ために貨!幣!で借金している場合が少なくない。富の実際上の所有者は,この借金に 見合う範囲までは実物資産に対してではなく,貨幣に対して請求権を持っている。
この資金調達のかなりの部分は銀行制度をつうじて行われており,この銀行制度 は,銀行に貨幣を貸与している預金者たちと,実物資産の購入に対して資金供給す るために銀行が貨幣を貸し付けている融資先との間に,銀行の保証を与える制度で ある。実物資産と富の所有者の間にこうした貨幣のベールが介在しているという事 実は,現代世界の特に著しい特徴であ
8
る。」
ここでまずミンスキーが注目しているのは,ケインズは「貨幣のベール」という表現 を用いて,貨幣がさまざまな金融的取引を覆うベールであるという自分の見方と,貨幣 が実物的取引を覆うベールであるという古典派の見解を対比させていることである。指
────────────
6 Keynes〔6〕. 7 Keynes〔6〕p.568.
8 Keynes〔7〕訳書151-2ページ,強調はケインズによる。
ポスト・ケインズ派経済学における流動性選好の位置(渡辺) (967)361
摘するまでもなく,この貨幣経済という着想は,シェピートホフ記念論文集へ寄稿した
「生産の貨幣理
9
論」と題する論文のモチーフになったとみることができよう。ケインズ は
GT
刊行前のこの短い寄稿論文において,古典派理論が物々交換経済ないし実物交換 経済のパラダイムに基づいている構成されているのに対し,自らの分析対象が古典派と は異なる貨幣契約に基づいて組織された貨幣生産経済にあることを強調した。ケインズ がこの論文のモチーフに込めた考えは,「貨幣はそれ自らの役割を演じ,動機や意思決定に影響を及ぼすのである。端的に いえば,貨幣が状況の枢要な要因となっている経済であり,初めの状態と終わりの 状態との間での貨幣の運動に関する知識なくして,長期あるいは短期のいずれにお いても,事態の推移は予測され得ない。・・・・・好!況!と!不!況!は!,!貨!幣!が!中!立!的!で!な!い! 経!済!に!特!有!の!現!象!で!あ!る!
10
」
と表現されるような,資本主義経済における貨幣の動態的な役割を分析することにあ る。早くも
1933
年に,ケインズは新著GT
で用いる概念的枠組みからどのような経済 理論が生み出されるか,その輪郭を予告していたといえよう。こうした貨幣経済理論の 着想は,ミンスキーだけでなく,デヴィッドソンなど多くのポスト・ケインジアンにも 受け継がれていく。貨幣経済が発達するにつれて,銀行システムと組織化された金融市場の存在は,企業 家の投資決定と家計の貯蓄決定や資産選択決定から独立させるよう作用するようにな る。銀行は企業と取引することによって,実物資産の支配権に対して資金を供給する。
また,銀行は家計に対して,金融資産の保有と支配に関わる融資を行う。投資銀行は株 式の販売を管理し,商業銀行はそのために必要な資金を供給する。このように,現代の 企業に対する株式持ち分の所有は銀行業務と結び付いているのである。
こうした貨幣経済における銀行と企業は,ミンスキーによれば,
# ! !! "$#
"という形でシェーマティックに示されるように,まず貨幣
M
は期待される貨幣利潤"$#
"を見込んで資本資産C
に投資され,時間をつうじて資本資産は実現される貨幣利潤の流れ
#
"を生み出すであろう。そのとき"$#
"は,投資から得られるキャッシ ュ・フローが「安全性のゆとり幅」(mergins of safety)にほぼ相当する額だけ,Mを上────────────
9 Keynes〔8〕。その3年後に刊行された著書がGTであった。
10 Keynes〔8〕pp.408-9,強調は筆者による。
362(968) 同志社商学 第70巻 第6号(2019年3月)
回るものと期待される。なぜならば,ケインズも指摘するように,「銀行は便宜上マー
ジン(
margin
)と呼ばれるものを借り手に要求することによって,個々の資産と実物資産一般との双方の価値変動を,ある程度まであらかじめ計算に入れておくからであ る。・・・・・経験上,マージン比率は,通常のあらゆる状況の下で正当な安全性を保つよ うに定められてい
11
る」。
資本主義的な生産経済を理解するためのモデルは,投資支出や資本資産ポジションの ファイナンスする企業,こうした企業のファイナンシングに対し融資する銀行,そして 銀行が売り出す金融手段を直接・間接に所有する家計を含まなければならない。これら の経済主体は,分析の開始時点から貨幣経済理論の構成要素として組み込まれることが 必要である。ミンスキーは,貨幣の非中立性をモデルの基盤に据えるためには,貨幣を 新古典派モデルと異なる仕方で体系の異なる部分に入れる必要がある,と主張す
12
る。指 摘するまでもなく,この「異なる仕方と部分」とは,資本資産価格と産出物価格の「2 種類の価格体系」に基づく投資決定理論を指している。貨幣の非中立性は,貨幣が意思 決定に深く織り込まれ,資本資産価格体系をつうじて投資決定にインパクトを与えるこ とを意味する。さらにミンスキーは,投資とファイナンスの密接な関連を重視し,貨幣 の創造が銀行の利潤追求と流動性選好という
2
つの行動の兼ね合いに依存することを強 調してい13
る。
ケインズは当時の銀行恐慌の深刻さに注意を払い,次のように著している。
「最後に重要なのは,銀行がその顧客の事業目的のために用立てている貸付金や貸 出金・・・・・の保証となっているのは,主として,現に融資を受けている企業の実際 および予想の利潤である。・・・・・銀行は,借り手と貸し手の間に立って,貸し手に その保証を与えている。この保証が安全なのは,借り手に属している資産の貨幣価 値が,その資産のための前貸しされている金額以上の価値を保つ場合だけである。
われわれが現在経験しているような激烈な貨幣価値の下落が金融構造全体の統一性 を脅かしているのは,まさにこのような理由からである。・・・・・多くの国の銀行家
────────────
11 Keynes〔7〕訳書152ページ。
12 Minsky〔25〕p.78.
13 ミンスキーは,貨幣経済が正常に運行している場合でさえ,投資支出が負債によって資金調達されるこ とから内生的に生み出される貨幣供給プロセスを金融不安定性の構成要素のひとつとして捉えようとし ている。経済がブームに向かう過程において,借り手リスクと貸し手リスクはともに過小評価され,不 健全なまでの信用拡張が行われる。銀行はレバレッジ比率を高めて信用拡大をはかり,他方借り手の企 業も外部負債調達にいっそう依存するようになり,貨幣供給の内生的増加は加速されていく。こうして 経済拡張期からブーム期にかけて,企業および銀行の流動性比率は極端なまでに低下し,それらの財務 構造もいっそう脆弱化する。早期警戒信号の役割を果たす流動性選好はいっそう低下し,貨幣供給の内 生的に膨張する規模が大きければ大きいほど,金融恐慌へ陥る危険は高まるであろう。Minsky〔23〕
を参照されたい。
ポスト・ケインズ派経済学における流動性選好の位置(渡辺) (969)363
たちは,顧客のマージン(customers’ mergins)が流れてしまったとき,銀行自身も
『危険の淵に立たされている』(
on mergin
)という事実を認めるようになってい る・・・・・世界中の銀行のほとんど大部分は,支払い不能の状態に置かれてい14
る」。
この論文は
1931
年8
月に刊行されたが,それから約1
年半後,アメリカの銀行シス テムが事実上崩壊する銀行恐慌に発展したのである。これはケインズに先見の明があっ たことを証明しているということよりもむしろ,資産価格のバブル崩壊が銀行恐慌に発 展することの危険性を深く認識し,さきのシェピートホフ記念への寄稿論文から引用し た文15
章に示されるように,不確実性の高まる中で流動性選好が資本主義経済に及ぼす影 響に注目するようになったことを示唆している点で重要である。
Ⅲ 資産価格決定論としての流動性選好
ポスト・ケインジアンのうち,不確実性と金融的要因の密接な結び付きを重視する学 者たちは,流動性選好説が
GT
第17
章で展開された自己利子率理論を根底に据えた「資産価格決定の理論」であるという見方をとってきた。そうした中でもミンスキーは,
流動性選好説がもつ「はるかに強力で真に独創的な側面」が,貨幣の投機的需要を利子 率および資産価格に結び付けている点にあることを強調し
16
た。さらに,ミンスキーは
「真の姿において,GTは『雇用,資産価格および貨幣の一般理論』という標題が付け られるべきであろう・・・・・事実,利子の流動性選好説は,資本主義経済における資産価 格決定の理論であ
17
る」と主張する点で傑出した存在になった。ミンスキーが資産価格決 定理論として自己利子率理論を重視するようになった理由は,彼自身によって次のよう に説明されている。
「第
17
章に含まれている考え方の潜在的な力を明らかにするために,債務構成を明 示的に考慮し,議論を景気循環理論と投機の枠組みに基づいて据え直すことによっ て,この章の議論を手に入れることが必要である。これらの点に修正を施せば,第17
章の議論は投機的な投資ブームの説明と,そのような投資ブームが危機に陥り やすい拡大の段階において,なぜ自!ら!を!破!壊!す!る!種!子!を!内!包!し!て!い!る!のかを説明す る糸口をわれわれに与えてくれ18
る」。
────────────
14 Keynes〔7〕訳書155-157ページ。
15 Keynes〔8〕pp.408-9.
16 Minsky〔19〕訳書77ページ。
17 Minsky〔22〕p.51.
18 Minsky〔19〕訳書80ページ,強調は筆者による。
364(970) 同志社商学 第70巻 第6号(2019年3月)
このようにミンスキーは,GT第
17
章の自己利子率理論で展開された資産価格決定 とそれが実物投資や金融投機に与えるメカニズムに対し注目を払っているのである。な ぜなら,金融危機を発生させる引き金となる資本資産に対する需要の崩壊がなぜ起こる のかを説明することができるからである。そこからミンスキーは,GTの金融的側面に 関する独自の解釈に基づき,現代の資本主義経済における複雑精緻な金融取引がもたら す結果が本来的に不確実であるという認識に立って金融不安定性仮説を提示する。いう までもなく,貨幣経済において,企業家は不確実性に立ち向かって現在の貨幣を資本資 産に投資し,時間をつうじて資本資産が現在の貨幣額よりも大きな将来の貨幣額の流れ を生み出すかどうかを推測する。こうした企業家の投資決意やファイナンスは,不確実 性から切り離して論じることはできないし,不確実性に対処するための流動性選好と不 可分に結び付いている。流動性選好説がよって立つ礎石は,現実の資本主義経済において貨幣と契約が密接不 可分の関係にあるという認識の上に置かれている。なぜならば,経済システムへの貨幣 の導入と,時間的要素をもったさまざまな貨幣表示の契約が採用されることは,未発達 の資本主義経済の社会状況を根底から変えてきたからである。貨幣で契約が締結され貨 幣で決済される諸契約は,ときには経済成長を促進し資本主義経済の発展に大いに寄与 することもあるが,またあるときには経済を不況に陥れ苦境をもたらすという「両刃の 剣」の作用を生み出す源泉になると思われるのである。
こうした貨幣契約は,ケインズ理論における貨幣の役割について思考するときの出発 点を与えてくれる。貨幣は,債務の支払い期限が到来したときにその債務契約を履行す る能力を持っているという理由に基づいて,ひとつの資産となるのである。契約決済手 段であることが流動性を生み出す源泉であり,貨幣を不確実な将来に立ち向かう防御機 能や債務不履行に備える保険機能を果たすのに相応しい手段にしている。貨幣は,その 収益が明示的な金銭的報酬というよりもむしろ,暗黙の主観的な「流動性プレミアム」
の形でやってくる資産である。他の資産は,貨幣と同じ程度のこうした防御・保険機能 を提供しない代わりに,資産保有者に対し利子支払いよってこうした流動性の面での不 完全性を埋め合わせる。
流動性選好説は,貨幣に対する需要という狭い枠の中で考えるよりもむしろ,流動性 の程度が低い資産と引き替えに,比較的流動性の程度が高い資産を選ぶという「相対的 な選好」として見る方が相応しい。ポスト・ケインジアンは,実際このような方向で流 動性選好説をさらに一歩押し進めてきた。ミンスキーは,流動性選好説を個別の資産の 間の選択としてではなく,資産ならびに負債の双方を含むバランスシートの間の選択に 拡張してきた。いまや流動性選好は,比較的流動性の低い諸項目によって構成されるバ ランスシートから,比較的流動性の高い諸項目によって構成されるバランスシートへ変
ポスト・ケインズ派経済学における流動性選好の位置(渡辺) (971)365
換する相対的な選好として捉えることによって,分析の射程がいっそう広がることにな る。
ミンスキーによれば,資本主義経済にとって適切であるモデルの構造は,経済主体の 相互に関連したバランスシートの体系によって表すことができる。当該経済に存在する 実物資本資産を企業部門のバランスシートに記載し,経済の正味資産を家計部門のバラ ンスシートに記載するという点を除けば,あらゆる資産は他の部門のバランスシートの 負債であり,あらゆる負債は他部門のバランスシートの資産である。こうしたバランス シート上の資産・負債の諸項目は双方とも同じ貨幣単位で表示され,資産がさまざまな 期待される収益や所得受け取り(キャッシュ・イン・フロー)を示しており,負債がさ まざまな契約上の返済や支払い(キャッシュ・アウト・フロー)を表している。ミンス キーが明らかにしてきたように,経済主体は保有すべき資産を選択するとき,自己資金 によって制約されない。経済主体がいかほどの資産を購入できるかどうかは,銀行借り 入れや負債の発行など信用に対するアクセスによっても,補完されるであろう。現代的 な視点から流動性選好を戦略を分析するためには,われわれは資産面だけでなく負債面 も考慮しなければならない。
流動性がいかなる価値を有するかについて,ケインズは予期しない出来事が生じた場 合,コストをかけないで即座に安全資産に取り替えることができるという価値を強調し たが,ミンスキーはさらに負債を支払う能力を流動性概念に追加した。いうまでもな く,経済主体のバランスシートは契約上の支払いをするために借入をしたり,資産を流 動化する必要性を生じさせるが,そうした資産や負債のリストからもたらされるキャッ シュ・イン・フローとキャッシュ・アウト・フローは時間的特質が異なっている。前者 は時間をつうじて不確実であるのに対し,後者の多くは契約締結時点でほぼ確定的な性 質をもつ。したがって,狭い意味での流動性は,契約上の固定的なキャッシュ・アウ ト・フローの支払いを履行する能力ということになる。この場合,資産の処分力(市場 性)は流動性が与える形のひとつにすぎない。一定の種類の資産を保有することは,そ れが生み出すと期待されるキャッシュ・イン・フローがどの程度確実であるか,資産の 処分力や負債発行のための担保となりうる可能性に依存して,ポートフォリオ全体の流 動性に影響を与える。これらの条件の下では,ポートフォリオの流動性プレミアム,す なわち資産保有者によって資産処分力について認識されている価値は,資産購入をファ イナンスするために発行される負債の性質にも依存する。
ミンスキーによれば,不確実性が資本主義経済の動きにインパクトを与える仕方は,
資本資産価格をつうじて,経済主体の相互に関連したバランスシートに表される財務構 造を変化させることによって引き起こされる。財務構造がどの程度脆弱であるか(逆に いえばどの程度堅牢であるか)を検討するとき,次の
2
つの要因が注目されるであろ366(972) 同志社商学 第70巻 第6号(2019年3月)
う。第
1
はバランスシートの「流動性の状態」である。すなわち,投資家の保有してい る資産および負債の現在価値はいくらであるかを推定し,それら資産・負債のキャッシ ュ・イン・フローおよびキャッシュ・アウト・フローが生じると期待されるプロファイ ルを調べなければならない。これは投資家の債務が満期時に資産からの期待収益や,借 入れあるいは手持ち資産の売却などによってによって契約を決済することができるどう かである。第2
の要因は投資家や銀行の「支払い能力」であり,その保有する資産ポジ ションが少なくとも負担している債務と同等の価値を持っているかどうかにかかわって いる。将来の資本資産価格はどのような水準になるかは,投資家および資産保有者の資 産に対する需要がどのようになるか依存するであろう。負債発行の可能性や借り入れ余 力がどの程度あるかも,資産に対する需要に影響を及ぼすであろう。このように,ミン スキーの金融不安定性仮説における流動性選好は,諸資産のみならず諸負債も取り扱う ように拡張されている。自己利子率と資産価格決定の関係を明らかにするため,ミンスキーの議論にしたがっ て,資産および負債が持つ属性を次のように名目額で定義し,ケインズの自己利子率に 関する表記法と区別するため大文字で表すことにしよ
19
う。任意の資産
+
について,(+はバランスシート全体によって生み出されるキャッシュ・イン・フローを意味する。%+
はそのバランスシートを持ち越すさいに要する金融費用であり,投資や資産保有をファ イナンスために発行される負債に伴うキャッシュ・アウト・フローを含むものに拡張さ れる。&+は貨幣の形で保有された契約決済手段としての即時的な流動性の評価額を意 味するが,その他の諸流動資産,金融機関によって提供される事前に合意されたバック アップ・ファイナンス枠や,保有資産を負債発行のために担保として使用する可能性な どの潜在的な流動性を加えたものまで拡張される。$+はバランスシート全体に生じう る資産価値の予想される増加額(減少額)を表している。
そこで,任意の資本資産が生み出すと期待される名目キャッシュ・フロー総額を
((+
!%
+"&
+"$
+),資本資産価格を'
+,貨幣表示の自己利子率を.
+とすると,資本資 産価格は'
+#! ! (
+!%
+"&
+"$
+"
/! #".
+"
/ (1)で表される。他方において,貨幣表示の自己利子率
.
+は.
+#-
+!*
+",
+")
+ (2)────────────
19 Minsky〔19〕訳書79-85ページ。
ポスト・ケインズ派経済学における流動性選好の位置(渡辺) (973)367
で表される。単純化のために
1
期間についての資産選択を考えるならば,貨幣表示の自 己利子率と資本資産価格との関係は,.
+# ! (
+!%
+"&
+"$
+"
'
+!##-
+!*
+",
+")
+ (3)として表すことができる。
さまざまな資産は,それらが提供する金銭的な名目収益((+
"$
+!%
+)と,偶発時 に保険の役割を果たす流動性に対する主観的な評価&
+との組合せに基づいて,実物資 本資産,金融資本資産および貨幣に大きく分類される。貨幣は,資産を自由に処分しう る能力に対する主観的な価値評価である流動性プレミアムのみを生み出す資産である。ケインズの表現を借りるならば,「貨幣の特徴は,その収益がゼロであり,その持ち越 し費用は無視しうるほど小さいが,その流動性プレミアムはかなり大きいという点にあ
20
る」。不確実性に晒された世界においては,不確実性が高まったと知覚し認識するとき,
流動性の程度が最も高い項目は特別に高い事前的な価値をもつので,そうした項目の流 動性プレミアム
,
+が最も高くなるであろう。なぜならば,貨幣は債務の支払い期限が 到来したとき,そうした債務契約を履行し決済する能力を有している資産であるからで ある。貨幣経済において,貨幣保有の効用は,支払い・返済契約残高の規模,諸資産の 予想収益に関する不確実性,および債務手段のアヴェイラビリティーに関する不確実性 に反応して,流動性プレミアムに反映されていく。ここからわれわれは,貨幣の流動性 プレミアムが,さまざまな資本資産の自己利子率の構成要素として含まれている当該資 産の流動性プレミアムの大きさに依存して,諸資本資産の限界効率,したがってそれら の資産価格全般に影響を与えていることを読み取ることができよう。ミンスキーは,金融不安定性が高まり金融危機が頻発するようになった
1980
年代以 降,企業や銀行の流動性の程度にとどまらず,支払い能力の程度も加味し財務構造の安 全性のゆとり幅に注目するようになった。この安全性のゆとり幅は,予期できない将来 のキャッシュフローの変化を吸収するためのクッションを意味しており,流動性クッシ ョンよりも広義の不確実性に対する備えであるといえよう。ミンスキーのキャッシュ・フローの分類によれ
ば,キャッシュフローは(1)所得キ21
ャッシュフロー,(2)バランスシート・キャッシュフロー,(3)ポートフォリオ・キャ ッシュフローから構成される。(1)は企業の生産・投資活動に結びついた「営業キャッ シュフロー」であり,先の自己利子率フレームワークでいえば,((+
!%
+)の状態であ れば健全金融の状態である。(2)と(3)は,単純化のため「財務キャッシュフロー」────────────
20 Keynes〔9〕訳書226ページ。
21 Minsky〔21〕訳書246-264ページ。
368(974) 同志社商学 第70巻 第6号(2019年3月)
として一纏めにして扱うことにする。投機的金融は,基本的には(#$
!!
$""
$)とい う財務状態になるが,一時的には不等号が逆になり,キャッシュ・イン・フローがキャ シュ・アウト・フローを下まわるかもしれない。ポンツィ金融は,基本的にキャッシ ュ・イン・フローがキャシュ・アウト・フローを下まわり,(#$!!
$!"
$)という状況 である。こうした財務状況では支払い能力が不足しており,手持ち資産売却によって解 消するか,債務返済のための新たな負債発行に依存するか,あるいは利子費用を資本に 繰り入れることが必要になる。したがって,安全性のゆとり幅はほとんど消滅してしま い,雪だるま式に債務累積が進行するきわめて不健全な財務状況に陥る。ポーリンが指摘するように,ミンスキーの投資決定の金融理論は,債務構造が投資価 値に影響しないとするモディリアーニ−ミラー(M-M)仮説とは異なり,企業の債務 構造に織り込まれた借り手リスクと貸し手リスクが重要な役割を演じ
22
る。手短に述べる ならば,初めは企業の財務構造が健全金融の状態にある。やがて景気拡張につれて,企 業は内部資金の範囲を超えて外部資金調達を用い,将来の債務返済の借り換えをあらか じめ織り込んでファイナンスするようになると,キャッシュ・イン・フローがキャッシ ュ・アウト・フローをわずかに上回るにすぎない脆弱な投機的金融に変換していく。し かし,実現される利潤の増加が借り手および貸し手に楽観的な期待を形成を促し,負債 の累積を招くようになると,キャッシュ・イン・フローがキャッシュ・アウト・フロー を下回り,債務不履行が生じる不健全なポンツィ金融の状態に陥る。このとき,借り手 リスクは投資資金に占める外部負債への依存度が高まるにつれて,財務上の安全性のゆ とり幅が狭くなることから生じる。また貸し手リスクは,内部金融比率の低下,利払い 額のキャッシュフローに対する比率の上昇および債券の格付けの引き下げが生じるとき に高まる。
ここで強調されるべきは,次の
2
つである。第1
に,ミンスキーは景気拡張期に企業 が投資ファイナンスの多くを借り入れに依存するようになると,債務膨張・累積が引き 起こすリスクの高まりを強調していることである。安全性のゆとり幅は,ミンスキーの 金融不安定性仮説にとっては不可欠な概念であり,投資企業の借り手リスクの変化や確 信の程度における変化をさぐる「早期警戒シグナル」の役割を演じる。もしキャッシュ インフローの増加が拡張期のあいだに形成される楽観的な期待を満たさないならば,こ の投資企業は財務状態が脆弱化していることに気がつくや否や,支払い不能の脅威を感 じるにつれて,債務圧縮に方向転換するであろう。これはいわゆる「レバレッジの巻き 戻し」(de-leverage)と呼ばれる現象である。第
2
は,ミンスキーが安全性のゆとり幅という概念を用いて流動性準備を超える支払 い能力の問題を分析に取り込むとともに,(3)式に示されるように,流動性選好が自己────────────
22 Pollin〔26〕p.79.
ポスト・ケインズ派経済学における流動性選好の位置(渡辺) (975)369
利子率をつうじて資本資産価格体系に影響を及ぼすメカニズムとの統合を図っているこ とである。ミンスキーは,外生的なショックや政策当局の危機対応能力などに金融危機 発生の責めを負わせるのではなく,資本主義経済の内部的運行過程に金融不安定化の源 泉があり,内生的に金融を脆弱化させる要因のひとつとして投機的な流動性選好の作用 がある,ということを明らかにしているのであ
23
る。
Ⅳ 投機の優位性と市場流動性のジレンマ
現代の資本主義経済において,発達した組織された金融市場の存在は実物資産の所有 と支配との直接的な結び付きを断ち切っている。ケインズが指摘したように,
「今日広く行きわたっている所有と経営の分離に伴い,また組織された投資市場の 発達につれて,時には投資を促進し,時には経済体系の不安定性を著しく高めるき わめて新しい要因が導入された。・・・・・株式取引所は多くの投資物件を毎日のよう に再評価し,その再評価は個人に対して(社会全体に対してではないが)彼の契約 を変更する機会を頻繁に与えている。株式市場の日々の再評価は,主として旧投資 物件を一個人から他の個人へ移転することを容易にするために行われるものである が,不可避的に今期の投資額に決定的な影響を及ぼ
24
す」。
このようにケインズにとって,組織された金融市場は,ある時には実物資本資産への 投資を促進し,またある時には経済システムの不安定性を著しく高める「諸刃の剣」と しての二面性を持っている。金融市場という剣の一方の刃は,社会全体にとっては固定 的であるものの,金融市場が実物資産を個人にとって流動的にするという働きをしてく れる。金融市場の他方の刃は,金融市場の存在が社会全体にとっては固定している投資 物件を一部の個人にとって流動的にするものの,資産保有者が投資物件の再評価に満足 できないとき資産を流動化してただちに投資資金を回収するのを可能にしている。こう した金融市場が創出する流動性は,一方で投資を刺激して経済成長を促進するが,他方 それは同時に市場参加者の心理を予測する「投機」が資本資産の予想収益を予測する
「企業」を凌駕して,金融市場の混乱や崩壊を引き起こしたり実体経済を不況に陥れた りもする。
ケインズは,組織された投資市場が発達するにつれて,企業に対して投機が優位を占 める危険が増大することを危惧して,「投資家は企業活動の堅実な流れに浮かぶ泡沫と
────────────
23 Minsky〔23〕および〔21〕第10章を参照されたい。
24 Keynes〔9〕訳書150-51ページ。
370(976) 同志社商学 第70巻 第6号(2019年3月)
してならば,なんの害も与えないであろう。しかし,企業活動が投機の渦巻きに翻弄さ れる泡沫になってしまうと,事は重大な局面を迎える。一国の資本発展が賭博場の活動 の副産物となってしまったら,なにもかも始末に負えなくなってしまうであろ
25
う」と警 句を発してきた。
ミンスキーは,有名になった「安定性が不安定性を育む」というアフォリズムをあげ て,たとえ均衡状態が達成されたとしても,内生的な諸力がそれらを破壊するので,均 衡を持続することができない,ということを指摘してきた。いうまでもなく,こうした 金融不安定性は不確実性を増幅する。急激に変化する経済では,緩やかに変化する経済 に比べて,意思決定を下すことがはるかに難しくなるであろう。ミンスキーは,こうし た状況下では意思決定者が早期警戒信号を探し始め,経済指標の短期的な変化に対し過 敏になる傾向を持つと指摘し,「投資家たちは長期的視野に立った投資から得られる利 益よりも,事態が予想したとおりに運んだならば手に入れることのできる大きな目先の 短期的運用益を優先して選ぶようになる。ケインズが指摘したように,不安定な経済シ ステムでは,投機は企業を凌駕するのであ
26
る」と述べた。
いうまでもなく,こうした「投機」物件のファイナンスは,レバリッジを掛けて借り 入れを活用して行われる。借り入れ利子率が投資収益率より低ければ,低い金利での借 り入れが利潤を増加させる有効な方法になるからである。安全性のゆとり幅は,投資家 が見込み収益の期待に対して抱いている確信の程度を反映している。投資家の確信の程 度が高まるならば,将来に関するいっそう楽観的な期待は,投機ファイナンスを増やす ためレバレッジを引き上げさせ,安全性のゆとり幅と流動性のクッションを低下させる であろう。このようにして,投機的な借り手が資産保有者の中で多数を占めるようにな ると,金融システムは不健全なポンツィ財務状態に陥り,利子率のわずかな上昇や利潤 期待におけるわずかな失望が,大規模な負債圧縮過程を生じさせ易くなるのである。
しかし他方において,組織された投資市場の存在は,投資家の資金が実物資本資産に 長期的に固定化される困難から解放し,投資家が欲するときに売却することによって市 場流動性を得ることを可能にするようになった。所有と経営の分離は,社会的には固定 された投資も,個人的には株式市場での売却をつうじて流動化することを可能とした。
「社会全体にとって投資の流動性というようなものは存在しな
27
い」けれども,個人にと っては投資という意思決定をやり直す機会を提供しているように見える。社会全体にと っては固定的である投資も,個人にとっては流動的になるという議論であるが,しかし これは幻想にすぎない。
────────────
25 Keynes〔9〕訳書159.
26 Minsky〔21〕訳書18.
27 Keynes〔9〕訳書155ページ。
ポスト・ケインズ派経済学における流動性選好の位置(渡辺) (977)371
ケインズの見方によれば,「投資物件の購入を,あたかも結婚のように,・・・・・解消す ることのできない恒久的なものにすることが,今日の害悪を救う有効な方策となるであ ろう。・・・・・しかし,この方策を少し考察してみると,われわれはジレンマに直面す
28
る」
ことになる。組織された金融市場が提供する流動性は,資本主義の経済成長と資本蓄積 を促進するものの,同時にそれは投機が企業を凌駕することによって投資の変動を激し くする作用要因ともなった。ケインズによれば,「個々の投資家は自分の契約を流動的 であると思い込んでいるために,彼の神経は静まりいっそう進んで危険を冒すことにな る。・・・・・〔しかしながら〕投資物件の購入が非流動的なものになると,それは新投資を 著しく阻害するであろ
う」。こうした状況をケインズは,「流動性ジレンマ」(liquidity29
dilemma)と呼んだ。
そこでケインズは,30年代のウォール街の株式市場崩壊後,組織された投資市場を
「近づきにくく金のかかるもの(inaccessible and expensive)」にするため,「合衆国にお いて投機が企業に比べて優位である状態を緩和するためには,政府がすべての取引に対 してか!な!り!重!い!移!転!税!を課すことが,実行可能で最も役に立つ改革となるであろう」と 提案し
30
た。よく知られているように,これまでにも証券取引所における手数料の引き上 げが行われた。また最近では,国際金融市場のボラティリティーに対処するため金融取 引税が推奨され,EU加盟国のうち
11
カ国で低率の金融取引税の導入に合意している。こうした措置は,ケインズ自己利子率理論における持越費用
c
の引き上げを意味する。これらの金融取引税を課すことは一定の投機抑制効果をもつと期待され,ドイツやフラ ンスなど
EU
加盟国のあいだで実施へ向けた検討がなされている。しかし,低率の税で あるからc
が非常に小さいため,組織された金融市場のボラティリティーを低下させ 金融市場を安定化に導くほど大きな効果は,期待できないように思われる。ミンスキーが注目するよう
31
に,流動性選好に基づいた資産の市場価値に関して,「将 来に関する実際的な〔資産価格〕理論は,・・・・・もろい基礎の上に成り立っている。そ れは突然の激しい変化に晒されている。実際,静穏にして安定した,確実で安定した状 態は,突然に崩壊する。新たな不安と希望は,何の前触れもなしに,人間の行為を支配 するようになる。幻滅の力は突然に評価について新たな慣習的基礎を強いるようにな
32
る」。金融市場の実際に精通していたケインズは(かなり重い)金融取引税が金融市場 におけるボラティリティーをある程度抑えることを認めたけれども,同時に金融市場が
「両刃の剣」である
2
面性に留意し,われわれが「流動性ジレンマ」に陥る危険性を指────────────
28 Keynes〔9〕訳書160ページ。
29 Keynes〔9〕訳書160ページ。
30 Keynes〔9〕訳書160ページ,強調は筆者による。
31 Minsky〔19〕訳書56-59ページ。
32 Keynes〔10〕pp.114-5.〔 〕は筆者による。
372(978) 同志社商学 第70巻 第6号(2019年3月)
摘した。
ケインズは,金融市場における安定性を生み出す環境がこうした金融取引税の賦課に よるよりもむしろ,「不確実なことがらについての意見の多!様!性!に著しく依存してい
33
る」
と指摘した。これは,不確実性の下での資産価格に関する期待を係留するものが,金融 市場における異質的な期待の存在と安定性への契機となる慣習的・制度的な諸要因とに 依存することを意味している。
Ⅴ マクロ・プルーデンス政策への若干の含意:むすびに代えて
流動性選好は,ケインズの貨幣経済分析の中心点をなすものであり,それはまたミン スキーの金融不安定性仮説にとって出発点として位置付けられる概念である。流動性選 好がどれくらい強いかは,経済主体が保有している貨幣量や金融資産の多寡に反映され るというよりもむしろ,流動性プレミアムの高さに表われる。この流動性プレミアム は,不確実性のもとでの期待に対して抱く「確信の程度」を反映しているからにほかな らない。何らかの理由がきっかけとなって,金融市場参加者たちの間にひとたび確信の 動揺が起こり流動性プレミアムが上昇すると,市場参加者たちは一斉にキャピタルロス のリスクを避けようとして流動性に殺到する事態が生じる。こうした確信の動揺が過剰 な流動性に対する需要を生み出すならば,投資誘因の低下と崩壊を導くことによって,
資本主義経済を長期の不況に陥れる原因になる。
さきの
2008
年のグローバル金融危機の発生は,高度に発達した金融システムが潜在 的に不安定であり,金融システムの安定性を維持するためにはミクロ・プルーデンスの 視点からでは不十分であり,マクロ・プルーデンス政策が不可欠であることを広く承認 させることになった。今回のバーゼルⅢの規制改革の目玉は,投資家や借り手が過大な レバレッジにより債務を極端に膨張させたことが金融危機の原因であるとの認識から,自己資本比率規制の補完的指標として,レバレッジ比率規制が導入されることになっ た。
レバレッジは,ミンスキーの金融不安定性仮説を理解するさいの重要な概念である。
前節でも触れたように,投資家は「企業」目的でレバレッジを拡大するし,また「投 機」の目的でもレバレッジを最大限引き上げる。レバレッジは好況期において拡大し,
経済成長を加速していく。しかし,レバレッジの高まりは金融脆弱性の増加を意味す る。安全性のゆとり幅が低下すれば低下するほど,金融市場で生じる比較的小さなショ ックに晒されるようになる。レバレッジの上昇はそれ自体リスキーであり,やがては非 流動性のリスクに晒されるようになる。事実,こうした非流動性は資産保有者たちが債
────────────
33 Keynes〔9〕訳書172ページ,強調はケインズによる。
ポスト・ケインズ派経済学における流動性選好の位置(渡辺) (979)373
務返済のため資産の投げ売りをせざるを得ない状況に陥り,資産価格の暴落と支払い不 能を引き起こす。もうひとつの補完的指標は,2008年の金融危機で銀行が直面した市 場流動性の低下に対する備えであり,「流動性カバレッジ比率」と「安定調達比率」の
2
つからなる。前者は,ストレス下において30
日間に流出すると見込まれる資金をま かなうために,短期間に資金化可能な資産を十分に保有しているかを表す指標をさす。後者は,銀行の資産保有に対して,より中長期的での資金調達を促すことに目的があ り,1年間という期間にわたって金融機関の資産や事業内容がもつ流動性の特性に基づ き,許容される最低限の安定調達金額を規定しようとするものである。
2008
年の金融危機において,規制の緩い投資銀行などの影の銀行システムは,住宅 ローンを証券化するだけでなく,さらに債務担保証券(CDO)などのデリバティブに 組み替えることによって信用を膨張させてきた。金融当局の規制監督が及ばないため,これら影の銀行システムは,事実上いくらでもレバレッジを効かせて信用を膨張させる ことできたが,他方このプロセスで安全性のゆとり幅は大幅に低下した。これら影の銀 行システムは,正式な流動性支援の仕組みを備えてはいない。市場性資金に大きく依存 した影の銀行システムは,金融市場が強いストレスを受けたときには資産の投げ売りに 追い込まれ,市場流動性(market liquidity)の収縮と資金流動性(funding liquidity)の 強い制約を被ることになった。市場流動性の急減は,金融機関相互の疑心暗鬼を高める ことによって,金融機関の資金調達をも困難にする。他方,こうした市場性資金に依存 した金融機関の資金調達構造は,カウンターパーティー・リスクに過敏に反応すると き,市場流動性の急減を招きやすくなる。
金融危機時に見られる銀行やその他の金融機関による強い流動性選好は,さまざまな 不確実性に対する反応であると考えられよう。不確実性が急速に高まるとき,銀行や他 の金融機関も防衛的なポートフォリオ戦略をとるようになるであろう。銀行が知覚され る不確実性の高まりに対して感応的になり,非流動資産の損失に備えて,低収益であっ ても流動的な資産に対する需要を増やすであろう。保有を債務担保証券,コマーシャ ル・ペーパーおよび他のタイプの証券は,銀行や他の金融機関にとって重要な資金調達 手段となっており,金融危機のさなかにおいてこれらの市場の崩壊は最も流動性を必要 とするときに流動性へのアクセスを閉ざされるという脅威と化したのである。
それゆえ,これから行われるであろう金融規制改革は,ケインズの流動性選好説とそ れを引き継いだミンスキーの金融不安定性仮説がもつ現代的意義を受け継ぎ,金融規制 改革の論議において真剣に考慮される必要がある。主流の経済学は諸市場が自動的に均 衡するという前提に立っているが,資本主義経済のファイナンス慣行のなかに不均衡へ 導く作用力がすでに含まれている。かつてミンスキーが指摘したように,マクロ・プル ーデンス政策や金融規制の再強化は,「金融不安定性が資本主義経済における金融市場
374(980) 同志社商学 第70巻 第6号(2019年3月)
の機能の結果であることをその理論で主張されるようになっていなければならない。理 論が金融不安定性という現象の発生する条件を解明しえないかぎり,その現象をコント ロールしたり除去したりする指針が理論によって与えられることはな
34
い」という提言を 真摯に受け止めて進められなければならない。なぜならば,有効な金融規制に関する提 案は,資本主義経済において金融不安定性が外部ショックや政策の失敗によるのではな く,内生的に生み出される正常な現象であるとする理解に基づいてなされなければ有効 な危機予防策となりえないからである。
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