表紙、目次、彙報、編集後記、投稿規程、奥付
雑誌名 國文學
巻 97
発行年 2013‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/9222
平成聖年6月廻日㈹二年次生文楽鑑賞教室︵於国立文楽劇
場︶
7月創日幽第一回国文学会研究発表会︵後掲︶
n月弱日陶〜恥日出三年次生宿泊セミナー︵於飛
鳥文化研究所︶
廻月9日側第一回プレ・ステューデント・プログ
ーフム
n月1日㈱〜n月4日日学園祭
n月調日附院生合同学術研究会
平成聖年廻月過日山第二回国文学会研究発表会︵後掲︶
平成聖年1月妬日山第二回プレ・ステューデント・プログ
ラム
3月岨日出第三回プレ・ステューデント・プログ
ラム 関西大学国文学会莱報 二︑関西大学国文学会研究発表会
◇第一回国文学会研究発表会
日時平成二十四年七月二十三日⑯午後一時三十分開始
会場文学部第一学舎A六○二教室
研究発表
﹁尾上紫舟の実践的古筆学l高野切と類筆の和漢朗詠集
について﹂
本学大学院博士課程後期課程村山美恵子
﹁荷凹在満の大嘗会便蒙兼禍事件﹂
本学大学院博士課程前期課程国口唇国詞向○題目︑弓﹃シい
﹁日本語・ベトナム語・中国語における漢語の対照研究﹂
本学大学院博士課程後期課程F画室の○○9房z国弓雪
﹁ことばのタブーによる言い換え・言い控え﹂
本学大学院博士課程後期課程郡山暢
﹁行為指示表現としての否定疑問形の歴史l地域差の形
成を中心にl﹂
日本学術振興会特別研究員森勇太講演﹁明治大正の新聞小説﹂本学教授関肇
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一︑平成別年度関西大学国語国文学専修年間行事
◇第一回国文学会研究発表会︵七月二十一日︶
研究発表
﹁尾上紫舟の実践的古筆学﹂村山美恵子︵本号掲減︶
﹁伝藤原公任兼﹁古今和歌集﹂について﹂
立石大樹︵本号掲載︶
﹁荷田在満の大嘗会便蒙筆禍事件﹂ ◇第二回国文学会研究発表会
日時平成二十四年十二月十五日山午後二時三十分開始
会場文学部第一学舎A三○一教室
研究発表
﹁馬琴読本と橡譲の故事﹂本学非常勤講師中尾和昇
﹁伝藤原公任筆﹁古今和歌集とについて
本学非常勤講師立石大樹講演
﹁別れを前にしてl遣新羅使悲別贈答歌群十一首の構成l﹂本学教授大演填幸 荷田在満の﹁大嘗会便蒙筆禍事件﹂元文三年に桜町天皇の即位に際して︑大嘗祭が復活されるようになった︒この珍しい儀式の記録を得るために当時幕府の和学御用に勤めていた荷田在満が京都へ派遣されることになった︒彼が江戸に帰った後︑﹁大嘗会儀式具釈﹂という報告書を幕府に提出し︑そしてそれと別に門人のためにも﹁大嘗会便蒙﹂という二冊からなる入門書を執筆したのである︒後者は最初写本として伝わって行ったが︑関心を示していた人の数が圧倒的に多
かったようなので︑元文4年の冬に出版されることになった︒
しかし︑その翌年に朝廷が幕府に訴え︑﹁大嘗会便蒙﹂の作者と
いう存在を確認させた訳である︒幕府がこの訴えを重く把握し︑
結末在満に板木の没収と3ヶ月程の閉門を命じたのである︒
本発表では最初に軽く当事件の背景を説明した上で︑幕府が
在満に与えた処罰の表向きな理由の正当性を疑問に取り上げ︑
在満の派遣時の問題や幕府による取調べの実状を考察しながら
当事件の真相を考え直す試みにあった︒
﹁日本語・ベトナム語・中国語における漢語の対照研究﹂
F両Zの○○○露シz西国Z︵本号掲載︶ 函ロペ国詞両○西目の弓邑ンの
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三︑関西大学国文学会研究発表会発表並びに識演要旨
なお成稿し︑本号に掲赦したものについては省略した︒
かつて﹁読売新聞﹄︵明治三六〜四三年︶の記者をつとめ︑文
芸欄を担当した小説家・評論家の正宗白鳥は︑随筆﹁新聞小説
について﹂︵﹁改造﹂昭二五・一一︶に︑﹁過去の新聞は文学作品
の最大な発表機関であって︑明治以来の長篇傑作の多くは新聞
に連載されたのであった︒紅葉露伴あたりからはじまって︑激
石鴎外藤村秋声など︑文学史上の名人巨匠の長篇の多くは︑新
聞があったために世に現れたと云ってもいい︒新聞といふ連載 現代では︑否定の要素と疑問の要素を組み合わせた﹁否定疑問形﹂︵﹁〜せんか﹂﹁〜しないか﹂等︶が行為指示表現︵命令・依頼など聞き手に何らかの行動を求める表現︶として機能することがある︒﹁方言文法全国地図﹂において否定疑問形の分布を確認すると︑東日本では否定疑問形がほとんど用いられないのに対し︑西日本では否定疑問形がきびしく命令する場面において一般的に用いられる︒本発表では︑このような地域差がいつて一般的に用いられる︒本発表では︑こ︵頃形成されたのかについて考察を行った︒ ﹁ことばのタブーによる言い換え・言い控え﹂
郡山暢︵本号掲載︶
﹁行為指示表現としての否定疑問形の歴史l地域差の形成を中心にl﹂森勇太
否定疑問形がまとまって用例が見られるのは︑近世以降のこ
とである︒近世の資料を確認すると︑上方語・江戸語資料とも
に否定疑問形の用例が一定数見られる︵﹁何ぞ御吸物出さぬか
と上方酒落本・月花余情︑﹁そのすつぼんを売ねへか﹂江戸・
東海道中膝栗毛など︶︒しかし︑近代以降︑関西方言の資料では
否定疑問形の用例が変わらず一定数見られるのに対し︑東京︵首
都圏︶方言の資料では否定疑問形の用例が見えなくなる︒この ことから︑否定疑問形の運用の地域差は近代以降に形成されたものであると位置づけた︒
この歴史的変化の要因としては︑行為指示表現の東西差が挙
げられる︒東日本は概して待遇表現が単純なのに対して︑西日
本では待遇表現が複雑であり︑否定疑問形が維持されやすい環
境にあった︒また︑東京︵首都圏︶方言において︑明治前半に
普通体に疑問助詞﹁か﹂を標示して質問をすることが避けられ
るようになったことも否定疑問形が衰退した一因と考えられる
ことを述べた︒
諦演
﹁明治大正の新聞小説﹂
関薙
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路﹂を書きかけたところ︑今度は新聞社側に掲載を渋られて発
表できなかった︒新聞小説の歴史は︑メディア状況の変化と不
可分の関係を結んでいるのである︒
◇第二回国文学会研究発表会︵十二月十五日︶
研究発表﹁馬琴読本と橡譲の故事﹂中尾和昇︵本号掲職︶
﹁伝藤原公任華﹁古今和歌集﹂について﹂
立石大樹︵本号掲戦︶講演
﹁別れを前にしてl過新羅使悲別贈答歌群十一首の構成
l﹂大演飼幸
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に適した発表舞台がなく︑また新聞社に依頼され︑せつかれな
かったら︑あ︑いふ作品が続々と出現することはなかったので
あらう﹂と記している︒
まさに新聞小説は︑日本の近代文学の重要な源泉をなしてい
た︒日清・日露戦争の間の時期に︑東京紙では︑尾崎紅葉﹁金
色夜叉﹂や徳冨蔵花﹁不如帰﹂︑大阪紙では菊池幽芳﹁己が罪﹄
﹁乳姉妹﹄などのメロドラマが流行する︒その背景には︑戦争を
契機として新聞の発行部数が飛蹄的に伸び︑読者層の裾野が一
般家庭に広がるようになったという事情がある︒
明治四十年に夏目激石が朝日新聞に入社した頃から︑それま
でのように読者受けをねらうよりも︑質の高い新聞小説が求め
られるようになるが︑大正期の半ば頃から新聞がマスメディア
へと成長していくにしたがい︑再び流れが変化し︑より大衆的
な読者に支持される面白いものが求められていった︒
こうした明治・大正の新聞小説の消長の波にさらされて︑た
とえば志賀直哉の﹁暗夜行路﹂は数奇な発表経緯をたどってい
る︒志賀は︑大正三年には激石の依頼により﹁東京朝日新聞﹂
に﹁暗夜行路﹂の原型となる﹁時任謙作﹂を連赦するはずだっ
たが︑書きあぐねて挫折し︑さらに大正九年には菊池寛の﹁真
珠夫人﹂の後に一・大阪毎日新聞﹂に連載するつもりで﹁暗夜行
◇編集後記
﹃国文学﹂九十七号をお届けします︒本号は︑本学の大学
院で学ぶ若手から数多く寄稿があり︑多彩な内容になりま
した︒今後も︑国文学会会員である︑本学卒業生そして本
学大学院修了生が︑自らの研究成果を問うべく︑投稿規定
を参照して︑寄稿されますことをお待ちしています︒
今年度︑国語国文学専修は︑関肇教授をお迎えしました︒
近代文学を担当下さっています︒学識豊かで︑かつ穏やか
なお話ぶり︑いかにもお優しげな風貌とあって︑学生たち
の評判も高いとか︒関先生には︑七月に開催した本学会の
研究発表会において講演をいただきました︒
ただ今年度は︑心弾む御報告ばかりではありません︒
大演填幸教授が︑この三月をもって退職されることにな
りました︒大演先生は平成三年に着任され︑以後︑上代文
学を担当下さっていました︒大演先生の講義や演習を履修
し︑万葉人の心に触れた学生たちは数限りないことと存じ
ます︒どうか︑大演先生︑ご健康に留意なさって︑今後ま
すますご活耀下さいますことを︒そして卒業生たちが︑大
演先生から教えをうけた万葉学に研讃を積むことを︑願ってやみません︒︵薫︶
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