他者となって他者と向き合う
クレメンス・マイヤー『静かなる衛星』における〈なりかわり〉
杵 渕 博 樹
はじめに
クレメンス・マイヤー(
1977–
)は、東独ハレ出身、少年時代は再統一直 後の混乱期を「不良」仲間たちと駆け抜け、高校卒業後は建設現場で肉体労 働に従事し、体を壊して失業、その後初めて高等教育機関に通ったという経 歴で、現在のドイツ文壇において異彩を放っている。マイヤーは自伝的長篇『おれたちが夢見ていたころ』
Als wir träumten
(
2006
)1)でデビューし、二作目の短篇集『夜と灯りと』Die Nacht, die Lich- ter
(2008
)でライプツィヒ書籍見本市賞を獲得した。『夜と灯りと』は、体 験的リアリティを活かしつつ、多様な人物を登場させ、そぎ落とされた表現 で印象的情景を浮かび上がらせる技巧的な作品であった。2)その後、「日記」と称する小品集『暴力』
Gewalten
(2010
)3)を経て、2013
年の『石の中』Im
Stein
で、マイヤーは、なじみの生活圏、すなわちハレ・ライプツィヒ都市圏の人脈と土地勘を活かして数多くの売春婦たちにインタビュー取材し、再 統一後のドイツの売春業界の栄枯盛衰を、総
558
頁の大作にまとめあげ、ドイツ書籍賞候補のショートリストに残った。4)
1)
2015
年、映画化。2)拙稿参照。杵渕博樹:「負け組」のリアリティで「東」の今をクールに読ませる、
ワセダ・ブレッター第
16
号(2009
)。この『夜と灯りと』の中の一篇「通路にて」
In den Gängen
も、2018
年に映画化され、日本でも公開された(邦題『希望の灯り』)。
3)拙論参照。杵渕博樹: 日常的暴力あるいは暴力的日常の迷宮―クレメンス・マイ ヤー『暴力』の物語構造、大久保進先生古稀記念論文集『規則的、変則的、偶然 的』(
2011
)その四年後に発表された短篇集が本稿で取り上げる『静かなる衛星』
Die stillen Trabanten
(2017
)である。5)残念ながら受賞はなかったが、発表当初 の書評は総じて好意的であった。例えばWiebke Porombka
は「『静かなる 衛星』でクレメンス・マイヤーは、われわれの諸都市の周縁におけるメラン コリーについて語っている。これほど品位ある仕方でそれをやってのけるこ とができる者は、ドイツ現代文学界でもほんのわずかしかいないだろう」と しつつ、都会の片隅でつつましく生きる登場人物たちに対する優しく繊細な 扱いを褒めている。6)また、Christian Buß
は「同世代作家の誰にもできない 仕方で、この間39
歳になったライプツィヒ人、マイヤーは東ドイツの様変 わりを偉大な文学にしてみせた」と述べ7)、Jörg Magenau
は「マイヤーは 神話的モチーフに対する繊細な感受性をもって、没落した東ドイツの遺産を 査察している」と評している。8)両者とも、マイヤーが旧東独地域の現在を 描くことにかけて第一人者であることを認める論調である。さらに、Ma-
genau
は「マイヤーのリアリズム」に「いわゆる現実の表層などよりも、もっと深くもっと真なる神話的モチーフに対する繊細な感受性」を見た上 で、「セリーヌやフーベルト・フィヒテのような彼のあらゆる文学的模範の 彼岸にある、彼独自の自然な調子がある」として、マイヤー独自の文体の確 立を証言している。また、
Andreas Platthaus
は、本作が、これまでの作品 と同様、悲しみを抱えた孤独な人々を描きながら、これまでとは違って希望 を残すニュアンスが目立つことを指摘し、作者マイヤーは「より慈悲深くな り、よりよくなった」と評している。9)なお、マイヤーは本作を含むこれま での作品全体を対象として、地元ザクセン・アンハルト州より2020
年度の4)拙論参照。杵渕博樹:この世の異界の果ての果て―クレメンス・マイヤー『石の 中』の物語構造と「日本」、ワセダ・ブレッター第
22
号(2015
)5)
Clemens Meyer: Die stillen Trabanten. Erzählungen. 2017, Fischer, Frankfurt a.M.
以下、引用・参照指示の際には、カッコ内に頁数のみ示す。なお、本作は
2018
年にベルリン・ドイツ劇場のArmin Petras
によって舞台化された。6)
Vgl. Wiebke Porombka: Nachts sind wir alle einsam. Zeit Online, 23.05.2017.
7)
Vgl. Christian Buß: Himmel aus Beton. Spiegel Online, 18.03.2017.
8)
Vgl. Jörg Magenau: Die ganze europäische Gegenwart in einem einzigen Bild.
Süddetusche de. 20.03.2017.
クロップシュトック賞を授与されている。
『静かなる衛星』収録作品のうち、「隙間」
Der Spalt
では、主人公が人違 いを契機に他人になりすまし、「隔たり」Die Entfernung
の主人公は、遺族 の前で、事実に反して、故人と親しかったかのようにふるまう。本論考で は、これら特徴的な展開の〈なりかわり〉としての共通性に注目して、それ ぞれのケースを分析し、その今日的意味に考察を加える。短篇集『静かなる衛星』の概要
本作は、「
1
」、「2
」、「3
」、と数字をタイトルとした(あるいはタイトルの 代わりに番号を付された)わずか三頁からなる掌篇のあとに、それぞれ三篇 の短篇が続く、全十二篇からなる三部構成となっている。全体の中心にあた る七番目に、「静かなる衛星」と称する表題作が置かれている。以下、諸篇 の概要を紹介する。時代設定は「われわれの時代に」以外はすべて21
世紀 初頭である。「
1
」Eins
: 建設予定現場の草刈りに従事する労働者たちが、死んだ子ど もを抱えて途方に暮れる難民の家族を助ける。「物件
95
のガラス片」Glasscherben im Objekt 95
: 警備員として働く男 が、警備対象である外国人用集合住宅と半ば廃墟と化した旧ソ連軍 兵舎を舞台に、ソ連出身の孤独な少女との恋を回想する。「遅い到着」
Späte Ankunft
:ライプツィヒを思わせるターミナル駅で鉄 道車両の清掃をする初老の女性が、駅構内のバーで、やはり駅構内 の美容室で働く、同世代の美容師の女性と出会う。「海浜鉄道の最後の運行」
Die letzte Fahrt der Strandbahn
: 人生に行き9)
Vgl. Andreas Platthaus: Drei Meter weiter liegt eine fremde Welt. Frankfurter
Allgemeine. 29.03.2017.
『静かなる衛星』には、従来マイヤーが得意としてきた暴力行為のクローズアップが見られない。暴力的場面と言えば、「物件
95
のガラ ス片」において暴徒たちの投石が背景として描かれる程度である。代わりに、第 二次世界大戦のモチーフが初めて取り上げられている。これらの点は、マイヤー 作品史上、注目すべき現象であろう。詰まり、バルト海の保養地で休暇を過ごす中年男性が、海に臨むベ ンチで老人と出会い、かつて大戦末期、彼が運転士を務めたとい う、今はなき海浜鉄道にまつわる悲しい思い出を聞く。
「
2
」Zwei
: 老衰でほとんど外出することもなくなった父親の希望を受 け、息子とその友人が彼を車で町に連れ出す。遊園地で観覧車に乗 ると、老人が指さす方に、かつて彼が建設に携わった風力発電の風 車が並んでいる。「隙間」
Der Spalt
: 窃盗被害にあった男が、被害翌日の仕事帰り、尾行されているように感じて逃げ込んだ住居で、見知らぬ老女に孫と勘 違いされ、かくまってもらうため調子を合わせる。
「静かなる衛星」
Die stillen Trabanten
: 一人でインビスを営む男が、集 合住宅の同じフロアに住む同世代のムスリム男性と、たまたま店の 客として知り合って親しくなったのち、その妻と恋愛関係に陥る。日々夕暮れ時にふたりが喫煙しに訪れる階段室からは「衛星都市」
の灯りが見える。
「氷の下」
Unterm Eis
:ユーゴスラビアで鉄道の再建に従事していた男 が、ドイツへの帰途、ウィーンの空港で、今は競走馬の調教をして いる元ジョッキーと知り合い、交流を深める。タイトルはスイス、サン・モリッツでの凍結した湖の上で行われるレースに関わる、語 り手の悪夢から取られている。
「
3
」Drei
:カメラマンとジャーナリストが狼男の出没が噂される町に取 材に訪れる。「隔たり」
Die Entfernung
: 線路に現れ、笑顔で立ちはだかる自殺者を 轢いてしまった列車の運転士が、精神的に追い詰められながら、そ の「笑う男」に関心を持ち、遺族を訪問する。「アルゴノートの帰還」
Die Rückkehr der Argonauten
:「炭坑地区」出身の語り手が、今はすっかりさびれてしまった故郷の町を訪れ、幼馴 染たちの悲惨な現状を目の当たりにする。
「われわれの時代に」
In unserer Zeit
:1940
年代初頭、亡命先のモスク ワ、レーニン図書館の地下で、小説を執筆するヴィリ・ブレーデル の姿が、ヨハンネス・ベッヒャーやアルフレート・クレラとの対 話、スターリングラードの戦場の回想等を交えつつ描かれる。〈なりかわり〉について
本稿の主題である〈なりかわり〉の意味は、議論の進展に従って明らかに なるはずだが、通例の語法ではないので、この用語についてあらかじめ簡単 に説明しておく。
「概要」で示したとおり、「隙間」と「隔たり」の主人公たちは、(常識的 な意味で)本当の自分ではない人物のフリをする。状況に強いられた結果と は言え、自覚的に嘘を交え、別人に「なりすまし」ているとも言える。しか しながら、「なりすまし」というと、不当な利益の詐取を目的とした計画的 な詐欺行為のニュアンスが強く、広く解釈したとしても明確な悪意が含意さ れることが多いようだ。ところが、本論で取り上げる例には、悪意も計画性 もない。
他方、「なりかわる」というと、本人の合意の上で代理を務める行為や、
かならずしも「合意」の意思確認がなかったとしても、本人に対する明確な
「善意」や「義務感」を動機とする行為を自称する印象がある。しかし、両 短篇の主人公たちは、「なりかわる」対象たる人物との関係よりも、むしろ、
(ある意味で「欺く」対象である)目の前の人物との間の情緒的交渉によっ て動機づけられている。また、「なりかわる」という言い方はあっても、ふ つう(「生まれ変わり」などとは違って)「なりかわり」とは言わない。
そういうわけで、「なりすまし」の方が名詞としては座りがよいのだが、
強い含意があり、誤解を招きやすい。他方、「なりかわり」の方は、価値評 価のニュアンスが控えめで、文字通りに受け取れば意味に幅を生じさせうる
し、名詞としてはやや奇異な語感がある分、独自の含みをもたせるためには 都合がいいかもしれない。これが、本論で取り上げる、ひとつの特徴的な行 動パターンを名指す用語として〈なりかわり〉を選んだ理由である。
「隙間」における〈なりかわり〉
主人公は一人暮らしの独身中年男性である。彼は郊外の「準工業地帯」
Gewerbegebiet
の外れにある事務所で働いており、市内からバスで通勤している。物語の中で彼が名前で呼ばれることはない。ある夜、帰宅した彼は、
何者かが部屋に侵入した形跡を目にする。一見ドアに異常はないが、鍵がか かっておらず、わずかに隙間があいている。鍵穴に鍵を差し込んでみると、
手ごたえがない。
敷居を踏んだときの静かな軋みは彼にはおなじみだった。なにしろ母親 のもとを離れて以来、もうほとんど
15
年もこの住居で暮らしているの だ。そして廊下の電気を点けるなりすぐに、カウボーイブーツがなく なっているのに気づいた。(99
)「母親のもとを離れ」という記述は、彼が母子家庭の出身であることを暗 示している。カウボーイブーツは何年か前に休暇でアメリカを訪れた際に 買ってきたものだという。この後、キッチンに置いてあった自転車がなく なっていること、さらに、「キッチンラジオ」なるものがなくなっているこ とが判明する。
それは優れものの小さなキッチンラジオで、デジタル時計と卵茹で機能 がついていて、母親から何年も前にプレゼントされたものだった。グル ンディヒ製だ。いいメーカーだ。それにしてもわからない。誰がそんな ものを盗むだろう。いったいどれだけの価値があるっていうんだ。だい たいもう十年以上前の年代物だぞ、母親からの最後の贈り物のひとつだ
が。(
100
)親元を離れて
15
年、キッチンラジオの由来に関わる、10
年という記述に よって、主人公が、ドイツ再統一から10
年が経過した2000
年前後から、物語の現在と推定される
2010
年代半ばまで、あまり変化のない生活を送っ ていたことが推測される。また、いかにも価値のなさそうな古いラジオがな くなっていることを契機として、犯人の人物像に主人公の関心が向けられた ことがわかる。主人公が居間の様子を見てみると、ステレオ機器と小型液晶テレビがなく なっており、寝室ではベッドも荒らされ、アルバムから一枚の写真がなく なっている。
やつらはアルバムをめくったのだ。ナイトテーブルの抽斗にしまってお いたアルバムだ。まだ半分開いていて、頁が一枚折ってあり、写真が一 枚なくなっていた。
ナイトテーブルのランプで彼は、小さな子どもの頃の自分が母親の膝 に座っているのを見た。白黒だ。ページをめくると、最後に付き合った 彼女が浜辺にいた。なんてきれいなんだ。(…)彼は母親の膝の上の赤 ん坊だった頃の自分の足を見た。写真がない。黒いフォト・コーナーだ けが他の写真の間に残っていて(…)。(
101
)これは不気味である。なぜ、窃盗犯はアルバムなど眺め、昔の写真を一枚 だけ持ち去ったりしたのだろうか。この問題は作品内では解決しないのだ が、それはともかく、今、主人公は不安と恐怖を感じながら、自分の過去と 向き合っている。ただし、彼が自分の過去と現在をどう評価しているかにつ いては、直接的には一切語られない。
その後、彼は新聞で連続窃盗事件についての記事を読んだことを思い出 し、トイレやソファにも侵入者の痕跡を見出し、警察には通報しそびれ、眠
れぬ夜を過ごしたあと、業者を呼んで鍵を取り換える。以下の引用は、鍵を 取り換えに来た作業中の職人と主人公との会話の一部である。
「何も盗られてないんです」と彼はまた言った。でも鍵屋の男はおか まいなしにしゃべり続けた。「あなたが最初じゃないんですよ。このあ たりがね、街全体がもうやられてるんですよ。外人どもです。あたしが 思うに、トルコ野郎10)ですよ」
「いや、だから言ったでしょ、…やつらは不意をつかれたんですよ。
やつらは中に入ってさえいないんですってば」(
103
)主人公は被害は何もないと言い張るが、職人は外国人窃盗団の仕業だと決 めつけており、この職人のセリフが、主人公のこの後の行動に強い影響を与 えることになる。鍵交換のあと出勤した主人公は帰宅途中のバスで寝過ごす が、その際に見た夢の中では、警察官たちが彼の住居を捜索している。
「やめろ」彼は叫んだ「あんたら入ってこないでくれ」、しかし彼らは彼 のものを引っ掻き回し、彼の写真をパラパラと眺め、とにかく引き上げ ようとしないのであった。(
105
)この夢によって暗示されているのは、窃盗被害による精神的ダメージの中 心に、プライヴァシーの侵害によるショックがあるということだ。主人公は アイデンティティそのものを傷つけられたように感じているのである。本来 よりも先の停留所でバスを降りたあと、主人公はまっすぐ家に向かわず、橋 の上にしばらくたたずんで下を走る
S
バーンなどを眺めたのち、近所のク ナイペでビールを飲む。かつて、10
年前、15
年前、まだ20
代だった頃と きどき訪れた店だという。路面電車も廃線になり、この地域はこの間すっか10)原語は
Kanacken.
本来トルコ系の者を指していたようだが、中近東出身者一般に対して使用される蔑称。
りさびれてしまっている。やがて、もう閉めるからということで、主人公は 店から追い出されてしまう。他人になりすまさざるえない状況へと、主人公 が追い込まれていくのはここからである。彼はアルバムからなくなった写真 について思いを巡らせている。
(…)…やつらは頁と写真の間に何を期待してたんだろう? 金か?
クレジットカードか? それともおれの人生の軌跡に不覚にも感動した か? 思い出の中をのぞいて…思い出のひとつを盗んだのだ。
寝る前にアルバムを眺めることなど滅多になかった。だが彼は知って いた。それがそこにあること、ナイトテーブルの抽斗の中にあること を。(
106–107
)いちいち眺めることはしないがそこにあることを知っている、という描写 は、ここでのアルバムが主人公の過去そのものを象徴していることを殊更に 強調している。住み慣れた地域のさびれた情景もまた、彼の不安な精神状態 のもとで、思い出の中の過去の情景と暗に対置されていると言える。
また別の店に入り、カウンターで飲みつけない酒を飲み続けるうちに、彼 は背後に外国語の話し声を聞き、鍵の交換に呼んだ職人の発言、窃盗団の新 聞記事を連想し、自分の書類カバンが狙われているように感じて逃げ出す。
(…)どのインビスからも、どのゲームセンターからも、どのクナイ ペからも、どの照明を浴びたショーウインドウからも、フラッシュが焚 かれて目がくらみ、誰かが彼を撮影しているような気がした。(
107
)ゲームセンター、馬券売り場、ケバブ屋、インターネットカフェ、リサイ クルショップ、入り口にアラビア語の書かれた中近東風の喫茶室、すれ違う 一目でそれとわかる麻薬中毒者のカップル、すると、彼の住んでいるところ からそう遠くはないのに、もう何年も来たことのない通りに出る。そこは幼
い頃、母に連れられて子供向け映画を見た映画館のあったあたりだ。そうこ うするうちに、彼は何も飾られていないショーウインドウの脇のドアから、
朽ち果てたように見える古い建物の中へ逃げ込み、眠ってしまう。
「おまえなのかい、私の坊や」
彼はギョッとした。どうも居眠りしてしまったらしい。階段室は眩し く照らされ、見上げると老婆が立っていた。(
109
)「やっと帰ってきたんだね」彼女は今や両手を彼の両頬にあてて、彼 の頭を慎重に自分の方へ向けて、顔をよく見ようとした。彼は顔を背け た。彼女の息を感じたからだ。(
111
)主人公はまだ夢うつつで、外国人たちに追われているという思い込みの恐 怖の中から抜け出せていない。彼は荒らされた自宅に帰宅して以来の出来事 と自分の行動を反芻しながら、人違いをしているらしい老婆のなすがまま に、彼女の住居へと導き入れられてしまう。どうやらこの婦人は一人暮らし で、ときどき、若い女性スタッフが訪問介護に来てくれているらしい。主人 公に対し、あんたと同世代のいい娘だから是非会わせたいなどと言う。
その後主人公は、老婦人の居間で、彼女の自慢の孫ルーカスとして歓待さ れつつ、この孫が彼女によこした多くの手紙を見せられ、彼についてのあれ これを長々と聞かされたあと、彼が使っていたという部屋に案内されて彼の ベッドで眠り、翌日は頼まれて食料品の買い物までしてくる。
昼食後ルーカスの部屋に戻って休んでいると、件の介護スタッフがやって きて話しているのが聞こえてくる。この老婦人は、ほかには誰も身よりがな く、ルーカスの帰りを待ちわびており、毎晩、彼の夢を見ているのだと言 う。どうやらこの偽のルーカスの登場も、その夢のヴァリエーションだと 思っているらしい。
一方、この間に読者は主人公とともに、老婦人の話や手紙に加え、住居の
あちこちに飾られている写真などから、ルーカスがある時期からここで祖母 に当たる彼女によって育てられており、軍人となって
PKO
活動で海外に駐 留していたことを知る。母か祖母かの違いはあるが、主人公とルーカスの生 育環境には共通するものがあったのである。主人公の母親が存命中であるか 否かについては作品中に言及がないが、彼が母親と疎遠であることは間違い ない。この事情もまた、ルーカスと老婦人との関係に重なる。ひょっとした ら、子どもの頃、あの映画館で一緒に映画を見ていたかもしれない、などと 主人公は考え(117
)、ルーカスの生活を想像し、感情移入し始める。目を閉じると、顔に陽射しを感じた。目を閉じるとそしてそれから窓 から差し込む太陽の光に目が眩むと、山が見えた。青空を背景にした巨 大な山だ。ジープが何台か見えた。彼はその一台に乗っている。川が見 えた。山と空が映っている。(…)はてしない草原が見えた。ひとりの 若い女性が見えた。彼らは抱き合っている。(…)長い装束の髭の男た ちが見えた。宿営の上空に暗い色の大きな鳥が見えた。(…)おばあ ちゃんの家の階段室に何人かの人影が見えた。やつらが押し入ってき た。(…)やつらが玄関ドアを通って押し入ってきた。…「トルコ野 郎」11)彼は叫んだ、それが住居と階段室に反響する。(
120
)「暗い色の大きな鳥」、というのは主人公が背後の外国語の話し声を鳥の鳴 き声のように感じ、その外国人たちをたとえた表現の再出である。アフガニ スタンらしきルーカスの勤務地の様子から、主人公が恐れている町の外国人 が連想され、外国人との緊張関係を伴う対峙、という点で、主人公とルーカ スとが重なり合う。
ルーカスの勤務地については、老婦人が「そんなひどい国から早く帰って きてほしい」(
114, 118
)という願いを繰り返していた一方、ルーカスは手 紙の中で「この国は素晴らしく美しい」(117, 118
)と述べている。主人公11)注
10
)参照。は明らかに後者に強く影響されており、夢の中のその見知らぬ国は広々とし て明るく、開放感と自由を感じさせる。彼は、アメリカを旅し、カウボーイ ブーツを買ってくるような人物である。この異国のイメージは、そのアメリ カ贔屓と相まって、彼の広い世界に憧れる傾向を反映している。また、この 夢においても、彼が外国人に対する不信と恐怖を想起する舞台は、この住居 であり、階段室であって、あくまでも彼が暮らすこの町である。
その後、ベッドの下にあった箱の中から、ルーカスの軍服と勲章、そして 死亡通知が出てくる。ルーカスは既に亡くなっていたのである。主人公は軍 服を身に着けて部屋を出ると、洗面所で嘔吐し、顔を洗ったあと、洗剤とブ ラシで洗面器を念入りに磨き上げ、老婦人の寝室へ様子を見に行く。一切心 理描写はないが、この行動からは、彼の中で何らかの変化が起こったことが はっきりとうかがえる。
彼女のベッドに近づくと、鼾が聞こえた。彼はナイトテーブルの脇の 椅子に座った。
彼女の口はあいていて、唇は鼾をかいているあいた口の中の闇にほと んど落ち込んで、消えていた。ナイトテーブルの上には入れ歯の入った グラスが置いてあった。抽斗は開けてあり、プラスチックで包装された 一連の白い錠剤が見えた。「おばあちゃん」、と彼は呟いて彼女の顔に触 れた。屈む込むと、軍服の上着の袖の中で自分の腕の筋肉が強張るのを 感じた。少し目を開けて、それからおれを見て微笑まなかったか?
(
125
)彼は今やルーカスになりかわって老婦人を喜ばせようとしている。同時 に、その役柄に相当な満足感を抱いていることがうかがえる。さらに言え ば、彼はここで自分の存在意義を実感している。これまでの〈ルーカスのふ り〉が一貫して受動的であったのに対し、ここでわざわざ「おばあちゃん」
と呼び掛ける彼は、明らかに自主的、積極的にルーカスを演じている。物語
の中でそれまで匿名の存在だった彼が、自らルーカスという名前を引き受け ているのである。
それから彼はドアを開け、建物の前へ出た。また、そして相変わらず 夜だった。そして彼は歩き出した。あの橋の方へ、あの大きな鳥たちの 方へ、いつだったかそこを通ってきた、あの通りの方へ。(
126
)ここで本篇は終わる。「いつか通ってきた」の「いつか」には、(ルーカス と共通の)幼い頃の思い出の時と、数日前の夜とが重なり合い、溶け合って 響いている。主人公は軍服の力によって、あるいはルーカスになりすますこ と、〈なりかわる〉ことによって、(自らを脅かす存在としての)外国人に対 する不安と恐怖を乗り越えてしまったように見える。確かに、制服を身に着 けて外国人と対峙する構図からは、排外的かつ暴力的な敵対関係を読み取る こともできる。しかし、この〈なりかわり〉前の主人公は、不安のあまり、
「外国人」を直視することすらできなかったのである。ここでの「制服」は、
公共の暴力装置への同化の象徴であるよりはむしろ、異国を知り、外国人を むやみに恐れない個人の象徴であると言うべきであろう。この小さな物語に 描かれているのは、あらかじめの心理的障壁を克服し、当然の緊張感を伴い つつも、他者との出会いの出発点に立つまでの経緯なのである。
「隔たり」における〈なりかわり〉
「隔たり」は以下のように始まる。
その男は笑っていた。
どうしてそんなことがわかったのか、あとになってから彼は繰り返し 尋ねられた。でもその男は笑っていたのだ。相当にはっきりと彼にはそ れが見えた。晴れた夕暮れだった。そして暗くなる前のその短い間に突 然そこにいたのだ。彼は
261
号で旧国境を通過したところだった。(192
)貨物列車を運転していた主人公は、東西ドイツ旧国境付近12)の線路に突 然現れた「笑う男」を轢いてしまう。マイヤー作品の多くの登場人物同様、
彼もまた東の出身である。「隙間」の主人公と同じく、この運転士も名前で 呼ばれることはない。
駅のそばの線路沿いにある祖母の家のこと、子どもの頃、その近所の跨線 橋から蒸気機関車を眺めるのが好きだったこと、列車が前照灯を点灯させる のが見たくて、暗くなるまで待ったこと、列車の運転士になり、その路線を 走るとき、祖母が自宅二階の窓から手を振ってくれたこと、などの思い出が 語られたあと、再び、事故当時の状況についての記述が置かれる。
その夕方も晴れていた。(…)彼は運行計画通り分単位で正確だった。
彼はその路線をよく走っていた。もうすぐ列車は旧国境を越えるところ だ。もう何かが見えるわけではない。でも奇妙なことに、何となく感じ るのだ、境界を、隔たりを、違いを。何年も前からほとんどの運行で彼 は国境の向こう側へ行っているのに。駅のホームが違って見えた。そこ に立っている人々が違って見えた…
25
年も前からその境界はもう境界 ではなくなっているのに。(193–194
)旧東西ドイツ国境は、彼の体と心に染み付いた、ほとんど生理的に感知され るようなものとして描かれている。ここで既に強調されているのは、彼に とっての、ということはすなわちこの物語における、この境界の、あるいは 越境の重要性である。この引用箇所に続いて、彼のこれまでの几帳面な仕事 ぶりや、仕事への愛着が語られ、事故当時の状況が生々しく再現される。事 故のショックから立ち直れないまま、彼は例の「笑う男」に取りつかれたよ うになり、妻の車を運転して家を出ると、まず祖母の家のそばの線路際に立
ち寄り(
197–199
)、次いで事故現場付近で車を降り、荒れ果てた「市民菜12)マイヤーは
M
市とB
市の間としている。想定されているのは、マクデブルクと ブラウンシュヴァイクだろう。園」
Kleingarten
の続く一帯を抜けて、線路に向かう(199–202
)。彼は線路のわきにいた。あの笑う男が立っていたところだ。市民菜園 はどれも本当に荒れて空っぽだった。(…)いや、まだここじゃない。
彼は枕木の上を歩いて行った。彼はここにいる。あの男が彼を見つめた からだ。(
200
)次に彼が向かうのは、「笑う男」が生前暮らしていた家だ。彼はこの自殺 者についての情報を同僚から無理やり聞き出していた。その名前に彼は聞き 覚えがあった。
彼は公園に立っていた。初秋の寒さの中、誰もいなかった。彼はジャ ングルジムにもたれて、その家を観察していた。彼はそれまで、国の ずっと西の、別の国境の近くにあるこの町に来たことはなかった。向こ う側はオランダか? 彼は確信が持てなくなっていた。彼はよくここを 通過していた。(
202
)日が暮れて、窓に明かりが灯るまで彼は公園のベンチで家を観察してい る。すると、窓辺に
10
歳くらいの子どもが現れ、背後でカーテンを閉め て、彼の方を見る。この子どもの顔は彼に強い印象を残す。このことは、読 者に、すでに再三強調された「笑う男」の顔を連想させる。彼が翌日、午後四時を少し過ぎた頃、階段を上っていくとき、相変わ らずあの顔が目に浮かんだ。彼は駅のそばのホテルに部屋を取ってい た。この町までは妻の車を運転して来ていたのだが。(
203
)彼はおそらく行く先を告げずに家を出てきており、妻は何度も心配して電 話をよこす。窓辺に現れたのは、自殺者の子のようでもあるが、この後の訪
問時には気配もなく、また、この引用の直後で、主人公が幼いころ近所に 引っ越してきた少年の思い出が唐突に語られているため、むしろ幻のようで もある。彼は花束を持参し、呼び鈴を押したあと、インターフォンでは何も 言わず、荷物の配達に来た業者に続いて建物に入り、ドアを開けた〈笑う 男〉の妻に対面する。
「それであなたは学校の友達なんですね、その…私の夫の」
「はい学校の友達です」彼はコーヒーカップを、ソファーテーブルの 花束の隣に置いた。
彼は彼女にコーヒーを所望したのであった。「すいませんがコーヒー をいただけませんか、よく眠れなかったもので」、そして何か変なこと を言ってしまったような気がした。だが、しばらくして彼女が彼を家に 入れてくれるまで、彼らは黙って廊下に立っていたのだ。そして彼はホ テルからこの家へ来るまでの間ずっと一杯の熱いコーヒーのことを考え ていたのである。何軒かのインビスを通り過ぎたけれど、道草をくって いる場合ではないことはわかっていた。彼女は頷くとすぐに台所へ行っ た。(
204–205
)コーヒーのモチーフには伏線がある。事故直前に、線路上の「笑う男」に 気づいた主人公は当然ながら急ブレーキをかけたのだが、その際、コーヒー の入った保温ポットをひっくり返し、手を火傷しているのである(
196
)。ホ テルの部屋の場面でも、かかってきた電話に応答する彼の前の冷めたコー ヒーに言及があり(196
)、その後、彼が慎重にカップを手に取る描写がある(
197
)。また、事故以来彼が繰り返し見る悪夢の中で、運転席の彼は、フロン トガラスのすぐ前に見える「笑う男」の顔に向かって、コーヒーの入ったポッ トを投げつけている(205
)。コーヒーは、彼の職場、すなわち列車の運転席 での日常と、問題の事故との双方に強く結びついているのである。それは諸 場面を通じてかろうじて維持される彼の一貫した生の感覚の象徴であろう。「よく一緒に遊んだんです」
「故郷の町でですか? あの人が詳しく話してくれるようなことは一 度もありませんでした」(…)ここの出身であることが、話し方でわかっ た。(
205
)前述の彼が想起した少年は、見かけたことがあるだけで、実際は一緒に遊 んだことはない。彼は一歩踏み込んで、未亡人を欺き始めている。自分が故 人を轢いた列車の運転士であることを彼は明かさない。他方、明らかに地元 出身、すなわち西ドイツ出身の彼女の言葉で、西の「この町」と東の「故郷 の町」の対比が強調される。
この家のコーヒーポットには、往年の西部劇スター、ジョン・ウェインの 顔がプリントされており、彼女は「彼は西部劇が好きだった」と言うが、主 人公は答えに窮し、暇を告げようとする。
「もう行かないと。押しかけてしまって、すいません。つまり…」彼 は口をつぐんだ。
ここでおれは何をやってるんだ? 彼は窓の方を見た。カーテンが寄 せられて三角形の視界が開けていた。(…)彼はその三角形を通してそ の午後を見た、(…)昨日まだ彼が立っていた公園を見た、(…)見知ら ぬ街を見た。もう何もかもがおかしくなっていた。彼はあの子どもにつ いて尋ねたかったが、やめておいた。(
206
)ここで描写される、主人公が窓から外を眺める様子は、〈なりかわり〉の テーマとの関係において重要である。今や彼の視点は、これまで彼が外から 観察していた場所にある。事実関係としては当然だが、前日に彼がいた場所 に、今、彼はいない。彼が今いるのは、「笑う男」がいたはずの場所なので ある。ここで、読者の意表をついて、未亡人は彼を引き留める。
「待ってください…どうか。あなたから何かお話しいただけるかもしれ ないって、思ってたんです」
「もう何年も会ってないんです。ぼくたちは子どもでした」
(…)
「どうぞ、お座りになって下さい。どんな…どんな子どもでしたか、あ の人は」 彼は彼女の呼吸を感じた。タバコのにおいがした。(
206
)彼がその場しのぎで演じ始めた役柄は、未亡人が必要としていた役柄でも あったのだ。この場面からは、彼女の切実な願望によって、彼らの間の心理 的な距離が瞬時に縮まってしまったことがわかる。彼は、前日に窓辺の子ど もを見て改めて想起した、親しくなりたかったけれどなれなかった隣のクラ スの転入生、またしばらくして転校していってしまった同級生の思い出を語 る。もちろん、かつての東ドイツの記憶である。彼は、ピオニールが運営し ていた子ども向けの蒸気機関車である「ピオニール鉄道」に言及し、これに ついて説明する(
207
)。未亡人の曖昧な反応も、「笑う男」が東の出身だっ た可能性を否定しない。「彼はいつも大きな子どもみたいでした。最後までずっと…」
彼女は立ち上がり、窓のところまで行き、彼に背中を向けた。「彼ら に13)何か教えてもらえるかもしれないって思ってたんです。なぜ彼が 突然、帰ってこなくなってしまったのか」
(…)
「蒸発してしまったんですか?」 彼は尋ねた。
「あの人はいつも長いこと地下室にこもっていました…でもそのこと じゃないんです」(…)「あの人は…ただいなくなってしまったんです。
仕事にも行っていませんでした。教えてもらえませんか、彼はどこにい たんでしょう? 二週間も」(
207–208
)13)ここでの「彼ら」は、彼女に夫の死を伝えた警察関係者等を指すと考えられる。
運転士に心当たりがあるはずもない。この後、地下室に案内された彼が目 にするのは、西部劇のジオラマと、ぜんまい仕掛けの鉄道の玩具である。そ して、それは、主人公が子どものころ、彼の言葉を借りれば、「みんなが 持っていた」おもちゃだった。やはりこの「笑う男」は、彼と多くの原体験 を共有する人物だったのである。
翌日、運転士が妻に電話をかけると、彼女は泣きながら「帰って来てく れ」と懇願する。妻からすれば、また読者から見ても、彼もまた失踪の一歩 手前である。その後、彼は、地下室で見つけた名刺を手がかりに、「笑う男」
が生前に契約していた町外れの貸事務所へ向かう。
彼は、友達にはなれなかったあの同級生の椅子に座っていた。こんな 部屋であいつは何をしていたんだろう? 三方の白い壁と一方のガラス の壁の間で。立ち上がろうとすると、机の天板の隅になにやら落書きさ れているのが見えた。ほとんど読み取れないくらいの鉛筆の落書きだ。
もうかすれて消えかけている。彼には、自分の名前が読み取れるように 思えた。(
213
)結局、蒸発の動機も、自殺の動機もわからない。不運にも「笑う男」を轢 いてしまった運転士が、穏当な仕方でそのショックを乗り越えられるのかど うか、懸念を残す幕切れである。本篇の最後には、かつての主人公自身同 様、彼の祖母宅付近の線路端で熱心に電車を眺める少年の姿が置かれてい る。それが誰なのか、いつのことなのかはわからないが、少年は笑っている
(
213
)。この記述によって、主人公と「笑う男」とが重なり合う。「笑う男」は、主人公にとって、もう一人の自分でもあったのである。
運転士は未亡人に最後まで自分の正体を明かさない。彼が彼女の夫を轢い た列車の運転士だったからこそ彼女を訪問したのだ、ということを明かさな い。他方、その「笑う男」は、思いがけず、主人公が少年時代に出会った転 校生であった。短期間とは言え「学校の友達」
Schulfreund
だったことは嘘ではないかもしれないが、「よく一緒に遊んだ」というのは嘘である。ここ で語られた経緯は、〈見知らぬ男を轢いてしまった列車運転士〉の〈自殺者 の知人〉への「なりすまし」であり、そして、〈たまたま同級生だった男〉
の〈(実際には存在しない)かつての親友〉への〈なりかわり〉であった。
それは、〈そうありたかったもうひとりの自分〉への〈なりかわり〉であっ たとも言えるだろう。
両作品における〈なりかわり〉の特徴
ここまで「隙間」、「隔たり」両作品における〈なりかわり〉について見て きたが、双方のケースには共通性がある。まず、どちらも、突然の事件を契 機に、おそらくはそれまでは忘れられていたか、少なくとも殊更に意識され ることのなかった、主人公の生い立ちと自己同一性の問題が浮かび上がり、
それを背景に展開する物語の軸として、〈なりかわり〉が生じている。読者 は、主人公の行動を、彼が自らの過去とあらためて向き合い、自己同一性を 問い直す作業の一環として解釈すべく促されているのである。
また、どちらのケースでも、〈なりかわり〉の契機となるのは、見知らぬ 他者の意図的な行為に起因する、ショッキングで不快な出来事である。主人 公たちは、一見平穏であった日常を、見知らぬ者の一方的な介入によって変 調させられ、破壊されている。その不本意な体験が、彼らに容易には解決し がたい不安をもたらし、それへの対応行動の結果、〈なりかわり〉を実行せ ざるをえない状況に陥っている。
そして、主人公たちは、ふたりとも、この〈なりかわり〉によって新たな 視界を獲得し、少なくとも当面は、精神的安定を取り戻している。「隙間」
の主人公は、同じ地域の出身でありながら異国を知るルーカスの視野の広さ とたくましさを分け与えられたかのように見えるし、「隔たり」の主人公は、
「東」出身者の「西」に対する、あるいは統一後の環境に対する屈折した感 覚を心の奥で共有する同胞に(いわば)「再会」したことで、少年時代の希 望や期待の感触をあらためて確認しているように見える。
さらに、注目すべき点は、彼らの、つまるところ身勝手な嘘であるところ の「なりすまし」行為が、彼らを追い詰めたのとはまた別の〈見知らぬ 人々〉を、図らずも慰め、励ますものとなっていることである。この〈見知 らぬ人々〉、すなわち、「隙間」では死んだ孫の帰りを待つ老婆、「隔たり」
では自殺した男の未亡人だが、彼らは、初めて会う、見知らぬ他人でしかあ りえないはずの主人公を、親しいはずの者として受け入れたい欲求をもって おり、実際に、彼らを受け入れ、そうすることで、自らの精神的危機を乗り 越えようとするのである。
これらふたつの物語のたどる過程が共に示しているのは、〈見知らぬ他者〉
に起因する強い不安に追い詰められた人間が、それを契機にもともと自分自 身が抱えていた問題を自覚せざるをえなくなり、その状況から逃れようとす るやむにやまれぬ衝動によって、また別の〈見知らぬ他者〉の前で、その他 者にとっての親密な人間を演じることで、すなわち、〈なりかわる〉ことで、
相互の、双方向の癒しが生じてしまう、というダイナミズムである。
また、「隙間」における〈なりかわり〉対象たるルーカスと、「隔たり」に おいて〈なりかわり〉の契機となる「笑う男」は、それぞれのケースで〈な りかわり〉を演じて見せる相手同様、出会いの当初においては、主人公たち にとって一見縁もゆかりもない、すなわち「遠い」存在だが、それぞれのア イデンティティにとって本質的な接点を伴う、「近い」存在でもあったこと が、物語の進展につれて次第に明らかになってゆく。こうして、読者は、
〈見知らぬ他者における自分との潜在的接点の感知〉、あるいは、〈「遠い他 者」の中の「近さ」の発見〉とでもいうべきプロセスを追体験することにな る。〈他者との出会い〉において共感の契機となりうる、意外な共通性の存 在の可能性が、ここでは強調されているのである。
〈なりかわり〉の『静かなる衛星』全体における意味
すでに見た通り、『静かなる衛星』は、形式的にも各四篇からなる三部構 成を取っており、全体としての構成が強く意識された作品であるが14)、
テーマにも一貫性がある。本論で取り上げた二篇もまた、そのような全体構 造の中に配置されることで、他作品との間で、相互に解釈の方向性を規定し 合う関係に組み込まれていると言える。
『静かなる衛星』全体のテーマは「働く者の日常における他者との出会い」
とでも称すべきものである。15)生活時間の大半を労働に費やしている、しか も、変化に乏しいルーティンワークに費やしている、そして日々消耗してい る、という状況は、実際、多くの人間にとって普通のことではあるが、本作 の登場人物たちはみな、この普通の側面から描かれ、そういうものとしての 日常において、いわばささやかな非日常の事件として、偶然の出会いを経験 する。それぞれの出来事が、主人公たちの日常に与える影響の大きさはさま ざまだが、そこには、出自や世代の違いを越えた共感の契機がある。何かが 根本的に解決するわけではない。しかし、希望ある事例のひとつひとつが現 実的であるならば、それを積み重ねることは可能かもしれない。それは、特 定の信念や思想的方針のもとで意図され、模索されるのではなく、日常的に 幅広く存在する契機をただそのまま受け入れることで実現しているように見 える。
この文脈からすると、「隙間」と「隔たり」における〈なりかわり〉もま た、日常的生活環境における見知らぬ他者との接触を、ある意味では無防備 に、肯定的なものとして受け入れる試みのモデルとして解釈できる。ふたつ の〈なりかわり〉の物語は、その起点となる事件を除けば、徹底して日常的 な、いわば地味な細部によって構成されている。主人公たちの行動は確かに 常軌を逸しているかもしれないが、それが主人公の突出した個性に起因して いるようには見えない。むしろ、ここでは、どちらかと言えば平凡な人物
14)
Platthaus
はこの構成上の工夫を「リズム化」Rhythmisierung
と称している。Vgl. Platthaus, a.a.O.
この、メリハリをつけつつ、収録諸篇を配置順に読ませようとする仕掛けは、登場人物の重複こそ見られないものの、全篇がひとつの作品 世界を構成するものとして執筆されていることを印象付ける要素である。
15)拙論参照。杵渕博樹: 他者との出会いと開かれた土着性―クレメンス・マイヤー
『静かなる衛星』、西日本ドイツ文学第
32
号(2020
)の、考えようによっては無理もない反応が、結果的に特異な軌道を描いてし まっているのである。
彼ら〈なりかわり〉の当事者たちは、不運な出来事や、理解できないもの との遭遇を契機として、安定的な自己を失う。一般的には、その未知の対象 について、限られた範囲であっても、知ることができれば、理解することが できれば、不安は軽減されるはずだ。しかし、その対象自体は、すでに不在 であり、あるいは失われており、あるいは気配だけがあって捉えがたい。つ まり、直接的に問うことができない。そのとき、まるで偶然のように〈なり かわり〉行為の契機が訪れるのである。そして、やむをえず他者に成り代る ことによって、主体は、結果的に他者に関わる何事かを自らに引き受け、そ のような仕方でもってその他者について「知る」に至り、さしあたり、極度 の不安から解放されることとなる。
『静かなる衛星』では、マイヤー作品の多くがそうであるように、今も旧 東独地域で暮らす当地出身者たちの世界を描きながら、特に、現在と過去の 東西国境、あるいは外国との国境を越える往還をモチーフにしているケース が目立つ。たとえば、「氷の下」では、ヨーロッパ各地の競馬場が話題とな り、「われわれの時代に」はソ連亡命時代のコミュニスト作家たちを描いて いる。冒頭の「
1
」や、「海浜鉄道の最後の運行」、「物件95
のガラス片」、表 題作「静かなる衛星」における難民やムスリムの登場も、越境を暗示するも のと言えるだろう。「隙間」の主人公の心理においては、事件によって、一 旦は外国人への警戒意識が強まり、恐怖感が増幅される。無論、これは差別 的排外主義の温床となりうる感覚である。しかし、この心理的な〈構え〉は、彼がもともと別の世界への憧れ、あるいは広義の自由への志向を持って いたこともあって、外国で勤務していた人物への感情移入とその生活の追体 験、すなわち疑似的な越境によって、変質させられ、その帯びるベクトルの 向きがずらされていく。「隔たり」の主人公である列車運転士もまた「東」
で暮らし続ける「東」出身者であり、これに対し、「笑う男」の生活拠点は
「西」であった。運転士にとって、「笑う男」への接近は、地理的な越境ばか
りではなく、心理的な越境をも伴う往還を必要とするものだったと言える。
彼らの〈なりかわり〉は、象徴的には〈他者へ至る越境〉であり、そのよう な仕方でしか実現しえない〈他者との出会い〉について、さらには〈他者と の共感〉について、あるいは、それを疑似的に実践できるような、より自由 な想像力について、われわれ読者に対して、具体的なモデルとして問題提起 しているのである。
また、本短篇集では、その収録作品の多くにおいて(冒頭の「
1
」、「海浜 鉄道の最後の運行」、「氷の下」、「アルゴノートの帰還」、「われわれの時代 に」)、死あるいは死者が大きな役割を果たしている。そこでは、まだ生きて いる者たち、生き残っている者たちが、今は亡き死者たちを想起し、あらた めて彼らとの共感、あるいは疑似的な交流を模索する。「隙間」における〈なりかわり〉対象は死者であり、「隔たり」における〈なりかわり〉もま た、いわば死者に導かれるような仕方で生じている。この二篇における〈な りかわり〉は、作品全体を通して変奏される〈死者たちへの共感の試み〉の 端的な例でもあるのだ。
おわりに
「隙間」では、かつてレコード店を営んでいた老婦人が、シューベルトの
「冬の旅」のレコードをかけ、主人公は歌詞に耳をすます。「よそ者として やってきて、よそ者として去っていく」(
114
)。主人公の〈なりかわり〉が 一過性のものであることが暗示されていると言えるだろう。〈なりかわり〉の肯定的な効果も、長続きするものではないのかもしれない。「隔たり」の 列車運転士も、その後、無事帰宅できるのか、失踪してしまうのか、自殺し てしまうのか、まだわからない。
それでも、他者との出会いが〈なりかわり〉へと展開する経緯に限って言 えば、やはり、他者理解、他者との共存を志向しているように見える。人生 の危機にある主体には、そのような困難な契機こそが希望に通じているのか もしれない。見知らぬ、理解不能な他者との出会いは、閉ざされ、行き詰っ
た実存にとって、現状を打開するチャンスとなりうる。もちろん、その際に われわれが、不可知状態の解消、無関心状態からの脱却を経て、拒絶や憎悪 へではなく、社会的な相互認知へと向かうことができるとは限らない。その 意味では、マイヤーの〈なりかわり〉のエピソードは、どちらも、やや楽観 的・「ご都合主義」的に過ぎるかもしれないが、そこには、その虚構ならで はの特異な展開にもかかわらず「ひょっとしたら自分にもそういうことがあ るかもしれない」と感じさせるだけのリアリティがある。彼らの経験する出 来事は、意図的に真似ることはできないが、理屈抜きで感情移入しうる間口 の広さを持っている。あきらめないためには、ニヒリズムに陥らないために は、どうしても希望を残す必要があるのである。
本作における、想像力の作動あるいは共感の出発点に立つための実践モデ ルとしての〈なりかわり〉は、いかにも政治的・思想的に無自覚な素朴な見 かけを持っている。主人公たちの素直さは、他者を人間として信用するため の前提となるものだ。近年、ヨーロッパでは大量の難民の受け入れを背景に 極右が台頭しつつある。日本の場合、そもそも難民の受け入れに関しては消 極性が目立ち、戦争犯罪や植民地支配を巡っては歴史修正主義が蔓延し、在 日外国人に対する差別的・脅迫的言動が後を絶たない。〈他者との共存〉を 否定する発言や行為が横行するこのような状況において、本作に見られるよ うな、多様な可能性を孕んだ〈他者との出会い〉の具体例の提示は、文学表 現独自の仕方で、これに対抗する積極的メッセージを発信するものとして、
ささやかながら、普遍的な意義を持っていると言えるのではないだろうか。
キーワード
ドイツ文学、現代文学、東ドイツ、短篇小説、クレメンス・マイヤー