教 育
啄木の数育的遺産
增 田 史 朗 亮
一一
C意:圖と啄木研究のひろがり
本稿は啄木の遺した多くの自傳的教員小論,藪育評論,書翰,日記類を素材として彼の敏育 活動を考察しようとするものである。一
私は先に明治三十年代から四十年代にかけて書のこされた多くの敏員小論,「酒中日記」「破 戒」「田舎皇師」「雲は天才である」等を資料として,時代閉塞下に生き・た教師達のあり方を 考えた事があった。1)それは一つにはそうv・うものを通して,明治歯舌主義政府の藪育体制を 具体的に把握し,且つは彼等の時代と違った色合があるにせよ,同じ時代閉塞の暗V・谷間にあ
る今の教師のあり方に,何等かの歴史的反省資料を提供する微意を含んだものであった。此処 で特に啄木を取上げたのも同じ意圖に立つものであるが,倫其研究方向の延長上に立って,彼
自身の實心した敏育活動を詳細に考察してみようと思うのである。 . 從來啄木と言えば直ちに一妬して哀調人に迫る感傷的詩人としての彼が考えられた。然し中 野重治氏もv・うように,近頃啄木研究が次第に蹟げられ,深められるにつれて,「続出と人生乃 至は寸意組織との關係を究明しようとする批評家としての彼」「自己を虚病主義者として宣した 晩年の彼」2、も考えねばならなくなって湿た。本稿ではそうv・つた啄木研究の旗がりの中に,
出庫を資本にした面面實論者,文明批評を原動力とした教育理論家と言えぬ迄も教育批評家と しての彼を見出す事を念ずるものであるが,今迄彼に就いてそうv・つた面の探究が全然なされ てv・なかった課ではなv・ひ例えば,上田庄三郎氏の研究「青年六師啄木」(職後宣言紅より「情 熱の青年藪師石川啄木」として改訂出版),更に同氏の最近の稿「青年教師としての啄木」等3)
がある。然し從來,稽もすれば教師としての彼の側面が無覗されぬ迄も試論されがちであった 事は否めぬ事蟹であろう。蓋しそれには種・ξの理由が考えられる。其の自傳的教員小詮に見ら れる彼の生活態度が,青年にありがちな感傷と誇張を雑えたものと見られ易V・ように,其処に描 かれた敏育活動も文學青年の三生の不出不満の爆試したものとして受取られがちであった事,
忌寸に彼をまっとうな藪育者であったと見るとしても,在職期間は二年に足らす,而も教職的 弓養もなく,結局彼の行った藪育も青年の血氣に任せた無定見的なものでなかったか,彼の本 領は彼自身も認めたように飽迄丈學者詩人であって,藪育者ではなかったのでなv・か等という 聲が強く残ってv・て,彼を教育者として見る見方を打消していた事も其理由に考えられよう。
更に,今迄彼の生活を細大洩さす記した日記類が一部公開を差止められていた事もその理由に なろうか。此事は先に述べた啄木研究のひろがりと直接の關係を持つが,ともかく,本稿に關 係のあ.る澁谷日記,丁未日誌が公刊されなかった事が,彼の旧師生活の評贋に多分にマイナスを 與えた事は否み難v・事である。今般岩波版の啄木全集に先の日記類等が公刊に附された事は,
今の我汝に取っては大いに意味のある事と考えられる。ともあれ本稿はそう言った啄木研究の 振がりを,藪育的見地からもう一段旗げてみようとv・う一つの試みであるとも言えよう。
二二,資 料
本稿は以上の種・々の意圖を含み乍ら,その一断面を取扱つたものであるとは言え,明治教育 皮研究に何等かのプラスが加えられる事を念ずるのであるが,此処に本論に入る前に二三の事
1 一
を断って置かねばならなv・と思う。一つは資料の取扱いに就いて,もう一りの点は彼のi敦職に 就く前後の動静に就v・てである。
彼の丁半野寄員小門,「雲は天才である」「葉書」「道」「足跡」は先の「破戒」「田舎教師」等 の諸家の小詮に比べると,主人公たる教師の教育活動が正商から取上げられ,又それの行われ る教育の場に重点が置かれてv・る点で本格的教員(叉はi教育)小門により近v・ものだが,にも 拘らす,ま,た此等同工異曲の短篇は,彼の教育活動を詳細に考察するには不充分な資料と言わ ざるを得ないのである。然し幸な事に彼はその不充分さを補い,彼の實践活動の跡を正しく裏 から支える資料,評論,書翰,日誌類を多く書遺して臭れた。此等の資料は彼の藪育活動の跡 を完全と言えぬ迄も充分に知らせて臭れるものと思う。我々は以上の一蓮の作品に,日記,書 翰,評論の類を相互に参照し乍ら,一方では一般藪育現象を書とめた記録,更に種汝の記録的 資料,當時の生徒の追憶談等を活用しつつ,彼の藪育活動に具体的に近附いて行きたv・。因み に此処に第一資料と言わるべきものを掲げて置くと,作品としては上述の「雲は天才である」
を始め,「葉書」「道」「足跡」「一握の砂」の中煙二,評論,感想としては「閑天地」中の
「世の教育者よ」「林中書」,日記に「林中日記」「澁谷日記」(一部分林中日記と重複)「丁未 日誌」,書翰に明治39年ヅ4◎年の分,等がある。其の他的弓資料も多V・が以上が:大体根本的資 料となろう。次に就職前後の動静につv・て尽れねばならなv・が,之は:先の彼の教育者としての 評慣に封ずる疑問に一両答える爲である。
三,藪育者啄木への評贋
彼が藪育界に身を投じた前後の情況は更に諜帯するを要しなV・が,以下簡軍に読明しよう。
紳童の名を謳われて,澁谷小學校首席卒業。早くも十六歳で新詩紅に親灸。其頃(明治三十三 年)近代國家体制を整えつつあった筆規では日華酔興勝利を興廃として樗牛等の個人解放思想 の第一聲があったが,其初期の段階を迫遙,二葉亭,第二の段階を藤村,透谷とすれば,晶子,
鐵幹の絢欄たる新詩継は其第三段階にあったものである。十八歳上京して新詩杜に参會,十九 歳郷里でワグネル研究に没頭,此頃鐵幹との交渉頻り,二十歳東北遊読の嘲風を訪問,同年日 露開戦レ,「雪後平民の斑悟」を警告する後年の丈明批評の片鱗を見せた一文を嚢表。此年末 頃から上京し,「明星」を始め丈學活動旺,新進詩人の地位を確保した。以上の如く,此間種 汝の思想との出會V・があった課である,嘲風,鐵幹は勿論,樗牛,梁川,ニーチェ,ワグネル,
等。同年「小天地」誌を獲刊。それは執筆者に,泡鳴,寛,梁川,白鳥,萬里等を擁した地方 誌としては室前のものであったが,一号で塵刊,それに依って彼は起つ能はざる経濟的な打撃 を受けた。二十二歳,腸郷。それは彼の言葉によると「洋行の中止,徴兵槍査の爲,閑地で執 筆したv・爲,生活苦に家族を長く忽ばしめ得なかった爲」(澁谷日記),4)父の学徳寺門住の問 題解決の爲であったが,其の中でも最も力ある理由となったのは上述の「小天地」の経濟的失 敗であったと老えられる。 一
以上が致育界に身を投ずる以前の1階況である。彼は日露職孚の終結した翌明治三十九年四月 十一日,澁谷村小門四三学科代用教員として就職した。以後例の有名なストライキを起して翌 年四月二十三日職を辞する迄の約一ケ年,次いで同年六月より八月の⑱館の大火迄のニケ月
(轟立彌生小學校)藪職にあったのである。
所で,彼の藪育界に身を投ずるに當っての動機,在職申の彼の動静に就いて種々の疑問が抱か れている事は上述した所でもある。即ち彼の本質は文學者であり,肥育界に身を投じたのは一 時的糊口の爲でなかったか,又一階界はいは∫文學者としての本領を嚢揮すべき生活の支えを なす輩なる足場ではなかったかというのはその一例である。彼が豫職に就v・たのは先め種汝の く 理由,短肥すれば糊口の爲である事は確かである。そして教職につくのは「無論一生を教育界
一 2
に投ぜんとするのではな恥,た嘆この村に居る間天眞な兇童の道徳,美乃至宗教に封ずる心理 を或目的の爲に仔細に研究してみたV・し,(或目的というのは恐らく丈學的生活の爲の準備と いう程の意味を持つものであろう。ン),此長からざる記聞に人格的善美なる感化を故山の子 弟の胸奥に刻まんが爲である」6)と言ってV・る所を見ると,彼が致員生活を未來の丈學的生活 の爲の一時的足溜りとして見てv・た事も明らかである。然し,就職一日前盛塩への書翰にも,
「これは私自身より望んでQ事」であると言W)更に就職隔日「自分は今迄無論教育とV・う事 につV・て何の経験もi持たなV・。然し教育の事に一種の興味を持ってV・たのは,一年二年の短か い聞では:ない。再昨年あたりから一切を放棄して全く自分の藪育上の膏血の爲に此一身を委せ ようかと思った事も一度や二度でなv・。而も年若い自分は他の希望と自負の爲に遮られて,途 今迄その感想を・一時的なものとしていた」8)と日記に記してv・る。彼の敏面的自盛が一時的感 興と軍なる糊口の爲でなかった事を知る事が出來る。以上の事は又決して假室の事ではなかっ た。前年岩手日報に言表した「閑天地」中の「世の島育者よ」とV・う短文に於て,一董の草樹 に子女に封ずる如き熱意と愛情を持つ無學の植木屋と,清浄無垢の美花を育てつつある小謡教 師を比べ「諸子よ,諸子が二言妙純減の花を育て乍ら,能く彼の一老爺が草花より得たると同 じ美しぎ心を乱丁に匂わせつつありゃ」と警告した如き,9)それであり,(それは余りにセγ チメγタルな短丈であるとは言え,其処には彼の後年の教育の論理とも言わるべきものの繭芽 が窺えさえする。)又就職前,高等科の見童と共に唱歌を歌V・,課を聞かせ,善良なる感化を 彼等に與えうべぐば,彼等の爲に毎日二時闇,三時間を費しても,些かの惜しむ所はなV・,と 述べるゆ如き,彼の本質から自然に湧出して來る二二的二心が如何に大であったか事實を以て 示している。
そのように彼の就職以前に示した藪育的点心がまっとうなものだとしても,在職晶晶は二年 に足らぬ短期聞,而も中門五年申退の學問的にも未成熟,教育的識見も不充分極まるものでな かったか,又彼の藪育的熱意もともすれば丈二二關心により打消されがちであったのでなv・か
との聲もある。其事も一一面事忌である。然し「繰返して話す迄もなv・。自分は極めて幸輻なの だ。たゴーつの心配は自分は果して予定の如く一年位でこの藪壇を捨て去る事が憂心うるであ ろうか,とV・う事である。」「余は日本一の代用教員である。これ位嬉しV・事はない。これ謡う らめしい事はなV・」】りと繰返し捲返し藪育者としての幸幅を述べ,「予の代用藪員は籔月を出で すして終らむ。然れども予は心深くも願えり。他日猫一暦の修業を積みて後,予の再び郷校に 代用致員たりえむ事を」との藪師としての堅v・決意も洩してv・る。成程在職申に於ける12)彼の 實践をふり返った場合,彼の念頭に去冠したのは:「問題は主として,いつもの如く丈藝と教育 の事であった」が,「現代教育の恐るべき欠陥についても常に考えた。そして自分の理想の學 校の設計までやって見た。然し減等は皆,少なくとも今の自分には實行の出來ぬ事のみであっ た」との言葉も乱してv・るのである。13)彼は文學の犠牲に油凪を供する事なく,寧ろ文學理論 の實験を藪育の場面で行ったとすら言えるのであるまいか。或は文學理論と教育理論の一致融 合を圖つたのではなv・かとも考えられる。
彼は決してよく想像されるように面心生活と教育生活の二筋路を歩v・たのではなかった。私 は先の「世の藪育者よ」の短交には彼の藪育の論理ともv・わるべきものの萌芽が見えると言っ たが,それが一段と明確に提出されるのは就職前の日記に於てであろう。彼は言う。小見が成 人するとはi持って生れた自然の心のま、で大きv・小見になる事である。然し今の世はその小兇 の心を殺して了う。古人の教育は大を標準にして「偉人」を生み,今人の藪育は小を標準にして
「織留なる人形」を生む。「大をV・小児」を作る事,これが人類の教師たる詩人の天職である。14、
更に彼は語を継V・で言ってV・る。「教育もその結合する人格の偉大なるに從って,神に近づく
一 3一
に從って何等かの藝術的形式を帯びる」「藪育も面一の晶晶なり」15)と。一見それは軍純極まる 教育的オピニオγに見えるにも拘らす,此処には:丈學を資本とした特異な味深い,藪育理論と云 われぬとしても,教育の論理ともv・うべぎもの存する事を我汝は認めてよいのであるまv・か。
そして其軍票に見える藪育的論理が實は後述するように図り豊かな成果を生み出したと思う。
敏職的藪養,學問の未成品も事實である。然し其事が彼の藪田者としての資格を奪うもので もなければ,彼の教育實践を低く評贋してよv・理由にもならぬ。浜田的未必熟なりに「世界全 体を傳統として引受けた」!6)彼の廣V・見識からと,所謂教職的教養の代りに丈學的素養とを以 てした彼の教育活動は,當時のV・わば,藪育技術家に堕していた典型的教師達の持だぬ豊かな
ものを却って生み出して行ったのであるまいか。彼の教育者的情熱も決して文學的關心により 冷却されなかった事も上述した所である。それは或は:却って教育的玄人である同僚の藪師蓬を
しのぐものでさえあった。教職前年の日記が殆んど丈學¢)記事で埋められていたのが, 就職後 それと明瞭に氣付かれる程教育の記事で盛られて仏るのを見ても,その教育事業傾倒の程も偲 ばれる。マカレッづは藪下者は一つのスタイルを持てと言っているが17)彼は以上のような一種 二丁のスタイルを持っていたと言ってよv・と思う。以上本文には入る前,稻汝冗長に失した三 巴を敢てしたのは,一つには彼に翼する教育者としての評慣に封して一つの概括的問題提出を
して置こうと考えたからである。所で藪師啄木を取巻v・ていた周團の藪育的情況はどうであっ たか。彼の教育活動をより鮮明にする爲に當時の平等の仕組を教育目的,内容,方法等に即し て暫く述べてみたい。
四,藪:育情況
「雲は天才である」の中で啄木は「完全なる藪育の模型」典型的教師のタイプとして「既に ノ 十幾年の闇身を教育勅語の前に捧げ,口に忠信孝悌の語を繰返す事一千萬遍,其思想や穏健に して中正」18)を掲げ,その門門なる模型をして次のように言わしめてv・る。「四四には畏くも 文部大臣からのお達しで定められた教授細目というのがありますそ。算術,國語,地理,歴皮は 勿論の事唱歌裁縫の如きでさえチヤγと細目が出來てv・ます。(中略)正眞の藪育者とv・うもの は其完全無欠な規定の細目を守って一毫乱れざる底にぐ五段教授に從っての意味19))授業を進 めて行かねばならぬ」と。この短v・引用文は暫時の東北の一農村,そして又それは:多かれ少か れ日本の典型的致師の教育活動と敏育体制を片言の聞によく傳えてv・る。啄木の教育活動の始
まったのは日本資本主義が明に三野主義的毅階に突入した事を示す日露職孚終結の翌年の事で ある。日本の藪育体制はか、る肚會情勢を色濃く反映した子育策を改める所か強化しさえした。
一体軍國主義,三家主義二二育方針を二二てたのは言う迄もなく明治十九年七二禮時代回覧 の事であるが,それはv・わゴニ十三年の(二時日本駐在武官であり,後年地政學者となったハ ウズホースアの表現を借りると)「軍人勅諭と爾汝相侯つ」2。)藪育勅語により確められ,更に同 年の改正小二二令により明確,豊富にされたのである。江木千之の丸明によれば2)小學校令に 掲げられた小高校藪育の目的は「児童をしで皇室に忠にして國家を愛し,父母に孝にして云
の り ロ の コ
汝」という「道徳山育」,「宇内に比類なき」天皇奉戴の「帝國に緊切なる」「國民教育」,
コ コ コ
「今や人智の既磯の晶晶」に懸する「知識技能を拠つる教育」の三を眼目としたものであっ た。(以上の敏育目的は昭和十六年高志學校令實施まで塵止される事なく揚げられた)。更に 同年普通島育に關して「小疵校に於ては徳性を瓶養し,人道を實臥せしむるを以て第一の主眼
む の
とし,殊に奪王愛國の志氣を嚢揮し,兇童をして質業に親しみ,素行を修め,忠良の臣たらし めん事を努むべし」との文部大臣の意見は22)出時の教育精紳の奈邊にあるかを知らしある。か かる「忠良の民」「奪恵愛國」を強調する藪育精一は日清,日露の第一次第二次大陸侵略を経 て益々強められて行った。文申の「教育勅語」「忠信孝悌」の文字は以上のやうな意味を含ん
一4一
でV・る。然らば政府はそみ藪育精榊に即してV・かなる教育内容を如何なる意圖の下に授のて行 こうとしたが,その事に就v・て暫く腸れてみよう。
先の「雲は天才である」の作中示された教育内容,修身,「算術,國語,地理,歴皮,唱歌,
裁縫」は三十三年の小舌校令施行規則で定められて高弟のもの(尋常科の藪科目,修身,國語,
算:備,体操,高等科のそれは修身,國語,算術,日本面皮,地理,理科,圖画,体操,女児の 爲には裁縫)であるが,それにもられた精帥は三七年出定教科書使用開始前後の言論より察す る事が出來る。三十三年貴族院は「小丸校讃本及修身科用書は國民教育の盛衰に關し出て國家 の隆昌に及ぶ所以にして」23)と建議したが,三十六年文相菊池大麓は同趣旨の演読を行って次 のように言ってv・る。「小學血忌科書のあるものは(中略)國定にすべきである(中略)殊に 修身書の如き更に謡本,地理,日本歴史は皆そうである」と。2りこのやうにして教育内容の國 家統制が2)圖られたが, 二三藪:科目の持たされた意味を二十四年の小學校i教則大綱をして読明
コ リ コ リ ロ ロ コ コ の り む む
せしむれば「徳性ノ瓶養ハ藪下上最モ意ヲ用フベキモノナリ二二何レノ藪科目二二テモ道徳教
む
育二二教育二題スル事項ハ特二留意シテ教授」すべぎで,就中其筆頭の修身は「二二奪王愛國 ノ志氣ヲ養ハンコトヲ務メ四丁二二封スル責務ノ大要ヲ示シ」,二皮は「建國ノ体制皇統ノ無窮
.歴代天皇ノ盛業忠良賢哲ノ事蹟國民ノ武勇文化ノ由來等ヲ知ラシ」め,地理は「町民ノ生活二關 スル重要ナル事項ヲ理解セシメ兼ネテ愛國ノ獅中ヲ養」うとV・うのであった。(傍点筆者)以 上の方針と内容を以て藪授時山野尋常科二十八時闘,高等科三十時間(明治三十三年小野校令施 行規則)を通して「尊王愛國」「忠良の臣」を目標とずる國家主義的教育が行われたのである。
而も此目的と内容を運肥して行く教育:方法は「品性陶冶」と「五段藪授法」を読くベルバル ト主義であった。既に三十二年の樋口勘次郎の活動主義に反・トルバルト主義への轄回の暫しが 見えたように,も早當時はヘルバルト主義は全盛期を過ぎ26)凋落の一途を辿ってv・た。然し東 北の一隅では尚もヘルバル下主義が信奉されてv、たのであろう。(「道」に登場する老馬師の言 葉,「ヘルバルトが何うの(中略)藪授法だ(中略)と言った所で何うなるてな」,又「足跡」
に於1つる「母の一階の代りに五段教授法を以て教える」女教師の藪授法の帯電からその事を察し
・得る。註19,註65参看)ヘルバルト主義が如何なる理由で取入れられ,又時人が如何に之を把握 してV・たか,それを此処で詳細に論ずべき暇はなV・。所でそれは教育の雲際に如何に影響を及 ぼしたろうか。棋山榮次は小平校の二男教育に最も顯著な影響を及ぼしたのは「藪授の段階ユ で,「實地教育界の主要な問題は之を学際に如何に学用するかとv・う事であった」とv・う。次 に影響を及ぼした点は「教育者の思想を支配」した晶性陶治の考え方であったと。27)そしてそ の反面,ヘルバル下主義は一,品性陶治を重覗する余り,すべて訓育の材料とし實際的知識を
,輕侮し,二,道徳の肥満を強調し過ぎて見童の個性の自由螢達を阻害し,三,興味の喚起を誤 解して,才童に面白味を感ぜしめるを以て足れりとして,有意的追求心を無告した,四,教授
の段階に拘泥して,兇童の心理に反する藪授を敢てした等とv・う弊害をも生んだとv・う。2s)之 で以て時人が如何にヘルバル㍗主義を把握したかを知り得るが,以上のヘルバル1・理論の形式 的理解は,ヘルバルト自身の眞意を離れて,日本の藪育を少からず,訓育主義化え,兇童の個 性束縛え,藪授段階の墨守による形式主義化え,興味の誤解による教師猫演え,更に五道念の 儒教道徳へのすりかえによる儒教道徳主義鼓吹へ2り)と持って行った事は疑えなv・。(正確に言う
と,ヘルバルト主義の全盛時代は二五・六年代から三五・六年迄の凡そ十年闇で,日本教育の 一般的流れとしてヘルバルト主義をこ、に持出す事は正し:くなV・が,啄木の現實に出二つた心 血法,教育法を考える意味で以上略述したのである。註26参看)
其間教育に生き・る藪師はどうであったか。彼等は,政治に話する「執拗矯激め理論」を禁じ た十四年のr小三校乱雲心得」以來,二十六年の行政上の論議を禁ずる有名な山口令,三十三 年の政治結杜加入禁止の「治安警察法」によって政治的自由を剥奪され,市民革命を通過せぬ 絶謝主義下で,言訳えの屈從を強V・られた下級官吏的存在でなければならなかった。以上の如
く「政治的言立より離れて全体の秩序に奉仕する,回忌者のメγタリティは明治官僚の藪育支 配による」39)ものであったが,作中啄木と封立した校長のタ・イブ(それは又當時の典型的藪師
5 一
のタイプを示すが)の如きは恐らく,森有禮の師範學校軍隊化策によって形成されたものであ あった事を忘れてなるまV・。即ち野口弓太郎は當時(二十年代)の師範三下の方法は強壮的容
「すべて劃一に流れ」「個性の展開を許さぬもので從って青年藪下者を人格的に殺して了い,
無氣力,虚飾者,阿護者たらしめ,徒に智識の仕入喪の徒と」化したとV・う。3り(但し三十年 代後牛より四十年代にかけ,二丁:育方法は違って來た。32))
以上のような旧家主義的教育の仕組は日露焼干以後益汝強化され,軍國主義的性格を露骨に 出して行ったのである。「日本に於ける群肝肚會主義的傾向」なる一丈で輕濟學者河合榮治郎 氏はその事を次のように読明してV・る。「本當の意味に於て國家圭義意識鼓吹を政府の教育方
コ の の ロ コ コ コ
針とし始めたのは:日露戦果後である。即ち政府は小膝校,申學校の教壇から,又青年團,在郷軍人 に國家主義を鼓吹した。それ迄は自然必然に放任してv・ても國家主義がii豹コを持っていたが,
コ
職後それが衰亡の兆33)ありと見た時,初めて蓄電主義的教育の意識的努力が始まった」3りと。
このような月明が正しV・かどうか,此処に論ぜ圃として,事誰その通りであった。「職後難女 童民ヲ上進スルノ必要アリ」(改正要旨),「世界に於ける我國の地位も昔日の比でなv・ので」3、)
義務年限を二年延長し,更に「其加設ヲ奨働セッ」とした手工を重観した四十年の小心校令規 則改正の眼目は何れも心後の事情に懸する帝國汝民強化策に他ならなV・。36)當時日本駐在猫逸 陸軍乙鳥官であったハウスホーファーは,「學校と家庭と國二三育を通じて二二に兵員準備が 行われつつある」日本の教育体制を驚きを以て観察し,詳細な記録「大日本」を淺した。37)「破 戒」に登場する校長の一言は以上の事を正確に裏書してV・る。彼に言わせると「敏育は即ち規 則であるのだ。郡観學の命令は上官の命令であるのだ。もともと軍隊風に見開を薫陶したいの が私の主義」38)と言うのであるが,我等はこの短v・藪育的野條の中に當時の町育的情勢を讃取
る事が出尽るような氣がする。
以上のような丈部省のアツパラー1・たる教師により行われる,見童の個性輕硯の形式主義的 教育,忠良なる臣民養成の「忠君愛國」的教育体制,實はか、る教育情況を背後から支えてい たのは,日露野営を期として明瞭に帝國主義的段階に突入して行った日本資本主義が先進諸國 に伍して嚢展する爲,平内に別ては其成立當初からの強力な支柱であった儒教的道徳主義と天 皇中心主義を益々強化し,他方帝國主義列強との競箏場裡に立つ爲資本主義的道徳と技術とを 促進しつつ,それが國外に向っては侵略主義の形を取ってV・た國家体制なのであった。以上の
ような教育の仕組に,「詩人」と「大きな小兇」,「至幸の兄」と「成人の父」の二二V・を敏育と 見た詩人藪育者琢木が肯うべくもなかった事は明らかである。以上啄木が藪育活動を開始した 當時の教育体制を念頭に置きそれと封照しつつ,彼の行った教育富商の實際を考えてみよう。
五,啄木の藪育實践
彼自身「日本文明の積極的批評」「明治藪育界に投ぐる潜裂弾!」39)と言った「時代藪聴罪」
「林中書」は就職の年草したものであるが,その中で彼は大要次のように言ってV・る。
今の日本は大國露國を制覇した東洋の立憲國である。然るに現勢は非立憲即事實が蹟属し てV・る。民衆は與えられた自由椹を官階,金力に委ねてV・る無智の民…衆に非ざるか。成程露 國は君主猫裁,不自由の野獲國である。然し其野蛮國にして自由人トルストイ,革命の陣頭 に立つたかボγ曾正がある。日本が露営に勝つたのは軍事力であり,文化ではなV・。日露戦 孚の勝利の原因は教育にありとV・う人があるが,其批評は正鵠を得たものではなV・。日本ほ 成程完備せる學制と教育學を誇っているが,何としても人聞とその精神が大切である。カー ラ・イルは世界史は大人物の傳記であると言ったが教育の目的は世界更を意義あらしめる人閣 を作る事である。決して軍に賢者,技師,教師,農夫,官吏を作る事でなV・。日本の敏育は 遺憾乍ら「凡人」「人形」4り)を製造し「天才」を殺してv・る。㍗ルストイの如き自由人を生 む爲に藪育の足である小學校の門から破壊せねばならぬ。と。
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彼の日本教育批制はV・わ∫彼の警世着丈明批評に支えられてV・た事は注目すべきであるが,
このような批判の下に彼は次のように言ってV・る。
「良馬の最高目的ば天才を養成し(中略)世界の面皮に意義あらしむる人間を作る事であ る。第二の目的は黙る人生の司配者に服忌し尊敬する事を天職とする健全なる民衆を作る事 である。」「又別な言葉でV・うと教育の眞の自的は「人間」を作る事である。決して低湿や 技師,事務家,教師や商人,農夫,官吏を作る事ではなv・。何処までも「人聞」を作る事で ある」と。4り
先に述べた如く,彼の日記によると,成人するとは持って生れた自 然の心のままで大きVYJ・
見に成ることだ。然るに今の世では成人するとは逆にこの心を殺して了う事だ。「:大ぎV・小鼠 を作る事1」これが教師の天職であった。此処で,先の面出の論理とV・わるべぎものが實はか
かる日本丈明批判の立場にも支えられてV・るのを看得すべきである。(そして彼の文明批評の 片鱗は既に岩手日報所載の「澁民謡より」に見られる事は:上述した通りである。其所で彼は「早 冷血熱の大いに誠むべき・は寧ろ職呼に勇む今の時に諭すして,却りて戦後島民の畳悟の上にあ るべくと存じ候」と述べている。)42)以上の「天才」,「人闇」,「大きv・小見」,「成人の 父」43)を作る事とv・う,此の一見多檬な表現を取った彼の藪育目的観は,當時の彼の思想の反映 である。此時期は未だリアリズムに至らす,強烈なる浪曼主義の影響下にあった事は:先に鰯れ た所でもあるが當時の日記類に,鐵幹,梁川,嘲風,樗牛,ニーチェ,ワグナー等の言葉が頻 出する所からも其事が察せられる。其は樗牛的個人主義,英雄主義,と梁川的宗教的理念と既 成秩序に封ずる明星派の小市民的浪曼的反抗獅申とを結びつけたものであった。これが先の言
:葉をして色汝の表現を取らしめている課だが,そうv・う一口に浪曼二人闇とも言えるものが當 時の教育目的である「凡人」「人形」に心立せしめられた。三時の忠良なる臣民とV・う一個の 人形,凡人を生み出す教育の仕組に乱心から「人間」「:大きV・小見」を掲げた事は甚だ意味の あることである。殊に「:大きい小心」とV・う藪育目的は多くの二二が被二丁者の人形化に流れ 易V・欠陥を衝く永遠な教育的課題を彼なりに提出したものとして注目すべきであろう。秋田雨 雀氏は「啄木はルツソーをまとまった著述として讃んでV・なV・かも知れませんが,私自身の経
:験から言っても,民約論の思想が中江兆民の政論なぞで當時の青年たちに相當深く影響してv・
ます。私なぞは啄木の思想の根本はルツソーあたりから來てV・はしないかと思V・ます」44)と言 っている。先の言葉が恰もルツソP的なものを感ぜしむる所があるのもか、る所に起因するの であろうか。或はそうでなくて他の所にかかる目的観の出所を得てv・たにせよ,注目すべき事 であろう。ともあれ彼が當時としては異色とすべきヒューマニズム教育目的観を打減ててv・た
專は何としても忘れてならなV・と思う。
然し此処に見逃してならぬ事がある。一一は天才主義の當然の産物として其処に一種の衆愚観
(第二の目的は斯る人生の支配者に服從し尊敬する事を天職とする健全なる民衆を作る事であ る。と言っている事は上述の所である。)が提出されてv・る事である。この衆愚襯が放棄される のは晩年の彼にしか望まれぬが,それにしてもそ¢)文章から見て彼が強調したのは他の点即ち 人聞を作る事にあった事は明らかである。第:二の点は彼の日溝日露職洞窟に継て示されるよう に45)彼が強烈な愛國主義,時には帝國主義政策をも容認するとv・う:先の立場とは矛盾する如き 立場にあった事である。當時の愛憎的な潮流の中に青年時代を過したものとして乱心であるが,
其爲藪育体制の被藪育者の人形化をもたらすものが實は軍隊に引渡す丈になっていた教育方式 を必至とする鳶凧主義である事を彼は見破ってv・なかったと言える。をれで彼の企圖した(天 才,試問,大ぎV・小見を藪育目的に掲げた)自己掻充という方式による小出校藪育の面識5)は 彼の主観では日本祉會と致育の正面的破壊であるにせよ,客麟的には小市民的反抗に終った側
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面的破壊であったと言わねばならないであろう。然し後年彼の嫁つた樗牛,梁川の個人主義が・
早成強灌と正面から樹決したものでなかりたという反省を行っている所からも覗えるが,實ぱ 客二二情勢は國民に國家の批判を生み出させる程共矛盾をさらけ出してはV・なかった事を老慮 に入れる必要があろう。河合榮治郎氏は先の文に於て日清日露爾三役は「しばしば主張された ・ 如く,帝室主義的面面と溶着さるべきものでなかった。出時の旭台の雰園氣で生活した者は誰 でも,日本の猫立性が假令間接的であったとはV・え,少なからず脅かされてV・た事を知ってい る。この戦孚は國は守るとV・う性格を有していたのである」と言っている。尤もこの文章は外 國雑誌に嚢表したのであるから何等かの配慮が含められて述べられたものと看護してよv・が,
男時の人々の氣…持は兎も角地を護るという所にあったのは事實であろう。か、る國民全体の雰一 圃氣の中に青年啄木が居た事も考えねばなるまv・。更に,石母田正氏が「大外層足下」の文章 を例に取り,彼が輩なる熱狂的愛國者でなく,帝國主義的性格を見抜き得なかったとしても,
反省,批判を俘つた愛國者であった事を指摘されているが48),そのように「勝つた日本より敗 けた露國の方が豪い」と教え,49)四方拝の日に「明治文明の一切をあげて讃美」「すべきもの.
となすならばそは洵に大v・なる誤りなり」「人が人としての生くるの道は唯一つ」「自由に思 想する事忌なり」59ノと高唱した反省を件つた愛病者であった事は逸してはなるまい。
頑是ない「尋常一二年生は母の愛情を以て取扱える女の心素が激論∫)で,而も「自分の心の 呼吸の吹込める」のは「一生の特色」の形成される「高等科あたりが適當である。∫2)との云えの下 に,小學二年を面詰する傍で高等科の課外教授を自ら希望し,「軍に配本や算術や体操を教える 爲でなく自分の心の呼吸を吹込」3)爲教師となった彼であれば高等科の作文,歴史,英語,殊に歴 史に力を注V・だのは當然である。以下彼の藪諦観,心惑活動の實際に就いて一瞥してみよう。歴・
史科で彼が使った藪材は周知のようにナポレオ・ン,バイ4γ,ビスマーク,ゴールキーの試適 類5可)であったが,之は:彼の盛時のヒ官イズムの反映であった事は勿論である。彼は雨皮敏授の場 景を陰は天才である」の中で次のように描爲してV・る。ルソーを語り,ナポレオγ,バイロγ,
ゴルキー,トルスト・イを語り「あ〜一切の問題が火の種だ。自 分も火だ。五十幾つの胸にも火 事が始まる。四間に五心の教場は宛然熱火の洪水だ。自分の(中略)拳が卓子を打つ,と躍上
るものがある。手を振るものがある。萬歳と叫ぶものがある。完たく一種の暴動だゴリ大分七一 張を雑え℃V・るにしても以上の文は面皮科活動に於ける彼の姿を油画せしむる氣がする。点訳 の歴史観,歴史教科観,彼が:最も力こぶを入れた歴皮授業の事もこれで大体を察する專が出來 る。小田切秀雄氏は次のように言う。啄木はこの小論の起稿に當り,「これは雛勃たる革命的 精瀞のまだ混沌とした青年の胸に渦巻V・ているのを書くのだ」と言ひ,同日の日記りに藤村の破 戒を目して「天才でない,革命健見ではなv・」との批評をつけ加えてv・るが,(先の授業とこの
日記とに覗われるように)革命健児と天才を無造作に結びつ1づているのは,當時の樗牛の天才 主義と新詩肚的浪曼的反抗精帥とが彼にあって未整理の儘,「渦旨いて」V・た事の原映である が,既存秩序に封ずる浪曼的反抗精解「革命的獅帽は三時としては翼下爾江の社會主義的小 舞「良人の自白」以外に見出されぬものだ。ど7)ともかく彼の歴史教育は革命的反抗精紳を高 唱した,當時としては斬新なものであり,「建國ノ体制皇統ノ無窮歴代天皇ノ盛業忠良賢哲ノ事.
蹟國民ノ武勇」(小峰校教則大綱)を詮く卜定教育精血とは全く異質的なものであった事を知り 得る課である。以上歴史敏授に就て詳細に述べためは彼が最も力を入れた科目であるし,他に 藪科観らしV・ものを見出す資料も乏しいので,彼の教科目に封ずる考え方,取扱い方を代表さ せる意味で考察してみたのである。
と言っても山科観が全然見られぬ課ではなv・。例えば,唱歌教授に就て彼猿次のように言っ ている。唱歌藪授の盛なるに拘らす俗謡は決して衰えてV・なV・。但し,俗謡は古いのが忘れら れ新しV・卑俗なのが盛になって來たのは注目すべき事と警告し,新しい俗謡即ち在來の俗謡に 唱歌風・洋樂味を加味した混血兇(傍点筆者)は調子が野卑で,或はこれは州民性情趣味の堕:
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落を告白しているのであるまいかと憂えてV・る。そして和洋折衷(在高の旋律と高話風)は適 切に明治革新後の祉會傾向を 物語るものとし「情歌の趣味の下向」をみて「予は現代藪育の欠 陥が殆んど根底から欠陥であると感じた」励と言っている。二恩教授に乱する痛烈な一家言で あろう。或は二二改革の事に就V・て,「國語の改革は河原に石を積んで忽ち壊し,又忽ちに積 む如き小見の戯事にあらす,而して一品語を司配するものは文部省に非す教科書にあらす,俗 衆の意見に非すして,實に眞正なる意味に於て詩人なり」59)という所から,彼らしい見解乍ら 点語科観も想像されるというものである。更に他の科目に就て考察してみよう。英語も力を入 れたらしく,ナショナルリーダーを「中學校で二週聞もかかる所を二日聞で教え」,働「痴話
もふだんにやるようにやられました。」と二時の生徒の一人が言っている。6)又其教え子は作 文の授業を「私が偉v)なと思ったのは今日は先生が作って見せよう。題は何でもよいからお減 等出せとV・う鐸ですが出すとさっそく黒板に書くその文章が實に子供心にもよV・編章であると 思った」62)と言っている。或論者によれば彼は生活綴方,山びこ高校の先饗であると言う所か ら,或いは:そのような作文教育を想像する向きもあるかも知れぬが,そのように老えるとそれ は二二に反する事に:なろう。第一,教科の中で最も力を注いだのは上に述べたように歴皮科で あったし,又作文教育とv・つても,それは:農村の問題と取組むというリアルなものでなくて生 徒の純粋な詩心を二丁する綴方藪育であったと老えられるからである。
自分の心の呼吸を吹込む人聞藪育であれば教科目の束縛を破ろうとして課外藪授に力を注V・
だのも當然であるが,恰も綴方敏育の藪師蓮が藪科目の拘束の下で教師の自由を綴:方に見出し たように,課外下学によって彼は教師としてのぎりぎりの自由を生かしたと見る事が出來よ
う。それでは彼は如何なる藪授法,教育方法を:取ったであろうか。以下其事を考えてみよう。
「文部省の藪授細目は教育の假面に過ぎぬ」と言い彼が「自己流の教授法」を先づ修身,算 術,作文の三科に行った事は啄木の作晶に親んだ人にば周知の事である。從って63)「藪授法な
んて先生は乱暴よ」鋤と一女敏師に評されたが彼は逆に「母の愛1青の代りに五段教授法を以て 教える」6 )と彼女に答えてv・る。彼によれば「教育者に:は教育の獅申を以て教える人と教育の 形式で教える人と二種類がある」と言うのである。彼は言う迄もなくその前者であった。彼は 先に述べたように五段教授法に拘われて途には教育の形式化を來した二時の教育を見抜き,そ れに代うるに「自己流の教授法」を以てしたのである。先に見たように五段教授法は最も小二 丁教育に影響を及ぼした。二時の藪師は五段教授法を二二た適用するのに腐心するのが關心事 であった事も述べた。(教授例を示す藪育專門雑誌も流行したとV・うG』り)而して,「多くの人 汝は材料の如何に拘らす,場所の如何を問わす,一一様に之を適用せ んとした爲その中無理を生 じたのも自然の勢であった」という有様である。67)この風潮はやがて敏育の形式主義を生み出 し,児童の心理に反する教育を行うとV・う弊害を生み出したのであった。彼の行った自己流の 教授法は,先の歴史藪授法の所でも覗われるように師生一体の打てば響く体のものであったよ
うである。五段教授の教育と彼のv・わば無定見とも想像される自己流の藪育法と,それは誠に 山畠的なも,のであった。然し彼が自らあみ出して行った教育法は却ってそのように豊富なもの を生み出したとV・えよう。一
又樋口勘次郎は五段藪授の形式化を非難して,「現今世に所謂良曲師とは教授敏捷にして弁舌 爽かに洛汝として論ぎ來ること恰も演舌つかv・の如く見童を土偶の如く傾乱せしむる手腕を有 する者をv・うが如し」68)と,藪師中心の猫演の欠陥を捌乱したが,彼の教授法は一見三部主義 に似て恐らくその弊には陥らなかったと思うP彼が先の假令弁舌使いの如く読v・たとしてもそ こには藪師と生徒の相互の反回があったのである。其事は先の歴史教授でも想像出競るし・1又 彼の見童観からしても見童を土偶の如く傾粛せしめ生徒の個性の自由,活動の自由を阻害した
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とは考えられなV・。叉ヘルバルト主義興味の誤解から,兇童をして感泣せしめるごと淫教育の 要諦と考え,英雄,模範人物の傳記を講繹風に面白く授けるとV・う弊害をも生んだとV・づが6」),
彼は傳記類を授けても,児童を徒に面白がらせ,感泣せしめるのでなかったQ先の歴史教授の 鼻詰が革命的精神の横盗してV・た所から考え,彼は專ら革命的精神で生徒を箆醒せしめる所に その目的があったのである。以上の無点法は教育の場を「詩人」と「大ぎい小兇」との,「無 名なる植木屋」と「清浄無垢な美花」物,「至幸なる兄」と「成人の父」7りとの結び合いに見
た彼としては當然であるが,それは詩心による方法,見童の心につながる方法であった。マカ レγづは敏育者が藪育の論理を持ち,その選んだ方法が合目的であると確信するならば如何な るやり方によろうと教育的リスクをする樺利を持つと言っている。7)彼はそのようなリスクを 行った。一見それは科學的ならざる文學青年の無定見的方法でなかったかと非難を被るかも知
・れぬ。然しそれは「教育は規則である」とv・う回忌の形式主義化に封ずる一つの正しい批判で あったのである。
以上は主に教授法に就て述べたが,それをも含めて彼の取った藪育方法は民主的藪育であっ たと言える。藪え子の一人は「山育の:方法はちょうど今の新三七と言っていますが民主的な教
育を採用しておったとv・う感じを持っています。」73)と言っている。「杜會主義者となるには 余りに個人の二二を重じている」然し「丁丁的な利己主義者となるには剛青と涙に富んでいる」
「一個の特別なる個人主義者」74)であり,被二野者を生れた儘の心で育てようとした彼には其 事は自然の事であったろう。高等科生徒六十名門女生徒僅か八名,而も田村の小僧校にあり勝 ちな男奪主義が支配であるのは言うに及ばぬが,一女子韓校生の出現を機として「女権骨張」
の新機蓮が平したのを蔭乍ら助成してv・る如き7」)それであり,更に注目すべきは卒i業生の邊別 會を「一切生徒にやらせた」76)事であろう。「接待係,余興係,当場係,倉計係,何れも皆生 徒」又生徒から村の紳士貴女に招待駄を出した等「此村開詞以來の事」であったに相違なV・。
彼に四脚は余程感動を與えたものと見え,其夜郡覗學に會の模様と今後の希望を報告し,「予 が過去一年闇の生活は決して無意味でなかった」笥と述べている。彼自身も認めるように,猫 立人,自由人形成の方法がこのような立派な成果を生んだと考えてよV・のではあるまV・か。
更に以上の事をも含めて又我汝は忠信孝悌を唱え「其思想や穏健にして邪正」「郡硯學の命 令を王官の命令」としたと言う既威秩序のアッパラート化した三時の二丁像に封して,詩人こ
そ人類の教師,「人闇の験魂を建築せんとするの技師」78)とv・う括目すべぎ二丁像を立てた事 を忘れてなるまい。無論この詩人なる言葉は天才詩人を自負した彼自身の分身である。後年,
詩人という特殊な存在を否定し,詩人は第一に人,第二,三に人でなければならぬ恥と深刻に反 省した時始めて眞に人間の自畳に達したと言うべき・で,そのような限界を持てv・たにしても,
それは一時の人闇的に磨滅し忘していた教師像とは全く異質的なものであった。マカレγコが ゴルキーより一人闇観察を學んだように鋤,彼は出時の新思潮,殊に文學の中から人間を學んだ。
文學によって人聞を學んだ彼は「大きな小見」, 「成人の父」と見童を目し,「小鼠等を教えづ、
彼等から闘える事より以上の藪訓を得ん」8!)としたが,そうした彼にして始めて民主的教育が 實点し得たし,匹見童中心主義の教育も展開し得たのである。與謝野に宛てた書翰で「天高な る見童の道徳,美乃至宗教に封ずる心理を仔細に研究して見る積り」と洩して居る所からも見 出の心に喰入らんとする六四的意志の充分働v・てv・た事を察し得る。又彼が鏡面な見童の個性 観察をしていた事は日記からも添われる。「柴内兄弟は必ず一人前になる,兄の方は文才を有 しているかも知れぬ。立花愛三は十七八になって俄然攣るかも知れぬ。長岡は意地が悪い所に よv・処がある。米田は天才だ」とv・う彼の生徒評は82)教え子であった柴内も「實に二ってv・
た」83)と述懐している。この事から推しても彼が教師として充分な資質をi持ってv・た事を知り
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うるであろう。然し一方「成人の父」として卑童を尊重し乍ら,決して放縦に流れなかった事 は次の一事でも判る。一日「男女爾性聞の悪風潮を一掃しよう」として:先徒に深刻なる反省を 與えて行為の悔悟を促した事がある。その時「紳の幼兇の如ぎ心を以て其罪を戯話する者は一 生何事をなさざる人よりも却って幸なる入なり。予は昨日はしなくも基督の心を思浮べて泣 き ぬ」。「誠に優る寳この世になかるべき・を思いで泣きぬ」。r予は二二を與えむと期せざり き。然れども卿等は:涙の繊悔により昨日より却りて浄き人となれり」何人も罪しうるもなしと 自らも告白し,教え子と共に泣V・た8りという。
彼の學校に於て行った高富實践は以上のような實り豊かな民主的教育であった。然しその活 動は高校にのみ注がれてV・たのではなV・。過去に三三を以て目され,今は敗淺の身ではあった が熱烈に愛郷心に燃えていた彼としては當然であったろうが,彼の藪育的情熱は二村に二って 注がれてV・た。彼が謡え子を自宅に招V・て,英語傳記帳を教え,子供に敏育的感化を與えた事は 就職前から即いてV・た事は:先に述べた通りであるが,「夜のまだ明けぬ頃から彼等に起されるb 夜おそく疲た時など随分辛v・事もあったが彼等の清v・心に想到って蹴起した」85)「多少なりとも 善良なる感化を彼等に與うべくぼ,彼等の爲に毎日二時闇三時闇を費しても些の惜しむ所は:な い」との言葉が日記の此処彼処に散見している。更に其藪:育的感化は教え子達許りでなく村の青 年にも及んだ。彼等には「世界外交面の話」「臓羅巴文明の丁丁と今後」を語り,s6)青年の新年 會の指導を乞われてぱ「一切の事は三等自らせよ,予は三等自ら事に當り経験せられむ事を望 む。等等は澁民村の新時代を司配すべき 人にあらすや」87)と激働した事はその一端であろう。
而も「村内丁丁及び青年の爲に夜學を始め」「摂氏十七八度という寒い晩に風吹ぎ通す教場に 立って三時聞も聲を立て績け」「途汝悪質の流行感冒の襲う所」88)となる程青年に期待する所 は大ぎかった。彼が軍に一藪師としてでなく村人として生きた人である事は盆:踊りを「藪育者 は學校生徒に踊って可けなV・と言うが」「盛んに踊るべしと乞えた」89)と言い,「自らも五夜 もつ諦ゴて踊った」99)事からも判る。彼が叉如何に村や村人に心を寄せていたかは「一握の砂」
煙二のすべての歌がよく示してくれる所である。「小學の首席を我と孚v・し友のいとなむ木賃 宿かな」「うすのろの兄と不其の父もてる三太はかなし夜も書讃む」「意地悪の大工の子など
もかなしかり職に出でしが生きてかえらす」「ふるさとの山に向いて言うことなしふるさとの 山ありがたきかな」等等。〜二のような所から彼の教育は一面又全村教育,郷土弓削であったと 言われる所以であろう。91)
所で當時此一農村のナ沃況はどうであったろうか。友人への書翰に「昨年の凶作影響にて二二 未納者多く,村費皆無のため(三略)學校職員四人共」「俸給金役場より出品す」92)とあり,
日記に「三月雪のある國で袷に儒絆で二二なのは自分と凶荒に:苦しむ窮民のみであろう」93)とあ る所から當時相當凶作の打撃を被ってV・る事が制る。それかあらぬか農民の面高的關心は「二 品の百姓はまだ子供を學校に出すよりは家に於て子守をさした方が可V・と思っている者が少く なv・。女の子は殊にそうである。」督促しても「三日経てば自然又心なくなって了う」q蔓)有様で あった◎山山源之助は「日本の下直肚會」の中で次のように小作人の子弟の事を述べている。
の コ り コ の り コ ロ の リ コ コ コ の コ コ コ ロ ロ
「小作人全体及び小作入の若v・者にして作男となりて外に出でざるは殆どなし。十五才にもな
り り り リ ロ コ り り リ コ コ ロ リ コ の ロ ロ リ ロ
りて家に遊ばせ置くは天道様に謝して相濟ますと思える故なるのみならす,幾分なりとも家計 を補わしむる迫れる必要ある故のみならす,亦た外に奉公に出だすを以て少年を成人せしむる 一の準備なり直直方法なりと思えるもあり,獅子は子を深麩に試み農民は子を鬼の手に附す。
若し勤むること能わすして還ることあれば,其の父母は鞭錘を以て叱責する穿ら,奴等の経験
り の り の つ の ロ ロ の リ ロ
し來れる智恵を絞りて人情を説き世聞を論き生活を説き・て其の不可なるを諭すなり。かくて肚
ロ ロ ロ リ コ コ リ コ ロ ロ コ
會に適鷹する人物成る。而して家を持ちて苦しみ,而して郷地を離れて出稼若くは移佳するは,
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コ ロ ロ コ コ コ り り