説 ー序
痕乗数育の論議は︑最近次第忙清澄にばってきた︒然し︑その諭苛は主として職業教育と一般教育との関係を如
何忙考えるべきかという問題を中心とするものであって︑職莫教育に対する社会科学的考察は極めて少ないようで
ある︒およそ︑職業教育の性格を論じ︑職業教育と一般教育との関係を考察するにあたっては︑晩発教育を社会科
学的に考蒸して︑︻その性祐を明確ならしめることが革質である︒若しそのような科学的考察を無視するならば︑論
議は必然的に観念的魂象的な現実遊離的性格を帯びるようにならざるを得ないであろう︒この教育に対する科学的
老察は︑主として教育科学︑或は教育社会学の課題に属する︒然右に︑我が国の教育社会学ほ今や漸くその黎明嚇
一
〟 序 説
二 舌代の職異教育
三 中位の徒弟教育
四 徒弟教育の崩壊
草∴鐸弟教育の崩壊と労働の変化
六 現代の職異教育
職顎教育の歴史的基礎
職業教育の歴史的基礎 ︵一︶
︵以下次号︶
勅
軍手五巻 琴二尊 二 忙達した域を出ない︒従って︑この間題ほ今後に残された罫要な謙虚とされなければならない︒
然しながら︑教育を社会的基盤から把握せんとする試みが全然ないわけではない︒例えば︑海後勝胎教授は︑敦
育社会学の構想を展開するにあたって︑教育を仙定のイデオPギ一形態として認め︑教育の機能を生産力の再生産 ︵l︶ として把握し︑教育の歴史的社会的な究明を抱起されている︒叉︑細谷俊夫教授も︑近著において︑近代社会の教
︵2︶
育を︑社会的規定カと関聯せしめて論じ︑歴史的分析を行っているし︑王城♪義教投も︑日本教育史の社会科学的 ︵ 3︶ 分析を試みられている︒これらの論作粧みられる分析の方法は若干の相違があるが︑教育を社会的基礎から考察しよぅとする方向では概ね一致しているとみられる︒
教育の社会科学的考察の出発点は︑教育をイデオロギー形態として把捉し︑社会的下部構造との関聯において鶉
ヽヽヽヽヽ 察するところに存する︒つまり︑教育を︑ヰ部構造から規定された存在として把握するのである︒そこで何が︑教
育を規定するカであるかについてほ稜々な観点がみられる︒例えば細谷俊奏教授は︑近代社会の社会的規定カの最
︵4︶
も顕著な鴻のとして︑民主主義︑国衆主義︑および藤堂革命の三つをあげられている︒叉︑海後勝雄氏は︑生産関 ︵ 5︶ ︑︑.︑ 係と技術の発展段階に注目されている︒教育を具体的に︑史実に鑑みて分析し叙述する場合にほ︑直援の規定カとして思想形態︑政治形態︑技術形態︑生産形態等の諸領域の中から種々な変困を把握することが出来るであろう︒ ヽヽヽヽヽヽ 然しながら︑そ恥骨後に横たわる最も基本的な甥堂カとしては︑物質的生産力を指摘せねばならないと思う︒何
故なれば︑思想形態や政治形態は︑その基礎に存示する生産諸関係厚よって規定され︑その生産諸関係は生産力と
の統一において把握されなければならないからである︒上部構造をなすところの教育︑思想︑政治等の諸領域ほ︑
下部構造である生温諸関係から︑相対的な独立性を有するとはいえ︑窮極においては︑生産力とその発展段階に照
応する生産諸関係から規定されているからである︒故にわれわれは政党数育を把揺する基礎視点を生産力に求め︑
職柴教育を生産力の要求として理解してみたいと思う︒
然しながら︑生産力は生産関係と解れて存擁するわけではなく︑両署は︑対立する暫もあり統一されている面も
ある︒従って︑職業教育の具体的分析にあたって′は︑直援には生産関係から規定されている面が多いことに注意し
\
︑ヽ︑︑︑︑ヽ︑ヽ︑ヽ︑ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ なければならない︒然し︑われわれほ︑職菜教育の任しい倖澄づけを生産力の要求に過食し∵生産力の発展を助長
︑︑︑︐
︵6︶
せしめるところに求めたい︒事実︑教育は生産力を高める手段として育てられてきているのであ驚然るに旧来の生産関係が︑発展した生産力と矛僻し橿臆となる場合には︑生産力と生産関係との対立又は差別の蘭を注意して︑
聴衆教育の正しい位還を求めなければならないと思う︒われわれは︑教育と社会とを分離して考え︑教育の領域の
申から︑無反省に社会の要求えの▲遁合を称える主張を排して︑﹁教育は︑単なる適応でほなくて創造に︑賽当では ︵ 7︶ なくて変革のために仕えなければならない﹂ことを反省しなければならないと思う︒
以丁の考察は︑上述の生産力の嶺点に基いて社会的基盤から行った職英数育の一考廃である︒生産力の観点から
する職業教育の考廉は︑歴史的社会的な分析に基いて実証的になされねばならないであろう︒以下の考察において
ほこのような体系的な分析を意図するものではなく︑その﹂断片として︑晩発教育と一般教育とゐ関係を考察する
辛がか㌢を求めるためにまとめたものであることを断っておきたい︒
︵1︶溶後勝椎﹁新教育社会学の構想﹂昭和一宇五年
︵2︶ 細谷俊夫﹁近代社会の教育﹂昭和二十七年
︵3︶ 玉城 肇﹁近代臥凍教育史﹂昭和一手六年
︵4︶ 細谷俊夫 上掲督∵ふ四賀
︵5︶ 浴後勝撼 上渇闇 六二貫
職異教育の歴史的基礎
ことにする︒それによって︑取乗数育と自由教育との対立が完全に階級対立の反映であることがあきらかになるで
あろう︒
首代ギリシャの社会は︑原始共産件の崩壊のあとをうけて︑蚊殊馴鹿を基礎としている社貧であった︒我々ほギ
リシャ︑ローマにおいて典型的な苗代国家を見出すことが出来るのであるが︑古代ギワシヤの社会では︑支配者で
︵1︶
ある自由人︵f琵man︶と被支配者である奴讃︵s︼a諾︶とにわかれていた︒奴隷は所謂↓虚しい﹂仕事に従事していて︑その大部分ほ遷要の苛役忙従っていた︒他方∵自由民は︑市民としての公権を有し︑支配階級であると共に
\ 有閑階級としての自由を享楽していたのである︒そして奴隷に対して生殺与奪の纏までも操っていた︒奴藷は﹁持
分自身の生計のためのみならず︑上流階級を朝から晩まで自ら職葵に従事させないために︑そして彼らに覿知を働
︵2︶
かせないやうな任那をさせないために︑上流階級の生活の手段となって働いたのである︒﹂自由人は︑かゝる奴対の犠牲の上空且って関根を享楽していた︒このような二階汲の分立に基いて発生したのが︑自由教育と撤柴教育の
合理にほかならないのである︒自由教育とは︑階級社会の基礎に立って︑支配階級の要求に基いた教養教育を常時 現代の職業教育と一般教育との対立の問題を歴史的に迫つてゆくとき︑ 来る︒特にヤ般教育は系踏的に︑自由教育を放流としているのであるが︑ のが苗代ギリシャであグた︒従って︑党づ我々は白由教育から考察して︑ 第二十五巻 琴二号 四
︵6︶ ﹁アメリカ合衆国は長い間︑教育における信条を︑生産力を高める手段としてはぐくんできた﹂︵同筆雪andH昌ぎrgerYt
Edu¢ati︒n㌻りa Ind宏tユ如︼agの︐−窒∞p.−︶
︵7︶ 海後捗地 上掲闇 二一六買
舌代の職業教育
ギリシャ時代にまでさかのぼることが顕
その自由教育が最も純粋な形で登場した
それに対立する職業教育の性格を述べる
している︒即ち︑支配階級である自由人は︑奴隷の磯牡によって労働から解放されているので︑一方でほ彼等の閑
椴を如何堅早発し︑他方では彼等の支配体制な如何に維持するかが支配階級の襲求をなしていた︒この二つの要求
は牒由教育の内容を規定している︒即ち前者の由暇の草粂のための要求を反映して︑自由教育の内容では﹁教養科
白︵註e邑Art︶﹂豪壷んぜられ︑哲学︑倫建学︑政治学︑芸術が教科白の中心をなしていた︒叉﹁その教育ヨ
的は︑社会と串宙における自己及び白己の地佗転ついて完全な理解を韓った円温な人間をつくり出すことであっ
︵3︶
た︒﹂この教養科目ほ女配階級に支配者たる東男を得る為の巽東を十分にみたしていた︒自由教育は同時に後者即ち︑支配体制維持の蚕食をも満たしていたのである︒嵐に此の教養尊馨の思想は労働蔑視′の思慮で盛付けられてい
たごとも宥過出来ない︒ギリシャ人にとって︑労働は呪いに外ならなかった︒官営Sハ.労働︶というギリシャ語は︑
一;ン譜の㌘昌a︵悲しみ︶と語族を同じく㌻る言葉である︒当時の思想家は何れも労働を蔑視している︒例えば
ホーマーは︑神々が人間を憎悪し︑人間を労役すべき運命においたと考え︑叉︑クセノフォンは︑労働ほ︑人生の
福利のためた神々が試する背痛多き代価であると呼んでいる︒更にローマ人︑ユダヤ人の考え方も︑ギリシャ人と
︵4︶ 大体同様であった︒労働は甘痛の多い鷹役であるとみられたり︑叉人間の祖発が犯した罪に対する境野であるとみ
られていた︒このような労働蔑視の思想は自由教育を宜当化し︑支配階級の優越性をイデオロギー的に基礎づける
作用を典していたのであるが︑他面︑この労働蔑視の思想や︑自由教育の思想そのものが社会的存膚︑即ち階級対
立打所産に他ならなかりたのである︒当時︑ア¶/ス∵トテレスも此の自由民に対する自由教育を教育の本道と考え︑
奴隷転封する教育は真の意味での教育ではないと考えていたのである︒
猶︑此の自由教育の思想ほ︑其の後長く西欧の教育思想を支配して硯凄に至っている︒例えば中世の教育思想ほ
自由教育の思想が蓋督教思想と結びついた点が典?ている更けで︑教育の中心は矢張りギリシャ時代の教育と同株
五 職葦教育の歴静的基礎
第二十五巻 第三尊 六
に精神的陶治を自指すものであって︑所謂﹁形式陶冶︵﹃︒ぎa−Dis恩−i旦﹂ と呼ばれる教養中心の教育である点
には変りはなかった︒当時の教科内容は︑神学を中心として表教養科目︑即ち︑静増学︑文法︑修辞学︑音楽︑ 天文学︑賽街︑幾何などから成り立っていた︒更に後に至って︑ルソーやぺスタロッテが労作教育を霊視する教育 観を称えたけれども︑央張り労作ほ教養の手段としてみられていたのである︒
さて次に脹を転じて︑苗代の被支配階級の教.育について述べたい︒支配階数の教育が自由教育と呼ばれたのに対
して︑被支配階級の教育は散発教育と呼ばれている︒もぅともヂ7イのいう如く︑職柴の意味を広く解し︑政 ︵
5︶ 治や享楽の仕事も職業と呼ぶならば﹁支偲階級の教育も本来頗る職業的であ︑つた﹂といわれなければならないであ
ろうが︑こ1で住職柴教育の意味を夜術的に使用して普通の用例に従言おくことにするァ職業教育がはっきり
と意識的な形で現れたのは︑中世の徒弟制度であった︒苗代において職業教育は︑中世の徒弟教育のように意識的 組織的な形でほ現れていないようである︒例えばアダム︒スミスほ﹁徒弟制慶ほ苗代では仝く存廃しなかった︒親
方と徒弟の相互の義務に関する規定は︑・近世の各法典では相当な部分を占めている︑′ローマ放はこれに関して何虹 ︵6︶
も痩定してない︒﹂とのペている︒その根拠ほ社会的基盤の申に︑求めることが出来る︒即ち当時の生産力の発展段 階がまだ粗放的な散発教育を頁求する虻でに発達していなかったのである︒凡そ自由教育が教養教育として成立し たのに対して当時の職業教育は技能教育として成立すると考えられる︒ところで当時の生産技術は︑表的芸って まだ組絨的な技能教育を要求するまでに十分に発達していなかった︑︒然しこのこのことは︑当時における隼澄枝術
の発藩を香定するものではない︒ギリシャ時代は︑帝業の発達が︑手工業1の輿発からの分離を促し︑叉都市生番の
発達が生産力の向上を促進した︒然し他方でほ奴隷制は次の二つの理由から生産技術の発達を閲直している点も宕 過してはならない︒即ち︑第這は︑生産技術の発途が奴藷にとぅて何等の利嘗関係ももたなかったこと︒第云
は︑手工葵の捜当着である奴隷と︑科学︑芸術の組当者である自由民との間に︑はっきりした隔離があってその相互
作用が不可能であったのである︒このような社会関係を反脱してギ甘シヤ時代の技術は︑エジブト時代ほど顕著に
靂達しなかったのである︒従って当時の生産技術は︑組撒的な攫能教育を襲求するまでに至っていなかったので︑
ほつきりとした撒柴教育の形態をとるまで担いたらなかったと考えられる︒
熱し︑古代において︑職党教育が全然認められなかったわけではない︒例えば︑撤葉教育史の研究簸べンネット
氏︵C訂ユesA・謬n邑t︶は︑徒弟教育の沿牒望一基して次の如く述べているバ㌫徒鼻御慶の端緒的形態について最
も畳襲なことがらは︑親方と徒弟との関係は︑父と子の関係であったということである︒律弟制度は家庭関係から
成長し︑その関係を歯糞革命の時代に至るまで概ね変化せしめないでとゞめた︒初期のユダヤの絵描は父親に手職
へtrade︶を教える義路彿あたえた︒クルムードは次の文章を含んでいる〝汝の息子に添律を教えることが執務であ
る如くに︑汝の息子に手放を教えよ〃・∵⁚息子に手職を教えない潜抹︑〝息子に泥棒になるように準備するのであ
る︒″﹂と︒そして当時の人.々は︑此の提に違反すると蟹蔑を受けていたのであるが当時はそれが社会秩序を保持
する機能を典していたのである︒▲見当時では午前中は教師について該律を︑午後は父の下で手職を学ぶというユダ
ヤ人の習慣がおったといわれている︒叉他藩では﹁紀元前二二五〇年頃のパピセ忘ヤの迭典からして滝職人が養子 ︵ 7︶ をとって︑彼等に手職を教えることが概ね習慣であったようである﹂と述べられている︒叉フラウッド︵C訂ユes
句∵Ar;W冨d︶エビイ︵﹃邑erick Eby︶の両氏ほ更にさかのぼってエダブ寸の教育についても厨子徒弟卿変
︵pare已a−app記ntice00訂p︶の存在を認めてゐる︒彼ほ︑よヂプトの教育について次の如く述べてゐる︒﹁エヂプトの
教育は三つの側面︑即ち︑職業的訓練︑読み書き︑よい行いを包んでいた・︒これらは現代のカゾキラフムが︑所謂
〝科目〃としてみているように分離された訓練の形態としてほみられなかった︒それらはむしろ相互に関覇した諸
七 徽章教育の歴史的基礎 ′
窟として慧し︑警徒悪魔賢って受けつがれた︒⁝:・仝誓は真上業的であり︑ある実際的な級に ︵8︶ 沿つた特殊な熟練
の習得であった0﹂と︒かよう′に︑実際的な賓漂苧職蓑育は既に早くより霊Lていたよ
ぅであるが︑それらは決して諾的な誓でもなければ︑睾凍約欲求を賢し得るようなものでもなく︑当時の生 産力纂展段階に腰応した生産宗の習得苦心としたもので聖た︒苗代靂育覧いて︑警の階級性倉も 明白な形で現れているが︑我這特に職業教官が生産力の発展段階桓照応し︑然も生産力誓って規定されている
ことを注意しなければならない︒申漂入っで1奴隷制慶から禁制魔の社会に発虚し︑中世都市盃苧るにつ
れて彙からの手義の霊は碧雲になり︑生産後術は更に進歩した︒我々は次正中世の将商慶な生産力の 尭展段階における職業教育について述べることにしたい︒
︵1︶自由民と奴警の数︒言ネでは︑書供嘉えて九万の白馬がいたのに対して︑奴隷は︑男女合せて三十六万八
又アツチカでは二万の目由民に対して︑およそ四十万の奴隷がいたといわれている︒
︵2︶J・Dew票De⁝raOy邑Educa−i︒巨こ芸帆足警部訳一石七頁
︿3︶RepOニ○ご訂Hal邑C昌mi−−eeニ筆alEduca−i2−⁝冒のSOC睾−ぎp●∽柏
︿4︶福井孝治﹁労働に関する二等察﹂遊済学雑誌警十姦第一︑二︑毒二莞下碁照
︵5﹀ D芸ey;昌︒⁝Cy邑︑Ed⁝−iOn﹀邦訳三四二貫
︵6︶ AdamSmilF=訂wea富︒=ali︒n00︸M乙喜LibraHy乳●句LNN
︿7︶CFaユesA・ぎne−t=訂A莞e苫︒−ぎca−i昌已芦ca−i昌⁚○首1i諾a已ぎblems O:ぎti呂a−Ed邑i宇
内畠ted by Edw−n A・1諾●−器00吋.句小∽−か
同じ様なことはハムラビイ法典にもみられ︑職人が養子にした息吉事職姦えること︑若し実行孟ない讐ほ父の家
に瞳つてもよいということが明白に規定されている︒︵2邑H・D︒ug宮AppH邑c邑ip︸Ency◆○:OCialSci首0 ‰ 警手五巻 誓言
半pこ定︶
︵8︶ ﹃Tederic⁝byandC訂1認F・A⁝喜︒d⁚訂Hi∞首yand買−OS号yO岩d⁝−i昌Ancieローand誉die邑・−芸
p●p−謡1ヨ
三 中世の療弟教育
中世の封建社会は︑苗代と同じように遊資を中心としていたので︑社会樺造も封建的土地所有上段媒制度を基礎
としていた︒即ち︑ノ領主が広い所領を所有していて︑その土地を農奴に耕作せしめ︑その基礎の上に領主の生活が
変えられていたのである︒この館主についで︑僧侶も広大な土地を所有するようになって支配階級を形成していた︒
然し他方では︑盛栄に並んで遠柴や工発が発途し︑手工柴が次第に義堂に対立するようになった︒此の商工菜の発
途は次第に中世都市を形成し︑領主︑鹿侶︑・塵紙に並んで︑一都市商人や争草葉薯の層を登場せしめたのである︒更
に都市にあっては︑商人や手工業者の問にギルドが発生し︑申せ都市が発達する覧れてギルドも次第に確立され
︵1︶
てきた︒.申せの職乗数育ほこのギルドの申笹成立した徒弟教育におい孟ハ型的な姿を示している︒従って我々は申せの徒弟教育を社会的基盤から濁姦して︑職発教育の性格を明躁にしたいと思う︒・
ギルド︵g邑dリGi−de︶は︑中世ヨーロゥパにおいて︑主として商工業の同職仲間として存在した団体組織であ
る︒此のギルドは︑十世紀申塞から十︷世紀曙入つて商人によって組織せられた商人ギルド︵me岩訂nt昔−d−
内a已ma蓋ilde︶として現れ︑次いで少し遅れてから十二・三世紀頃に手工発着の団体である手工業者ギルド
言賢g註d㌧N邑t︶が登場した︒尋ルドの目的ほ︑最初は極めて包括的で︑単性経済的目的だけでほなく︑広く社
会的宗教的隼鱒の中心であ?たが︑後に次筍に経済的目的忙集中するよう妃なった︒ギルドの経済的目的は︑対外 万
九 機異教育の歴史的基礎
的には非組合員の競争を排除して独占意図すると共に領︑蒜カに対祝することであり︑対内的には︑組合員間の ︵2︶
簸益の靡争を防止することであった︒ギルドの対内的な活動ほ各方露わたっている︒例えば感弟の修業年限を定
め使用人の人数制限を協示し︑加入金︑親方製作︵ma葺pぎ︸Mei旨werk︶商品検査︑公定価格等の約定を行い︑ ︵3︶
さらには共同仕入や共同生産さえ企てたようであるぐギルドの申の職階は二二段階にわかれて︑いた︒親方︵ヨa旨﹀
Mei旨︶職人︵首ne竃n﹀Ge邑e︶及び徒弟︵appren−iceゝ2貫芭がこれであるq親方は︑手工糞の経営者
であり自ら生産手段を所有し︑計ら働き︑自ら販売していた︒職人は︑見習職人と恕ばれ︑忘の修葵期間を終 ︵4︶
って職人試験を通過した字義着である︒最後に徒弟とほ︑或忘の技術を習得するため紅二二軍期間晩方の下で奉
︵5︶ 公する見習のことであるごしのうち親方のみがギルドの組合員であゎ︑彼のみが市民権を持っていた︒
徒弟教育とは以上の如き常食の下に親方と彼弟の間に行はれた教育をいうのであるが︑その樵弟の條発明問は︑ ︵6︶
ィギノ具でほ七年︑ドイツでは大聖牢イクリヤでは五−七年︑フラン芸は六−八年︑バリーでほ十−十二年
紅およんでいる︒徒弟の数は志紀親方の子供以外竺人トニ人乞いうのが普選であったが︑後に至って次第紅増 加する倣向を示した︒徒弟は無給で働いていたが︑そのかわり仝生痛が親方転よって保証されていた︒即ち︑食物 衣類︑住居等があたえられていて︑徒弟は仝面的に親方の儒督支配の下におかれていたのである︒従って徒弟教育 の教育的効最を考えるに誓何よりも徒弟の生活条件を十分に考慮しなければならないであろう︒
では徒弟教育は如何に行われていたであろうか︒ベンえふ/ト氏によれば︑徒弟教育でほ義教育を食めた広範囲
な教育が行われ︑然も極めて優れた教育が行われていたようである牒即ち氏は次の如く五項目にわけて説明しやぃ ▲る︒
一︑扶養へ即ち食物︑衣麒︑住居︑覿の注意等︒これらは鍵弟が菜し父の家庭で生活していたとしたならば︑当
第二十五巻 第三暑 ㌦○然徒弟に与えられている身俺的薬液の準備にかわるものである︒
二︑道徳的︒宗教的︒公民的訓練︒壷方やその家族︑教会︑町当局との接触︑稜々な地方の督典等を通じて行わ
れた︒
三︑山般教育︒親方の知汲や鍵弟の教育に対する親方の周心によって非常に典つていたが︑その散乱には普通ほ
読み書き︑時には計罫も含まれていた︒特に徒弟制度が九年から十二年にもわ七って長期に及ぶときには︑徒
弟は文法や外国語を習いに二年間学校に送られる場合もあった︒
四︑秘伝︒即ち手職の技術︒一仕事紅応用されるときにその都密親方から教えられた︒
五︑実隊純な知識や熟練︒仕事の一部分についてだけではなく︑全分野にわた.って全過程において行われた︒習 ︵ 7︶ /得の方法は主として親方の枚倣によっていた︒
ペンネッ下氏はこのように述べた後に次の叩く高い評価をあたえている︒﹁だから︑中世の徒弟御慶は単に手と
技術的訓練の計画だけにとゞまらなかった︒それは又︑その時秒少年に︑今までにあたえられたことのない絶ての
︵8︶
盛礎的或は劃般的教育を与える教育機関であった︒それは︑中間階級の昔年に対サる主要な教育棟関であった﹂吏に又︑今日の職糞教育に言及して﹁今日の職英数育は︑中世の痍弟制度の本質的部分1学校数育によって受けつが ︵ 9︶ れることの出尭る部分−の現代的再生である﹂と︒談ほ又﹁職業教育ほ古き徒弟制噂1極めて立沢な祖先Ⅰの申に佼 ︵ 10︶ 拠すべき広大な基礎を持っている﹂と評している︒然しながら︑こめようなペンネット氏の徒弟教育の高い評価を
︼被教育を含めてそのまゝ骨定してよいものであろうか︒叉︑甥代の職業教育が中世の徒弟教育の﹁再生﹂であり︑
鐘弟教育はその﹁祖先﹂であるとして︑同二祝されてよいであろうか?われわれは疑問を捧つ︒何故なれは発言︑
中世の職業教育の評価は︑徒弟教育の基盤から即ち︑徒弟の生活条件や︑親方と徒弟との関係から考察して行われ
職業教育の歴史的基礎 一一
二こユ
第二十五巻 第一二号 一二
なければならない︒そこでは徒弟教育ほ決して恵まれた条件を持っているということほ出来ない︒叉第±正︑徒鼻
教育と現代の職集散育との同二現は︑両者の質的寡兵を嘉過していると考えられる︒この質的差異とほ技能教育と
故術数育の区別をいうのであるが︑これについてほ︑後に述べることにして︑︵﹁六︑現代の職柴教育﹂の節におい
て述べ富︶さしあたっては︑第副の徒弟の生活条件と親方と徒弟との関係とにふれておくことにしたい︒
徒弟と親方との関係︑即ち徒弟関係は歴史的に変化している︒最初は徒弟関係が親子関係から発達してきたとい
われているよう虹︑・両者は極めてゲマインシャフト的七親密な関係にあった︒然るにギルドが次第に崩壊するに従
って徒弟関係もだんだんゲゼルシャフト的な黎此的関係に移ってい?たのであるる徒弟の生酒条件も此の徒弟紺係
の変化些閑職している︒然し徒弟の生活条件ほ徒弟関係が対立的刺客関係に感化する前でも︑決して恵まれている
Lはいえない︒このことは当時の労働時限や︑労働に対するギルドの監督制限の状況から推廃することが出来るの
であか︒例えば労働時間は︑﹁日出から日投にまで及び︑しばしば燈火をつけて仕事をした︒・十四時間ないし十
大時間労働はむしろ普通であった︒建築労働などは︑最上の場合で十時間ないし十六時問労働で︑朝五時から晩九 ︵‖ ︶ 時まで働くこともあった︒﹂といわれている︒﹁このような長時間労働にあっても親方は必ず職人と二繹に働いて︑
自分だけ早く仕事を仕舞うということばしなかったので散人の不平ほほとんどなく︑むしろ親方になる過渡時代の ︵ 12︶ 当然の修幾であると思われていた︒﹂然し︑親方と同じ様に労働していても︑身体的︑経験的発達の劣っている従
弟の過富労働は相当な負組であつて︑教育︑蒋に職発教育以外の仙般教育が拓足匹行われる状態に払ったとほ到底
老えられない︒このような過盈労働は︑労働に対してギルドが監督制限を行っていた点からも推測することか出凍
る︒即ち親方は徒弟を訓練する権能を与えられていたが︑一方では︑ギルドや都市当局に︑親方と徒弟の関係を監 ︵柑︶
沓し︑徒弟の酷使を防ぐ植眠が与えられていたのである︒労働脚限にほ︑夜柴や︑日曜祭日の仕事の禁止がみられ
る︒﹁夏は午前四時或は五時から平壌七時乃実時まで︑冬は夜明けから日管で︑という風・に︑仕露間を印隈 するのが普通であった︒日曜姦日の仕事の禁止は︑その毘仕事をして︑敬虔なク具チャンである同僚よりも
︵14︶
余計転帰けることノは︑不公平であるとの理由に基く︒﹂といわれている︒かゝる監督制限は相当厳格に行われてい たようである︒毎えば﹁仕事場は原則乞して基部屋や地→窒などに設けてはならなかった︒通りがかりの人から見 えると.ころ︑従ってギルドの役員が何時でも容易に監視し得る通りに蘭した部屋を仕軍場に充てねばならなかっ
︵15︶ た﹂ようである︒叉後に至って︑宗○毒の英国の辞令法は︑負虎の子供の子弟を監視する権限を教会に与えた︒一
熱し︑この目的は︑これらの子供に今までの仕寄を保証してやるというよりも︑子供達に賓任ある保護者の下で食 ︵
16︶ 物や衣料や住居が与えられているか着かをみるためであったといわれてぃる︒ 以上の様な労働状態や監督制度から考えてみると︑申せの徒弟教育が義教育をも含めてホ分な教育的効典を果
していたとほ即断しがたい︒然1ながら︑技能教育としての徒弟教育の意義は︑上述のペンネット氏をはじめプロ
︵17︶︵18﹂ ッサ氏や︑細谷俊夫氏も認める如く︑相当高く評価されなければならないであろう︒技能教育として徒弟制度が何
響jのよう忙高い教育的評価を受けるのであろうか︒第二に︑教えられるほ難が︑熟練を中心とする単純な緩鏑・で
あったことがあげられる︒当時の按腐の寄掛段階では︑教える内容が梯雑な科学的知識を必要としない手工準則な 仏門
単蒜術であったことが︑教育を容易ならしめ︑また教育の効具を高めたのであるバ第二に︑教育期間︑即ち徒労 期限が極めて長期であった︒即ち前述の御く︑徒弟期間は三年から十数年の長期に及ぶ地方もあったのでを心︒琴
三笹︑最も大切な点であると考えるのは︑教育の生体が向じ階級内にあったことである︒即ち︑粗方は徒弟と同じ
庶席捲級であり︑両者は社会的階梯︵sOCia=add且をなしていて︑対立する階級関係ではなかった︒そこにゲマイ
ンシャフト的な親方と徒弟との人格的な俸税関係が成立し︑徒弟教育の成典をあげることが出来たのである︒吏に 小三 職群教育の歴史的基礎
第四に︑徒弟教育がギルドの公的な管下におかれていたこと︑欝五に︑技能の習得が将来忘の地位と職業とな 保証していたことがあげられる︒ 以上の諸点が相当低い徒弟の生活条件若拘らず︑徒弟教育が高い誓約評価を与えられる根拠をなしていると■ 考えられる︒徒弟教官ゐ教育的効果は︑大部分徒弟制誓のものの条件に依存していたのである︒従って徒弟教育 は︑徒景虎の崩警ともに︑その豊の基警芙することになる︒この徒鼻制度の崩壊は︑ギルドの解体に伴 って︑資本主義社会成雷過程に於いて行われた︒われわれは次に︑徒弟制度の崩壊過程を社会的表と準接に閑 聯せ
しめて︑盟本主義成雷必然的過程の申から考察してみたいと思う︒︵未完︶
︵1︶ 堀江英一﹁西洋麗辞史﹂昭和二十五年︑空ハ貫参照
︿2︶ギルドが領主権力に対抗し︑政治目的姦つていたことは︑成晶の商人ギルドが8七三年のウォルムス市民の司
教えの反抗︑岩七四年四月のケルン市民歪動等を指撃たことによってもわかる︒︵増田四郎﹁ギルド﹂︵靂済蛍小
辞典︶参照︶
︵ヱギル・ドの諸括警撃て︑二つの栗鼠則︑即ち警に︑仲間の平等と達磨療瞳の原則︑第二にほ︑ギ几ド以外の者
に対する題楯な封銑宗則があった︒︵秦毒﹁欧州産済度﹂‡昭和二十六年 表九買参照︶
︵4︶ドイツの職人についてエンゲルスは次の如く諾している﹁手工職人︵Ge宴︶とは雲の修業期間−通常三年−を
終り職へ鍔験︵Ge集npr芋茎通過し毒工琴者をいう︒多くの拭あい︑旧慣転よれぼ職人発︵Ges蒙st葺の 完
成が要苦れている︒ツソフトの時代には芸はつゞいて遍歴を痕トめ︑その質する職人免状︵Cese︸夏rieOによ
ってその手蒜の組合や鋭方のもとで仕警みつけて歩いた0そして莞の遍歴期間限が終れば警試験を穿けて芳 になったのである︒﹂F・Eng貴Deニe冨cFeぎ邑者−00芦大内′カ訳五買
︵5︶芳−職人姦弟の関係は階級慧ではなく社会的階梯︵sO邑−add且又は職階と呼ばれている︒ 第二十五巻 第三尊
︵ヱ イギリスの七年間の徒弟期間を規定した徒弟法は三言アクチ言時代の終ゎ即ち十八世紀の最後の三分の芸囁
まで有効であつた︒
︵7︶ E.A.訂巾⁚Ob︼采ti言and憎rOble宏○⊇OC註昌已宏宍ati昌﹀−冨∞︸ p・p・牟−ム
︵8︶ 訂eい ibid・ワひ
︵9︶ ㌃盈 ibid・p・∽
︵10︶ 訂eい ib芦 p・︼↓
︵11︶ 秦玄竃﹁欧州経済史﹂昭和二十大牢 仙六九式
︵12︶ 同 上
︵13︶ 憎a已H.DOug訂い Apprentic悪どp・Ency・︒叫SOCia︼Sci昌Ce︐ヲ p・−窒
︵摘︶ 堀江保蔵﹁四洋経済史概要﹂昭和一昔由年 大二買
︵15︶ 固 廿
︵16︶ F溌 ibid・p・⑦
︵17︶ C.A.憎;SSer and T●H◆ 曾igl童ぎ¢ati︒望︼Ed宍at・〇n in P Dem︒C巧aやア一望や p・−ご参照
︵18︶ 細谷俊夫﹁技術教育﹂▼昭和十九年 三六−三七貰参照
職顎教育の歴史的基礎 山五