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社会教育の遺産

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社会教育の遺産

―近世・近代の日本における―

宮 坂 広 作 1.社会教育の歴史的遺産

筆者が日本の社会教育の歴史についての最初の著作を刊行したのは、『近代日本社 会教育政策史』(国土社、16年)である。これは、明治以降第二次世界大戦終了時 までの、いわゆる「近代日本」において、政府・権力・体制がわがどのような社会教 育政策をうち出し、行政や教化団体によってどう遂行していったかについて叙述しよ うとしたものである。このばあい、「社会教育」というのは、政府の教育理念あるい は体制がわの教育イデオロギーにもとづいて、国民あるいは民衆の意識変容を企図す る事業であり、要するに天皇制イデオロギー・国家主義・軍国主義・国粹主義にもと づく国民教化であった。そもそも学校教育が、このことを最重要の目的として施策さ れていたのだが、社会教育のばあいもまたまったく同様であった。社会教育の方法と しては、中央・地方の行政によっておこなわれる直接的な事業の他に、半官半民的な 団体を利用しての間接的な事業が広くおこなわれていた。この「団体利用」というの が、近代日本の体制的社会教育の大きな特色である。

そうした団体の中で、民衆意識の変容―体制イデオロギーの注入・浸透―を主たる 目的として組織されたものが、「教化団体」であるが、そのことを副次的目標として 掲げていた農民団体・青年団体・婦人団体なども、その実態において「準教化団体」

というべきものであった。明治末、日露戦争後に政府がうち出した地方復興策、いわ ゆる「自治民育」政策の中で高く評価され、その拡大が推奨された「斯民会」「報徳 社」は、報徳思想を基盤とする農業振興団体であったが、それはまた農民の意識の変 容こそがすべての改革の前提だという考え方であった。青年・婦人の団体や在郷軍 人会なども、教化団体的側面がひじょうに濃厚であった。

そういうわけで、政府がこうした諸団体を巧みに操作して国策遂行の道具として利 用したこと、また団体のリーダーや活動家がいろいろな工夫をして団体を運営したこ

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とについては、その知恵に注目すべき点は多々あったものの、それを「遺産」として 評価するわけにはいかなかった。権力によって支配され、戦争につっ走っていった 戦前の愚をくり返さないために、戦前の歴史から学ぶべきものは多いが、それらはや はり負の遺産である。われわれが正の遺産として学ぶべきものは、民衆・市民の思想 的自立・自覚を目ざしておこなわれた諸活動である。

『近代日本社会教育政策史』の執筆と同時に、筆者は上のような意味での正の遺産 の発見・発掘に努め、その成果を『近代日本社会教育史の研究』(法政大学出版局、

8年)の中に収載した。たとえば、大正時代から昭和初期にかけて、長野県を中心 としてその周辺諸県に迄拡がっていった「自由大学」の運動についての論稿である。

執筆当時、筆者はこの運動を近代日本の社会教育における最高の遺産だと考えてい た。また、それより以前、大学院時代の友人である木下春雄氏たちと共に、下伊那青 年運動史の調査をおこない、その成果を日本社会教育学会の研究大会で共同発表し 。これこそは、近代日本における自主的青年運動の最高峰だと評価したのであ る。

その後の長い研究歴の中で、近代の日本および英国の社会教育(成人教育)史の遺 産を発掘する努力をかさねて来た。国民・市民・民衆・労働者・農民・女性などの自 己形成の営みについて、事象と意義を明らかにしようとした。筆者が手がけたものは ごくわずかであるから、とりあげるべき遺産はなお多数であろう。各都道府県ごとの 教育史・社会教育史関連の著作も、筆者が目を通せたのは半分にも満たないと思われ 。市町村史のレベルまで行ったら、そこは未踏の沃野ということになる。齢すで に高く、研究生活もまさに終末期にある筆者がそこに挑戦するのは無理であるから、

これは後来の世代に託すしかない。ただ本稿において、できるだけ地方における社会 教育の遺産に注目しようとしてはいる。組織的な資料収集をしたわけではなく、偶然 目にした事例にすぎず、まさに管見そのものではあるが、地域への関心は明らかなス タンスである。

もうひとつ、筆者の現在の研究関心として、「近世」への注目がある。これまでの 筆者の研究は、「近代」に限定されていた。べつに「近代」こそが大切で、「前近代」

などどうでもよいなどと思っていたわけではない。時間がないのと、研究能力が低い ことで、近代だけで手一杯だったのである。しかし、近世に多くの宝が存在すること は、石川謙先生の諸業績や和辻哲郎の日本思想史研究、それに丸山真男の政治思想史

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研究をべっ見しても明らかであった。斯民会が体制イデオロギーの普及団体だったと しても、報徳思想そのものは大きな遺産である。近世日本の思想や民衆教化について の歴史研究に魅せられるところは深いが、これも余命の制約で本格的な仕事はできな いであろう。本稿では、石門心学と地方開発の事業についてささやかにふれている。

石川謙氏の克明な実証的研究を知る者として、まことにささやかなスケッチにすぎな いことを恥じるが、筆者の近世への関心抑えがたくてのメモ的記述である。

さて、このプロローグの文章の中で、地方史の遺産について二つとりあげておきた い。そのひとつは、筆者が東大退官後在勤した山梨県の例であり、もうひとつは筆者 がそこに生まれ、育ち、退官後帰住した長野県の例である。筆者にとって地縁の深 い、この両県から例を選んで紹介しようと思う。

山梨の例は、丹沢正作(16〜16)である。西八代郡上野村(現在、三珠町上 野)の小地主の家の三男として生まれ、東京専門学校法律科に学んだが、幸徳秋水ら に接近し、社会主義への志向を深めて、12年帰郷し、翌年役場の書記となった。上 野村信用組合・平民学校・夜学校(修道庵)・上野村小作組合・よろづ人生相談所な どをつくった。また、若い時からキリスト教の信者で、17年には役場の職員をやめ て、所属する市川教会の定住伝道師になった。それ以前、11年には市川教会の教職 試補に推され、上野村につくられた市川教会日曜学校の分校主任になっている。18年 には市川教会の日曜学校長に就いた。

9年から26年の死に至るまで、上野村の助役を勤め、このかん、父の死去により上 野信用組合長を後継し、翌年小作組合をつくって組合長となった。21年には村会議員 に当選したが、二期目は落選した。丹沢は、徳冨芦花・木下尚江・江渡狄嶺らと親交 があり、最初の妻とは芦花の媒酌で結婚し、再婚の相手になった女性は田中正造のも とにいたことがあり、木下の媒酌で結婚した。

丹沢を、社会教育の遺産としてとりあげるのは何故か。彼は、内務省主導の自治民 育、文部省・軍部主導の青年団などの施策に便乗して活躍したわけではない。社会主 義的傾向があって、かつクリスチャンなのだから、反体制的人物と見なされていたは ずである。こうした人物がいくら薄給にせよ、村役場の書記となり、7年間にわたっ て助役になったことが不審である。二回目の村議選で敗れたあたり、やはり村民の全 幅の信頼は得ていなかったのではなかろうか。村の職員としては政府や県の施策を受 け入れざるをえず、私的にあるいは民間の団体指導者として自分の理想をつらぬいた

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と思われる。キリスト教の熱心な布教者という側面は、宗教的教化として意味がない わけではないが、社会教育の遺産という観点からは、ひとまず措いておくべきであろ う。

信用組合あるいは小作人組合といった事業の組織及び運営にあたっては、説得や激 励や相談やの教育的努力が不可欠だったはずである。参加の動機は経済的利益が中心 であったろうが、丹沢としては貧しい小農が相互扶助・協同労働で支えあう愛の共同 体を目ざしていた。彼自身は組合のために献身的に働き、また組合の経営のために私 財を献げた。彼の私心なき熱誠は、人びとに大きな感銘を与え、人びとは彼を敬愛し た。つまり、彼は己の言行によって他者を感化したのである。こういう教育的影響力 こそ、社会教育ほんらいのあり方なのである。

人格的感化なくして、体制公認の教説を声高に唱えるのが、官製社会教育であっ た。キリスト教の伝道者としての丹沢は、訥弁ながら信仰告白をし、入信の勧めをお こなった。しかし農民指導者としての丹沢は、自らの言行・実践によって他者を導い た。しかし、ことが経済問題であるだけに、利害得失を超越することは困難であり、

組合の経営は困難を極めた。小作組合の組織化に当たって彼は、「相互の幸福を享有 し、自己を改造せん為めに道徳的同情を以て団結す」とか、「我々は自然と共に人類 生活の必需品を生成するの聖なる芸術家たるを自尊す」といった定款をつくった。修 養団体的な傾向が濃厚である。この点は、キリスト教社会主義者によって組織された 明治時代の初期労働組合や大正時代の友愛会と似かよっている。

丹沢のおこなっった諸事業のうち、教育そのものを主たる目標としたのは、平民学 校・夜学校であるが、これらはあまり組織的におこなわれたものではない。平民学校 は、日露戦争後の1(明治39)年4月につくられている。丹沢は日露戦争に反対で、

市川教会の幹部がすべて戦争賛成を唱える中、ひとり非戦論を主張して譲らなかっ た。ただ、牧師の白石喜之助のみは、非戦の立場にあった。丹沢はこうした孤立の中 にあって平民学校をつくった。その趣旨は、当今世の中の人間は「利巧者」ばかりで、

他人に奉仕・献身しようとする「人のお供をする人」がいないので、「マテの者」

「馬鹿人間」を育てたいというにあった。新聞に広告を出してくれる人があって、

五、六人の青年が集まった。読書・算術・修身(バイブル中心)と農作業が教育内容 であった。のちの塾風教育の先駆ともいえるであろう。

しかし、平民学校の校舎とした「山の家」には、結核患者の小林恒雄を10年に引

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きとっているから、平民学校の存続期間はそれほど長くはなかったであろう。小林は 国学院大学の苦学生であったが、学資に窮して退学しようとしたのを、丹沢が援助し て卒業させ、13年に山梨英和女学校の教員となった。それが結婚直後に結核とな り、妻にも去られて、けっきょく丹沢がひきとることになったのである。小林は5年 間の闘病後に死んだ。付き添いの看護婦も感染して死亡するということもあって、丹 沢は自分の世話がいきとどかなかったことを悔いた。

夜学校の方は、17年から12年ごろ迄、自宅で村の少年たちに英語などを教えた ものである。これはささやかな地域サービスであり、丹沢の社会教育実践として特筆 すべきものではない。彼の教育的影響というのは、やはり上述の小林恒雄への学費供 与や病気の世話、同様に上野村の青木折造が病気になったときの親身の看病など、病 める者、傷ついた者への献身的な奉仕の態度から生じたものである。貧者・病人のた めにはいつも財布の底をはたき、自らは粗衣粗食、文字どおりの茅屋に住んでいた

「聖者」のふるまいが、人びとから尊崇されたのである。これは社会教育の原点であ る。しかし、社会改革の方法として、これが正解であったか、信用組合・小作組合の 経営手法が妥当であったかは、なお検討を要する問題である。

長野県の例というのは、昭和初年に上田自由大学を受講した深町広子という女性の ことである。同大学は、11(大正10)年秋、長野県上田地方の有志青年たちと土 田杏村の発起によって始まり、新進の学者を招いて連続講演をおこなった。単発の講 演会ではなく、4日間から7日間(1回3時間)継続する講座だった点で画期的で あった。まさに「大学」の名に値する、質量ともに高い水準のものであり、学歴・性 別などにかかわらず何人にも門戸を開放していた点で、「自由」な大学であった。た だし、これは会員制によって維持されており、会費は1年につき12円であり、聴講料 は1講座3円であったから、会員・聴衆ともかなり裕福な人びとであった。土田の友 人の高倉輝が講師として来て、上田市郊外の別所温泉に住みつき、地域の人びとと交 流するようになり、とくに文学青年たちに影響を与えた。

深町広子は旧姓三井、15(明治38)年に小県郡殿城村の地主兼味噌醸造業の家の 長女に生まれた。兄と、弟妹2人がいた。かぞえで13歳のとき母を亡くしたが、上田 高女を卒業したあと、琴や和洋裁などを学んだ。女学校在学中、文学に関心を持ち、

高倉の作品も読んだことがある、という。自由大学は大正末にいったん中断される が、28(昭和3)年には石井清司・細田延一郎・猪坂直一・堀込義雄・山浦国久に

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よって再建された。深町は、兄の友人である山浦が掘込に深町の名をつたえたことに よると思われるが、自由大学の聴講を勧めるハガキを受けとった。深町は「ありがた い」こと、「うれしくて、わくわくするよう」な気持ちで参加した。「学問とか智識と か言う人生の道標になる大切な宝」を得るよい機会であり、一流の学者から親しく教 えてもらえることを期待しての出席であった。試験によって強制されない学習という のも、大いに気に入ったという。

夜間に開かれる自由大学への出席は家人にはないしょで、上田市内の親友(丸山千 恵子)の家から通ったが、丸山は同行しなかった。他に女性の受講者が来たらいっ しょに入場しようとしたが、けっきょく女性は深町ひとりであった。深町が参加した のは、30(昭和5)年1月の第2回講座で、安田徳太郎講師の「精神分析学」であっ た。その前年に行われた第2回講座(高倉「日本文学研究」)も受講したとされるが、

真偽のほどは確かではない。深町にとって、まわりの聴講者は「立派な青年ばかり」

で、「真面目な偉そうな人達」に見え、自分がひどくあわれに思われた、という。

安田の話はいちおう理解でき、質問時間には「講師のお話では、夢には色がないと いうことですが、私の夢には美しい色が見えますが」と質問し、「ああ、それは願望 の成就ですね」と答えてもらったことを、深町はその後も長く忘れなかった。また、

質問への回答の中で、「左翼小児病」ということばを安田が使い、深町がその意味を

「学識の高そうな青年」にたずねると、彼は笑いとばしてろくに説明してくれなかっ た。聴講者たちが講師の話をよく理解している様子を、深町は羨ましく思った。深町 は高倉を訪ねて、知識のない自分はどう勉強してゆけばよいかを尋ねた。高倉は、「人 生って長いものだ、勉強しましょ」と答え、読むべき本を推奨した。そうした本を理 解するのは容易でなく、深町はくりかえし読んでようやくわかった。

深町は、自由大学へ行ったことが、「私にとって一生を左右すること」になったと 回想し、「生きて行く世の中で何が正しいか勉強して知る必要」がわかったと述べて いる。しかし、それは自由大学の講義で知ったというより、高倉輝との交流の中で認 識しえたことであろう。無知を自覚した深町は、書くことよりも読むことに努めた が、それでも自稿の批評を高倉に頼んだりした。30年に女子青年会の幹部講習会が別 所の常楽寺で開かれたさい、担当の役人が出張のため不在だったことを利して、一同 で高倉を訪問し、話を聞いた。テーマは「ブハーリン・スターリン ABC」だったと いうが、このことの責任をとって深町は女子青年会を脱した。もう25歳になっていた

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ので、青年会にはいられなかったであろう。

3年2月、いわゆる「教員赤化事件」の際に高倉も検挙され、深町は連座しなかっ たが、なにかと白い眼で見られたことであろう。この年、深町は上田の市内に洋裁店 を出したが、短歌雑誌『紅潮』に関係し、上田短歌会にも出席している。これ以前、

高倉の紹介で『婦人文芸』に投稿し、『女性』『女性改造』『婦人公論』『婦人界』

などの諸誌を読んでいた。

4年、上田短歌会で知り合った深町英夫と共に上京し、同棲した。英夫は、11年 生まれで広子より6歳の齢下、小県蚕業学校卒業後、蚕業取締所で働いていたとき、

同僚のアララギ派歌人との交流があり、『中央公論』や『改造』を借覧するとともに、

歌にも興味を持った。31年、小作争議に参加したというかどで職を失い、やがて広子 と知り合ったのである。二人は英子の叔母から60円借りて上京し、広子は蒲田の洋裁 店に勤めた。高倉は34年に長野刑務所を保釈で出て、翌年には大磯に住むようになっ た。高倉と広子のあいだの交流が始まり、広子はプロレタリア文学運動にかかわりを 持つようになった。『上毛文学』『地方文学』のグループに参加したことで、38年1 月に同人が検挙されると、広子夫妻も拘束されたが、不起訴となった。これより先、

広子は高倉の紹介で、神近市子の主宰する『婦人文芸』に、三篇の小説を寄稿してい る。

0年、高倉の司会のもと深町英夫と三井広子は正式に結婚し、翌年には長男が生ま れたが、英夫の母が43年に死去し、父親が残されたことから、深町夫婦は上田に帰郷 し、44年には英夫が召集を受けた。戦後、46年には上田市のメーデーで演説したり、

『神科時報』に「産児制限」論を載せたりした。49年には、地もとの公民館に児童文 庫を設けるよう尽力した。85年、兄が82歳で亡くなったころから、広子も病気で入退 院をくりかえしたが、作歌にはげみ、87年に82歳で死去した。

広子は、高倉輝の文筆上の弟子ということになるだろうが、戦前プロレタリア作家 として活躍したわけでもなく、また戦後文学運動で名をあげたのでもない。左翼政治 運動で頭角をあらわしたこともない、どちらかといえば、進歩的ではあるがふつうの 婦人のひとりということになろう。自由大学運動が生んだ傑出した人物という評価に はならないが、それでも田舎の前近代的秩序の中に埋没して生きるのではなく、自我 をつらぬいてあえて荊のみちを歩み、反体制的に生きた女性として、やはり自由大学 の趣旨が実を結んだ「女の一生」であった。このような人物は、近代日本の社会教育

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の遺産として、十分評価に値するであろう。

《注》

1 「数種の荒蕪の内、心田荒蕪の損、国家の為に大なり、次に田畑山林の荒蕪なり。 」

( 『二宮翁夜話』巻之三) 。1 8世紀から1 9世紀初頭にかけて、農民の労働意欲の減退、

精神的荒廃がいちじるしく、精神復興が荒村復興の鍵であった。しかし、精神荒廃の 原因は苛酷な年貢取り立てと大凶作、飢饉などであり、尊徳はそのことを認識してい た。だから彼の復興プランはまず減税からスタートした(奈良本辰也校訂『二宮尊徳』

日本思想体系5 2、岩波書店、1 9 7 3年、1 7 3、1 9 0ページ) 。

2 蓮沼門三『永遠の遍歴』修養団、1 9 5 6年。千葉耕堂『無我愛運動史概観』無我愛運動 史料編纂会、1 9 7 0年。

3 「下伊那青年運動史研究」 〈日本社会教育学会編『社会教育行政の理論』東洋館出版、

1 9 6 1年〉 。

4 「天皇制教育体制の確立と社会教育」 〈碓井正久編『日本社会教育発達史』亜紀書房、

1 9 8 0年〉 。

5 清水威『山の先生・丹沢正作』山梨ふるさと文庫、1 9 8 5年。

6 上原民恵『深町広子と上田自由大学』上田小県近現代史研究会ブックレット NO. 1、

1 9 9 5年。本稿のあとの方(6. 農民自治会の運動と学習活動)で出てくる小山敬吾は、

当時野沢中学を出て大里小学校の代用教員をしていたが、上田自由大学にかよったと いう。自由大学の蒔いた種は、いろいろな場所で芽を出し、育ったのであろう(安田 常雄『日本ファシズムと民衆運動』れんが書房新社、1 9 7 9年、3 1ページ) 。

2.近世における治水と新田開発

1 地に生きる人びとの営み

近世、つまり前近代の社会にあって、庶民すなわち民衆のほとんどは、農業をなり わいとしていた。農民が、その社会を支える基本的な階層であった。士農工商という 序列においては、士に次ぐ第二身分に位置づけられていたが、その実質は士によって 支配され、抑圧されつづけた存在であった。

士によって過酷に搾取された農民であったが、両者の利益が一致することもあっ た。農産物の生産量が増大すれば、当局への貢納は増大するし、農民の保有できる分

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も多くなる。生産量をふやすための直接的に有効な方法は、耕地をふやすことであ る。つまり、新田開発策である。徳川幕府も各藩も、新田開発をさかんに奨励した。

開発に当たっては、当局が主導して民間を動員するばあいもあったが、民間のがわの イニシャティブでことが進み、当局はこれに資金援助をおこなうという例が多かっ 。開発に成功したばあい、当事者に新田の一部を与えたり、士分への取り立てを おこなったりすることもしばしばあった。

しかし、開発の申請を当局がなかなか認めないとか、進行が遅れると懲罰したりす るとかなど、官の姿勢は民衆の福利を第一とするものではなかった。こういう抑圧 的・官僚的態度は、封建権力というものの本性である。

さて、新田開発に当たって不可欠なのは、水利の確保である。もちろん水田を造る のは大変な労力を必要とする難作業である。山間の傾斜地であれば、坂の下側に石垣 を積み上げ、上方の土を掘って下方を埋め、水平の農地をつくらねばならない。基底 部に石を詰め、その上に水が浸透しないような性質の土を敷き、さらにその上に耕土 を盛るのである。こういう作業をすべて人力でおこなうのであるから、村民が結(ゆ い、協同作業)で一枚一枚つくりあげていったことであろう。

田ん圃づくりと共に、ばあいによってはそれ以上に大変だったのが、水路づくりで あった。本流から堰を引いてきて、それぞれの田に水を供給するように設計するのだ が、測量の機器もない時代のことだから、水路の勾配をつけるのも容易なことではな かった。夜間、近い距離では線香の光を、遠い距離は提灯の光で測ったといわれる。

村内にそういう技能を持った者がいなければ、他村から招聘しなければならないこと もあったろう。技能の所有者は、村民から尊重され、優遇されたにちがいない。その ことが、技能を学び、身につけようとする動機づけになったはずである。

新田開発を発起する人びと、つまり、治者階級の武士や民間有志の連中は、無学の 輩ではなかった。中には、一代で財を成した商人が、さらなる巨利を得ようとして投 資したばあいや、地域の名主層が名声や地位を狙ってことを起こしたばあいもあっ た。けれども、私利私益を目的とせず、民福のために家財を投げ出すことを吝まな かった篤志家も少なくなかったのである。

作業に当たった人夫には、農民が動員されるのがふつうであったが、彼らには賃料 が支払われた。機械ではなく、人力がすべてであった時代、費用の多くが労賃に当て られたのであった。その点、当時の土木工事のほうが、巨額の費用のほとんどがゼネ

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コンに吸い上げられてしまう、こんにちの公共事業よりも、地もとの住民を潤してい たといえるであろう。

土木事業には、新田のための水路づくりの他に、水利の良くない旧田地帯に水を引 くための工事、海浜地帯での干拓、灌漑用池沼の設置、洪水を防ぐための川堤づくり や水路の変更、道路・橋梁の新設や改修、港湾の開設や拡充、植林などのさまざまな ものがあった。これらを遂行するには、莫大な費用と労働力を必要としたが、他に技 術水準が求められたし、経営・労務管理のリーダーシップが不可欠であった。労賃が 支払われていたとはいえ、危険できびしい労働に従事するのであるから、人夫のモ ラールを高めるための手だてを講じなければならなかった。

こうして、それ自体は殖産興業のための経済的営為としての土木事業には、学習や 教育にかかわるような側面が随伴していた。残念なことに、それについての詳細を知 りうるような資料には接しない。そもそも、事業それ自体の事績さえ遺されていない ばあいが多いのである。わずかに頌徳の石碑が建てられてよすがとなっていても、碑 銘が刻まれていないので、経緯を知る由もない。

しかし、こうした石碑と共に口碑・伝承があって、それらは後人の意識形成に一定 の役割を果たしたはずである。此の地にかつて義人存し、一身を犠牲にしても公益の ために尽くしたということが、後の世の人びとをえ、励ましたのである。そうした 事績を探訪し、記録して顕賞に努めたある人物は、それらに「人類としての日本人の 可能性」を見いだそうとした。彼は、馬上に采配を振って権力を戦い取った武門の 棟梁ではなく、地に鍬をうち込んで民生の充実・向上のために尽力した人びとの跡を 求めた。ある大名に二人の娘があって、ひとりは幕府の将軍の妻となり、他のひとり は南海の孤島の領主の妻となった。後者は、夫が死んでから藩政を指導し、地域の復 興に功をとげた。著者が景仰するのは、もちろん後者のほうである。古人が大地を開 拓した跡を、今人もまた踏み行くことを彼は奨めている。時移り、世相はすっかり変 わってしまった現代において、はたしてそれは可能なのであろうか。

2 水利の開掘

播磨の「加古用水」は、聖徳太子の創始と伝承されている。ことの真偽はともかく、

きわめて古い時代につくられたことを示すものであろう。加古川の水を取り入れて、

三里半を流れ、60余町を潤した。この用水があってさえ、承応三年の大旱には惨害

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を蒙り、庄屋らが姫路藩に願い出て疏水工事を起こし、人夫の延人員16万4千人、1 年で完成した。

「難波の堀江」で海に通じる水路をつくったのは、仁徳天皇の業績とされている。

この帝はほかに「茨田の堤」や池などもつくっている。こうした工事には秦人が用い られている。外国の先進技術を導入することで可能になった大事業として、歴史にと どめられたのであろう。

近世になってからの大規模な水利事業は、江戸開府による関東平野でおこなわれ た。対象は名だたる阪東太郎の利根川である。関八州の治水に貢献したのは、代官 だった伊奈家の忠次・忠治・忠勝の三代である。忠次こと備前守の名に由来する「備 前堀」が武蔵・常陸にあり、前者は本庄から妻沼迄、利根川から引いた用水で、後者 は千波沼の水を引いて二流としたものである。忠次はこの他にも利根川の流れを変え る工事にかかわり、その子半十郎忠治がそれを修正して自然の流れに戻した。彼はま た江戸川を改修し、荒川の水を入間川に入れて隅田川の水量をふやした。その子の半 左衛門忠勝は、葛西用水などを作って浸水地域への対策に努めた。三代の事業は試行 錯誤もあり、水路変更によって迷惑を蒙った地域も生じたので、功ばかりではない が、彼らの努力によって武蔵の石数は倍増した、といわれる。

陸奥の南部藩士、新渡戸伝は、三本木原を開墾すべく、奥入瀬川などの川から長い 用水堀で水を引いた。これはトンネルを穿っての難工事であり、3万4千両を費や し、伝の子十次郎が受け継いでようやく完成させた。十次郎はその後、野辺地以南の 広い原野を開拓したり、新しい航路を開こうとして成らず、座敷牢に入れられて死ん だ。

民間篤志家による用水開拓の例は、各地にいくらでもある。例えば、有名な箱根の 疎水は、駿東郡の深良村の名主によって発起され、江戸浅草の商人3人が金主となっ た。経費8千両、3年弱をかけて竣工し、富士南麓の村むらを潤した。

男鹿半島の鳥居長根原を開拓したのは、佐竹藩の足軽とその甥の鍛冶屋であった。

寒風山の麓にある滝の頭を水源をする用水を引くことを郡奉行に請願し、難工事を克 服して2年余で完工した。しかし、家老の中にこの事業を忌む者があり、事業は中止 を命じられた。他の家老にすがることで事業は成功し、鍛冶職は士分に取り立てら れ、以後藩の勧業方面に尽力するようになった。

甲州では、吉田口の近くの新倉にひとりの医師がいて、文化・文政のころ河口湖か

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らの用水の整備・拡張をおこない、水の便を良くした。彼は子息と共に旧い水路をさ らったり、新しく水路を開いたりした。それによって、この高地の水田をふやすこと ができた。

信州では、松代西南の諸村が旱ばつに悩んでいたが、森村の農民たちが主唱し、真 田候の援助によって文政年間に千曲川の水を引いた。

美濃恵那郡の付知村でも、ひとりの村民の努力によって、文政年間に用水が設けら れ、50町余の水田を拡張している。

飛騨の関は刀鍛冶の町として著名であるが、このあたりの水田に水を供給している 曾代用水は、寛文年間ここに住んでいた尾州浪人の兄弟が、土地の有力者と協力して 郡上川の水を引いたものである。難しい工事で、兄の方の浪人は死に、弟は失踪して しまった。土地の人びとが困難を克服してようやく成功し、0余町の良田を開いた。

発企者3人の遺徳をしのぶ神社が、下有知にあるという。

越後高田の近くの川浦村で、関川の水を引いて水利を改善したのは、同村の名主で ある。上手の村むらが水利権を主張して反対するので、当局は初めこの工事を許さな かった。名主は屈することなく請願をつづけ、ついに許可を得て着工した。工費4千 両のほとんどを負担し、近郷30余村がその恩恵を蒙った。彼には苗字帯刀が許されて いる。

京都の伏見近在の草内村飯岡では、明和年間に用水を引いたが、これを発企した一 住民は、難工事で予定以上の費用がかかったことと、他村からの抗議があったことな どで、村から追放されてしまった。のち、彼の恩を知った村人によって呼び返され、

用水の堤には記念碑が建てられた。伏見奉行の許可を得ての着工であったが、事業発 起者というのはそうしたリスクを背負ってことに当たったのである。

3 治水の事業

暴れ川の洪水を防止し、農地・農家をまもる治水の事業は、住民にとっても領主に とっても大切なことであった。名君と称された治者は、住民と協力して川を制御し、

住民の能動的対応をひき出した人びとである。その点、甲斐の武田信玄は代表的な統 治者であった。

甲府の西には、「信玄堤」と称せられる富士川の堤がある。信玄自らのアイデアで 築かれたものと伝えられるが、官民が協力して長い期間をかけて造営したものの一部

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であろう。

なにしろ、「延喜式」のような古書にさえ、「甲斐国堤防」の費用の件が出てくると いうくらい、治水の必要に迫られた地域なのである。上記、信玄堤は天文11年の治水 の善後策として造られたのが始めだといわれる。本堤に笹を植えて地盤を強固ならし め、かつ岸から河心に向けて斜行する石垣をいくつも突き出し、水勢を弱めつつ流下 させる工夫が施されている。こうした工法上の工夫と共に、信玄は沿岸の住民の夫役 を免じ、治水の「御奉公」に専念させるようにした。

信玄は、竜王より北の釜無川(富士川上流)に南アルプスから直流する御勅使川の 水路を北方につけかえた。それ迄の川筋では、まっすぐ竜王に向かって水が突進して くるので、同地が洪水に襲われやすく、ひいては甲府に迄迫って来るのを嫌ったので ある。北に曲げることで水勢も弱まる利点があった。竜王といい、釜無川と御勅使川 の合流点の竜岡村といい、水神や洪水にちなむ地名である。

信玄のえらさは、水のコントロールに貢献する山林の保護に力を入れたことであ る。彼は入会山の制度を設け、山に近くない村の住民にも山を利用する便宜を与え、

また「山口衆」という山をまもる役目の人びとを山麓に置いた。

甲府の北の積翠寺から流れ出る渓流は、甲府の東部を流れて汚水を合わせ、濁川に なる。この川の水が溢れて人びとは苦しみ、東南の村むらの農民は離散してしまうほ どであった。元禄のころ、代官桜井が甲府の富商山口の協力を得て川をさらい、長い 堤をつくった。こうして洪水は防がれ、村人は「桜井明神」「山口霊神」を祀って恩 を謝したという。山口とは、芭蕉の俳友だった素堂のことである。

富士川下流は駿河に出るが、その沿岸に位置する村むらは古くから洪水になやまさ れた。富士郡岩松村の富士川左岸の「雁堤」は、元和7年から正保2年にかけて、代 官によって造られたものである。堤には遊水池や、甲州流の「附出し」が設けられて いた。この堤のおかげで、13の新田が開かれ、その石高は10余石にのぼった。

その20年後、安政元年と同2年の大地震で、富士川右岸は隆起し、逆に左岸が低 くなり、ために翌3年川水の氾濫で村むらは泥土の中に消滅した。幕府の命令で左岸 に堤を築き直し、離散していた百姓が戻れるようにしたので、これを「帰郷堤」と称 するという。この工事でも、甲州流の治水技術である「亀甲出し」が設けられた。

この時代よりもふるく、今川氏親・義元父子の治世に、沼津東部へ伊豆三島の水を 引く「千貫樋」がつくられた。これを開いたのは臨済寺の僧で、今川義元の後見役で

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あった。今川氏が北條氏と元文15年に和睦したことで、この事業が可能になった、と いう。

木曽川の治水にかかわって、公儀普請を命ぜられた薩摩藩の悲劇は、よく知られて いる。木曽川と他の川の合流点を中心に、これだけの大河を統制するのは容易なこと ではなかった。藩は家老の平田一個の責任で借金をし、宝暦5年の春ついに完成し た。平田以下切腹して責を負う者数十名、病死者を合わせて藩士の犠牲者は82名に及 んだとう。

信濃川の洪水は、とくに下流沿岸の人びとにとっては、しばしば訪れる大きな災害 であった。治水には、幕府や領主たちも大いに努力したが、なかなか功をあげえな かった。信濃川と阿賀野川とのあいだに水路を通じたり、湖沼の水を信濃川に落とし たりと、さまざまな工夫をおこなった。川の沿岸の田は泥田で、農民は足をとられて 作業の効率が悪く、また生産性も低かった。

岡山藩の熊沢蕃山は、藩の殖産を指導したことで有名であるが、水利、治水にも努 力して、旭川を治め、笹瀬川の川ざらえをおこなった。また旱ばつに備えて大きな溜 池をつくった。植林に努めたことはもちろんである。彼は木のない山にはまず種を まき、鳥がこれをついばみに集まり、木の実をも食べることで雑木山ができたのに手 を加えて良い山林とした。山林が良ければ洪水は起きないことを信じていたのであ る。彼には、淀川の治水について、洪水時に川となる水路を設けることや、琵琶湖の 水を北国筋に流すといった奇抜なアイデアがあった。

土佐藩で殖産のことに当たったのは、野中兼山である。彼は、仁淀川の水を分けて 新川をつくったが、これは治水よりも利水を目的とするものであったろう。他にも、

物部川の水を引いての鏡野の開拓のほか、いくつかの築港をおこない、新しい物産を つくり出しもした。しかし、彼の事業の「やり過ぎ」をとがめられ、職からしりぞけ られて自刄した。彼の子女も迫害を受け、家は断絶してしまった。

治水というような大事業になると、幕府や藩の仕事になる。なかなか民間の力では 対応できない。九州の筑後川の治水に当たったのは、佐賀藩の家臣、成富兵庫であ る。彼は、野原に水を引いて水田をつくる仕事を、いくつかの場所で実現した。肥後 益城郡廻江で、浜戸川の治水に勤めたのは、同地の総庄屋であったが、その家は室町 時代迄さかのぼると領主だったという。この人物は、藩から資金をもらって海面の干 拓をおこない、70町歩をつくり出した。彼はのちに神として祀られている。

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武蔵の幸手で、寛政のころ名主を勤めていた人が、権現堂川の氾濫を防ぐことしば しばであった。このあたりは利根川の洪水によって田畑が荒らされたが、彼は人びと を励まして農地に復原させた。より安全な地域に農民を移住させ、新しい村を興すこ ともやっている。

武蔵國比企郡川島郷は、荒川・人間川・越辺川・槻川などにとり囲まれた地形であ り、かねて水害に悩まされていたが、寛永年間に荒川の瀬替がおこなわれたのちは、

とくにひどくなった。文政6・7年、天保11年、弘化2年と、あちらこちらの堤が切 れて43カ村が水没した。名主たちは領主に治水を乞い、郡奉行が事業を陣頭指揮し、

延人夫17万人、資金2千5百両を費やして、弘化3年春長い堤防が築かれた。これは 官民が密接に協力して治水の大事業を完成したものであり、まさに済民の功をあげた のである。

4 近世における地域づくり

封建制というのは、領主や武士層が支配者として権力をふるい、民衆を抑圧する制 度であって、そこには民主主義も人権も存在しなかったというふうに考えるのが一般 的であろう。なにしろ、戦後の日本では「民主化」が目標とされ、封建制というのは 悪だとされた。保守的だとみなされる人物や勢力に対しては、「封建的」という罵倒 が浴びせられた。時代劇に出て来る代官は、例外なく悪役で、私利私欲で行動する輩 として描かれた。前近代社会はつねに暗黒のイメージであった。

しかし、領主であれ代官であれ、水利・治水や道路づくりや殖産に努めた人びとは 少なくなかった。もちろん、それは支配層の取り分をふやす目的であって、民生・民 福のためではなかったろう。しかし、両者に共通し、共有できる価値もあった訳で、

両者が協力しあえる事業はいくらでもあった。

伊達政宗は、戦争における猛将だっただけではなく、水利・殖産のことにも熱心で あった。波風を避けて舟行できるように、太平洋岸に沿って水路を掘った。政宗自身 が指揮して成ったので、「貞山堀」と呼ばれる。また、家臣に命じて仙台に「四谷用 水」を設けた。これは、治水・水利の二つを兼ねたもので、民生に大いにプラスとなっ た。

水戸藩の名君、光圀は、常陸の海に貝類や昆布を増殖し、内陸に牧を開き、下総の 小金などに松を植えた。学問奨励についてはよく知られている。

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幕府の天領の代官としては、天明年間に美作・備中を治めた早川八郎左衛門は、用 水堀をつくり、棄て児を禁じ、学校を建てるなど、業績いちじるしく、神として祀ら れた。

京都町奉行所与力であった石黒三十郎は、元文・寛保のころ畿内に起きた洪水に対 して的確な対策を講じ、その能力を認めた所司代が老中に就任したとき、石黒を抜て きして勘定所に勤めさせた。のち、彼は、信濃の代官になったが、凶作で人びとが餓 えようとしたとき、幕府の許可をまたず救済の措置をおこなった。彼の願いは幕府か ら拒否され、彼は責任をとって腹を切った。このように、一身を犠牲にしても民の困 窮を救った地方官がいたのである。

名主・里正クラスの義人は、枚挙にいとまがない。上述でそのいく人かに触れた が、少し補っておくと、伊勢の津藩で、津の中央を流れる川をさらって水害を防ぎ、

かつ40余町の新田を拓いたのは、松本安親という人で、水利のことに通じていたとこ ろから起用されたのである。彼は川の抜本的改修をおこない、その功で庄屋に任ぜら れた。彼は洪水による廃村の復興に努めて実績をあげた。豊後大分郡津原がもと水の 便が悪く、旱ばつに苦しんでいたことの対策として、元禄時代に大竜用水をつくった のは、工藤三助という村人で、大庄屋も彼を援助した。工藤もまたのちに大庄屋とな り、新たに用水を掘ることを計画した。5里の用水のほとんどは他藩の土地を通るの で、彼は猟師や行商人に変装して測量に当たらねばならなかった。当局の許可はなか なかおりなかったが、不屈の精神でことに当たり、ついに普請奉行に任ぜられた。起 工しても、水源から下の一里の工事が進まず、工藤は一時自殺しようと思った。岩の 上で薪を燃やし、そのあと水をかけて割るという工法でようやく成功した。工藤はそ の工法を夢で不動明王から学んだとして、不動岩と名づけた。彼はその用水をさらに 拡充しようとしたが、成功しなかった。13歳から98歳迄の85年間、終始水関係の仕事 に従事したといわれる。

名主などの役職を持たぬ民間有志もまた、数多く存在した。伯耆国片柴村の一農民 は、享和のころ水車を起こして村人を益し、文化9年から文政6年にかけての18年間 で、小鹿村を開墾した。その用水堀は3里30町におよんだ。この農民はそれほど富ん ではいなかったようで、他の村民を説得して協同の事業を起こすのに苦労した。名主 や富商による新田開発のパターンに比べると、ほるかに困難な条件のもとでの事業で あった。新田の村民たちがのちに彼を祀ったのは、彼や開拓者の苦労を熟知していた

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からであろう。

出雲国神戸郡の荒木村は、西に海を控えて、冬季には風が砂をまきあげて来るの で、人が住みつける場所ではなかった。一農民が長い年月をかけて海辺に松を植えつ づけ、その成長を待って、廷宝5年ここに家を移した。ついで他の人びとに勧めて移 住させた。水利が無かったので、斐伊川の水を引き、村はその後大きく発展した。そ れ迄何度も開墾が試みられながら成功しなかった土地を、ひとりの農民の努力によっ て人の住める場所に変えたのである。その驚くべき根気づよさは、土に生きる百姓独 特の美風であった。

因幡国八頭の郡家は、もと水利の悪い土地であった。文政年間ここに広く土地を持 つ富人がいて、70歳になってから「一生の思い出」に水路をつくることを思い立っ た。4年間をかけて、八東川からの水道長さ2里28丁、幅3〜8尺、深さ4尺〜11丈、

トンネル10間を成功させた。人夫は延25万7千4百人に及んだ。もちろん独力では なく、他の人たちの協力を得てのことであったが、入費の7万2千2百20両のうち、

3万余両は彼が自分の田地その他を抵当にして借り入れたものである。この用水に よって、新田30町、旧田の20町が恩恵を受けた。工成ってまもなく彼は病み、死ん だが、「身代の傾いたのを憂うるな。手もとに残った田畑を耕し、用水の手入れを怠 るな」というのが遺言であった。

これはまさに志士・仁人というべき人物である。かような人材が全国各地に存在し ていたであろう。公共のために私財をなげうつことを吝まぬ行為は、いかなる意識に よってなされたのであろうか。村落に住む農民の共同体意識がそれだということにな るだろうが、共通の利益を獲得できることが見やすかったからというだけではなく、

つよい倫理意識が存在していたことがうかがわれる。

いったい、それはどのようにして養われたものであろうか。野中兼山や熊沢蕃山の ような著名の士については、その学問や思想に関する解明がおこなわれている。兼山 ははじめ禅を学んだが、中老の小倉政平の紹介によって、当時の新儒学である朱子学 を知り、長浜真常寺で朱子学を講じていた谷時中の門に入った。政平の子、三省は同 門の先輩であり年長であったが、兼山のもとで改革のことに従った。兼山は朱子学を 藩学の中心とし、これにもとづいて藩政を推進しようとした。いわゆる「南学」の理 念を厳格に実践しようとしたのであるが、その手法が急進的・独断的で妥協を排する こと激しかったために、政敵が結集して彼を倒し、彼の藩政はまったく否定されてし

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まった。

熊沢蕃山は、若いとき朱子の『四書集注』を読んで感銘を受けたが、のち中江藤樹 に入門しようとしてことわられ、軒下に二夜をすごし、藤樹の母のとりなしでようや く入門できた話は有名である。27歳にして旧主、池田光政に再仕し、その「聖学」(心 学・藤樹学・陽明学)は藩政の基軸にすえられた。彼の藩政改革も急進的で非協調的 であり、ために独善的と非難されもした。それは陽明学(心学)の知行合一論に根ざ すものでもあろうが、彼の烈しい性格によるところが大であったろう。この点、陽明 学とは対立的な朱子学の学徒であった兼山と、よく似た個性であったように思われ る。

公益の事業を推進した諸侯や代官の中には深い学識を有し、それを支えにして政策 を立て、実践した人びとも当然いただろう。名主の中にも、好学の徒はいたにちがい ない。武蔵国琴寄村の名主、小林正平は、天保2年の飢饉のさいに人びとに食物を提 供したり、天保9年には古利根の堤防を大改修し、新たに用水を導くなどして人びと の福利に貢献したが、彼は若くして亀田鵬斉に学び、わざわざ京都迄行って山陽に 師事したりした。

武蔵国川越藩宮前村の鈴木家は代々名主であったが、五代目は寛政・文化年間に伊 勢参宮の折、水車による潅漑の知識を得て、それを郷土で築造した。六代目は医術を 施し、和歌をたしなみ、読み書きを教えた。七代目は弘化年間に荒川堤防の大改修に 参画して功績をあげた。彼の教養の程度は不明だが、この村を含む川島郷には、元川 越藩士でこの地に移り、50年間に文武の門人5百余人を教えたという渡辺近作や、の ちには市川米菴門下の田中三興、あるいは石黒張斉といった学者たちが郷党の子弟を 育成した。七代目は自分の長男(八代目、庸行)を石黒の門に入れたくらいだから、

これらの学者たちと親交があったにちがいない。

庸行は子どもの時から優しく穏やかな性格で、学究肌であった。青年時代から神経 衰弱に苦しみ、農事に従えないので子どもたちを教え、維新後には名主役に就くと共 に、郷学所の助教に任ぜられた。実質的にはそこの校長であり、新しい行政組織では 戸長となった。のちには比企・横見の郡長に任じられ、最後には高等官六等・従六位 にもなった。彼は神経を病みつつも職務に精励し、水防、県道の開設、殖産興業に奔 走した。

庸行は朱子学の教えを遵守し、その孝心の篤さは親を泣かすほどだったといい、性

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格は几帳面で、30歳迄は酒杯をとらなかった。役所の人びとが遊興に出かけるさい は、会費を出すが同行はしなかった。名主役に就任したころ、松山での宴席でにがに がしいことがあり、また藩の上役に対する接待にいかがわしいこともあって、それを いとわしく思っていたようである。その反面、近くに病人が出れば自ら看病し、癩病 の患者の世話もした。彼には4子があったが、独り息子は彼よりも早く死没するな ど、家庭的には必ずしも恵まれなかった。しかし、何があっても顔色を変えたことが ないというほど、沈着自制の人だった彼は、まさに儒学の行者であった。

江戸時代の官・民にわたる先覚者の事績を見るとき、私心なく公益の増進に努力し た群像に接して、近代化の達成されたこんにちの社会において、人材は公私共に乏し く、人心はかえって腐敗しているようにさえ思われる。「公共事業」といわれるもの が、しばしば公共の福利に貢献せず、かえってマイナスになるようなかたちでおこな われている。それは政・官・財癒着の材料となり、地方の人々を潤さない。大規模な 工事によって自然を破壊し、環境をそこなってしまう。国も地方も財政難が窮まって 破産状態だというのに、なお国公債を発行して不急不要の大型施設を建造しようとす る。兼山や蕃山をして現代にあらしめば、はたして彼らは積極財政論者・公共事業拡 張派になったであろうか。彼らは、民生にたしかに貢献すると確信できるものを選ん で、事業を推進したのである。

私事にわたることとて記述するにためらいはあるが、実は筆者がそこに生まれ、現 在居住している信州諏訪の集落は、寛永19(12)年に諏訪藩から新田開拓を許可さ れている。江戸時代に同藩内でつくられた新田は70に及んだというが、廃村や合併 に至ったものもあり、この村の開発は江戸時代初期の新田開発ブームの中でのことで ある。当初の開発事業に従事し、藩から免許屋敷を与えられたのは、5家のいわゆる

「草分け」であった。以来、営々として山峡に新しい田をつくり、次第に人口もふえ て、幕末には約21戸に及んだ。新田開発には水利が不可欠であるが、霧ヶ峯から流れ 出る角間川が谷の底部を流れているので、堰の取水口は川のかなり上部に設けねばな らず、したがって水路も長くならざるをえず、このメインテナンスには多大の労力を 要した。幸い諏訪には、坂本養川という用水路開堀の専門家が出て、八ヶ岳南麓に多 数の堰を構築し、同地の水利を改善した。坂本は寛政12年に角間川揚堰をつくって いる。坂本が活躍したのは幕末に近いが、この時期に角間新田集落の用水路も整備さ れたのであろう。

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筆者はこの集落で戦前に少年時代を過ごしたが、そのころから戦後しばらくのあい だ、そこは純農村であり、農民たちは堰の保全に熱心であった。その作業のために「出 払い」と称する夫役が課され、また水神祭が執行された。その後、この集落が上諏訪 町のベッドタウン化して、サラリーマンを主体とする住民が増大すると、堰は道路拡 幅のために暗渠となり、下水道化した。かつては小石ひとつ投げ込むことさえきびし く禁ぜられた川である。

開拓者やその後継者たちが血と汗でつくりあげた田圃は、県や市に売却されて住宅 団地になった。いくつかの堰に水を供給していた角間川は、治水対策として拡幅さ れ、三面コンクリート張りになって自然河川は死んだ。かつての渓谷美を知り、そこ に川魚を追って楽しんだ筆者にとって、この変化は痛恨に耐えない。川の両岸を削り 取って得た土は、水田の埋め立てに使われ、谷間の農地はほとんど潰されてしまっ た。これが国費60億円以上を投入しておこなわれたナショナル・プロジェクトであ る。

かつてこの地域の開発を推進し、自然破壊の元凶とみなされた元市長は、のちに勲 三等の叙勳にあずかった。一地方小都市の首長として異例の栄誉だといわれた。道路 拡幅の功労を頌える石碑がつくられている。上記国家プロジェクトを地もとに引っ 張ってきた功績で、衆議院議員某氏が揮毫した治水碑が、村の神社の境内に建てられ ている。そのかみの新田開発に貢献した先達たちの頌徳碑と、こんにちの公共事業記 念碑とは決して同質ではあるまい。彼は民生福利の増進に貢献し、これは自然の破壊 に公費を濫費したというのは、いささか酷な偏見ではあろうが、かの清流と人情を恋 う者としては、近代の行政と技術のもたらしたものについて、索漠・荒涼たる心境に ならざるをえないのである。

《注》

1 新田を新たに開発するのは江戸時代初期〜中期に多く、このばあいは幕府・藩からの 資金援助は多くなかった。後期・幕末には重課によって百姓の生活が成り立たず、逃 散・廃家のため耕地が荒蕪したので、尊徳はそれの再開墾( 「荒地起し返し」 )を復興 仕法の基礎にしたのである(前掲、奈良本辰也編『二宮尊徳』「仕法四種」5 0〜1 2 0ペー ジ) 。ただし、尊徳は日光神領荒地起し返しを命ぜられたとき、 「我本願は、人々の心 の田の荒蕪を開拓して、天授の善種、仁義礼智を培養して、善種を収穫し、又蒔返し 蒔返して、国家に善種を蒔弘るにあり。……夫我道は、人々の心の荒蕪を開くを本意

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