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工部美術学校における彫刻教育の研究(1) 金子 一夫*・伊沢のぞみ**

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茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)42号(1993)107−126      107

工部美術学校における彫刻教育の研究(1)

金子 一夫*・伊沢のぞみ**

(1992年10月7日受理)

On a Sculpture Instruction in the Art School of the Imperial College of Engineering:Part l

Kazuo KANEKo*and Nozomi IzAwA**

(Received October 7,1992)

1.緒  言

近代日本における西洋彫刻の導入は明治九年設置の工部美術学校彫刻学科の教育によって始まっ た。そこには近代化と西洋化という二つの問題が重なっている。工部美術学校彫刻学科の設置は,

賎業とされた彫り物や左官仕事という概念しかなかったところに,近代国家に必要な技術としての 彫刻という概念をもたらそうとするものであった。それは同時に教育方法としても従来の徒弟教育 から学校教育へという大きな転換を含むものであった。彫り物から近代彫刻へ,徒弟教育から学校 教育へという転換はどちらも近代化という範疇で表すことができるであろう。また西洋彫刻の感覚 と技術はそれまでの日本の彫り物のそれとはずいぶんかけ離れている。工部美術学校生徒が西洋彫 刻の感覚と技術とを修得しようとしたのである。それは西洋化という範疇で表すことができる。工 部美術学校彫刻学科は立体表現の近代化と西洋化を同時に達成しようとした美術教育の一大実験で あった。もちろんそれは画学科においても似たような事情であった。

さらに近代化に関して言えば,日本の西洋彫刻は明治後期に荻原守衛らによって個人の芸術へと 飛躍するが,彫り物から一挙に個人の芸術としての彫刻に飛躍したのではない。その前に国家有用 の技術としての彫刻の時代があったのである。その意味で前段階を形づくった工部美術学校彫刻学 科の教育がいかなるものであったかを知ることは必要である。

近代日本彫刻教育の歴史研究はほとんどない。それ以前に近代日本彫刻史の研究も,近年出版さ れた中村傳三郎r明治の彫塑』(文彩社,1991年)以外あまりない。それゆえ近代日本彫刻教育史が ほとんど研究されていないのも当然かもしれない。その意味でも,ささやかながら本研究の意義も

あろう。

*茨城大学教育学部美術科教育研究室(〒310 水戸市文京2丁目1−1).

**?骭ァ立水戸養護学校(〒310 水戸市吉沢町3979).

(2)

2.工部美術学校の設置

明治8年4月20日付けで工部卿伊藤博文は太政大臣三条実美に,工学寮で美術教育をするために 画学,家屋装飾術及び彫像術の教師を雇いたい,イタリアが美術に優れているので同国公使(ア レッサンドロ・フェ)に相談し三名の教師を一年一万円以内で三年間雇入れることを同国に申し入 れたいという内容の伺書を提出した。それには「副申」及び「覚書」がつけられていた。覚書中の 最初にある教育内容に関する部分を以下に引用する1)。

「方今欧州二存スル如キ是等ノ技術ヲ日本二採取セント欲スルニ今其生徒タルモノ曽テ是等ノ 術ヲ全ク知ラサルモノナレバ之力師タル者バー科ノ学術ノ者ヨリハ却テ普通ノモノヲ得ンコト

ヲ欲ス此故二専業ノモノハ現今此学校ノ希望スル所二適セズ唯是等ノ技術ノ諸分課ヲ教導スル ヲ得ベキモノヲ要スルナリ

仮令ハ画術二於テハ地形及画像等ノミナラス図引蚊絵ノ具混合方,遠景図及rアート・オフ・

ポジション』画ノ位置ヲ定ムルノ術等ヲ以テ生徒ヲ教導スルヲ要ス家屋装飾術二就テハ諸般ノ 造営装飾及彫嵌二用ユル大理石等ノ彫刻術モ亦之ヲ伝ヘシメ又彫像術二在テハ人形ノ偶像及板 面ノ小像遊禽獣・虫魚・花実等ヲ彫刻スルノ術ヲ教授セシメント欲スルナリ」

あまり専門的ではなく,初歩から全般的な内容を教えられる教師がよいという考えが見られる。

基礎のないところに移植しようとするのであるから,そうでないとうまくいかないと思ったのであ ろう。西洋彫像術に関しては全くそうである。ただ西洋画学に関しては不十分ながら,幕末からの 研究の蓄積があったとは言える。

この伺書は5月7日付けで認可され,イタリア政府に三人の美術家の推薦を依頼した。そしてイ タリア政府から画学教師としてフォソタネージ,家屋装飾教師としてカペレッティ,彫像術教師と してラグーザの三人が推薦された。ローマで三人と日本政府との間に契約が結ばれ,明治9年8月 29日正式契約発効となった2)。契約には年限が工部卿に面会した日より三年間と記されているの で,三人とも8月中に来日したと思われる。r工部省第二回報告書』(明治九年七月ヨリ/明治十年 六月)には「同廿九日伊国人ホンタ子ジーヲ画学教師二同国人ラクザヒンセンソヲ彫刻教師二同国 人カツベレチーヲ造家教師トシテ三ヶ年大学校へ雇入其月給ハ各金弐百七拾七円七拾五銭ツ玉ヲ與 フ」とある。大学校へ雇入れとあるのは報告書がまとめられたのが,明治十年六月以降で,その時 は既に美術学校が大学校附属の形になっていたからと思われる。

三人のイタリア人教師が来日してから約二ヶ月後の明治9年11月6日工部省工学寮管轄の美術学 校が設置された。具体的にはこの日に美術学校諸規則が定められ頒布されたのである3)。約二ヶ月 の間にイタリア人教師とカリキュラムや教室設備等に関して簡単な打ち合わせが行われたと思われ る。この最初の規則書は発見されていないが,r工部省 美術(自明治九年/至明治十五年)』(国立 公文書館所蔵)の記述からすると,9年中に追加された彫刻学生官費扱い,女子生徒及び一週三回 生の部分,そして10年6月に改定された学課区分とを除き,現存する10年6月改定のr工部美術学 校諸規則』と大差ないものと想像される。

r工部省 美術(自明治九年/至明治十五年)』(大政紀要)には設置理由を「本校ハ欧州近世ノ 技術ヲ以テ我国旧来ノ職風ヲ(ニカ?引用者註)移シ百工ノ補助ト為サント欲ス而シテ生徒ノ技術 秘奥ヲ解得ルハ多年ノ後ヲ期ス故二初メ専ラ之ヲ教授セントス」と説明している。また10年6月改

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金子・伊沢:工部美術学校における彫刻教育の研究(1)      109

定規則の「学校の目的」には次のように書かれてある。

一 美術学校ハ欧州近世ノ技術ヲ以テ我日本国旧来ノ職風二移シ百工ノ補助トナサンカ為二設ケ ルモノナリ

一 故二先ツ生徒ヲシテ美術ノ要理ヲ知テ之ヲ実地二施行スルコトヲ教へ漸ヲ逐フテ吾邦美術ノ 短所ヲ補ヒ新二真写ノ風ヲ講究シテ欧州ノ優等ナル美術学校ト同等ノ地位二達セシメントス

これらの文面には百工すなわち工芸,工業,建築等多くの実業の補助としての美術という考え と,とにかく早く技術を修得し実践応用できるようにしたいという考えが見て取れる。工学寮は非 常に実践的な教育をしたところであるが,美術学校に関しても強い実践的性格をもたせようとした。

徐々にヨーロッパのアカデミーと同じような地位にするという大きな希望も表明されている。

その他規則の主な内容を挙げる。入学資格が十五歳以上三十歳以下,最初の六ケ月間が仮入学の 試生で,其の間に進歩が見られた場合正式の入学生になる,学費は月二円。教場を二区に分け,第 一区が「既二稽日本風ノ技術二得ル所アリテ専ラ実地修業ヲ望ム者ノ教場」で最低三年間,第二区 が「論理実地共新二修業ヲ望ム者ノ教場」で最低六年間の就学が条件である。学課は画学(油画)

と彫刻学の二つである。ここで規則中に建築装飾関係の学課がないのに気づく。

美術学校の入学試験は明治9年11月13日に行われた。そして同月21日には画学と彫刻学の教場が 開かれ4),その後合格者が入学した5)。美術学校は最初工部省構内の旧鍋島藩邸の日本屋敷にあった

という6)。旧鍋島屋敷の工部省の場所は当時の地図で調べると赤坂区葵町である。工学寮そのもの,

つまり後の工部大学校は麹町区三年町いわゆる虎ノ門の旧延岡藩邸にあった。赤坂区葵町の工部省 構内には明治7年2月に工学寮小学校も設置されていたが,10年6月に廃止された7>。

美術学校の最初の入学者は周知のように画学の方には志願者が数十名あり合格者も多かったが,

彫刻学の方は職工風の者が数名入学しただけであった。そこで同月25日彫刻学の生徒を官費生にす ることが決定されるわけである。この彫刻学科をめぐる状況に関しては次節で検討する。12月14日 女子生徒も入学させること,及び一週三回生も入学させることが規則に追加された8)。

明治10年1月11日官制改革によって工部省の諸寮が廃止され,旧製作寮と旧工学寮は新設の工作 局の管轄となった。工学寮の中に大学校という名称は前からあったのであるが,旧工学寮は工部大 学校と称すようになり,美術学校はそこに属する形になった9)。美術学校は工作局美術校と称した

らしい。さらに同年6月3日美術学校諸規則が改定された。これ以後工部美術学校と称したとされ °)。改定の要点はそれまでの学課二課制を改め,予科,画学科,彫刻学科の三科制にしたことであ る11)。それまでも教場の第二区の方は六ヶ年で,予科的内容を含んでいたと想像されるのであるが,

改定はそこに予科と専門科という明確な区切りを入れたのだと思われる。

村田哲朗氏そして尾埼尚文氏はこの改定が最初の構想からの後退を決定的にしたのではないかと 示唆している 2)。つまり造家学教師としてカペレヅティが最初から雇われるが,美術学校に建築装 飾関係の学課は設置されず,カペレッティも教師として参加していたのかどうか明かではない。と

ころがこの改定で建築装飾関係学課の設置を明確にあきらめ,予科を設置しカペレッティをその担 当にしたというわけである。そこには西南戦争以後の財政事情の悪化や,イギリス中心の工部省御 雇外国人の事情などがあるのであろう。

明治11年1月25日美術学校は工部省構内旧鉱山・営繕局の建物に移った。寺内信一によればこれ

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は霊南坂下に木造西洋館ができて,そ アへ鉱山局が移転したので,旧鉱山局 フ建物全体に美術学校が移った。この 訣z山局は工部省敷地の角にある二階

     & 

冝コ〕難一一

@   学 ム  堀一

建てペンキ塗りの建物であったという。

yンキ塗りであれば木造建築であろう。

スだし彫刻学科は大型の石膏像があっ

校口

@堀

慧臣

4池メタ

たので,旧鉱山局と工部省表門の間に 彫刻 美学 術校

赤坂

久保町通 この新しく美術学校となった二つの建

ィとも場所は現在の虎ノ門病院敷地の

工部省

北隣あたりにあたる。寺内のノートに

?チた位置図をトレースしておこう。

需坂 琵見

明治17年7月作成の「五千分一東京

図測量原図」(日本地図センター,昭

和59年複製)には建物配置が示されて     第1図寺内信一「虎ノ門付近図」

いる。寺内のメモから判断すると工部        原図を左に倒して引用者がトレースしたもの 省敷地の北東角にあるのが旧鉱山局の

工部美術学校画学科等棟と思われる。明治17年当時は電信修技校となっている。その道沿い北にあ る正方形に近い建物が彫刻学科棟であろう。従来工部美術学校とされる写真ぱ4),形から彫刻学科 棟と推測される。工部省解体後,敷地建物は海軍省になったが,美術学校の建物のその後は明かで       一

ヘない。

池        堀

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ノσ工@ 纏 美二p階

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1「

第2図 寺内信一「(工部美術学校位置図)」

原図をそのままトレースしたもの

(5)

金子・伊沢:工部美術学校における彫刻教育の研究(1)      111

第3図  「五千分一東京図測量原図」中の工部省付近

また工部美術学校の予科の授業は工部大学校生徒館の建物で行われたとされる。工部大学校がそ の後工科大学となり,さらに本郷に移転した後,この建物は私立東京女学館の校舎として関東大震 災の時まで使われた。この建物で彫刻科の授業が行われた可能性もある15)。

工部美術学校全体を西洋建築で新築する構想があり,フォンタネージはその図面を作っていたと 言われるが16),彫刻学科棟を新築したことは,その構想がなくなったことを意味するのであろう。

画学科はこの後にフォンタネージの辞職とその後任教師をめぐる騒動が起こることになる。先の美 術学校新築構想がつぶれたこともフォンタネージ辞職の一因であると言われる。しかし仮住まいで ない建物が決まったことで,少なくとも彫刻学科に関しては軌道に乗ったと言えるであろう。

3.ラグーザの任命

彫刻学教師となったラグーザ(Vincenzo Ragusa,1841−1927)は,イタリア政府が行った日本派遣 彫刻教師選抜美術競技会に首席合格して来日した人である1η。来日当時は三十五歳であった。ラ グーザはイタリアのシチリア島パレルモ市近郊に生まれた。少年時代に宗教画家バトリコーロに素 描,パレルモの牙彫家に馨の使用法等を学んだ。1860年ガリバルディの愛国義勇軍に参加し各地で 戦った後,1864年故郷に帰った。親の反対はあったが彫刻家になる希望抑え難く,ヌンツィオ・モ レルロ経営の塑像学校へ入学した。同時に午後はサルヴァトーレ・ロ・フォルテに古典彫刻の素描 を,夜はアカデミア・デル・ヌードに学ぶという勉強ぶりであった。1872年ミラノで開かれた全イ タリア美術展覧会に装飾暖炉を出品し,最高賞を受けた。これによってラグーザの名が知られるよ うになった。その後ミラノ等でたくさんの作品を作った18)。そして前述の日本派遣彫刻教師選抜美 術競技会に参加したのである。正式にアカデミーに学んだわけではないが,このように評価された

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一一メ難ご戦灘麟1灘諜垂       懸譲難     ことからわかるように,当時の彫刻はまだまだ建築と強い絆      ・ζ

滋      賜歎    をもっていた。

1 慧難騰 一マで騰府と交わした契約書のう騰の部分には

搬肇糾髪甜灘灘驚毒鷲1幣潔糞

響 野 醜識 シ」とあ肌そのあまりに簡単納容であるのは・躰政

@   、恥♂府は彫刻教育の方法がどのようなものであるのか明徹イ

@  ー醜ダ蒔識ヱ繍輪雛羅猫易諜灘      

第4図 ラグーザ肖像写真   花ノ彫刻/造家学二用ユル動物彫刻/肖像彫刻」とある。こ

(佐野昭旧蔵)     れも非常に簡単な規定である。「造家学二用ユル動物彫刻」

はカペレッティとの関係で最初の美術学校諸規則にもあった かどうかは微妙である。いずれにせよ日本側に彫刻教育の明確なイメージがなかったのであるか

ら,西洋彫刻の専門家として彫刻教育のカリキュラムをラグーザが責任をもって決めて行ったこと は間違いない。

4.彫刻学をとりまく状況

明治9年度の内容を記したr工部省第二回報告書』は美術学校彫刻学科の最初の様子と官費化の 事情を次のように記している。

1廿五日美術学中彫刻学ノ部ニハ職工体ノモノ僅二数名就業スルノミニシテ且学則ノー斑ヲ窺 フニ過キス更二奮励自費シテ修学ス可キノ気風ナシ元来我邦ノ彫鎮ナルモノハ概子雇職ノ賎事 二属シ絶テ措紳貴族ノ之ヲ学ヒ以テ身ヲ立テ名ヲ顕スノ技芸ト為サス其風尚維新ノ今日二存シ 欧州近世彫刻学ト錐トモ其人世二稗益アルコトハ凡庸人民ノ了知スル所ニアラス故二今般特二 此学科ヲ設ケ之力囑矢トセンカ為メ彫刻学生二限リ官費ヲ以テ就学セシム」(合字は開いて引

用した)

つまり彫刻学科には職人風の数名が入学しただけで,志気にも乏しかった。日本では彫刻は賎業 で紳士貴族のする高等な技芸とはされなかった。維新後の今日でもその風があり,彫刻が社会に有 用であることを人民は知らない。そこで彫刻を移植するために官費就学としたというのである。具 体的には月二円の学費を納めなくてもよいとした。これによって彫刻学に入学する生徒が多くなっ たらしい。

以上のことから彫刻科に入学した生徒の大部分は西洋彫刻について知らなかったし,最初から学 びたいと思ったわけではなかったことになる。大熊氏広,藤田文蔵,寺内信一等は西洋画志望で

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金子・伊沢:工部美術学校における彫刻教育の研究(1)      ll3

あったことが知られている2°)。官費なので彫刻に転向したと思われる。また佐野昭は人に紹介され て画家だと思ってラグーザに就くことにしたが,就いてみると彫刻家であったので彫刻を学ぶ事に した21>。個人の好き嫌いではなく,時代の要請に従うのも当時の人の倫理であったかもしれない。

彫刻学科の教育は以上のような状況下で始まる。当然社会は彫刻学の教育が何を目的にしている のか理解しない。彫刻学科生徒の一人であった菊地鋳太郎の回想は次のように記す22)。

「当時は未だ社会一般に彫刻家の存在すら認めていなかったばかりではなく,そんな白ろい

(石膏の事)人形や首を作って何にする?など玉云った風で,冷淡寧ろ笑止の沙汰であった。

してまた鋳物師の技術や人格が低かつた為に,吾々の製作をブロンズにするのは実に面倒なも

のであった。」

菊地の回想には当時の人々の職人に対する意識もうかがえる。江戸時代後期の仏像彫刻や神社の 宮彫りは数としては隆盛ではあったが,質的には低調であった。そして職人の仕事であるため名人 技が評判になることはあっても,彫刻に類する活動そのものが尊敬されることはなかった。絵画も

文人画を除いてあまり尊敬されなかったが,学者や武士も描くことはあったので,かろうじて精神       

I価値をもった技とされた。しかし彫刻は絵画よりずっと低く見られ,士族のする技ではなかった。

この傾向は明治になっても続いていた。

また西洋画そのものやそれに関する情報は,江戸時代中期からわずかながらも日本に入ってき て,西洋画研究の伝統が形成されていた。それに対して西洋彫刻は日本に入ってきて西洋彫刻に関 する人々の概念や感覚を馴れさせておくことがなかった。万延遣米使節であった村垣淡路守範正の r遣米使日記』のアメリカ大統領官邸の様子を描写した一節に「所々の鴨居に白石をもて造たる首 あり,代々の大統領の首なるよし,我国の刑罰場に見しにひとし」とある23)。つまり打首獄門のよう な生々しい感じがしたということである。仏像や人形の首だけ,それも写実的な首を見るという伝 統はなかったのであるから,そう見えたのも無理のないところであろう。日本人にとって西洋彫刻 はおそらく陰気臭い,気味の悪いものに見えたのである。西洋の彫刻は公共建築や広場に置かれる 世俗的な像として絵画以上に公共的性格をもって発達してきた。日本ではそのようなことはなかっ たのである。

日本における西洋彫刻は西洋画に比べて決定的に研究が出遅れたのであった。明治初期に西洋画 を勉強してみようかという人は少なからずいたのに,西洋彫刻に興味をもつ人はほとんどいなかっ たのではないかと思われる。以上のようなことが最初工部美術学校彫刻学科に入学する人がほとん

どいなかった理由であろう。

西洋画と西洋彫刻の導入にこのような差がでてくるのは,前述の理由の他に彫刻そのものがわか りにくいということもあるのではないかと思われる。彫刻を志す人がたくさん出てきたのは第二次 大戦後のことで,戦前はいつも少なかったのは確かである。例えば昭和9年に東京美術学校彫刻科 に入学した船越保武の回想では,同年の彫刻科の入学試験は定員15名のところ17名の受験者しかな

く,落ちた2名も石膏像の首から下をねじ曲げて無理に木炭紙に収めたり,その場にない石膏像を 記憶で描いたりして落ちざるを得ないような素描を描いた人だったということである24)。船越の美 術学校の同級には佐藤忠良や井出則雄等がいた優秀な学年ではあったが,その基礎集団である彫刻 を志す人口はこのようなものであった。昭和9年の段階でもこのような状態であったことは,彫刻 の需要が少なかったという経済的背景もあろうが,彫刻というものが日本人にわかりにくい性質を

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もっているのではないかと思えてくるのである25)。

5.予科の教育

工部美術学校の教育内容は資料が少ないこともあって,まだ十分に解明されていない。当時の記 録や生徒の回想から彫刻学科の教育内容と教育方法を再構成してみよう。

全体的なカリキュラムの構成は,各年度のr工部省報告(年報)』および「大政紀要」にある「生 徒進歩表」から推定することができる。そして各生徒の履修状況も知ることができる。ただし開校 から明治10年6月までの約半年間と,明治11年度すなわち明治11年7月から12年6月までの「進歩 表」は見ることができなかった。この二期間は混乱期であったのでまとめられなかったのかもしれ ない。「予科学生進歩表」は明治10年度しかなかった。この「予科学生進歩表」と各年度の「彫刻学

科生徒進歩表」から作成した「彫刻学科生徒履修過程表」を掲げておく。11年度の内容が前後の関       b

Wから推定できる場合は,推定した内容を記入した。

先ず予科について検討する。明治10年度の「予科学生進歩表」と「彫刻生進歩表」を見るとわか るように,予科と彫刻学との両方に所属している生徒が十人もいる。純粋に彫刻学の生徒は六人な ので,それよりも多い。予科の年限は規則にないが,予科が終わらなければ専門科に進めないこと は規則にある。しかし同年度中に予科と彫刻科に所属したことが,彫刻学と予科の同時履修なの か,予科が短期間で終わって彫刻学科に年度内に進んだことを意味するのかはっきりしない。画学 科と予科の両方に同年度中に所属した生徒はいないので,以上は彫刻学科に関する特別の措置では ないかと思われる。なお後に彫刻学科に進むことになる予科学生は七人,後に画学科に進む予科学 生は八人である。

・後に画学に進む予科学生

金沢正次,永井直福,川路新吉郎,竹下富次郎,岩澤光耀,市川力蔵,松室重剛,大串貞一,

曽山幸彦

・後に彫刻学に進む予科学生

田中紗太郎,堀通名,大島久,木村定太郎,寺内信一,村田敬二郎,栗原辰五郎

・予科と同時に彫刻学にも属した生徒

白野陽三,榊原忠,廣田駒二郎,田中文蔵,杉山知正,菊地鋳太郎,大沢濱二郎,布施忠吉,

池田松太郎,村上恒

カペレッティが受け持った予科の授業は画学,彫刻学の生徒が同教室で受けたらしい26)。同じ内 容であったなら,その方が合理的であろう。予科の教室は前述のように工部大学校生徒館にあった

らしい。

予科のカリキュラムは予科だけに所属している生徒と彫刻学にも所属した生徒とでは若干違いが ある。共通して幾何学,プロジェクション,幾何法飾,造家図,論理影法,実地影法,論理実地遠 近法を履修する。線画飾,上等飾画は予科だけに所属している彫刻志望の生徒が学んだように見え る。彫刻学科所属の予科生はそれらの科目を彫刻学科で履修しているために予科では履修しないの であろう。後に彫刻学へ進むことになるが,まだ純粋に予科生の田中鋤太郎,堀通名,寺内信一等

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金子・伊沢:工部美術学校における彫刻教育の研究(1)      115

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第5図 明治十七年七月ヨリ十一年六月迄予科学生進歩表

(10)

はそれらを履修している。また水画(水彩画のことであろう)は後に画学科に進んだ予科生だけが 履修している。予科の段階でも画学科生徒と彫刻学科生徒の区分がはっきりしていたことが推測さ れる。そして彫刻志望の予科生も官費生であったと思われる。

予科は図学と言われることもあり,図法や製図に関する内容を中心に教授した。ルネサンス以来 の絵画・彫刻の科学的基礎を形づくっているのが,これらの科目であろう。現在の美術教育とずい ぶん違うが,これが当時の正統的な美術教育の初歩であった。

6.彫刻学科の教育

予科に所属していない,明治10年度の純粋に彫刻学に所属している生徒は,小栗令裕,大熊氏 廣,近藤由一,小林栄次郎,山口直昭,小林保三の六人である。小栗,大熊は明治9年中の入学が はっきりしているし,小林保三,山口直昭も明治9年前半に彰技堂に学んでいるので同年中の入学 であろう。ほかの二人も明治10年6月以前に入学していたと思われる。ただ経歴からするとこれら の生徒は最初の「職工体ノモノ」ではないであろう。

彫刻学のカリキュラムは大きくわけて画と彫刻との二領域からなる。画は,おそらく素描と思わ れるが,初歩画,飾物画,獣類画,人物画へと進む。彫刻は石膏井士製飾物,石膏製上等飾物,石 膏製獣類,石膏製風景額類,同人物,大理石彫刻初歩飾物へと進む。生徒の進歩状況に応じて履修 科目が違っている。一等級生の平均的な履修過程は以下のようなものであろう。画学初歩は最初の 9か10年度中に終了,飾物画と獣類画は9か10年度に始まり11か12年度中に終了,人物画は9か10 年度に始まり五,六年間ずっと学び最終年度に終了した。石膏井土製飾物は9か10年度中に始まり 同年中に終了した。石膏製上等飾物は9か10年度に始まり四,五年間学び13年度中に終了,石膏製 風景額も同様であるが遅れて始める者もいた。石膏製獣類と石膏製人物とは9か10年度に始まり 五,六年間学んで最終年度に終了したが,獣類は遅れて始める者もいた。大理石彫刻飾物初歩は13 年度から始まり14年度中に終了したが,下等生の中には最終年度に始まり,かつ終了した生徒もい るので,この科目は急いで終わりにした感じもある。以上を見ると画が終わってから彫刻に進むの ではなく,同時並行的に進むことがわかる。また人物画,石膏製獣類,石膏製人物は長く履修され ていて,最も力が注がれている科目であるように見える。

履修過程表を丁寧にみるとわかるように,終了と記された次の学年に就業中となっている場合が ある。これは再履修なのか誤記入なのかはわからない。遅れて入学したと思われる生徒たちの履修 過程を見ると,人物画を除き画は何とか14年度までに終了しているが,彫刻の方は石膏井土製飾物 を除き14年度でも終了していない者が多い。ただ本多澤二,田中乙五郎,奥村太郎の三人は短期間 の履修で終了している。そのせいであろう,彼らは後に見るように先に入学していた生徒を追い越

して第二等卒業になった。

彫刻学科はずっとラグーザ中心に教授が続けられた。ラグーザは日本で比較的順調に制作と教育 をする事が出来たのであろう。明治11年9月の工部美術学校行啓の際にラグーザの作品「待つ間」

が御目に留められたので献上され,さらに「ナポレオンー世像」制作の下命を受けて制作納品して いる。さらに明治天皇に拝謁し,宮内省から皇居造営に伴う玉座,階段,玄関の装飾を依頼されて

参照

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