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近代日本彫刻についての一考察 : 西洋彫刻の移入を中心として

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(1)Title. 近代日本彫刻についての一考察 : 西洋彫刻の移入を中心として. Author(s). 峯田, 敏郎. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 20(1): 56-71. Issue Date. 1969-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4594. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 20 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 4年7月 昭和4. 近代日本彫刻についての一考察 --西洋 彫刻の移入を中 心と して--. 峯. 田. 敏. 郎. 北海道教育大学岩見沢分校美術研究室. Toshi tudy of Modem Japanes e Sculpture ro M工NBTA; A S. f vvestern Sculpture-- th Pr ior i --wi ty Gi ven to the lntroduction o. 次. 目 序 1 明治彫刻界の歴史 紅 西洋彫刻に対する明治. 彫刻界の反応 皿 新海竹太郎と荻原守衛 結. 序. 現代に於ける日本彫刻界の展開を考える時, 明治維新を境と した西洋彫刻 の移入をぬきに考え :は出来ない, 過去に秀れ た伝統を有 していた日本彫刻界も江戸時代にはすでに消滅し, いた る事. ずらに過去の技法や形式のみに 追従 していた, そのような状態の中に入り込んだ西洋彫刻に対 し. I本の彫刻を再び生 て,当時の彫刻家達は どう対処 した のであろうか. 混乱の中から, E .み出すため 一世紀を経た現在冷静 にその歩みを振り返り, にどのように行動 したのだろうか, 維新からすでに. その功罪を考えて見る必要 があろう. そ して明治後半の西洋彫刻の普及に大きな役割を果 した新 海竹太郎・荻原守衛について, 彼等の西洋彫刻に対する態度及び作品等, 再考 してみたい, 1. 明治彫刻界の歴史. 1868) から1 明治元年 ( 5年 (1882 ) まで ; 江戸時代か ら明治1藤代に移り変っ た当初, 日本彫刻. 界には, 彫刻と言えるようなものは全くなかっ たと言っても良い. あえて彫刻と名付けるならば 木彫 (宮彫師, 仏師) , 根付師, 雛師等の工芸化 した細工物が, わ ずかに過去の日本彫刻の流れと. して残されていた, それ らは作品と して の創造性や芸術性を有するものと してよりは, 彫刻技法 のみを活用 した類型図案の彫り出 しによる装飾用細工品や置物であり 彫刻界にと ってはまさに暗. 黒の世界であっ た, そのような状態の中に, 突然溢れるばかりの西洋文化が 流れ込み同時に新政 府の革新的意欲は各方面に様々な変革を要求 し, その結果各フ戸面で悲劇, 喜劇の 一幕を演じて し. ま っ た, 日本美術史上忘れる事の出来ない事件の 一つ, 腕仏鞍釈もその良い 例であっ た, 伝統破. :の彫刻界の反省だけにとどま らず, 日本古来の美 壊と新時代の確立と言う表面的な革新は, 当時 術品を破壊し, 更には大量に海外に流れ去って しまっ ている. このような混乱期の中で, パ トロ ー 56 -.

(3) . 近代日本彫刻についての一考察. ソから解雇された彫刻家は, 実に悲惨な生活を強い られる事となっ た. 明治初期の, この彫刻家 達の作品 はほとん ど外人向きの工芸品であり, 生活を守るための技術販売であっ た, 例を挙げれ ば乗合舟・鳥追い・猿廻し等の象牙彫の小品である,「外人向 きの輸出的な工芸品は次第にその隆. 盛を見るに至るの であるが, 木彫を主とした作家は失業転落に陥り, 一部 は牙彫り風俗人形等の 制作に生活の道を求 めている. 従 って当時を代表する彫刻家は少なく, 仏師と して高村東雲, 牙 彫, 旭玉山,石川光明, 及び牙彫か ら木彫に転じた竹 内久一等が挙げられる, これ らの作家は明. 治1 2年頃から起る反 欧化, 国粋主義と相まっ て, 竜池 会, 東京彫工会の系列に至る, 所でこの流 れとは全く独立 して, 別個の彫刻界が誕生した, 187 6)11月, 工部省管轄になる工部大学附属美術学校が設立さ れた, 画学, 彫刻学 明治9年 ( の 2 学 科 で, 教 師 はイ タ リ ア よ り 招 略 さ れ た ラ グー ザ (彫 刻) ・ フ ォ ソタ ネ ー ジ (絵 画) ・ カ ペ. ルチ (装飾図 案) である. 彫刻学科の設置により初 めて西洋彫刻が移入され, 形式化 し技巧的な 職人芸となっ ていた彫刻界に, 新たな空気を送り込む 事になっ た, 彫刻学科卒業生, 第一等卒業. (修業年数と 学力とに従い 等級をつけている) 大熊氏広, 外2名. 第二等卒業, 藤田女蔵・菊地 鋳太郎, 外7名, 第三等卒業, 八杉敬次郎, 外7名, 計20名である, その他, 学校外でラグーザ に師事した小倉惣次郎がいる. しか し, 洋風 彫刻家と して長く活躍 した人は少なく, 塑造家とし て大熊氏 広・藤田女蔵, 大理石作家と して小倉惣次郎の3名であっ た. 工部大学美術学校は, 開 設後わずか 7年で姿を消す事にな るがその功績は大きく, 特に後年日本彫刻界に大きな影響を与. えた, 外遊彫刻家達の活躍する土 台を作っ た事は見逃せない, 叉現実的には記念銅像の建設等も 挙げられる. 7) 政府は美術・工芸の発達及 び奨励を期 して博 覧会の開催に踏み切り, 東京 に 明治10年 (187. 於いて第1回内国勧業博覧会が開催された, 出品者, 高村東雲・旭玉山, その他. 竜紋賞 (最高 賞) 旭玉山 「牙彫霧酸」 ・高村東雲 「白衣観音」, この時の様子は, 職人育ちであっ た作家達にと 出し っ て博覧会と 言う主旨が判 らず, 政府は前年頃より勧誘員を作っ て勧誘し作家には補助金を て開催にこ ぎつけたと言う, 出品作品は木彫, 牙彫の小品の類で輸 出品そ のま う概念には及 びもつかないものであった事が想像出来る.. であり,彫刻と言. 8) 8月, フェノ ロサの来日と共に国粋運動 が勃興 した (国内でもすでにその動 明治11年 (187 ) 5月, 祭品古玉以下31部目につき所蔵, 人名, 品目等を官 きが見 られていた, 明治4年 (1871 庁に届出させ, 叉オーストラリアで開催された万国博覧会に古美術品を出品, 外国人の間に異常 879) 竜池会が組織さ れた, 古美術の尊重, 反欧化主義と共に の称賛を与えている) , 明治12年 (1 輸出工芸品の振 興も同時にうたっ ている, 石川光明・旭玉山等 が会員と して加わ っ た.. 80) 第1回観古美術展覧会 (農商務省博物局主催) が開催, 我が国古美術の鑑賞 明治13年 (18 及び国 産の美術工芸品を奨励する企業 的な面をもっ た運動であった,. 1) 第2回観古美術展覧会は竜池会に引き継がれ, 以後竜池会が開催する事とな 188 明治14年 ( が妙技二等貫を受けた, った, 第2回内国勧業博覧会が開催され石川光明 「魚藍観音」 (牙彫) 1882) 2月 第3回観古美術展 覧 一方彫刻に関する研究会と して彫刻競技会が開かれた. 翌15年 (. 会開催. 6月, 工部大学美術 学校彫刻学科廃止, 洋風 彫刻家の教育は一時閉 鎖される事となっ た. 88 4) 鑑画会 (フェノロサ・岡倉天心) 1897) まで: 明治17年 (1 1883) から30年 ( 明治16年 ( 8 85) 第6回観古美術展覧会は 「考古利今」 の趣旨をもって新作を加え, 高 の開設. 明治18年 (1 村光雲 「蝦暮仏人」 (木彫) が三等賞を得た. 8 86) 4月, フ ェノ ロサ・岡倉天心は 外遊中の浜尾親と共に美術教育施設調査の任 明治19年 (1 - 57 -.

(4) . 峯. 田. を受けて出張, 翌年10月12日3名共に帰国.11月 家が中心であっ た.. 郎. 敏. 彫刻競技会は東京彫工会と改称, 会員は牙彫. 明治20年 (1887) 竜池会は日本美術協会と改め, 同時に観古美術展覧会は廃止となっ た, 10月. 4日. 勅令により東京美術学校の設置が発表された, イ タリアで西洋彫刻を修めた長沼守敬が帰 国した ( 14年渡欧). 明治21年 ( 1888) 第1回彫刻競技展覧会を上野で開催 した. 明治22年 (1889) 2月 1日. 東京美術学校の開校式が行なわれた, 彫刻科は伝統的な木彫を主 と し, 石川光明・竹内久一・高村光雲等が教授となっ た. 5月 明治美術会 (反国粋運動) が 結 成された, 洋画を中心と したが洋風彫刻 (長沼守敬) も含まれた. 日本美術協会展に於いて高村 光雲 「鶏置物」(木彫) が金牌授賞, 石川光明 「烏骨鶏巻貰入」(牙彫) が銀牌授賞とな っ た,. 明治23年 (1890) フラ ンス万国博覧会に於いて石川光明 「萱菜達暦」 が銀賞とな っ た, 第3回 内国勧業博覧会に於いて山田鬼斉 「護良親王 馬上像」 (木彫) が妙技二等賞を受けた, 明治24年 (1891) 明治美術会に洋画・洋風彫刻の教場が開かれ長沼守敬が教授に当っ た. 明治26年 (1 893) シカ ゴ万国博覧会に竹内久一 「伎芸天像」(木彫) , 石川光明 「浮彫白衣観音. 像」(木彫) が出品された,. 明治31年 (1898) から4 1898) 7月 19 5年 ( 12) まで ; 明治31年 (. 東京美術学校彫刻科に洋. 風彫刻が加わり, 長沼守敬が教授マニ任ぜられた, 7月 7 日, 岡倉天心は橋本雅邦等と共に日本美 術院を開き, 彫刻部正員と して新海竹太 郎 等 が 推 された, 翌32年 (1899) 9月 東京美術学校 彫刻科の洋風彫刻が独立し, 木彫科と塑造料が並存する事になっ た. この塑造科の設置と前後 し. て西欧で彫刻 務 めた外遊彫刻家が相継いで帰国し(長沼守敬 に 鐸 .新海竹太郎 *毎孝. 北村四海 家 系星 荻原守衛. 謬 る牟)叉同校塑造彩 卜の卒業生が出るにつれ, 西 湖鮫けがその盛 り 上 り を 強 め て い っ た,. 明治33年 (1900) フラ ンス万国博覧会レニ代表的な国宝数百点を出品 した, 同博覧会に於い て長. 沼守敬 「老夫像」 が金牌賞を授賞した, 叉この時 期の代. 表的な作品に, 西郷隆盛銅像 (高村光雲), 大楠公銅像 ≦ (主任, 高村光雲, 馬原型, 後藤貞行) 等がある. 明治. 190 3 5年 ( 2) 明治美術会は太平洋画会と改称, 37年 (19 (ィ、 ワ 日. - l aク市”立堰} 立F)病ん / て ミ上 エ Z江尻夏日斤まノ三- - ー ′ - r‐ト白 ード J-. 、 ′. 以下女展の代表的な作品を列挙する, 第1回文展 (40 年) 三等賞 (女展では一等はない) ・米原雲海 「神来」 外1点. 委員新海竹太郎 「ゆあみ」 が注目を引い た. 第 2 回文展 ( 41年) 二等賞・朝倉文夫 「闇」, 三等賞・ -5 8-. 「老 夫 像」 沼 守 敬 長 7. / ′ ′.

(5) . 近代日本彫刻についての一考察. 建畠大夢 「閑静」 , 荻原守衛 「女覚」 等. 委員新海竹太郎 「ふたり」 (これは公開を許されず, 特 別室に陳列). この年ロ ダ ンの影響を受けた荻原守衛が帰国した, 第3回文展 (42年) 三等賞・朝 倉文夫 「山から来た男」. 荻原守衛 「北条虎吉肖像」 . 叉守衛 「労働者」 等注目された. 第4回女. 3年) 二等質・朝倉丈夫 「墓守」 展 (4 , 中原 . 三等 賞・荻原守衛 「女」 . その他戸張孤 雁 「おな ご」 「 悌二郎 「老人の頭像」 委員新海竹太郎 斥候」 等, 4月に荻原守衛 ( 32才) が没し 「女」 は絶作 ,. となっ た, 第5回文展 (44年) 「鉄槌」 等がある,. 三等賞・朝倉文夫 「土人の顔」 その他委員新海竹太郎 「一致」 ,. 191 この女展は大正7年 ( 8) 第1 2回展まで続き, 大正8年 (191 9) に文展を解消 して帝国美術. 院 (帝展) を創設 し, 官展と して近年まで続く事になる. その間反官展を主張する在野団体が数. 多く興る事になるが, その主たるものに再興美術院彫刻部 (大正3年) , 二科会彫刻部 (大正8年 第6 回展より) 等が挙げられる. 口. 西洋彫刻に対する明治彫刻界の反応. 工部大学美術学校と西洋彫刻 : 西洋彫刻の移入と言う事件は, 日本の彫刻界にとっ て 重要 な 意義を有している事は今更述 べるまでもない. では日本彫刻界を形作ってきた西洋彫刻の移入に. 対 して, 当時の人々はどのような反応を示 したのか。 現代の日本彫刻を反省 し, 更にはこれか ら の日本彫刻の発展のためにも, 西洋彫刻の移入された当時を冷静に振り返える事は重要である.. 56) 幕府開設による蛮書調所が, 女久3年 (1863) 開成 洋画に於いては, すでに安政3年 (18 所と改称し, 画学局なる洋画研修所を置き, 川上冬崖が頭取と して高橋由一等がそこに学んでい 1876 ) の工部大学美術学校の設置によって, 画学・彫刻の2科が る。 彫刻に於いては明治9年 (. 設けられ, ここに初めて洋風彫刻が指導される事 となっ た. 美術学校の設置は, 明治政府の欧化 } ヵ 政策の一つでもあっ たろうが, 先にロシアの識者か ら日本を文明国家と して育成するには芸術大. 「ふたり」. 新海竹太郎. 荻. 「労働者」 原 守 衛 - 59 一. 「石井鶴三像」 中 原 悌 ニ 郎.

(6) . 田. 峯. 敏. 郎. 学の設 置が重要である事を提唱して来ている, 「人民の知識. を開き且つ風俗を善良な らしむるには独り学問のみを以って 整備とせず……欧州の技術を学び以て日本固有の技術を助く ることは貴国開明の民に至りては固より之を知る所なり, 自. 今其期会己に迫れり, 何ぞ他日の事とせんや」 (明治9年, ロシア, ゴーロス新聞社同盟から文部大臣田中不二麿へ寄せ. た),と同時にイ タリア公使, コ ントフェーが工部郷伊藤博文. に美術学校の設立を進言 し, ついに工部大学の 中へ美術学校 が設置される事となっ た,従って工部美術学校の教師は,すべ. てイ タ リ ア 人 で あ り 彫 刻 科 に は ラ グー ザ (Vincenzo R‐ agusa. 1841一1928) が任ぜ られた, 日本最初の洋風彫刻はイタリア. 人によ って開発されたと言 っても良い. この美術学校には洋 画, 洋風彫刻の二科であり日 本伝統の木彫は加え られていな い, で は どの よ う な 西 洋 彫 刻 の 指 導 を 行 な っ たの で あ ろ う. 戸. 「虚 無」 張 狐 雁. か, ま ず政府の意図と しては 「美術学科中彫刻生徒に限り官 費を もっ て就学せ しむるものと し其規則を改定 し更に之を頒 布す, 抑々本邦の彫鍍師と称するものは概 ね傭職の賎業に属. し絶て上流人士の之を学びて身を立て名を顕す技芸と為すも. のなく, 欧州に在て貴重せらるる彫刻学の如 きも亦其他に稗益ある事を了知する者な し, 是此法 則を特設 して之を奨励する所以なり」 (工部省沿革報告の 一条) であり, 同学校規程の 中 に は 「彫刻学は石膏をもっ て各種の物形を模造する事の話術を教ゆ」 とある, 即ち基礎学科と して木 炭デッ サ ン (ギリ シア, ローマ時代の彫刻の石膏模型) を学び, 脂土 鍋白土) を用いての制作と. 石膏取りを主と し, 叉大理石彫刻 も指導 した. 「各種の物形を模造する事の諸術」 とは, おそ ら く石膏模型の模刻や人体 (主に首, 着衣胸像, 着衣の全身像の制作であっ たと思われる. 明治10. 年に同学校で, 初めて裸体のモ デルを使い 写生 した事も知られてはいる が, 後年の東京美術学校 に於いてす ら裸体モデルの使用 が困難だっ た事を考えて見て も, 裸体モデルを用いて制作し練習 したと言う程の意味ではないと考える) の習 作をさ している, ともあれ当時行なわれていた, い. わゆる手本絵や師匠の作品の模倣か ら出発 した技巧の育成か ら, 現実のものを見て形作ると言う 西洋リアリズム, 詳しくはイタリアのリアリズムが移入さ れ, 美に対する新たな感覚が芽ばえる. 事とな っ た. 同学校出身者の一人である菊地鋳太郎は, その回顧談に 「……当時はまだ社会一般 に彫刻家の存在す ら認められなかっ た計りでなく, そんな白い人形の頭 (石膏像の事) を作って. 何にする?, な どと云っ た風で冷淡寧ろ笑止の沙汰であっ た……グリーキ, ローマの彫刻の石膏 模型は学校には多く買入られて備付 られてあ っ たので, 吾等は居なが ら彼等の作を比類の少なき ものの内にも鑑賞する事をつとめたものだっ た」 (美術旬報). 叉画学科の生徒であっ た藤雅三に. ついて学んだ久米桂 一郎は 「其時分の稽古の仕方は, 手本を見て刷筆画をやっ たものだ. 之は吸 取紙を巻いて] 存えた筆の先ヘコソテ ーと 云う炭 の粉をつけ, 紙へこすり附けて, 重に写真の引の ば し画を描くのであっ た 此荊筆画は画学紙 の上へ汚点のないよ うに奇麗にチ ョークをなするのが 一種 の技術で, それ が出来上ると如何 にも大きい写真でも見る様に, 描かれたものが実物らしく 見える」 (美術旬報) と当時の様子を語 っている. 更にこの学校とは無関係ではある が, 後に東 18 52一193 4) も, 西洋か ら輸入された色々の摺物 京美術学校で木彫の教授をつとめた高村光雲 ( - 60 -.

(7) . 近代日本彫刻についての一考察. 外字新聞の挿画, 広告類等から, 従来の日本の行き方とは違うものである事に驚き 「動物でも, 草木,花,物品, 凡てのものが真にせまって実物に近い, それは殆んど実物そ っ くりと云ってもよ. ろ しい, 大一匹描いてあ ってもどう見ても本物である, 特にその毛並み のやり方 が目立って旨く 出来ている, 従来の彫刻の方でやる彫り方は, まるで引ッ掻いたように毛が生えているという心 持ち丈けを肉 の上へ持って行っ て現わすのであるが, 西洋の絵は毛は毛 で皮膚の上へムッ クリと して被 い か ぶ さ り, 長 い 処, 短 い 処, 渦 を 巻 い て い る 処, 波 状 に な っ た 処, 機 ね た 処, ぴ っ た り. として引っ 附いた処と, その毛並 みの趣きが, 一々 実物の趣きが現わされてし ・る, それを私は見 ていると, どうしても在来の彫刻のやり方ではそれが-向適切に現われては来ない, 此はどうし ても此の西洋の絵画の行き方のように 彫刻の方でも工夫しなければいけないという ことを私は考. えました, そして, そういう西洋画の行き方 に彫刻の方をやるには矢張り西洋画 が写生を主と し たと同じように写生をしっ かりやらなければな らないと, 斯う考えま した・ ・…・ 」(光雲懐古談)と, 西洋の克明な実物描写の魅力に新鮮さを感じ, 日本の彫刻もかくあるべきと写生と言う方法で仏 師と言う職人の城を脱している, しかし, 一般的に写実と言うこの方法も, 真に日本の風土や伝 統, 及び日本人としての国民性を通じて, 阻唖された写実に目ざめたのではなく, 目新しさと欧 化政策からくる日本の 遅れと言う焦りからの感動であっ たと見る事が出来よう, 長い伝統をもつ 言 い 換 え れ ば 深 い 根 を も っ た 西 洋 リ ア リ ズ ム を, 単 に 一 つ の 様 式と して と らえ て し ま う 事 の危 険. 性 を常 に か か え て い た. 即 ち 西 洋 彫刻 のよ う な 伝 統 を も た な か っ た 我 が 国 にと っ て, 真 の リ ア リ ズ ム を 形 作 っ て 行 くと 言 う 過 程 を経 ず に, 一 つ の 様 式 と し て 与 え られ て しま っ て い る の で あ る.. 工部大学美術学校で彫刻科を担当したラ グーザの作品は, 現在東京芸術大学へ所属 し て い る (昭和7年, 妻のラグーザ・玉より寄贈, 作品数11点) , その作品によ って, 当時の洋風彫刻の 何たるかを知る事が出来る, 西洋リアリズムの人を威圧する程の克明な描写は, 過去の象徴化さ. れた日本のりァリ ズ ム (- 例 と して. け を現 わ す … …,. 綴 麟 翻 鰍鑓鰍織麟鰯麟総棚醐剛 繰醐灘 織 臓 圃 臓 欄 総 臓 . 繍 繍轍蹴. -. 謝 鯵嬢瞳. 圃ぞ. 灘 圏. - 鞭. 瞳 圃璽 璽 ,. 議題. の中 へ 浸 透 して行 った 事は想 像にか. 唖. 「老 高. 猿」. 村 光. 「日本婦人像」 雲 ー 61 -. ラ グ. ー ザ. 1 -- .鰹 】.

(8) . 峯. 田. 敏. 郎. たくない. この時点に於いてはまだ全くの西洋彫刻そのままの移入であり, 模倣であり, 日本の 彫刻として同化しつつあった訳でも, されつつあった訳でもない. いずれにしろ, 西洋彫刻移入 第一歩として歩き始めた, 西洋彫刻とフェノ ロサ : 所で, ようやく歩き始めたこの西洋彫刻と 足並みを揃えるように, 欧化政策に対する反 動が育ち始めていた, 西洋リアリズムの何たるかを熟知するいとまもなく, 西洋排斥と言う強い形で現われて しまっ たのである. これは孤立した 島国の中で, イ ンド, 中国. 等の文化の影響のもとに独自の 文化を作り上げてきた我が国が, 近代西洋文化の前に, その異質 的なものに驚き且つあわて伝統的な我 が国の文化をす べて捨て過ろうとした, 西洋一辺倒の現象. を考えれを, 当然起るべ くして起っ たものと考えられよう, しかし反欧化即ち国粋運動も, 過去 の日本美術の優秀さを再認識させたと言う大きな功績もさることながら, 維新当時の無批判に日 本文化を否定したと同様に, 西洋彫刻及び洋画を捨て去る事に もなったと言う罪も, かぶせなけ れ ば な る ま い,. 明 治11年 (1878) 11月, アメ リ カ,. ハ ー バ ー ド大 学 出 身 の フ ェ ノ ロ サ. t Franc (Emes lseo. 9年まで滞日) し, 国粋運動に大きな役 18 53一1908) は東京大学の招きにより来日 (1 割を果した。 彼の美学的, 芸術論白ケ言動の功績は別として, 日本美術についての論は, 少し考え. Feno l lasa. 惟中筆記) によれば,「日 5年竜池会に於ける講演, 大森. てみる必要がある. 「美術真説」 (明治1 本二於テ其固有ノ美術 ヲ振 起スルノ緊急 ナルト, 其之ヲ振 起スルノ方案トラ論述セソ」 を目的と し, 芸術についての基本的問題を述 べた後, 日本画と洋画との比較を述 べ, 日本画の,それより秀 れている事を力説している, 即ち 南h絵ノ‐タ ビ日本二伝ハリ シ以来, 貴紳適々其新奇ナルラ激 賞ッ, 反テ固有ノ画 ヲ蔑視 シ, 而 シテ旧 来ノ画家ヲ績斥セシガ故二, 油絵ノ 勢日二盛 ソニ シテ幾 ソド将二日本画ヲ圧倒セ ントス」 と述 べ, 日本画と洋画の違いを具 体的に5点に分けて比較し, す べての点に於いて日本画の勝る 事を説明 している. 叉日本美術の振興の具 体的な案として 「第 ・一般公衆ヲ誘導シテ美術ノ何物タルカ 1 ・美術学校ヲ設立ス. 第2ノ ・画家ヲ補助奨励ス. 第3ノ. ラ知ラシメ 之ヲ愛重 ツテ之ヲ補助スルラ以 、テ一般ノ本分トナスニ至ラシムル事 (即ち展 覧会開催 の主張) 」 の3点を挙げている. 前述の 「日本其固有ノ美術ヲ振起スル……」 とは, 西洋文化と言. う新しい文化の影響の もとで, 日本固有の美術を形成して行くと言う方法を述 べた訳ではなく, 日本に存在していた 過去, 及び現状の美術をほめたたえて自覚をうながしたのであり, 特に日本 画と洋画については, その比較論はさておき, そ の優劣にまで立入っ た事は大きな問題を 含んで いたと考えなければな らない, 日本とは全く違った風土, 環境の中に育っ た-外国人にとって, 来日後5年と言う年数の間に, 日本と言う長い特殊な芸術を持 った国を, どう理解し得たか, 結 9) 6月 に青年 2年 (188 局は異国趣味の ものめずらしさに対する感 情ではなかっ たろぅか. 明治2 絵画共進会が開かれ, その論評 「夫れ我邦の画は物に簡潔淡雅を以って外人に称賛せらる. 然る に此を捨てて顧みず却って欧州風の繁絹筒に趨らんとするは 現今絵事の教授を二任する名家にして. =の美術は漸く降りて遂には欧米の下 深く取 らざる所なり, 愉し此風に して弥世に満延せを, 我ヂ に落 らん」 (美術園) をみても 「外人の称賛せ らる」 事に, 我が国の美術 (主 に日本 画, 工芸品. 等) に 対する自信をほのめかしている. 叉これにより先, 明治12年に組織された竜池会の創立動 機中 「……美術家, 及美術上二属スル諸家ノ意匠ヲ進メ, 弥ョ益ス本邦特有ノ美術及之二属スル. 工芸品ラシテ外客ノ 需求ヲ盛ナラツメ, 国利ノ源ヲ開カ ソトス」 (大日本美術新報) , 及び16年同 ノ縦覧会開キ我ガ長技ヲ 巴里府二於テ本邦美術品 中心タ ル仏国 会の会則の第三 「毎年欧州美術ノ. 公示ツ広ク万国人ラシテ益本邦美術ノ 妙味深糧ヲ感知セシメ 愛好ノ 情ヲ増進シ以テ美術上ノ工芸 一 G2 -.

(9) . 近代日本彫刻についての一考察. 品ラ シテ輸出額ヲ増加シ彼 レラ利 シ以テ己ノ レラ利セソトス」 等, 国粋運動の下には国益を計る 美術品の海外輸出の奨励が欧米人の趣味判断や, 商品としての価値判断か らくる日本の伝統的作. 品が好んで行なわれたと言う事が出来る。 洋風彫刻界の主張 : このような状況の中で, 明治20年 ( 1889) , 東京美術学校の設立が発表さ れ, 2 2年授業が開始された。 絵画 (日本画を示す) 十を持ち, 彫刻科は , 彫刻, 建築, 図案の四参 伝統的な木彫を中心としていた。 高村光太郎 ( 1883一1956 ) の髄筆 「学校 では親父 (光雲) と石 川先生 (石川光明) などが相談して, やはり昔からの木彫の 順序立っ たやり方を教える。 地紋, 肉合, 浮彫, 丸彫等と二年間位はそれを教えられる, 小刀の使い方な ども覚える」 (其月 其日) があり, 当時の美術学校彫刻科での指導方法がうかがえる。 この美術学校に於いて, 絵画は岡倉 5一190 1862一1 913) 183 8) 等を中心とした日本美術院の創設を始めとして, 現 天心 ( , 橋本雅邦 ( 代の日本画界を形作る大きな役割を果 し, その設立の意義を, 大いに認める事は出来たが, 彫刻 科は伝統的な技術の伝達に終始し形式的な制作 (職人的制作とも言える) から脱出する事は出来 ず, ただ国粋主義と言う当時の社会情勢の中に, 暖かく囲われていたにすぎな い. 維新後20数年 を経たにもかかわ らず, 彫刻界は西洋彫刻と伝統的な木彫との両極端に分れたまま, いたずらに 時 を 費 し て い ろを かりであっ た。 ところで明治2 2年 ( 1889) , 洋画を中 心とした明治美術会が結成 された. その主意書 「……明治 の聖代は推古天平の未開時代に非ず, 明治の社会は元禄享保の鎖 国社会に非ず明治の思想は叉古例墨守の旧思想に非ず」 皆西洋の文化に目を向けて, その近代性 を学んでいるにもかかわ らず, 美術だけが 「独り世と背戻し旧法を守株し徒に復古を期 せんと欲. するも到底得べきに非らず 之を既往に鑑がみ之を万国に徴するに必ずや今日の社会今日の思想に 適するの美術無かるべからず, 本会は即ち此明治照代の美術を振興するを以て目的とするものな. り……」 と述 べている, 政治, 兵制, 工業等は欧米諸 国に学び, その利点を移入し進歩しつつあ る点を重視し, 美術のみ 「復古を期せんと欲する」 のは明治社会の流れに逆うものであり, 広く 欧米諸国に目を向けて学びとる事により 「今日の社会, 今日の思想に適するの美術」 を作り上げ. なければな らない事を主張している. 国家の保護にあってぬくぬくと安定を囲っ た伝統的な木彫 界に 対して, 在野的な性格をもっ た洋風彫刻は, その思想の上では実に正当性をもっ たのは当然 の事かも知れない. しかし近代の日本美術を育て上げると言う実践面に於いては, まだまだ西洋 彫刻の無批判な崇拝意識にと らわれすぎていたし, 更に政府の国粋政策に対する大きな不満もこ. められていたために, 西洋彫刻を土台に日本の彫刻として育て上げて行くと言う, 大きな責務を 5年 ( 18 92 ) 7月 の絵画叢誌に, 近年 の洋風画家, 彫刻家 果す 心のゆとりにも欠けていた. 明治2 が大きな不平を持っており, その不平を要約すれば5つの点が挙げ られる事を述べ ている. それ. は1に 「政府は毛筆画を保護するに反し油絵は保護の外とする」 点。 2に 「宮城内外に建築の銅 像に就き和風画家に相謀りたるに洋風画家には相談せざること」, 3に 「各地の師範学校等 に毛筆 こ 「西洋画の出品展列には, 官設公会堂を容易に許さざ 画を課程に置くことを誘導すること」 し ・ 。4 ること」. 5に 「美術保護の任として当局其人々が切に毛筆画を讃賞して痛く西洋排斥の説を主 張 すること」 である, 結局, 国粋派欧化派の両者共様式上の形体のみの論争に終始し, 彫刻の何た るかの本質的な問題に立入らない, 誠に発展性のない主義争いにあったと言える, 前述の2に挙 げた具体的な例は, おそらく高村光雲主任で制作された 「大楠公像」(24年着工・2 6年完成) ,及 び高村光雲作 「西郷隆盛像」 ( 25年依頼・31年完成) 等であろう. しかし国粋主義のもとで, 伝. 統的な木彫家の手になったとは言え, 「西郷隆盛像」 は今日でも記念像として秀れ た作品である 事を考えてみてもいかに彫刻の良し悪しを無視した論争であっ たか, その一端をうかがう事が出 来る. では西洋彫刻と言う異国の彫刻観が, 日本の彫刻としてこの風土や伝統や国民性の中に同.

(10) . 峯. 田. 敏. 郎. 化されるべ く, その努 力が払われなかったのだろうか. ちなみに我 が国の伝統的な木彫や彫刻観 だけでは少なくも今日の現代 彫刻界の基礎を作る事は出来なかった事を考えて みても, 西洋彫刻. の移入と 言う事実は非常に貴重なものであった事はうな づ ける, しかし西洋 彫刻が移入された時, 叉は外遊と言う手段で自発的に移入を企てた時日本の彫刻家達が冷静に, しかも正当にその判断. を下し得たか否かである. 1898) 東京美術学校彫刻科の中に洋風彫刻 (塑 東京美術学校塑造科を中 心として : 明治31年 ( 造) が加わ り, 翌年型造科として独立し, 木彫料と並存する事にな った, ここに再 び西洋彫刻が 公の場 で日の目を見る事とな った. イ タリアで彫刻を学んだ長沼守敬 ( 18 57-194 2) が初代教授 と し て 任 命さ れ, つ い で 藤 田 女 蔵 (1861 ‐-1934.工部美術学校卒) がその任につき, 他方外遊派. と言われる洋風彫刻家達 の帰国と共に, その活躍が始まるのである。 当時美術学校に在学してい た高村光太郎は 「当時は日本彫刻のうつりかわりの時代であった. 木彫の稽 古というのは画のは ぅ の 稽 古 と お な じ や う に, そ れ をう つ し て い た。 う つ して そ れ と お な じ も の を造 り さ えす れ ばよ. か った, さうした中 にだんだん西洋流の勉強の仕方 が入ってきた」 (アトリエにて) と懐古して いる。 いわゆる 「西洋流の勉強」 とは, 粘土 (今の油士) を使って, 塑造呑 1 ‐はもとより木彫科も. 塑造をやり, 生きたモデル (裸体) を使って制作する事であ った. 「たとえ木彫をやる人でも粘 土 でつくって, モデルを写生しなければ勉強出来ない. 本物をや らなければいけなし-…・山田鬼 斉 (1864一1901) 談」 (ア トリ エ に て) を み て も, イ タ リ ア ・ ドイ ツ ・ フ ラ ンス 等 で 直 接 モ デ ル を. 使って彫刻を学んできた外遊派 の帰国により, 生きたモデルを使用する事によ って彫刻の本質を 見い出そうと言う動きが, 一般に広め られたのは当然の事と言 える。 置物としての木 彫, 記念像 として の銅像等, 一般には用 途と言う性質を多分に持った彫刻に対する概念が, ようやく彫刻の 独自性, 独立性と言う考えも現われ始めた事は注目すべ き事である。 だが生きたモデルを使って の研究は, その研究法に於いて工部美術学校以来, しばしば用いられてはいたものの, そのやり. 方に於いて大きな問題を残して しまった. モデルを使うと言う形式は実に素早く移入され, 広ま っ て は い る も の の, モ デ ル を 使 う 事 に よ っ て 何 を 追求 す る の か, モ デ ル を 使 う と 言 う 本 質 は どこ. にあるのか, その移入者の説明不足もさることながら, モデルを使うと言う形式のみに盲従した 一般彫刻界も同罪として扱われなければな らない。 しかし外遊派彫刻家に言葉の説明を要求する. のは酷と言える. それは, 彼等にとっ て作品そのものがす べ ての主張である事を認めなければな らないからである. では彼等即ち長沼守敬の 作品は, 新海竹太郎の作品はどうだ ったか. 彫刻と. 言葉 (叉は文章) で日本彫刻界に切り込んだ荻原守衛はどうだったか. そして叉, 美術学校にあ きた らず, アメ リカ, フラ ンスを経て帰国した高村光太郎, 日本彫刻界の欠点を述 べ理想を示し たはずの彼の作品はどうだ ったのか, 外遊派とは言え, 彼等個々の西洋彫刻の取り入れ方は違っ ているし, 学んだ国も違 っ ている. しかも彼等は帰国後, 荻原守衛の二年間を除いては, 長い間. 制作 にたずさわり作品を発表しているのである, これ らの開拓者を得たにもかかわ らず, 彼等を 含めた彫刻界は, 日本独自の, 言い換えれば形式のみに盲従する独特の制作方法に廻転してしま っ たのである, ここで叉美術学校当時の高村光太郎の懐古を引用 しなければな らない, モデルを. 使 っ ての制作とその評価の方法について, まず当時は彫刻のモデルになる人がいなく, モデル捜. しには苦労したと言う社会情勢にはじまり 「人間の首を粘土で作るのにも, はじめ頭蓋骨を作っ てから, それに鷹や筋肉を一枚づ つ着けていっ て顔面にするようなことをしたものである」 と言 う制作方法. 「結局なにがよく出来たか, まづく出来たかというのは, モデルのように似せてこさ え て あ れ ばう ま い と さ れ た も の で あ っ た. 彫 刻 の い い, 悪 い と い う と こ ろ ま で, ま だ 行 な っ て い - 64 -.

(11) . 近代日本彫刻 についての一考察. なかった, 写真のよう に作れば大変いいと云う. そういう見方がずっと後まで続いて, 後の女展 あたりまでひびいている, 女展の彫刻は本当のように出来ていればみんな喜んでいたのである, こ れ が 長 い 間, 彫 刻 を 分 か らな いよ う に さ せ て い た 大 きな 原 因 で あ っ た」 (ア トリ エ に て). こ れ. は明治30年代の事とは言え, 日本流リアリズムの母胎とな っている事を考えると, 誠にそ ら恐ろ しい感じもする,. 他方, 美術学校とは別に, 多少の洋風彫刻の養成機関があった, 明治美術会は35年 ( 1902) , 太平洋画会と改め, 37年 ( 1904 ) 彫刻科ん研究所を設けて新海竹太郎がその指導に当った, しかし,. その研究成果を見ないまま, 文部省主催の国家的展覧会, 即ち40年 ( 1907 ) 創立の文部省展覧会 (女展) に統合されてしまうのである,. 女展と洋風彫刻家 : 従来各団体がそれぞれ独自に 展覧会を開催していたが, これを一堂に集 め日本美術の奨励を計り, フランスのサロンのような官設展覧会を開催す べ きとの運動が起り, ついに女展の誕生となっ た. 第3部彫刻 の審査員は, 伝統的な木彫家, 洋風彫刻家 (工部美術学. 校系, タ ト遊組) 等, 各派から登用し, その公平を期した努力が認められる, しかし各派の師匠格 の集まりであり, その審査結果に対しては各派の利益を代表するような害も多分に含 ま れ て い. た, そして叉, 伝統的木彫に対する洋風彫刻, 美術学校系に対する非学校系等, 各派が一堂 に会 すると言うすばらしさと共に, 常に分裂と言う危険性が内在していた, さてこのような内部 事情 はどうであれ, 女展の彫刻はどうであったろうか. これは述 べ るまでもなく当時の日本 流リアリ ズムの, モデルに似せた実物のような表面描写の 人体が, 会場に並んだ事は想像にかたくない. 「木彫は現代から遊離して理想主義的な世界に遊び, 塑像は遅ましい裸体か優美な 裸体を取扱 っ. て意を寓するか, 或は耽美の情緒を誘う」 (森口多 里著・美術八十年史) ものであった, 明治4 1 年( 1908)に帰国した荻原守衛は, 第2回文展に出品すると共に, その印象を 「昨年の展覧会を通 じて見た所の彫刻界と云うものは, 全然西洋のイ ミテェ ショ ソと云ってもよい直輸 入である」 そ れは先に西洋の写真が頭の中にあり, ただモデルを目の前にして実際は写真を真似て い る だ け だ, と指摘し 「こんな馬鹿気たことでは真の日本彫刻は出来ません」 と憤慨して い る, そ し て 「日本のやうな急激な変遷を経た国で己むを得ぬことかも知れぬが, 今に於て眼を醒さな くては 挽回し難い窮地に陥って了ふかも知れぬ, 題か らして 宇宙 だの 夢 だ のと ロ マ ンチ ッ ク な 一種の遊戯的製作をやっ て居ては駄目である」 (彫刻真髄) と評し, 叉高村光太郎に宛てた手紙. には 「第2回公設展覧会とい ふ有難いものを見 に行った。 面白いも のは皆目ない, みんな俗臭卑 処が目にも鼻にもつく」 (死んだ荻原君・高村光太郎著, 彫刻真髄より) と述べている, 長い欧 米生活を通し, 叉ロザンの彫刻に感動し学んで来た荻原守衛が, このような批評を下したのは, 国内にいて日本彫刻に麻庫していた他の批評より, 客観的で信頼出来るものと言えよう, ところで彼の帰国により, 女展の中に叉一つ の新しい西洋彫刻が投入された 即 ち ロ ダ ンの 彫. 刻の紹介である. 近代日本彫刻の始まりは, この荻原守衛からだと言う, そして又細部の外形的 写実を超克した, 内容的に深みのある彫刻が生れたと言う. 帰国後, わずか2年 ( 32才) で他界 した守衛は, これからの日本彫刻にとっ て重要な問題を山積したまま, そして大きな問題を提起. したままであった。 確かに表面描写の外形的写実に終始していた日本彫刻界に, 時の世界的巨匠 ロ ダ ンの 紹 介 は (白樺 派 に よ っ て も紹 介 さ れ た), 否 応 な し に 浸 透 して 行 っ た. そ し て ロ ダニ・ズ ム と 言 う 一 つ の 形 式 (様 式 と も言 え る) が 生 れ る に 至 っ た の で あ る, しか しこ の 事 は, 先 に・モ デ ル. の使用と言う事で彫刻の本質を見い出そうとして, その方法だけを学んだ事に似てはいないか,. ロ ダ ンの 紹 介 と 言 う 事 で, ロ ダ ンの 彫 刻 の 本 質 に 目 を つ む り, そ の様 式 だ け を 模 倣 して は い な い - 65 -.

(12) . 峯. 田. 敏. 郎. か, もしそうな らば一人守衛だけの責任だけではな い. それにもまして維新以後の目まぐるしさ を体験してきた彫刻界が, 一度移入された西洋彫刻を充分に本質を理解しないまま, すぐ新しい 様式に飛びつくその焦りこそ非難されなければな らない, ロ ダ ンの感化から脱し得ずして終った 守衛の作品を見るにつけ, 彼の存在の偉大なる事よりは, これから制作されるはずであ った無数 彼の作品が, 作られずに終ったその短命を, 惜しまずにはい られない,. 結局維新以後, 女展までの近代日本彫刻界の歩んだ道は, 一挙に西洋彫刻に追いつこうとする 焦りの歴史であり, 基礎のない皮層的な新しい日本彫刻の伝統を形 作っ てきたと言える. しかし その下にも日本 彫刻の碓立のために活躍した作家は居なかった訳ではない, ドイ ツ風の静かな作. 風の中に, 近代日本彫刻の誕生をめ ざした新海竹太郎. 前述の荻原守衛. そして 「墓守」 を制 作 1883一1 964 ) 等も明治末期の洋風塑造家として 忘れる事の出来るない 作 家 で あ した朝倉文夫 ( る. その中でも近代日本彫刻界に欠かす事の出来ない二人の 作家, 即ち新海竹太郎及 び荻原守衛 について, 考えてみなければならない,. 「狐 雁 像」 荻 原 守 衛. 「シバ と バ ル バ チJ. 新海竹太郎 m. 新 海竹太郎と 荻原守衛. 1 868 ) 山形市に生れ (父・宗松の長男) 新海竹太郎は, 明治元年 ( ,19年陸軍士官を志して上京 5 0 18 0一1 93 ) の門下に入り 彫刻を修めた, その頃 した, その後近衛騎兵大隊を経て後藤貞行 ( (24才位) はすでに木彫 「馬」 を主題とした作品を作り, 叉 「大楠公像」 制作の助手等もつとめ て い る, 33年 (1900) 1月, 彫 塑 研 究 の た め フ ラ ンス に 渡り, ま も な く ドイ ツ に 渡 っ た. 当 時フ. ラ ンス彫刻界では, ロ ダン (当時60才) ・ プールデル (当時39才) 等が活躍しており, すでに一 世 を ふ う び し て い た に も か か わ らず フ ラ ンス で 彫 刻 を 修 め る 事 な く ドイ ツ に 渡 っ た 事 は, は な は. :よりはむしろ, 後年の彼の作 だ興味深い事である, これはロダンの存在を知 らなかったと言う事 - 66 -.

(13) . 近代日本彫刻についての一考察. 「調 馬」. 新海竹太郎. 「墓 守」 朝 倉 文 夫. 新海竹太郎. 風か ら考えてみても, 当時の彼の彫刻に対する理想とは, 合致しなか った為に無視 した結果と考 えた方が妥当のような気がす る. 当時の日本彫刻界 の西洋リアリズムと言う環境の中 で, 更に根 源的な西洋リアリズムの追求に夢を見て, 後に近代彫刻界の巨匠となったロダンの ダイ ナミッ ク. な作風には飛び込む事が出来なかったと思われる, これとは別に, 竹太郎の甥であり弟子であっ 18 ‐一1968) は 「竹太郎は実にのん気な人物であったし, 叉非常に兵隊好きの人物 97 た新海竹蔵 ( でもあったので, 当時日本で取り入れた ドイ ツ兵制, 軍服に興味をもっ て ドイ ツに渡っ た」 とそ のエ ピソー ドを面白く語 っ ている, ともあれ近代日本彫刻の 元祖とも言える ロ ダンの感化を得ず. して, 近代日本彫刻の先駆者の一人となった竹太郎を考えると, 荻原守衛とは対称的な存在とし て興味深い, フラ ンスか らドイ ツに渡った竹太郎は, ベルリ ン美術学校教授, ヘ ル テ ル (Ernst 1 846一1917 ) に師事し, 塑造特に大作構造法を修め3 5年 ( 1902 ) 1月 に帰国した. 西洋 彫刻, 主にイ タリアを中心として歩んできた日本彫刻界にとっ て, ドイ ツ (北欧系) 彫刻の移入. Herter. は 異 色 で あ っ た と 言 え る. ドイ ツ に は そ の 他, ヒ ル デ ブ ラ ン ト (Ado f Von Hi l ldebrand 1847一. 1921 ) 等が活躍しており, 確固たるリアリズム (浪漫主義的とも言える) が基調となっ ており, 竹太郎にと ってはその ドイ ツ作風の影響と, 日本の風土, 伝統との結合によっ てはじめて, あの. 「ゆあみ」 が生れたのである. 4 0年 ( 1907 ) 第1回女展に出品した 「ゆあみ」 は, 彼の作家と し ての位置づけは当然の事ながら, 近代日本彫刻の流れの中に於いても第一の宝と して称賛すべき. 作品である. ドイ ツ作風と日本伝統との結合, 言い換えれば日本の彫刻と して再生された彼の彫 刻は, 実に素直に日本人の心の中に入り込んでくる, これは彼のたゆまぬ研究の結果であったと - 67 一.

(14) . 峯 .. 同時に’ ト か の風±’ 国民性か. 田. 敏. 郎. 瞳. 1 建灘馴. ぱな しく登場 してしまうのである. 衛に感動しロ ダンの彫刻に身を燃した 彼等の作品は, 様式や手法に於いて守衛と比較的類似して いながら, その作品 の根底に於いては異質である事をみても (その異質である事によ って守衛を 越しているとも言える) ,客観的には精神的な意味. で竹太郎の後継者でもたと言える仏師の長男 として33才 の外遊まで, すでに後藤貞行に師事し て木彫を, 浅井忠に師事してデッ サンを, 小倉惣 二郎に師事して塑造を修め, 叉作品として木彫,. 繊. 麗. 「北白川宮能久親王像」. 然 の 事 で あ っ た ろ う.. 1879) 他方, 荻原守衛は明治12年 ( ,長野県穂高 - 研 一. 新海竹太郎.

(15) . 近代日本彫刻についての一考察. 圏灘J ご ~ 宿繋駕奉激 闘↓滋 養を薦美麗 瞳圃 満車. 郡/ ′. 一際 榊. 、 ば ば } ァ薄い 砧 山イ 、〃 虚日日 、爪 山、 ,. 旧 糟ろぬ ぷ l n 舟. 刻界に対決すると言う形でロダンの紹介が 行われているのであ る, 数少ない守衛の作品す べてが その事を実によく物語っている. 帰国後の作品, しかも絶作と なっ てしまった代表的作品 「女」. も, 確かにすばらしい 作品の一つではあるが, 決して世界に誇る日本の代表的作品にはなり得な い. 結局日 本と言う風土, 伝統, 及び国民性から遊 離しているためであり, 日本に生れた外国人 的な悲哀を感じざるを得ない, つまりロ ダ ンの作品がある事によ って息を吹き, 逆にロダンの作 品 が あ る 事 に よ っ て そ の 価 値 も な く し て し ま っ て い る の で あ る, 渡 欧 中 に 訪 れ た ギ リ シア エ ジ ,. プト等の古美術見学は, 帰国後日本の古典彫刻 (仏像) に対する開眼と なり 好んで奈良朝の仏 , 像を見学し, その優秀性を説き, 広めようとしたのは, 言うなれば守衛自 身の制作に対する反省 であり, 帰国後の守衛の制作に当 っては無視する事の出来ない重要課題として, 絶えず おびやか. さ れ て い た に 違 い な い, 「僕 の 文 覚 だ っ て 何 も ロ ダ ンか ら来 て い る訳 ぢ やな い の に, 直 ぐ ロ ダ ン. ]われるので困る」 (彫刻真髄) と言う守衛の告白も, 帰国後の彼の大きな 問題点であ ロ ダ ンとE. 「初. 菊」. 新海竹太郎. 「女 荻. 覚」 原 守 衛. - 69 -. ・ 「平櫛田中像」. 中原悌 ニ 郎.

(16) . 峯. 田. 敏. 郎. 一足 飛 びに フ ラ ンス の ロ ダ ンに 飛 び っ た 事 を 裏 付 け て い る. 東 洋 の 中 の日 本 と 言 う 自 覚な し に,. つき, その精神と 技法とを学んだとは言え, 彼の作品はロ ダンの彫刻技法 の伝導 師的役割に終り, 結局ロ ダンの彫刻精神, 彫刻感等はほとん ど言葉と数多い文章によってなされなければな らなか たと見なければな らない, 日本の彫刻界の った事も, 守衛にと っては意に 反した苦肉の策であっ 中で育ち つつ, 日本の彫刻の進路を ドイ ツに求めたのは竹 太郎であり, 欧米芸術界の中で育ちつ つ, 純粋に己れの彫刻の進路をロ ダンに求 めたのは守衛であっのにもかかわ らず己れの彫刻の追 求と言う点に於いては竹太郎がその功を得て, 日本彫刻界の転開と言う点に於いて 守衛がその主 導権を握ったと言う事は, 誠に皮肉な結 果となっている, 守衛のロ ダン紹介は, たとえそれが当時の日 本彫刻界に対決すると言 う形で紹介されたとして も, 彼の大きな業績であり た事は否定出来ない. 日本彫刻界がそ れを取り 入れる充分な下地は出 来てはいなかっ たけれ ども, 日本の芸術界の流れに於いて 見れば, 当然紹介されて良い時期にあ. ダ ン紹介の業 っ た, 従って文壇も, 積極的にその紹 介に一役かっているのである, しかしこのロ 績は認な が らも, 彼の作品については同一視 出来ない, 竹太郎の60年, 守衛の32年と言う生涯を 同一の時点でと らえる事は不平等と言えよう, しか しその生涯が, いかに波乱に 富み叉は特異な 存在であ ったとしても, 作品の良し悪しには全くかかわりのない事である. 小説的存在の偉大さ との混同は, 歴史を不明なものにしてしまう. 生涯, 彫刻と言う非生産物に命をかけるこの純 粋 さと, 狂気とも気 える執念に, その精神美を見 い出す事は勝手である. だが作品は依然として別 の次元の物体であり, 作品に対する冷静な判断は, 作者とはかかわりなく判断されなければなら ない, 守衛の大きな影響を受けて彫刻家への転身にふみ切 った中原悌二郎も, 当初は守衛の作品 に 動 か さ れ て は い る も の の, 守 衛 の作 品 の 根 源 と な っ て い る, 即 ち ロ ダ ンを 知 る 事 に よ っ て, た. 彫刻家になっ た動機及びその態度 「 の中で, 荻原守衛がフラ ンスから帰ってきたのに合い 其の作品を見まして非常に感激し」 て守 衛を時々訪問 し, 教訓指導を受けて彫刻を愛好するようになった, そして叉 「尚叉私は, 同氏を ち ま ち ロ ダ ンそ の も の に 傾 倒 し て し ま っ て い る. 悌 二 郎 は. 通じてロ ダンを知りました. 是が叉私に恐しい感激を興へたの です, ロ ダ ンの力強い熱¥膚的な芸. 術は’私の心を躍らせ’ 全く私の心を捕 〉 えてしまったのです」 (彫刻の生命) .更. 警. . - 70 -. 灘 灘. 騨. 圃. 欄.

(17) . 近代日本彫刻についての一考察. ソに対する称賛であったと考えられは しないか. 日本の彫刻界を非難するために, 直接ロ ダンの 指導を得た守衛を称賛す る事によ って, より具体的なロダン紹介の役割を果すことが出来たと考. える事は不可能であろうか. 当時の時代的要求の波にのった守衛は, 一つの道具と して利用され た事もあながち否定出来ない, そして以後, 守衛の作品が, と言うよりは守衛の紹介によ って現 われた, 師ロ ダンの作品が日本彫刻 界にさまざまな波紋を呼び起すに至ったのである. なお, 新 海竹太郎は昭和2年 ( 192 6)60才で, 荻原守衛は明治4 1910 2才でその生涯をとじている 3年 ( )3 事を付け加えておく,. 結 明治郡 …新をきっかけに始まった日本彫刻界の再出発は, 数多 くの問題を含みつつ 今日に至って いる. 西洋彫刻と言う新しい彫刻を目の前にして, 過去の彫刻家達はいかに対処し理解し同化し たか, その流れの中に身を置く現代の彫刻家は, 冷静に再考すべき時期であると考え, その一つ の手がかりとして思い切った私の見解を述 べてみた, なお新海竹太郎については, 文献・資料不 足のため竹太郎の甥であり 弟子であった新海竹蔵氏の口談による所が多い, しかしこの小論の進. 行中に新海竹蔵氏は死去されてしまった (昭和43年6月1 3日, 71才), 今は亡き新海先生に心か ら の感謝と哀悼の意を表したい.. 参. 考. 文. 献. i5月28日 41 大 村 西 崖 : 東洋美術史 図本叢刊会 大正1 1 鎌倉芳太郎: 東洋の彫刻 大雅堂 今 泉 篤 男, 外 : 世界美術全集第2 5巻日本N 平凡社 昭和2 6年1 1月30日 黒 田 鵬 心 : 日本を中心とする東亜美術史、 鵬心選集第1巻 趣味普及会 昭和2 8年9月1日 森 口 多 里 : 美術八十年史 美術出版社 昭和2 5日 9年5月1 三9月1 5日 土 岐 善 膳: 近代日本芸術史 内田鶴圃 昭和37f f 4 平凡社 昭和42年 0日 河 北 愉 明 : 近代美術の流れ 日本の美術2 .7月2 久 野 建・持 丸 一 夫 : 日本美術史要説 吉川弘文館 昭和4 3年1月2 0日 山 本 正 男; 東西芸術精神の伝統と交流 理想社 昭和40年5月1 5日. 回 新 海 竹 蕨: 新海竹太郎(年譜) 新海竹太郎先生i } す熱再建実行委員会 昭和3 1月 5 日 0年1 山形美術博物館: 新海竹太郎遺作展カタログ [女館 明治44年4月2 0日 荻 原 守 衛: 彫刻真髄 博 16月1 0日 荻 原 守 衛: 彫刻真髄 中央公論美術出版 昭和39全 1. 信州穂高町蔽山美術館 : 磯山美術館の粟 中 原 信 : 彫刻の生命、 中原悌二郎と其芸術 縞田久道編アルス 大正10年9月15日 5日 匠 秀 夫 : 中原悌二郎、 その生涯と芸術 旭川叢書 昭和43年3月2 高村光太郎: 美について 道統社 昭和17年8月31日 高村光太郎: 其月共日 竜星閣 昭和18年4月20日 0日 高村光太郎: アトリエにて 新潮社 二 昭和31年6月3 野 間 清 六・谷 信 一編 : 日本美術辞典 東京堂出版 昭和4孝平8月3 0日 土 方 定 一 ; 明治美術展を見て 朝日新聞夕刊文化欄 i 昭和43年2月2 8日 高 階 秀 爾 : 日本美術の 「近′ 代とは」 朝日新聞夕刊文化欄 昭和43年1 0月16日. - 71 -.

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参照

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