朝倉文夫の彫刻制作に関する考察 : 『彫塑技法』(昭和二十八年~三十一年)を中心資料として
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(2) (平成十二年)の中で概ね再編されたものが. の流れが生まれた。現在では朝倉が東洋のロ ダンと形容されることもあり、しばしば朝倉. 今回の中心資料『彫塑技法』である。. 彫刻とロダン彫刻の流れが混同されることが. 『彫塑技法』の内容は四十もの細かな見出. ある。同時代に活躍し、共に自然の中に彫刻. しで分かれている。本章では、筆者が見出し. の本質を求めた両者であるが、彼らの彫刻は. を内容に応じて(1)自然(人体)、(2)制作手. モデル(自然)の構造をどのように解釈した. 順、(3)実践的研究に区分けし、朝倉の言葉や. のか、という点で立場を明確に分けることが. 彼の制作方法などを基に、彼の彫刻観を明ら. できた。. かにしていった。. ロダンにとってモデルの構造は再構築の対. (1)∼(3)を通して朝倉が、造形の原理や. 象であり、造形的な意図に基づく大胆なデフ. 法則を用いることによって合理的に制作を進. ォルメを特徴としている。これに対して朝倉. めていたことがわかった。造形の原理や法則. 彫刻は、大胆なデフォルメを排したモデル構. とは、例えば人体の構造において、奥にある. 造の的確な表現を特徴の一つとしている。こ. 塊(骨)に連動して皮相に近い塊(筋肉)が. のような点からも両者の立場を分けることが. 動くことなどを意味する。また、朝倉は独自. できるのではないかと筆者は考える。. の人体比率(頭の幅を一としたときに全高が. 第1I章では朝倉の生涯と作品を、時系列に. これの十倍になる比率)を心棒組みや組付け. 沿って紐解いていった。便宜上ここでは朝倉. に活用することで合理的に制作を進めようと. の生涯を通史的に見た上で、主だった節目を. していたことがわかった。このような制作に. 境に区分けした(論文の構成を参照)。. よって朝倉はモデル(自然)の構造を的確に. 第II章では、朝倉が終生海外で彫刻を学ん. 表すことを求めていたと筆者は考える。的確. でいなかったことがわかった。これは、ロダ. な構造表現とは、構造と言う側面から人体を. ンの流れを汲む彫刻の隆盛が目覚ましく、ま. 塊の建築物として捉え直したときに、重力の. た留学を経て活躍する彫刻家が増える当時の. ある三次元空間で倒れそうに見えることなく. 日本彫刻界において、朝倉が日本から出るこ. 立ちえる構造のことを意味する。構造の的確. となく写実彫刻を突き詰めた彫刻家であるこ. な表現は、彫刻に安定感をもたらし、倒れそ. とを示している。また朝倉が生涯を通して官. うに見えない自然な立ち姿を実現させる。朝. 展に出品を続けたことにも着目したい。官展. 倉はこのような自然な立ち姿を彫刻に求めた. 創設と同時期から半世紀にかけて出品を続け、. と推察する。このような自然な立ち姿を通し. その中で若くして入賞を果たし、かつ多くの. て朝倉が終局的に彫刻に求めたもの、それは. 門弟を官展に輩出した朝倉は、官展彫刻の底. モデル(自然)の個性の表出であった。『彫塑. 流を築いた人物として評価の対象になりえる. 技法』の中で用いられている個性とは、指先. のではないかと考える。. に到る全体と細部構造の整合性の中に内包さ. 第皿章では、『彫塑技法』の内容を基に朝倉. れるものであり、言い換えれば、的確な構造. の彫刻観を考察した。. 表現によって形態が均整と調和を有すること. 『彫塑技法』の原本は昭和十二年、朝倉五. で発揮されるものである、と筆者は考える。. 十四歳の時に完成した『彫塑綱要』(朝倉著・. 未刊)であり、これは日本彫塑家倶楽部発行 の『彫塑』No.1∼No.32(昭和二十八年∼昭和 三十一年)にr彫塑技法」として掲載された。. 主任指導教員 喜多村明里. この内容が『日本彫刻会史一五十年のあゆみ一』. 指導教員 前芝武史. 一387一.
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