■弘前大学哲学会 (論文)
理性 と感性の統一体 としての人間
稲 垣 意 ‑
1
は じめに「法則は意志か ら生 じ、格率は選択意志
1
か ら生ず る。 この選択意志は、人間 において は 自由な意志である。法則以外の何 ものにもかかわることのない意志は、 自由 とも不 自由とも呼ぶ ことはで きない。 とい うのは、意志は行為 にではな く、行為の格率 に対 す る立法 (それ故 に実践理性その もの) に直接 に関わ るのであって、従って絶対的 に 必然的であ り、かつ、それ 自体 としては どんな強要 にも馴染まないか らである。だか ら、選択意志だけが 自由 と呼ばれ うる。」 ( Ⅵ ,S.226.)
これは、『遺徳の形而上学』第一部 「法論の形而 上学的基礎論」のなかでカン トが述べ た文言である。『実践理性批判』では次の ように言われている。
「たんにあの普遍的な立法形式以外 に、意志のいかなる規定根拠 も法則 として意志のた めに役立ちえない とすれば、そ うした意志は現象の 自然法則、つ ま り、因果性の法則 か ら完全 に、相互的 に独立 に思考 されねばな らないo Lか し、そ うした独立性 は厳密 な意味、つま り、先験的意味での 自由 と呼ばれ る。従 って、格率のたんなる立法形式 のみを法則 として役立て うる意志は、 自由な意志である。
」 ( Ⅴ,S.29.)
この引用 に依れば、意志は普遍的な立法形式 によって規定 され る。 もしも傾向性や幸福 が意志の規定根拠 とされた場合、 これ には普遍性が見出せない。なぜな ら、傾向性や幸福 は各人で異なるか らである。 また、例 えば、椅子か ら立ち上がるとい う行為を物理学的 に 説明 した として も、それは出来事の経過 を説明 した にす ぎない。その場合 には、行為者が 何を目的 として座ったままではな く立ち上がろ うとしたのか、 とい う行為者の 目的の視点 が欠けてお り、行為者の行為の物理的説明か ら行為者の帰責可能性 を説明す ることはでき ない。それ故、カン トは自然法則か ら完全 に独立である道徳法則 による意志や格率の規定
こそが 自律的な行為の原理 とな りうる とい うことを論証 しよ うと試みたのである。
上で言われた 「先験的意味での 自由」は、『純粋理性批判』で論 じられた 「先験的 自由」
と同 じものである。「先験的 自由」とは、現象が物 自体 をその根底 に持つ とい うことに則っ て想定 された因果性であ り、ある現象 とある現象間の因果関係 とは別の因果性である。物 自体は現象か ら独立の原因性であるので、 自然法則か ら自由なのである。 この 自由が現象 と物 自体の原理的区別 にもとづいている とい うことは言 うまで もない。 この場合、現象か
‑ 3 3‑
ら独立の意志は物 自体である。
『道徳形而上学の基礎づ け』 (以下、『基礎づ け
』
)や 『実践理性批判』で言われている意 志はた しか に感性的衝動か ら支配 されていないだけでな く、意志 自らが立法す るとい う意 味での 自由を持 ち うる。 しか し、 これ らの著作は、道徳法則によって規定 され る純粋意志 の析出に精 力を注いでいるためか、悪い行為も選択 し うるとい う意味での 自由には全 く無 関心である。そのため、様々な行為の うちで善い行為を選択 しえたのに悪い行為を選択 し て しまったか らこそその行為者 にわれわれは帰責できるのに、 これ らの著作は結果 として 帰責可能性 を説明できず にいるのである。ところが、『道徳 の形 而上到 ]では 「意志」が 「選択意志」か ら明確 に区別 され、悪い 行為 を選択す る自由が認め られ る。 「選択意志」 とい う言葉 は 『基礎づ け』 にもあるが、
『道徳の形而上学』でほ ど明確 には 「意志」か ら区別 されてお らず、 「選択意志」が議論 の主題 にのぼることもない。 「意志」のほかに 「選択意志」が明確 に定義 され、道徳の体 系‑ と導入 された とい う点 においてま さしく 『道徳の形而上学』は、『実践理性批判』 と は大き く異なってい よ う。また、「選択意志」の導入 により真の意味での帰責可能性 も確 保 しえた と言えよう。
ここで、両者の視点 をま とめてみ よ う。『道徳 の形而上学』の視点は、選択意 志の視点 っ ま り感性的衝動 とかかわ りつつ あれ これ と選択 しうる自由を持つ者の視点、敢えて踏み 込んで言 うな らば、感性 と理性の統一体 としての 「人間」の視点である。それ に対 して、
『実践理性批判』の視点はあ くまで意志の視点つ ま り感性か ら独立の純粋理性の視点である。
『実践理性批判』か ら 『道徳の形而上学』‑ とカン トはなぜ視点の転換 を果た しえたの だろ うか。 これ を明 らか にす るのが、本稿の目的である。
2
実践理性 と道徳法則『実践理性批靴 ]か ら 『道徳の形而上到 ]‑の視点の転換の難 しさは、『実践理性批判』
の問題構制 にある。
『実践理性批判』が 目指 したのは、自然法則か ら自由な意志一般の原理の確立である。 し か も、それは 『純粋理性批判』 におけるようにたんに自然法則か ら独立 しているとい う程 度のネガテ ィヴな意味での 自由を想定す るとい うことではないOむ しろ、理性の事実、つ ま り、ア ・プ リオ リな綜合命題 としてそれ 自体でわれわれ に差 し迫って くる道徳法則の意
請 ( Vgl .V,S.3
1.)を提示す ることによって 自由の実在性 をポジテ イヴに説明す るとい う ことである。道徳法則は意志の規定根拠であ り、その限 りにおいて意志の 自由が成立 している。意志 の 自由 と意志による道徳法則‑の遵守 とい うことの関係が分析的な関係であるのか、それ とも綜合的な関係であるのか といった問題は、 自由の客観的実在性の証明 と密接 に関係す る。道徳法則 と意志の関係が分析的な関係 にあるとは、意志が道徳法則 に従 うことと意志 が 自由であることが分かちがた く結びついているのを意味する。つ ま り、意志が道徳法則 に従 うことと、意志が 自由である とい うことが同義だ とい うことになるOそれ とは逆 に、
3 4‑
意志 と道徳法則の関係が綜合的な関係 にある とは、意志が道徳法則 に従 うとい うことと意 志が 自由であるとい うことは、別の もの としてあるのを意味す る。それ故、意志つま り実 践理性 には道徳法則 に従 った り、従わなかった りし うる とい ういわゆる選択の自由が認め
られ るとい うことになる。
もしも道徳法則 と意志の関係が分析的である とすれば、『道徳形而 上学の基礎づ け」]で 言われているとお り、 「われわれがある存在者を理性的で、行為に関す る因果性の意識つ ま り意志を持つ もの として思考 しなければな らない とすれば、 自由を前提 しなければな ら ない
」 ( Ⅳ
,S.449.)とい うことが帰結す るだけである。 自由を前提す るだけでは、自由が 客観的実在性 を持つ とは言 えない し、 自由な行為者 に帰責可能性があるとい うこともまた 前提 され るにす ぎない。そ うな らないためには、道徳法則 と意志が綜合的な関係 にあると い うことを論証す るか、 もしくは、意志が道徳法則 に従 うとい う事態その ものを可能 にす るものを提示す るか、 この どちらかの道が 『実践理性批判』 には残 され る。ゲロル ト ・ブラウスは、遺徳法則 と意志が綜合的な関係 にある と考 え、 さらにそれ を ど う考えるべ きか考察 している。ブラウスは、根本的法則‑ これはア ・プ リオ リな綜合判 断である し、道徳法則 を意味す るが‑ の意識、つ ま り理性 の事実 について言われている
「もし意志の 自由が前提 となっているな らば、その命題は分析的である」 (Ⅴ,S.31
.
) と い うカン トの言葉 を解釈す る。 ブラウスに依れば、 もしもこの文言 どお り根本的法則が分 析的である とすれば、道徳的 に悪い行為の可能性を示 しえない こととなる2。なぜな ら、その場合には 自由な行為は、道徳法則 を遵守 しているか らこそ 自由なのだか ら、すべての 自由な行為が善い行為 とい うことになるか らである。それ故、ブラウスは根本的法則 を分 析的である とはせず、む しろ綜合的であると考え、道徳法則の遵守が直ちに自由を意味す るのではない とし、道徳法則か ら意志の自由を切 り離すのである。つ ま り、ブラウスは、
自律 とい う意味の 自由 よ りもむ しろあれ これ選択可能 とい う意味での 自由を理性 に根本能 力として認めてい こ うとす るのである。 以 下、前者を自律の 自由、後者を選択の 自由 と呼 ぼ うと思 う。
ところで、 ここで問題 となるのは、理性の事実 による自由の客観的実在性の証明の系 と して続 く 「純粋理性はそれ 自体でのみ実践的であって」 (
Ⅴ ,S.31. )
とい う文言 を どう解 するのか、である。ブラウスは、理性か ら自律の 自由を引き離 して しまったので、第一 に「それ 自体でのみ実践的で」 とい う文言を感性的傾向性が実践的である と解釈す る。 しか し、ブラウスは、感性的傾向性そのものがただちに実践的である とは しない。む しろ、理 性的存在者が 自由にもとづいて感性的傾向性 を格率‑ と採用す る限 り、感性的傾向性 は実 践的であ りうるだろ うとカン トが述べている とい うことを指摘 し、条件つ きで感性的傾向 性 に実践的な性格 を認めるのである
3
。この ことをさらにブラウスは発展 させ る。ブラウスは 「道徳法則がなければ理性は実践 的ではないのだか ら、理性 を一般的 に初めて実践的 にす るであろ うものは、まさしくこの 遺徳法則でな けれ ばな らないだろ う
」 4
と言い、 この ことは、道徳法則が特定の仕方での 定言命法 を可能 にしてい る、 とい うことを意味す る としている5。特定の仕方 とは、万人‑ 35‑
に妥当す るよ うな仕方 とい う意味である。そ して、ブラウスは感性的傾向性その ものに実 践的性格 を帰 して、 この道徳法則 を欠 く理性 を理論理性 とす るのであるoそ して、感性的 傾 向性が道徳法則 によって支配 され る と、それは実践理性 となるのであるo
さらにブラウスは、 この理論理性の根本性格が志向性 にある とし、実践理性 と理論理性 の相違は志向性 の相違 にす ぎないか ら、実践理性 と理論理性 は同一性 を持つ と主張す るの で ある
6
。カン トもまた理性の同一性 について主張 している し、理性が 「原理 の能力」である点 に っいては、理論 においても実践 において も変わ ることがない。 その点では、理論理性 と実
の ものに選択の 自由を認めて しまい、 さらにそ うした理性 に志向性 を認めた。 も しも理性 的存在者の理性や意志に、選択の 自由にもとづ いて感性的衝動 を選択する可能性があるの だ とすれ ば、そ して、それ こそが理性の根本的性格である とすれば、予め理性的存在者 に は自律の自由もまた想定 され ざるをえない。 なぜ な ら、 自然法則 に抗 して遺徳法則 を立法 できなければ、そ もそ も、 自然的衝動 にも とづ く格率 と道徳法則 にも とづ く格率 を選択す る自由 もまた切 り拓かれ ることはできないか らである。『実践理性批判』はま さしく自然 的必然性 に支配 されない積極的な 自由の客観的実在性を論証す る著作である。 にもかかわ らず、積極的な 自由が論証 され るに先立 って理性 に選択の 自由があるとすれ ば、結果 とし て理性 には自然的必然性か ら独立の 自由は決 して認め られない。従って、た とえ理性が 自 らの感性的傾向性 に抗 して善い と呼ばれ る行為 を採用 した として も、その採用根拠 もまた 自然 に依 る ことになる。そ うなれば、 もはや 行為主体の行為に対する責任は、 自然 もしく は自然の創造者 に帰 さざるをえまい。
仮 に百歩譲 って理性 に志向性がある として も、その志向性 はブラウスが言 うよ うな選択 の 自由を意味す る志向性ではな く、む しろ、対象を認識す るのか、それ とも対象を実現す るのか とい うどち らかの 目的‑ 向か うとい う意味での志向性なのである。
こ うした点か らも、理性その ものに選択の 自由を認めよ うとす るブラウスの主張 にわれ われ は同意できない。
そ して、ブラウスが何 よ りも決定的 に誤 っているのは、意志が 自由であることと意志が 遺徳法則 に従 うこととが分析的関係 にある とい うことと、実践理性がそれ 自体で実践的で あ り普遍的法則 を与 える とい う命題その ものが分析的であるとい うことを同一視 している 点である。前者が同語反復である とい うことはカン ト自身 もまた認めていることである。
しか し、カ ン トが綜合的だ と述べ てい るのは、 「君の意志の格率がつ ね に同時 に普遍的立 法の原理 として妥当 しうる よ うに行為せ よ」 (
Ⅴ
,S.30.)とい う命題である.なぜ この命 題が綜 合的か と言えば、君 の意志の格率の概念 中には普遍性 とい う概念が包摂 されていな いか らである。従 って、両者を結 びつ けるつま り綜合するのは経験 ではな く、ア ・プ リオ リな意志でな ければな らない。 この事実がア ・プ リオ リな綜合命題 としてわれわれ に差 し 迫 って くるのである (Vg
l.Ⅴ
,S.31.)。 この理性 の事実 を際立たせ るためにカ ン トは、意 志が質料的 に決定 され るとす る道徳説つ ま り感覚や完全性 といった ものによって決定 され‑ 36 ‑
るとす る道徳説 を枚挙 して、 これ らを拒否 している。
また、理性 の事実がア ・プ リオ リな綜 合命題であるか らと言 って、 「積極的概念 として の意志の 自由のためには知的直観が必要 とされることになるだろ うが、 ここでそ うした直 観を想定す る とい うことは許 され ない」 (
Ⅴ
,S.31.)O とい うのは、 こ うした知的直観 は『純粋理性批判』 においてすでに拒否 された ものだか らである。 もしも自由の知的直観が 可能であれば、行為者は 自由に道徳的な現象 を生み出す ことができるよ うになるだろ うが、
その よ うな存在者は神のみであろ うQそれゆえに、カン トは理性の事実を 「根本法則の意 識」 (傍点、筆者) (
Ⅴ
,S.31.)としたのである7
。 こ うして、経験的直観で もな く知的直 観で もない理性 の事実のみが 自由の客観性 を保証す る。従って、『実践理性批判』の議論 は道徳 に従 った行為が実現す るのか どうか とい うこと を問題 とはせず に、 自然法則に依 るのではな くむ しろ道徳法則 に依 る意志の規定の可能性 のみを問題 としていたのである。だ とすれば、理性その ものにまず初めに選択の自由を認 め、 さらに条件つ きで感性的傾向性 に実践的性格 を認めたブラウスにわれわれは同意でき ない。また、ブ ラウスが言 う 「自由」か ら 「自律の 自由」が結果 として欠落す る こ とに なったの も、理性の根本性格 を選択の 自由にあるとしたためである。
そ う考える と、道徳法則 と意志の関係はむ しろ分析的関係 と見な されるのが正 しい。そ して、 「純粋理性はもっぱ らそれ 自体のみで実践的であ り、 (人間に)普遍法則を与 える。
そ して、われわれはそれを道徳法則 と名づ ける」 (Ⅴ,S.31)とい う命題は、理性の事実、
つま り、道徳法則の意識 によって特殊な実在性
8
が与 えられ るのである。3
『実践理性批判』における理性の視点『実践理性批判』 は、道 徳法則 による意志の規定や意志の 自律 につ いて論 じてはいるも のの、現実的、個別的な場 面で問題 とされ るよ うな個々の行為については論 じえない。 ま た、道徳法則 に規定根拠 を持つ実践理性が、認識の体系的統一を目指す理論理性 とは異なっ た理性 に見えるの も疑いない。 さらに、 この ことは、『純粋理性批判』で区別 された感性 界と叡知界 をいっそ う引き離すのである。そ うなると、道徳法則 によって 自由になる意志 はなぜ悪い格率を採用 し うるのであろ うか、 とい う問いが即座 に生ず ることになるし、ま た、本来、 日常の中で問題 となる法や倫理 についてわれわれは何一つ語るすべ を持 ちえな
くなって しま うのである。
にもかかわ らず、カン トは 『道徳の形而 上学』では視点 を転換 させ るのである。 ブラウ スが直面 した国難は、カン トが 『実践理性批判』では意志 と道徳法則 の関係 を分析的関係 とし、その同一の意志が『道徳の形而上学』では綜合的な関係 とした と解釈 した点にある。そ の間題 は、『道徳の形而上学』が語 りうるよ うな法論や倫理 について 『実践理性批判』は
のも、行為者を現象体 と可想体に区分 した『純粋理性批判』での議論 を少 しも考慮せず に、意 志の 自由つ ま り自律の 自由にのみ 目を向けて しまったか らである。
そ もそも意志の 自由つ ま り自律の 自由の問題 とは、 自然必然性 に支配 された行為者の同
‑ 3 7‑
一時間の同一行為についてその行為者は自由なのか どうか、 とい う問題である。その場合 の問題は、例えば極悪人
A
といった特定の人間に自由があるのか どうか といった問題では ない。人間が一般的に自然必然性か ら独立 に、道徳法則を遵守す ることで存立するような 自由を持つ のか どうか、 とい うのがそ こでの問いである。従って、精神疾患のために殺人 を犯 して しまったある人や育ちが悪かったために盗み を犯 した この人 に責任 を帰 しうるの か どうか、 といった個別の事例は問題 とはな らない。そればか りか、 自律の 自由を前提 と しない限 り、悪い行為の動機や根拠を究明 してそれを犯 した人間に帰責可能か どうか とい う問題 もまた提起できまい。 とい うのは、人類 にそ もそも帰貴可能性がない とすれば、人 類 に包摂 され る各人にも帰責可能性がないのは必然的なのであって、善い行為であれ悪い 行為であれそれに対する責任は世界の創造者や 自然に帰 され るか らである。『純粋理性批判』のアンチノ ミー論でカン トは自然必然性 に従わない因果性 も思考可能だ とし、 自然必然性 を現象体 としての行為者 に、 自由を物 自体 としての同一の行為者 に帰 し た。 この 自由が先験的 自由であって、 これ に道徳法則の意識 を解 して実践的実在性 を付 与
したのが 『実践理性批判』の議論なのである。
この よ うにカン トの 自由を巡 る議論 をごく簡単 に辿 ってみ る と、『実践理性批判』の議 論は現象でも物 自体で もある行為者の 自由を自律の 自由の議論 によって基礎づ けるとい う ことにあった、 とわれわれは言 うことができる。それでは、選択意志は 『純粋理性批判』
で言われ るよ うに 「経験 によって証明 され うる
」( A80 2/B8 3 0 )
のであ り、感性的能力の 一部 として捉 えられるべ きなのだろ うか。 もちろん、『純粋理性批判J
lでも選択意志は 「感性的衝動か ら独立 に、理性 によってのみ表象 され うる動機 によって規定 され る
」 ( ebd )
とされているか ら、感性の一部 として捉えることはできない。だか らと言って、選択の自 由を自律の自由 と見なす こともで きないのである9。『道徳の形而上学』では、選択意志は「任意 に行動する能力が客観 を生み出すために行動す る能力 と結びつ く限 り、それは選択 意志 と呼ばれ る」 (
u,S.213)
とか、 「行為 との関係 において見 られた意志」 ( e b d. )
とか、あるいは、「理性が欲求能 力一般 を規定 しうる限 り、選択意志 もそればか りかたんなる願 望も意志 に含 まれ うる
」 ( ebd,)
と言われているD さらに、意志は 「選択意志を規定す る 根拠 との関係 において見 られた欲求能力」 ( eb d. )
とも言われている。従って、選択意志 は感性的衝動か らは独立 に行為を実現す るものであって、意志つ ま り純粋意志 (実践理性) によって規定 され うるものなのである1 0
。それゆえ、選択意志が 自由であるのは、その背 後に控 えた純粋意志が 自律的 に自由であ り立法的である とい うことによるのである。 しか し、選択意志 と純粋意志が同一性を持たないわけではない。両者 とも感性的衝動か ら免れ ている限 り意志なのであるか ら、その限 りにおいて両者は数的同一性 を持つ。そ して、『実 践理性批判』は、 自然必然性 によって道徳的行為を説明 しないためにまた人間に帰責可能 性を与えるために、選択意志が持つ、個々の行為にかかわ らない側面だけを抽象 して論 じ たにすぎないのである。『実践理性批判
J J
「純粋実践理性の分析論」の最後 において、カン トは 『純粋理性批判Jj で論 じられ た行為者を現象体 と叡知体 に区分す る議論 を改 めて持 ち出 してい る( Ⅴ,S.
‑ 38‑
9 5 f f
・)。 この議論 は、『実践理性批靴 ]の議論 の意義 を、自由を巡 る議論全体の流れか ら捉 えなおす よ うに読者 を喚起す るものである。 この ことは、『実践理性批判』の議論 は、ま さしく現象で も物 自体で もある行為者の 自由を、意志の 自由の議論 によって基礎づ けると い うことにあった とい うわれわれの解釈 を支えるものである。 しか も、 この箇所では、経 験論的な道徳論では、行為者の帰責可能性 についての原理的説明が成立せず、む しろ、カ ン トが採 った道のみがそれ について説明す るとい うことが述べ られている。また、具体的 に窃盗者の事例 を挙げて、経験論的な道徳論では窃盗者 に責任を帰せ られない とい うこと を論 じている とい うことか らも、『実践理性批判』が行為者一般の意志の 自由の基礎づ け を目指 していた とい うことを確認 しうるのである。とすれ ば、『実践理性批判』が現実的、個別的な場面で問題 とされ るよ うな個々の行為 について論 じえなかったのは当然であろ う。む しろ、現実的で、経験的な事柄は、議論の 外‑ と徹底的 に排除 されねばな らない。カン トは、 「理性は、意志を持つ 限 りの、つ ま り、
規則の表象 によって因果性 を規定す る能力を持つ限 りのすべての理性的存在者 に対 してひ とつの法則 として道徳性の この原理 を宣言す るのである
」( V,S.3 2.
)、とか、「この原理 [ 道徳の原理 ]は、人間だけに限 られ るのではな く、理性 と意志を持つあ らゆる有限な存在者 に関係 し、そればか りか、最高知性 としての無限な存在者 をも包括 してい るのである」( e b d .
) と言 う。 この ことか らも、『実践理性批判』が道徳の原理的な問題 を実践理性 に 定位 して取 り扱 っているとい うことを理解できるだろ う。ところで、『道徳の形 而上学』では、 「自由の法則は、それが外的行為 とその法則性 にか かわ る限 り、法的 と呼ばれ、 (法則)それ 自身が行為の規定根拠である限 り、それ は倫理 的である
」 ( Ⅵ ,S.214)
と言われている。前者は法論 を意味 し、後者は倫理学 を意味す る。法においてはまさしく外的行為が問題であ り、心 ざLが適法か どうかが問題 とされ るので はな く、な された行為が適法か どうかが問題 とされ る。それ故、外的行為が現象であると い うことは論 を侯たない。 また倫理学は、行為ではな く、行為の格率 に法則 を与えるので あって、格率は各人の心の中で立て られ るものである。 これ らを 『実践理性批判』 にお け る理性 の視点、つ ま り、同一の意志を現象 と物 自体‑ と区別す る立場か ら見てみれ ば、外 的行為は現象 に属す るもの として、倫理的な心 ざLは叡知界 に属す るもの として分断 され ざるをえない。従 って、『実践理性批判」]では法論 につ いて もまた道徳論 について も語 り えない、 とい うことになるのである11。 これ らについて語 りうるため には、純粋意志を持 ちつつ選択意志によって行為を実現 してい く存在、つ ま り、理性 と感性の統一体 としての 人間の立場が必要 とされ、それが示 されなければな らない。
4
理性 と感性の統一体 と しての人間『純粋理性批判』で も 『実践理性批判』で も人間が叡知的存在で もあ り、感性的存在で もあるとい うことは しば しば言われ る。 しか し、 これ らの著作では、叡知的存在 と感性的 存在の統一体 としての人間を叡知的存在 (理性的存在) と感性的存在‑ と明確 に分断す る 傾向が強 く、両者の統一の側面 について論 じられ る とい うことはなか った。 この統一の側
‑ 3 9‑
面が提示 されているのは、『判断 力批判』である。理性 と感性 の統一体 としての人間が ど のよ うな存在者であるのかを明 らか にするためにも、『判断 力批判』を見てみる必要があるo
『判断 力批判
』
は、 「情感的判断 力の批判」 と 「目的論的判断 力の批判」 とい う2
部門か らなる。 この著作は、美 と目的 について取 り扱 っていると一般的には理解 されているo し か し、『判断力批判』の内容を見てみる と、「情感的判断力の批判」では・崇高についての 判断が 「実践的諸理念 に対す る感情」 (Ⅴ ,S.2 65.
)の うちにある、 とされていた り、 「目 的論的判断力の批判」 においてカ ン トは、 自然の最終 目的を論 じ、 自然の中へ人間を位置 づ けた上で、神学や道徳につ いて論 じているのである (Vg
l.Ⅴ
,S・4 29‑4 85
・)。また、 こ の著作の生成の過程 を見てみる と、『実践理性批靴 ]の執筆 中に、カ ン トの心の うちです で に 『判断力批靴 ]の構想が熟 されつつ あった とい う事情 もある1 2
。 こ うした ことを考慮 に入れると、『実践理性批判』が人間か ら実践理性 を抽 出する方‑向かったのに対 し、『判 断 力批判』は感性 と理性を結びつ ける方‑ と向かっている点ではま さしく両者は逆方向‑と進 んでいるとはいえ、両者 とも道徳‑向かって議論が展開 された と思われる。本節では とりわ け目的論的判断 力の議論 を見ていきたい
1 3
。カ ン トは、「目的論的判断 力の批判」の付録 の中で、自然の中‑人間を位置づ ける。カ ン トは 『純粋理性批判』 において 目的論的思考が客観的実在性 を持たない として これを拒 否 したのだが、『判断 力批判』では条件つ きで 目的論 を認 める。 もちろん、 目的論が客観 的実在性 を持たない とい う 『純粋理性批判』の結論 をカン トは覆 しているのではない。む しろ、構成的 にではな く、統制的 に目的論が認め られて もよい とす るのである。それ故、
目的論はつね に統制的 にのみ使用 され る。
合 目的性 には、内的合 目的性 と外的合 目的性 がある。前者は、 「あるものがみずか ら原 因かつ結果である」 (
V,S.37 0)性質であ り、 この合 目的性 を持つのは有機体のみである。
それ故、有機体のみ を目的論的 にかつ必然的 に思考で きる。外的合 目的性 とは、 「結果 を 他の可能な 自然存在者の技術のための素材 とみなす」 (Ⅴ
,S. 367)
とい う合 目的性であ り、例 えば、肉食動物は人間を養 うためにある、 とい う判断は、外的 に合 目的的な判断 とい う ことになる。 この種の判断は、人間を肉食動物 のための手段 とすることも可能なので、偶 然的な判断 とされている (Vgl.
Ⅴ
,S.367. )
。 しか し、カン トは この外的な 目的論がた とえ 偶然的であった として も、 「自然の超感性的原理 の うちに、 自然の可能性 を表象す るあの 両方の仕方[機構 と目的論 ]が十分 に合一 しうる可能性がある」 (Ⅴ
,S.29 8.
) と言い、これ に思考可能性 を認め、 自然の体系の うちに人間を位置づ けてい く。 自然の諸事物 を目的 と 手段の関係で結びつ けてい くと最終 目的を問 うところにまでわれわれは到達 しうる。その ときにカ ン トは、われわれの悟性 と理性の性状 に従 って 「人間は、諸 目的 を理解 し、合目 的的 に形成 された諸物の集合を自分の理性 によって諸 目的の体系にす ることができる唯一 の存在者である」 (Ⅴ
,S.4 26,42 7)
と判定す るのである。次にカン トは、究極 目的 としての人間の うちにあって、達成 され るべ き目的 について明 らかにす る。それは、二つあ り、「人間の幸福」 と 「人間の開化」 (
Ⅴ
,S.4 30)であるC人
間の幸福 とは、人間の現実存在 を究極 目的 とす ることである。 しか し、そ うする と、本来、‑ 4 0
‑究極 目的であるはずの人間が、 自然 を目的 とす るとい うことにな り、人間が究極 目的 とは な りえな くなるのである
( Vgl . 1 7 ,S.4 31 )
。それ散、「人間の開化」が 自然の最終 目的であ ることになる。 しか し、 これ もまた不十分である。なぜな ら、 これはたんに 「欲望の専制 か ら意志を開放す る」 ( Ⅴ,S. 4 32)にす ぎないか らである。 ここでカン トは初めて究極 目
的を 「自分の可能性の条件 として他の どの ような 目的 も必要 としない よ うな 目的」 ( Ⅴ,S.
4 35)と言 い、それ は 「
叡知体 と見な された人間」 (V,S.4 35)であるとす る。
「目的論的判断 力の批判」付録 の議論 は 自然の究極 目的‑の問いを中心 に据 えて、動物 的な人間のあ り方か ら道徳的な人間のあ り方‑ と進 んでい く。 この議論 において、人間の 開化が人間の究極 目的 を、つ ま り人間が道徳的であるとい うことを感知 させ る とカン トは 言い、『実践理性批判』での道徳的な理性的存在者 とい う性格 を人間に付与 してい くので ある
( Ⅴ ,S.4 34‑4 35.
)。 ここで初めて、『実践理性批判』にあるよ うな意志についての基 礎論ではな く、む しろ人間学的な議論が切 り拓かれた。『純粋理性批判』や 『実践理性批 判』は活 き活 き とした現実 を理論 と実践‑ と局限 しているが、『判断 力批判』は この活 き 活き とした現実を理論的で も実践的 にで もな く明 らか にした と言えよ う。『判断 力批判」]は判断 力を主軸 とす るものであるか ら、 これが理論認識で もな ければ実 践 についての理説で もない とい う点は重要である。なぜな ら、われわれの生 とはそ もそも、
理論知で もな けれ ば実践 の理説 で もないか らで ある。その ことは 『道徳の形而 上学』で
「叡知体 と感性 体の因果関係 につ いてはいかな る理論 も存在 しないか らである」 (
Ⅵ
,S.4 39.
) と言われていることとも一致す る。そ して、叡知体 と感性体の因果関係についての 理論 が ないが ゆ え に、カ ン トは実践的 見地 か ら人格 を二重 に見 る よ うに言 うので あ る( vg l .S.4 39.
)。なぜな ら、理論で把握できる 「わた し」はあ くまで現象 としての 「わた し」 にす ぎないか ら、現象 としての 「わた し」を二重 に見るためには必然的 に叡知的な人 格を認める立場、つま り、実践的見地 に立た ざるをえないか らである1 4
0それでは、叡知体 と感性体つま り理性 と感性の結合を批判哲学は理論では説明できない ので、カン トは理論的説明を諦めて実践的な見地‑ と至ったのであろ うか。それは一面的 には正 しいのか もしれない。なぜな ら、叡知体 と感性体 との結合は批判哲学 によっては原 理的 に説明不可能であるのに、その説明を試み るのは無駄な ことだか らである。 しか しな が ら、上で言われた諦念が もしも批判哲学の否定 と取 られ るな らば、それは間違いである とわれわれは言わねばな らない。なぜな ら、物 を二重 に見る とい う批判哲学の見方が基礎 づ けられない限 り、実践的見地 に立つ こともまた許 されないか らである。た しか に、批判 哲学の結論か ら『道徳の形而上学』の立場‑ と理論的、演緯的 に至 ることは不可能である。し か し、『判断 力批判』が理性 と感性 の統一体 としての人間を判定 しえなかった ら、やは り
『道徳の形而上学』の議論が宙 に浮いた もの となるのは否定できないだろ う。
カン トが、意志の立場か ら 『道徳の形 而上学』 において選択意志を中心 とす る立場‑ と 転換 しえたのは、『純粋理性批判』、『実践理性批判』 において純粋な能 力の根拠づ けが達 成 され、人間が 自然必然性 に従いつつ も自由を持 ち うるとい うことが帰結 し、 さらに 『判 断 力批判』においてその よ うな人間のあ り方が示 されたか らなのである
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。‑ 4 1‑
カン トか らの引用は、基本的 にアカデ ミー版カ ン ト全集の巻数 とペー ジづ けに依る。ただ し、
『 純粋理性批判』 については 慣例 に従い、第一版を A 、第二版を B の記号で表 し、そのページ数 をアラビア数字で示 した。
1 原語 は 、Wi l l k u r 。慈意 と訳 され ることもあるC岩波書店版カン ト全集では 「 選択意志」 と 訳 されている。同全集第
7巻 に収録 されている 『 人倫の形而上学の基礎づ け』を訳 された平田 俊博氏がお付けになった訳註 に依れば 、Wi l l k t i rとい う語 は 、Wi l l e ( 意志) と Ki i r ( 選択)の 合成語であ り、意志 とい う意味を失っていない。本稿では岩波書店版カン ト全集での訳語を採
2 Vg l .Ge r ol dPr aus s,Rant sPr obl e m de rEi nhe i tt he or e t i s c he rundpr akt i s c he rVe mu n f t , KanfSt udl ' e n,Bd. 72 ,1 9 8 1 ,S. 2 8 9.
3 Vg l . Pr aus s ,e b d.
4 Pr aus s ,e b d.
5 Vg l .Pr aus s ,e b d 6 Vgl . Pr aus s ,S.2 9 8 .
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