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自由の客観的可能性と歴史の発展法則(七)

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1一一『奈良法学会雑誌』第8巻 1号(1995年6月〉 八 論 説

V

自由の客観的可能性と歴史の発展法則的

次 円 口 序 言 第一章社会的統合の手段(以上第四巻二号) 第二章社会的統合と白由 第一節統合と自由の関係(第四巻三号) 第二節政治的空間の規模︿第四巻四号﹀ 第三章﹁統合史観﹂ 第 一 節 理 論 付基本思想(第五巻三号) 同メカニズム︿第六巻一号) 局発展段階(第六巻三号) 第 二 節 検 証 付日本史の段階区分(未完・以上本号) ∞世界史における若干の事実

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第二節

前節において、﹁統合史観﹂の概要が明らかにされた。従来の種々の見方、とりわけ唯物史観に代わる︿と言っても、 経 済 を 原 動 力 と 見 る 点 で は 共 通 し て い る が ) ﹁統合史観﹂という新しい歴史法則が提起された。そしてそれが、 決して唯 一ではないものの、最も基本的・普遍的な歴史観であるとされたのである。しかし、その妥当性については、 まだ十 分な説明が与えられていない。それが実際の歴史に合致するものであるか否かは、 まだ未定である。そもそも﹁統合 史観﹂は、人間及び社会の本質についての根本的な考察に基づき、それにいくつかの基本的命題(一般的判断)を加え ることによって論理的に導出されたものである。従ってそれは、むろんその導出過程において理論的な基礎づけは可 能な限りなされたものの、具体的現実に依拠してはいないのである。ただ、前節において﹁発展段階﹂が設定された が、これはもちろん歴史的事実に対応している。それ故その点で、事実上既に或る程度の検証がなされたと言えるで あ ろ う 。 し か し 、 それはまだ、ごく一般的なものにすぎない。世界史全体(と言っても、文字通りのそれではないが)に ついての大まかな検証にすぎない。 ﹁ 統 合 史 観 ﹂ を 十 分 に 基 礎 を つ け る た め に は 、 またその思想自体をより明確にする ためには、もっと個別的・具体的に実証する必要がある。即ち、 ﹁統合史観﹂によって諸々の歴史的事実が統一的 整合的に理解され解釈されうることを、実際に証明してみなければならないのである。 但し、言うまでもなく、それが成功するとは限らない。もともと、あらゆる歴史観が或る特定の視点設定からくる 限定性を免れない以上、 それによって全てを説明することはできないし、可能な説明も多かれ少なかれ一面的である。 そのことは致し方ないが、 さ り と て 、 ﹁統合史観﹂と矛盾するように見える事実が、 おそらく数多く存在しているで あろう。それについてはどう考えるべきであろうか。ーーしかしその場合には、何らか別の要因が副次的に作用して

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いるのであるから(そうであるはずだと考えててもし合理的に可能であるならば、それを特殊的・媒介的条件として位 置づければよいのである。つまり、そのように諸要因の連関構造を明らかにすることができるならば、それによって ﹁統合史観﹂の基本的妥当性、その基本法則的性質を主張することができるのである。そしてもし、そうした処理が 不可能な場合には、史観そのものの修正に踏み切らねばならない。だが、それは決して敗北ではなく、学説の発展で あり真理への接近なのである。 ともあれ本節では、﹁統合史観﹂の具体的な検証に進まねばならない。それによって、﹁統合史観﹂が現実に合致し ( よ り 精 確 に 言 え ば 、 ﹁ 統 合 史 観 ﹂ に よ る 歴 史 的 事 実 の 解 釈 が 合 理 的 ・ 説 得 的 で あ り ﹀ 、 従 っ て 普 遍 妥 当 性 を も っ ( よ り 精 確 に は 、 一 般 的 に 妥 当 す る ﹀ と い う こ と を 、 一 亦 さ な け れ ば な ら な い の で あ る 。 そこで検証であるが、歴史的事実と言っても殆ど数限りなくあるから、始めに、何れを試金石とするかを決める必 3一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則的 要がある。即ち、検証材料として何を取り上げればよいかということである。まず一つは確定的であろう。それは日 本史の発展段階である。それと﹁統合史観﹂との一致を示さねばならない。換言すれば、 ﹁統合史観﹂に基づいて日 本史の整合的な段階区分を行なわねばならない。何故なら、(既述の如く)段階区分は歴史観そのものに等しいが故に、 西洋史(西欧史)をモデルとした先の﹁発展段階﹂の日本史に対する適合性を示すことは﹁統合史観﹂にとって死活的 に 重 要 だ か ら で あ る 。 しかし、それ以外の検証については、そうした必須性はない。従って、歴史的事実の中から適 当な検証材料を選択しなければならないが、私はそれを世界史(主に西洋史)の分野に求めたい。だが、取り上げるの は、その中の半ば洛意的に選択された若干の事実にすぎず、この分野での検証はさし当たって全く限定的なものに止 まらざるをえないであろう。しかし、現段階においては致し方あるまい。 ﹁統合史観﹂はまだ第一歩を踏み出したば か り だ か ら で あ る 。

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かくして以下、大別して二つの具体的な歴史的事実に基づいて﹁統合史観﹂の検証を試みる。今述べたように、そ れはまだまだ不十分なものであり、一つの突破口にすぎない。そしてその点で最も問題なのは、私自身に大きな(決 定的な?)制約が存在していることである。従って、検証は量的のみならず質的にも満足のいかないものであるかも

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れない。しかしそうだとしても、もし本節の説明が些かなりとも妥当性をもっているならば、それだけ﹁統合史観﹂ の基礎づけに寄与するであろう。 付日本史の段階区分 周知のように、ハ全国統一以後の)日本の歴史は基本的に統治権力(者)又は最高権力(者)の地理的所在によって時代区 分されている。即ち、大和(古墳﹀・奈良・平安・鎌倉・室町(南北朝・戦国を含む)・安土桃山・江戸・明治ハ以降﹀とい う具合であり、例外は明治以降だけである。明治以降は、権力の所在が前代と変わらないから(であろう)地名が採用 されず、また時代が現代に近いことから(であろう)細分化されており、かくして明治・大正・昭和と天皇の在位によ る区分となっている。この点(所謂)近代とそれ以前とで一貫しておらず、本来なら明治以降は一括して﹁東京時代﹂ とすべきであろう。ただ細分化については、近くのものは大きく、従って細かく見えるという自然現象からして、全 く不合理というわけではないが、しかし、上述の如き不統一一は学問的にはやはり問題であろう。 そ れ は さ て お き 、 日本史はまずこのように区分される。そして更に、それはより大きく古代・中世・近世・近代 (及び現代﹀の四つの段階に分類される。即ち(一般に)、︹古代︺大和・奈良・平安、︹中世︺鎌倉・室町、︹近世︺安土 桃山・江戸、︹近代︺明治以降(更には︹現代︺戦後)である。これについても、こうした区分はもともと三分法(古代、

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中世、近世又は近代)であり、近世と近代の区別(しかも、言葉としては本来同義でありながら)という点に形式上の問題が あお w しかし、日本史の現実が三分法より四分法に適合しておればそれでよく、要は具体的な歴史解釈の如何である。 そして、安土桃山と江戸が近世として特に区分されているということは、それらが中世とするには新しく、近代とす つまり独特の時代だということであろう。もしそうした見方が当たっているならば、四分法 る に は 古 い と い う こ と 、 でも差し支えない。とはいえ、 四分法はあくまで一一一分法を基礎にしているから、その折衷的・混合的性格は否めない で あ ろ う 。 ともあれ以上の如く、日本史は一般に各々の﹁時代﹂と包括的な四つの﹁段階﹂とによって区分されている。前述 のように、両者共に問題があるが、そのうち前者(時代区分)は或る特定の自覚的な学問的判断に依拠しておらず、道 トー“自由の客観的可能性と歴史の発展法則的 一応黙認することができる。だが他方、後者(段階区分)は、それは既述の如く歴史観その 一定の学的認識や思想に基づいているはずであり、またそうでなければならない。段階区分は優れ て歴史学的な営為なのである。それ故、こちらについては改めて聞い直す必要がある。その区分は妥当であろうか。 も 具的・中立的であるから、 の で あ る か ら 、 果たして、合理的な根拠が存在しているのであろうか。 結論から言えば、、どうもそうではないように思われる。根拠の合理性を問う以前に、そもそも学問的な根拠がない ように思われる。即ち、有り体に言えば、西洋史の基準をただそのまま導入しているだけなのではないか。そしてそ れは、日本の近代史学の形成と発展における外来的性格を直裁に示しているのではないか。何故なら、段階区分は歴 史哲学的思弁と個別的・実証的歴史研究の綜合の結果として設定さるべきものであるにもかかわらず、日本史にあっ ては始めから無批判且つ安易に前提されているからである。そこには、明確な根拠がない。段階区分というものが、 理論的認識に連らなる、歴史の全体的解釈そのものであることを考えれば、こうした情況は不可解と言わざるをえな

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い で あ ろ う 。 西洋史においては、既述の如く、ゴ一分法はルネサンス(﹁再生﹂﹀人の歴史意識に立脚していた。即ち、古典古代の再 生たる近代(現代)という見方に基づき、それらの聞が消極的に中世とされたのである。或は、﹁暗黒時代﹂たる中世 の否定(又は中世からの解放)としての近代という見方が反動的に古代の賞揚、 従って再生という考えをもたらしたの である。そしてまた、そのような三分法は(これも既述のように)マルクス主義の唯物史観と結合し経済体制ハ階級関 ところが日本史の場合には、(所謂﹀近代日本が何よ 係)の変化と対応することによって、 一 応 合 理 的 な 根 拠 を 得 た 。 りも明治維新に由来しているのは明白であるから、或は現代日本の大局的な出発点が明らかに明治維新にあることか ら、明治以降を近代とすることは理解できるとしても、それ以外の区分はどうであろうか。明治 H 近代として、全て の区分について統一的な説明がなされうるのであろうか。 ルネサンス的に、もし近代日本が﹁再生﹂であるとすれば、それは何の再生なのか。また、同じく中世の否定であ るとすれば、それは何の否定なのか。唯一考えられるのは、平安時代までの状態の再生ということ、鎌倉時代から江 つまりは王政復古ということであろう。しかし、それは歴史学理論 戸時代までの武家政権の否定ということであり、 として殆ど無益な皇国史観に他ならない。そして確かに、平安 l 鎌倉で古代 1 中世を区切るという仕方には、今だに その影響が残っているのではあるまいか。それでは、もし唯物史観的に社会構成史の視点から、古代日奴隷制、中世 H 封建制、近代 H 資本制という規定に依拠するとすれば、どうであろうか。それは整合的であろうか。否、この立場 は前述の一般的な段階区分と様々の点で合致しないであろう。それは、もともと後者が純粋に前者によって設定され たものではない以上、当然である。そしてその食い違いは、その修正のために近世を設定しても残るのである。かく し て 、 日本史における現行の伝統的段階区分は根拠が乏しいと言わねばならない。それが何らかの統一的観点、確閏

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とした一定の立場からなされているとは、到底思われないのである。 し か し な が ら 、 ではその区分は全く不合理か、廃棄さるべきかというと、そうでもない。それをそのまま容認する ことはできないものの、それは或る別の存在理由、その意味では一定の合理的な根拠をもっているのである。何故か と言えば

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再三指摘するように、あらゆる段階区分は何らか特定の歴史観の反映であり、その集約的表現である。 ということはつまり、それはそれ自体或る一つの学説、如何に通説的であれ一つの特殊な見解だということである。 従って、それに関して全ての或は大多数の人々の同意を得ることは、なかなか困難であろう。しかし他方、歴史の進 行や経過に関る形式的な共通尺度がないと、非常に不便である。そうでないと、 ぃ。そこで、このような事情から、折衷的・最大公約数的で無難な区分が求められることになる。現行の区分はおそ らくそうした性格のものであろう。それは説明や議論の際の便宜という点でいくらかの利点をもっているのである。 コミュニケーションがうまくいかな 7一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則帥 だが同時にまた、(上述の如く)それは単に形式的・中立的な道具ではなく一つの実質的な学説であるから、 それによ って様々の先入見や固定観念が植え付けられるというマイナスの効果をもっていることも、否めない。このようにプ ラス・マイナスが認められるが、学問的厳格性からすれば、それを受け容れることができないのは確かである。便宜 上の形式的尺度としてはともかく、歴史学の理論としては、もっと合理的な区分、明確な根拠に基づく統一的な区分 が設定されなければならないのである。むろん、それもまた﹁一つの学説﹂にすぎず、普遍的な尺度とはなりえない かもしれない。しかしその探求が、永遠に続く﹁現在﹂の歴史学の、従って果てしなき課題である以上、慣用的な区 分は常に聞い直さるべきなのである。 そ れ で は 、 より合理的な区分とは何であろうか。我々は如何なる区分法を採用すべきなのであろうか。私に言わせ れば、もちろん﹁統合史観﹂のそれである。ただ、 ﹁統合史観﹂の段階区分法と言っても、それは二つの意味をもっ

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一つは抽象的な意味であって、それは理論、つまり政治的空間の拡大と統合の在り方(強権化及び自由 化)とによる区分ということを指している。またもう一つは、具体的な意味であって、それは理論を事実に適用した 結果、つまり西欧の歴史を基準とする四段階の区分ということを指している。そこで日本史は、前者の意味における 区分法を採用すべきなのは当然であるが、問題は、それが具体的に後者の意味における区分法を帰結するか否かとい 日本史にも適合するであろうか。理論的予測としては、まさ て い る 。 即 ち 、 うことである。先に基本的な発展段階とされたものは、 に適合すると考えられる。何故なら、それはなるほど西欧をモデルとしているが、日本と西欧の類似性の故に、(前節 目の注$で指摘したように)そのモデルに日本を含めてもよいくらいだからであお w また、仮に日本と西欧との異質的 側面に注目するとしても、既述のように歴史法則はあくまで理念型であるから、もしその日本史に対する適用に無理 が認められるようであれば、それをベlスに日本の特殊条件を加えることによって修正すればよいのである。しかし、 結論から言うならば、殆どその必要はない。﹁統合史観﹂における﹁発展段階﹂は基本的にそのまま日本史に対して も当てはまるのである。﹁強権化﹂と﹁自由化﹂の具体的諸相は当然異なるが、従って例えば、(次に示すように﹀封建 制や絶対主義といった西洋史のキーワードはそこには見当たらないが、段階区分自体は同一なのである。 そこでその区分であるが、日本史においてはどのようになされるのであろうか。まず、日本史の各時代との対応を 示せば、左記のようになると思われる。

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原始)村落共同体︹縄文時代・弥生時代前期︺

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古代)単一目都市国家︹弥生時代中・後期︺

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中世)複合目分邦国家︹古墳時代

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戦 国 時 代 ︺

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ω (

近 代 ) 単 一 H 国 民 国 家 ︹ 安 土 桃 山 時 代 ) ( 現 在 ︺ 次に、各段階における﹁強権化﹂と﹁自由化﹂の具体的内容については、以下のようになるであろう。 八 強 権 化 ﹀ ︿ 自 由 化 ﹀

ω (

原 始 ﹀ 村 落 共 同 体 ︹ 共 有 制 1 ← 私 有 制 ・ 階 級 分 化 ︺

ω (

古代)都市国家︹専制!←氏族連合︺ 帥(中世)分邦国家︹律令制・御家人制│←惣・悪党・一挨・座・自治都市・下剤占

ω (

近 代 ﹀ 国 民 国 家 ︹ 身 分 制 ・ 幕 藩 体 制 ! ← 明 治 維 新 ・ 自 由 民 権 運 動 ・ 立 憲 制 ・ 大 正 デ モ ク ラ シ ー ・ 戦 後 民 主 主 義 ︺ 与一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則帥 このような見解は、(仮に無視されないとすれば﹀大変な驚きをもって迎えられるであろう。そして、大多数の歴史学 者はそれに対して拒否反応を示すであろう。具体的に言えば、それは例えば次のような諸点についてである。即ち、 古墳時代から中世としている点、古墳時代から戦国時代までを同一の段階としている点、近代及び国民国家を江戸時 代からとしている点、江戸時代と明治時代を直結している点、明治維新以降を﹁自由化﹂の時期としている点、そし て更に、それと戦後民主主義とを一連のものと見ている点など

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確かに、これらは日本史の常識に著しく反する 見方であおw従って、歴史の事実に合致していないと直ちに断ぜられるかもしれない。 ﹁統合史観﹂を百本史に適用すれば、或は前者の立場から後者を再解釈すれば、 このような結果になるように思われる。︹但し、それは必然的ではないかもしれない。つまり、私自身はそれが最も妥当な適用 しかし、私に言わせれば、第一に、 方 法 で あ る と 考 え て い る が 、 同 じ ﹁ 統 合 史 観 ﹂ に よ る 別 の ヨ リ 適 切 な 解 釈 が 存 在 す る 可 能 性 が あ り 、 そ の 意 味 で は 私 の 解 釈 は 一 つ

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の 試 論 で あ る 。 ︺ ま た 第 二 に 、 ﹁統合史観﹂によるそのような段階区分のほうが統一的・法則的であるのみならず、事 実に合致又は適合しており、従ってヨリ合理的・説得的であると思われる。しかしもちろん、こうした私見について は詳しい説明を要する。そして問題は、第一点は﹁統合史観﹂サイドの問題であるから、第二点にある。即ち、 合史観﹂による区分のほうが通説よりもベターか否かということにあるが、そのうち、前者のほうが統一的・法則的 統 であるということについてはおそらく大方の理解が得られるであろうから、結局問題は、それが事実にヨリ適合して いるか否かということにある。上述の段階区分は、通説との比較はさておき、果たして本当に事実に合致しているの であろうか。また、どれくらい合致しているのであろうか。以下、 ( B U もしれないが)してみなければならない。 これについて可能な限り実証(その名に値しないか 日本史の全体的特徴についてであ る。それについて予め説明しておいたほうが、理解を得やすいであろう。それはこ点あるが、それらはいずれも、極 ただ、その前に一言しておくことがある。それは、このような段階区分に関る、 東に位置する狭小な(加うるに自然環境に恵まれた﹀島国という日本の地理的条件に由来している。まず第一は、そうし た条件からして一つにまとまり易いが故に、全国的な(正確には日本列島の)統一が早いということである。従ってま た 、 ﹁近代日国民国家﹂の段階も早い。それはヨーロッパで最も早かったイギリスとほぼ同時期であるが、 イギリス も同じ島国であるということは、単なる偶然ではないであろう。 しかし第二に、そのように一体性が高く、外的な撹 乱要因も殆どないが放に、政治的発展においては漸進的だということである。即ち、革命的な変化に乏しく、体制の 変革もせいぜい再編成なのである。これらのことが、上記の段階区分において﹁中世 H 分邦国家﹂が(世界史的に見て も﹀早く且つ永い(約千三百年間)こと、そして江戸時代と明治時代以降、が同一段階にあることを、 もたらしているの であろう。またそれらのことが、 日本史において重要な意味をもっ封建制が時代と段階を超えて永く(明治維新後も

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なお)存続した原因であろう。ともあれ、もっと具体的に見てみなければならない。

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原 始 ﹀ 村 落 共 同 体 H 縄 文 時 代 ・ 弥 生 時 代 前 期 ︹ 共 有 制 │ ← 私 有 制 ・ 階 級 分 化 ︺ 縄文時代の前に、先土器文化と呼ばれている時代(岩宿時代)がある。大雑把に言えば、それは洪積世(更新世﹀に属す る、文字通り土器のない時代、また石器についても自然的な旧石器の時代であり、その生活形態は獲得経済、即ち狩 猟・漁揚や植物採集に基づくものであった。当時、村落共同体と言えるまうなものが存在したか否か、定かではない。 しかし、沖積世(完新世﹀に入ると、自然環境の変化も手伝って、新しい文化が発生する。即ち、縄文文化である。 この時代はほぼ、(世界最古と言われる)土器と共に磨製石器が登場した新石器時代に当たるが、食料は依然として(広 義の)採集に頼っていた。ところがやがて、西アジアや中固と同様・地域性はあるものの農耕(作物栽培や焼畑農耕﹀が 11一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則伯 行なわれるようになる。そして縄文時代の後期又は晩期には、雑穀を中心とする畑作や原始的な稲作(混作)が定着す るのである。また社会形態については、既に採集生活の時代から、山・川・森・海の︿世界屈指の)豊かな食料資源に 恵まれて定住が行なわれたため、集落を形成したし、更に農耕は、その生産の相対的な安定性と集団的作業の必要性 の故に、本格的な﹁村落共同体﹂を生み出した。事実、遺跡は竪穴式住居の集落を示しており、また、住居跡や貝塚 も円環状など一定の形をしている。しかしその規模は、低水準の生産力を反映してあまり大きくなかった。それは時 代によって異なり、当然拡大傾向にあるが、だいたい家族及びハ父系又は母系の﹀親族を単位とする数戸から数十戸、 従っておそらく十人程度から百人くらい(或は例外的に数百人)までであった。それ故、その内部における分配や所有 は基本的に平等なものであったと考えられる。即ち﹁共有制﹂であり、十分な意味での富も権力も未だ成立するに至 一個の集団である以上、族長・首長や多少の階層又は役割分担は存在したであろうが、明確 ら な か っ た に 違 い な い 。

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ハ ロ ﹀ な階級的区別はなかったであろう。このことは、住居の均一性、共同墓地の存在と副葬品の欠如などによっても一市さ れ て い る の で あ る 。 ところが、生産力が序々に-高まり、同時にまた、倭人などの交易活動を通じて朝鮮半島及び中国大陸から様々の技 術、が(人間と共に)渡来するようになると、生活様式は文化的にも社会的にも大きく変化する。即ち、次の︿おそらく 前 回 世 紀 頃 の 北 九 州 に 発 す る ) 弥 生 文 化 の 時 代 で あ る ︹ と は い え 、 そ れ は 縄 文 時 代 の 終 わ り と 裁 然 と 区 別 す る の は 困 難 で あ り 、 また地域差、特に西日本と東日本との聞の大きな差が、ある︺。この時代、土器が高度化しただけでなく、やがて金属器(青 銅器及び鉄器﹀の使用・製作も始まった。だが、最も重要な事象は(やはり縄文末期に北九州で始まり急速に東進した)稲 作の一般化と発展である。それは、生産力の上昇があれば、穀物としての蓄積可能性の故に余剰をもたらすからであ る。その重大な意義は言うまでもなかろう。既述の如く、余剰は非生産者の生存を可能にすることによって必然的に 分業(及び職業の多様化﹀を、従ってまた団結心の稀薄化と能力主義的思考の発生が加わって﹁私有制﹂を、生み出す のである。そしてその分業及び私有制からは、これも必然的に貧富の差が、従って﹁階級分化﹂が生ずる。こうした しかし、弥生時代前期におい 変化は、共同作業の必要と生産増からくる人口増とによって集落の拡大を伴っていた。 ては、湿田ということや低技術の故に生産上昇は緩慢であり、生活空間は村落共同体の域を超えるものではなかった。 それは血縁的な限界をもっていたのである。

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古 代 ﹀ 都 市 国 家 H 弥 生 時 代 中 ・ 後 期 ︹ 専 制 │ │ ψ 氏 族 連 合 ︺ 弥生時代も中期に入ると、鉄器による木製農具が普及し、土木技術にも改良が見られる。また、治水・濯慨も大が かりになり、乾田での生産も始まる。これらによって農業生産力は更に上昇し、人口の増加も著し J 川町加えて、生産

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-土木工事・祭式などのための動員や協働も大規模化するが、それは否応なしに村落共同体の拡大と権力の強大化を もたらす。そしてそれは、集団聞の対立・抗争を惹き起こし(おそらくこれが本格的な戦争の起源であろうがてやがてよ り大きな、地縁的な政治的空聞を創出せざるをえない。それが﹁都市国家﹂であり、当時見られた各地の﹁小国﹂が ﹃漢書・地理志﹄に百余固と記述のあるような、また﹃後漢書・東夷伝﹄に奴(又は委奴)と あるような国家である。このことは、環濠集落や墳丘墓などの遺跡も物語っているであろう。 それに相当する。即ち、 このように、都市国家の成立が認められるが、その内部の社会的・政治的実態については不明である。従ってまた、 ﹁強権化﹂と﹁自由化﹂についても、確かなことは判らない。ただ、食料資源に恵まれた自然環境や小規模な稲作国 家ということからして、権カはそれほど強大ではなく、統治者は司祭者的・長老的なリーダーといった存在であった ろう。また、国土の狭陸や島国ということなどからくる全国的統一の容易さの故に、この(都市国家の)段階は短かい 13一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則的 から、政治的に大した変化は生じなかったのではないかと推定される。とはいえ、 会の安定化と経済の発展に伴って(それらは人為的統合の必要量を減らすから)族長クラス或は共同体首長層が台頭してく るであろうということである。もしそうであるならば、王の権力は彼らの十分な協力を必要とするようになるであろ う。そこで、このような推理に基づいて、﹁強権化﹂と﹁自由化﹂については表記の如くそれぞれ﹁専制﹂(相対的に﹀ ( U ) と﹁氏族連合﹂としておきたい。 一つ考えられるのは、国家及び社 ところで、有名な邪馬台国ハ又は邪馬壱国﹀はどのように捉えるべきであろうか。邪馬台国は、唯一の文献資料たる ﹃説志倭人伝﹄によれば、二世紀末の倭国の大乱の後三世紀前半に三

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の小国を支配していた。そこで、﹁都市国家﹂ が次の﹁分邦国家﹂へと発展していく過程で征服などによって地域的に結合することは、当然ありうるから、もしそ の記述が正しいとすれば、邪馬台国はそのような国家であると考えることができるであろう。つまり、その所在が畿

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内であれ北九州であれ、従ってまた、邪馬台国が大和政権に宜結するにせよしないにせよ、それは大和政権による全 (拍 m v 国統一ハ又は﹁九州王朝﹂による覇権?)までの過渡的な形態又はその一つなのである。その内部構造について言えば、 その権力は、中国による後楯の有無はともかく、過渡期(都市国家段階の終わり)という情況からして決して強くはな 円 四 ﹀ かったと思われる。それはおそらく﹁隷属下の諸小国の独立性の強い統合体﹂であったろう。そしてこうした邪馬台 円 相 訓 ) 国以外にも、類似の地域的統合がいくつか存在したに違いない。それは、西日本における各種の青銅器の類別分布状 況からも推定することができるのである。 団 附 ( 中 世 ) 分 邦 国 家 H 古墳時代}(戦国時代︹律令制・御家人制│←惣・悪党・一按・座・自治都市・下魁上︺ この段階についての説明に入る前に、基本的歴史法則(西欧の歴史をモデルとする理念型)との相違点について言及し ておいたほうが、理解し易いであろう。というのは、第一に、歴史法則(発展段階)では、﹁中世目分邦国家﹂の﹁強 権化﹂として﹁封建制﹂が挙げられていたからである。つまり、それによれば、西洋史において﹁中世目分邦国家﹂ とは封建国家を意味し、従ってまた、中世とは(一見したところ﹀八世紀から一

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世紀くらいに始まるということにな るが、それは、ここに提示された日本史の中世と著しく或はかなり食い違っているからである。そして第二に、古墳 時代から中世というのは余りにも通念に反し、それが歴史法則に合致するとは思われないからである。こうした理由 から、西欧の中世と日本のそれとの比較について予め述べておいたほうがよいというわけである。そしてそのために は、西欧中世ハその始期)についてやや立ち入って見ておく必要があろう。 具体的検討に当たって一つ指摘しておかなければならないことがある。それは、基本的歴史法則は(西欧の﹀或る一 国又は一民族(民族グループ﹀の歴史に依拠したものではないから、段階と段階の聞の継続性又は連続性については必ず

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しも留意していないということである。その発展段階図式は各段階毎の概括的な特徴づけにすぎない。従ってそこで は、その概念規定に十分合致しないような具体的な歴史時代は省略されているのである。例えば、﹁古代目都市国家﹂ の﹁共和制・民主制﹂の時代と﹁中世 H 分邦国家﹂の﹁封建制﹂の時代との聞には、現実には空白がある。しかるに、 今日本史について行なっているように、或る地域の具体的な歴史を継続的・連続的に構成しなければならないときに は、そのような空白を埋める必要がある。そこに﹁日本史﹂と﹁西洋史﹂(歴史法則)のズレの少なくとも一因がある のは確かであるから、西欧﹁中世﹂の歴史について(むろん、ここでの問題に関る限りにおいてて単なる﹁封建制﹂とい う規定に終わらず具体的に見てみなければならないのである。 そ こ で ま ず 、 西欧中世がいつから始まるのかということであるが、 一 般 的 に は 、 四世紀終わりのゲルマン民族大移 動の頃からとされている。直接的契機としてはそれでよいであろう。しかし、政治的空間をスケールとする﹁統合史 15一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則同 観 ﹂ か ら す れ ば 、 メロヴィング朝のフランク王国からと見るべきであろう。即ち、 五世紀末のクローグィスによるフ ランク族の国家統一からである。何故かと言えば、 一 つ に は ( 西 欧 と い う こ と に つ い て 言 え ば ) 、 フ ラ ン ク 王 国 が ヨ l ロ ッ 。ハ(西欧﹀というまとまりの、つまりそれまでの地中海文明から区別された内陸的なゲルマン世界の、母胎となったか らであるが、本質的には(中世ということについて言えばてそれが古代ロ l マ帝国崩壊後最初の(当時としては﹀本格的 な統一国家であると共に、確かに﹁分邦国家﹂だったからである。 ここで当然、(他の点はともかく)﹁分邦国家﹂ということが問題となるであろう。 フランク王国は﹁分邦国家﹂と言 えないのではないか。それは強力な国王支配・政治的統一を実現したのではないか。しかし、そうではない。フラン ク王国においては、大土地所有者たる地方豪族がそのまま同時に高級役人(伯)としてそれぞれ独立した統治、即ち私 的支配を行なっていたのである。 しかも、それさえもその自己矛盾の故に均衡を失せざるをえず、 ﹁ 国 王 の 役 人 が 、

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国王から、驚くべき速さで直属の臣民と納税義務者とを奪っていく﹂事態は、避けられなかった。そしてそれは、 ハ 匁 ﹀ ミュニテ特権によって公認され、行きつくところは﹁無政府状態﹂である。こうした構造的脆弱性のために、 イ ﹁ グ ロ ーヴィスの没後メロヴィング朝を通じてつねに分裂と内乱をくり返し、ときに統一されることはあっても永続するこ ( お ) ( 剖 品 ) とはなかった﹂のである。 だがなるほど、次のカロリング朝(七五一 l 九 八 七 年 ) に 入 り カ l ル 大 帝 ︿ ジ ャ ル ル マ I ニユ)の時代になると、強大な 王権が確立したように見える。そこでは、国王巡察使制度などによって中央集権体制が形づくられた。しかし、それ ( お ﹀ ハ お ) も﹁実は二重三重の意味で見せかけの統こであった。カロリング王国もまた、 ﹁国王と地方有力者とのなんらかの 政治的なつながりによって成りたっている人的なまとまりそのもの﹂に他ならず、極めて不安定であって、 ハ 幻 ﹀ 家のような領域的な統一性はどこにも存在しない。﹂ ﹁ 近 代 国 しかも﹁カロリンガ I 期にお (帽品﹀ ける国王の直轄的支配領域は:::一般には豪族支配領域と交錯しながら王国の各所に散在している﹂状態であった。 ︿ 帆 m v ﹁この主政では一切がばらばらに見える。﹂おまけに、国王及び地方豪族と人的結合関係に入らない農民も多数存在 ( 羽 ) したと推定される。つまり、王国は﹁多様な著しい地域差をふくむきわめて緩い支配圏﹂であり、従ってその統治は 名目的であって、制度・法令と実態との事離が甚しかったのである。そこには国家財政さえなかったし、紛争や事件 においては、統一権力不在のために自力救済の原則が支配し、私闘による解決しかなかった。このような情況であっ ﹁かれの死後、帝国は急速かつ確実に解体・崩壊の道を歩み﹂出すのであ 国王自身、最大の領主にすぎず、 た が 故 に 、 メロヴィング朝の場合と同様、 る 。 即 ち 、 かねて進行中であった領主権の伸長、伯の独立化であり、封建制の成立である。 か く し て 、 ﹁ 分 邦 国 家 ﹂ であったことは明白である。 フランク王国は西欧世界で最初の ﹁ 分 邦 国 フランク王国が 家﹂を形成し、やがてその中から封建制を生み出したのである。それ故、歴史法則に従って西欧諸国(大陸の)の歴史

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を段階区分するとすれば、前述の如く一国史の場合には連続性が必要とされるから、﹁中世日分邦国家﹂の﹁強権化﹂ として封建制の前にカlルの体制などを付け加えるべきであろう。およそ国家統一の、多少とも組織的な確立には、 それがどのような国家であれ時聞を要する。西欧の﹁中世日分邦国家﹂段階においても、封建国家が一挙に成立した わけではなく、そこに至るまでのフランク王国の存在とその歩みは、歴史法則からしても自然であり順当なのである。 概括的な西洋史をモデルとする基本的歴史法則を逆に個別的・具体的な西洋史に適用し、段階区分してみると、中 世の始まりについて以上のように規定することができる。つまり、﹁中世日分邦国家﹂の前期(強権化﹀の基本は封建 制であるが、中世の幕明けはその前のフランク王国創立にあるのである。そうであるならば、そしてそのことをよく 日本史における﹁中世日分邦国家﹂の段階設定(日本の中世は古墳時代に始まり、その前期の基本は律令 制と御家人制であるという)が決して非常識なものではないことが判るであろう。それどころか、西欧と見事に(不思議 認 識 す る な ら ば 、 17一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則的 に?)一致していることが判明するのである。即ち、(日本史の各事項についてはまだ説明しておらず、詳しくは後述に委ね ざるをえないが﹀古墳時代における大和政権の全国統一(四 i 五 世 紀 ) は ク ロ 1 ヴィスによる統一︿五世紀末)に、律令 制による分邦国家の確立(七世紀末 l 八世紀初め﹀はカlル大帝による王国の拡大・強化(入世紀終り l 九 世 紀 初 め ) に 、 そして奈良時代から平安時代初めにおける墾田地系の初期荘園(八 1 九世紀)は西ドイツ地方の古典荘園(七 l 八 世 紀 ) に、更に平安末期以降における武士聞の封建的主従関係及び御家人制の成立(一二世紀より)は北ガリア地方の騎士間 ︹ 川 社 ) のそれ(一一世紀末より)に、それぞれ概略対応しているであろう。西欧において、 ﹁分邦国家﹂フランク王国の歴史 の中からその国家的確立(強権化)として封建制が生まれてきたように、 日本においても、 ﹁分邦国家﹂たる大和国 家の歩みの中でその国家的確立(強権化)として律令制と御家人制が登場してきたのである。 日本史において古墳時代から中世とすることは、何ら奇異な考えではないということ このように見てくるならば、

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になるであろう。まだ日本史自体の検証は行なっていないが、少なくとも西欧との比較からして決して不自然ではな い。それどころか、それは西欧の歴史と時期・経過共に驚くほど合致しているのである。しかし考えてみれば、これ は﹁発展段階﹂における日本と西欧の類似性(まだ証明途上であるが)からして、当然ありうる結果であろう。 以上、まず始めに、﹁中世 H 分邦国家﹂段階の設定に関して予想される呉和感や拒絶反応を多少とも和らげるべく、 少し弁証してみた。むろん、それはまだ傍証にすぎない。直接的な検証はこれからである。そこで以下、いよいよ段 階そのものの具体的な説明に入ってゆかねばならない。 古墳時代から戦国時代までを一貫して同じ﹁分邦国家﹂と見なすということは、次のように考えるということであ る。即ち第一に、既に古墳時代において全国(まだ日本列島、更に精確には関東以西)の統一がほぼ達成されたというこ と、第二に、統一はそれ以後江戸時代(先駆的には安土桃山時代﹀に到るまで実効的・中央集権的なものではなかった ということ、そして第三に、律令制や鎌倉・室町両幕府など、その聞の各時代を画する統一的・二万的支配の試みは、 いずれも革新的なものではなく、﹁分邦的﹂体制の下での再編成にすぎなかったということである。それ故、﹁中世 u 分邦国家﹂に関して論証するためには、この三点について説明する必要があろう。 そ こ で 、 まず第一点の、古墳時代における列島統一ということについて。││三世紀末(中には後半﹀から四世紀初 めに巨大な古墳が出現するが、それは言うまでもなく強力な権力者のそれを示している。また、その規模や空間的・ 時間的分布状況からして、それはおそらく大和を中心とした(その起源はともかく)政権の誕生を意味していると考え ることができる。そして、それが四世紀の聞にほぼ全国的な統一政権となったことは、定型的な前方後円(方)墳や銅 鏡(コ一角縁神獣鏡)・万剣の分布から推測できるであろう。更に、好太王の碑文や﹃宋書﹄(倭の五王﹀などが示す朝鮮 半島への進出(その実態、日本と半島の具体的関係は不明確であ私的)という事実も、その主体が何処(九州?﹀にあれ、

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大和政権(又は倭王権﹀の成長を物語っているであろう。 但し、その統一の程度は非常に緩やかであり、連合的なものであったと推定される。 つまり、地方にも有力な豪族 や文化圏(例えば土品・毛野・出雲など﹀が存在したし、中央と地方とは(冊立・分封なども含%)同盟的なつながりにす ( 訂 ﹀ ぎなかったであろう。従って、それは不安定であったが、次第に強化されることによってより国家らしくなっていっ たに違いない。そして概括的に言えば、五世紀の外的志向性の強い軍事的覇権体制に代わって、六世紀には国内統一 ( お ﹀ のための制度的整備が図られた。それ故、統一国家の成立時期をいつに求めるかということは、国家の概念、それに よる基準のとり方によって変わってくる。そのため、その時期を、例えば、地方首長の最後の大規模反抗となった六 世紀初めの(所謂)磐井の反乱以後と見ることも、また律令制評価の観点から、そして文字通り﹁日本﹂及び﹁天皇﹂ の名称の成立という点から七世紀の後半ないし末まで遅らせることも、 一つの見解であろう o しかし、応神(誉回山) 19一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則的 -仁徳︿大山﹀の巨大な陵墓などを考えれば、国家形成(ともかく中央権力の成立という意味における﹀の下限は五世紀の 始めから半ばを下ることはないと見るのが、妥当であるように思われる︹但し、拙論にとって時期の問題は重要ではない︺ 0 ところで、今述べたことに関るが、十分な国家統一は一郭一タになされることではない。先にも西欧ハフランク王国) との対比で言及したように、大和政権による一応の統一がなされてから﹁分邦国家﹂として一定の確立を見るまでに は、やはり或る程度の時聞が必要である。後者は律令制の施行からと考えられるので、四・五世紀から七世紀までは その準備期間ということになる。そしてそれは、後述するように、ちょうど﹁近代目国民国家﹂段階における安土桃 山時代に匹敵するであろう。つまり、 ﹁国民国家﹂の確立は江戸の幕藩体制からであるが、それは織豊政権に発して お り 、 ﹁国民国家﹂は安土桃山時代からとすべきなのである。 それはともかく、次に第二点(江戸時代以前の統一権力の非実効性)についてであるが、これは第三点︿その間の各体制

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の非革新性)と相互に関連しているので、合わせて説明することができよう。繰り返すが、江戸時代に至るまでは、 古墳時代以来各々の時代を通じて真に統一的な中央権力が成立したことはなかった。全て分権的・多元的な統治形態 であり、従って常に﹁分邦的﹂だったのである。そのことを実証するのが、 ここでの課題である。そこで以下、各時 代を特徴づける主な権力体制や基本的な制度について順次見ていくことにしよう。それらは悉く﹁分邦性﹂を示して い る で あ ろ う 。 国家設立の初期の体制が連合的・地方分権的であるのは避けられないが、大和政権の場合、その性格は (品制﹀ 継続した。大和政権の下で次第に成立した基本的な政治体制は、氏姓制度と呼ばれている。それは(世襲の)氏族に対 して姓を授与することにより、豪族を政治的に分類し序列化するものであったが、その成立基盤は政治権力の連合性 にあった。換言すれば、氏姓制度はその直接的な反映であった。前述の如く、中央・地方の関係が連合的であるのみ 氏姓制度 ならず、中央権力自体が畿内豪族の連合政権(部族同盟﹀だったのである。そして、天皇(正しくは大王又は治天下大王) 対 し て も 、 ヤマト政権の内部においても、 まさに本来等質な王の中の王││大王であった。﹂ また、列島各地の地域政権に は豪族中の第一人者にすぎなかった。 ﹁ 当 時 の 倭 王 は 、 このような連合性は、皇族及び諸豪族がそれぞれその 権力基盤として私有地(皇族は屯倉、豪族は回荘)と私有民ハ皇族は名代・子代、豪族は品部・部曲)をかかえているという 事実、そうした私有民集団(国家の中の国家/)を通じて王権に服属し奉仕するという部民制の事実に、対応している。 こういう情況であったから、 政治の実権は必然的に有力豪族ハ大臣・大連、更には大夫)の握るところとなったのである。 また当然、地方支配は名目的・形式的であった。それを委ねられたのはハ県主、更には国造)、現地の又は現地化した 豪族だったからである。彼らは﹁少なくとも徴税権・軍事権・裁判権・祭杷権﹂をもっていたし、屯倉と名代・子代

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の管理すら彼らに(やがて中央派遣も行なわれたが)任された。そして中には、各地の大規模古墳群の物語る如く、半独 立的な支配圏をもっ豪族も存在したのである。なるほど、六世紀末には国司制が打ち出され、 ﹁国﹂という行政区画 が成立し始めるが、それとても﹁在地に形成される首長層の地域的権力支配の体制を基礎とする﹂ものであり、従つ ( 必 ﹀ て、その役割も統治ではなく巡回・調査であった。 このように、政権自体も国家全体も共に連合的だったのであり、それ故、土地と人民に対する支配は間接的であっ ( 必 ﹀ た。もともとこうした状態であったからこそ、皇室と豪族との対立や、大伴・物部・蘇我ら有力豪族の台頭と彼らに 21一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則帥 よる政権争いが、発生し(特に六世紀には﹀激化したし、地方豪族の反乱も(五世紀中頃から六世紀初めの磐井の反乱に至る まで)続発したのである。その後六世紀末から七世紀初めの推古朝において、聖徳太子(天皇ではないノ)による建て直 しが行なわれた(とされている)が、それも(天皇の暗殺者にして義父たる﹀蘇我馬子の助力なしには不可能であったはド ハ 必 ) しかもその具体的成果は乏しかった。憲法十七条において、唯一の君主たる天皇への服従という全く当然のことが強 調されている(というより、されざるをえなかった)のは、現実にはそれが行なわれていなかったことを物語っている勺 ︿抑制﹀ あ ろ う 。 大 化 の 改 新 中大兄皇子による七世紀半ばの、 乙己の変に発する改新は、 いくつかの証拠により、その真実性が疑 問視されている。確かに、﹃日本書紀﹄における記述は、 クーデタ(壬中の乱﹀によって政権を塞奪した天武天皇(及び その系統)の立場・政策の正当化の臭がする。しかし、仮に改革自体は事実であるとすれば、それは豪族専横を打破し、 氏姓制度から、唐の律令制を模した中央集権的官僚体制へ転換することをめざしたと見られる。このこと自体、大和 政権の連合的性格の持続を物語っているのみならず、そうした現実の故に改新もまた、その克服を目的としていたに もかかわらず皮肉にも、中臣鎌足を始めとする主要豪族との協力に依っていた。従って必然的に、その成果も限られ

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たものだったのである。即ち、大化の新政権の改革は、実際には﹁氏姓国家的秩序を温存しつつおこなわれた点に特 長があ硲ごなるほど、ハ日本書紀によれば)表向き部民制から公地公民制(王土主民)への転換が図られた。しかしそも そも、寺社の土地は除外され、豪族に対しては代償措置がとられることになっていた。しかも、改革の実現は捗々し くなく、結局、大化前代からの諸豪族の特権や地方首長層の支配権は(新旧諸族の浮沈興亡はあれ)実質的に維持、又 は新規に認定されたのである。 中大兄皇子は天智天皇となって改新の推進を計った。その最大の成果は六七

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年の庚午年籍である。それ は最初の全国的な戸籍であり、国民一人一人を直接掌握しようとするものであった。だがその実態は、 律 令 制 ﹁ 在 地 の 首 長 -豪族層がみずからその支配下にある人民を申告した帳簿﹂にすぎなかった。それは﹁既存の人民支配の秩序﹂を否 ( 印 ﹀ 定するものではなかったのである。 しかし、七世紀終わりから八世紀初めにかけての天武・持統・文武各天皇の時代に至って、改新以来の努力は一応 実を結ぶに至る。その結実とは、言うまでもなく部曲の廃止、そして八色の姓、飛鳥浄御原令、大宝律令の制定であ る。それはなるほど、制度の上では公民制(従って食封制)に基づく天皇中心の法治国家であり、 まことに整然とした 官僚支配体制(律令官人制)であった。そのため一般に、律令国家は﹁古代専制国家﹂とされている。しかしながら、 その実態は専制とは程遠いものであった。氏(やがて蔭位制により家に細分化されていったが﹀を基礎とする点は変わらず、 極言すれば、単にそれを公式に序列化しただけであり、律令制とは根本的には、古来の身分制の再編・強化にすぎな か っ た 。 つまり、律令国家と言うものの、 ﹁律令制成立以前の古い政治形態││氏姓制!ーの慣習が多量に残存して おり、律令制自体がそれとの妥協の上に成立した面がある。律令政府は古い体制を残す有力氏族の連合によって形成 さ れ て い る の が 実 情 で あ る 。 ﹂ 従ってやはり、豪族が位階・官職を独占することとなり、当然に旧来の大豪族がその

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まま上位を占め崎町ただ律令制以後、伝統的な有力氏族の衰退が見られたのは事実であるが、豪族支配そのものが崩 れたわけではなかった。そのような体制で、所詮大きな変革のありえようはずがないであろう。諸豪族には大きな特 23一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則伯 権が与えられ、むしろ律令制によって身分の固定化・世襲化、従って貴族化が進行していったのである。そうした貴 族、それに寺社には、様々の名目で過剰な団地や封戸が与えられたし、そもそも、寺田・神田を始め開墾地や園宅地 は班田法の規制対象から除外された。それ故、土地固有は名ばかりだったのであり、それのみか更に、上級貴族に対 してその家政や私的経営のための官人をあてがうということすら行なわれたのである。また地方においても、郡司に 任命されたのは(国造系統などの)在地豪族であり、しかもそれは世襲且つ終身であった。そして、中央から派遣され る国司は名目的な存在であ鴻﹁令制下の地方行政は郡に実質の大半が担われてい白から、﹁日本における律令制は、 在地首長層の現に従属民に対して行使している人格的支配を根本的には否定せず、かれらのもっこうした現実的支配 権を容認したうえで形成された﹂と、見ることができる。従って、律令政府を﹁畿内政権﹂と断ずる見方も、決して 極端とは言えないであろう。 かくして、律令制には、建前と実態の間に大きな事離があった。その新体制は当時としての近代国家をめざすもの であったが、それは外観にすぎず、統治の実際は旧態依然であった。律令国家とは結局﹁日本の社会から自生的には 生まれえない早熟的な国家﹂だったのである。それ故また、それは国内外の安定化に伴い王朝国家へと変質していっ たのである。但し、そのように徴温的な変革であったとはいえ、律令制が中央権力による一元的な全国支配を形式的 事実である。それは日本の国家形成にとって確かに画期的であった。 に せ よ 達 成 し た こ と も 、 だ か ら こ そ 、 それを ﹁分邦国家﹂段階における﹁強権化﹂として挙げることができるのである。 ともあれ、上述のような情況であったから、天皇権力はいっこうに強化されなかっ問。逆に、太政官(審議・執行機

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関)の議政官・公卿たる貴族たちが天皇をコントロールしていたのである。しかも、彼らは天皇の地位すら左右した。 従って、天武以来の皇親政断

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長続きせず、律令体制成立後しばらくして、早くも有力貴族聞の政争が激化するので ある。従ってまた、律令制下の入世紀(即ち奈良時代﹀は、実は事変や内乱の多い︹例えば、長屋王の変(七二九年﹀・藤原 広 嗣 の 乱 ( 七 四

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年 ) ・ 橘 奈 良 麻 呂 の 変 ( 七 五 七 年 ) ・ 恵 美 押 勝 の 乱 ( 七 六 四 年 ) ・ 宇 佐 八 幡 神 託 事 件 ( 七 六 九 年

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氷 上 川 継 の 反 ( 七 八二年)・藤原種継暗殺(七八五年﹀など︺不安定な時代であった。政治の実権も、律令国家建設の立役者藤原不比等の死 後、その四子│←橘諸兄!←藤原仲麻呂

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道鏡と、めまぐるしく移動した。そしてその果てに、平安時代に入って まもなく藤原氏(北家)の台頭をみ、それは摂関政治へとつながっていくのである。 以上、律令制の制度的本質や政治的実態について述べてきたが、律令制はそのような問題と共に、その根本的基礎 たる経済制度、即ち班田制に関しても大きな問題を抱えていた。それは第一に、重税である。重税は、貴族優遇の大 量位封と造営工事・戦争などへの大規模支出により不可避であったが、そのために班田農民の浮浪や逃亡が頻発した。 また第二に、人口の増加と(技術的問題などからくる)公団の荒廃とに伴う口分田の不足等に対処するため、墾田開発が 推進されたが、それは班田制にとって逆に白殺行為に等しかった。それによって、国街支配の及ばない収取不能の地 域並びに人民が次第に増加していったからである。これら二つ(第一・第一一﹀は相関的であり、共に財政難をもたらす が、逆に後者も前者を余儀なくし、 かくして悪循環に陥ってしまうのである。そしてそうした結果、更に第三に、班 田制に不可欠な戸籍が実際と一致しなくなった。これでは班回収授は成り立たない。このようにして、律令制はそも そも見かけ倒しの性格が強かっただけでなく、 ( 臼 ) にその実体は失われていった﹂のである。 ﹁ 八 世 紀 に 入 る と ・ ・ ・ ・ ・ ・ た ち ま ち 動 揺 し は じ め 、 一

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年もたたぬうち 荘閣制 荘園制は、私の言う﹁中世﹂の一つの基本的な体制であり、﹁中世目分邦国家﹂論の一つの枢要な根拠も

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そこにある。荘園制とは中央権力による土地及び人民の一一万的支配を正面から否定するものであるから、﹁分邦国家﹂ の何よりの証拠であり、且つ、それは既に奈良時代において形成されるのである。そして、それは平安時代を通じて 確立・発展し、更に武家社会に至っても変化することがなかった。それどころか、鎌倉・室町と一貫して存在し続け るのであり、荘園制は戦国時代の大名領国によってようやく(事実上)消滅したのである。 奈良時代に、律令制の施行にもかかわらず、その後まもなく、それを否定する荘園化が進行するのは、そもそも律 令国家が十分な統一的支配力を欠いていたからである。 つまり、天皇中心とはいえ、その実態は有力貴族に寺社を交 えた連合政権だったからであるが、当時の経済事情も大いに作用した。それは開墾である。貴族や寺社は自らの勢力 拡大のために積極的にそれに取り組んだのである。その際、重税苦からの逃亡農民が格好の労働力を提供した。他方 朝廷も、前述の如く、 口分因不足に対処する必要上開墾を奨励することになるのであり、 それは大宝律令完成(七

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25一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則的 一年﹀後僅か二

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余 年 の 三 世 一 身 法 ( 七 一 一 一 一 一 年 ) 、 更 に は 墾 田 永 年 私 財 法 ( 七 四 三 年 ) と し て 具 体 化 さ れ た 。 こ れ ら は 大 土地所有 H 私有を公認する重大な政策変更であり、それにより全国の荘園化の傾向(それと共に、皮肉にも、中央諸勢力 の地方への浸透)は決定的となったのである。 このような荘園は、平安時代に入って更に急速に拡大する。貴族・寺社による墾田地系の初期荘園から、地方豪族 や有力農民(大名田堵)も加わる寄進地系荘園へと発展していくからである。その基礎には、農民の階層分化の進行と 農民的土地所有の成立という事態があった。即ち、それによって台頭してきた有力農民たちは、独力で開墾した所領 を国司の干渉から逃れるべく中央権力者(領家、更には本家)に寄進したのである。そして、自らは名目上荘官(下可・ 地 頭 な ど ) と し て 、 また事実上の在地領主(開発領主﹀として、名主(田堵など)による(作人・下人などを使用した)名田 一定の貢納の下に支配者(本所)による保護を受けようとしたのである。また、貴族や寺社の側 経営の管理に当たり、

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も、財政難による国家給付の減少に対処すべく墾田の集積を図った。かくして、作人職から本家職に至る(又はその 逆の)重層的な﹁職(不動産物権)の体系﹂が成立するに至る。こうした社会経済システムが次第に一般化していった の で あ る 。 荘 園 は 既 に 九 世 紀 後 半 か ら 不 輸 ( 官 省 符 荘 、 後 に は 国 免 荘 ﹀ 、 吏 に 一

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世紀末頃からは不入の権利を獲得し始める。そ れは寄進によっていっそう促進された。そして、不入権はやがて検察権へと発展し、必然的に軍事力を伴うに至る。 つまり、国家内独立支配地域の出現と拡大である。しかも、荘園の寄進が著しく集中したのは、中央政治を牛耳る摂 関家であっ川崎町且つまた、摂関政権の﹁経済的根拠は莫大な荘園にあっ部。ということは、当時の国家政治が最大 の反国家勢力によって動かされていたこと、統治権力自体が自己矛盾的であったことを、意味している。そしてこの ような状態、即ち最高権力者が同時に最大の荘園領主であるという状態は、後述するように、以後も継続するのであ る。そうした権力が国家を統合しえないことは、明白である。これほどに発達を逐げた荘園制は、土地及び人民の殆 ど完全な私的支配、従ってまさに国家の統治権そのものの根本的な制限であり、そのような国家はもはや真の統一国 家とは言えないであろう。 しかも、かくの如き事態は実は公領(国街領﹀においても同様であった。一

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世紀初めの班田停止により、直接的・ 個別的な人民支配を核とする律令制がハそもそもかなり有名無実であったが)形式的にも崩壊した後、それからくる財政 破綻に対処するために採用されたのが、国司による徴税一括請負の制度である。封主に対する国司の請負自体は既に 八世紀半ばに始まっていたが、今やそれが国家財政にまで広がったのである。その制度にあっては、国可は一定の納 税 を 更 に 上 層 農 民 ( 田 堵 ﹀ に 請 負 わ せ 、 そ の 団 地 ハ 名 又 は 名 田 ﹀ を 、 従 っ て ( 律 令 制 本 来 の ﹀ 人 に 代 わ っ て 土 地 を 、 徴 税 対 象 としたハ負名制)。そのような(やがて名主と呼ばれるようになる﹀回堵との結合を基礎に、郡司に代わって国司が台頭し 1

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その職は利権化していくのである。のみならず、国司は次第に独立性を強め、圏内の行政単位を自分で編成し直すよ うになる。そして、地方豪族・開発領主を役人(在庁官人)に任命して徴税に当たらせるのである。即ち、国衝による 地方行政の全般的な掌握であり、それは荘園化に等しかった。おまけに、現地に赴任していた国司(特に官長たる受領) も、やがて任国の行政を代理(百代)に任せて在京するようになり(蓬任﹀、一一一世紀にはそれが一般化し閉それはま さに領家・本家の在り方に他ならないであろう。 このように、国司自身事実上の荘園領主であった。と同時に、彼らは私的権力者たる荘園領主と、表向きの公権力 27一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則的 の担い手として、実際には同じ私的権力者として、対立していた。また他方、こうした国司の収奪に対抗する必要か ら、前述の如く、逆に不入領荘園・一円領域型(又は領域支配型)荘園の形成も進展した。かくして、ここに全国にわ たって私的・地方的な分権体制が確立したのであるハ荘園公領鵠 o しかも、荘園・公領共に、一般に名体野いう同 質的な構造をもつに至ったのである。けだし、同一社会内の基底的な体制が同一であるというのは、自然且つ当然の こ と で あ ろ う 。 平 安 時 代 ( 七 九 四 I 二九二年)四百年のうち、後の百年を除く三百年間は、ほぼ藤原氏が最高権力者であ ったと言ってよい。摂関政治(細かくは後期摂関政治)と呼ばれるのは、一

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世紀後半からの政治に対してであるが、 (先にも触れたように)平安初期より藤原氏の権勢は強大だったのである。例えば、既に、桓武天皇が平安時代直前(七 九三年﹀の或る詔の中で藤原氏だけを特別扱いしているし、八二

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年には氏人全員が或る範囲で課税免除とされ、﹁皇 親と普ーする特殊な地位を公昨 P 獲得し日目。そして九世紀半ぽには、良房が(既に前の文徳朝から支配的であったお 清和天皇の外祖父として摂政に就いており、﹁以後北家藤原氏の嫡流が廟堂の主導権を握って、公卿をはじめ顕官要 職を同氏に集中し、貴族支配層の過半を藤原氏によって占めるに至ったのである v ﹂こうした特定貴族(又は貴族連鈍) 摂 関 政 治

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の隆盛は当然、政治の私物化、公私混同、従って全国的な対立・多元支配をもたらさざるをえないであろう。 しかしそれは、根本的には(前述の﹀荘園公領制の反映であった。即ち、体制そのものの﹁分邦性﹂が基礎にあった。 また直接的には、官職の家職化の進行、従って家柄中心の沈滞した貴族社会の政治(旬対応するものであった。つま り、出自によって殆ど一生の決まる貴族は安逸的・因襲的であり、従って、彼らのなす政治は先例主義に堕さざるを えず、政治自体が形式化・儀式化していったのである。そうした、根本的な体制的多元性と直接的な政治的無力によ って、当時即ち貴族政治の盛期、中央・地方を問わず、公的な秩序はおろか治安さえ欠く状態であり、諸々の有力者 の私的権力が統治の大半を代行していた。必然的に、とりわけ地方政治は乱脈を極めた。それは、根幹をなす国司制 度の類廃が端的に示しており、先述したように、国司の職は利権化し、売買の対象(成功・年官)とさえなったのであ る 。 院 政 二世紀後半の後三条天皇以来約一世紀にわたって、 天皇及び上皇・法皇(治天の君又は治天)の親政が復活 或は実現した。そしてそのうち、 一

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八六年の白河上皇からが院政である(院政はその後も形の上では江戸末期まで、時 代によって継続的又は断続的に行なわれた)。それら親政によって、例えば荘園整理令(一

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六九年)が出されるなど、確 かに朝廷・院庁権力の強化が図られ、摂関家の勢力は衰えた。しかし、それは些かも中央集権化・統一化を意味しな い。何故なら(始めの後三条の朝政期はさておき)、第一に、院は政治判断、朝廷は行政実務という一応の分担はあった ものの、朝政に干渉する院政そのものが必然的に院と朝廷の対立、従って二元化を惹き起こしたからである。院は源 平安}重用し、独立の軍事力(北面の武士)すら保持した。また第二に、中央の権力ゲ 1 ムに関る院政は、地方政治の再 建とは無関係だったからである。否むしろ、院政はその最大の支持基盤(院近臣)たる受領層の農民収奪に手を貸した の で あ る 。

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院政下において、分裂はいっそう進んだ。即ち、公領は知行国制と院宮分国制の普及によって公式的にもハ皇族・有 力貴族の)私領に堕してしまった。また荘園についても、それは(先述の如く﹀中央の警察権をも排除するに至ったし、 院を先頭に、貴族や寺社は荘園の獲得に奔走する有様であった。 たのであ討ルそして更に、この時代顕著であったのは、出家である﹁法皇﹂の存在がまさに象徴しているように、上 皇の愛顧と保護を背景とした寺社(直接的には寺のほうだが﹀の強大化がめざましかったことである。それは悪僧・僧兵 その結果、(何と/﹀院自身が最大の荘閏領主となっ (堂衆など)や神人を保有し、強訴などによって政治を左右するようになった。それだけではない。大寺社はそれ自体 一つの公的権力と化したのである。というのは、先に記したように、国政の根本たる徴税ももはや政府の手で直接行 なうことができなくなり、国守・目代・受領などの請負人に依存せざるをえなかったが、その徴税令書がしばしば借 金の担保とされることによって手形化したのであり、 2S一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則帥 それに起因する諸々の紛争の解決(寄沙汰・請取沙汰)に神人・ 山僧などの私的権力組織が当たることも、稀ではなかったからである。従って、こうした独立権力的な寺社勢力は、 院政政権にとって﹁解決すべき最大の課題﹂となっていたのであり、政権も保護と同時に統制策を打ち出したが、成 果は乏しかった。かく、当時の政治は多元的な権力主体(更に武土も興隆しつつあった/)によって従来にもまして引き 裂かれていた。それらが互に角逐し、基本的な統合さえ確保されない状態だったのである。 平氏政権 武士の発生のもつ意味は重大である。何故なら、私的武装勢力である武士ハ僧兵も同様﹀の、即ち物理的強 制力に裏付けられた本格的な私的権力の、必要性は、平和と安全を守るという公権力としての最低限且つ最重要の機 能の不全、公権力の根本的な弱体性を物語っているからである。従って、それは(形式的に中央政府が存在する場合)﹁分 邦国家﹂の決定的な証拠であると言うことができる。そして既述のように、 にあり、且つ後者の発展と武士(武家・武門)の台頭、が重なっていることから、武士の発生基盤は荘園制にあると考え ﹁分邦国家﹂のこの時期の基礎が荘園制

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