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授業における教師の技量について : 教育技術と教師のパーソナリティ

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Academic year: 2021

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(1)Title. 授業における教師の技量について : 教育技術と教師のパーソナリティ. Author(s). 若原, 直樹. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 39(2): 33-44. Issue Date. 1989-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/5099. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 授業 における教師の技量に つ いて -- 教育技術と教師のパーソナリティ --. 若. 原. 直. 樹. は じ め に. 筆者は教員養成大学に勤務しかつ教育方法学を専攻しているために,近未来の教師である学生の, 教師 としての資質向上を願わずにはいられない, 折しもここ数年 「教育技術の法則化」 の研究が活 発にすすめられている. そのような事情のもと, 目前の学生のもっている教師としての素地と一方 の誰でも使える教育技術の両方を視野におきながら, 教師の技量と.はいったい何であるかをあらた めて熟考する必要を感じた, すなわち, 確定された教育技術を 〈単純に〉 学生に伝えることについ て筆者は直観的に不安を感ずるのだが, それは何に起因しているか, 教育技術の重要であることは 誰も否定できないが,しかしそれは教師のもつべき技量全体のなかの或る応用的一部分ではないか, では, その基本部分とは何か, また, それらの基本はいかにして養われまた他者に伝えられるのか. さらに, 次元は異なるが, そもそも 「教師の技量」 についての学術論文が成り立つのかどうか . この小論文ではこれらの問題意識にもとづいて, 教師の技量を論じることの困難性, そしてそれ にもかかわらずその論題を地道に研究する必要性を述べ, その研究のとるべき一つの方向性につい て考察してみた. まず最初にこの小論 でいう用語について定義をしておく. 「技量」 とは, 授業中に発揮される教師の能力のすべてである, ここでは,「授業中」 に限定した, 時間的にそれ以前の教材選定とか, 教材解釈・児童理解・学級づく り………などの教師の仕事が教 師の技量を構成するたいせつな要因であることは当然であるが, ここでは対象を現実の授業場面に あえて限定した, 「教師の能力のすべて」 とするとあまりにも包括的になるが, 二つにわけて考える (ただしここ では, どの教科の授業であっても必要とされる授業の技量を論ずる設定なので教科の専門知識に起 因する能力を除く) , 第一に, その時々の子どもの内面を, 子どものわずかの言動を手掛りにして 洞察する能力, 表面に表われた子どものさまざまな兆候から子どものもつ意見や感情を正確に知る 能力である, 第二に, それを知ったあとそれを自分の教育意図と照らしてその子に対処する次の方 針をその場で即座に決め, そのとおり実行 (指示・説明・発問・板書・指名・演示・指揮………) する能力である. 本論では前者を 「子ども理解」 , 後者を 「技術」 と呼び, この両機能から 「技量」 が成っているとして論を進める一さらにこのいずれの技量を行使するときでも, 主体 (授業者=教 師) がそのことに意図的・意識的である場合と, 無意図的・無意識的である場合の2つの層がある ことも強調する,. 33.

(3) . 若. 原. 直 樹. 1. 「技量」 は教師の パーソナリティ と不可分である. 教師の技量を論じることが難しいのは, 技量が授業者自身にも観察者にとってもあまりに日常 的・習慣的でありすぎて意識にとまることが少ないからである. 教師は授業中子どもの表情から子 どもの内面を知る仕事を多かれ少なかれしつ づけている. 通常の人間同志の対話においてとまった く同様に. しかし, それをいちいち意識してはいない. いくら授業を綿密に計画していても, 実際 の授業ではその計画にかかわらず子どもの言動に反射的にまた習慣的に対応し, そのために順調に いくこともあれ ば失敗することもある. もちろん研究授業などで教師が緊張感をもちながら選びに 選んだ発問を計画通りに子どもにぶつけ, 参観する協同研究者がそれをじっと見守るというきわめ て意識的な技量が行使されることも, しばしばある. しかし今度はその場合, 教師のその緊張や力 みやいつもと違う表情や姿勢・服装などが, その授業にのぞむ子どもたちに一定の影響を与えてい ることについて教師は無意識になっている, 要するに, 教師はどの瞬間においても何かに意識が集 中し ていて, それ以外の対象については無意識的に反応している, 本人にとって自覚しにくい無意 ・ 識の反応が, しかし他人 (子ども) にはよく見えるものである. このように自分が授業者 (教育者) としての役割を果たしていることに無意識である瞬間, また ≧ はその役割を意識的に果たしているときであっても自分の意識している以外の効果を子どもに与え. ± も っ と 広 く 全 体 的 に ひと り の バ ー ン ナ リ,ティ と て い る と き, そ の 教 師 は 単 に 教 師 と して で はな く ,. しての影響を ・子どもに及ぼしている, 家庭において親が, 当人の意識しているよりもっと広く深く 一個のパーソナリティ として自分の子に多大な影響を与えていることはよく指摘されることである が, 学校における教師についてもそれは同様である,.学校という制度, 教室という施設, 教師対児 童と いう公的関係よりも以前に, 教師も子どももどちらも生命ある動物としての人間同士であると いう相互感応が, 非言語的伝達という形で授業の基底に流れている, にもかかわらず, 一般に授業者も研究者も, 誰の耳目にも明らかに見て聞こえる範囲のことがら (機械でも判別できるほど顕著な) に研究データを限定して収集し, その知的な分析の結果によっ て教師の技術をやはり知的に変えようとする. こうした努力はもちろん必要ではあるが≠ そうした ・ 知的考察だけでは解決のつかない研究領域が残うていることに注意しなければならない, . その領域とは, 無意識的な技量, すなわち準言語行為 (話すときの声の大きさ・高さ, 発音の明 瞭さ・アクセント, 抑揚, 感情のこもりぐあい………) や非言語行為 (髪型, 服装, 姿勢, 身振り 手 振・り, 立 つ 位 置, 表 情, 目つ き ・ ま な ざ し, : 顔 の 向 き, お ち つ き … … …) の 領 域 で あ る〆 こ れ ら. の行為は通常授業記録には登場することはない, ということは ● , 研究においてそれらの項目はあま り 問題 に する 必 要 の な い こ と が らと して 見 ら れ て い る こ と を 意 味 し て い る, ま さ しく そ れ ら は技 量. のなかでもさほど重要なものとして考えられていないがゆえに授業者によって制御調節される ・こと なく教師のふだんからのパーソナリティ の自然な表出として顕現する. 発問や指示などの意識的な 技術を 「図」 とすれば, これらはそれを浮きだたせる 「地」 となって背景にある. 「子ども理解」 の過程でも, 子どもの示す兆候に対してその教師独自の個性的な解釈がなされる る子どものさまざ のは, もちろんである, しかしそれにとどまらず, 実は教師の理解しようとしてい・ まな兆候自体がすでに当の教師のパーソナリティ によって引き起乙されている. また 「技術」 の過 程にも教師のパーソナリティ が色濃く浸透している, たとえば, 有田和正氏の授業 「バスのうんて んしゅ」 での指示・発問には氏のパーソナリティ とそこから生まれたあの学級の教師-こども関係 が不可分に関わっていて, あの指示・発問を別の教師がそっくり模倣しても有田氏とまったく同様 の授業を作れるというわけではない. とくに, ある教師が別の教師の実践に出版物から学ぶとき, 34.

(4) . 授業における教師の技量について. その指示や発問は活字として書かれているのであるから, それを発声するときの声の高さ ・速さ・ 調子, その時の教師の表情やしぐさまではそっくり同じに再現 することはできな ,い, 家本芳郎氏は 言う, 「『きみの力が必要なんだ』 と子どもを説得してうまくいっ たという教師の くことばの力〉 , その 表情 ・ 語 勢 ・ニ ュ ア ン ス は, 紙 上 か ら は伝 わ っ て こな い, た ぶ ん そ う 説 得 さ れ た子 ど も は , ,. 教師のそのような 〈ことばの力〉 <人間的な力〉・によって動かされたにちがいない, ところで (同 ・ じことを言ったのに -- 筆者) うまくいかなかったわたしは, どんな 表情や語勢や トーンで説得 1 ) したのだろうか,( 」それら表情.語勢,姿勢などの総合として生まれるその教師の雰囲気は, 教 師 の パ ー ソナ リ テ ィ の 自 然な 発 現 であ る, ゆ え に, ひと り の 教 師 の パ ー ソ ナリ ティ か ら技 術 を す っ. ぱり分離してとり出すことは厳密には不可能である, . それが技量についての科学的研究を至難にす る ひとつ の原 因 で あ る.. 同じことを学習者の方から見て言うと,子どもは教師の意識的技量にのみ反応するわ けではない. 子どものみならずわれわれは誰 でも自分が対面する人物について 「語ることができるより多くのこ 2 )の で あ る 確 か に コ ミ ニ ケ ー シ ン の 理 想 か ら言 え ば 意 志 の と を知 っ て い る」( 伝 達 は完 全 に ュ ョ . ,. コー ドによってのみ行われることが望ましいが, 学習者が幼ければ幼いほど非言語コー ド依存型お. 3 ) と り わ け 「い ま こ こ で」 を 重 視 せ ね ば よ び コ ン テ ク ス ト依 存 型 に な る こ と は避 け ら れ な い( . , な らな い はず の 教 育 に お い て は, そ の 場 の 非 言 語 コ ー ド及 び コ ン テク ス トの もつ 意 味 は き わ め て 重. 要である, もし教育が言語コー ドによってのみ完全に行われるのであれば, そこでは教師の計画以 ・ 上 の新 し いこ と は 何 も 起 こ らな い,. このように教師のパーソナリティ が技量にも広く浸透している以上, ある教師の技術を普遍的な 教育技術として一般化する試みは, あくまで或る範囲においてのみ有効であって, その範囲を広げ ていくと教師個々人のパーソナリティという 限界に必ずぶつかるだろう. 教育においてそれは避け られない. 将棋の世界では, 定跡の及ばない場面で発揮される棋士の独自の判断のことをその棋士 のパーソナリティ と修練から生まれた 「棋風」 だと表現するが, もし将棋がすべて定跡によって進 行できるようになっ, たときには, そうした棋士の創造力は不要となりしたがって将棋の歴史は幕を 閉じる. 教育においてもそれは同様 であろう. 斎藤喜博は同じことをかつて,「誰であっ たか,『ゴッ ホの 技術 はセ ザ ンヌ に 役 立 た な い.セ ザ ンヌ の 技術 は ゴ ッ ホ に 役 立 た な い.』と いう こと を 言 っ た が ,. 4 ) 教師の場合もまたそういうことが言える,( 」と述べた. 意識的な技量は教師ひとりひとりの無意 識的技量がもとになって生成するということである,. 2, 「技術」 はいっも新鮮でなければならない. では, 自分に合・ もそうとは限ら った独自の技術でありさえすればそれでよいかというと, 必ずし . な い. た と え 自分 の 開 発 した 技 術 で あ っ て もそ れを いつ で も ど こ で もく り 返 して 用 い て い る と そ ,. こに慣れや飽きが必ず生じる. その技術を最初に行使したときの気持の緊張と高揚はしだいう ・すれ る・ そしてその慣れや飽きは教師の非言語行為に無意識にあらわれて技術の効果をしだいに低下さ せる, というのは, 子ども ・は自然に教師の弛緩に共調するからである, こうした共調もまた無意識 5 )) それゆえに技 のうちに進行する. (そういう人間のチューニング本能を実証した実験もある( , 術には独創性 ばか りでなく, 新鮮さが必要である. たとえ使い慣れた技術をまた用いようとする時 でも, この子どもやこの学級とつくる関係は常に新しいのだから, その技術はやはりその新鮮な関 係の影響を受けているはずである. もし同じ技術を何度用いても飽くことがないのであれば, それ 35.

(5) . 若. 原. 直 樹. は子どもが発散する新鮮な刺激とそれを初めてのものとして受けとめる教師の子ども理解のおかげ . で あ っ て, 技 術 の み の 恩 恵 で はな い,. 確かに教師のパーソナリティ がどうであってもそれに関わらずいつでもどこでも成功する種類の 教育技術というものもある. その場合それを洗練すればするほど, その教育技術を行使する主体は 教育実習生でもロボッ トでもコン ピュータでも良いという理論になる.教師は取り替え可能である. だがもし教師の仕事がその種類の教育技術 ばかりであるとすると, しだいにその教師は余人ではな い自分が子どもの前に立つ 意義が感じられなくなり, 教師としての生きがいを見失うであろう. ま してその技術が他人の模倣であるならなおのことである. 多くの成功的な -- 教師も子どもも生きがいを感じて学校生活を送っていることがよくわかる ような -- 教育実践記録に常にみられるひとつの特徴は, 一方が教える者他方は教えられる者と いう ÷方的な関係ではなく, 教師も子どもも同じ人間であるという感覚, 教師も子どもも互いに変 ( 6 )を教師が持っていることである わりうるという 「双原因性の感覚」 . この理由で, 一つのすぐれた教育技術にすっかり慣れた教師よりも, たとえ未熟であっても新し い独自の 「技術」 を開発し試行する緊張と楽しみもっている教師の方が子どもに良い影響を及ぼす ことがある. 「へこ帯」 を子どもの胴体に結んで, 気あいもろとも子どもをっり あげて跳ばせる方 法で全員跳び箱を跳ばせる大奮闘をした教師について, 向山氏は 「この先生の熱意には頭が下がり ま・した, き っ と い い先 生 な の で し ょ う, しか し, 悲 しく な り ま した, そ ん な 大 奮 闘 を しなく て も,. 7 ) 」と教育技術の優位を強調する. しかし, わずかに二・三分で子どもは跳べるようになるのです,( プ だけではなく,技術化することによって, なるという ラスの面 技術化することによって能率がよく 「頭がさがるほどの教師の熱意」 がしだいに薄れていくことの子どもに与えるマイ ナス面にも留意 する必要がある. 少なくともこの教師は子どもとともに 「いま, ここで」 真剣に生きているのであ る, 教師のこうした真剣さによって子どもは単に 「………ができる」 という達成以上の, 教師に対 する, 友人に対する, 学習に対する姿勢を暗黙のうちに向上させていくにちがいない. だから, 教育技術の法則化運動の 「基本理念」 のうち, 「②完成された教育技術は存在しない. 常に検討・修正の対象とされる.」 「④多くの技術から, 自分の学級に適した方法を選択するのは教 8 )と い う 理 念 は ス ロ ー ガ ン に 終 わる こ と な く 実 践 的 に 強 調 さ れ て い く べ き で あ 師自身で 、ある.」( ,. る, おそらくこの運動の真髄は確定された教育技術の蓄積量にあるのではなく, 個々の技術を発見 し錬磨する教師の真剣な努力のなかにこそあるというのがこの運動についての筆者の解釈である, 筆者のこの解釈が妥当であることをよく示しているのが, 武田常夫氏の次の述懐である. 氏は, 綿密な授業計画を練り, 持てる技量を駆使して 「子どもたちはわたしの意図した通りに寸分の狂い もなく答えた」 と言える授業をつくりあげた. だが, そのことは授業者武田を満足させなかった. 「しかし,1時間を終えたあとのわたしの心に残ったものは,砂をかむような苦い空しさであった.」 ・どゼロに近い授業にさえ と言う, 「技術的にはほとんど完ぺきに近い授業が, 内容的にはゞ ほとん 思われてきたのである.」 氏は, 「わたしはただひたすら, 子どもに 『言わせる』 ことにだけ没頭し ていた」 と, この授業が子どもの中にも自分の中にも予測を超える新しい何物も生むことなく終っ たことを悔いるのである, これは, 教師が技術にたければたけるほどかえって虚しさを感じるとい う, 教育のパラ ドックスを示している. 武田氏の求めるものは, 「未知な困難に衝突し, 追求しよ うとする冒険に立ち向かう緊張があり, 不安があり, そして, それをのりこえたときの新鮮な喜 び」 のある授業である. そのためには, 「技術は固定していてはならない. たえず否定されあたらしく 創造されていかなけれ ばならない.」 こう考えたとき, 「わたしは, 自分が教える技術として考 えて い た もの の な か に, ほ と ん ど 技 術 な どと い え な い, む しろ, そ れ が あ る た め に, か え っ て 子 ど もを 36.

(6) . 授業における教師の技量について. 弱くさえしている事実に気づきはじめたのである,」 9 )は 教育技術は確かにたえず習得されねばならないが 決してそれを 武田氏のこれらの言明( , , 使って子どもを巧みに教えることで教師の満足が得られるわけではないということをよく示してい る. 教師の技量は子どもが変わるごと自分が変わるごとに新しくなっていかなくてはならないとい う の であ る.. 教育はよく 医療と比較されて論じられることがあるが こうした武田氏の感慨は医者のそれとは , 異なるであろう, 医者は相手 (患者) のからだを対象に自分の技術を駆使して患部を治療すること によって満足を得るが, 教師は子どもを教育の対象としてのみ見るのではなく 自分たちと同じ文 , 化を共有してくれる参加者・仲間としても見るがゆえに, 知識を伝達することにとどまらずそれを 学んだときに子どもの胸に生ずる (はずの) 感慨にまで関心をもち かつて自分が持ったと同じ感 , 慨を子どもが味わってくれるのを喜びとする存在なのである, 医療よりむしろ看護に似ているとい う べき で はな いか,. 3. 「つれていく教師」 と 「ついていく教師」 ( 1 ) 授業者がもつ二つの立場 教師は授業中, 二つの立場にたって自分の授業を見ている. ① 一つは, 自分の定めた目標ま で首尾よく子どもをつれていこうとする教師である (つれてい く教師) . ② もう一つは, 子どもの言動からこどもの内面をよく知ろうとする教師である (ついていく教 師) .. ,. ①の教師は教科内容・教材に自分の視点をおいて, それを基準に子どもの言動がそこからどれだ けズ していてそれをどのように是正しようかを考える, ここで発揮される技量は主に技術である , 反対に②の教師は, 子どもの側に視点をおき, 当該の教科内容・教材がその子にとって何を意味し ているのかを知ろうとする, ここで発揮されるのは主に子ども理解の技量である. 授業中 教師は , このふたつの視点をいろいろな比重で合わせもち, 両者の間を交互に何度も移動する, 授業の失敗 は, 普通その原因を授業計画や教材の良否に求められることが多い. しかし教師が思っている以上 に②における失敗が多いの ではないか, と筆者は考える. さて, ①と②とには次のような関係があろう. すなわち, 良い授業をつくろうとして教師は ① , の態度をとる, もちろん教育が計画的である以上はこの教師の態度は必要である, しかし 教師が , そうであればあるほど子どもの目から見ると, 教師の非言語行為に自分たちとの関わり以外のこと を考えている教師を感じて, あるいは自分たちの発言を鑑定し選別する表情が読み取れて 子ども , はかえって学習対象に集中しにくくなる, このときの教師は 「感じたことば」 よりも 「考えられた ことば」 をつかうので子どもにはすぐわかる. また, 自分を真剣に見つめている目と別の何かを考 えながら自分を見ている目とを子どもは容易に区別することができる, そして 子どももまた 「考 , えられたことば」 を使って 「つれていく教師」 に対応することに気を使う. すなわち 「自分の答」 を探すのではなく 「教師の答」 を探しはじめる, 一方, ②の教師のとき, 子どもを理解すること自体がその時点での教師の目的であり その目的 , が達成されるたびに教師は 「感じたことば」 を発する. そのようにしてそのときどきの子どもの発 37.

(7) . 若. 原. 直 樹. 言や表情やしぐさに教師が集中し即時にそ れに対応していくと, 子どもも開放的に「感じたことば」 を発しはじめる. ただし, そうした言動はそれだけ既定の学習指導案から離れる可能性を多く ,もつ ことになる. それを恐れるがゆえに, たとえ ば教育実習生の多くの授業は失敗する. ②の教師の姿 をとれないのである. 実習生は自分が子どもの表情やしぐさに的確に反応できていないことには気 づかず, 予定通り指導案のとおりに授業をすすめることに懸命になり, 事後においても自分の指導 案や教材の欠点だけを反省し, 「つれていく」 ことができなかったことを残念がる. 「ついていく」 時間を増やすべきだったことにはなかなか気づかない. 次にあげる 「ものとその重さ」 の教師につ いても, 子どもについていき子どもに応じて授業を変えていく構えを持っていない教師の例と見る l o }である こともできる. 仮説実験授業の有名な「ものとその重さ」の授業をした, ある教師の記録{ . 」 を終えて第二部に入り最初の問題, 「水の入・ ものとその重さ (第一部) 「 ったビーカーの中に石 ・ を入れてはかりにのせると’ 目盛はどこをさすか」 という問題を提示した. すると, 誤答を選んだ 」 だったので, そ のがただひとりで, しかもその子は 「クラスの中で ピカイ チ級の優等生 (0君) れが 「私のこころにひっかかるわけだ.」 と教師は述 べる. 水の中で石を持ち上げ軽く 感じられた 経験を持つ, この 「勉強家の0君」 は自信方々で自説を述べる. すると女子の側から 「エキサイ ト すものがあ した」「一斉の攻撃がかけられてきた,」 0君をか ばおうと男子の中には折衷論をもち出・ らわれたり, 中でも 「大の仲良し」 の一人の子が 「友人愛にもとづいた忠告というようにも受け取 ることができる」 意見を述べる. しかし, 0君は「自身に満ちた態度をくずそうとしなかった.」「女 の子たちは, もう説得をあきらめたような表情で口をつぐんでしまっ た.」 さて, 「実験の結果, ど うしても自分の敗退を認めざるを得なか・ っ たとき, 0君はややあおじろんだ顔でくち びるをかみ, 一点をみつめていた. よほどくやしかったにちがいない. 文字通り孤立無援で強い論陣をはリゲ 強 力にがん ばったがみごとに敗北した彼にしてみれば, 誇り (自負) もなにも吹きとんでしまうほど の シ ョ ッ ク は大 き か っ た に ち が いな い.」. こうした集中のある授業が生まれること自体は, 教科内容の深い研究から生まれた授業書の成果 である.しかし,この0君をめぐる授業の雰囲気を教師はなぜ静観したままなのだろうか,「心にひっ かかるものを」 感じてはいるのだが, まるで授業書に教師の役まですべて預けてしまったかのよう だ. 「誇り (自負) もなにも吹き飛ん でしまうほどの ・ショック」 を受けている0君とそれを取りま く子どもたちに教師がなにも語らないのは, 教育として不自然である. こういうクラスの雰囲気が 生じたとき教師はどうすべきかまでを, だが授業書は語らない, こうした雰囲気に教師が的確に対 応することは, 自然科学の知識の教授にとっては主要な問題ではないかもしれないが, 小学生の教 育にとってはきわめて重要である. この授業は0君の内面にある誤解をなにも解決しておらず’ ○ 君から見れば実験という事実によって正解を押しつけられただけかもしれない. すなわち 「その0 君は②の問題では, 時晴なく正答をと二 っ た.」 と言うが, それでは0君は 「水の中では大きな石が 軽く感じられた」 という自分の実感 (=自分の答) を欺いて, 実感はないが選べばマルをもらえる 答え (=教師の答) を選んでいるにすぎないのかもしれない. この例は, 他人の研究成果を自らの技術として安易に利用することの問題性と, すぐれた教材に よって子どもを・「つれていく」 だけ では授業 が成功しない事情とを示す実例である, (ただしこの 批判は 「安易に適用すること」 に対してであって, 決して仮説実験授業そのものに向けた批判では ない. またこの場合 「安易に」 というのは, 自分の子ども理解との関わりで技術を調節し独自に改 善していく仕事を怠るという意味である,) また, この教師と先の 「へこ帯」 の教師とではどちらがすぐれた教師であろうか, と考えること もできる. ・一義的な基準もなしにそのような比較はできないのは当 然であるが, 少なくとも, 教育 38.

(8) . 授業における教師の技量について. 技術がすぐれているからという理由だけでこちらの教師に軍配を上げるわけにはいかない. ,あの「へ こ帯」 の教師には, 授業に ・対する全身の自己投入 があったように受け取られる, ・そうであればあの 教師は自分の授業体験の中から技術と子ども理解についての豊富な 「暗黙知」(ポランニー) を得 ているわけで, それはのちに自身の理論を創造するための強い根拠となつていく. この根拠なしに はどんな理論も創造できない. それがあっての技術の行使とないままでの技術の行使とでは 、授業 , の意味がちがってくる, 人間には言語化できない私的な感覚的な認識がまずあって, そのうちのあ る部分だけが言語に乗せられて流通するわけで, したがってそれに多少なりとも対応する私的な暗 黙の知識をまだもたないうちはたとえ他者から言語の形で技術が伝えられたとしてもその意味を理 解することはできないと考えられる. 最悪の場合, 教師は自分が何をしているか知らないまま効率 よく 「何 か」 を教 えて い る と いう こ と に な り か ね な い.. ( 2 ) 子ども理解の技量 これに対して,「ついていく」ことを重視する教師は, 授業の計画どおりの完遂に執着しな い.「私 は授業の展開過程を授業案としては書くことはできないし, 書く必要もないことだと教師がはっ き 1 ) 「子 ど も が横 道 へ そ れ て もつ い て い き ま す … … - ま り 子 り考える必要があると思います. 1 つ , どもの動きをみながら 『目標を動かしていく』 のです. ………目標だけでなく, 内容や方法も 子 , 1 2 )「しかし どれほど どもの動きに合わせて自然に動かせるように努力したいと思っています,」( , 骨を刻む思いで考え抜いた展開の プランが教師に用意されていても実際の子どもの反応 や, それに 対応する教師の動きは予想したとおりにはい 、かないのが普通の授業の姿である, 子どもはかならず と い っ て もい いほど 意 外な と こ ろ か ら突 然 姿 を あ らわ して 教 師 を う ろ た えさ せ る. … … … そ う な っ. たときの教師の仕事は, 地図をもたな い旅行者のそれにもにたそのときどきの瞬時の判断にそのす, 3 ) 1 ベ て がか か っ てく るの で あ る.( 」. 先に, すぐれた教育実践記録について見られる特徴として 「双原因性」 の感覚を持つ教師の存在 があると述べたが, もうひとつすぐれた教育実践記録の特徴としてあげられるのが, 教師の指導に 啓発されながらもその指導を越えてまたその指導にかかわらず自主的に判断し行動する子どもの生 き生きとした姿である. かつての、「授業に熱心だった」 自分を反省して或る教師は 「わたしの前に いた こど もた ち は, あ りの ま ま の 子 ど も で はなく, 教 え る こ と に 夢 中 に な っ て い た わ た し の か ら だ. を見て, 自己規制していた子どもたちだった,」 と授業観を変える, 「わたしは子どもたちのそのま まを 受 け入 れてい な か っ た の だ. 授 業 の な か で わ た し は, わ た しに と っ て 都 合 の い い 部 分 だ けを み. ていた. わたしにとって受け入れることのできる, 見える部分, 理解できる部分だけを受け入れて いた,」 そして, 「授業で何かを教えようという気負いを取り去ったとき, 教室は子どもにとって安 心できる空間に変わる, 逆にいうと, 子どもがありのままの自分を出す自由を保障したとき, 子ど 1 4 ) このように 子どもを自主的にさせるも もたちは子どもたちの力で学びあいを始める」 と言う( , , のは,1教師の′「教える技術」 とう いより, むしろ 「みる技術・きく技術」(= 「子ども理解の技量」) 1 5 ) の 方 であろう,(. 教師の技量の研究にとっては, 技術の研究をすすめるのと並行してそれと同じだけ子ども理解の 技量の研究が必要である. だだし, この研究はのちに述べる, 記述の困難さと一般化する困難さの ために技術の研究のようにはすすまな い. その端的な例がカウンセリン グの場合である. ク ライ エ ン トを 見 る こ と 聞く こ と を 専 門 と す る カ ウ ン セ リ ン グに お い て は, カ ウ ンセ ラ ー の パ ー ソ ナ リ ティ. から分離できるような一般化についてはむしろ消極的である, 39.

(9) . 若. 原. 直 樹. 「自然科学の場合 は, 同量の薬を同量の水に入れて試験管をふるとA子もB子も同じ結果を得る. 率 は高 い. しか しカ ウ ン セ リ ン グの 場 合 は必 ず しも そ う で はな い. 二 人 の パ ー ソ ナ リ ティ が違 う か 1 6 ( ) らで ある, … … … した が っ て, カ ウ ンセ ラ ー は自 分 の 理 論 を 構 成 せ ね ばな ら ぬ. 」. 、 「本校における教育の第一歩は, 少年たちを内側からとらえることにある, いっ, いかなる契機. で, 少 年 の 心 に触 れ る こ と がで き る か. そ れ は あく ま で個 々 の 問 題 で あ っ て, 必 ず しも 一 様 の も の. ではないが, 深く少年の運命を気づかう教師の憂い が前提であり, けっ して教師のテクニックとい ( 1 7 } う よう な 次元 で考 え る べ き も の で はな い で あ ろう, 」. 「もし, すぐれたカウンセラーとわるいカウンセラーを仮定的に区別すれ ば, すぐれたカウンセ. ラ ー は, 多 く の 治 療 「技 術」 を 身 に 付 けて い る か らす ぐ れ たカ ウ ン セ ラ ー な の で はな い. し いて い. えば, 『カウンセリン グ関係を作る技術』 をもっているという ことになるのだが, そうした 『関係 ( 1 8 } をつくる』 ものを 『技術』 ということ ばで表現するのは不適当なのである. 」 「カ ウ ンセ リ ン グの 根 本 は, 結 局 はク ライ エ ン ト が治 っ て いく と いう こ と で す. ク ライ エ ン トが ク ライ エ ン トの力 で 治 っ て い く の で す, ど んな 方 法 で あ れ. と ころ が, 下 手 に 技 法 を 使 っ て や っ て. いると, クライエントが治っていくということを忘れて, まるで自分が治してやったような錯覚を 1 9 } 起 こ してく る の で す. そ れ が一 番 恐 い.( 」. く) を も つ こ と がカ ウ ン セ ラ ー の 基 本 で カ ウ ンセ リ ン グに お い て は こう し た心 構 え (技 術 で はな,. ある. 特に最後の引用の意味するところはきわめて深長である. もちろん授業とカウンセリン グは 異なるのだが, 技術よりも子ども理解を重視して子どもの深い気持ちを洞察するこうしたカウンセ ラーの技量に, 授業する教師も学ぶ必要がある,.授業もまた, 子ども自身が自分で知識を発見し自 分でその正しさを納得するのを教師が横から援助する行為だからである. 技 量 と は, 「つ れ て いく こ と」 と 「つ い て い く こと」 の 両 方 を そ の と き ど き に バ ラ ン ス よく と る. 能力, すなわち◎事前に考えた 「つれていく」 計画を一方でもち, ⑨同時に目前の子どもに 「つい ていく」 ことにも集中して, ◎事前の計画を刻々修正しな がら次の展開を 「つく る」 能力である. (大学や研究所につ とめる教育学者・授業研究者は, ◎の 「つれていく」 計画を練ることはできて も⑤や◎の 「技量」 については自ら授業者になってそれを錬磨する経験をもたない限り, 身につけ る こ と はでき な い) ,. 」 との葛藤と止揚にお 」 と 「ついていく教師 (子ども理解) このように 「つれていく教師 (技術) いて 「教師の技量」 は磨かれていく. どちらかひとつの研究・実践だけで教育はできない,. 4. 技術は感覚的に存在する. さ て, 教 師 が自 分 に 技 量 の つ い て き た と わ か る の はど ん な と き で あ ろ う か. そ れ は, 一 定 の 目 に. 見える成果を現実に目前につくることができたときというのではない, 現実に良い結果を目前につ くり出せたとき技量がついたというのなら, 他人から伝えてもらっ た指導法を機械的に適用して所 期の結果をあげた場合でも, その教師を 「技量」 のある教師と呼ぶことになる, しかしそれでは, 意味もわからないままただ丸暗記して良い点数をとっ た子どもを 「学力がある」 と評価することと 同 じ誤りになる. たとえ最初は他人のまねをするにしても (丸暗記するにしても) そうした試みを 何回・何十回と試行することによってその 「技術」 の意味するところを十分に理解し, その上でま たいろいろな応用や改良を試みることによっ てすっ かりわがものと して, すなわち技術を自分の パーソナリティ の一部として ごく自然に整合的に組み入れることができてその教師のオリ ジナルな 40.

(10) . 授業における教師の技量について. もの (たとえ表面的には既存の指導法と同じであっても) となったときに, それはその教師の能力 (= 「技量」) であると呼ぶにあたいする, で は, 「わ がも の」 と し たこ と を, 教 師 は いっ ど の よう に して 知 る こ と が でき る か,. それは, まったく主観的・感覚的に知れるのである. その認識は教師自身のからだの感覚の中に ある, 「自分のからだが自由になる瞬間という 『とき』 がある」「たとえ ば, スキー学習で, 自分が すべれるようになったと思うの は, なによりも自分の内部感覚において自由を感じ, その自由を楽 1 9 ) 」こう い う と き, す べ る フ ォ ー ム も 美 しく ま た タイ ム も 速 く な っ て しむ こ と が で き る と き で す,(. いるから, はたから見ても (つまり客観的にも) その人の上達したことが知れる, しかし, 本人に すれば, それらの客観的データ (たとえ ば自分のフォームをビデオを見る) は自分の上達を確認す るための証拠ではあっても, それがなければ上達がわからないというものではない, それ以前に自 2 1 ) 分の全感覚的な体感で自分の上達したことがわかるのである,( 同様に授業の技量を持っ たか否かは, 自分 (教師) と子どもとか, 自分と教室, 自分と教材・楽 器・ グラウン ド・行事・父母・地域の風景………などとの関係のありようが感覚的にそれまでと微 妙に変わっていくことで主観的に実感される, 技量の向上はからだをつかう他の技芸 (例えばクル マの運転) の場合と同様に, 知的に頭でわかることではなく全感覚的にからだでわかるもののよう l-- 解釈がないまま他人から得た に思われる, (もし体感によ● r s e on a って得られる個人的な --p 知識・技術を行使しつづ けるなら, 結局それは当の知識・技術の破壊に行きつくであろう,) 教育技術の法則化運動も確かに直接には技術の 「黒帯・初段までの段階」 への上達をめざしてい るが, しかしそれはま だ 「名人・高段の芸」 へ至る途中の 「通過点」 であるとおさえられている. 2 2 ( )こ の 点 はい そ う 強 調 さ れ る べ きで あ る つ ま り 「よく 使う 指 導 技 術 を100本 以 上 知 っ て いる 」 っ . , , .. 『法 00時間ほどしている.」「自分の授業記録をまとめて′ 「名人級や著名な実践家の授業の追試を1 0 0時間以上やる.」 等々の修練を向山氏 0本以上応募している,」 「研究授業を1 則化論文』 として10 が教師にすすめるのは, それによって多くの教育技術をマスターできるようになるからというだけ ではなく, 同時にそれらの技術に関するメタ知識を学んだりその技術にともなう感覚をからだで覚 えるなどしてそれら個々の技術が教師各人によって人格化されるま でに至り, そうしてこそ教師の なのであろう. そしておそらくそのことを向山氏自身は, やはり自 技量は豊かになると考えるから・ 分の経験によって 「全感覚的に」 知っているのであろう.. 5. 技量を研究することば こ の よ. う に自分 と ころ で 技 量 につ い て の 理 論 を つ く り にく い 理 由 の もう ひとつ は, 技 量 がま さ に,. の感覚によって認識されるものであるがゆえに, たとえ授業中の自分の言語や行為を授業者自身が よく記憶していたとしても, その後技量の理論をつくろうとしてそれを書きことば話しことばとし て言語化するときに, その言語が概念の明瞭で限定的なこと ば (=定義) で記述できないことであ る,. 教師の技量を中心に描かれた教育の記録 (実践記録) は読者に 「定義」 ではなく, 「意味」 がわ 2 3 )つまり 読者のもつ そのことばに関連する体験および知識の総体を かるように書かれている.( , , 想起させるようなことばを用いて書かれている, 著者が自分の経験を, 自身の感情によっていろど られること ばを駆使してありありと再現し, 自分の感じた同じ意味を読者にも共感してもらおうと 書く. もちろん, それらの感覚的な表現が過大に多用されていたり, その表現のひとつひとつ が読 41.

(11) . 若. 原. 直 樹. 者の実感とあまりにかけ離れていればその記録に信悪性が感じられないのだが, その表現が個性的 でありかつわれわれ読者の実感を呼び覚ますようなものであれば, それは読者にとって信用できる 記述として感じられる, すなわち, それが自分のもつ経験とも符合し, また自分のもつ理論を補強 する整合的な事実として感じられるとき,われわれは教育という世界についての確かな手ごたえを, その主観的な論述によってまたひとつわがものとした実感が得られるのである, このように, 教育 実践についての文章は 「定義」 を駆使した論理的説得であるよりは, むしろ 「意味」 の表現によっ て共感を求める記述であることが多く, 読者もまたそれを承知でかつそれを期待さえして読むので あ る, ,. -. ・. ー. . ・. ’. たとえ ば, 宇佐美寛氏は, 大西忠治氏との或る論争の中でこう述べている, 「………もちろん {大 西氏の言うとおり -- 筆者) 教師が本気でま じめであることは, そうでないよりも, 他の条件が 同じならば, よりよい効果をもたらす可能性が大きいと私自身思っている. ………だから,ーこのよ うな文章を書いている大西氏の気持には, 私なりに共感しているつもりである. しかし, そのよう に思 っ て いる の は, 生 ま 身 の 宇 佐 美 が思 っ て い る と いう こ と な の で あ る. そ の よう な 思 い は, 他 人. を論理的に説得するためには, まったく無効である, ………理論を述べようとする私は生ま身の私 2 4 ) のこのような共感を禁欲しなければならない.( 」 なるほど, 教師の技量を述べた文章の 「意味」 を読者がいくら理解してくれることがあっても, その 「意味」 は 「論理的に説得する」 という目的 下においてなら不適であるのは確かである,.しかし, それでも 「生ま身」 の宇佐美氏は大西氏の意 見をわかって 「共感して」 いることもまた事実である, ことばの 「意味」 ・を媒介としたコミュニケ- ションは研究の目的によっては依然有効である. それにまた, ひとつの論文を徹頭徹尾 「定義」.による論理的説得のみで完全に終始させることは 不可能である --・なかんずく技量を論ずる文章においては, 筆者 (書き手) は, 自分の読者が少 なく ・ともいったんは文章に対して積極的に共感的に解釈してくれるものと想定しなければどんなこ とばも使えない. そしてもし 「意味」 を多用 したその記述が, 大多数の読者の一致した共感的理解 を永く得られるのであれば, そこにこめられた筆者の主観性は, 人々 ・に 「共同主観化コ されたこと になる. そのように, 子どもによって磨かれた自らの技量を言語化し発表することによって大勢の 2 5 } 読者の主観によっ て淘汰されて. いくその過程もまたひとつの研究の客観化であると考えてよい.{ それゆえ, すべての主観的記述を 「非科学的だ」 という理由で排斥するのは過誤である.・たとえ主 観的であっても, われわれの深く強い共感を呼ぶいくつかの記述はやはり貴重な研究財産として尊 重さ れ ね ばな らな い,. 理論というものは多くの事象のなかに潜む, しかも言語によって定義可能な (したがって記述可 能な) 普遍的必然性に着眼して生まれる. ところが日々の教育実践は, その教師とその子どもたち という特殊な関係のなかでおこなわれるあくま で個別的な一回性の営みである, それゆえそこで生 れる 「鮮度の高い言葉は, 言葉がその中で生きている 〈関係の海〉 の中から言葉としてつりあげら れるとき, ………概念の一般性として抽出され, 流通するとき, それは 『教育くさい』 言説として, あのわたしたちを群易させる特有のにおいを発散しはじめ・ る, 魚が魚でなくなるときに『魚くさく』 2 6 ( )これは 授業の事実を言語化することの難しさを端的に表現した警句であ なることと同じに.」 , るとも解釈できる. もし論理的に考察できる部分だけを授業の本質と考えるなら, 実は授業 (教師 と子どもの関係) を根底から支えている非言語的コミュニケーショ ンという広大な領域について研 究の道を閉ざすことになる. そうまでして生まれた 「客観的」 研究は研究のための研究となってし まい, 当の教師や子どもから遊離したものになりかねない.. 42.

(12) . 授業における教師の技量について お わ り に .. (1). ・三. ・. ●●. ●、. . ②常 小論では, 教師の技量について, それが①教師のパーソナリティ と密接不可分であること, に更新されていかねばならないこと, ③子どもを受動的にさせワクにはめるものであってはならな いこと, ④その上達は感覚的に知れるものであること, ⑤論理的なことばで表現しにくいこと, の ために論理的な研究をすすめることは至難であることを述べてきた. そ して もう 一つ, こ の 困 難 さ は, ⑥ 特 に子 ど も 理 解 の 過 程 に お い て 顕 著 で あ る こ と, で あ る, し. たがって, 確かに従来の研究は教科の専門知識と子どもの知的発達についての多くの知見にもとづ いて教師の技術の創造に成果をもたらしたが, それと同じく 「子ども理解」 についての授業研究が 他方で精力的にすすめられる必要がある, 目前の子どもに夢中で集中していることによ って, 最も , . ・ 効果的な技術がそこから自然に発想されることがある.また或る技術を持ち合わせている場合でも, . . . . そのときの子どもはその技術の行使されるのを望んでいるか, また 技術を用いた結果当の子どもは 満足 しているか, をつねに教師は感得できなくてはいけない, ひとことで言えば, 教師は技術にた もが見える〉 人間である必要がある. けていると同時に, いわゆる 〈子ど・ そしてその両方の研究から生まれる技量がi 教師各人のパーソナリティ の中でそれぞれに消化さ れ人格化されることが望ましい, (2). ●. ,. .. 問題をさらに深くとらえると, 授業には, これら技術と子ども理解という技量を教師が意識的に 発揮している過程と無意識に発揮している過程とがある, 従来の授業研究のほとんどは前者の過程 (そのなかでも技術) を対象としていた, すなわち教師の意識的な技量の諸事実を, 教師の一連の 発語やひと区切りの挙動を単位に して 「発問」 とか 「指示」 「指名」 というように技術として概念 化してきた, しかしこれからはそうした研究と並んで,教師の無意識的技量(それは主に教師のパー そこに研究の単位を見出して分析する研究も ソナリティ から発する) や非言語行為を対象として, . 同じだけ強調されてよい, たとえば 「感じたことば (表現のこと ば) ・考えられ ,たこと ば (伝達の 」 「ふだんのままの話し方・授 」 こと ば) , 「みんなに話している声・ひとり ひとりに話している声 , 業用の話し方」 , 「教師の視 , 「やわらかいからだ・かたいからだ」 , 「笑っている目・変化のない目」 だ」 だ・とじているから 「 ひらいているから いない声 」 線・子どもの視線」 , , ,「届いている声・届いて ズ ム 」 ……… 授業のリ 「 「授業者の地 (じ) の出た瞬間」 . , これらの単位概念は定義がしにくい, その場に居合わせた人にはよくわかることばだが, 第三者 に正確に伝えることはむずかしいことばである,研究の論理的蓄積と広範囲の伝播には不適である. しかしそのかわり, これらの概念による研究は, 研究対象となった授業にじかに関わる授業者・研 究者の技量の向上に直接的にかつ印象深く はたらきかけるという成果を持つであろう. なぜならこ うした研究の視角は教師ひとりひとりのパーソナリティ, すなわち教師各人の生い立ちのなかで自 然に体得している教育観・子ども観・人間観にまで問題の原因を鋭く遡求せずにはおかないからで 2 7 ) あ る.(. 43.

(13) . 若. 原. 直 樹. 〈注〉 1 { ) 家本芳郎 『合唱・群読・集団あそ び』 高文研 PP.2 69~270 2 ) M・ポランニー 佐藤敬三訳 『暗黙知の次元』 紀伊乃国屋書店 P.15 (. 3 { ) 池上嘉彦. 『記号論への招待』. 岩波書店. ( 4 2 ) 斎藤喜博 『教育学のすすめ』 筑摩書房 P.23 ) W・フォ ン・ラフラー;エン ゲル 本名信行訳 訳 『ノン・バー バ ル・コミュニケショ ン』 ( 5. 大修館書店 P. .205. { 6 ) 佐伯 畔 ( 7 〉 向山洋一 P.46). 『 「わかる」 ということの意味』 岩波書店 「-- 藤岡信勝先生へ -- 法則化運動は全国津々浦々へ」{『教育』. 8 { ) 向山洋一 ( 9 ) 武田常夫. 『続授業の腕をあげる法則』. ( の 加川勝人 1. PP.33~39) 「仮説実験授業ものがたり」(板倉聖宣編 『はじめての仮説実験授業』 国土社 P. 回 横須賀薫 02 ) 有田和正 Q3 ) 武田常夫 Q 4 ) 鳥山敏子 1 ( ) 汐見稔幸 5 Q ) 国分康孝 6 ( 1 ) 谷昌 恒 7 1 { め 伊藤 博 ( i 9 ) 河合隼雄. 『真の授業者を求めて』. 86年2月号 国土社 19. 明治図書 P.137 国土新書 PP.139~143. 『授業における教師の技量』 国土社、P,90 「歴史学習の資料はどうあればよいか」(「社会科教育』, 1985年12月号 P.56) 「『事実』 を追及する授業」{『現代教育科学』 明治図書 197 5年5月号 P.38) 75 『イメージをさ ぐる」 太郎次郎社 PP.274~2 「こと ばの教育」(『教育の方法 4 ことばと教育」 岩波書店) 『カウンセリングの理論』 誠信書房 P.22 『教育の理想』 評論社 P,75 『ニュー・カウンセリング』 誠信書房 P,10 』 創元社 P.77 『カウンセリン グを語る (上). 回. 横須賀薫 『授業における教師の技量』 国土社 PP,196~197 ②) 生田久美子 『 「わざ」 から知る』 東京大学出版会 , @の、向山洋一 「教育技術の上達論」(「授業研究』 明治図書 1987年6月 臨時増刊号 PP.27~28) 企め 「定義」 と 「意昧」 については, 鈴木孝夫 『ことばと文化』 岩波新書に依る, 回 宇佐美寛 『授業にとって・「理論」 とは何か』 明治図書 P.195. 鱈 ) 早坂泰次郎. 『人間関係学』. 同文書院. 「朝日新聞」 1986年3月28日 『論壇時評』 その典型的好例が, 斎藤喜博編 『教師の資質をつくるために. 隣) 見田宗介 回. 教授学ゼミの記録』(国土社)の学生のレポー ). トに見られる,. (本学助教授 旭川分校). 44.

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