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訳
〉ウォルフガアング・
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申 芯 ・ ﹄ ・ ( U 切 ・ 冨 O 回目(可 K H C F ω 同 国 間 口 同 ) 吋 C 回 ︼ ZBZ の 著 者 と 出 版 社 の 承 諾 に も と づ く 翻 訳 で あ る 。 105一一『奈良法学会雑誌』第11巻3号 (1998年12月) 目 次 第 二 八 章 口 可 ) 回目戸と冨﹄員以後の法の方法ー 1 マ ル ク ス 的 な 法 域 │ │ ( 第 十 巻 一 号 ・ 二 号 お よ び 第 十 一 巻 一 号 ・ 二 号 ・ 三 舘従来から発展させた概念から冨﹀間同は、今や、その政治的綱領を演緯する。剰余価値を吸いあげることにおける資本主義の 端緒が既に話題であった。剰余価値概念からマルクス論の政治的に重要な点、資本と労働の所謂矛盾がでてくる。F
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同凶は多様な意義において﹁資本﹂という表現を使っている。以前に引用した個所のところで﹁資本﹂あるいは﹁資本価値﹂ という語は使用価値のためにあるのである。これは固有の価値論の意義におけるマルクス主義的資本概念である。これからマルク ス主義的 1 1 1 政治的な叙述の際の資本概念の使用は分離される。この意義における資本は、企業家が剰余価値を吸いあげることを 通して違法に自分のものとしたものである。この資本概念に冨詰同が意味を与えているのは、彼が﹁剰余価値を僻化してゆく﹂価 値としての資本について語るときである。 河 口 口C
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は彼の﹁読書││子引﹂において冨員同のこの言い表はしを指摘し、また、マルクス主義的な価値理論の政治的第11巻3号 一 一106 な観点の次のきまり文句のようなまとめを提示する。 ﹁資本の直接的な生産過程はその労働過程と利用過程、その結果が商品生産物であり、また、 ( 凶 ) 値 の 生 産 で あ る 。 ﹂ A -s Z E曽 -E S E -z 喝 必 富 市 阿 詰 菖 } 凶 g 之 島 埠 喝 S E M -h a ω 湾 s a e 宮 古 CSZ 会星回包噌 S a g £ p = t h u E a v a g a -o
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E z j MaT%S.514 回目門間戸の著作ではその場合さらに次のことがいわれている。すなわち、 ﹃資本家、﹁生産された生産子段﹂の所有権者﹂は、﹁流された労働﹂(回定資本、 すぴつける。この生産過程は価値生産物にみちぴくのであり、この生産物は投下された固定資本(その価値表示に一致している) とならんで変動資本と労働の使用価値と交換価値との聞の矛盾から利用された剰余価値を価値の構成部分として含んでいる、すな わ ち 、 円 + せ 十 選 H 号、個々の資本家によって交換価値は生産される。﹄ C ) を﹁生きている労働﹂(変動資本、 と と む 107一一ウォルフガアング・フィケンチャー「法の方法
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(四) ここで、まずはじめに、剰余価値は労働の使用価値と交換価値の差額であるということ、あるいは、﹁使用価値のための経済﹂に おいて、また、資本主義的な﹁交換価値のための経済﹂において見つけだされることができる(労働にもとづく)商品価値の差額 であるということがいわれる。労働者があまりに少なく取得するものの代わりに、市場における商品の交換価値はあまりに高い。 剰余価値は、したがって、また資本主義的な生産過程における労働が商品の使用価値を越えてもたらすところのものでもある。ぁ ( 凶 ) るいは、全く簡単に、宮﹀河凶のことばでは、剰余価値は商品を商品資本にする。あるいは、同様なことであるが、富﹀回同によれば、 ( 邸 ) 剰余価値は労働過程において現実に適用された可変資本概念を通してのみ生産される。市場は、したがって、労働に過少の支払い をすることを永久化する。 しかし、使用価値はいかなる測定可能の輪廓も持っていない。市場は冨﹀間同によれば、財産の多数の分配をひきおこすものであ り、この分配は﹁資本主義的な財の交換の条件のもとで、宮﹀回同ーが承認しているように、決して価値の形成に﹂一致するものでは ( 凶 ) ない。で﹂の不均衡は、資本家が生産手段の所有権者であるということから来ている。また、このことがあてはまるがゆえに、所 有権者はまた生産手段の助けをもって製作された財物をその所有権とみることができるのであり、また、市場での彼等の利益関心 にしたがって交換することができる。それとともに我々はマルクス的な﹁資本と労働の矛盾﹂を極めて鋭く我々の前に持つのであ る・:・それにもかかわらずこの﹁矛盾﹂は平凡にして、また、曇った構成であり、資本主義的な経済形式の現実性と何の関係もな いのである。マルクスの政治的l
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経済的な分析は﹁抽象的な労働﹂の構想に依存している。この分析が証明されえないとすれば、第11巻3号一一108 有名な﹁矛盾﹂についてももはや話題とすることはできない。 F h υ 日マルクス主義の資本主義批判は、それゆえ、剰余価値が演縛される使用価値を使用しているのであり、この価値は単に承認され C3 た大きさのみをあらわし、また、経験的
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操作的な大きさをあらわしているのではない。その点に関してマルクス主義の資本主 義批判はその基盤において動揺させられると思われる。 抽資本主義批判から冨﹀間同にとって、資本主義の代りに使用価値のための経済を設定する必然性が発生する。分業は廃止され るにちがいないし、何人も他人の労働のためにするべきではない。社会的に必要であるものより多くのもの、しかもまた社会的に 必要であるすべてのものは生産されるべきではない。効用性の観点は労働世界から消滅しなければならない。このために市場の廃 止が必要である。その理由は、市場は外部の道具であり、それを通して企業家は剰余価値を実現し、また吸いつくすのである。分 業機械主義としての市場の代りに他のものが登場するにちがいないのであり、この他のものは労働によって得られた使用価値をこ れをつくった人々に分与するのである。 マルクス主義的な観念の経済において労働無能力者ならば悪い地位を持つであろうという、しばしば言いあらわされた論拠を全 く度外視して、マルクス主義的な解決は、完成された、全知の分配装置が占有される場合にのみ正しいということが証明される。 実際的にはマルクスの提案はとぽしい資源の法則を放棄するという結果になる。しかし、この世界の財物はもはやとぽしく存在す る必要はないということを人々は命令することはできない。しかし、マルクス主義者は﹁無償給付の承認﹂のための彼等の感激が 証明すると同じように考えるのである。問いかけられた財物のとぽしさを顧慮してゆく(市場)経済に次のことはあてはまる、す なわち、無償給付の承認は(とぽしさをとりのぞくことに役立つことができる生産手段によって)窃盗することである。現実にと ぽしさの原則を否定することは決して一致しない。 それにもかかわらず冨﹀回同はこの終局状態に到達することを歴史的に必要であると考えている。彼の学説のこの代りに第二番目 に へl
ゲルの弁証法の概念が使われる。思いだされるように、冨﹀回同は弁証法的な思考を、まずはじめに、労働価値説を無理矢理 に解決するために使ったのであり、この価値説のもとでは﹁抽象的労働﹂の価値は労働によって製作された商品の使用価値と同一 視され、また、この使用価値を越えて、価値比較において、この商品の交換価値と同一視される。それとともに、しかし、へl
ゲ109一一ウォルフガアング・フィケンチャー「法の方法
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(四) E O 日ル弁証法の一面だけ、すなわち、概念発展へのその貢献が使われる。へl
ゲルの弁証法は、しかし、﹁動的な構造法別であり、この S ( 悶) 法則は概念の発展と同じく時間的継起を牛耳っている。﹂弁証法の歴史的な構成要素はマルクス主義的な思考過程の現代的な位置 に適用される。へl
ゲル的な意義における世界歴史の弁証法的な発展から量の質への急変││ひとしくへl
ゲル的なーーを通じて 資本主義の時期につづいて共産主義の時代が始まるということがでてくる。この過程はへl
ゲル的な前提にしたがって強制的に経 ( 凶 ) 過してゆき、それは妨げられることはできなくて、短縮されることができ、しかも、﹁革命的な恐怖政治﹂を通して行われることが で き る 。ω
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が共産党宣言で詳述しているように、ここから行為を指示すること、まさに革命的、暴力的な行為の目的を指示する こともまたでてくる。観念論的な説明は、その際、闘争として実行される。その理由は、資本主義はへl
ゲルの定立、反定立と総 合の三分肢の矛盾律にしたがってその地位を自由意思的に放棄しないであろう。 さて、この代りにへl
ゲルの歴史思考と冨話回によって(へl
ゲルの弁証法の使用のもとに)提示された労働価値説との結合が 生ずるのであり、この説は世界史の経過にとって冨﹀同同一にしたがってまさに運命的な継起を持っていた。くり返すとすれば、結合 は へl
ゲルの弁証法の歴史的な、また、概念を展開してゆく役割の有効性を信ずることから成り立っている。 さらに、へl
ゲルの精神概念は、批判的な問いかけには手が届くことなく、むしろ﹁展開﹂のみができるがゆえに、政治的に適 用されて独裁を意味するかどうかが争われるかも知れない。疑いなく、冨﹀同凶一は、しかし、この概念をそのように使用した。冨﹀国同一 にとって、歴史は歴史的な飛躍において実行されるということ、資本主義に社会主義と共産主義がつづいてでてくるということ、 また、このことは革命的な暴力を通して実行されることができるということは疑う余地のないところである。この発展の強行性と それとむすびついた、革命の本来の指導者としての政党の革命的な幹部へ行為を指示することは、これにもそのことがあてはまる かどうかの背景をたずねてゆく批判を許容しない。政治的な独裁の思索者的な前提を冨﹀回同は同居間 F か ら 得 て い る 。 宮﹄同一向につけ加えることは、内容であり、すなわち、その労働価値説である。これが内容的に維持されないということは、今日、 述べられてきしっかえないであろうし、宗教的な偏狭さのみはそのことに蓋をして閉ざすことができるのであろう。しかし、宮﹀同一同 の意見は多くのなかの一つとして通用させられることはできないであろうか、マルクスの労働価値説の内容はへl
ゲルの思考の独第11巻3号一一110 円 i 日裁なくして考えられることはできないであろうか o c J マルクスの労働価値説の問題は、既に述べたように、使用価値概念が理解できないということのなかに存立している。ここから 使用価値││ム父換価値││相異のことが信ぜられることができるにすぎないということがでてくる。証明されえないのはそのよう な相異ではない。人々は、また、そのような相異とともに論理的に証明されることができるものの外部で合理的に働らかされるこ とはできない。マルクス主義は使用価値│上父換価値││相異にむすぴついたので、人々はマルクス主義をそれらなくして述べる ことはできない。剰余価値批判と資本主義批判のないマルクス主義はもはやこのようなものではないであろう。それは、マルクス 主義的な思考の政治的な領域の内部で使用価値││ム交換価値││i相異は問いかけなくして立てられるにちがいないし、意味表明の 力があり、また、政治的作用をうむものとして承認されるにちがいないということを意味している。ここで、今や、再ぴ、へ
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ゲ ル的な弁証法概念の歴史的な構成要素が侵入する。価値比較における労働力と使用価値の、また、使用価値と交換価値の弁証法的 な等置のことが考えられるにちがいのであり、その理由はへi
ゲル的な弁証法概念は歴史に関係しているからである。したがって、 弁証法の概念のなかに横たわっている歴史的経過の概念展開と説明のこの結合から、 7 ルクス的な労働価値説はへl
ゲル的な思考 が独裁的に支配する領域の外部では思いえがくことはできないということがでてくる。基本権民主主義の土壌の上で各々の矛盾、 マルクス的な労働価値説もまた左祖されることができることはもちろんである。しかし、この価値説から、それをもはや疑問視し てはならないという効果を伴う政治的な推論を引きだすとすれば許されないであろう。しかし、これと同じことをマルクス主義は 概念的また歴史的に要求するのである。 簡単に表現すれば、使用価値││l交換価値││差額のことを人々は信ずることができるにすぎないのであり、また、マルクス主 義は、そのことを信ずることを強制するのである。マルクス主義はこのことをするにちがいないのであり、その理由は、この主義 はへ│ゲルの弁証法概念を対応している歴史像に適用することを通して確定してきたからである。 ここからマルクス主義から民主主義へいかなる道も通じていないということがでてくる。積極的に表現すれば、マルクス主義に 関してそのすべての思考上の亜種に共通であるものは、単に全体主義的に政治的にのみ実現されるということである。人間は、同 時に論理的な、また、歴史的な正直さに衝突することなくして、使用価値の基準にしたがって組織化されることはできない。人間111-ーウォルフガアング・フィケンチャー「法の方法
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(四) は、恐怖をつかまなければならないということがなければ、使用価値の基準にしたがって支配されることはできない。冨 K F同 一 円 は こ β ( 印 ) 引のことを正しく認識した。その理由は、使用価値は価値評価のために自由な人間の下で疑いのもたれる基準であるからである。そ q u して、価値評価に関する対話を許容しない者は、追考の上に置かれている人間の精神を押さえつけるにちがいない。それゆえ、マ ルクス主義は単にその変種のこれか、あるいは、あれかではなく、また、単に﹁官僚主義的に強化された﹂マルクス主義ではなく、 ( 肌 ) 否、マルクス主義一般はその内的、また、すべての変種と鋳造の形に共通の核からみて非民主的である。 マルクス主義において人間的思考をねじおさえるこのことから、冨﹀回同を革命的意識に帰属させる役割がでてくる。その理由 は、人々が﹁正しい意識﹂を持つならば、人々はもはや冨﹀同一円によって予言された歴史の経過を疑問とすることまた使用価値││ム交 換価値 111 相異を問いかけるに値いするということを意識しないであろう。冨﹀間同はこのために﹁人聞の量的な変更﹂を通して﹁共 産主義的な意識の量的な産出﹂を要求するのであり、また、彼は革命を、支配階級を崩壊さすために、それゆえに必要と考えるの ( 問 ) みならず、崩壊してゆく階級がそのことを通して必要な意識をつくりだし、また、所持するがゆえに革命を必要と考、えるのである。 他の場 A 合 口 尺 、 円 戸r
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が 次 の よ 、 う 7 に 呈 にされるにすぎない、﹁我々は、一つの民族を絶滅せんと欲するならば、我々は、まずはじめにその道徳を絶滅しなければならない。 ( 問 ) その場合我々にとってその民族は熟した果実として膝のなかへ落ちてくるであろう。﹂ 次にはl
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このマルクスの労働価値説の輪郭にしたがって││マルクス主義の思考上の立場の前提と推論においてその個々の点 を詳述すべきである。その際、自己固有の批判的な立場を他のマルクス批判者と上述の個々の点において比較することが重要であ る 。 S.519 現代のマルクス主義的な叙述の仕方を基礎づけることのもとにおける、個々の点のマルクス主義的労働価値説の基本的矛 盾 ( 冨 ﹀ ZU 肘 F ) 。 政治的な、また、論理的な帰結。 (C)第 11巻3号 一 一112 国マルクス説の概念装置は、既に一不されたように、同時代人の国民経済上の問題の解決のために、いかにして価値は所与の国 民経済の内部で生ずるかの問いかけのために役立つのである。なかんづく、﹀ロ﹀冨
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は所与の経済の内部で支払わ れた報酬の総額は価値からみであきらかに、同じ経済の内部で取り扱われた商品のための価格の総額と異なっているということが いかにしてあらわれることができるかという熟考をその研究の中心点に立てた。冨﹀河一円は同様にこの価値問題を形成しようと試 みたのであり、また、その際すべてのマルクス主義的な哲学・政治及び法理論の、今日までの基礎になっている思考過程を発展さ せた。またやはりマルクス主義的な基礎論を善一同うために、次には、何回 Z - 何 回 叶 冨 ﹀ Z U R が労働価値説を提示している視点が持ちだされ る で あ ろ う 。 冨 ﹀ 同 凶 は 、 宮 ﹀Z
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に従えば、その価値理論に=一つの前提を持ちこむのである。各々の商品は一つの使用価値と一つの交換価値 を持っているという第一前提を彼は、最後に﹀回目的、g
叶戸何回から受けとるのである。使用価値は、例えば、(﹀同H 2
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日目印の事例に とどまるために)このサンダルを使用する人にとって一つのサンダルが持っている価値である。交換価値は、このサンダルが、他 の財物と引き換えであろうと、金銭と引き換えであろうと、市場で交換されることができる価値である。 マルクス的な熟考の第二の前提は、すくなくとも、彼にとって通用する経済秩序、所謂資本主義的な経済秩序において、労働は 商品に等しいということ、別言すれば、商品以外に取り扱われることはできないということを言っている。労働もまた、したがっ て、一つの使用価値と一つの交換価値を持っている。二つの前提の結合からのこの第一の推論締結は全マルクス主義的体系にとっ て基礎としてゆく意味を持っている。 第三の前提は、三﹀回同は、労働を通してつくりだされているこのような商品にのみ価値(使用価値あるいは交換価値)を帰属さ せるということのなかに存立している。宮﹀同一円は、したがって、労働の価値を商品価値に完全に移すために決定している(所謂マ ルクス主義的労働価値理論)。彼にとって労働にもとづかない商品は存在しないし、またl
1
査本主義においてーーもっぱら製作さ ( m M ) れた商品にその価値を与えるのは、ほかならぬ労働である。 ハ U 臼これら三つの前提からマルクス主義的な経済理論の全建築物と、さらに、マルクス主義的な歴史理解の全建築物が演縛される O Q U 第三の前提、所謂労働価値理論は古い価値問題の意義における報酬総額と価格総額の恒常的な価値関係のために苦慮している。こ113ーーーウォルフガアング・フィケンチャー「法の方法
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(四) の枠の内部で労働は商品に移されるのであり、また、両者、労働と商品は、そのつど、 い ヲ Q。
凶既に冨﹀同一円のもとでもそうであり、しかもまたすべてのその後の者でもそうであるが、マルクス主義的経済理論の叙述に、 つねに、ある種の﹁自然への復帰﹂の態度が固有なものである。たいていの場合、著作家の思考は長い間、始源的な経済関係のも とにとどまっており、この関係は﹁単純な生活﹂の意義において観念化されるものであり、その当時しかも真につつましく行われ たという指摘なくしては存在しなかったのであり、また、目標は、あのはるか以前に過ぎ去った時期の純朴なけがれのないことを 労働生産性の高揚の、また、労働生産物への社会的な関与の現代的手段と結びつけることのなかに存在するにちがいないという指 ( 邸 ) 摘なくしては存在しなかった。始源的な経済において、それゆえ、なかんづく、まだ交換されていないがゆえに、使用価値が生産 されるのである。資本主義体系において労働力とそこから製作された商品はその使用価値と交換価値を持っている。α
きて、並戸百理的な現象は、労働者は、彼がみずからの生活扶養(再生産)のために必要とするよりもより多くのものをつくりだ すことができるということである。このことがあてはまる瞬間に、この所謂余剰生産物のために一の闘争が戦い抜かれるという可 能性が存立する。資本主義は、余剰生産物は資本家に流れてゆき、また、労働者から生産物として奪い取られるということを通し て特徴をあらわされる。資本主義において、したがって、その労働力を自由に使わせる人(生産者)は、特定の使用価値をつくり だすのである。この労働の使用価値は、例えば、一OO
であるとしよう、しかし、生産者の再生産のために、いいかえれば、すな わち、その生活扶養のために、例えば、単に四O
のみ必要であるので、余剰生産物は六O
の額になる。資本家は、今や、生産者か らその労働力を買い取り、また、彼にその労働力の交換価値を支払い、しかも、冨﹀同一同が好意を以って承認しているように、正確 に再生産費の高さにおいて、すなわち、四O
として支払うのである。 臼余剰生産物を生産者がそのために働く資本家が不当にわがものとする。このために資本家は何物も支払わないのである。資本家 q u には、したがって、一OO
の程度における生産者の労働力の使用価値が帰属する。製作された製造物(H労働力)の使用価値と労 働の交換価値との差額が剰余価値である。剰余価値は金銭に表現された余剰生産物であり、それゆえ、例えば六O
である。他人の ために働かされるところではどこでも、資本主義においてこの労働が他人のために特にひどい形式をとった際、そうである。 一つの使用価値と一つの交換価値を示して第11巻 3号一一114 剰余価値につき資本家は、まずはじめに、﹁その身分相応の生活扶養﹂を争っている。資本家は製作された商品をその交換価値の ために譲渡することにより、残余を彼は市場に出すのである。商品の交換価値は、したがって、資本家がみずから要求する労働力 の使用価値の総計に及ぶのであり、資本家によって無償で取得され、また、その生活扶養につぎこまれた額をさし引くのである。 ( 別 ) 市場で商品の販売はさらなる剰余価値を取得するための交換価値のために使われる。 それにもかかわらず、剰余価値は、いわば全く初めから、商品生産者にその労働力の交換価値のみがこの価値の再生産のために 導入され、余剰生産物は、それに反して、労働力の使用価値の枠内で自分のものとされるということを通して、発生し、また、吸 いつくされるのかどうか、あるいは、剰余価値はそのあとの循環段階で、商品は(その使用価値はもちろんそのなかへ押しこめら れた労働を通して決定される)その現実の価値以下で買い占められ、また、その現実の価値以上で売られるということを通して吸 ( 閉 山 ) いつくされるかどうかは決定されていない。 つ ω 回マルクス主義は見つけだされた経済状態を批判し、また、その代りに正しく経営するという理想から出発し、価値承認はしなく ハ b て、強制的な発展などの歴史的な推移のみを描写するにすぎないということがマルクス主義者の側から再三再四たとへ争われてい るとしても、マルクス主義によって学問的に描写された状態はそれにもかかわらず││しかも超験的に││批判されるということ は見まちがいのないところである。先きに引用された注解において忌﹀ZEFが盗人を指摘していることは千余のうちの一つの事例 である。マルクス主義者にとって、いわば、正しいもの、理想的であるもの、あるいは、この主義者がいいあらわしているように、 強制的な歴史的な発展の終着点として頭に浮かぶものは、使用価値のための経済である。単に使用価値のためにのみ営まれている 経済において、製造物は単に自己の需要のためにのみ製作されるか、あるいは、その現実の価値、すなわち、その使用価値のため に交換される。そのことを通して製作物は商品の性格を失った。製作物のなかへは単に﹁必要な労働﹂のみが押しこめられている にすぎない。余剰生産物は発生しないし、剰余価値は自分のものとして取得されることはできない。労働の使用価値に、その場合、 全範囲において、この労働をもって製作された製造物の使用価値が一致するのであり、また、社会全体はこの使用価値にこの社会 の需要の割合に応じて参加するのである。この最終的に到達された状態に一致しないすべての体系のもつ不正さは、すなわち、剰 余価値は金銭において表現された余剰生産物の形態において、あるいは、交換価値が使用価値と異なることを通して商業の際取得
115一一ウォルフガアング・フィケンチャー「法の方法
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(四) された利益の形態において﹁盗まれる﹂ということにもとづいている。 制マルクス主義者は、大きい価値を、その教説は初期社会主義者の社会的な空想的理想主義に優越しているという意義におい てそれは学問的であるという確認の上においている。この点に関して、へl
ゲルの学問概念はそのような﹁社会技術的な種類﹂の 批判一般百号宙開)を許容しないということは正しい。その理由は、歴史主義と学問性の要求との結合は、﹁正義の﹂、﹁社会的な﹂、 ﹁相当でない﹂あるいは類似の政治的に評価してゆく批判一般のような判断が提示されるということを妨げるからである。同国B
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にとっても、同様に冨k r e
内にとっても、むしろ歴史の経過は必然的な経過であり、また、この必然性において理性的な経過である。 マルクス主義者は、それゆえ、批判を退けることができるのであり、この批判は、マルクス主義者は誤って価値評価するのであり、 誤った手段で正義を求めるのであり、また、そのようなことを単純な指示をもって行っているのであり、この指示は冨﹀同一円にとっ て一般に社会的正義が重要であるのではなくして、何が存在し、また、何が出て来るかという学問的な把握が重要であるにすぎな q d 臼政治的に価値評価してゆく判断に対するこの密閉可能性はすべての決定論的な、いいかえれば、必然的な歴史的な経過を主張し Q U てゆく観念論にとって共通である。この方法で冨﹀回同の著作のもとでの剰余価値観念論の批判は内在的に一般に可能でない。 ( 別 ) 司0
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はこれを、彼の立場から正鵠をえて、歴史主義の固有性と要求とを以て理由づけるのであり、また、 d 司 自 Z 何 回 回 目 拘 置 同 は こ ( 悶 ) の歴史主義にマルクス的な価値論の彼の批判において論理的な理由づけをつけ加えた。 正 し く 切 開 。 自 国 は 、 冨 KF 河凶は、剰余価値論は資本主義体系の欠鉄のない完全な理由づけと正当化であるというようにそれを叙述 しているということを強調している。ここから、宮﹀岡山一同がいうまでもなく恐らく欲しているであろう資本主義体系の批判は超験的 にのみ可能であるということが推論される。回開。同何回はこれをシニカルな冷笑的な考え方と名づけている。このシニカルな考え方は あの超験してゆく批判以外の何物でもなく、その際冨k r e
円によって資本主義体系に関し言い表わされた批判の超験的な性格は、使 用価値は資本主義経済のための(それだからこそ超験して評価してゆく)監理決定機関をこの経済の交換価値をもって叙述すると いうことのなかで理由づけられてあるのであり、使用価値なくしては剰余価値は定義づけられることはできない。 さて、ところで、その際、資本主義的体系の正当化されない批判が問題であるということは、使用価値は数量化きれないし、操第11巻 3号一一116 作されるものではないということから結果としてでてくる。資本主義的な体系に対するマルクス主義的な批判は正当化されないと いうこの反対主張もまたマルクス主義的││へ
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ゲル的思考範酵の領域を越えていることはもちろんである。しかしマルクスの資 本主義に対する批判はまさに彼の固有の範鳴を越えているので、反マルクス主義的論拠の超験性は論理的であるにすぎない。使用 価値を操作できるようにすることは、これまでいかなるマルクス主義者にも成功していない。それとともに││またそれは内在的 的││マルクス主義的に論証される││査本主義批判の道具としての剰余価値の概念は思いだされない。 労働力をその交換価値のために有償とすること、また、その使用価値をわがものとすることが正しくないと言われるのかどうか、 商品をその使用価値以下で買うこと、また、それ以上で売ることが正しくないと言われるのかどうか、富﹀間同とともにへl
ゲ ル の 決定論において、これらすべてのことは過ぎ去ってゆく状態であるということ、また、使用価値経済は発展の目標であるというこ a q 日とが一言われるのかどうかということは、同じ結果になる。無産者は、発展の歩みをはやめること、資本家の階級を憎むこと、また、 Q U 革命的に資本家に対して行動することが要求されるので、資本主義的体系の正当化はマルクスの価値論を通してシニカルに冷笑的 に言いあらわされるにちがいないということは正しいことである。 さて、超験性(すなわち、資本主義が使用価値に反目しているという宣告)は政治的に講座によってのみ拘束的にされることが できるので、また、このことはじつにたしかに云詰凶ものとで行われるので、別言すれば、非論理的な正しい││価格││信仰は 政治的に規定されるので、へl
ゲル的な意義において通用するために、この信仰は規定されるにちがいないないという理由があり、 政治的な独裁は唯一の政治的な形態であり、この形態においてF
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回同の教説は働かされることができる。このことは多くのマルク ス主義的な観念論者にとってあまりに反論の余地なく響くかも知れないが、人々が冨﹀同一円の固有の前提から出発するならば、いか なる道もその傍らを通るものはない。いかなるマルクス主義者負使用価値││会換価値││相異の学問的な真理の内容に関する この議論が実際的││﹄政治的な継起をマルクス主義的な目的設定のために持つことができるとすれば、この議論を許容してはなら ない。思い違いの誤りは独裁の道順で義務的にされる。 資本主義体系に対する超験してゆく批判の性格から行為への政治的委託との結合において必ず独裁の形式が結果として生じてく る。民主主義というものにおいては批判的に考えられるので、各々の民主主義は使用価値と交換価値の量的区別を問いかけるにちがいないであろう。しかし、交換価値を可能にすることに関するこの問いかけ、この批判、この対話を冨﹀同一円は許容することがで きない。もしもそうでないとすれば彼の思考建築は砂上の楼閣のように姿を消すであろう。疑ってゆく問いかけを通して、また、 対話を通してマルクス主義はもはや﹁学問的﹂ではないであろう。へ
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ゲル的な決定論、歴史的な綱領は(句。羽田)破られるであ ろ 、 つ 。 117 ウォルフガアング・フィケンチャー「法の方法J
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・商品生産に起因している剰余価値のために、﹁剰余価値はこの意義にお いて社会的な余剰生産の貨幣形態である。使用価値を生産してゆく社会において社会的な余剰生産物は、有産階級が先占するのであり、(賦 役)労働の形態においてであれ、財{基本定期金、貢納)の形態においてであれ、直接的に先占される。商品生産社会において有産階級は 社会的な余剰生産物を、貨幣の形態において、それゆえ、商品の売買を通して、間接的に先占するのであり、その売買代金から労働の維持 費と残余の生産費がでてくる﹂S
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巴 開 ﹁ 問 問 。 岨 ∞∞はフェニキア人の描写にしたがって次のことばでもって特徴をいいあらわしている、﹁あの時代の商人の剰余価値は、それゆえ、彼等は 商品をその現実の価値以下で買い、また、それを現実の価値以上に売るということを通して発生した﹂、次の文章にはただちに、﹁このよう な事情のもとでメルクュ l ル、商売人の神は、同時に、盗人の神と思われるということは驚きではない。﹂という評価がでてくる。 冨﹀回同は、個々の点において、絶対的な剰余価値(ひとしいままである労働生産性に際しての剰余価値)と相対的な剰余価値 (必要な労働時間の短縮から労働生産性を上昇させるとことを通して生ずる剰余価値)を区別している。冨k p
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