大乗佛教の精華の一つとして、ゆるぎない地歩を築いている﹃華厳経﹄が、どのように業の問題を取り扱ってい るか。また、その経に則って展開している華厳教学が、その課題についてどれだけ体系的な思索を深めることがで きたか。それについては、現存の資料をみるかぎりでは明確な答えを得ることができない。 経典はそもそも、思想を体系的に述べることを原則としていない。その意味では﹃華厳経﹄の中に﹁業﹂につい てのまとまった叙述がみられないのは、驚くに価いしないことともいえる。しかし経典のみならず、華厳教学にお いてもそれについての組織的な論述がなされないのは、この教学自体にそれとは別な立場があることになるのであ ろう。つまり、主要な観点を﹁空。縁起﹂の理解に置いて、その具体的あゆみとしての菩薩道の展開を述べるとこ ろに、この経の主たる関心があるところからみれば、流転の現実の中に迷没しつつある凡夫の妄情を破って、真に 独尊的である主体の確立を目指す﹁行﹂こそは課題となっても、闇から闇へと流される衆生の流転業は問題とはな らないとも考えられるからである。 しかし、菩薩の行こそ重要な課題であるといっても、その裏面にはそれを擬げて止まない衆生の業行があるであ
華厳における
|はじめに
業性の論理
鍵主良敬
一四四ろう。それを超克する はできないはずである そこでこの小論では、散見するにすぎない業についての記述を手がかりにしながら、﹃華厳経﹄及び華厳教学が ﹁業の課題﹂についてどのような見方をしているか、その理解にはどのような特質がみられるか、それらの問題に ついていささか論考を加えてみたいと思うのである。その場合おもに依拠とするのは晋訳六十巻の﹃華厳経﹄であ り、その注釈である賢首法蔵の﹃探玄記﹄である。 もとより業とは、意思を体として成り立つ行為のす、へてを指すのであるが、行為を成立せしめる意思自体が無明 におおわれることによって、そこから派生する行為もまたある暗さをもたねばならぬことになる。業が単なる行為 としてではなく、﹁惑業﹂と熟されてある暗さを意味することになるのは、以上のごとき無明と業との切っても切 れない関係からみて当然のことといわねばならない。 一切衆生類無量煩悩業由二斯結業一故趣趣受二諸有一︵大正9.四五七b︶ とは、﹃華厳経﹄が結業に纒われたものとして衆生を規定する例の一つである。このような叙述は大部なこの経の 中でそれほど多くはないが、衆生を時間的にみて衆多の生を生きるものと理解するか、あるいは空間的に捉えて生 きとし生けるものと解するかは別として、その生の全体を成立せしめている基盤に量りしれない煩悩と業の連繋を みていることは確かである。
華厳における業性の論理二四五
それを超克するところにこそ菩薩のあゆみも可能となるのであるから、無碍にそれらの問題を捨てさること二流転業の現実
煩悩とは結縛のことである。したがって、衆生として流転の現実を生きざるを得ないものは、自らあるゞへき方向 を求めて生きているにもかかわらず、それを志向する意思自体にどうすることもできない限定をこうむり、それに 依止することなしにあらゆる行為を免がれることのできぬものとして流されている。望ましい方向を求めて努力す るといっても、何が望ましく何が望ましくないかを判断する規準そのものが明らかでない。そのような危ふやなと ころで選択を迫られ、そこで自らの方向を決定せざるを得ない立場に立たされている。そこにある意思そのものに 結縛を纏いつかせながら、盲目的に行為せざるを得ないものとしてあるところに、一切の衆生の類の現実があると いうのである。煩悩結縛は衆生の心理作用に属することであるから、業のす.へてにかかわるものではない。だが、 意思を体として行為せざるを得ない我々であってみれば、その意思を規定してくる無明煩悩のために、行為と結縛 とは相乗作用をなして衆生の運命を決定してしまうということはできるであろう。いわば、煩悩を基礎とする業と 業を基礎とする煩悩との相関関係を免がれることなしに、無限に流転する状況の変化が五趣・六道といわれるので あり、それが衆生の現実として転回して止まないことになるといえるのである。 いわゆる惑業苦の三事は迷いの構造を連続的に形成する。したがってそこにおいてのみ衆生の流転の州を捉える 厳しい認識は、原始佛教以来の正統的な人間理解を示している。その点では、﹃華厳経﹄もまたその原則を踏みは ずすものではない。世間といわれるある限界蜻況の中に埋没しながら、生と死の輪を絶えず転回させていく。その ことこそが根元的な苦悩の現実を現しているのである。だが、苦の苦である所以を知り得ないところに、衆生が結 局衆生でしかあり得ない理由もあるといえよう。生死の苦のもっている恐るべき陥奔は、その中に流されているも のにとっては何ら恐る簿へきものとはならない。そこにこそ、衆生の次の如き現実があるのである。 二四六
一切衆生類悉皆三世摂三世渚衆生皆為二五陰摂一
五陰従レ業起諸業因レ心起心法猶如レ幻衆生亦如し是
世間非二自作一亦復非二他作一不し知二真実性︸生死輪常転所謂世間転皆悉是苦転衆生不し知故生死輪常転︵大正9.四六五b︶
ここで衆生は、先ず最初に過・現・未の三世に摂せられるものであるとされている。所謂、時間的存在として、 ある限られた時の中から抜け出すことのできないものが衆多の生を生きるものの現実なのである。そのような時間 的存在としての衆生の主体といっても、五陰として知られる身心の総合体にすぎないのであるが、身心の機能を離 れてあり得ない衆生のあり方は、結局﹁業﹂によってそうなったというのである。つまり、我々は日常的あり方の 中で何故そのように考えたり感じたりするのか、あるいはどうして手足はそのように動くのか、そのような疑問を もつことがしばしばある。その場合原因は偶発的なところに求めらるべきではなく、そのように機能し得る行為を 稚み重ねてきた結果、そうなるのであると解さなければならないのである。 ① では、そのような業は何に因って起ったか。それについて尋ねていけば、﹁心﹂すなわち意思を無視できないの であるから、業の体は思であるといわれる教学的理解が、ここに明瞭に現われているといっていいであろう。要す るに衆生のあらゆる行為が成り立つ基底には﹁心﹂としての意思があるというのである。 以上のような観点から、五陰と業と心の関係を捉えるのは、教理的に事新しい見解ではない。だが、あらゆる存 在とその機能の根基としての心法が、絶えず流れるものであることによって、何ら実体的に捉えらる隷へきではない ところに注目し、それを基礎として成立っている衆生といっても、幻のごときものでしかないと断定するのは、﹃華華厳における業性の論理二四七
厳経﹄の特質であるといえるかもしれない。すなわち、生死に流転し迷妄に沈むものとしての衆生といっても、何 ら実体のあるものではないといい得る認識が、どこから生まれてきたものなのか。そのことのもつ重要な意味に充 分留意しながら、ここでは問題を検討しなければならぬことになっている。 常恒に転ずるといわれる流転の業を苦と感ずる時、我々はそれを感受する主体としての衆生それ自身と、その衆 生の生活環境としての世間を→何らかの意味で固定化して考えている。感ずる主体があるから感じられるものがあ り、行為する衆生があるから、その衆生によって行為される業があるというように、必ず何かの有が前提されると ころに我為のものの見方があるのである。しかも、そのような見解に立つかぎり、どうしてこのような現状になっ たかを明らかにしようとする場合には、自ら糊してそうなったのか、あるいは他の誰かの為した行為によってそう なったのか、そのどちらかであると考えるのは当然のことであるともいえる。 しかし、そのようにして白と他、為したものと為されたこと等さまざまな対立閃係においてもののあり方を見る 立場には、必ずものの実体化が予定されているのであり、そこで理解された主体は決して真の主体そのものにはな らないというのである。つまり、自作なり他作なりに限定することによって、業とその主体のあり方を明らかにす る方法には重要な意義が含まれているが、それを明らかにする目の確立しないところでいかに主体を考え、その成 立の場所としての世間を云々してみても、捉えたことそのことの誤りによって、捉えられたもの全体がものの真相 を失うことになる危険があるというのである。 衆生といい世間といい、それを成り立たせる煩悩といい業といっても→それが何故に苦として転ずることになり また無限の輪廻を停止することがないのか。そのことの真相に気づくことのない根源的錯覚こそ、実には幻化にす 一 四 『 1 ノ L
衆生の流転の現実とは以上のようなあり方であることになると、諸法の実相を実相のままに捉えることのできな いところにその決定的な過誤があることになろう。事実の具体相を何ら正確に理解することなしに行動し、自らの 窓意的予想を唯一の手がかりにしてものごとを判断しなければならない。そのあり方が、いかに危険極まりないも のであるか。しかもそのような危機の瀬戸際に立ってその盲いた歩みを進めつつありながら、その行為の危さにつ いて何ら危倶の念をさしはさむことができない。そこにまさに、衆生を迷えるものとしてみなければならない根元
華厳における業性の論理一画九
量大悪罪業︿応し受二無量無辺楚聿露︵大正9.四八九b︶ 一切衆生造一作無量諸不善業一因一是業一故受二無量苦争不し見一如来↓不レ間二正法一不し識二浄僧司此諸衆生具有二無 といわれる所以も自ら明らかになるが、この経説から知られることは、衆生とはそもそも無量の不善業を造作する ものなのであり、そのために無量の苦を苦しまねばならぬものだということである。無量の苦に陥る不善業を犯さ ねばならぬものとして生きているために﹁不見如来∼不聞正法⋮⋮﹂ということになるのであるが、如来を見ず正 法を聞かないために大悪罪業を具足して無量の楚毒を受けなければならぬことになるともいえる。そこには全く円 環的に作用する迷妄の世界があり、相い関連して衆生を流転へ追いたてる絶対矛盾があるのである。 すぎないのてある。 るぺきものを見ず、聞くべきものを聞かず、そして識るゞへきものを識ることのないことから州結する当然の結果にるべきものを見ず、 ぎないものを実体化して常恒に転じさせる基因となっていることになるであろう。いわば衆生の業といっても、見三非有の業性について
衆生とは業性を離れざるものとしてある。そこに衆生の本質があるとすれば、衆生が衆生であるかぎり業性は衆 生を動かして迷妄へかりたてるものとなろう。業性と衆生との関係が以上の如きものであるとするならば、衆生で あるかぎり業性を免がれることはできなくなる。が!その反面からみれば衆生というある固定概念を打破すること ができるようになれば、業性もまた無いことになろう。無いものを有るとし、有るものを無いとするところに顛倒 の本質があるのであるから、その点に立って﹃華厳経﹄が 衆生虚妄取謂レ之為二真実一分別離二衆生一業性不し可レ得
業性無二所有一衆生身非し真種種無量色亦復無二来処一
一切諸形色業性難一思議一雌し見無二所有一識性亦如し是︵大正9.四六五blC︶ ② と述ぺることによって、業性の無実体を指摘するのは正当な見解を示したことになるであろう。この文の大意は、 ほぼ次のように解される。すなわち、衆生は妄りに取著して誤って捉えたものを真実であるとしているが、そのよ き坐bので↑めろ﹄フ。 的理由があるともいえる。 誤ったものの見方の原理となるのは、誤りを誤りと認めることができず、真実を真実と理解することができない という、全く愚にもつかない錯誤のなせるわざである。だが、そのような顛倒に立つところにこそ衆生の現実はあ ることになるのである。したがって、自らの立場に固執して、その場を守れば守るほど、実際にはその場がおびや かされることになり、誠実な行為︵善業︶とは何であるかを正確に理解することなしに、善意のつもりで他を疎外 するという全く矛盾したあり方がそこに現出する。それを成立たせる原理的行為こそ﹁業性﹂といわれてしかるゞへ 二五、︶うな分別が衆生を離れることができれば、業性も得錬へからざるものとなる。そもそも業性とは有るものではなく$ それによってある種の形態をとっている衆生身も真実なるものではない。さまざまな形あるものもまた、何らかの 実体を根拠にしてそうなっているわけではない。すゞへての形あるものをそうならしめている業性は思議によって理 解されるものではないのであって→一見何かがあるように見えても、それは実体のないものである。ものを対象化 して見る意識それ自体も実体がないからである、と。 つまり∼ここでいわれている業性とは、衆生が衆生であるための成立根拠ともみらるべきものなのであるが$そ れ自体は何か実体のあるものではなく、捉えようとして捉えられるものではないというのである。何らかの行為に おいてあるものとして$衆生は確かにある形をとっている。であるから、そのような諸形態があるように見えはす るが、それはそのように見えているだけのことであって、見た目のように確実な根拠をもってあるものではない。 根拠を探りさえしなければ、あるように見えているが、その根拠が何であるかを確かめようとすれば直ちに雲散霧 消してしまうといってもいいであろう。要するに業的存在としての衆生といっても、何かがあってそうなっている のではなく、何らの実体なくしてそうなっているにすぎないと理解しているのである。 先掲の経文に対して賢首法蔵は 一明二業非有↓二以レ業類し身身亦非し有。三以二業身一類し識識亦非し有。︵大正弱・一二五alb︶ と注釈するが、衆生の根拠としての業の非有によって、衆生身自体が非有となり︲それをある種の固定観をもって 見るところに識がある。だが、その識自体も業の所産であるために非有となるといっている。このような理解は、 よく経の趣旨を捉えたものだと思われる。
華厳における業性の論理二五一
二五二 ③ 以上のようにして、業性の非有もしくは不可得を主張するところにこの経の重要な課題のあることが明らかにな った。しかし、そこに説かれる非有なる業性は、非有といっても単なる否定を意味するものではなく、あくまでも 菩薩道の展開としての生きた歩みにおいていわれていることは多言を要さない。一切の固定化を破るとは、ものを 有化する傾向を否定することである。その点で非有を強調するならば、生きた歩みこそ非有でありつつ、歩みその ものとしてあるものといわねばならぬであろう。 事実上、煩悩に惑わされ業性に悩むものとしての衆生が、それにもかかわらずその業を内側から転じて、菩薩と しての歩みを進めることができるとはどのようなことなのか。いかにしてそれが可能となり、業性の具体的展附を どう把握すればそのような理解を生み出すことができるのか。単なるものの否定が、ともすれば虚無化する危険を 孕んでいることは衆目の一致するところであるが、その危機をこそ突破して真に目山にして主体的な歩みにおいて 業性の展開を捉えるとすればどうなるか。その課題を解くためには、次の如き経説の意味するところを解明しなけ 了下知三世衆生類悉従二因縁和合一起上善解二煩悩諸習気一不し壊一一諸法真実性一 了一二達業性非二是業一亦復不し壊二諸業性一又亦不レ壊二業果報↓宣二揚讃二歎縁起法一 衆生所し生無し有し生亦無一一流転生死中不し著二衆生↓説二衆生﹃善能随二順諸世間一︵大正9.四九九b︶ ここにいわれる衆生は単に流転せるものではない。三世といわれる時間の限定の中にあるものでありながら、そ のあり方は因と縁との和合によって現象化しているにすぎないことが知られている。つまり、衆生とは何によって 衆生とされるのか、その本質が徹底して見抜かれているといってもよい。したがって、衆生の内実を形成している ればならぬである誇り。
④ 煩悩やその習気も、いかなるあり方で衆生そのもののようなはたらきをなすことになるのか。そのことが善く理解 されてくれば、諸法は諸法としてさまざまなあり方をしながら、その真実性は決して破られたり壊されたりするこ とはないというのである。迷えるものは迷えるもの、煩悩は煩悩というようにその真相が捉えられれば、捉えられ たものは迷妄にすぎなくとも、そのあり方の真実が真実として顕現し、了知されることになる。そうなれば、そこ で理解された煩悩は単なる煩悩ではなくして、真実性に裏づけられた煩悩になるといってよいであろう。 以上のような観点から﹁業性﹂を見ることにすると、業性といってもそれは単なる迷いの業ではなくなる。そこ では業を迷いと規定する根拠そのものに何ら確かなもののないことが知られているのである。そのようにして業の 本質が兄透されることになると、業といっても何ら通途の意味での暗さにおいてあるものではないことが明らかに なってくる。しかしそのことは、所謂業がなくなったということではない。衆生が衆生であるかぎり業は業として 仮現のままにそのあり方を保持し、業の果報もまさしく果報としてありながら、それらがす識へて真理の顕現である 縁起法の正当性を宣揚し讃歎して止まないものに転じてしまうというのである。いわば縁起法の真実なることを証 明するためにこそ業も果報もあることになって∼何ら迷いのためにあるものではなくなると解してよいのである。 それ故衆生は、確かに衆多の生を生きなければならぬものではあるが、その生は何ら死と対応される意味での生 ではなくなる。そのために流転も生死もあり得ないことになる。そのようにして衆生を衆生として実体的に固定化 することなく、固定化から必然的に生ずる執着にも堕することなくして、衆生を衆生と呼ぶことになれば、そのこ とこそが善くすでに迷いの世間を超えながら、世間を世間として認め、それに随順してその存在の意味を全うさせ ることになるといえるであろう。
華厳における業性の論理二五三
以上の如く三段に分けられる一連の経文に対して﹃探玄記﹄は﹁初一明二尽レ事而帰や理、二不し磯し事而顕レ理不 レ凝理而成事、三理混而事用﹂と規定する。つまり、第一段は、具体的に展州している迷妄の﹁事﹂象はI業、 報のす、へてはここに入るがIことごとく普遍の道﹁理に納まる。理法界が示されていることになる。第二段は 事を磯げずして理が顕われ、理を擬げずして事が成ずるという所謂理事無擬法界が説かれている。第三段は、理が 消えて事の用きそのものとなる事法界を述奪へる段である、という。そしてこれら三種の義類の関係を総体的に捉え て次のように解説する。 以上のように業性を理解し、そのはたらく場所を法界として生きるのが菩薩であるが、その菩薩は虚妄の業とど のように関係するか。それは次の経文を見ることによって自ら明らかになる。 菩薩摩訶薩如咳是善根廻向、了二無所有争業中不膨取二虚妄報一報中不し取二虚妄業一離一諸虚妄↓入二深法界︵心常 安二住勝妙善根一遠二離散心一修二習善法一不し信二不し入三一切諸法一不し見レ有二法自性成就や作者壊者皆不レ可し得、知三 一切法悉無二自在︽解示了法界無し有二見者聿無し有噸知者函 如レ是菩薩摩訶薩円満具足解一了諸法︽得二一切法衆因縁地一見二切法身争離欲実際等観︸諸法︽解二了世間猶如一一 変化︽明二達衆生皆是一法分別無三不し捨二諸業境界方便却於二有為界一出二無為界一而亦不し壊一有為之性却於一無 為界一出二有為界一而亦不し壊二無為之性詔 如レ是菩薩摩訶薩︲楽二観諸法寂滅之柑一出二生一切清浄善根︽皆悉廻向救二護衆生毛精勤修二習離愚擬法一深達二 明了一切法海一以二虚空等一切善根一廻向、具二足無上堅固功徳︽得し離二凝冥一明二浄法眼一善知二方便一廻二向功徳記 二五四 善知二方便一廻二向功徳︽ ︵大正9.四九六alb︶
由二上三義混同一際一是故涙し理而唯事、未二嘗事而非穆理。尽レ事而唯理、未二曾理而非諺事耳。 良以事虚攪〃理無二不し理之事一理実応似縁無]畷し事之理如故此三門或破レ有顕レ空有未↓|曾損︷依レ空立レ有有未二始 存争是故約し理不レ隠不レ顕。約し事不レ存不レ壊。恩し之可レ知。︵大正弱.二五二c︶ この文の大意はおよそ次のようなものである。すなわち∼これまでに述べた事・理・理事無磯の三義は、それぞ れの特質をもってもののあり方の領域を現わしているのであるが、それらは切離されたものとしてあるのでなく、 混然一体である面をもちながらしかも同時に各別であるといわなければならないのである。したがって、普遍的真 実としての﹁理﹂の面をさておいて、具体的現象としての﹁事﹂の面に目を向けるとしても、その事は理そのもの としての事にすぎず、事の面を省略して理であるといっても、その理は事そのものとしての理であることになる。 よく考えてみると、事の面を無視して理の面に焦点をあてても理と無関係な事などというものはあり得ず、理が その本質を現わして縁に応じて現象化するからといって、事を磯げることになる理としてあるということではない。 それ故、此の三門においては、﹁有﹂を否定して﹁空﹂を顕わしても、有は少しも損せられることがなく、空に依 って有を立てても、有はそもそも在るものではないのである。したがって、理の面からみれば隠れもせず顕われも せず、事の面からみても存することもなく壊れることもない。その点を充分注意して考察する必要があるだろうと。 ここにおいて明らかになることは、業性の具体相としての衆生の現実を﹁事﹂の﹁有﹂として規定するならば、 それは空として否定されながら有であるような有なのであり、空に裏づけられてある有であるために、そもそもの 始めから実体的にある有ではないということであろう。そのような有は理の面からみれば隠れているのでもなく顕 われているのでもないといわれ、事の面からみても在るのでもなく滅壊することもないとされている心現象化しな
華厳における業性の論理二五五
以上の観点に立って、理の面から業をみると、第一段の経文にある﹁業中不レ取二虚妄報一⋮⋮﹂の語は、﹁謂不﹃| 因中計し果果内計頑因故⋮⋮又釈、業空不レ見二能生諺報、報空不レ見二従し業生一故也﹂と注されることになる。所謂、因 ⑤ 果の関係が実体的に捉えられることがなければ、業そのものが空ぜられることによって果報を生ずるものではなく なり、果報も空ぜられることによって、業より生じたものではなくなるというのである。また﹁不し信二不し入三一切 諸法一不し見レ有二法自性成就一﹂の文は、﹁以レ照一一所取空一故、於二情有諸法一而不二信入︽求二彼妄法之有一不し見二自性︽ 而是成就﹂といわれることになる。すなわち、ものが空ぜられて理解されれば、日常意識において有るようにみえ ているものを、真にあるもののょうに信じたりすることがなくなる。また、そのような虚妄の法が、それ自体性を もって存在しているように見なくなるというのである。 第二段の理事無畷を現わしている経文については次のように解説する。 謂達レ理而不し礒二事存一方是﹁円満解﹂也。何故不し礪レ存、以﹁得二因縁地一﹂故。此解一縁起本識為℃地$如何 復照し理、謂則於二此因縁地処一見二如来蔵法身際等︽如何理事得二無凝︽照以二等観一故也。又何故此事同レ理而不 ︲畷し存、以レ解一世間如恒化故、是故化事同レ理而現。﹁明達衆生﹂等者明二理事混融全摂無曝一故云二一法無二↓又 由二此事既与レ理無二一故此事業不し可レ捨也。︵大正拓・二五三a︶ 引続いて﹁有為界より無為界に出てて而もまた有為之性を壊せず。無為界より有為界に出でて而もまた無為之性 を壊せず﹂︵大正9.四九六b︶といわれる経文が問題になるが、これこそ理事無礪の論拠を示す経証として法蔵も ある。 がらあるものの在り方を、その本質を形成している空の理との関係においてみると、このようになるということで 二 五 六
⑥ その著の処右に引用するものである。これについては﹁事を尽して理を顕わすも然も事は損せざるが故に於有為等 といい、理を混じて事を現わすも然も理は隠れざるが故に於無為等という。此れは即ち事を損せずして尽く理を顕 わし、理を隠さずして現事を涙ず。是の故に為と無為とは二も無く不二も無き故なり﹂︵大正調.二五三a︶と注釈 する。すなわち、有為と無為とを事と理で現わせば、理となった事は事のままを失うことなしに理に即してはたら き、理を隠して事となった理も、理の性を失うことなしに事としてはたらく。そのことによって、有為と無為とは 二でもなく不二でもない全くの相即無砺の関係になる。そのことがここに端的に現わされているのである。 ところで﹃華厳経﹄及び華厳教学が﹁業﹂の問題を取上げる箇処はあまり多くないとはすでに述べたことである が、その中で比較的真正面からそれについての論述を展開するのは菩薩明難品第六における﹁業果甚深﹂の箇処で ある。この品の主役である文殊菩薩が業報の種々相について宝首菩薩に尋ねる問いは次のようなものであるが、そ こではこの経の業に対する理解がどのようなものであるか、それについてのおおよその課題が提示し尽されている 仏子、一切衆生凹大、悉非レ我非二我所争云何衆生、或受レ苦受レ楽、或作レ悪作し善、或内端正或外端正、或受二 少報一或受一一多報︽或有二現報︾或有二後報聿然諸法性無咳善無し悪。︵大正9.四二七blc︶ すなわち、一切の衆生は四大の衆合体にすぎないのであるから、実体としての我はなく我がものとす曇へきものも あり得ないはずである。しかるにその衆生がさまざまな形で苦を受けたり楽を受けたり、悪を作したり善をなした
華厳における業性の論理二五七
と思われる。四業果甚深の主題
﹃探玄記﹄の理解を待つまでもなく、この問題提起が二段に分かれていることは、直ちに肯かれるところである。 それ故法蔵は、問いの主鼬は業報の有無、多少を問題にするところにあると規定し、最後の句である﹁然諸法性無 善無悪﹂は、主難に対する反論を予定して、それについて重ねて再批判していると考えている。そして、論難の趣 旨を次のように即解している。 此中難意、若四大中無我者誰作二善悪︷誰能受レ報。此中執下有二作用一応し有噸作者毎是以レ用徴肱体難。 設小乗救言、雌し無一一我人作者﹃然有二善悪因果法︸故得し如レ此也。猶是法執、故重難云、然於二法性一無シ善無し悪、 此顕二法空司既於二法性空一無二善悪︽若無二作者一更因二何法|而有二業果如故知有し我、我既実有無我之理安在。難 意如レ此・︵大正弱.一八○c︶ 此の難においては、もし四大の中に何らかの意味での主体がないとするならば、誰が一体善悪の行為を作し、ま たその報いを受けるのか。それを問題にしているのである。つまりここでは、作用があるならば必ず作者があるは ずであるという予定概念でものをみているのであって、その立場に立つかぎりものに用きのある点から類推してそ の用きをなす主体を想定すれば!何もないのに用きがあるのはおかしいことになる。 ⑧ それに対して、もし小乗的立場から弁護して、我・人・作者といわる︾へきものは何も無いけれども、善悪因果と 二五八 ⑦ りしている。また、美醜に分かれる容姿を受けたり、生活態度に好悪の違いが生じたりする。報いを受けることに 多少の差異が現われ、あるいは時間的にみても現実に報いを受けたり後で報いを受けたりすることがある。それは どういうわけであるか。しかも諸の法性には善も悪もないはずであるが、どうして業報に差異が生ずることになる のか、というのである。
いうのはものの道理としての法則であるから、そのような法は人我の否定にもかかわらず存在するといって、先の 難に答えようとするならば、それこそ法執にすぎないことになるので、その点への再批判を加えて﹁然も法性に於 ては善も無く悪も無し﹂と云っているのである。これは法空をいおうとしているのである。つまり実体的なものが ないというのは、いかなる意味においても空であることを顕わしているのであって、上層的には無いが下層的には 有るというようなことを認めようとしているのではないからである。 したがって、法性に於いてはそれ自体が空であって、そのために善悪も無く作者もないことになるが→もしそう だとすれば、いかなる道理︵法︶にのっとって業果があることになるのか。現実には業果があり、そのためにはそ うなる法があるはずである。だとすると何らかの意味での主体的な我が無ければならないし、その我がすでに実有 であるとするならば、無我の理はどのようにして成立するというのであるか。というのがここで問題になっている 論難の意味するところなのである。 以上が﹃探玄記﹄において法蔵が述、へている文殊菩薩の問いの大要であるが、その問いに対して偶頌をもって答 える宝首菩薩の答えは、ほぼ吹のようなものである。 随二所し行諸業一受二果報一亦然造者無二所有一諸仏如是説 猶如下明浄鏡随一一其凹像一現内外無噸所有上業性亦如ゞ是
亦如下田種子各各不二相知一自然能作諺因業性亦如上し是
亦如下大幻師在二彼四噛道一示中現種種色上業性亦如ゞ是
如下匠造二木人一能出學種種声︷彼無噸我非我上業性亦如〃是華厳における業性の論理二五九
亦如下衆鳥類出二声音一不し同能作噸種種声上業性亦如〃是
如下親因縁会受し生無二来者一諸根各別異と業性亦如〃是
如下大地獄中衆生受二苦悩一苦悩無噸来処△業性亦如〃是
亦如下転輪王成二就勝七宝一彼無し所巾従来上業性亦如嫁是 亦如三諸世界有し成或有し敗成敗無二来去一業性亦如是︵大正9.四二七c︶ この偶頌においては、最初の一句が答えの主題になっており、他の九句はそれを論証するための譽職を示してい る。その初句について﹃探玄記﹄は次のように述べている。 謂随一其所し作諸差別業一翼し於二本識弐本識依他変二似其業所レ起果報︽故有二多報等種種不同↓但是諸識縁起互扣 集成無二自性一故得し有二業果↓実非下四大中別有二人我一能作し業受慢果故云二造者無し有↓也。此則由二無性理一故法性 無二善亜父山二無性|故成二因果一故有二業果差別如此但有二無性之因果︽何関し有一我人一故云]’四大中非我等一也。 如似此正法理趣決定、三世諸仏之所二同説一故云二諸仏説一也。膀伽第一云、我常説一空法︵遠二離於断常︷生死猶 如レ夢、而彼業不レ失此之謂也。︵大正弱.一八○c’一八一a︶ ⑨ 法蔵の理解によれば、経文の﹁随二所し行諸業一受二果報一亦然﹂というのは、﹁業果の不壊を明し﹂ているという。 行われた業はそれにふさわしい果報を受けるというのである。業果は業果として歴然たる事実であり、そのことを 無理に否定する必要はないというのであろう。そして﹁造者無二所有一﹂の句は﹁作者無きことを明す﹂という。 以上のごとき相い矛盾するようにみえる二つの命題はいかにして同時に成立するのか。それへの疑問こそ論難者 の指摘するところであった。したがって、その点に留意しながら経文自体を見ても、それだけでは問いに対する解 一 ノ 、 ○答になっているようには思えない。そこで法蔵は唯識の思想を援用した空観の立場に立って前記のように彼の教学 を展開しながら、その疑問に答えていくのである。 すなわち、人はその作した所のさまざまな業をそのままに生存の根本的生命態である本識︵阿頼耶識︶に薫習する ⑩ が、その本蔽の現象形態である依他性は、さまざまな業によって起こされてくる果報を変似するから、報に多少等 の種々の不同が有ることになる。その場合、本識より変似して現象化した種為の識は、条件の組み合せによる所謂 縁起によって、相互的に集成するのであり、それ自体であるような自性をもたないから、縁起集成して業果となる ことができる。いわば業果は諸識の具体相においてあるのであるが、縁起としてそうなるのであり→自性がないか らこそ集成できるというのである。したがって、実際上、四大の中にそれとは別な主体的人我があって、それが能 く業を作してその果を受けるということではない。それ故﹁造者は所有無し﹂といわれるのである。 ⑪ 此のことは無性の道理に由ってそうなるのであって、法性には善も悪も無いが、それも無性であるからかえって 因果を成じ、それによって業果の差別が生ずることになるのである。此のことは、ただ無性の因果があることだけ を示しているのであって、主体的自我の存在を意味しているのではない。だから、問いの中で﹁四大の中に我ある に非らず﹂等といったのである。正法の理趣は此のように明らかなのであり、三世の諸仏の同じく説く所であるか ⑫ ら﹁諸仏は是くの如く説きたまう﹂というのである。﹃枅伽経﹄巻第一に﹁我は常に空法は断常を遠離すと説く 生死は猶、夢の如し而も彼の業は失せざるなり﹂というのはその例である。 以上が経の初句に対する法蔵の見解の大要であるが、引用された﹃枅伽経﹄からも直ちに明らかになることは、 空観に裏づけられた業の理解を示していることである。断常の辺見に立ってみるかぎり必ずものは実体化されて見
華厳における業性の論理二六一
それを次にみることにすると、第一は明鏡の職えであり、﹁依他と離性との譽嶮﹂といわれている。すなわち、 浄らかな鏡はその鏡面にさまざまな像を写すが、鏡の内にも外にも何かがあってそうなるのではない。業と性との
⑮⑯
間係もそれと同じであるとする経文について、法蔵は、本識は鋭の立場であり、その面に現われる像は業果の位置 になると考える。このような両者の関係はそれぞれ対応する他を予想するので依他といってよいが、そこで問題に なるのは鋭の内にも外にも何もないということである。常識的には何かがあるから写るのであり写されるのである とみなければならないが、その点は写すものと写されるものがそれぞれ﹁自性を離れている義﹂を現わしていると いう。そしてその関係について左の三点から問題を考えている。五業性の譽職について
⑭ これまでの叙述によって明らかになった主題をより閲明するために九種の譽啼が説かれる。それらはすゞへて、業 果歴然として動かし難い面をもちながら、それが同時に何ら所有なきものであるという主題を、より適確に示すた めに述べられるのである。 り、﹁無性の因果﹂ということが問題を解くための重要な鍵になっているのであり、その無性の空法を成立せしめ 全体を成り立たせている仮現性に気づけば、幻は幻として何ら執わる、へきことではなくなるというのである。つま しかし、夢であるかぎりはその限定内において因果の法則も成立し業も業としてあり得るわけである。だが、その られる。それを離れるところに空法の端的な実現があるのであるが、そこでは生死は夢のごときものでしかない。 ⑬ る根拠が﹁心﹂なのである。業果甚深の課題が唯心思想を基底として展開しなければならない理由がそこにある。 一一一ハーーなるので迄⑭る。 二に、写る〃 一は、鏡面に写っている像の立場からみるのであるが、何か写るものがなければ像は現われないのであるから、 鏡の内側に写るものがあるわけでないことは直ちに肯かれる。また、鏡がなければものは像となって現ずることは ないのであるから、像が外にあるということもできない。しかも、それらは一つの像についていわれることてある から、倶に内にも外にもそれ自体としてあるものではなくなる。しかし、像としては確かにあるのであるから、何 も無いということはできない。このようにして像は必ず内と外との関係によって現ずるものであることが明らかに 二に、写るものの立場から考えてみると、写るものの面と像として写った面とは丁度反対向きになる。その場合 写るものの内側に反対面が実在していてそれが像として写し出されるということではなく、鏡面に写ることによっ てそのように現ずるのである。しかも写るものを外にしてそのように写る面はあり得ないのであるから、それ以外 のどこかにあったものがそうなったというわけでもない。ものの内にも外にも倶にものは無いにもかかわらず、鏡 との関係において歴然としてものはある、とはその意味である。 三に、鏡の立場に立って考えてみると、鏡を造っている素材の中に空間があってそこに像が蔵されているのでは ない。鏡の内面に像があるのではないということである。また、鏡に写る像をみようとする者は、みな必ず鏡に向 ってその像をみるのであり、鏡以外のところではみれないのであるから鏡を外にすることはできない。以上のよう にそれ自体的な何ものも一切なくして、而も影像はさながらに写し出されているのである。その関係からいえば ﹁業﹂は像の立場となり﹁性﹂は銃の立場となるといっていいであろう。 第二は田と種子の関係を業と性に書えるものであって、﹁無知成因の唇嶮﹂といわれている。すなわち経に﹁田
華厳における莱性の論理二六三
と種子とはそれぞれ相い知ることはないのに自然に能く因と作るように、業と性とも亦そのような関係になる﹂︲と いわれる例を手がかりにして問題を考えるのである。その場合、田は本識に当たり業は種子になるのであるが、さ まざまな種類の種子は唯一の本識をその成立場所としてそれ自身の用きを発揮できることになるので、種子相互間 の関係としては直接つながりがないことになる。したがってそれぞれの自体としては相い知ることはないことにな るが、識としての功能は失われることなしに能く因と為ることができる。いわゆるよく肥えた土地が雨を得て草が 萌え出るという場合、それらの多くの草の種子についてその土地の中を探ってみてもそれぞれの性格がどのような ものであるかを明らかにすることはできない。それにもかかわらず能く因と為る用きは失わないのであり、たとえ 深く大地を掘って得た土でも、雨を得れば草を生ずる。そのような草の種子は同じ土の中にひそんでいて多年を経 てもその功能を失わない。業と性との関係もそのようなものである。 又、水と土とを疎縁と為し、種子を親因とすると、縁に焦点を定めてみれば縁がなければ因もないのであるから 縁のみあって因は無いことになり、因に焦点を定めれば因のみあって縁はないことになる。それ故、因と縁とは相 い知らざる関係であるとみることもできる。識の中においてもそのような閃係を想定することができるのである。 第三は幻師の誉えであり、因が能く果を現ずる職であるといわれている。手品師が街頭においてさまざまな幻術 を行う例を手がかりにして業性について考えるのであるが、業性は幻師に配され、現われた果は幻色に当るといわ れている。業果は幻色と同様にいかにも有るように見える。けれども真に有るものではない。そのことを明らかに しようとしているのである。 第四は木人の害えであるが、﹁果法無念の臂職﹂といわれている。すなわち、工匠が人の声色を出すことのでき 二六四
るような木製の人形を造ってさまざまな音声を出すことができても、その人形に自我等の意識がないように、業性 もそのようなものであるという。その経文に対して、咽喉と同じような構造の機能を造り出せば、音声は出るであ ろうが、そこに人形の主体的自我があるわけではない。ただ言葉に似た音が出ているだけである。人形が声を出す ときに自ら意識して自分が声を出すとか出さないとかを考えるわけではないようなものである、と説明している。 ⑰ その場合、人形の材料となっている木とは如来蔵性を意味し、工匠は妄想とか業など、人形は衆生の業報の相を現 わしているから、﹁我と非我と無し﹂ということになるといっている。 第五は衆鳥の臂えであるが、﹁因体無雑の轡嶮﹂といわれている。鳥が殻を出れば種々の鴫き声でさえずるよう なものだというのである。つまり、烏が殻の中にいるときには未だどのような声で鳴くかはっきりしないが、殻を 出ればそれぞれの種狐に随っていろいろな鳴声があるように、口業の秘子も本祇の中に在るときにはすべて同一の ⑱ 無記性なのであり少しの違いもない。それが生を受けて業報が熟する時になればさまざまな音声となるのである。 また、可能性としての功能が果報として現実化した場合のそれぞれの差異は、鳥が殻を出た状態と同じであり、業 の性が空であってそれと別体のないあり方は烏が殻の中に在る状態と同様である。これらのことは譽嶮であるため に時川的な差異があるようにみえるが、実際は同時的に業性と果報とが関係していることをいいたいのである。 ⑲ 以上の如き五種の譽嶮によってほぼ業性と果報との関係は明らかになると思われる。これ以外の四種の譽嶮は大 体これに準ずるものであるから強いて挙げることもないであろう。 華厳における業性の論理 二六五
これまでの叙述によって﹃華厳経﹄及びそれによる教学が、﹁業性﹂についてどのような理解を示し、それを論 理的にどのように展開させているか。それについての大要はほぼ尽されたと思われる。すなわちこの経も、所譜、 人間の日常的あり方を流転するものとして捉える、業報の一般的理解を踏襲しながら、存在の基底をなす原理の中 に、冥より冥へと流される衆生の現実を見出すのである。自己自身にかかわることでありながら、自分の力でどう にもならない暗さをかかえて生きていかねばならないところに衆生の現実はある。しかもそれはある種の実在感を ともなって、我々の具体的な事実と為っているのである。 しかし、そのような業報の世界を、単に無批判に実体化しそれを盲目的に肯定するのでなく、その虚椛の根元に 立ち帰って迷いの構造そのものを解明しようとするところに、この経の主題はあった。業性の世界は確かにある。 しかしそれは、凡夫の迷情が理解するようにはない。もっと別の形で、業報の無化をこそ通してあるのである。い わば、無いものが有るような形であるといわなければならない面があるのである。 すなわち、顛倒した目によってものを見るのでなく、真にあるものをあるとし無いものをないとする。澄浄な目 によってものを見る必要があるのである。ものが仮幻でしかないならば、それを無理に固定化して執われる必要は 少しもない。凡夫の立場でそれが、いかに認めにくいことであっても、真実は真実であることを止めるものではな いからである。その点で、真理に立ち帰ってものを見る目を川復し、そこから自らにして生まれてくる行によって 生きる道を見出せば、仮幻は仮幻なりの意味をもって大いなる世界を開くというべきであろう。
六むすび
一一﹂、﹄、 一一一/|ノ衆生といっても単に迷うものではないといわれるのはその意味である。迷いを通して真実の世界への手がかりを え、仮現を通して深遠なる実在を求める道を与えられるならば、業性の差別もかえって必要欠く尋へからざるものと なるであろう。所謂、智慧の実現によって、ものを真に見る目が開かれてくるならば、流転にしかみえなかった衆 生の現実も、菩薩の行の成立する大いなる基盤になる。次のように述謬へられる経説においては、業の意味が全く転 じられて問題になっている。迷妄を破るものとしての業が、明確な形を現わしているのである。
随二彼衆生行一種種諸業性上中下差別随し応所し受し化
如是甚深智菩薩入二是行一修二習普賢業一具二足智慧輪一
身業無二障礪一口業悉清浄意業亦無砿通二達三世法|
菩薩如是行究二寛普賢道一出一生浄智日一普照二諸法界一︵大正9.六○八Cl九a︶ ここに説かれている衆生の業性は、単なる差別の種盈相としてあるのではない。教化を受けるための素材として その意味が全く転ぜられていることが明らかに知られる。所謂、菩薩の行としての普賢の道が完成するための普賢 ⑳ 業の成立の場所となっているのである。そこでは身口意の三業も三業のままに清浄であり無障礪であるといわれて いる。もの在真に見ることのできる甚深の智慧に裏づけられることによって、業のワク内にありながらそのワクを 超えたはたらきを生み出してくるということであろう。 法蔵は﹁称し理之事起1於大行一﹂︵大正弱.二五三a︶という言葉を用いているが、真理を依り処とした大行として の菩薩行は、業報に即しつつ業報を超えているといわねばならない。 如レ是菩薩摩訶薩成二就善根︸出二生善法︽不し壊︸業報一明見二真実善解廻向記以二方便力|出二生業報一究一一寛法性一得華厳における業性の論理二六七
といわれる経説が、真に自由な主体の確立を予見しながら、ひたすら悪業業報を打ち亡ぼし、恐る、へき魔業と格闘 してそれを推破することに自らのす、へてを賭けている菩薩を、真実を明見し法性を究寛して彼岸に到るものと規定 するのはそのためてある。菩薩には業報も悪魔もないのではない。かえって真に恐るゞへきものが、恐るべきものと して知られているのである。仮現にすぎないと分りきっているはずのものが、いかに強力な実在感をもって普賢の 道を求めるものを悩まして止まないか。その事実を誤魔化すことなく、事実そのものとして認めるとき、かえって 悪魔がいるからこそ、それに打ち勝って究党の彼岸を求めねばならぬことを、身をもって知ることができるといつ ⑳ ていいであろう。そこに一切智︵薩婆若︶の実現があり$大智の廻向としての清浄なる﹁無行の行﹂があるという 鐙へきである。 註 ①この心を所謂唯心思想の論拠として解することも可能である。たとえば探玄記巻第六︵大正調.二一五a︶は、﹁謂心随 し薫変以作二衆生一心既如レ幻不レ真即心衆生寧容し有し実﹂という。 また、業の体を思と定義する倶舎論等の系譜において見ることもできるであろう。後者とこの心とがどのように関係づけ られるのか、必ずしも明らかではないが、ここでは一応意思として解してみた。 慧一入二深方便一捨二生死苦↓成一就諸仏無量善根一推二伏魔業一得二平等法一印以印二諸業︽随一順薩婆若無上菩提韮 生仏種不し断滅二諸悪業報︽廻二向一切衆生一得一無量智一成一一一切智却離二世境界一滅二諸順悩一究︸党清浄一成一︸就智 し到二彼岸斗了二達諸法一廻一向大智一諸業善根其心清浄行無二所行や菩薩摩訶薩如レ是善根廻向、欲し度二脱一切衆 一 一 一 / 、 八 ︵大正9.四九二b︶
ちなみに唐訳華厳経︵大正、・一○一b︶では﹁諸瀧業為し本諸業心為し本心法猶如レ幻世間亦如し是﹂となっている。 ②唐訳華厳経︵大正加・一○一C︶では﹁但以二諸業一故説名為二衆生一亦不レ離二衆生一而有一一業可で得業性本空寂衆 生所二依止一普作一衆色相一亦復無一一来処一如し是諸色相業力難一一思議一﹂となっていてわかりやすい。 ③詳しくは後にⅢ雌師を取上げで論ずるが、十廻向品︵大正9.四九○b︶には﹁諸法無一業報一而出一生業報ことある。 ④唐訳華厳経︵大正加・一三五b︶では﹁心楽及習気﹂となっている。 ⑤法蔵の因果に対する理解を知るためには、華厳三宝章巻上、流転章、第八因果門︵大正蛎・六一九a︶等が参考になる。 ⑤たとえば探玄記巻第十八︵大正調.四四○b︶など。 ⑦これは経文の﹁或内端正或外端正﹂の句を解してみたものである。この文のみではこのように解していいかどうかはっき りしないが、唐訳華厳経︵大正加・六六C︶には﹁端正醜晒、内好外好﹂とあり、探玄記︵大正弱.一八○c︶には﹁三約二 報中差別↓内約し行外約し身、若無一一作業者一何因有二此別ことあるのを参照した。 ③探玄記南紀録巻四之三︵日本大蔵経・華厳部章疏二、一六九頁・通四五五頁︶﹁遮ン救重難意、於し中先救釈意、即小乗救 日一一善悪因果法一者、彼三世実有法体恒有、雌し無二我人一有し法故、業果不﹀涙。今判し之日一一猶是法執聿後重難下重難意、即以一一 大乗法空実義︽離三殺小乗如我不レ成二無我司於レ此顕二現大乗甚深業果旨趣ごとある。 ⑨唐訳華厳経︵大正加・六六c︶では﹁随一一其所レ行業一如し是果報生﹂とあって、晋訳の意味をより閨明に現わし得ている。 ⑩唯識学における識転変の間迦と対応するであろう。上山義文著﹃佛教思想史研究﹄二九八頁らに詳細な研究がある。 ⑪拙論﹁華厳経における無性の意義﹂︵印佛研究第十七巻第二号︶参照。 ⑫拐伽阿販多羅宝経巻第一︵大正咽・四八六a︶ ⑬探玄記巻第六︵大正弱・二二六a︶﹁疑云、若業果倶空者衆生報類由し何差別。釈云、由一一心画一故画像亦三義、一平混義 以二同壁一故。二有二高下一義以二画工不七失故。三無硬義平高無磯故。衆生亦爾、於二真如平壁一心画成し像、一是空義浪二同真一 故、二有義業果不レ失故心随レ薫変故、三無硬義謂空有無磯、則是全し空相宛然相顕一一無所有一是故摂化不し廃、恒無一所化一故不
華厳における業性の論理二六九
⑭法蔵はこの九種の譽嚥の名称に対して、ほとんど捜玄記巻第一下︵大正弱.二八Cl二九a︶を踏襲して規定している。 ⑮この本識がいかなる性格のものであるかについて随疏演義妙巻第三十三︵大正調.二五三c︶では﹁今依一一法性宗一亦以二 如来蔵性一為し鏡者、⋮:.今初言二亦以一者、非し棟二本識﹃識亦職二於鏡一枚、拐伽云、櫻如三明鋺現二衆色像一現識処現亦復如し是。 但法相宗不下用二如来蔵一為舎鏡、今墜用一一二義一故致二亦言ごという。探玄記発揮紗巻第五︵大日本佛教全書八、一八七頁︶は 澄観の説を次のように整理している。﹁初明二依他雌性職︽本識職し鏡、演義云、依二法相宗︽唯以二本識一為し鏡、今依二法性 宗↓以二如来蔵一而為二明鏡聿今謂、今疏所謂本識、乃通レニ之都名也。﹂ ⑯法蔵がこの焼の警嚥を用いて業について述尋へる例は、華厳経義海百門︵大正妬.六三六a︶にも次のようにのっている。 ﹁六除一一業報一者、謂塵上不し了一一n心↓謂心外有し法、即生二憎愛﹃従二貧業一成し報。然此業報、由二心迷レ塵妄計一而生、但以レ有二 顕現弍皆無二宣菫王経云、猶如下浄明鏡随一一其面一像現、内外無幸所有坐、業報亦如し是。迷者謂下塵相有し所二従来一而復生滅聖、是 迷。今了一厘相無壱体、是悟。迷本無二従来﹃悟亦無二所去如何以故、以二妄心為膿有、本無壱休故、加ャ繩上蛇、本無一一従来↓亦 無申所去坪何以故、蛇是妄心、横計為し有、本無し休故。若計レ有一一来処去処一還是迷、了し無一一来去一是悟。然悟之与レ迷、相待安 立、非下是先有二浄心一後有準無明迄、此非ニニ物一不し可二両解至但了二妄無毒妄、即為二浄心圭終無二先浄心而後無明壬知し之・﹂ ⑰探玄記南紀録巻四之三︵日本大蔵経、華厳部章疏二、一七二頁・通四五八頁︶﹁又木如蔵性等者、約二如来蔵縁起弍是本 宗正意、故疏述一一釈此意一巳。即釈二無我非我一日し著二無我↓亦是倒故・﹂参照。 ⑬この無記性については法相宗と法性宗で理解の異なることを前注南紀録が述べている。 ⑲六受生離作の職、七果報無本の職、八勝事無根の職、九有無同性の聡。 ⑳業が如来業・菩薩業と熟される例は十泗向品︵大正9.四九四b︶に﹁菩薩安二住此迺向一巳、深入二切諸如来業弐趣一一諸 如来勝妙功徳︽入一一深清浄智慧境界︽不し離二一切諸菩薩業﹃善能分二別巧妙方便︽入二深法界一﹂とある。 ⑳畦婆若に裏づけられた業については、華厳経十廻向品︵大正9.四九○b︶に次のようにある。﹁於二彼善根一不し作一一二相︽ 著也・﹂参照。 二七○
、 解脱一不し著一一法性一無量無辺善根迺向。諸法無二業報一而出二生業報匡 報照明清浄故、薩婆若亦照明清浄。捨一雌一切動乱覚観橋慢放逸︽随一一方便智一以二諸善根一迺向、令三一切衆生悉得二真実究寛 薩婆若非レ即二是業一亦不し離し業迺向。観一察薩婆若一不し即二是業一亦不し離し業。得二薩婆芳願智業一照明清浄故、報亦照明清浄。
華厳における業性の論理
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