道徳教育の社会学をめざして : 倫理判断の社会学的研究の可能性の検討
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(2) . 道徳教育の社会学をめざして --倫理判断の社会学的研究の可能性の検討--. 大. 坪. 嘉. 昭. は じめに. 本論稿は, 道徳教育の社会学的研究に取り組むにあたっ て, その前提となっ ている考え すなわ , ち道徳教育の研究に社会学 が参加 できる余地があるの ではないかとの考えをより明確なものにする ための一過程として, 次のようなことを目的として書かれる すなわち 倫理判断とはいかなる判 , , 断 であるのかに関する研究を行なうこと自身を通 じて, 倫理判断を対象とする研究に社会学が貢献 しうるのかを検討すること, を目的として本論稿 は書かれる .. (一) C 」 という倫理判断の言明はおおよそのところ 「私 .L .スティ ーヴンソンは, 「これは善い(悪い) はこれを是認 (否認) する. あなたもそうしなさい」 という意味 であるという ことができる ,と主張 ) そして前半 の 「私はこれを是認(否認)する」 という部分は その倫理判断を行 している1 っ てい . , る人間の心の状態を述べ ているのであ るから, どんな心理的言明とも同様にその真偽 を経験的に確 かめることができる. 後半 の部分は倫理判 断の言明が命令的な機能を有し 相手の態度 (a i t t t ) ude , l i f ) ここ で「確信」 や確信(be )に影響を及ぼそう としてなされるも のであることを意味している2 e . とは, 事実が何 であるかに関する見解を意味し, 「態度」 とは 何をめ ざしているのか 望ん でいる , , のか, 好 ん でい る の か, そ の か ま え を 意 味 して い る .. 相手もまた同様な確信や態度をもっ ているならば その倫理判断の言明は 相手の態度や確信を , , はげます機能をはたすにとどまる であろう, もし相手が異なっ た確信や態度をもっ ていて相対立す る倫理判断を行なっ ているならば, 自 己があることを是認(否認)することを支持する理由を述べ , 倫理判断の不一致を解消しようとする であろう その際の支持する理由は確信に関係するものにす . ぎない. この理由が論証的方法や経験的方法によっ て証明されていくならば 確信の一致だけはま , ) ず得られる であろう. けれど倫理判 断の一致は確信 の一致 だけで達せ られるものとは限らない3 . もし倫理判断の不一致を解消しようとする論争が,確信 の不一致にもとづいているとするならば , その論争は, お互いの確信を支持する理由を示したり, 推論と調査とを通 じて確信の不一致が解消 される限り, 解決されるかもしれない しかし, もしその論争が確信 の不一致に根 ざしていないな . ) そしてこのような場合にお らば,そのような合理的方法によっ て解決されることは不可能 である4 . いて, なおも倫理判断の不一致を解消しよう としてとられる方法 をスティ ー ヴンソンは非合理的方 41.
(3) . 大 坪 嘉 昭. 法と呼ぶ. } その 非合理方法には,自己の倫理判 断に同調しない者に対して賞罰 を与える方法もあるけれど5 , i hod) をあげている. これは, 情緒的な言 t r suas veme 中で最も重要なものとして, 説得的方法 (pe 葉の影響 (衝撃) に依存するような方法である. すなわち, それは情緒的 意味, 修辞的な調子, 適 6 } 切な比峨, 刺激的ないしは懇願するよう な声の調子などに依存 するような方法である , 以上がスティ ー ヴンソンの論究の骨子 である. 以下確信や態度の不一致を解消するためにいかな る方法をとるかの判断をも 「倫理判 断」 にふくめて考えることに しよう. そのようなスティ ーヴン ソンの倫理判断に関する論究は後に批判するように不十分なもの であるが, 少くとも倫理判 断のう ちには,相手の確信や態度に影響を与えよう としてなされるものがあることは認めてよいであろう. そしてそのよう な倫理判断に対しては, 経験科学はスティ ー ヴンソンが述 べてい る以上に 貢献する 可能性を有しているであろう. なぜなら, スティ ーヴンソンが述 べるように, 態度のよしあしは経 験科学が検証しえないということを認めるとしても, 相手の態度を変えようとして なされる方法と して如何なるものが効 果的 であるかに関しては経験科学が全く無力 であることを認めたことにはな らないからである. スティ ー ヴンソンにおいては, 相手の態度を変えるためにとられる方法は, 確 信を支えている経験的, 論証的に確かめられる理由の呈示以外は, 一括して非 合理的とみなされて いるが, 賞を与えた方がよいのか, 罰を与えた方がよいのか, あるいは相手と親しい関係をつくる のに どうしたらよいのかの判 断そのものに,経験科学が全く貢献 できないわけ ではないから である, もちろんこのことは, 相手の態度を変えようと する場合において, 常に合理的方法が現実にとられ ているということを意味しているわけ ではない. 相手の態度を変えるために, 確信の支持理由の合 理的呈示以外の方法がとられる際にも, どの方法がより効果があるのかの判断に経験科学がある程 度 貢 献 でき な い と は 言 え な い と い っ て い る の であ る.. ところで, 倫理判 断がいかなる判 断であるかに関するスティ ー ヴンソンの論究は倫理判 断の重要 な性格をすべてつく しているといえるのであろうか. スティ ーヴンソンは, 倫理判断の基本となる 2 )それに対する相手の同意の要求, 1 )あることの判 断主体による是認・否認,( 性格づけを, それが,( 求めた ( 3 )同意を得るための方法, にかかわる判 断 であるところに . はたしてこれだけで倫理判断の 性格 づけは十分になされたといえる であろうか.. (二) スティ ーヴンソンの論究が不十分 であることを示すために, 次のような事例について考えてみる こ とに す る.. ある人A が 「この犬はすばらしい犬 だ」 と考え, 相手のBに同意を求めるとする. B がそれに同 意しないの でAはBにその大のすばらしさを理解してもらおう と, あれこれBに熱っ ぽい讃辞をま じえた解説を試みると する. このような事例は現実において十分ありうること である. そしてこの ような事例は, スティ ー ヴンソン があげた性格を十分にそなえている. しかしながらこの事例にお けるAの判断はそれだけ では, 倫理判 断であるとはいえないの である. これに対して反論を何とか考えようとしても, それは次のようなものに なら ざるを得ないであろ う. AとBは友人 であるかも知 れない. そう だとするならばAはBとの友情 を深めるためにBに同 意を求めたかも知 れない. 友情をふかめることはAにとっ て倫理の問題 でありうるのであるから, 上の事例においてAのおこなっ た判 断は倫理判断でありうるのではないのか. けれども, これは反 42.
(4) . 道徳教育の社会学をめざして. 論というよりは, スティ ーヴンソンの倫理判 断の性格づけが不十分であっ たことを示す論なの であ る. スティ ーヴンソンの論究においては, AとBの関係 はA がBに同意を求める関係だとしか規定 されていなかっ た. 上の論はAとBとの関係に更に新たな特徴をつけ加えることによっ てAの判断 が倫理判断であると述 べているのである. このようにある判断にスティ ーヴンソンの特徴がふくま れていたとしても, それだけからは決してその判断が倫理判断であるとは言えないのである. ただ しこのことは, ある判断を倫理判断と同定するためには, 上に述べられたようなAとBとの関係が 単に友人関係 であるとか, 店員と客との関係 であるとかというように規定されるだけでよいという こ とを 意 味 して いる の では な い.. 店員Aがお 客Bに 「この品物はすばらしいですよ」 と勧めているとしよう, この 際のAの判 断は 必ずしも倫理判 断であるとは限らない. この判 断が倫理判断 であるということを示すためには,「商 人は安くてもよい品物を客に勧めよ」 とか,「店員は店のためにつくせ」 といっ た, 人々 の社会生活 のっみかさねの過程でできあがっ た社会的要請にかかわる判断であること, あるいは彼自身が必要 であると考える社会的要請にかかわる判断であることが必要なのである. 倫理判断は単なる自己の 個人的な要求にかかわるにとどまらず, そのような現実に存する社会的要請や, 判断主体が理想と 考える社会的要請とのかかわりにおいてあることを是認 (否認) する判 断なの である (ただし後述 するようにこれは社会的要請に従う判断ということを意味するとは限らない) .そして社会関係はそ のような社会的要請が向けられたところの人間関係ないしは人間と集団との関係 なのである. このような社会的要請の規定する社会関係の パターン, さらにはその社会関係における行為のパ ターンないしはその記号体系は, 社会学において社会規範ないしは単に規範とよばれている, この ことばを用いて述べるならば, 倫理判 断とは現実に存する規範や判断主体が存在せしめようとする 規範にかかわっ て, あることを是認 (否認) する判断である, 先の例 で言うならば, 店員Aがお 客 Bに品物を勧めている際の判断は, 商人と客との関係を規定する 「商人は安くてもよい品物を客に 勧めよ」 という規範とかかわっ ているならば, 倫理判 断であるといえる. あるいはその判断は, 店 員と店との関係を規定している 「店員は店のためにつく せ」 というその店の規範とかかわっ ている ならば倫理判断 であるといえよう, 後者の場合は, その倫理判 断がいかなるものであるかは, 店員 Aが, 自己の意見に同調を求めている客Bとその店員Aとの関係を規定する規範によっ てでなく, むしろその店員Aと店との関係を規定する規範によっ て記述するのが適切なの である. このことか らも, さらにスティ ーヴンソンの倫理判 断の特徴づけの不十分さが理解してもらえるであろう. 次にこのことについてはスティ ー ヴンソンも認めるであろうが, 倫理判断は必ずしも特定の他者 に同意を求めることを含ん でいないこともありうるの である. ある人が集団の中 で自己一人に割り あてられた役割をはたすために, 役割規範とのかかわりにおいて如何なる行為をなすべきかを判 断 する場合に, そのような行為を行うことがよいことだと, 特定の他者が同意するよう要求している とは限らないのである. ある人が匿名 で孤児院に寄付をしたとしてもその人はその行為がよいこと だとの意見に特定の他者が同意するよう要求しているとは限らないのである, 彼は 「人間はお互に 助け合っ て生きていく べきだ」 といっ た規範にてらして自己の行為がよいことだと思っ ているかも しれないが, 特定の他者にその考えに同意するよう要求しているとは限らないの である. ただし, その場合においても, 一般 的他者への何らかの漠然とした同意を求める要求はありうると考えられ ) そのような漠然とした同意を求める要求があるか どうかを どうしてもはっ きりさせたいと思 る7 , , う人は, 彼の選択したその行為にケチをつけてみればよいであろう. それはともかくとして, 規範にかかわっ てなされる倫理判 断には, ある役割を担う者として, あ るいは共に社会を形成する仲間の一人としてなされるという性格が存するのであり, 前述したよう 43.
(5) . 大 坪 嘉 昭. に一般的他者 への要求が無意識的に であれ, 存しうるの である. 倫理判断を狭義に考える人は, 規 範にかかわっ てあることを是認 (否認) する判断のうち, むしろそのような一般的他者への要求, 更にいうならば, その自覚的要求をふくんだ判断こそ倫理判 断であると考えるであろう. 倫理学は 倫理判断とはいか なる判 断であるかをこえて, 望ましい倫理判断とはいかなる判断 であるかを求め ることが多いの で, 広い意味で倫 理判断といっ てもよい判 断が締め出されがちである. しかしなが ら,「きまりだからどうしようもないさ」といっ た判断は倫理的に 望ましくないから倫理判断ではな いといわずに, それも倫理判断であり,「望ましくない」 倫理判 断であるといっ てもよいの ではない だろうか. 事実判断という場合, 我々は事実に 反する判断を偽なる事実判断と言うように. 論が横 道にそれたようだ(とはいっ ても不必要な横道 ではない) , スティ ーヴンソンの論究に対す る批判的検 討にもどろう. スティ ー ヴンソンは確かに倫 理判 断において存在しうる同意への要求と 同意を得るための過程を考えることによっ て, 倫理判 断が社会的なもの であることを示唆しえた. しかしスティ ー ヴンソンの論究を読むならば, そこにおいて個人心理学的な観 点が色濃く 反映して ・人間 と人間との関係に対する配 いて, 倫理判 断の社会性に関する配慮はやはり不十分なの である. 慮はみられるのだが, そこでとらえられられている人間は, その社 会性が余りにも捨象された人間 なの である. 倫理的判断は確かに 他 でもないその判 断主体自身によっ て行なわれざるを得ないとい う意味では, 個人的存在としての人間による もの であるけれど, そのような判断は自 己に内在ない しは外在する現実的・理想的規範とのかかわりにおいて なされるという 意味では社会的存在として の人間によっ てなされる判断なの である.. (三) r前節において 我々は 倫理判 断とは現実に存する規 範や判 断主体が存在させよう とする規範に , , かかわっ て, あることを是認 (否認) する判断 であると述 べた. ただし規範にかかわっ てなされる 判断というとき, それは必ずしも規 範に従っ てなされる判 断であるということを意味するとは限ら ない. その際の規範とのかかわり方は実に多様 である. 我々は倫理判断の中に, 規範に背くことを意識してなされる判 断や, 規範に頼ろうとしても, 頼 りきれないでなされる判 断もふくめようと思う. 前者には判断主体が現存する規範の正当性を認め ず, 何らかの理想的規 範を存在せしめようと して, 現存する規範に背くような判 断の他にも様々 な ものがある. たとえば判断主体がある規範M,ともう一 つの規 範M2との正当性を認めていて, 直面 する問題状況Cに規範MIを適用 すると, 行為AI が要請され, 規範M2を適用すると行為 A2が要請 されることがよくある. この場合判 断主体は, どちらかの規 範に背くことを含む判断を行なわ ざる をえなくなるの である. 息子が家から電話をかけてきた. 家出をするという, 家には 息子の他に誰もいない. 自分がとめ にいかなければと思っ て自動車を走らせる. もっ とスピー ドをあげれば間に合うだろう. だがそれ は ス ピー ド違 反 だ. こ の 狭 い 道 路 を つ っ ば し ろ の は 危 い, こ の よ う な 状 況 に あ っ て は, 家 族 に お け. る父親の役割規範に 従うことは, 交通法規や公共規範に反するの である. 一般に人々 がある規範を正当だとみなしているということは, あらゆる問題状況を想定して, そ れ ら す べ て の ケ ー ス に お い て そ れ に 従 う こ と が 正 当 であ る と 認 め て い る の では なく て, た い て い の. 場合においてそれに従うことが正当 であろうと漠然と思っ ているということ を意味しているの であ る. そしてさらに具 体的な問題状況に人々 が直面する場合, その問題状況に適用 できる複数の規 範 44.
(6) . 道徳教育の社会学をめざして. が存在していて, 上述 したような葛藤がいかなる行為を選択するかの判 断に生ずることがある ので ある. そのような葛藤が生ずるということは, それぞれの規範がほとんどいかなる問題状況に対し ても相対立する適用結果をもたらすような規範であるということを意味するとは限らない. 上述し た交通法規にしても, むしろそれに従うことが家族 での規範にかなうケースの方が圧倒的に多いの である. ここ でいわんとしていることは, そのような規範と規範 であっ ても, 一方 の規範に従う判 断が, 他方の規範に背く判断になる可能性 があるということ, そして一 つの問題状況には様々 な規 範の組合わせを適用しうる可能性があるので, 上述したような葛藤がいかなる行為を選択するかの 判断において生ずる可能性はけっ こうあるということである, そのような葛藤の他に, ある規範からの要請が判断主体の単なる個人的な欲求と葛藤することも あるであろう. その際, 罪の意識を感 じつつその規範に背く行為を選択する判 断もあろう. あるい は 「金持ちから一万円盗んだとしても, 彼は困らないのだから, 人に迷惑をかけたことにはならな い」 というように, 「盗むな」 という規範の他に 「人に迷惑をかけるな」 という限定性の低い規範を もち出して, 前者の規範に背く行為を窓意的に合理化して選択する判断もあるだろう. 我々は倫理判断のうちに, 規範に背くことを意識してなされる以上のような判断の他に,.規範に 頼ろうとしても, 規範の限定性 が低いため頼りきれない判断をもふくめようと思う. 父親 が病弱 で 家計が苦しい. 息子が大学 へ進むことは父親に重い負担をかける. それでも父親は息子が大学へ進 学することを願っ ている. 息子が進学を断念すると申し出しても, 父親は 「今まで苦労してきたの も, お前を大学に進ませて医者になっ てもらいたかっ たからだ, 頼むから大学に進ん でくれ」 とい う. このような場合においてこの息子が 「親に孝行をつくせ」 という規範に頼っ て大学へ進むか否 かを判断しようとしても, 規範に頼りきることは できない. 父親の願いをかなえる道をとるのが親 孝行なのか, それとも就職して父親を病院に入れて治療 してもらうのが親孝行なのか. 規範はそこ ま では教えてく れない, もちろん家出をするなどということは, そのような規範に反することはわ かる. ただし, いま決断をせまられている就職か進学かに関しては, 息子は規範に頼りきれない. 確かに親孝行したいからこそ彼は選択に迷っ ているの であり, その意味では彼はその規範に頼っ て いる, それに頼ろうとしないなら, 父親の子を思う気持を利用 して, 息子は自己が願望する進学の 道を迷わず選択するであろう. 迷 っ たとしても父親が死んだ場合, 学費, 生活費をどう得るかに関 してであろう. 親孝行を説く規範に頼っ ているからこそ, 進学か就職かに迷っ ているのである, け れどその迷いを解決することには, 規範は頼りにならない. この例のように, 規範に頼ろうとして も頼りきれない判断もまた倫理判 断に含めようと思う. 一般に規範は, おこりうるあらゆる問題状況を想定し, それぞれの問題状況が生じた場合にとる ) それゆえ次に述べようとする べき行為 を明確に規定するという形で形成することは困難 である8 . 規範に従っ てなされる判断は規範に頼ろうとしても頼り切 れないという性格をも有する判断であり うるのである. もちろん前者は必ずしも後者であるとは限らない, というのは, 上述したことは, 想定した問題状況に対しては, とるべき行為を規範が明確に規定できる可能性のあることを否定し て い る わ け では な いか ら であ る.. 次に規範に従っ てなされる倫理判断に関して簡単にふれておこう. 規範に従っ てなされる倫理判 断というとき, それは必ずしも規範の正当性を自覚して従う判断であるということを意味するとは 限らない. 我々 は,「悪法なりとも法であるから従うべきだ」 という規範の正当性を認めた上 で、 悪 法であると考える規範に従う判断のみならず,「きまりだからどう しようもない」といっ た判断も倫 理判断に含めて考えようと思う. そして規範の正当性を認めないが, 規範にそむく場合に被る他者 からの否定的サンクショ ン (批難, 朝笑, 物理的制裁, 報酬の停止など) を避けようとして規範に 45.
(7) . 大 坪 嘉 昭. 従う判断も, 倫理判断のうちに含めようと思う. このように倫理判断を広く解 する理由は, 何よりも, 上に例示したような判断が, 我々の社会生 活の中 で, それは正しいとか, まちがっ ているとかの評価の対 象になりうる判断 であり, その際い かに評価するかは, 現在のところ, 形式論理や事実判断の問題, そして個人の好みとか趣味等の問 題 だけに解消させることができない問題として成立しているからである. このように倫理判 断を広く解するならば, 人間の行なう 極めて多くの判断を倫理的判断にふくめ ることになる. 主婦が「今晩のおかずを何にしようか」 と考える判断にしても, 「今月の給料の残り は, あといく ら, 赤字を出したら困るわ」 といっ た, その家族における主婦の役割規範に従うこと 1 ふ断である限りは倫理判断 であると解するの である. 清水幾太郎が述べる次のよ を問題にしている半 うな文章は価値や価値判断のみならず, 規範や倫理判 断に関する叙述としても成立しうるの である (もっ とも 「価値」 ということばは, ここ では本稿における 「規範」 ということばに近い意味をこ めて使われている) . 「人間の世界には………価値判 断が充満している. それらは誰かが新しく 発見 したり, 定立したりするま でもなく, 私たちの内外に充ちている. 私たち自身, それらの間へ生ま れ, それらを母乳と一 緒に吸いこむことによっ て成長したの であるし, また, 私たちの社会がとに 或る程度 の衝突を含みな がら -- 多く のメン バーに かく存続しているのも, 多くの価値 が よっ て共有され, 彼らの行動に或る方向を与えているからである. ここには価値判断の先行と優越 ) とがある. それは, 人間世界の永遠の文脈 である.」9 人間の日々 の生活が社会の中 でなされており, 他者とともに在る生活 である以上, 人間の世界に 多様な規範や倫理判 断が充満していることは当然なこと である. 倫理判断を余りにも狭義に解する ことは, 人間世界においてなされているそのような多様な倫理判断の多くを倫理判 断ではないとし て, 追放してしまうことになる であろう. そしてそのような追放はまた同時に倫理判断を人間と社 会とのかかわりにおいて理解する道を閉 ざすことにつながる であろう. 社会をその部分に分けて行 l i i dua i ) として人間ひとりひとりがとらえられ き, それ以上部分にわけることができない要素( nd v るとき, その人間を個人とよぶことにするならば, そのような追放は倫 理判断を個人と社会とのか かわりにおいて理解する 道を閉 ざすことにつながる であろう. 個人と社会とのかかわりを捨象して倫理を考えることが, 如何に空虚な議論になら ざるを得ない かは,たとえば,20世紀の英米の倫理学に大きな影響力を有した G.E .ムーアの議論をみれば理解 で きる であろう, 人間の世界における倫 理判 断のうちから, 個人と社会との関係をまっ たくすべて捨 象して, 何がそれ自身において善 であるかという問題に関する判断を抽 象したムーアの結論は, 次 のようなまずしいものであらざるを 得なかっ た. 善とは単純な観念 であるから, 定義 できない. 善 とは善 であるとしかいいようのないものであり, 善という観念を分析するとことによっ て 「何々は 善 である」 という判断を得ることは できない. それゆえ何がそれ自 身において善 であるかという問 o ) 題に関する判断は分析判断ではありえず, 直覚による判断であらざるを得ないl . 個人と社会とのかかわりをす べて捨象してなされるこのような議論に対しては, まじめな反論を することはやめておこう. 善とは単純な観念であるという前提がどうして成立するのかが示されて いず, おそらくムーアの直覚によるもの であろう. ムーアの議論はそのような前提に支えられて成 り立っ ているの である, もとをたどれば人々 は自分たちの仲間の理のこと, すなわち規範を倫理と 1 ) eth i l に し て も ほ ぼ 同 様 であ る. 個 人 は そ の よ う な規 範 に か よ ん でい た の では な い か1 cs や mora .. かわることを通 じて社会とかかわるこ である. 倫理判断を現実ないしは理想の規範にかかわっ てあ ることを是認 (否認) する判 断であると, とらえることは, そのような人間のあり方に即したとら え方 であり, 決して意地の悪いとらえ方 ではないであろう. そして, 人々 の倫理判 断がいかにして 46.
(8) . 道徳教育の社会学をめざして. なされているかをみることを通じて,探究しようとするのが個人と社会とのかかわりである ならば, その多様性を探究するために, 倫理判断を狭く解することを避ける のは許されてよいであろう,. (四) 我々は, 以上の論究を通じて, 倫理判断がいかなる判断であるかを探究す るためには, 倫理判断 を人間と社会とのかかわりにおいてとらえることが必要 であることを明らかにした. そして人間と 社会とのかかわりを解明する糸口を, 人間と規範とのかかわりに見いだした, 倫理判断は確かに, 他でもないその人間自身によっ てなされざるを得ないという意味では, 個人的存在としての人間に よっ てなされる判 断であるけれど,その倫理判 断は自己に内在・外在する現実としての規範,理想と しての規範とのかかわりにおいてなされるという意味では社会的 存在としての人間によっ てなされ i る判断なの である. 社会をその部分に分けていき, それ以上部分にわけることができない要素 ( n i i l d du ) として, 人間のひとり, ひとりがとらえられるとき, その人間を個人とよぶことにするな v a らば, 個人はそのような規範にかかわっ て倫理判断をおこなうことを通 じて, 社会とかかわるの で ある. 倫理判 断を対象とした研究に社会学が貢献できるのかという問題 に対して, 以上我々は, 倫理判 断が個人と社会とのかかわりにおいてなされる判断 であることの解明を通 じて答えよう と してき た, 以上の論究は, それ自身倫理判断を対象とした社会学的研究の開始の部分を含むものである. プディ ン グがおいしいか どうかを知る確実な方法は実際にそれを食べてみること であろう すなわ . ち倫理判断を対象とした研究に社会学が貢献ができるのかと いう問題に対して答える最も確実な答 え方は実際にそれに対して貢献してみせることであろう. けれどもこのような答え方のみが唯一 の 答え方ではないであろう. 別な答え方があるのではないか. 以下そのような反省にたっ て, 以上の 論究ではまだ答えていないことの 一つについて補足して本稿をおえる. もとよりそれでも不十分 で あるけれども, 本稿の目的は, 倫理判断を対象とした研究に社 会学がどこまで貢献 できるかを精確 に 把握する こと ではないのである. それを当初において完全に知らなければ, 研究をはじめないと いう姿勢をとろうとは思わない. 解決できるとわかっ ている問題だけにとりくむこと, 解決できそ うもない問題にいきなりとりくむこと, そのいずれも避けようと思うの である, さて人間を社会的存在としてとらえることは, 人間を超越的存在としてとらえること, すなわち 生まれた時には単なる生物的個体 であるにす ぎなかっ た人間 が, 自己をのりこえ社会的存在として 自己を創造していくものとしてとらえることである. 人間におけるそのような超越はまず, 既存の 文化 (規範やその他の任意的文化) を媒介とする社会の個人への内在化と拘束性という ことを通じ 1 2 て達成される. 社会学は E .デュ ルケーム以来このことの探究に貢献してきた ).けれどもこれだけ で人間の超越性を十分に理解したことにはならない, 人間は必ずしも既存の社会へ向けて自己を超 越していくとは限らない. 人間は既存の規範に背いたり, いまだ存在しない理想としての規範を追 求・要求し, いまだ存在しない社会に向けて自己を超越していきうる社会的存在でもある. そのよ うな超越の過程としての倫理判断の探究に社会学は貢献 できるのであろうか, まず第一に社会学は既存の規範を適用 しての社会成員の諸行為の調整・制御には, たえず限界が つきまとうものであることを分析することができる, これについては前節 でもふれた (詳しくはそ )にあたられたい) このことは人間が既存の規範に背いたり いまだ存しない理 こで注記した文献8 . , 想としての規範を追求・要求することを説明する重要な要因でありうる であろう, 47.
(9) . 大 坪 嘉 昭. 第二. 規範を構想・形 成する過程が合意の達成過程を通じてなされる場合, その合意の達成過程 は, 社会の成員 が互に共有しているところのより 基本的な諸規範の確認, その解釈の不一致の是正, 成員各自が承認している諸規範のくいちがいの確認や妥協など, 基本的な諸規範にかかわる倫理判 断 の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 過 程 と し て し ば し ば 分 析 でき る であ ろ う.. 第三. 多くの規範の構想・形成過程とその要求過程は, 諸成員 が共同しなければ達成 できない価 値の確保に,その規範がいかなる機能的連関を有するかの観点から分析することができるであろう. たとえば,漁業における禁漁期間を定める規範やそれへの要求 がどのように構想・形成されるかは, 上のような観点から相当程度, 解明 できる. 第四. 規範の構想が個人において生ずる過程 であっ ても上にのべた第一, 第三の観点からの社会 学的探究は可能 である. そして個人の規範の構想も, より基礎的な諸規範にかかわっ ての倫理判断 をふくむもの でありうる. ただし新たなる規範の構想が, いか なる基礎的な諸規範とのかかわりに おいてなさ れたかについての分析に解消されつくせないことは 十分ありうる. 第五. 理想として構想・形成された規範を支持する人 (々) や集団と, 既存のそれらを支持する 人々や集団との間にくり 広げられる論争や闘争そして支配の過程, あるいは, それを通じての普及 過程は, ある程度社会学的に分析 できる であろう. いまだ存在しない理想としての規範を追求・要求し, いまだ存在しない社会に向けての自己の超 越過程としての倫理判断の研究に対しても, 社会学は十分とはいえないが上に例示したような観点 から, ある程度は貢献できるであろう.. 〈注〉 l i i ty Pr es s s e Un ver 1) C.L.Stevenson,EthicsandLanguage,Ya . .21 ,p ,1944 id 2)ib . .p .26 id f 3)ib .p .30 . 1 3 id 4)ib , .p . 8 id 5)ib ,i40 . .p id 6)ib p . .139. 7)G.H .ミー ドにおける一般的他者(一般化された他者) は, 自我に対して要求(ミー ドにおいては態度) を発す る者としてだけとらえられるものではない. そのような要求を自我に内面化する主体は, 逆に一般的他者に対 3 97 64 -1 75頁, して要求を発するのである. G .H .ミー ド『精神, 自我, 社会』 稲場三千男他訳, 青木書店, 1 ,1 186 ÷ 191 頁,. 70 3頁, 拙稿 「集団における成員の行為の調整・制 8) K.J .アロー 『組織の限界』 村上泰亮訳, 岩波書店, 19 , 30 7頁. 7 8 御様式の分析」 東京教育大学教育学部紀要, 第24巻, 19 ,i 「価値」 は「多くのメンバーによって共有され」 2 1 4 3頁 9)清水幾太郎『倫理学ノート』 岩波書店,1 97 ここでは , , と述べているのであるから, 本稿における規範や鑑賞基準などを意味しているのであろう,「価値」はそのよう な意味で使われる場合と, 「品物の価値」 とか, 「作品の価値」 などというように, 対象が評価主体に対して有 する広い意味での効用ということをさして使われること場合があって, まぎらわしい. 筆者はなるべく後者の も 意味で 「価値」 ということばを使おうと′ ・がけている. 把握 G 1 )以上の G.E ムーアの主張の概要 は 0 .ムーア「善は定義できないということについて」岩崎武雄訳(現 . , .E ‐1 57 23頁所収) による. なおこれはG 代倫理研究会訳 『現代倫理学体系』 第1巻, 洋々社, 19 o r e .E .Mo , , 67 i)およ び第 1章(p i i i i i Pr inc ip iaEt h ica i dge Un ty Pr -x ver s es s .v ,1-36)の 訳 である, ,1903 の序 言(p ,Cambr. -3頁, 34 11 ) 和辻哲郎 『人間の学としての倫理学』 岩波書店, 19 ,2 io f 964 R r 12 ) た と えば, E.デュ ルケーム 『道徳教育論』 麻生誠, 山村健訳, 明治図書, 1 endo .Dahr ,HomoSoc i ia l l l i i ik der Ka tdeu l icus-Bin Ver t t ‐ en Ro e es egor e dersoz og such zur GesCh cht e , Wr ,Bedeutung und Kr l 1 9 P k d 1 9 6 5 9 T h S i IS F P b 4 t T P t scher Ve r ag r r a c e o c s e m a e e r e s s a e 硝 s n s e a o y p , . . , , , ,. (本学講師・函館分校) 48.
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