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景観とまちづくり: 沖縄地域学リポジトリ

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Author(s)

山門, 健一

Citation

沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(15): 53-69

Issue Date

1998-03-01

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/5841

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景観とまちづくり

山門健

はじめに 数年前、ゼミで景観づくりをテーマにしたことがある。さいわい大分県の高 校を出た学生がいて、大分県や宮崎県などの資料をたくさん集めてくれた。観 光パンフから新聞記事、「花の宮崎365日」をつくりあげた故・岩切昌太郎 の著書や彼に関する、地元で発行された書籍なども探してくれた。また、最近 ではインターネットでもいろんな情報が取れる。全国的にむらおこし、まちお こしの気運が高まり、自治体がホームページをつくってPRしているが、書物 では得られない、きれいな写真などが見られるのでありがたい。農林水産省の ホームページの「ようこそ美しい日本の村へ」でも各地の景観づくりへの取り 組みが見られる。 オランダのチューリップ畑の写真もインターネットで探した。オランダのア ムステルダムの西、ハーレムからライデンにかけて、チューリップの球根生産 地帯が広がっている。チューリップ畑はオランダの重要な観光資源でもある。 オランダのチューリップ栽培は400年の歴史を持っている。チューリップ がトルコからヨーロッパにもたらされたのは16世紀の半ばのことだった。 17世紀になると、新種づくりも盛んになり、珍しいものは投機の対象となっ た。球根一個の価格が「新しい馬車一台、葦毛の馬二頭、そして馬具一式」の 価格と匹敵するまで上昇したという。史上初のバブル事件は実はチューリップ の球根が対象だった。 球根生産地帯はスキポール空港から20キロ前後、ロッテルダム港からも 50キロ圏内にある。ところが交通の便がよいことが災いして、十年ほど前か ら工場や住宅建設が進んで、畑が蚕食され始めたという。またスペインなど労 賃の安い国との競争も激しくなっている。 -53-

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オランダを調査した大分県湯布院のまちづくりのリーダー、中谷健太郎(湯 布院観光協会会長)によれば、市も農家から球根を買い上げ、公園に大きなチュー リップ畑をつくって、農家を支援している。また、観光資源としても大きな価 値を持つチューリップ畑をざらにきれいなものにするため、画家たちも行動し ている。 フラワー・ジャーナリストの藤井久子は、球根畑を守ろうと独自な活動をし ているヤスとクリンクハマーという二人の画家を紹介している。二人はこの地 域に生まれ、少年時代には球根畑で働いたこともあるが、チューリップを主要 なモチーフとして球根畑の色彩を絵画化している。オランダが生んだ20世紀 抽象絵画の巨匠モンドリアンの「アートは美術館を出よ」という言葉にしたがっ て、農民の相談を受けながら、球根畑の色彩設計に乗り出し、畑をキャンパス にした壮大な作品をつくることによって、景観の保全を訴えるキャンペーンを 展開した。植え付ける品種や数量、配置を決めた畑には、それぞれの名前を入 れた看板を立てて',サイン''する。「色の配分だけでなく、開花の時期、草丈な どのバランスを考えて品種を選ぶ。全体が開花したときの景観が大事だ」とい う。(沖縄タイムス1996年7月11日) オランダのチューリップ畑の比ではないが、沖永良部のフリージャ畑も見事 な景観をつくっている。沖永良部のフリージャは香りの強い黄色の花が多いが、 和泊町ではフリージャの花に合わせて毎年ジョッギング大会を開いている。毎 年3月にはフリージャジョッギング&フェスティバルを開催しているが、関東、 関西、それに沖縄からの参加者も含め、千数百名がこのジョギング大会に参加 する。農業が中心の和泊町では、最大の集客イベントである。しかし生産その ものは近年オランダ産球根の輸入増大、高齢化などで年々減少傾向をたどって いる。-面がフリージャ畑といった昔の面影はいまはない、と地元紙は伝えて いる。 各地の情報なら日経テレコンの方が役に立つかもしれない。しかしゼミでは 「インターネットで情報を集める」がテーマだったので、このところインター ネットにこだわりながら情報収集をやってみた。また図書館にある各地方紙も 大いに活用した。景観づくりの事例を集めながら、沖縄の地域おこしを考えて -54-

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みようというのがゼミのテーマだった。 1、花の宮崎365日・岩切畠太郎

故・岩切昌太郎は、「隣には観光先進地の別府がある、宮崎には温泉がない」

という条件のもとで、宮崎観光のあり方を模索した。そして、よそにない宮崎

観光のテーマとして「三千年の建国の歴史と南国の情緒」を打ち出した。 「南国の情緒」を考えついた背景には青島のピロウ(沖縄ではクバと呼んで いる。伊平屋村田名のクバ山が有名。)があった。ピロウで南国らしさを演出 しようと考えたのである。しかしその後フェニックス(カナリーヤシ)を見つ けた。こちらの方が南国的で生長も早い。植え方も工夫した。フェニックスに ついては、四つの代表的な植え方がある。一つは、海を背景にしたフェニック ス(日南海岸)。第二は、川畔の景観としてのフェニックス(橘公園)、第三は、 フェニックスの林(こどもの<に)、第四は、並木としてのフェニックス(青 島駅前通り)である。岩切は、植物で名所をつくるためには、老木があること、 数があることのほかに、その植物の美しさを引き出す植え方を工夫することが 大事だという。

1963年に「全県公園化」を宣言、また1969年には「沿道修景美化条例」を制

定した。開発を制限するとともに、美しい景観づくりに力を注いで、「南国宮 崎」をつくりあげた。しかし、沖縄が復帰するするに及んで、「南国宮崎」だ

けでは不十分であることを痛感する。そこで岩切は、こんどは「花の宮崎」づ

くりに取り組むことになった。 生駒高原に10月になると50万本のコスモスの花が咲く。同じ場所が春に なると菜の花畑に変わる。秋と春の花のローテーションを組んだ。また日南海 岸には、潮風にも強く、挿し木でどんどん増やせるコバノセンナを数10万本 沿道に植えた。花が一面に黄色く咲くので「黄金の海岸」と呼んだ。 花のローテーションの組み方は3つある。第一は同一場所で組む場合、第二 は隣り合わせの場所で組む場合、第三は違った場所の花と花で組む場合である。 同一場所でのローテーションで一番うまくいっているのは、日南海岸フェニッ クス・ドライブインの周辺のポインセチアとサンゴシドウ(デイゴの一種)の -55-

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ローテーションだ。「ポインセチアとサンゴシドウを一緒に植えておりますが、 1月にポインセチアの花が過ぎて、2月に幹を切り取ると、サンゴシドウが芽 立って初夏から2,3回真っ赤な南国的な花を咲かせます。サンゴシドウの花 が過ぎて刈り込むと、今度はポインセチアが生長して、12月に燃えるような 真っ赤な花になります。こんなうまいローテイションが組めるとすっかり助か りますが、ここまで来るには相当苦心を重ねました」という(1976年4月5日 宮崎経済同友会での講演より。岩切章太郎講演集「自然の美人工の美人 情の美』鉱脈社)。 宮崎空港の植栽にも工夫をこらした。「皆様のうち近頃宮崎空港にお出での 方はお気づき下さったかと思いますが、今宮崎空港のあのフィンガーの下はブー ゲンビリアの花で一杯でございます。新婚の方など必ず足を止めて御覧いただ くようでございますが、少し前は、沈丁花で一杯でございました。一体、飛行 機を降りて待合室に入るまでに、美しい花や匂いを楽しめる空港は宮崎だけで ございまして、このことが観光客の第一印象として、どれくらい大事かわかり ません。私はこのことを考えて、何とかしたいと今までも随分苦労したのでご ざいますが、あのフィンガーのところは日陰でございますので、ビロー樹だけ は育ちましたが、花の方はうまく参りません。最近になってようやく鉢植えを そのまま埋めることを考えまして、ようやく只今御覧いただくような、美しい ブーゲンビリアの花で埋めることが出来たのでございます。五月になるとハイ ビスカスの赤い花ととりかえる筈ですが、こうして沈丁花とブーゲンビリアと ハイビスカスのローテイションを作れるめどがつきました」(同上) このようにして「花の宮崎」をつくりあげ、宮崎の観光の発展に大いに貢献 した故岩崎章太郎は、晩年には「匂いの宮崎」を構想していた。旅館街には夜 香木を植えたいと考えていたという。ジンチョウゲ、キンモクセイ、カラタネ オガタマ、クチナシ、ヤコウポクなども植えられている。車で走る日南海岸に は色鮮やかな花を配置し、車を降りて歩くところには匂いのある花木もと考え たのであろう。「すべての観光客に『宮崎に行ったら、どの横町にはいっても そこに南国があり、花があり、匂いがあるjといっていただくまでにしたい、 -56-

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というのが私の夢でございます」と岩切は述べている。 岩切章太郎は、1975年に沖縄で講演をしているが、その中で「花の宮崎」の とりくみを紹介しながら、花のローテーションで魅力ある花の名所づくりを提 案した。 沖縄でもこのところ色鮮やかな熱帯の花木が増え、目を楽しませてくれる。 宮崎がうらやましがるほどの豊かな素材がある。しかし沖縄における「花のま ちづくり」はといえば、ようやくその必要'性が議論されるようになったという 段階ではないだろうか。 私は、ある農村で講演したとき、「プランターに花を植えて、花いっぱい運 動なんていうのはもう卒業した方がよい」と話したことがある。終わってから 婦人会の役員から「その通りだと思う。上から言われるので、私たちは隣の町 からプランターを借りてきて花を植える。終わればまたプランターを返す。こ んなことを毎年続けていっても意味がない」という発言があった。 コンクリートの上にプランターを置く。植物にとっては過酷な条件だ。水も しょっちゅう掛けないといけない。これは水の浪費ではないか。 それでもいくつか名所らしきものは出来てきた。沖縄市のイッペー(コガネ ノウゼン)通りは、春になると一斉に黄色い見事な花が咲かせる。それを見よ うと各地から人もやってくる。年とともにますます見事になっていくので、そ こに住む人々も楽しくなって、とうとうイッページョウトウ祭を開催しようと いうことになった。 やんばるには寒緋桜やツツジなどの並木や群落もある。群落はやはり迫力が ある。シーズンには多くの行楽客が訪れる。しかし問題がないわけではない。 残念なことに、寒緋桜にしても、ツツジにしても、花の色がごちや混ぜだった り、隣同士で花の咲く日がずれていたりする。関係者に事情を聞いてみると、 当時、そんな余裕はなかった、ツツジなら何でも良いということで植えたとい う。先進地の取り組みをもっと真剣に学ぶ必要がある。 -57-

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2、久米島・具志川村のショウキズイセンの群落 数年前に、久米島の具志川村で、ショウキズイセンの活用について議論した ことがある。 ショウキズイセンとは、ヒガンバナ科のショウキズイセンのことだが、むか しは沖縄の野山にたくさんあった。しかしきれいなものだから、採って自分の 庭に植える人が絶えなかった。気がついてみると、自然界では見当たらなくなっ ている。 自分の庭に取り込んでしまったら、地域の資源ではなくなってしまう。増や して、野に戻し、群落がつくれないか。そうなればみんなが楽しめるようにな る。そしてそこに住む人が楽しみ、誇りに思えるようなものができれば、観光 資源としても活用できるのではないか、という議論をした。 とは言ってみたものの、球根を増やして群落をつくるには、何年かかるか見 当もつかなかった。ところが具志川村では、3年ほどで見事な群落をつくって しまった。幸いショウキズイセンが好きで、球根を増やしている農家があった のだ。具志川村では農家から球根を買い上げて、県営だるま山公園などにショ ウキズイセンの球根を植えた。 ヒガンバナについてもう少しふれておこう。別名、曼珠沙華、仏典で赤い花 という意味だという。いまでこそあまり人々の注目を集めなくなっているが、 かつては大切な植物だった。 ヒガンバナというと赤い花を思い浮かべる人が多いが、実は鹿児島にはシロ バナヒガンバナという白い花もある。またヒガンバナ科ショウキズイセンの花 の色は黄色で、中国、台湾、沖縄、九州、四国などに分布する。 東アジア特産の植物で、日本では東北地方南部以南の山ろく、路傍、田のあ ぜ、土手などの人里近くに野生している。しかし人の手が加わったところにし か生えていないから、移入植物だと考えられている。 方言名は驚くほど多く、全国で1,100余の呼び名がある。ヒガンバナ研 究家の松江幸雄によれば、一種類の植物でこれだけ多くの呼び名をもつものは 他にない、このことはヒガンバナの広範囲に渡る分布と、人々の生活と密接な 関係を物語っているという。 -58-

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日本には、米食民族が米食民族が救荒植物として持ち込んだという説が有力 である。松江幸雄によれば、わが国へは、稲作を始め多くの作物とともに、江 南地方から北九州にもたらされたことは、考古学資料によっても、可能性の高 いルートになっている。この場合、朝鮮半島を経由のルートについては、朝鮮

半島南部の彼岸花の生育地が、比較的新しいため、また「海上の道」と言われ

るルートも、生育地の南限が、種子島、屋久島となっており、沖縄では本土か ら移植した植栽地であることが判明しているため、同じく除外されるという。 球根にはリコリンという有毒物質がある。その毒を抜いて、飢鐘の際の非常 食としてきた。しかし、非常食にしていたというのは遠い昔の話ではない。19 59年から3年間、中国で史上最悪の災害のとき、球根を食べてしのいだ地域が あるという。また日本でも、食糧難から戦後もずっとヒガンバナを食べていた という高知県土佐山村の大藪操さんは、毒抜きの方法をつぎのように説明して いる。「球根を、布に包んだ消石灰と一緒に煮て、のり状になるとザルに移す。 水を注げば有毒のアルカロイドが抜け、でんぷんが残る。それを半日水にさら す」(朝日新聞社『世界花の旅2』)。 秋の彼岸ごろに鮮やかな深紅の花を咲かせる。墓地にも多いので、死人花 (しぴとばな)、捨て子花などの名前もある。彼岸の供花として、墓地に植えた のだろうと考えられている。 また土手などに多いのは、食糧危機が去ったとき、球根をそこに捨てたからで はないかという。球根からは、ほかの植物の発芽や生長を妨げる物質が出てい ることも今日わかってきているが、昔の人はそのことを経験的に知っており、 雑草対策に積極的にあぜに植えたのではないかとも考えられている。 墓地によく咲いたりするので、日本人の好みに合わないようだ。しかし毒素 であるアルカロイドのリコリンを利用して、漢方では去疲剤や吐鴻剤に使う。 また欧米ではヒガンバナ属Lycoris一般をリコリスと呼んで園芸植物としてい るので、ヒガンバナも球根が輸出されている。アメリカ南部諸州の庭園に植え、 赤のヒガンバナ、レッド・スパイダー・リリーの大群落となっているところが あるという(「世界花の旅』2)。 -59-

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具志川村の仲宗根経済課長によれば、村ではどのように花の名所づくり進め るかについて模索していた。 村民が楽しめるようなものでなくてはならないが、よその真似をするような 花の名所づくりをやってもしょうがない。鑑賞価値の高い、自生の植物を有効 に活用する。そして四季を通じて花と緑を楽しむことができるようにする。村 民の協力を得ながら、基本的には、村の産業振興(苗木の委託生産、植栽や維 持管理工事そのた)につながるような方法をとる。また、村の生活文化の向上、 環境整備など、村を発展させるための総合的な視点を持って名所づくりを行う。 ショウキズイセンはこの構想に合致していた。 昨年(97年)は例年より少し早く9月中旬から開花した。花が咲くと見事 な景観になり、評判を聞いて訪れる人が増えてきた。植え付け作業などを手伝 いたいというボランティアも現れた。また小学校でもショウキズイセンの栽培 を始めた。具志川村では、以前から子供たちも参加してクメジマツツジやヤエ ツバキの植栽を進めてきた。一年中楽しめるように、花の名所づくりを進めて いる。 ヒガンバナ研究家の松江幸雄氏によれば、赤いヒガンバナの群落は埼玉県高 田市高麗本郷巾着田(こうらいほんどうきんちゃくでん)に300万球の群落が ある。「高麗」が示唆しているように、かつて高麗人が持ってきたのではない かという。ほかにも何カ所か群落はある。しかし黄色い花のショウキズイセン の群落というのは聞いたことがないという。 3、ヒマワリ 北海道雨竜郡北竜町は、ヒマワリでまちおこしに成功した。旭川市から車で 約1時間のところにある、人口3,000人の、農業を中心とした町である。 以下は、まちづくりの経緯を、農協、北竜町役場の資料、なかでも佐光勉企 画課長の文章をもとにしながら、私なりに再構成してみた。 1979年のこと。ヨーロッパを視察していた農協職員が機上から見たヒマワリ 畑の美しさに感激し、帰ってきて、その感動をみんなに伝えた。北竜町のまち おこしのドラマはここから始まった。 -60-

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ヒマワリ畑の美しさとヒマワリからとれる油が健康食品であることを報告し、 「儲からないけどヒマワリをつくって、美しさを楽しみ、そこからしぼった健 康な油で、農村の健康運動をしようではないか」と提案したという。これを聞 いた農協婦人部のメンバーは、翌年、食生活の改善と環境美化の一環として、 一戸一アール運動を始めた。ヒマワリの実には、動脈硬化、高血圧、心筋梗塞 を予防するリノール酸やビタミンEが豊富に含まれていることから、油のほか、 スナック、チョコレート、ラーメン、アイスクリームなど23品目にものぼる 商品を開発した。 しかしこれらは、すべて順調に進んだのではなかった。記録的な豪雨に見舞 われ、収穫を目の前にしたヒマワリが全滅したこともある。これで「もうわが 町からヒマワリの花が消えてしまうのではないかと思った。ところが町民の心 には、ヒマワリの花が咲いていた」(佐光勉・北竜町企画課長)という。つぎ の年(平成元年)には、住民たちはボランティアで、野球場を三つ合わせたほ どの広大な土地に、もっと大きな「ひまわりの里」を作りあげてしまったのだ。 試練はまだまだ続いた。こんどは鳥がヒマワリ畑を襲った。急きょ5万本の 苗を農家のハウスで育苗することになった。そして、一本一本、手で補植した。 これにはたくさんの人手が必要だった。農作業で忙しい時期であったが、町民 200人がボランティアでこの作業に参加した。さらに植え付け作業をする両 親の姿を見た中学生たちが「自分たちも手伝う」と言い出し、作業に加わった。 危機に直面するたびに、町民は結束して、それに立ち向かった。そして危機 を乗り越えるだけでなく、なにか新しいものを生み出していった。 例年8月第1土曜日と日曜日にメインイベントが催される。ひまわりの里、 ひまわりジャンボ迷路、真夏の雪合戦大会、ひまわりフェスタ、竜踊り、ひま わり製品、メロンを中心とした地場産品即売会など。 約1ケ月のひまわりの開花期間には、全国から20万人を超す観光客でにぎ わう。4分の3が道外からの観光客だという。 ひまわりの明るいイメージを生かしたキャラクター、フォトコンテスト、テ レフォンカード、商店や公共施設のひまわりの看板、ひまわりをデザインした 街路灯、ひまわりの塔、マンホールのふたのひまわり。 -61-

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現在は、中学生が「世界のひまわりコーナー」の播種から管理、ガイドまで を受け持ち、また老人、女性も草取りや、観光シーズンのガイド役を買って出 ている。 サンフラワーパーク事業 ひまわりを核とした都市間交流を図る拠点として、平成2年からサンフラワー パーク事業にも取り組んだ。 同4年、温泉保養センターオープン。 大浴場、サウナ、露天風呂、ひまわり薬湯。 レストラン、特産品販売コーナー 同6年、農業体験実習館、宿泊施設が完成。 生産と観光が一帯となった滞在型農村リゾートを目指し、雇用の場の創出な ど地域活`性化にも大きな効果をもたらしている。 ヒマワリを広大なキャンバスに明るく健康的なまちづくり ヒマワリでまちおこしを始めた北竜町に、昭和63年、若者たちのグループ 「竜トピア会」が誕生した。北竜の「竜」とユートピアの「トピア」を組み合 わせた。この年の干支「辰」にもちなんでいる。 「ヒマワリ」のように明るいイメージのまちづくりを目指し、昭和62年か ら「ひまわり祭り」がスタートした。祭りは予想以上の盛り上がりをみせたが、 さらに内容を充実させようと、「竜」も出すことになった。しかし竜をつくる 資金はない。会員たちが知恵をしぼって、町民に「竜のウロコ」一枚500円 で買ってもらい支援してもらおうということになった。会員は、約3ケ月にわ たって、それぞれの仕事を終えたあと夢中になって竜づくりに取り組んだ。竜 一体つくるのにウロコ7千枚程度と延べ500人の人手を必要とした。支援金 (ウロコ代金)は180万円集まった。青竜、白竜、子供竜の3体を完成。3 体による竜踊りは、まるで生きた竜がはねる姿を想像させ、(見物人の注目を 集め、)ひまわり祭りにいっそう躍動感を与えた。 町開基百年となる平成3年には、竜の山車「北竜丸」を製作。勇壮な竜踊り -62-

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に加えて登場した山車は、竜の町を更に力強く印象づけることになった。 また、全国にある「竜」のつく15市町村が集まって、毎年まちづくりのた めの情報交換を行う,,ドラゴンサミット”が開かれている。平成3年には北竜 町がホスト役となった。このときも竜トピア会が積極的に活動し、町のイメー ジを高めた。 北竜中学校生徒会も独自な取り組みを行っている。「世界のひまわり」コー ナーを開設、播種から管理、ガイドまで受け持つ。世界各地に咲く50種類以 上のひまわりが同じ場所で美しさを競い合い、いっそう鮮やかな景観をつくり だしている。 北竜町の場合、観光客を呼び寄せるためにヒマワリを植えたのではなかった。 そこに住む人々が美しさを楽しみ、ヒマワリ油で健康な生活を、と始めたもの だが、ヒマワリ油だけでなく、さまざまな特産品その他が開発された。評判を 聞いて観光客も訪れるようになった。それがまたまちづくりの運動を刺激した。 ヒマワリを核にして、ユニークなまちづくりを展開している。 なお、インターネットで検索していたところ、AnchaSrinivasan(アンチャ・ スリニヴァサン)・地域科学研究所上級研究員・農学博士の「持続的・環境保 全的農業における食糧供給基地としての北海道の役割」を見つけた。そのなか につぎのような文章があった。 「最近まで、ヒマワリは北海道に適した作物として考えられてはいなかった が、北竜町ではヒマワリを導入することにより町興しに成功している。ヒマワ リは良質な食用油として、また、その黄金の花は観光資源としても大きな価値 があり、現在では北海道各地に広がりつつある。農水省北海道農業試験場の最 近の試験によれば、ヒマワリは経済的な意義だけでなく、畑地生産力改善の観 点からも価値があることが明らかになっている(有原、私信)。ヒマワリの後 作の小豆や小麦は、他作物の後作の小麦より、収量がかなり高い。また、北海 道農業試験場育成の新しい品種も普及に移されている。」 -63-

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4、沖縄のヒマワリ 沖縄のヒマワリに関して、つぎのようなことを新聞のコラムに書いたことが ある。 数年前のことだが、NHKが夕方のニュースで「クリスマスに糸満小学校で ヒマワリが咲いた。珍しいことだ」と報道した。琉球新報、沖縄タイムスも、 年が明けて1月の4日の夕刊で、糸満小学校のヒマワリを取り上げた。タイム スの記事の見出しは「暖冬異変か、狂い咲きか」だった。 暖かい沖縄ではいつでもひまわりは咲かせられる。しかし記者たちがどうし てこういうニュースを流したのだろうか。沖縄は亜熱帯地域だということを知 らない記者はいない。暖かい気候を利用して、花きや野菜の本土出荷が大きく 伸びた。こんなことは誰だって知っている。だからヒマワリについても、沖縄 は北海道や東京とは事情が全く違う、と考えるのは当り前だと思うのだがそう ではなかった。東京で発行された教科書や本などではたぶん「ヒマワリは夏の 植物」という扱いになっていて、その影響が強いのだろう。 ところが九州では違う。たとえば福岡県朝倉郡琵琶喜杷木町ではヒマワリの 里づくりを進め、冬のヒマワリ栽培に力を入れてきた。93年にはそのとりくみ が評価されて、毎日新聞「毎日郷土提言賞」を受賞している。毎日新聞の記事 を紹介してみよう。 「南に筑後川を望む同町では、陽光あふれる町のイメージをアピールするた め、ヒマワリの里づくりを進めている。農業後継者グループが中心となって、 国道386号線沿いの休耕田50アールに種を蒔き、8月と11月の年2回開花 させている。 毎年秋の農業まつり『日迎えの里フェスティバル」に合わせて開花時期を設 定し、観光客に一本100円で販売。昨年は収穫した10アール分のヒマワリの種 400キロを搾って取れた柚40キロでドレッシングを試作した。純粋なヒマワ リ油は香ばしく、高血圧にもよいといわれている。東京方面では、1.8リット ル5千円前後の高値で取り引きされていることから、特産品化に力を入れてい る。製油で採算ベースに乗るのは3ヘクタール、今よりも6倍の栽培面積が必 要となる。減反の転作作物として農家に推奨してきたものの、このところの減 -64-

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反緩和のあおりで栽培面積の拡大は見込めず、頭を痛めている。 そこで当面は生花として販売ルートにのせることに力を入れる。夏場では 10日前後、冬場には20日ほどで花を咲かせるため、町経済課では、『品薄で 商品価値の高い冬場をねらって市場に出荷してみたい』と話している。」ただ し、種を蒔いてから開花までの日数には少し疑問がある。 98年1月13日のNHKの朝のニュースは、福岡県豊前市のヒマワリを栽培して いる農家を紹介した。1ヘクタールの畑にヒマワリが満開していた。昨年の8 月20日に種まきした。花が終わると葉や茎は畑に鋤き込むが、繊維質が多く、 土が良くなって、おいしい米が穫れるという。 ヒマワリはキク科の植物で、原産地は、南北両アメリカにまたがり中でもメ キシコ、ペルーが発祥地だと考えられている。ヨーロッパには16世紀後半に 紹介された。学名はHelianthusannuuso太陽を連想させる花だが、学名の へリアンツスは太陽を意味している(ヘリ=太陽十アンツス=花)。ペルーの 国花になっている。日本には1666年に伝来したという記録があるという。 英名がサンフラワー、スペイン名へリオス、仏名ソレイユ、イタリア名ジラ ソル。漢名は向日葵で、和名はヒマワリ、いずれも同じ語源を持っている。ア メリカ、カナダ、ロシア、中国などで、採油のために大規模に栽培されている。 また油の絞りかすは、タンパク質・アミノ酸も多いので家畜の飼料として利用 している。 沖縄では「戦前はヒマワリを見なかった」という人もいる。長年、気象と植 物の関係を調査している宮良孫好氏にたずねたところ、沖縄には戦前からヒマ ワリはあった。観賞用として庭に植えていた。しかしヒマワリから油を絞った というのは聞いたことがないという。 ヒマワリではなく、油を採るためにヒマは栽培したことがある。ヒマ(トウ ゴマ)の種を絞って採るひまし油は航空機、船舶機械の潤滑油の代用となった。 それで、戦時中、軍の命令で沖縄各地で栽培したことがある。種を取って本土 に送ったのではないかという。当時、婦人会や生徒を動員して、全国的にヒマ 種子の採集、供出運動が展開された。沖縄では、ヒマのことをヒコーキノアン ダーと呼んだという。 -65-

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ヒマワリは、戦後、学校の校庭で子供たちの植物観察用として栽培が広まっ た。だから、「ヒマワリというと学校の校庭に咲くものとばかり思っていた。 農作物だと考えたことはなかった」という人もいる。「太陽に向かってすぐす ぐ伸びる子」というイメージがあり、学校にはふさわしい植物だった。 また、座間味村は、ザトウクジラが訪れるようになり、ホエールウオッチン グの島として知られるようになった。クジラだけでなく、花による島の魅力づ くりを考えていた。その一環として、仲村三雄村長は、ヒマワリいっぱい運動 を展開するという。まず冬のヒマワリを考えた。12月にはザトウクジラがやっ てきて、3月ごろまで「滞在」する。それにあわせて陸の方もヒマワリで面白 くしようというのである。 97年秋、座間味小中学校の生徒たちが校庭にひまわりを咲かせた。観察記録 もつけている。3月には、ホエールウオッチング・フェスタが開催されるが、 それそれに合わせて、花でクジラもつくる(花クジラ)。これにはヒマワリも つかう。さらに今年の暮れには、古座間味にヒマワリ畑も計画している。 しかし、冬に限ることはないわけで、-年を通してひまわりを咲かせてみた らどうだろうかという話も当然出てくる。インターネットで見つけた「Sunflo wersfromSwitzerland」によれば、種まきを二週間づつずらしながら、連続 的な収穫ができるようにすることが成功の秘訣だという。ヨーロッパの場合、 3月から7月にかけて、それが可能であるという。 北海道と違って沖縄は暖かい。台風が襲う夏場は避けた方が無難だが、沖縄 では一年中ヒマワリは栽培できる。一定の面積の畑があって、計画的に栽培し ていけば、ほぼ一年中花がみられるということになる。それが沖縄の優位性で ある。 そうなれば、ヒマワリのハチミツ生産も可能になるし、北竜町のようにひま わりの種を使った特産品の開発も可能になろう。また搾油機の稼働率も高まる ので、ニマワリ油の生産も有望なではないだろうか。その絞りかすは家畜のエ サになるし、葉や茎は畑にかえす。学生時代、農芸化学を学んだ仲村三雄村長 は、ヒマワリを中心に、いま座間味における新たな農業の展開も考えている。 ヒマワリが縁で、北海道の北竜町との地域間交流もまもなく始まる。 -66-

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おわりに 「花の宮崎」が評判になってくると、岩切昌太郎はいろんな地域から、花の 名所づくりについて相談をよく受けるようになったという。しかし桜の名所つ くりたいという相談が一番多かった。 沖縄でも同じような傾向がある。だが、桜の名所はすでにたくさんある。同 じような名所づくりを行ってもさしてインパクトは与えないのではないか。 他の地域に先駆けて-番に開花するとか、逆にゴールデンウイーク頃に満開 となるような「時差花見」ができるのであれば、話は少し違う。沖縄の桜は寒 緋桜だが「日本_早い桜」をアピールしている。他方、北海道には五月の連休 に桜の花見をするところがある。それまで桜(ソメイヨシノ)の開花を遅らせ るために、雪を根元に積んで冷やすのだという。 沖縄と本土の問には、花の開花が早いか遅いかの違いではなく、もっと大き な違いがあるのではないか。沖縄には本土にない熱帯の植物が多いし、しかも 本土に住んでいる人間には驚きだが、年に何回も開花する植物も多い。 ゲッキツ、ブーゲンビリアにしても、沖縄では年に何回も花が咲く。私自身、 本土に住んでいるころは花というものは年に一回咲くものだと思っていた。と ころが亜熱帯や熱帯の花はそうではない。「1,花の宮崎365日」のところで、 宮崎空港における春の「沈丁花とブーゲンビリアとハイビスカスのローテイショ ン」を紹介した。岩切章太郎の文章から判断する限り、ブーゲンビリアの開花 は、宮崎では年に一回だと思われる。しかしブーゲンビリアは、沖縄では少な くとも四回は開花する。またキャンパスに植えているピンクダチュラは、ピン ク色のテッポウユリのような花がたくさんぶら下がり、芳香を放つが、この花 はほとんど毎月のように咲いている。宮崎に習って、花のローテーションを組 むにしても、沖縄では宮崎以上に多様な組み合わせができそうだ。 沖縄は本土やその他の地域と比較しながら、違いをきちんと認識したうえで、 花で沖縄の独自性を表現していくことができると思う。 各地の新しい情報を得るために、インターネットを活用した。検索エンジン 「goo」で、キーワードに「北竜町」と入力すれば、直ちに北竜町のホームペー ジに達することができる。yahooでも比較的簡単に北竜町のホームページが探 -67-

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せる。もっとくわしい情報が欲しいと思ったので、北竜町のホームベージから 企画課にe-mailを送ったところ、-時間後に企画課長から電話がかかってきた。 沖縄での状況を伝えるとともに、北竜町のとりくみについて質問したが、佐光 勉・北竜町企画課長は、沖縄の状況についてたいへん興味を示し、「同じ過疎 に悩む北と南の地域が手を結んで、ヒマワリで地域おこしをやろう」という。 数日後、たくさんの資料が送られてきた。これらはコピーして、すぐ座間味村 役場に送った。 各地の景観づくりで、菜の花もよく活用されているので、菜の花についても インターネットで探してみた。栽培面積日本一を誇る青森県の横浜町の菜の花 については、『香りのまちづくりの具体化に関する研究Ⅲ沖縄大学地域研究所 1997年)でくわしく触れたが、横浜町のホームページで、きれいな、見事な 菜の花畑の写真を見ることができる。横浜町はジャガイモの産地でもあるが、 連作障害対策として菜の花を植えているのだという。 「全国地域新聞ネットワーク」(これは沖縄タイムスのホームページからで も入れる)で検索してみた。98年1月8日の南日本新聞にはつぎのような記 事があった。 「南薩の春便り 菜の花全国へ指宿で切り出し始まる」 春の便りを乗せて、指宿市が観光宣伝用に全国へ発送する菜の花の切り出し が7日始まった。2月17日までに約四万本を東京、北海道などへ届ける。 昨年9月に種まきした1ヘクタールの菜の花畑はもう満開。初日は市職員ら が鹿児島市内向けの1,000本を切り取った。同市観光課の川上和弘課長は 「今年は暖かく早めの満開です」。 山川町、開聞町でも、主要道路沿いに約500万本が咲いている。11日に あるいぶすき菜の花マラソンは、花に囲まれた大会になりそうだ。」 また1月12日の記事には、 「雨中力走1万3300人いぶすき菜の花マラソン」 初春の指宿路を駆ける第17回いぶすき菜の花マラソンが11日、指宿市を 中心に開かれた。鹿児島県内外から過去最高の1万3308人が集まり、沿道 -68-

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に広がる約500万本の菜の花を横目に快走した。 コースは指宿市から指宿郡開聞町、山川町を周回するフルマラソンと指宿市 内を折り返す10キロ。この日はあいにくの雨模様、時折強風も吹〈悪コンディ ションだったが、選手らは地元の熱い声援を受け、思い思いの走りを楽しんで いた。」 暖かさそしてそこで育つ植物、これらは地域の貴重な資源であり、これらを 活用しながら、どのように住みよい、魅力的なまちづくりを展開するかという ことが課題であると思う。 しかし地域特性を知ると言うことは必ずしも簡単なことではないようだ。学 校教育の問題も大きいと思われるが、「ヒマワリは夏の植物だ。冬咲くはずが ない」と思い込んでいる人が多いのに驚いた。 私は、沖縄はむしろ熱帯の北限と考えた方が面白いと思っている。それで、 熱帯アジアの香りの文化をベースにした「香りのまちづくり」を提唱している が、しかし南に目を向ける人がまだまだ少ない。戦前、日本は植民地台湾を抱 えていて、そこに熱帯の植物資源を集めていたということもあって、沖縄が南 に目を向けるチャンスを失ったのであろうか。熱帯果樹だけでなく、沖縄で活 かせる熱帯の植物はたくさんある。もっと南に目を向けるべきだと思う。 -69-

参照

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