1 修士論文太宰治 斜陽 論教育学研究科教科教育専攻国語教育専修国文学分野一一GP二〇二山本亘目次はじめに第一章作品について第一節初出及び梗概第二節作品成立事情第二章研究史第一節主要先行研究史第三章作品の周縁と主題としての 滅び 第一節作品の同時代について第二節貴族について第一項華族制度第二項 斜陽

全文

(1)

1

修士

論文

太宰治『斜陽

』論

教育

学研究科

教科教

専攻

国語

国文学分

一一GP二

山本

目次 はじめ に 第一 章 作品につい て 第一節 初出及び 梗概 第二節 作品 成立事情 第二 章 研究史 第一節 主要 先行 研究史 第三 章 作品 の周 縁と 主題とし て の 「 滅 び」 第一節 作品 の同時代につい て 第二節 貴族に つ い て 第一 項 華族 制度 第二 項 『斜陽』に 見 る貴族 第三節 滅びという見方につい て 第四章 かず子という 人物 第一節 かず子の 語る(書く)行為に関する『斜陽 』 先行研究 ~高田 知 波・島村 輝・榊原理 智 ・中村 三 春の 論か ら~ 第二節 かず子の思考変遷と連想性 第三節 飛 躍 性を持つかず子の思考 第五 章 聖母子 第一節 「マ リヤ」 「 聖母子」 につ い て 第二節 かず子のマ リ ヤ 意 識 第六章 『斜陽』と『斜陽日記』 の 比較 第一節 『斜陽日記』 と 『 斜陽』 の 比較か ら の語るかず子と書くかず 子 第二節 『斜陽』と『斜陽日記』 の 対応 第三節 『斜陽』と『斜陽日記』 の 差異 結論 おわりに テキ スト 参考・引用文献一覧

(2)

2 はじめ に 「斜陽」は戦後に発表 された太宰 の 作品で あ る。戦後の貴族一家を 描い た作品で ある。 「斜陽」は初版 で 一万部、その後二万部増刷とい う高い人気 を 得 た 。 こ れは、太宰自身のそれま で の作品 の 部数の中 で 群 を 抜 い て おり、太宰は 人 気作家となっ て い く。 作品 の力に加え、発表当時の時代状況などが相まっ て 、多くの人に受け入れら れ たと推察 でき る 。 「斜陽」の先行研究は数多く存在する。 かず子が貴族 から 市井 の人間とし て 再生し て いくという見 方 、 道徳革命 を掲げ て 生 きる果敢な姿、かず子一家 のそれぞれの死に向かっ て いく様、四人の登場人 物が作者 の分身 で あるという 見 方、かず子の「恋と革命」に向かう力強さなど の 主題や作者 の 問 題 の 他に、蛇の意味や聖母子につい て の 論などが存在する。 ま た 、 「 斜 陽 」 を 読 み 解 い て い く 方 法 と し て 、 「 貴 族 」 「 戦 後 の 時 代 状 況 」 、 「 斜 陽 日 記 」 も 含 め た 太 田 静子、 「 太宰の生家の状況」など多く参照され て き た 。 多くの読みの方法が存在したの は、 「斜陽」 に太宰の 様々な手法が多く入っ て い るためと考 え る。 奥 野健男 が 「こ の作品は 、 作 者 の 玩具 箱を ひ っ く り 返え し、 並べ た て た感 」 一 と述べ て いる通り、 「 斜陽」 には、こ れま で の 太宰 の手法やモ チ ーフが多く存在する。 こ れ ま で の先行研究におい て 、 多方面か ら論じ ら れ て き た 「斜陽」 で あ り、作品 の評価も他に余 地 がないかのように思われるかもしれない。 しかし、 「斜陽」研究におい て 、一九九〇年代か ら「語り」という点か ら評価がされ てき た 。 かず 子が 「 斜 陽 」 に お いて 語 り 、 ま た 手 記 や 書 簡 を 書 いて い る 。 こ れ ま で の 作 品 の 評価に加えて 、かず子の語る(書く)という視点 で 作品を 読 んだと き に、どの よ うなかず子が浮かび上がっ て く るのか を 考え たい。 か ず 子 が 「 斜 陽」 を語る(書く)という こ と は、かず子が自己につい て 語る(書く)行為が多い。 か ず 子 自 身 が 「 斜 陽 」 の 中 で、自 己 の こ と に つ い て、 どのような素材を取り込み、論理 を 形成し て い くのか を 見 て いく こと で 、 かず子像というもの が 明確になっ て くるの で はないだろうか。 かず子の 語る(書く)という視点か ら、かず子の思考と論理につ い て 明 ら かにした い。 まず、 こ れま で の 先行研究 で ど のような論じ方がなされ て き た のか整理する。そし て 、 作品 の周縁 にある、戦後という時代背景と貴族に つ い て おさ えて いく。 その上 で 、 か ず子の 語る (書く) 行為に関する 「斜陽」 先行研究 をふま え なが ら、 かず子の 語る ( 書 く)行為に つ い て 詳細に検討を行い、かず子像 を 探っ て い き た い。 また 、か ず子 は「マ リ ヤ」 や「聖母子」 という言 葉を 用いて 、 人物を 捉 えて い る 。 か ず 子 が 「 マ リ ヤ 」 や「聖母子」 を 用 いる こ と につい て 、かず子の語る(書く)視点から、考察を 進め て 行 く。 さ ら に、 「斜陽」の底本とし て 使われた「斜陽日記」にも目 を 向け、 「 斜陽」と「斜陽日記」 を比 較 する こと を 通 し て 、そ こ か ら 浮 かび上がる、かず子の語る(書く)行為につ い て も論じ て いく。 一 奥野健男「作品研究「斜陽」小論」 ( 『 近代文学』一九五三・六)

(3)

3 第一 章 作品につい て 第一節 初出及び 梗概 研究作品 太宰治『斜陽』 テキ スト ちくま文 庫『 太宰治全 集9』 ( 一九八九年五月 筑摩 書房 ) 初出 昭和二十二年七月一日発行 の『新潮』第四十四巻第七号から 同 年十月一日発行 の 『新潮』第四十四 巻第 十号ま で 、 「 長篇連載」 と し て 四回 にわた っ て発表された 。 梗概 貴族階級のかず子とお母さまは、 日 本が無条件降伏した年の十二月の は じめ 、 西片町の 邸 宅 を 売り 、 伊豆 の山荘に引越す。かず子と 病身 のお母さまは弟 の 直治が戦場から 帰 っ て くる の を 待ちながら 生 活 して い た 。 か ず 子 は 、 蛇 の 卵を 焼い た こ とに 不吉 な 感 じを 抱く。直 治が 戦争 から 帰って き たが、 小 説 家上原二郎の もとへと行っ て し まう。かず子は、六年前直治が麻薬中毒 で 苦 しん で い た 頃 の「夕顔 日 誌」 を目 にする。当時 か ず 子 は 直治 に薬 代 を ねだ られ ていた 。 か ず 子 は 多額 の お 金 を ね だ れ る よ う に なり、 心 配になっ て 上 原 を た ず ねた 。 か ず子は上原とお酒を飲みに行った 折 り、 不意にキス を される 。 その ことがかず子の 「 ひ め ご と」 になった 。その 後 、かず子 は夫の山木と離婚した 。 「 夕 顔日誌」 を目 にした 後 、かず子 は上原 に 三通の手紙 を 出 す 。一通目 は、いまの 生 活か ら逃れ 出 た い 。 私 は 或 る人 に 恋 をし てい て、 愛人 とし て暮 らすつ も り と い う 上 原 への 思 い を綴 る 。 二通 目 は 、 上原にお金がほしいの で は なく、赤ちゃ んがほし い こ とを綴る。三通目は、お母さまに上原の こ と を 不良と言うと、肯定的な返事 で 、その こ とが私にはう れし く 、 私も不良 になりた い 、 上原 に逢 いた い と綴る。 しかし、三通とも返事 はこ ない。かず子は上原の もとへ行 こ う と決意した時、お母さまの 様子が悪 くなり、亡くなる。かず子 は家に帰っ て き た 直治と入れ違 いに上原の も とへと赴く。かず子 は 、上 原 の家行ったが上原は 不 在だったが、 そ こ で 上 原の妻に 親切にされる。しかし、かず子 は「人 間 は、 恋 と革命のため に生れ て 来た」と思い を持ち直し、西荻のチ ドリ で 上 原と再会する。六年前とは違 う 上 原の 姿 を 感じた が 、上原 と 夜 を 共にし て 、朝 を迎 える。 その朝、 直治は自殺し て い た。 遺書には、 上 原の妻への思いと 「僕は、 貴族 で す 。 」 と記 され て い た 。 かず子は上原に最後の手紙 を 綴 る。小さな生命が宿っ たこ と 、 か ず 子 も 上 原 も 道 徳 の 過 渡 期 の 犠 牲 者 で あ るこ と 、「こ い し いひ と の 子を 生み 、 育 て る 事が 、 私 の道徳 革 命 の 完 成 」 で あるこ と 。 そ して 、 私 の子を 上 原の妻に 抱かせ、 「こ れは、直 治が、或る 女 のひ とに 内緒に生ま せ た子 で す の。 」と言わ せ て ほしいこ とだっ た 。 各章の内容 一章 (手 記) ある朝、お母さまがス ウ プ を一さじ 吸 っ て 、 「 あ。 」 と いう声 を あげる。かつ て、ヒ ラ リとス ウ プ を いた だく姿に弟の 直治 はかつ て 本物の貴族はお母さまく ら いと言った 。 お母さまの食事 は 礼法か ら は ずれ て い るが、骨 つ き のチキンなど指先 で つ まん で 食 べる姿は、 可 愛ら しいばかりかエロチックに 私 は 思 う。ま た 、 奥 庭 で お月 見 を し て いる 時、お母さまは 萩 のしげみ の奥 で お しっこをする よ うな 人 で ある。戦中、直治は 召 集 さ れ南 方の島に行っ たが、 消 息が絶えて い た。お母さまは直治に 逢 え ないと 言っ て い るが、私は 逢 え ると思っ て い た。直治は高校に入った 頃 か ら 文学に こ っ て 、 不良少年みた い な生活をはじめ お 母さまに苦労をかけた 。 ある日、近所 の子供た ちが蛇の卵を 見 つけ てき た。私は蝮の卵と思い、燃やし て し まう。お母さ ま

(4)

4 は、お父さまの 臨終の 直 前に枕元に蛇がいた こ とか ら蛇 を恐れ て いた 。 私 もその 時 、庭の 木 に蛇 が 上 っ て いたの を 見 て いた 。 こ の 二 つの こ と で お 母さまは蛇に対し て 畏 怖の 情を持った 。 庭に蛇がい て 、 お母さまがあれは蛇の母親 で 卵 を さ がし て い ると言った 。 私は、お母さまの顔が悲しい蛇に似 て い る と思い、私 の 胸の中にいる蛇が母蛇を い つか食い殺し て し まう気がした。 戦後、生活が傾い てき たため家 を売っ て 伊豆に引っ越 す こ とになった 。 お母さまは私がいるか ら伊 豆に行くと言い、西片町の家 で 死 ん で しまいたいと言っ て 泣 いた 。伊豆の山荘 で の 安穏 は、全部いつ わりの見せかけにすぎないと、私は 思う こ と があっ た 。 恋と書い た ら 、書けなくなっ た 。 二章 (手 記) 蛇の ことがあっ て か ら 十日ほ ど 経った 日 、私は風呂の かまどの 火の不 始 末 で 火事 を起 こす。お母 さ まの励ましの 言葉の お かげ で、おわび廻り が でき た 。 翌日か ら 畑仕事 を する。戦争の時 、 ヨイ トマ ケ を し た。 戦争は そ の記憶 以 外は つまら な いも のだっ た 。 ヨ イト マケ のお かげ で か ら だ が 丈 夫になった と 思 っ た 。軍 事労 働で は、 外国 人に 思わ れ た り、 将校から ト ロ イ カを 渡され特 別 の 待遇を 受 け た りし た。 火 事 の頃 から お 母 さまは 病 人く さくな り 、私 は 粗 野な 下品 な 女 に な って い く 気が し た 。 お母さまから 直治が生きて いる話を 聞 か され た。 叔父 さまから お金が無くなっ た こ と と私が嫁に行 くか奉公したほうがよいと言われた こ と をお母さまが 私に告げる。私はお母さまの傍にいた ら 貧乏 は なん で もないと考えて いた。私はお母さまに暴言を言い、泣いた。私は或る 人が恋しくなっ た 。私 は お 母 さま にひ めご と が あるこ と を 言 っ た 。 三章 (手 記・ 「 夕 顔日誌」 ) お母さまに物を 擬 人化し て いるこ と を 指 摘 さ れ、 私は子供がないか らと言った。直治が戦争か ら帰 って き た 。 ま も な く 直 治は 東京 へ行 っ た 。 私 は 、 直 治 の部屋 で 直治の日記を 見る。直治が麻薬中毒の 頃 の 日記 で あ り、借金 の こ と、戦争の こ とが書かれ て いた。六年前、直治の薬代を作家の上原に届け た。私は上原とお酒を共にした。上原か ら帰り際にキ ス を された。私は世間が急に海のようにひろく なった気がした 。 私は、その こ ろ細田の絵に夢中にな り、 細田が好き だ と公言 し て い た。 その こ と も あり、山木と離婚した 。 四章(手紙 ) 私は上原へ手紙 を 書く。一通目は親子三人が生 き て い けそうもない。私は 女 大学にそ むい て も い ま の 生 活か ら逃れ出た い。私は或る人 に恋 をし てい て、愛人 とし て暮 らすつ も り で ある。という こと を 書く。 二 通目 で は 、 上 原にお金が ほ しい の で はなく、 赤ちゃ ん が ほ しい。 愛 人となりたい こ と を 書 く 。 三通目 で は、私がお母さまに上原の こ と を 不 良と言うと、肯定的な返事が返っ てき た。その こ と が 私 にはうれしかっ た 。私も 不 良になりたい。上原に逢いたい こ とを 書く。 五章 (手 記) 三通の手 紙の 返事 は来 なか った 。 私 は上 京し て 上 原 に 逢 お うとした と こ ろ、お母さ ま の 様 子 が 悪 く なる。私はローザ ルクセンブルクなど の 本を 読み、お母さま の ように天性 の 教養を持っ て いる 人は当 然の事 と し て 革命 を迎 える ことが で きると思 った 。その時 、奇妙 な 興奮 を覚 える。旧 来の思想 を破 壊 する、道徳を反し て も 恋する人の と ころへいく人妻の姿が重なった 。破壊思想は哀れ で 悲 しく て 、 美 しいも の と思っ た 。 私は十二年前、 友 達から 更 級日記 の 少女と言われた。 私は その時から一歩も 進ん で い ないと思っ た 。 戦前、 戦 中に世 間 の大 人達は 革 命と 恋を 愚 か しく、 い まわ しいも の と し て 教 え な かっ たと 考え 、 戦 後、 私は、 人 間は恋と革命のために生まれ て き た と考える。 お母さまが蛇の 夢 を 見 た と 言い、言われた と ころを 見 ると蛇がいた 。私は、お母さまの こ と をあ き

(5)

5 らめ 、悲 し み の 心 の 底 を突 き抜 けた 心 の 平 安 と い う べ き心 の ゆ と り が で きた 。 お 母 さ まの 傍 に いよ う と思 った 。私は人 と争 わず、憎まずう ら まず美しく悲 しく生涯 を終わるこ と が で き る のはお母さま が 最後 で あ り、生 き 残るという事は醜く て 血のにおいの する、き たなら し い事のような気がする。私 は そ れ でも、思 う事 をし とげ るため に 世間 と争 っ て い こ うと思 う 。そ し て 、お母さ ま が 亡 く なった 。 六章(手 記) 戦闘、開始。恋。私は、お母さまの葬儀を済ませ た 。 ある日、直治がダンサア風の人 を山荘 に つ れ てき た 。 私は直治の 弱 みにつ け こみ、 上 原の もとへと 向かう。 上原の家へ行くと、 奥 さんと娘がいた 。 奥さんに親切にされ、動揺するが、恋と革命のため上 原の もとへ向かう。六年ぶりに逢 っ た上原 は 違 う人 だった 。 そ こ では、上原 に た か っ て 酒 を 飲 む 人た ちがいた 。 私 は上原 と 二人 きり になった 時 、 上 原に 可愛 がら れて いるこ と を 意 識 し た。 私は 上原に キ スされた が、 仕方 が無いという気持ちを感じた 。 寝 て いる と 上 原が 隣に い た 。抵 抗し たが、 可 哀想にな り 放 棄 し た。私 の 恋は 消えて い た。 明け方 、 上原の顔 を 見 て 、 犠牲者の顔、貴い犠牲 者。美しい顔に思 われ 、恋がよ みが えった 。 私 は 幸福感が飽和点だった 。直治は その 朝に自殺し て いた 。 七章 (手 記・直治の 遺 書) 直治の遺書。直治はこ の世 の空気と陽の中に生き に く い 、 生きて 行 く の に ど こ か 一 つ 欠 け て い る。 下品になりたかった 、 強暴になりたかった。それが民 衆の友になり得る唯一の道だと思ったと書く 。 家 を 忘れなければ、 父 の血に反抗しなければ、 母 の優 しさ を拒否しなけれ ば 、 姉 に冷た く しなけれ ば 、 民衆の中に入っ て いけなかった。しかし、お母さま の生きて いるあいだは、死 ぬわけにはいかなか っ た 。 それはお母さま を 殺し て し まう こ と になる、お金の事 で 人と争う力が無かった と記し て いた 。 直治は 人 妻に思いを寄せ て いた 。私に迷惑 を かけないようにと私がいない時がチャンスだった 。 直 治は僕は 貴族で す と書いて い た 。 八章(手 記・手紙) 私は直治の死の後始末を し て 一 ヶ月、上原に手紙 を 書 く。赤ちゃ ん が で き た こ と 、 こ の 世 に戦争 ・ 平和・貿 易・組合・政治があるの は 、女 がよ い子 を生 む た め で 、私は勝った こと。私は古い道徳 を 平 気 で 無視し て 、よ い子 を得た と いう満足があり、私も上原 も 道徳の 過 渡 期 の犠牲 者だという こと。 し かし、 古 い道徳と闘うには、もっと貴い犠牲が 必 要で あるこ と 。今 の世 の中 で 一 番美しいのは犠牲 者 という こ と。 上原に一 つゆるし て い ただき た い こ とがある、 そ れは、 上 原の奥さんに私 の 子 を 抱かせ 、 その時、 こ の 子は直治が或る女の人に生ませた子だと言わせ て ほ しいという こ と で あった。 第二節 作品 成立事情 『斜 陽』 の成立 事 情に ついて 整 理す る。 太宰は昭和 二十年七月三十一日に甲府から金木へ疎開先 を移す。 二 金木 での疎 開 、終戦 を 経 て 、昭 和二十一年十一月十五日に三鷹に帰る。 『斜陽』 の執筆は、昭和二十二年二月下旬から 始 まり、三月七日ま で 静 岡県三津浜 の 安田屋旅館 で 一章と二章 が 書かれた とされる。 『 斜陽』 の 執筆が始まる昭和二十二年二月ま で の 太 宰につ い て 見 てい き た い。作品 のモ チー フが窺わ れるも の を 示 しながら 論 考 する。 二 「太宰治年譜 岸睦子編」 ( 『太宰治大事典』勉誠出版 平成十七年一月十日)

(6)

6 以下 、山 内祥 史「 解題 」 三 を参考に する 。太 宰は、戦後、疎 開 先から三鷹 に帰 っ て きた 時に は、す でに『 斜 陽 』 につ い て あ る 程 度 の 構 想 を 持 っ ていた 。 津島 美知 子「後記 」 ( 『斜 陽 太宰治全 集第十四巻(近 代 文 庫 )13』創元社 昭和二十七年三 月一日発行) の「斜陽」の項には、 つ ぎのように記 され て い る。 その年(昭和二十一年)の十一月十五日、太宰は疎開先か ら 三鷹の旧居に帰りました。 「斜陽」の執筆にとりかかったの は その翌年の二月下旬の こ と で し たが、作品 の 構想は既に金木 にゐる間に芽生えて ゐ て 、 「斜陽」といふ題名も定まつ て ゐた やう で す 。 ( 前註二) 亀井勝一郎「斜陽〔鑑賞〕 」 ( 『太宰治(近代文学鑑賞講座19) 』角川書店 昭和三十四年五月 十日発行)にも、つぎのように記され て いる。 こ の 生家 の没落を 「桜 の園 」 風 の仕立で 書き たいとは、 太 宰が洩ら し て い た とこ ろで ある。 ( 前 註 二) 津 島 美知子 『 回想の 太 宰治 (講談社文 庫 ) 』(講談社 昭和五十八年六月十五日発行) 所 掲 の 「三 月二十日」には、 つぎのようにも記 され て い る。 二十一年の十一月半ばに帰京するま で の 一年四カ月の間、地主 で あ った 太宰の生家の 没落の 様 相は私ども の 目の前に在っ た。 かつ て 三 百戸近い小作 人がぞくぞく小作米 を 運 び 入れ て 俵 の山 をいくつか築いたタタキは、 ガ ランとし てはした 米 を はか るの に使った 台秤 が一隅 に 当時の 名 残 り をとどめ ている ば かり で、 小 学生の姪のボール遊びの場と化し て いる。 帳場 は厳重に鍵を 管理し て い て 無用の もの が出入りする ことはなかった と いう米蔵の扉 は開 き 放し で 内 部は 空っぽ、金庫を 据 えカウ ン ターを 備 えて 帳 場 さんが小作 人 と交 渉した店は Y 一家 に 貸し て い て、帳場の老人 は 毎日通っ てきてはいるが手 持ちぶさたの 様子 で あ る。 こ の よ う な様 を 目にし て 太宰は「 『桜の園』だ、 『 桜の園』その まま で は ないか」と口ぐせのように言った(貴 族 の 没 落 を テ ー マ に した 小説の 構 想 は その ころす で に芽生 え ていたの で あ ろう) 。 (前 註二) 金木の 私 の生家など、いまは「桜の園」 です。あ はれ 深い日常 です。私は こ れ に 一票 いれ るつ も り で す。 (昭和二十一年一月十五日付井伏鱒二宛手紙) ( 前註二) 農地改革は 、 「すべ て の 土 地を 時価 で、いったん 国が買いあげ 、それ を さ ら に小作農に売り渡す 。 その事務を 各地に設置される農林省 の 出先機関、 農 地 事 務所に よ っ て 行うというも の で あっ た。 (中略 ) 農地 の九 割が農民の手中に帰する結果となっ た。 しかも、折か ら のイ ン フ レーション の ために、農 地 の買 上げ・売 却価格は著しく低いも の」 四 であ った 。 野原一 夫 五 は、当時の津島家につい て 述べ て い る。 日本の民主化政策 を推し進めようとした連合 軍 総 司令部(GH Q )が真先に着手したの は、地主 の所 有地 の大半を 自作 農地 化し ようとする農地改 革で あ っ た。 二 次 に わ たる 農地 改 革 案に より、 在村 耕作地主 は三町 歩 を 残 し 、非 耕作地主 は一町 歩 を残 し 、 不 在 地主 はその 全 所有 地が、強制 買 三 山内祥史「解題」 『 太 宰治全 集第九巻』 ( 筑摩書房 一九九〇年十月二十五日) 四 中村隆英『昭和史Ⅱ 』 (東 洋経済新報社 一九九三年四月三十日発行) 五 野原 一夫「 「 斜陽」 と 「斜陽 日 記」 」 『 新潮』九十五巻第 七号(新潮社 一九九八年七月一日発行)

(7)

7 上げ の対 象とな っ た。二 百 五 十 町歩 の大地 主 津島 家も、 そ の所 有地 の大 半を 失うに 至 っ た の で あ る。 太宰は 戦 後 の 農地改革に よ り、大地 主 で あっ た津島家 の没落 の 様 子 を 見 た。 それまで 賑わって いた かつ て の 生家とそ こで 育った自身の姿、生家に対する反発した姿が今ま で あ った で あ ろう。その生 家 が今ま で とは 違う様相となった時、 太宰はかね て 読ん で い た 『 桜の園』 が重なった。 生家が 「 桜の園」 と同じような様相になった こ とに一種の高揚感やあわれ を 感じた。 『桜の園』 の ような作品を作る上 で の 契 機 の 一つ し て 大 き な意 味の こと であ った であ ろう 。 こ の 生家の 没 落と 『桜 の園』 は 前述の通り関連し て く るが、 〈斜陽〉 という言葉はど こ か ら き た のか 。 東郷克美が「太宰治と チェーホ フ―『斜陽』 の成立を 中心に」 ( 「 国 文 学 解釈と鑑賞」第三 十 七巻第十二号 「芥川龍之介と太宰治」 昭 和四十七年十月一日発行) で 指 摘し て い るように、 「 春 の 枯葉」の「ト書 き に三か所にわた っ て 背景とし て の『斜陽』が書 き こ ま れ て いる こと」が注目 さ れよ う。左の 「三か 所 」 で ある。 下手の ガ ラ ス 戸か ら、斜陽がさし込ん で ゐ る 。 ( 第 一 場) 舞 台すこ し 暗 くなる。 斜 陽 が薄 れて 来 た の で ある。 ( 第一 場) 斜陽 は既に薄れ、暮靄の気配。 (第 二場) 「春の枯葉」 の起稿は、 す で に 見 て き た ように、 五月一日と推定される。 「 斜陽」 の 語に対する関 心の芽生 えは、 五 月以降という ことになるの だ ろう。 た だし、 杉 森久英 「 苦悩の 旗 手 太 宰治」 ( 「別 冊文藝春秋」第九十八号 、 昭和四十一年十二月五日発行)に紹介されたよ うに、生家津 島家二 階 の八畳間の襖には、 「 蒹葭緑老満 陂 塘秋社村園野飯香風峭 客衣初 欲 冷砧声断続響斜陽」とあっ て、 「 斜 陽 」 の二 字は 、 子 供 の とき から 見馴 れ た も の で あ っ た よう だ。 ( 前 註 二 ) 戦後に発表された戯曲「春の枯葉」に〈斜陽〉という言 葉 が繰りかえ し 用いら れ て い る。また、高 田 知 波 が 指摘するよ う に、戦時中の 小説「竹青」にも〈斜陽〉という言葉 は 用い られ て い る。 〈斜陽 〉 という言 葉は『斜陽』成立以前に太宰が用い て い た 言 葉 で ある こ とがわかる。生家の襖にも〈斜陽〉 の 二 字 が 含 ま れ て おり、子供の と き か ら 目にし て いた字(言葉 ) で あった と 推察 できる。太陽 が 沈 む 様が生家の 没 落と重なった と考 える。その 太 陽の 様子が傾いた陽の光 で ある。 〈 斜 陽〉という言 葉に ついて 、 高 田 氏は 「桜 の園 」を 踏まえて 「 希 望の比喩表現 」と して の意味 を 含む と 捉 え 、 『 斜 陽』 と い う 題 名に ついて 、 『斜陽』 のタイトリングに こ め ら れ て い たの は 「 滅びの宴」 だ け で もなければ、 「道徳革命」 に向 かうかず子の生き 方が「題目とは裏腹 」 な の で もない。卵を 焼 かれた母蛇を 「お母さま」が 哀 れ む 場 面に 出 て くる 「夕日がお 母 さま のお 顔に 当 つ て 、 お 母 さま のお 眼が青いくら ゐに 光 つ て 見 え て ( 略)飛びつ き たいほどに美しかつた」という 「夕日 」 と、 最終 章 で かず子が自分は「太 陽 の やうに生 きるつ も り で す」 と宣 言するその 「 太陽」の 双方 を内包 す る両義 性 におい て 『 斜 陽 』 の 題名の メ ッセージは解読されるべ き で あ り、 こ の 題意 に対応するかた ち で か ず子が小説全 体の 語 り手 とし て 選 ばれ て い るの ではないか 六 六 高田 知波「 『 斜陽』論― ふ たつの「斜陽」 ・ 変貌する語り手」 ( 『 国文学』一九九一年四月)

(8)

8 とする。 かず子の 語りにつ い て は、後章 で論じ て いく。 また 、 齊 籐理 生 七 も 〈 斜陽〉 と いう言葉の意 味とし て 、「 夕陽」 だ けでなく 「 朝 日」 という意 味 を 見 る。 〈斜 陽〉 という言葉か ら、 これま で 「滅び 」 や 「 没落」 と いう解釈が多い 。 しかし 、 かず子の 再生 という側面 で 捉えると、 「 滅び」 や 「没落」だけとは言えないと こ ろがある。 「朝日 」 に つ い て は、かず子が 上原を 一 夜を 共 に し た 後 の 朝 の 場 面 が あ る 。 夜が 明け た。 部 屋 が 薄 明る く な って 、 私 は 、 傍で 眠って い る そ のひ と の 寝 顔 を つ く づ く 眺 め た 。 ち か く 死 ぬ ひとのような顔を し て いた。疲れは てて いるお顔だった。 犠牲者の顔。貴い犠牲者。 私 の ひ と 。私 の虹。 マ イ、 チャ イルド。にくいひ と。ずるいひ と。 こ の 世にまた と無 いく らいに、と て も美し い 顔のよ う に思 われ 、恋 があ らた によ みが えっ て来 たようで 胸が とき めき 、 そ のひ と の 髪を 撫 で ながら 、 私 の ほう から キ ス を し た。 かなしい、かなしい恋 の成就。 上原さんは、眼 を つ ぶ りながら私をお抱 き に なっ て 、 「 ひがん でいたのさ 。 僕は百姓の子だか ら。 」 もう こ の ひとか ら 離れまい。 「 私 、いま幸福よ 。四方の 壁か ら嘆 き の 声 が 聞え て 来 ても、私の い まの幸福感 は 、飽和点よ 。 く しゃ みが 出るくら い 幸 福だわ。 」 ( 第六 章) 齊籐 氏は、 「 夜明けの光の なか で、 かず子の上原に対する見方 は急速に変化」 し て い る こ とや、 か ず 子 が 幸福 を感じ 、 そ の さ い に「東 か ら斜め の 光 が 射 し てい る」 こと を示 す。 野原一 夫 は 『 斜陽』と太宰 の持っ て い た 〈日本の「桜 の園」 〉 の構想に つい て 、 『新潮』 連載ま で の 経緯か ら 次のよ う に示し て いる。 十一月二十日 の夕 刻、 『新潮』 への小説連載と、 完結後の単行本刊行 の 件 で 、 太 宰は新潮社に来 て くれた。そのと き 太宰は、意気込んだ口調 で 言った。 「傑作を 書き ます。大傑作を 書 き ま す。小説の大体 の 構想も 出 来 て います。日本 の『桜 の 園』 を 書くつもり で す。 没落階級の悲劇 で す。 もう題名は 決 め て ある。 『 斜陽』 。 斜めの陽。 『 斜陽』 で す。 どう で す 、いい題名 で しょう。 」 しかし 、 没落階級 と口 にした と き、その 三カ月 余 りの ちに筆 を 起した 「 斜陽」 に あるよ う な華 族 階級 を太宰が想定し て いたのかどうかは、疑っ て み て も よ い。あるいは、 そ の時点におい て は 、 没落し て ゆく生家津島家 を モデルとする悲劇 を、もち ろ ん た ぶ んに虚構化しながら、太宰は書 き たいと 思 って い たかもしれない の で ある。 八 七 齊 籐 理生 「太 陽と言 葉 ― 『 斜 陽 』 試 論 」( 『 太 宰 治 ス タデ ィ ― ズ』 第一 号 太宰治スタディ― ズの会 二〇〇六年六月) 八 野原一 夫 「 「 斜陽」と「斜陽日記 」 」 ( 『新潮』九十五巻第七 号 新潮社 一九九八年七月一日)

(9)

9 ここ から、 『 斜陽』は元々は「日本の『桜 の 園』 」という構想をも つ作品 で あっ たとわかる。 そ こ に は、生家の 没 落の 様子も作品のモデルとし て の 役 割 を 果たしたかもしれない。しかし、 こ うした『 斜 陽』 の構 想に、愛 人 で ある太 田 静子 の日記が関わって くる。 野原一 夫 の 「 回想太宰治」 に よ れば、 そ の日は 「 二十二年一月六日 」 の こ と とし て 記 され て い る。 その日太宰治は、 太 田 静子を 吉 祥寺の コ スモ スに案内し た 。『 あは れわが 歌 』 に よれば、 「 マ ダム 、 向 ふ に行つ て 呉れないか。 こ の ひとに、 大事な話があるんだ」 と治はいい、 「行かう」 と 園子の手 をとった 、という。 ( 中略 ) 治はうれしさうに微笑し て 、園子に近づ き、両掌を 握 りしめ、 「 園 子 の 日記 が 欲 しい 」と言 っ た。 あぁ 、こ のひ とが言ひ たかっ た のは 、こ れだ け の こ と だ つ た のだ、こ の ひ とが欲しかつたの は、日記だけだつたのだ、園子は自分のあはれさ を身に沁み て 感 じた 。 「わ かつた? 」 「今度の 没落貴族の小説に、どうし て も 園子の 日 記がいりよ うなんだ。津軽の家 を 舞台にし て、 主 人 公を 僕に、 さ う し て そ の愛 人を 園 子 にす る つ も り な ん だ。だい たい の筋は 出 来て ゐる。 最 後 は死、 」 治は急にだまつ て しまつた 。園子 は死とい ふ言葉 を 聴いたけれど、何も尋ねなかつた。 「小説が出来上つた ら 、一万円あげる よ 」 園子は一万円 もら へた ら、どんなにいいだらうと思つた。 「じ やあ、 こ れ で 話は澄ん だ」 治は 悲しげに 微笑し た 。 ( 前註一) 太宰の昭和二十二年一月(日付不詳)太田静子宛書簡 で あ る。 同じ思ひで を ります。 二月の二十日頃に、そ ちら へお伺ひいたします。そ ち らで 、二、三日あそん で 、それか ら伊 豆 長岡温泉へ行き、二、三週間滞在し て 、 あなたの 日 記 か ら ヒ ン ト を 得た 長編 を書 きはじめ るつ も りで を り ま す 。 最も 美しい記 念の小 説 を 書 く つ も り で す 。 九 『あ はれ わが歌 』 によ れ ば 、 こ の手紙 は 「 二 月七日」 付となっ ている。そ れ はともあれ 、 『あ はれわが歌』など、太田静子の回想的小説によれ ば、 こ の 時点 では、まだ太宰治に「日記」 を 見 せ て いなかったという。だが、こ の 手紙の「あな た の 日 記 か ら ヒ ン ト を 得た 長編 を書 きはじめ る つもり」という記述は、 「 日記 」 を 見ない で 書い て い ると思 え ない。 ( 前註一) 鳥居 邦明は 、 「二 十二 年一 月 の うち に、すで に日記は 太宰 の手元に 渡って い たということになる。 」 一〇 とする。 昭和二十二年二月二十一日午後、太宰治は、神奈川県足柄下郡下曾我村原の 大 雄山荘に到着 し たようだ。 ( 中略)その二十一日夜の こ ととし て 、 『 あはれわが歌』には、つぎのように記され て いる。 「日記は、どこ に ある の? 」しばら くし て 、 治が尋ね た。 「二階に、 … …」と答へ て 、 そ れから 少 し改ま つ た声 で 、 「園子の、いまま で の 生活、ほんたうに泥沼の や うな生活だつたのね。だか ら、園子の日記は」 九 『 太 宰治全 集12 』 (筑摩書房 一九九九年四月二十五日) 一〇 鳥居 邦明「 『 斜陽』 」 ( 『 作品論太宰治』双文社出版 昭和四十九年六月二十日)

(10)

10 「いいんだよ」 と 言ふなり 、彼は園子 を 抱 き しめ優しく唇づけ て、離し、 「じ やあ、僕、先にあがつ て 待 つ て ゐ る 」 リ ュ ッ ク を 持 つて 、 ひ と り で 二 階 へ あ が つて 行 っ た 。 (略) 「いま、日記を 読 ん で ゐたんだ よ。紅薔薇のとこ ろ ま で 読 んだ のだけど、僕が 思 つ て ゐた通りの 日記だつた。おかあさんが死ぬと こ ろで おしまひになるんだね。 (略) 」 「弟子」 には 「それから 六 日目の朝 」 の こ と とし て 、 太 田 静子 「 『 斜陽』 の 子を 抱 き て 」( 「 婦人 公 論」第三巻第八号 、昭和二十三年八月一日発行)や「 『斜陽 』 前後」 ( 「小説公園」第 一 巻第四号 、 昭和二十五年七月一日発行) や 『あはれわが歌』 には、 「 五日目の 朝」 の こ ととし て 、 つ ぎのよ う に記 され て い る。 支那 間の 机の上 に 原 稿 用紙 をひろげ て、 斜 陽 太宰 治 それだけをお書 き になっ て 、 伊 豆へ立たれる こ と になりました。 ( 「 『 斜陽』 の 子 を 抱 き て 」) ( 前 註一) 太宰が 『 斜 陽 日記』を 手に 入れ た時期に ついて は 、 鳥 居氏 の見解や 太宰が 『 斜 陽 日記』を 手に 入れ て か ら『斜陽』を書 き 始め るま で の 時間か ら 、太宰が太田静子の もとに訪れる昭和二十二年二月二 十 一日以前とする見方 が ある。一方 、 太田静子の回想によれば、昭和二十二年二月二十一日となる。時 間的 な差異が生じ ている。太宰が『斜陽 日 記』 をいつ手 に入れ 、 見た かにつ い て 詳 細な考証は本論の 趣旨 から 外れる た め行わない。 着 目 し た い の は 、 い ず れ に して も 『 斜 陽 日 記 』 を 読 ん だこ とで あ る 。 そ して 、こ の 『 斜 陽 日 記 』が 『斜陽』に少なからず影響を 及 ぼしたと 見 ら れる。 太宰が持っ て いた 〈日本の 「桜の園」 〉 という構想、 〈斜陽〉 という言葉 、 そし て 『 斜陽日記』 。 こ れ らが、 作 品の モチ ーフの 大 きな部分 である。 『 桜 の 園 』・ 〈斜陽〉 ・『 斜陽 日記』 が 融合、 そ し て 虚 構 化 さ れ て 作 品 『 斜 陽 』 が 生 み 出 さ れ て い る 。 そ の こ と か ら 、 『 斜 陽 』 の 諸 々 の 問 題 を 解 明 し て い く 上 で 、 『 桜 の園』 、 〈斜陽〉という言葉 、 そし て 「 斜陽日記」に注目され てき たの で あ る。

(11)

11 第二 章 研究史 第一節 主要 先行 研究史 ここで は 、 『 斜陽』 の 同 時 代 で ある一九四年代か ら現在ま で の 研究 内容と作 品 の 評価に つ い て みて いき たい。 同時代(一九四十年代) 須田章「太宰治・斜陽」(『東北文学』一九四七・一一) 「斜陽」の新潮誌連載中に「 こ の娘だけは「貴族 転落」という歴史的位置 を 感 覚的にせよ若干 つ かみ得る 近代性 ( 人間性)を 持 たされ て い る 」 とし て 、 「貴族 的 属性を 失 って も遂に 喪 失しない人 間性 の不敵な 成長」を かず子に 見る。 香川明「文芸時評『斜陽』その 他」(『若草』一九四七・一二) 「女主人公が世馴れない生活感情なりに自我に眼醒 める過 程 は 、 母に たいす る 明暗二様 のあらは れ方 に鮮かに描かれ て ゐ る 」とする。 手 塚 富雄 「作品から 浮 い た 思想 概念の 苦 悶が何の 苦悶ぞ!」 ( 『日本読書新聞』 一九四七 ・ 一 二 ) 「読者 の 多くも、何かの意味 で 滅 び行く「貴族 的なるも の」 を 自 分の中に持っ て い るだろう。そ こが この 作 を 人 に つ な ぐの であ る」 と評価 す る 一 方、「作者が概念的な言葉 で 思想のようなもの を いう時、多くは そ れは 浮い て い る」とする。 小原元「斜陽の挽歌 解体に瀕する太宰治」(『新日本文学』一九四八・一) 「宿 命の不可 知と、意 志的 自我 との きび し い 対立 を、対立の ま まに統一 を欲 する ことが、主 体 の 分裂を は ら ん だ 危 機的様相 」、 つま り、 「 宿 命を 宰 領 とするがゆえ の不透明 の現 実と 意志 的人間の 確 執 に 近 代 の 悲運を 見 、 す で に 人間で あ るこ と に 宿命を 見 て 、 確 執 を そ のも のと して 統 一 し よ うと する者の生にいどむ 決 闘」とする。また、蛇とい う象徴的手 法 につ い て は、「その 神 秘性が現実 と 直結する苦悩 や絶望の印象 を 希 薄化」され て いる とす る。 「郷 愁、 寂寥、絶 望、 虚無に、 それなり の 生 をさぐ ろ うとした四人の 太 宰治の 分 身の うち 二人 が解体した」とする。 こ の 二人 はお母さま と 直 治 であ り 、 さ ら に 「 の こ さ れ た 二 人 の 男女 の 解 体 も 遠 か らぬ こと であ ろう」 と し て 、 こ の 二 人 は 上原とかず子 で あ る。つまり、四人の登場人物が終焉へと向かっ て いく こ と が示される。また、四 人の登場人物が太宰 の 分身 で あ るという点も注目される。 伊藤 整「『斜陽 』 と『処女 懐胎 』」 (『人 間 』一九四八 ・ 二) 太宰が「明治末期 の通俗小説にしか描かれなかっ た貴族 の 生活 」を 描い た こ とを 肯定しなが ら 、 「女主人 公の手 記 とし て 見 れ ば 、さ ういふ貴族 ら しい用語、考へかた な どは、細部にはかなり気 を 配っ て 使 はれ て ゐ る。しかし、その 骨組み、告白、手紙、日記、思い出などか ら 出来 て ゐ る作品 構 成は、反自然的」 で あ る。「女の言 葉 、 女の考へかた で 捕 へられる或種 の思 想、日記体 の 面白 さ、 手紙の文の効果、批評的な寸言 の味、 さ ういふ さ まざまな スタイルのアラ ベ ス クを 生かした現代式 の作品」とする。作品 の 構成につい て 示し て い る。 神西清 「斜陽の 問題」(『新潮』一九四八・二) 「斜陽」 を「ハ長調の 弦楽四重奏曲」に譬 え る。 第一 主題は 「 新しい 母 性 倫 理へ めざ めたかず子 が、みづからを 美 しい犠牲とし て 新 道徳 の祭壇に捧げる た め、まつしぐらに突 き 進ん で ゆ く勇まし い姿」、第 二主題 を 「虚無にむしばまれ て 、まつさ かさまに死の淵へ転落し て ゆく弟直治の姿」 と

(12)

12 する。また、かず子に聖母の姿が描 き 出 されるという こ と にも注目される。太宰文学 の 本質は祈り とする。 亀井勝一郎「作家論ノート 太宰治編」(『文学界』一九四八・六) 「悲しく、凝った挽歌だ。戯曲性を 巧みにとりいれた叙事詩」ととらえ、直治は「プロテス ト の ために死ぬ。かず子はプロテストのために生 き る 。いづれも自分自身の 運命に対し て プロテスト す るの だ。自 分 の 身 と心 を滅ぼし て 。 自 殺 と云 えば 、かず子の恋 愛 も自殺 で あ る 」とする。そして 、 「四人四様 の 斜陽。死 の四重奏。無頼派の悲しい祈祷 」とし、 挽歌とする。 扇畑忠雄「人間への脱出― 太宰治『斜陽』につい て ― 」(『ペ ン』一九四八・七) 「母対かず子、弟対 か ず子、上原 対 かず子それぞ れの場 合 のかず子がそれぞれの場 合 に応じ な が ら 変 化 し つ つ、 しかも三つの場合は 微 妙に かさな り 合いながら一人のかず子 を 発展 の形 で 結 びつけ て い る」 。「かず子の 果敢な道徳革命 を 通し て の 人 間 的成長」に主題 があり、「うし ろ向 き の 人 生 で は なく、前向 き の人生を、精神の解放 を さ らに社会的な「或るもの」と き びしく対決させる こと によ っ て 描 い ていく こ とが太宰文 学 に必 要と する。 「 日 記 や手 紙 な どの 持つ 自照的 真 実 性 を逆 に利 し て 、虚構 の 真実性を 強調する手法 で も あるが、「斜陽」におい て は相当の効果をあげ て いる」 と 考え る。 豊島与志雄「解説」(『 太 宰治全 集』第十四巻 八雲書店 一九四八・一〇) 「母親にし て も、娘の女主人公にし て も 、小説的 に検討すれば、大貴族の人柄とし て は形が崩 れ て ゐ る」、「作者は、彼女等を 自分から 遠く引 き 離し て 描 く こ とが出来なかった」とする。 一九五〇年代 長谷川泉「 「 斜陽」とモデル」 ( 『 解釈と鑑賞』一九五〇・七) 「太田静子の「斜陽日記」 は「斜陽 」の背景 をなす没落貴族の生活環境と生 き 方 の肉づけ をなし た」 。 「 「斜陽 日 記」 は「斜陽」 に 扮飾 を 与 えた けれども「 斜 陽」の 魂は与 えなかった 。 「斜陽 日 記」 には「斜陽」の中に見 られる革命の はげしさ も恋愛の き び しさ 、はげしさ 、 つ ら さ もない」 。 亀井勝一郎「解説」 ( 『太宰治作品集』 第5巻 創芸社 一九五一・五) 「 「 斜陽」 は 四人四様の斜陽 で ある。貴婦人の病 死、直治の自殺、上原の残 骸の ごと き生、そ し て 和 子の 恋愛もまた 一 種の自殺と云 える。愛する人の子 を 生みた い といふ和子の欲望 は、 こ の 場 合 はむ しろ ニヒ ル で ある。既成の道徳を 破 壊しよう といふ意志は、同時に自己破壊の破れかぶれの 意 志 で ある。いかなる希望 が こ の 作品にあるだ らうか。四人 はみな犠牲 者 だ。そし て 死 の四重奏が か な で られる。 こ の 音楽が斜陽 を 貫く雰囲気だと云っ て よ い 」 。 奥野健男「作品研究「斜陽」小論」 ( 『 近代文学』一九五三・六) 「こ の作品は 、作 者 の 玩具 箱を ひ っ く り 返え し、 並べ た て た感 」 。 文体 に つ いて も、 女性 一人 称 形式は中期の手法、直治の 日記や遺書の形式は前期 の手法、作品後半のテンポ の違いは後期 の手 法 と分析 し て い る。 「 こ の物語に登 場 する四人の 主 要人物は皆 作 者の分身 であると云 え ま す 」 。 「直治 は、前期の 、 上原 は後期の 作者自身」 、 「母とかず子 は、中 期 の 太 宰の 、精神の 表裏」 。 「 「 斜陽」 は こ の 四人四様 の滅びの宴 で す。敗滅の歌 で す 。 」 長谷川泉「斜陽(太宰治) ― 現 代文の鑑賞・その九―」 ( 『解釈と鑑賞』 一九五三・一二) 「没落し て ゆ く貴族の生活と心理 を 描いた「斜陽 」の中の救い、やが て おとずれる朝日の光 を含 むもの は 、かず子の 生 き 方 で ある。彼女 は す で に貴 族で は な い 。 彼 女 の背に 負 う も のは 落 日 で は な

(13)

13 い。没落し、破滅し て ゆ く弱々しい斜陽の中に、僅に、明日の 若 々しい気息と新鮮な陽光 を 期待 さ せる暁の光 を 弁別させるも の は 何かといえば、 そ れは 舊 い モラ ルと 闘い、 生 き 方 の革 命を 高唱する 主体 的 な 意志で あ る。エ ゴ を 歪 曲 す るも のに対し て は 何 物 も仮 借しない 激し さ で ある 」 。 「 「 斜陽」 のかず子は、 素朴な性 的素朴さ で 、 舊道徳を かなぐり棄て る革命を 求め、 そ れを 意志的に実行した 。 人間性を 抑壓し歪曲するも の を はね のけ、 ヴ ァイタル・ フ ォ ー スを 高ら かに前面におしだす の がか ず子の 生 き 方 で あった」 。 臼井吉 見 「太宰 治 論 」 ( 『 展 望 』一九五 四・七) 「 『 斜陽』は没落貴族の家庭 を 背景にし て 、 老母と姉と弟と小説家と四人 を 登 場させ、だいた い 姉の 日記と手 紙 を 通 し て語 られ る、にぎ やか なロマ ン 」 で あ る と す る。 小山 清 「名 作鑑賞「斜陽」 」 ( 『 文 芸 』一九五五・六 ) 登場人物に つ いて 「ほか の 人物はみな か ず 子 を と おし て 描 かれ て い る。作者が強く 主張し て いる もの も、云 う ま で もなく こ の か ず子 であ る」 。 ドナルド・キーン「日本と太宰治と「斜陽」 」 ( 『文芸』一九五六・一二) 「家族間の信頼は殆ど不可能な ために 、 和子とそ の母及びその弟は、 ほ とんど互に明白に意志を 疎 通 し合 うこ と な く 生 活 し て い る 」 。 三枝康高『 太 宰治とその 生 涯 』 (現代社 一九五八・九) 「いうま で も なく直治とかず子は、 作者自 ら の 二 つの分身と考 えられるが、 こ の 二つ を つ なぐ 「 作 家」上原 は、 こ の 作品 ではもはや疲 れ きった 残 骸に すぎ ない」 。 「女主人 公の か ず 子 も また 、自 らの 運命にたいし て プ ロテス ト する。 「 人 間 は来いと 革命のために生れ て 来 たの だ」―かの女の こ の結 論は 人生観 で も何 で もない、世俗に たいするプロテス トなの で ある」 。 「直治は前期、上原は後期の 作者自身 で あ り 、 母とかず子 は 中期の精神の 表裏 を現わし てい て、その エッセンス が 強調され て終 末へ急い で い る」 。 また 、一九五〇年代には津島美知子や太 田静子の当時の回想が発表され て い る。 一九六〇年代 田中保隆「 「 斜陽」の 基底」 ( 『解釈と鑑賞』 一九六〇・三) 「 「 ほんものの貴族」 は、実は爵位なんかに関係がない。それは、およそ 世俗の「悪」 、傲慢 、 虚 栄、詐偽、卑屈と対照的 で ある。 「 無 心 」 で 、な にもの を も疑 わず、気取らず、天衣無縫 で あ る 。 既成の正式礼法などは無視するが、しかも優美 で 気品 がある。 」 「 太宰は、心正しく美しい「滅亡 の 民」の 典 型 を 「斜陽 」 の母に造形 し ようとした 。 」 「 「斜陽」 は、しかし、滅びの美しさ を讃えるた めに 書かれ た の で は な い。作者は 滅 び の 美し さに 心惹かれながら 、 それを 踏 み 越 え る も の を 求 め て いる。 「 斜陽」 は 、 「 滅亡の民」の母体に生れながら、それ を 踏み越 え よ う とする人々の 苦悩の物 語 と言 つ て もよか ろ う 。 」 「 太宰とい う作家 を 考えると、太田静 子の「日記」 がなかつた ら 、 「 斜陽」 のテーマ はも つと違った形 で 表 わされただろう」 。 鳥居邦明「斜陽― 太宰治―」 ( 『国文学』一九六三・九) 「主題とし て 最 も 強く表面に出 て い るの は、主人 公かず子における「道徳革命 」 すなわち古い 道 徳を 破壊し、みず から の身と魂を 滅 ぼすこ と に よ る 新 しい 人間性 の 再生で あ ろ う 。こ の主題は 敗戦 後 の 太 宰 が 「 パ ン ド ラ の 匣 」 「 冬 の 花 火 」 「 春 の 枯 葉 」 な ど の 作 品 を 通 じ て 追 求 し て 来 た 自 己 肯 定 的

(14)

14 姿勢の線上にある。そし て その裏側をなすものとし て 、直治の手 記 ・遺書 を 中心にした黄昏の情 緒 の自己否定的姿勢があり、 こ の主題は初期以来の太宰文学 の 底流 をなし て いるもの で あ る。それ ら 二 つ のも のの背景と して 金 木 の生 家 か ら 持 ち 帰 った「桜 の園 」の イメ ー ジ がある 」 「 そ れ ぞ れ に 観 念的 、主 情的 、現世的 である こ の 三 つの主題 はい ずれも太宰自身のもの で あった こ とは紛れもな い が、極め て 困 難なも の で あ り、 それと相俟っ て 、 素材となった太田静子の日記が、太宰 の作品構成 の意 識の下を潜り抜け て 生のまま作品中に姿 を 出し て い る面もないとは言えない。 」 「そうい う構成 の乱れを 辛う じ て 支えて い る の は 主 人公 の独 白という 文体で あ る。太宰 の全作品において 独 白 体 の 占める 割 合は 異常に大き い が、太宰 文学 の文学性が、 客観 的リ アリ ティ の方向にはなく、 客観 的 に は脈絡のない対象 を 同 一の主体におい て 受け止め る こ とによっ て、その主体の人間性 の内部におい て の みリアリ ティ を持 つような方向に働い て いる こ と を 考 えねばなるまい。 」 小笠原克「斜陽―その 運命への素描―」 ( 『 国文学』一九六七・一一) 「 『 斜陽』は、まさしく新しい時 代 の曙光の中にあっ て 、 た だ ちに黄昏 を感受した 者 の 、 〈満 身 に 斜陽 を 浴 び〉た 姿 で あ った」 「 『斜陽 』 にあ らわれた “斜陽 ” とは、天皇の 地位の 変 化 を 憂い悲し む という、日本的にプ リ ミティヴな心情の位相 で あ った 。 」 柳富子 「「 斜陽」 に つい て ー 太宰治のチェーホ フ受容を 中心にー」 ( 『比較文学年誌』 一九六九 ・ 三 ) 「太宰が 「桜 の園 」において チ ェーホ フに学 ん だ の はこ の滅び の 側 に 目を 据え 、 そ こ か ら 目 を 放 たず 描く 方法で あ っ た ろ う 。 」 「太宰が焼かれ た へび の卵と 火 事に よって 主 人公 の滅びを 象徴して い る 」 。 「 チェーホ フは 「かも め 」 で は、殺され たかも めに よって 主 人公 の滅びを 象徴」 。 一九七〇年代 佐藤 泰正「 〈 斜陽 〉における太 宰治―危機に おける美意識」 ( 『太宰治論 』 翰林 書 房 ) ( 『国 文学』 一九七〇・六) 「 「 斜陽」は二 人 の「マリ ア 」 ( あるいはふ た つの「聖母子」 ) の物語と よ ぶ こ と が 出 来るかも し れない。ひと つは言うま で もなくかず子と そ の子 で あ り、いま ひ と つは かず子の母と直治 で あ る 。 「 直 治が上 原 の妻への 想 い を、その 「 正 しい愛情の ひ とが こひしく て、した はしく て 」 と いう 時、 その恋情はもはや 肉の情念 を 脱 した 、一種中性的 な、抽象化された 何か で あ り 、 母 性 への思慕と同 質 同 根 の も の で あ るこ とは 明ら かで あろ う 。 」 東郷克美「太宰治と チ ェーホ フ―『斜陽』 の成立を 中心に」 ( 『 解釈と鑑賞』一九七二・一〇) 「 「 斜陽」の 世界には根本的にはなんの対立も葛 藤もない。あるの は作者の 性急 で 感 傷的な自 己 告白 だけ である。だか ら 、 「斜陽」の 四 人の登場 人 物 はすべ て 作者の 分 身 で あるという説 はまっ た く正 しい。 」「た しか に作者はか ず 子 に よ っ て既成道 徳への 反 抗 を 表現し て いるとい えるか も しれ な い。しかし、その「道徳革命の完成」も たかだか 「悪 徳」 作家の 私 生児 を生 むこと で しかない。 」 浦田義 和 「 『 斜陽』 論 ―母・娘の 葛 藤および〝 子 〟の位置」 ( 『太宰治 制度 ・ 自 由 ・ 悲劇 』 法政 大学出版局 一九八六・三) ( 『 熊本大学国語国文学9』一九七三・一二) 「 「 犠牲者。 道徳 の過 渡期 の犠牲者。 あ な た も、 私も、 き っと それな の で し ょう。 」 という 「 上原」 と「かず子 」 、それに「 小 さい犠牲者」 で あ る「 直治」の 共通 の〝子〟、そ れは、まさに 、〝罪〟 のイ メージなの で あろう。 こ の 〝罪〟 を 、正しい愛情の人 で 、 家庭を つ つましく守っ て いる「上 原 の妻」に抱 か せる こ と によっ て 、 「 か ず 子」 は、可能な限りの 反抗 を 示 し て いるの で ある 。正しい 愛 情 の 人 、 に 〝 罪 〟 を 自 覚 し て も ら いた いの であ る 。 これ は 、 太 宰 の 「 か ず 子 」 に託 し た 、「 世 間 」 に対する、せいいっぱいの反抗 で あ る。 」

(15)

15 鳥居 邦明「 『 斜陽』 」 ( 『 作品論太宰治』双文社出版 一九七四・六) 「第一の主題「没落への挽歌」 を 全 存在 をもっ て 体現し て いるの は 母 で ある。 」 「第二 の 主題 「 か ず子の 復活」という点か ら 見 るな らば、かず子の 反抗の 対 象 で あるべ き 母が、一面 で かず子の良 き 理解者 で あるという こ とになっ て 、 か ず子の反抗 がそ れ だ け的 を失 った 弱々し い もの となっ て い る ので あ る 。 」 東郷克美 「死 に 行 く『 母』 の系 譜―敗 戦 後 の 太宰 治 」 ( 『 太宰 治 の 世 界 』 ( 『 太宰治 と いう物語』 筑摩 書房 二〇〇一・三) 冬樹社 一九七七・五) 「 「 恋」とは存在の 衝 迫 で あり、それに忠実に生 き よ うとすると き 、それ を 拒 む 一切の既成 概 念 を 破 壊し て や まぬ「革命」となる。 」 三好行雄 ・ 梶 木 剛 ・ 東 郷克 美 ・ 渡部 芳紀 「共 同討 議 『 斜陽』 を めぐって 」( 『国 文学』 一 九七九 ・ 七) 梶木「女が よ い子を 生 む た めの革命という の は、 大変な価値転倒になるわけ で 、 もし こ の 点 が 見 落とされると「斜陽」の評価 は 大いにまちまちになっ て く ると思うん で す。 」 東郷「 本 質的に母の や さしさという のはいわば道徳を 超 え て い るわけ で しょう 。 すべ てを 受け入 れるというか、すべ て を 許 容するという意味 で 、 母性は 本 来 的 に 不 良、あるいは 道徳を 超 え た 存在 であ る わ け で す ね 。 」 渡部 芳紀 「 『 斜陽』 試 論 」( 『 近代小 説 の読み 方 2』 ( 『 太宰 治 心の 王者』 洋々社 一九八四 ・ 五 ) 有斐閣 一九七九・九) 「 こ の作品には二 つの主題があると考えら れ る。一つ は、作品 の縦軸、プロットの 展 開の上 に 主 とし て 託 さ れ て い る。主人公かず子の 変貌を 通 し て 、 〈 恋と革命〉のために 、 力強く生 き て い く 積 極的主題 で あ る。他 の 一つ は、作品 の横軸、主人公かず子、 そ の弟直治、姉弟の母親、かず子の 恋 人上原の四人の人物に四様に 託された主題 で ある。 」 「そのうち、かず子が、 第 一 の 主題に深くかか わっ て 異 質だとすれば、 他 の三 人 を 中心とした こ の第二 の 主題は、 『斜陽』 という題目とも通じ、 〈滅 びの 宴〉 (奥野 ) であり〈没落へ の 挽歌〉 ( 鳥 居 邦明 「斜陽 」 、東郷克美 ・ 渡部芳紀編 『 作品論太宰 治』 )ともいえる主題 で あ る。 須田 喜 代 次「 『斜陽 』 論ノート― 朝 を迎 えるかず子 を 中心 に」 ( 『 近 代 文 学 論11』一九七九 ・ 一 一) 「作品の叙述 を追う限り、二章 を書くかず子の執筆時間は、三 、 四章と同じく昭和二十一年の 夏 という こ とになるはずなのだ。 」 「 作中のかず子は、二章か ら 三章へと同じ視点に立っ て 語っ て い る こ と になるわけなの で あ る。 」 「 第一章末尾の一文は、 かず子の 行動宣言と で もいうべ きもの」 「 「 女 が よ い子を生む 」 こ と 、 「 こ ひ しいひと の子を 生 み、育て る 事 」というも の こ そ 、ま さに自然 の情 以外の何もの で もないはずだ。それは倫理以前の も の で あ る。そし て 、 倫理 を 越 え た も の で あ る 。 いわば 正 しい情と で も 言うべき も の だ。 一九八〇年代 江種満 子 「 『 斜陽』 の 女性 ―かず子を 中 心に ―」 ( 『 解釈と鑑 賞』 一九八一・一〇) 「 「 斜陽」 は 五章 でひとまずワンサイクルめ ぐり終える。母とかず子の 裏切りの ド ラ マ と し て 。 つぎに新しく、かず子と上原夫人のドラ マが展開するはず で あ る。上原 を め ぐる愛 人 と妻、かず子 と上原夫人 と が対位されつつ 、 上原夫人の聖母子化 を 完了した うえで 、 かず子の聖母子化が試み ら れる。 」 「 「 私は、勝 ったと思っ て ゐます。/マ リヤが、 たと ひ 夫 の子 で は ない子 を 生ん で も 、 マ リ ヤに輝く誇 り があ った ら、そ れ は聖母子 になるの で ござ いま す。 」 ( 八 ) か ず子の こ の 断 言 は、上 原

(16)

16 夫人の聖母子化 を 介さない では生れ てこない。いわ ば 上原夫人の聖母子像 を 描く こ と によ っ て はじ め て 、かず子の裏切りが 、 裏切りなど と いうひけ目っぽい陰気さから 解 き 放 たれ、 「 ピエタの マリ ヤ 」 となった母のゆるし を 第一階梯とする聖化の道 を さ らに昇りつめ、自らが輝く許し を 胸に抱 い た聖母子た ら んと欲するにいたるの で あ る。 」 社本武「 『斜陽 』 と『斜陽日記』― 私小説の 変貌―」 ( 『 信州白樺』 一九八二・一〇) 「かず子に視点 を お き 、かず子によ っ て 認 識 された 〈 自立の 世界〉 とし て 読 むべ きです。 」 瀬戸 内晴美・前田愛「 『斜陽』と太宰治」 ( 月刊カドカワ 一九八三・九) 瀬戸 内「文体も三 つか四つ、だんだん移って いき ますね。太宰 の得 意とする 文体を 全 部集 め て い る。 そういうと こ ろがおもしろい。 」 「 太宰 の中には。日本の文学 の伝統 の 一 つ の「かるみ」とい う もの をち ゃん と紹介 し た 人 でした ね 。 」 大森郁之 助「 『斜陽 』 結尾の 混 乱― 直治の恋人 の 設定 を め ぐ っ て ― 」 ( 『 札 幌大学女子短 期大学部紀 要』一九八七・二) 「ただ上原の妻に抱かせるだけなら、 「 捨 て ら れ 、忘れかけら れ(上原に)た女の唯一の 幽か な いやがら せ」とし て 、 単純だが判りやすか ろ う。 」 「 だが、直治の子と称すれば上原自身は 妻 の面 前 で 免 責 さ れ た こ と にな り 、 通常 の単純ないやがら せとし て は 無 意味な細工という 以 上に 意味 の滅殺 であ る 。 」 千葉宣一「 『 斜陽』試論 ― 『斜陽日記』 の剽窃 を めぐる問題」 ( 『 解釈と鑑賞』一九八八・六) 「 「 斜陽」の独創的価 値の 構造や そ の意義 を 解明 するため には、何よりも先ず、基礎作業とし て、 「斜陽」と太田静子の「斜陽日記」との貸借関係の分 析が必 要 で あ る。 」 「 創作動機 を 始 め、主題の 発展、構想の 展開、ヒー ロ ーやヒロイ ン の コ ア・ パーソナリ テ ィーや運命の 設定 を め ぐっ て 、 「 斜 陽 日 記」 は 、 いかなる位 置 を占め 、 どのよ う な役割 を 果た した の で あ ろ うか ?」 「〝 斜陽 〟 は 単な る落日 の 意 で はなく、新し き も のに圧倒され て 、 古 き も の が没落し て い く意 で あ る。 」 一九九〇年代以降 高田 知波「 『 斜陽 』論」 ( 『 国 文 学 』 一九九一・四) 「 『 斜 陽 』 の 特 色 は 、 こ の 《 出 来 事 》 の 時 間 と か ず子の《語り》の時間とが、単純な進 行形 でも なけれ ば 単純な回想 で もないダイ アレスティッ クな関係 を 形 成し て い ると ころにある。 」 「 「道徳革 命」の実体はほとんど問題 で はなく、かず子が自己表現とし て の 「革命」という言葉 を 手 に 入れた という点にこ そ、 意味 の中心がある の で ある。 」 「かず子が本当に求め て い たも のは生身 の上原 で も 「赤ちゃ ん」 で も なく、 「 革命」実践者とし て 自 己表現する た めの根拠に ほ かなら な かったと い う 作品 の仕掛け で あ る。 」 島村 輝 「《 書く こ と 》への意志」 ( 『 太宰治』 洋々社 一九九二・六) 「 こ のテクストは、 「 書く」行為の痕跡 を何重にも 写 し取り、組み 換 え るこ とに よっ て 成 り 立 っ てい る と も い えるの で あ る 。 」 榊原理 智 「語る行為の 小説」 ( 『 日 本文 学』 一九九七・三) 「語り手 とし て の かず子と語 ら れ て いる対象 とし て の かず子にまず二分する ことにしよ う 。 こ れ は 一 人称 の 回 想 的 手記 の最も 単 純 化 され た構 造 モ デ ル で あ る 。 こ の 場合 、 語 り 手 は い くら か の 時間 を経 て 過 去 の 自分を対象化し て 語 っ て いるの で あるから、語り手が現在、対象が過去という こ と に

(17)

17 なる。 」 「しかし、 『 斜陽』は単純 な回想的手 記 の形 をとっ て いない。おお まかに言っ て 章 ご とに語 り手の時間位置 が 異なるの で あ る。 」 相馬正 一 「 『 斜陽日記』のオリジナリティー」 ( 『国文学』一九九九・六) 「作中に描かれ て いる一 人 称 の 〈 静 子〉は現実の太 田 静子 で は なく、作者に よっ て 虚 構化された 理想の姿 で あ る。 」「 「斜陽」 全八章のうち、 純 粋に オリジナルな箇所は七章の全文と三章の中の 〈 直 治〉の「夕顔日誌」だけという こ と になる。 」 中村三春「斜陽の デカダンス と 〝 革 命〟」 ( 『国文学』一九九九・六 ) 「 か ず 子 の 手記 な る も の は 、 い か に 手 記 の よう に 見 え た と し て も 手記で は な く 、 手 記 形 式 の 物語 部分に過 ぎない。 」 「 虚構 の貴族 の 代表とし て の 母の死が、こ の コ ミュ ニティの喪失を 表 し て いる。 あるコ ミ ュニティ を 否 定し、別の コ ミュニティ を 打ち立 て る こ とが、すなわち「革命」だからであ る。 」 安藤宏 「文献学の中の 太 宰治」 ( 『国文学』一九九九・六) 「 〈 恋と革命〉 と いう言葉 は当初か ら 必 ずしもキーワードとし て 用 意され て いた わけ ではな く 、 むし ろ原 稿 を 推敲し 、 言葉 を反芻 す るう ちに、次第 に 煮詰め ら れ 、 醸成さ れ ていった 語 で あ る 事 情 をうか が い知る こ とが できるだ ろう。 」 安藤宏 「太宰治における 〝滅びの力学〟」 ( 『 解釈と鑑賞』二〇〇一・四) 「 『 斜陽 』の 語り は全 てが 終 わ った 時 点 か ら の 統 一的 な回 想 で はなく 、 事 件 の 進 行と 共に 経 緯 を 語っ て い く現在進行 形 の形がとら れ て い る。 従っ て 読 み 手 は結果論 的なかず子の自己分析 で は なく、 彼女の認 識が変容し て いく過程その もの を追いかけ て いく こ と が で きるわけ で あ る。 」 山崎正純「 『 斜陽』 」 ( 『 国文学』二〇〇二・一二) 「 「 上原」の妻の絵画のようなカットの中に、 「 直治 」 ( 実 は 「 か ず 子 」 ) の 私 生 児 を 描 き 加 え る こ とに よって、 近代が 近 代 の 自 意 識に よって 緊 縛 さ れる 以前 のヒ ュー マニズ ム の完 成を 願っ たからで ある。 」

(18)

18 第三 章 作品 の周 縁と 主題とし て の 「 滅 び」 第一節 作品 の同時代につい て 時代 状 況 と 同 時代に つ いて の言 説 『斜陽』は、一九四七(昭和二二)年に刊行 され 、初版一万部、再版五千部、三版五千部、四版 一 万部と増刷され三万部という人気 を 得、 太宰は流行作家となった。 『斜陽』 が戦後という苦境の状況 に もかか わ らず、多くの人 に 受 け 入れた 。 かず 子 た ちが、 「 東京 の 西 片町 のお 家 を 捨て 、伊豆 の こ の 、ちょっと 支 那ふう の 山 荘 に 引 越して 来 たの は、日本が無条件降伏したとしの、一二月の はじめ」 で あ る。そし て 、 かず子が上原に送った 最 後の手紙の 日 付は「昭和二十二年二月七日」 である。 『斜陽』はかず子た ち の 一 九四五(昭和二〇)年一二月か ら四七年二月ま で の出来事 を 軸にし て 描 かれ て い る。 『斜陽』に描かれる時代と『斜陽』の読者が経験した時代は重なっ て いる。 『 斜陽』の 時 代と読者 の時代は 同時代 で 言っ て よ いだろう。 『 斜陽 』 に おける時 代は作品と読者の双方に関わっ てい る。 戦後という時代は 『 斜陽 』 の それぞれの人物のもつ思想や 思 考 に 関わっ て いる。ま た、 『斜陽』を 受け 入れ た当 時の読者と の 関わ りもある。 まず は、 『斜陽 』 をとり ま い て いる戦後という時 代状況 と 言説 をみ てい き た い。 人々は、 「玉音放送」 で 終 戦 を 知り、どのよ うに終戦 を 受 け入れた で あ ろうか。 歴史学 研 究会 『日 本 同 時代史1 敗戦と占領』 (青木書店 一九九〇年九月一日発行) 日本人 で 敗戦 を喜ぶこ とが でき たの は、マルクス 主義や自由 主 義の思想をもっ た 年長の世代 の 人 た ち で あ る。彼らはなん ら かの程度 で 世界的な視野 を もっ て お り、敗戦とともに主体的な行動 を 開始 でき た わ け で はないが、ともかく戦後ま で 生 き 延 び え た こ とを喜んだの で あ った 。 敗戦にもっとも大 きな衝撃を 受 けたの は 、戦時下の社会しか知らず、皇国臣民教育を叩 き こ ま れ た 青 少年た ち であった 。彼 らにとっ て日本の 降伏 はその 想 像 を 越 え た事態 で あった 。 しか も敗 戦 後の 大人 や教師た ち の 、 こ れま で と 打っ て か わった 発 言や行動は、彼ら の不 信感 を さ そ う もの で あっ た。 こ れ によ ると、 年 長の 世代は敗戦 を 喜 ぶ ことが で き た 。 そ れ は 、 世界的 な視野 を もっ て い たため に 、 個 人の人間性を大 事とする 思想があっ たの で は ないかとし て いる。一 方、青少年 た ちにとっ て は 、戦 時下 の社会しか知ら な かっ たために、衝撃が大き かっ た。他 の 社会 の姿を 想 像するこ とが難かっ た 。 さ ら に、敗戦後に大人 や教師の 発言や行動が変わった こ と は、身近な人 に対する不 信 感となり、人 間 不信をも感じた こ と で あろう。敗戦の受け止め方が世代という面だけ で も 違 っ て いる。 終戦後、 GH Qマッカーサー総司令官 は 、「 民主化に関する五大改革、 すなわち婦人の解放 、 労働 組 合の 結成の 奨 励 、 学校教 育 の 自 由主 義化 、秘密審 問司 法制度の 撤廃、経済制度の民主主義化の必 要 を 指摘 」 一一 する。 こ のような民主化政策のなか で 、「経済制 度の民主主義化」 は財閥解体や独占 禁止法、 農地改革と 進 んだ。 GH Q主導により新しい制度づくりが行なわれ て いく こ と になるのだが、人々にとっ て は終戦か ら 一一 中村隆英『昭和史Ⅱ 』 (東 洋経済新報社 一九九三年四月三十日発行)

Updating...

参照

関連した話題 :