• 検索結果がありません。

佛教大学総合研究所紀要 15号(20090325) 093小野尚香「資料・抄訳 : 日本において,キリスト教への信仰をはばむ仏教の宗教的な影響力」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "佛教大学総合研究所紀要 15号(20090325) 093小野尚香「資料・抄訳 : 日本において,キリスト教への信仰をはばむ仏教の宗教的な影響力」"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

〈資料・抄訳〉

日本において,キリスト教への信仰をはばむ

仏教の宗教的な影響力

百1eReligious Influence of Buddhism as an Obstacle to the Reception of the Gospel in Japan

-1883 (明治16)年大阪宣教師会議議事銭 Proceedingsof the Osaka Conferenceから

小 野 尚 香

資料の概要 1883 (明治16)年 4月16日から21日にかけて,大肢の外国入居留地で宣教師会議が 関かれた。本稿で取り上げた抄訳「日本において,キリスト教への信仰をはばむ仏教 の宗教的な影響力百1巴ReligiousInfluence of Buddhism as an Obstacle to th巴R巴ceptionof the Gosp巴lin JapanJ は,その宣教師会議の議事録 Proceedingsof the Osaka Conference 1)に4

17日(火曜日)の日付で記載されているO このタイトルの中心的演者は, キリスト教徒であり監師のゴードン Dr.M. L.Gordonであった。 大限宣教師会議には,欧米諮問から来日し日本各地でキリスト教信道,教育,福 祉,医療・看護などの活動に従事するキリスト教宣教師が集まっていた。かれらの活 動には,近代的な知識や技術を用いるという方法において,明治期日本政府が指向し ていた近代化政策の一翼を担うという側面があった。 たとえば,医療・看護活動は,キリスト教精神に基づいた博愛主義的な性質をもち ながらな近代化政策という視点からみると,近代医学に基づく医学教育と医療を提 供することによって,近代医療純度の担い手を養成し近代底療が伝播することに寄 与した。この会議議事録には,底療・看護活動について論じた「医療伝道 Medical Mission」という項目がある。ドイツ医学を修得した東京大学医学部卒業生を頂点に おく医療・医学の制度化が図られる時期,おもにアメリカ匿学ではあるが,同様に近 代医学に基づく医師として, 日本でどのような医療アイデンティティをもち,どのよ 1) 上智大学図書館所蔵。

(2)

94 f兆数大学総合研究所紀要 耳H5号 うな方法で、医療活動を行っていくのかについての議論がなされている2。) 資料翻訳の自的 明治期の京都における医療・看護活動において,仏教とキリスト教は双方に影響を 与え合っている。医療・看護のあり方や意味においては 類似した点が少なくない。 たとえば,監療・審議の行為や癒しの原点を宗教的教理においている。この点につい ては,加稿で論じたい。

f

日本において,キリスト教への信仰をはばむ仏教の宗教的な影響力jについて, はじめにプレゼンテーションを行なったゴードンは医師であり,阿弥陀信仰について 深い関心を寄せていた。この会議の参加者の一人である陵師ベリ−

(

J

.

C. Berry)は, この3年後の1886(明治19)年に近代涯学・看護に基づいた京都看病婦学校/同志社病 院を開く。ペリーが主導した看護活動は,京都の仏教界に大きな影響を与えていくこ とになる。看護は仏教活動の要素として再確認され,看護教育と者護活動を自的とし て, 1893(明治26)年に京葉看病婦学校, 1898(明治31)年に本願寺看護婦養成所, 1906 (大正

5

)年に華頂看護婦学校が関かれる3。) キリスト教精神に基づく看護活動に影響された仏教界。しかしキリスト教宣教締 もまた,仏教を日本唯一の宗教としてとらえ,仏教を意識していた。かれらの近代医 療・看護が日本の人びとに受け入れられるために「日本化j していくが,そのことと も関わっているのではないかという仮説のもとに,それを解明する一つの系譜として 日本仏教について論じたこの資料を取り上げた。 (抄訳)

f

日本において,キリスト教への信仰をはばむ仏教の宗教的な影響力

J

日本におけるキリスト教伝道に関する会議の第一日目に,伝道活動をさまたげる障 2) 詳細については,小野尚香「<研究ノート> 来日医療笈教師と明治前期の日本の医療 -1883 (明治16)年大阪笈教師会議議事録から−

J

.

r1'11l教大学総合研究所紀要j 第12号 2005年3Ji25日)。 3) 小野治香「近代日本における仏教看護活動 仏教系看護婦養成施設にみる特徴(その i >

J

r

l

;教大学総合研究所紀要j 第8号(pp.217明229),間98年 3月,

f

近代日本における看 護のかたちと看護の意味

JU

I

;教大学総合研究所紀姿

J

]]日

m

tc

r

現代援療の諸問題

J

)

(pp.17同49). 2003年3月を参照されたい。

(3)

日本において、キリスト教への信仰をはばむ仏教の宗教的な彩響力 95 害について論ずることは非常に妥当なことである。そして,さまざまな障害のなかで な 仏教を最初に取り上げることは,当然であり適切で、ある。 この会議のプログラムにおいて,キリスト教以外に,宗教として認識されているの が仏教だけであることは,注目すべき事実である。 神道についてはまったく触れられておらず,儒教については,ほかにも論点がある とはいえ,おもに中国の文献的研究のーっとして議論されることになるだろう。この ような扱いは的を射たものである。なぜならば, 日本国有のキ!jl々への敬意が日本の由 民精神をはぐくんできたことと,どれほど深く関わっていようとも,また,臼本の学 者が,これまでも,そして現在においても,どれほど儒教の害:物に対して敬服してい ようとも,日本人の精神におよぼした宗教的影響についていえば,神道も嬬教も仏教 の千分のーにもならないということを断言して間違いないからである。たとえ,神道 ならびに儒教の体系は宗教と呼称できない,というほどの極端な立場を取らないとし ても。神道や{語教の宗教的脆弱さは,ほとんど敵がなく,ただ一つの戦争をも引き起 こさず,殉教者を一人も出していないという事実に,十分示されるものでもある。 それに対して仏教には,頻繁に,断聞とした敵対の動きが生まれ,少なくとも一度 ならず流蹴の紛争をもたらすような要素があり,そして死の恐れをもってしでも止め ることのできない献身をふるいおこしてきた。 その理由を探求することは,さほど難しくはない。仏教は宗教であり,宗教である がゆえに,人を人たらしめている性質がもっ,もっとも強く,もっとも本能的な欲求 の多くに対する答をもっている。人は本質的に宗教的な存在,あるいは宗教的な動物 といっても過言ではなく,渡り鳥が冬の訪れとともに南へ飛んで、いくのと同じほど本 能的に,生活上の試練や失望に襲われると,うつむかずに前を向いて進むからである。 仏教は何かを崇拝したいという日本人の本能を満たしたが,このようなことは,仏 教以前には一度もなかったことだ、った。仏教は日本人に単なる情念や感覚の満足よ りも崇高で、より養なる何かを教えた。仏教は,現世での生活を悩ませる多くの不可解 な事柄についての説明を与えた。とりわけ仏教は,肉体が滅んだあとの来世と,そこ では,善悪の業に応じて来報が生じるということを教えた。 思知されているように,仏教は,西暦

6

世紀中葉,朝鮮半島を経て日本に伝来した。 最初は,朝鮮半島の支配者から何代かの天皇に贈られた書物や偶像などのかたちで怯 えられた。初めのころ,仏教は一挙に広がったたわけではなかった。聖徳太子ら 家の人びとは熱心に仏教を支持し僧侶や尼僧になることは当時流行したが,一般の 人たちがそれに追従したわけで、はなかった。仏教伝来から 75年後,この日本の留には

(4)

96 偽教大学総合研究所紀要第15号 46の寺院しかなかった。それに対して,先に述べたような理由で,僧イ日や尼僧の数は 比較にならないほど多く,僧侶は816人,尼僧は569人を数えた。それから100年後,仏, 法,

f

留に従う者(三帰依者)と自称した聖武天皐は,国ごとに二つの寺院を建立する よう命じた。また聖武天皇の治世には 高名な僧と知られる行基があらわれ,日本の 神々はさまざまな諸仏や菩薩が姿かたちをかえて顕れたものにすぎないという教理を, はじめて公に唱道した。その後,この教環は弘法大師によって大いに広められた。こ のようにして,偶像崇拝とそれに伴うあらゆる悲しき習慣は日本に根づき,仏教信仰 はしだいに下級階層へと{云わっていった。仏教はこのようにして伝播しその

4

S

世紀後,迷妄的な臼蓮宗と,親鷲が創始した易行道と厳格でない道徳をもっ宗派によ ってさらに広められた。その結果,これまで何世紀もかけて,日本のすべての社会的 階層はこの宗教の深い影響を受け,心を動かされてきたのである。 以上述べたことは事実であるが,すべての日本人が仏教徒であるとすることは,大 きな誤解であるということはいうまでもない。なぜなら,第一に,知識階層に属する 人たちのなかには,仏教に共感していないだけではなく,仏教と仏教的なあらゆるも のにはげしい嫌悪感をもっている人もいるからである。さらに,自分は仏教徒である と公言している日本人についても,「多少とも仏教の教えの影響を受け,ときには仏 教寺院に献花する5信人のうち一人として,仏教徒以外の何者でもないと断言するよ うな入はいなしミ」というリス・デヴイズ陪iysDavidsの概説があてはまるからである。 (途中略) 日本において,仏教の宗教的影響を,キリスト教への信仰をはばむものとして考え るにあたって,私たちはまず,日本における仏教とは何であるかを知る必要がある。 これに関して,私たちはかなり無知であることを白状せざるをえない。日本の仏教に ついては,ほかの国における仏教のように,注意深く研究されていない。ここには, まだほとんど手のつけられていないかなりの研究領域があり,それは研究者にとって 魅力的であり,宣教師にとっても重要なものであるO しかし日本仏教の詳細について十分な知識を有していないということを認める 方,私たちがよく知っていて,重要であり,忘れではならない一般的にみられる特撮 がいくつかある。たとえば,私たちの閤りで慣わしとして行なわれている仏教は,ゴ ータマ(釈尊)が教えた仏教とは巽なることを忘れてはいけない。それゆえに現代の パーリ語の学者による初期仏教の文献の賞賛に値する欝訳は,私たちにとっては,ご くわずかな,しかも間接的な価値しかない。しかし それら仏教文献において描かれ た仏教が,スペンス・ハーデイー Sp巴neeHardyの「マニュアル ManualJ の原本が書

(5)

日本において、キリスト教への緩仰をはばむ仏数の宗教的な影響力 97 かれた

5

6

世紀前にセイロンで普及していた仏教とすら異なっているのであれば, 現在の日本の仏教とのあいだには,さらに大きな隔たりがあることを当然予想できる はずである。 加えて,日本の仏教はいわゆる「大乗仏教 GreatVehicle」に属しセイロン,ビル マ(ミヤンマーの

i

日名,訳者注),シャム(タイの旧名,訳者注)の仏教よりも,韓 国,中国,モンゴル,チベットの仏教とより近い関係にあることを覚えておかなけれ ばならない。ゴータマ(釈尊)が教えた仏教や,セイロン,ビ、ルマ,シャムという南 の国々の僧侶や教蹄が信仰している仏教は,人が崇拝の対象をもつことを禁止した。 もっとも,南の国々においでさえ,そのような教理は一般民衆に広く受け入れられる ことはなかったのではないかと私は考えているが。仏教は至高の支配者たる存在を認 めなかった。ゴータマ(釈尊)の教えでは,善き友とはネ

l

l

!々よりも優れており,自分 こそが自分の拠りどころであり,自らの過去の経験以外の導きも受けることができな い。ゴータマ(釈尊)は,人の魂の存在も,死後の存在も否定した。ただし人が死 に至るとき,業報 theLaw of Karma (由来の法)によって,その人の善悪のどちらか への勢いが新しい命の存在に引き継がれ,その新しい命はまったく異なる意識をもっ という。 ところが,私たちのBの前にある仏教はそうではない。小乗仏教 theLittle Vehicle の経典が日本で知られていないわけではなく,その仏教教理の思想性や戒律が仏教の シ ス テ ム 修業体系の基礎を形成しているという認識はあるが,それらは非常に下位の位置を占 めるに過ぎず,あとで、広がってきた大乗仏教が,はるかにより重要とみなされている。 日本の仏教のすべての宗派は大乗仏教に属するものであり,先にあげた教理を重んじ て,ゴータマ(釈尊)に従う者は実際にはわずかである。逆に日本では,崇拝の対象 と認められた多くのものを見かけ,なかには神の特性を身にまとっているものもある。 人間の罪と意識の脆弱さも認識されており,「他者による救済jはもっとも流布した ヘ ブ ン 教理である。その一方で、,人の不死への切望は,感性に訴えるある種の様楽における 来世の存在という約束によって満たされる。大乗仏教では,魂の本能が再びきわだ、っ て見え,神の啓示による言葉の真理が欠如するなかで,抑制を受けない想像力による 空鹿なっくりごとによって,人びとの切望が満足させられた。つまり,初期のころの 仏教の哲学,倫理,宗教の多くと並んで、,これら新仏教の教理がより顕著に教えられ 一般に信じられているO 新仏教の教えは,真実の否定というよりも鴎解であり,それ ゆえにより危険である。これらの教理のうちもっとも重要な部分は,聖書の

3

つの偉 大な教理である祢 God,罪 Sin,救い Salvationと多かれ少なかれ宮、接に関係している。

(6)

98 偽 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 第15号 そのために日本の仏教徒がキリスト教の福音を受け入れるにあたって,もっとも大 きな隊筈となっているように思われる。 この

3

つの教理について,ネ

p

l

,罪,救いの}I僚に,簡単にまとめてみよう。 1.私たちがまず気づくことは,仏教徒を,神に対する適切な概念に導くことのむ ずかしさである。仏教には,創造という概念はなかった,ゆえに創造がなければ創造 者もいないということを理由に,聖書の最初の節から否定する。すべてのものの救い 主としての神,という教理も同じように扱われる。もし私たちがエホバを宇宙の支配 者と賛美するならば,シャカはそのような三千もの宇宙に教えを説き慈悲を向けてお り,また,ほかの諸仏も同じような支配を行っていると言い返されるであろう。私た ちが,や

p

は永遠で遍在するといえば,すべての精神は永遠で、自律的存在であるといわ れるだろう。そして,すべての人の宿命は業報th巴Lawof Karma (因果の法)により 変えられることなく定められているため,争中は人類すべての審判者で、はありえない, と。 キリスト教の神は大自在天Daijizaitenであり,神宮身もまたシャカムニの支寵と教 えのもとにあるという仏教徒もいる。日本でもっとも力をもっている真宗は,阿弥陀 仏がすべての神々やほかの諸仏に超越しており,阿弥陀イムは無限の光,命,そして慈 悲をもっとしている。 現時点で,私たちが遭遇する樟害は決してこれだけではない。しかし今回取り上 げた例は,仏教徒の聴衆にキリスト教の福音を述べ伝える捺に,とくに,仏教徒から キリスト教徒に改宗した者が受容しなければならない神の本質や属性について徹底し て教える捺に,できうる眠りの注意を必要とすることを示すには十分であろう。

2

.

仏教は,善に報い悪を罰するための宇宙の最高で聡明な支配者や審判者を認め ないため,当然の事ながら,仏教徒は罪に践して非常に不適当な考えしかもっていな

このことに関連して,私たちは,業報theLaw of Karmaが一般の人びとの日常にお ける人生観の基礎を形づくっているという事実に気づくかもしれない。悪しき者は幸 運であって,正しい者は不運なのだろうか。前世における行ないが容易にこれを説明 してくれる。現澄において徳の高い人は来世のために善行を重ね,不道徳な者は悪し き事を重ねている。そこには律法を与える人も審判者もいない。罪もその結果も自ら が作り出したものであり,開様に,自分自身の行ないによって消失させることができ

(7)

日本において、キリスト教への信仰をはばむ仏教の宗教的な彩響力 99 る。このようにして,罪は上手に個人的な事柄となり,その概念は,古代のユダヤ人が 考えていたような原罪という恐るべき事柄から ほとんど無限に遠いものとなってい る。 このような表面的な罪の概念を作り出す傾向が大変強いものとして,仏教の観念論 にも言及しておこう。日本の仏教徒は,精神が唯一の実体であり,ほかのすべての事 柄は思考が形作ったものに過ぎないという。その意味で, 日本の仏教徒は,「思考と 実在は開ーである j,「私が宇宙を把握する限りにおいてのみ,宇宙は私にとって存在 する j と述べたへーゲル派の人たちと悶じである。主として,この観念論のために, そして,専門用語の多くが教師でさえ理解できない言語のものであるために,仏教哲 学はかくも組織的な酉で弱さがあり, i暖味な点があり,矛盾を内在した塊となってい る。 洞察力のある評論家の一人が,かつて,「エマーソン R.W.Emersonの逆説は,ひそ む霊的力をもつがゆえに,不条理なものをみないですんで、いることがよくある jと述 べたことがある。この見解は仏教にもあてはまる。神秘の魅力により,仏教徒の心は, 論理的な矛盾に正面から向き合いながらも,それを認識せずにいることができるので ある。たとえば,ニルヴァーナ(湿繋)は,存在でも非存在でもない。阿弥陀は「諮 仏の頭」であり,

f

あらゆる千111々や諸仏よりも箆れている

J

が,それにもかかわらず, 仏教の原理ではすべての諸仏はまったく同ーの特徴と力をもっているとされる。酋方 浄土というところがあるというかと思えば,まったく悶等に自明のこととして,それ を否定する。感覚によってとらえることのできる宇宙に満足できず,実際には,ほと んど無限の数の世界があって,それぞれに多くの賠層に属する存在があるという。そ れでも,結局のところ,奥義を伝えられた者にとっては,それらの無数の世界も,私 たちが日で見て足で踏みしめているこの世界も,過去・現在・未来も,すべての喜び と悲しみも,すべての罪と正しさも,心的過程や心的操作によって,はかない形をと ったものに過ぎないという。 このような観念論がいかに分別を失わせる働きをもっているかについて,過大に評 価することは不愉快である。その悪影響のため,僧侶は,自分たちが教える教理とは まったく呉なった考え方を人びとがもっていても,それを許すことを簡単に正当化し てしまう。僧侶には偶像崇拝を各めるが,人び、との偶像崇拝を許している。かれらは 商方浄土を自的としての存在であると思っていないが,何千もの人びとに,西方浄土 をほかの何より望んで生き,そして死んでいくように働きかけている。僧侶は不正を 行う人たちには,無限地獄で数え切れない種類と程度の罰があると脅かすが,同時に,

(8)

100 f!r,教 大 学 総 合 研 究 所 紀 姿 第15号 人の心が唯一の地獄であると心に感じている。 このことから起こる必然的な結果は徹底的な懐疑主義と罪に対する無頓若であり, この二つは今日の日本の僧侶のもつ, もっとも際立った特鍛である。また,「無学の 在家信者」が僧侶よりも深い信仰心をもっていたとしても,その行動にはたいして違 いがあるように思えない。 3.次に,救済の教理について。初期仏教では自らの修行以外による救済はない。 日本の多くの宗派においては,「他力本願

J

が,これを補うものとなった。この救済 は,ある特定の諸仏や菩露,とくに向弥陀仏への信仰を通して得ることができる。阿 弥陀仏は五劫の跨,いかにして人々を救済すべきか沈思し続いて,実際に計りきれ ない時間を善行にささげ,その結果,非常に多くの功徳、を積み重ねた。そのため,も っともいやしむべき人間の弊も,阿弥陀イムの功認の前では,大海の一滴にすぎないほ どであった。それゆえに,阿弥陀の名前を一度唱えるだけで,信者の罪はこの功徳と いう大海に呑み込まれる。こうして,人間の行為そのものは比較的重要で、はなくなる のである。それゆえに,真宗においてもっとも重要な書物の一つである内部文」の腎 頭部分には,「信心するものの目的は,よこしまな心の浄化でも,悲しき考えの抑制 でもなく,阿弥陀仏の助けによって西方浄土に生まれ変わるためのみである」と書か れている。容易に理解されるように,これは弊からの救いというよりもむしろ,現世 の苦難からの救済である。マックス・ミューラー MaxMullerが「愚かで、悪戯なj と た開弥陀仏の教還がこれである。(途中略) それゆえに聖書が教える無償の救いを説いていく場合,私たちは非常に注意しなけ ればならない。とりわけ,私たちのことを道に反する推進者として,いま述べたよう な有用でない教えを説く人びとと問じに分類してしまっている日本人もいるのだから。 十字架に架けられたイエス・キリストへの信仰を通して与えられる神の無償’の愛は, 新約聖書において,罪に対する律法を無効にしないというだけではなく,その法をさ らに篠由としたものにするように教えていることを,私たちは信じている。そして, そのような教えが,もっとも高謹な精神ともっとも獄身的な泰仕を生み出してきたこ とを示す, 18世紀にわたる証言を得ている。心構えや不注意によって,また私たちの 伝道や私たち自身によって,罪という非常な邪悪さについての聖書の教えが,日本の クリスチャンの問で軽視されることのないよう注意しよう。 仏教徒が,キリストによる福音を受け入れる際の

3

つの大きな教理の上での関難さ

(9)

日本において、キリスト教への銭仰をはばむ仏数の宗教的な影響力 101 について述べたが,そのほかのいくつかの点にも簡単に言及しておこう。これらは, それほど毘を引くものではないが,仏教を嫌悪している人たちが,もちろん少し違っ た受け止め方ではあれ,仏教徒と同じように感じているという点で重要である。 まず,現世に対する仏教徒の教理についてである。これは悪しきものであり,それ ハッピー 以外何もない。現監は「裟婆世界j と呼ばれ,極楽への救出が来るまでの

f

耐えなけ ればならない世界j とされる。それゆえに,現世と関わることがもっとも少ない人が, もっとも高嚢な人たちなのである。これは,現世を,祢と同胞のために善なる戦いを 進める場とみなすキリスト教の考え方とは根本的に違っている。教養のある日本人は 仏教のこの教理をひどく嫌っており,キリスト教の教えのなかでも,少しでもこのよ うな匂いがするものがあれば批判するであろう。スコラ哲学の神学理論は,この点に おいて批判の余地があったことを私たちは知っている。また,迫害や世俗的な問主

t

I

さ にみまわれたときの深い信仰の自然な表現にすぎないにしても,キリスト教の賛美歌 のなかには,現世ーは無11首位で、あるという仏教の教えに愛想を尽かしている人ひ、とにと って,説明がなければ,かなり誤解を生じる可能性のある歌言葉もある。 また,奇跡についても注意して教える必要がある。仏教の奇跡はあまりにも多く語 られてきたため,僧侶自身が真に受けているのではないし反仏教の人びとは,奇跡 に関するあらゆることを信用しないという気持ちになっている。西洋諸国からもたら された科学的な懐疑主義も,このような考えをさらに強めている。 私は奇跡を信じており,キリスト教教理の重要な部分として教えるべきだと考えて いるが,同時に,奇跡の必然性を示すことで,デイピッド・ヒュームDavidHum巴は よい仕事をしたと疑わない。キリスト教の奇跡は,単に恵みの技であるだけでなく, また個人的な解釈に委ねられるものでもなく,神聖なメッセージの証しであることを. 私たちの話を開く人たちに対して,つねに明確にすべきことである。 奇跡と関連して,仏教によって非常に既められてきたもう一つのものとして,化身 の教理に普及しておきたい。仏教において化身はしばしば存在してきた。非常に多く のなかからー,二例をあげると,中国浄土教部始者である善導大師は悶弥陀仏の化身 であるといわれている。同じ宗派の日本の部始者である法然は勢至菩薩の化身とされ る。日本の神々や英雄がさまざまの諸仏の現れであるとする教理はすでに述べたとお りである。 先に述べた仏教における無数の浄土のためにこのテーマに関するキリスト教聖書 のわかりやすく単純な教えは受け入れられにくくなっている。新約聖書の教理が,天 の王国について,私たちが,今,現世で入ることのできるものとして説いていること

(10)

102 哲ll数大学総合研究所紀要第15号 は,この点でとくに感謝すべきことである。 ほかの点についても,このように列挙していきたいが,時閣が残り少なくなってき た。しかしながら,このテーマに関して,完全に通り過ぎてしまうことのできないも う一つの側面がある。日本人には,その必要を満たすのに十分な仏教という宗教があ るのだから,日本におけるキリスト教の伝道活動は無用であり,無用というよりも一 層悪いことという人たちがいる。これに対して私は,創造主なる神の宗教のみが被創 造物である人間にとって十分で、あると答えることはしない。なぜならば,このような 人たちは,この完全に正しい言葉の力を認めることはないだろうから。(以下,略) 釜....さき4 語、ら語翻 (途中略) デーニング Dening氏は,今年 2月にマックス・ミューラー MaxMuller教授を訪問 したとき,オックスフォードにおいて,教授のもとでサンスクリット語を学んで、いた 日本の僧侶たちの話を耳にした。ミューラー教授は,これらの僧侶が高い道徳性をも っていたと し仏教徒という名前以外は,すべての点においてキリスト教徒であ ったと語った。教授によると,この僧侶たちはサンスクリット語を勉強して,サンス クリット文書の中国語訳を改訂しそれによって,日本により純粋なかたちの仏教を 導入しようという希望を抱いていた。しかしこの翻訳に使われた古代の中国語と原 典のサンスクリット殺典を理解することが顕著!tであったために,作業の進行は遅々と していた。さらに,僧侶たちが臼本に廃ったとき,この僧侶たちをオックスフォード に派遣した人たちが改訂版の仏教経典を受け入れることを望んでいない,ということ がわかった。ミューラー教授は,より純粋なかたちの仏教を受け入れることで, 日本 人は最終的にキリスト教を受け入れるためのより臭い土壌づくりができるだろうと考 えていた。 ロング C.S.Long牧師は,キリスト教である私たちが仏教との閣に論争を引き起こ すという方針は,賢明なものではないと考えると述べた。(途中略) 現在, 臼本に存 在する仏教と絞って成功をおさめるには,仏教の歴史や文献について,宣教師の大半 が現在もっている知識や,時開的に手に入れることができる知識よりも,はるかに多 くの知識が必要となる。(途中路) メチャム Meacham氏は,(途中略)インドやセイロンにおける初期仏教に震って

(11)

日本において、キリスト教への信仰をはばむ仏教の宗教的な彩響力 103 それを研究し仏教がさまざまな曲折を経て,中国や朝鮮半島を経由して日本にたど り蓑き, 日本において,ほかのあらゆる諸国地域での仏教と非常に呉なったものとな った経緯を追跡するべきである,という意見をもっている。 キリスト教伝道の障害として仏教の力を考えるには,時代を逝って,その初期の力 が当時の支配的な宗教の聖職者階級の倣慢に対する抗議であったこと,また,武器と して刀ではなく説教を用いる攻撃的な宗教であったこと,それがどのような救済かは ともかくも,すべての人に対して救済を与えるという教理をもっていること,ほかの かたちの宗教を融合していく積極性をもつこと,などをみていく必要がある。 (以下,略) 謝辞:御指導御言

i

関をいただきました山極伸之先生に,心より感謝申し上げます。

参照

関連したドキュメント

残念ながら日本の教育現場には,改革の推進を

インドの宗教に関して、合理主義的・人間中心主義的宗教理解がどちらかと言えば中

女子の STEM 教育参加に否定的に影響し、女子は、継続して STEM

実習と共に教材教具論のような実践的分野の重要性は高い。教材開発という実践的な形で、教員養

信号を時々無視するとしている。宗教別では,仏教徒がたいてい信号を守 ると答える傾向にあった

レーネンは続ける。オランダにおける沢山の反対論はその宗教的確信に

● 生徒のキリスト教に関する理解の向上を目的とした活動を今年度も引き続き

● 生徒のキリスト教に関する理解の向上を目的とした活動を今年度も引き続き