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佛教大學大學院紀要 35号(20070301) L019西悠哉「綱島梁川の宗教観」

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綱島梁川の宗教観

西   悠 哉

綱島梁川(一八七三∼一九〇七)は、哲学や倫理学に関する多くの著作を残す一方 で、自らの宗教体験の告白「予が見神の実験」(明治三十八年)によって世間の注目を 集めた。日露戦争の只中、多くの青年が自己・世界の意義について懐疑し、煩悶が社 会現象になっていた。「見神」と呼ばれるこの体験において、「神は現前せり、予は神 に没入せり、而も予は尚ほ予として個人格を失はずして在り」(「予は見神の実験によ りて何を学びたる乎」)と述べられる事が注目される。このことは、本論文で示すよう に、宗教と倫理・社会の関わりという、より基本的な問題に梁川は身をもって答えて いるのである。本稿では、宗教と倫理をつなぐものとして、梁川の個我に注目し、宗 教と倫理を断つ時代風潮に抗して、それらを橋渡しする個である梁川の自我を探る。 キーワード 綱島梁川、個、倫理、宗教、煩悶 

国家政策としての近代化

慶應三年(一八六七年)、大政奉還により政権は江戸幕府から朝廷へと返され、翌年、元号は 明治と改められた。国内の多くの人々は、明治新政府の権威をみとめておらず、国外のアジア 諸国が次々と植民地化されていく中、明治政府は新たな権威付けを必要とした。明治政府が担 ぎ出したのが、天皇の存在だった。天皇を新たな権威として国家の中心に据えることで、国民 の精神的な帰属の統一をはかり、諸外国からの圧力に抗しようとした。 明治政府は明治十二年(一八七九年)、問題の多かった学制に代わって教育令を公布し、天皇 を国家の中心とする、より画一的な統制を強めた。明治二十二年(一八八九年)には帝国憲法 が制定され、これまで不安定だった天皇制国家の基礎が法的に確立した。これと平行して、思 想的に明治政府を支える形で、明治二十三年(一八九〇年)、「神聖ニテ不可侵ナル」明治天皇 の名のもと「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)が下される。 帝国憲法の制定と、教育勅語により、明治政府による国民教化の方向は明確に示された。同 時にそれは、近代的な学校教育制度により、新たなる国の津々浦々に浸透した。明治政府は、 一応は憲法の制定という近代国家の外見を装いながらも、基盤となる国民の教化は、天皇を中 〔抄 録〕

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心に据えた、封建的な内容を持つ教育勅語によって行われる、という矛盾に支えられることに なる。 明治の三〇年代はこの論文の主題との関連でも大切な時期である。この三〇年代は日本の近 代化に対して、多くの問題・矛盾が明るみに出た時代であった。この点を大変鋭く自覚してい た夏目漱石は、内発的である西洋の近代化に対し、日本の近代化が外発的で不自然なものであ ると指摘する。「自己本位の力を失った」まま進んだ近代化は国民にとって、どこかぎこちない、 圧迫感を与えるものだった。こうした開化の影響を受ける国民が「どこかに空虚の感」をもち、 「またどこかに不満と不安の念」を懐くのは当然であった(1) 人々は、国家への帰属が必ずしも個人の幸福につながらない事を感じ始めていた。しかし天 皇の権威のもと、国家の問題を問うことは禁忌とされ、個人は国家から遠ざかっていった。特 に近代教育制度の確立によって登場する青年にとって、この問題は切実なものとして感じられ る。 当時の青年たちにとって、早急な国づくりが求められた時代は過ぎ、彼らが暮らす明治は、 外形のみとはいえ、近代国家がその体裁を整え社会が決まった形のもとに動くようになった明 治だった。すでに国家への帰属は青年たちを満足させなかった。国家への奉仕も、逆に国家へ の反逆も、一高生をはじめとする「今日比較的教養ある殆どの青年」にとっては自身の関心の 外側だった。徳富蘇峰は青年層の多くが、「国家的自覚、若しくは其の一部を失墜したるか如し」 と嘆いた(2)。もちろん彼らは天皇制国家の生んだ閉塞感や、近代国家としての矛盾を感じてい た。青年は誰しも「徴兵検査の為に非常な危惧」を感じていたし、「総ての青年の権利たる教育 が其一部分―富裕なる父兄をもつた一部分だけの特権となり、更にそれが無法なる試験制の為 に更に又約三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の 租税の費途なども目撃」していた。 しかし青年たちは、国家に反逆する道をとろうとはしなかった。「国家は強大でなければなら ぬ。我々は夫を阻害すべき何等の理由も持っていない。但し我々だけはそれにお手伝するのは ごめんだ」と述べる青年たちは「一切の人間活動を白眼を以って見る如く」国家に対しても最 早「全く没交渉」だった。「それだけ絶望的」だったのだ(3) 青年たちは、「個人の生活は国家の一員たる以上の内容を持つべきものであり、また実際もつ ている」(4)と信じ、関心を自身に集中して、人生について、自己について、思索し始める。 当時の青年の風潮を、姉崎正治は次のように記した。「人はいふ、現代は懐疑の時代である、 煩悶の世である」。蘇峰とは逆に、こうした青年の煩悶を、姉崎は積極的に肯定する。姉崎にと って青年たちの煩悶は「本能の声」「生命」また、「生活意志の問題」であり、当然の事であっ た。人間は、一個人から言っても、人類全体から見ても、人生の中において一度は「我とは何 であるか」「何の為に我は存在するか」(5)という問題に逢着するものである、と姉崎は述べる。 紀平正美が、「自我なるものの研究が総ての精神化学に取って必要大切なるものとなるとは、

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今更新しく論ずる点もない事である、然るにわが国では今迄余り十分にも論ぜられていない」 と、自我研究の少なさを指摘する前後から『哲学雑誌』上に自我論が見られるようになる。例 えば紀平は、「自我非我が如何なる所に成立するか」、を自我と非我を分割していくことで、こ れ以上は分割不可能な「限界点」に求めようとする(6) 酒井潔が「近代日本において、明治三十七、三十八年あたりを一つのピークとして自我論が わが国にも定着してゆく」(7)と述べるように、『哲学雑誌』上に多くの自我論が登場する。 しかし、こうした自我論に、綱島梁川は「吾人の知る「自己」は、知らるる「自己」のみ。 之を知る「自己」そのものは、到底吾人の知識の把握以上にあり」(8)と否定的な見解を述べて いる。「自己」を知ろうとして、「自己」を対象化しても、対象化している当の「自己」そのも のを「知る」ことはできない。梁川は理性・論理による「自己」・「自我」の理解を退ける。 煩悶する青年の多くもまた、理性による回答に満足できず、自らの煩悶・懐疑の解決を宗教に 求めた。 「近時の宗教的傾向」で島村抱月は、「早燥無味なる今の我が社会に飽き足らず、仰いで何物 かの、我が心の奥、感情の中心に摩擦し来たらんことを要望せざるものは、多くあるべし」と 述べる。青年たちの煩悶は「感情を求むるの声」であり、彼らが「精神的滋養物」を求めた結 果だった(9) 姉崎のように、青年たちの煩悶を積極的に肯定する立場とは反対に、当時の文部大臣、牧野 伸幻顯は、「近年青年女子の間に往々意気消沈し風紀退廃せる傾向ある」「小成に安じ奢侈に流 れ或いは空想に煩悶」「甚だしきは放縦淫靡にし」、と激しく彼らを戒めている。(読売新聞一九 〇六年六月一〇日) これに対して『早稲田文学』は「文相訓令に対する意見」という特集を組み、波多野精一は、 そうした傾向は「必ずしも不品行者や煩悶家に限ったことではない」と反論する。「其の真面目 なるものは、決して「空想に煩悶」しているのではない、実在に煩悶しているのである、個人 が、道具視せられることには不満足であって、しかも個人の真の価値を信ずるに至らずして煩 悶しているのである」(10)。 青年たちが「実在に煩悶」する一方で、「「煩悶」は一種の流行語であった」(11)と、日夏耿之 介が回想するように、当時の新聞紙上に多くの「煩悶」の字を見ることができる。 読売新聞によれば、政界では「幹部の無能に不平を鳴らす一派」の相次ぐ脱会に「政友会の 煩悶」が見られ(明治三十六年十一月二日朝刊)、社会面では、雑貨商の養子となった青年が 「薬剤師たらん」との願いも「三崎座の女優」との恋もままならず「煩悶の情を抑へん」として いた。(明治四十一年四月二十六日朝刊)また国外では、「露国新内相」が新任直後から「内相 不信任の意向生じ内相頗る煩悶」し、「白耳義(ベルギー)国エレオポルド陛下」は、愛人に遺 産の一部を与えんとするも、国法が許さず「王を捨てて他の恋人に赴かんとするの慮ありて王 は目下煩悶を重ねつつあり」。(明治四十一年一月二十九日朝刊)

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煩悶の語は、狭くは青年たちが人生や個人について思索する事を意味した。同時に新聞紙上 に見られるように、思い通りにならない事の全般を意味する、使い勝手のよい言葉として流行 した。煩悶の語の流行は、さらに多くの煩悶する人々を生んだ。人々はとにかくに煩悶し、「幾 多煩悶者の相談相手となり之れを救済せん」と、各地に私設の「煩悶引受所」、「煩悶相談所」 が開設された。(明治四十一年四月十六日朝刊)例えば、東京・麹町の教会牧師、綱島佳吉のも とに煩悶を訴えた者は、一年間で九〇名。中でも「自殺せんとまで煩悶するに至った動機の過 半は職業難次は家庭の不和精神上の異常法律上或いは道徳上の犯罪、疾病等の順」であった。 (明治四四年二月十六日朝刊) 「実在に煩悶」していた青年との違いを見ることができる。もちろん青年の全てが狭義に煩 悶していたわけではない。一高生の間には、「藤村君は至誠真摯であったから死に、僕は真面目 が足りなかったから自殺し得なんだ」(12)と語らせる程に、煩悶しないものは不真面目なもので ある、といった雰囲気もあった。ただ、「実在に煩悶」と波多野が言うとき、こうした世間の煩 悶の語の流行に対する反発があったことも想像がつく。学校という空間に囲い込まれた明治の 青年は、国家からも世間からも、遠ざかっていたのである。

「見神」体験とそれをめぐる議論

梁川もこのときにあって、思想を深めた人だった。梁川は東京専門学校で倫理を学び、多く の著作を残しているが、梁川が注目を集めるのは、自身の宗教体験を語った「予が見神の実験」 を雑誌『新人』(明治三十八年)に発表したことによる。 宗教体験は明治の三十七年(一九〇四)、三度にわたって体験された。日露戦争の只中のこと である。梁川の体験は回数を重ねるたびに深度を増し、三回目が最も鮮明であった。 唯だ忽然はつと思ふやがて今までの我が我ならぬ我と相成、筆の動くそのまま、墨の紙上に 声するそのまま、すべて一々超絶的不思議となって眼前に輝き申候。……無限の深き寂しさ の底より堂々と現前せる大いなる霊的活物とはたと行き会いたるようの一種のShocking錯 愕、驚喜の意識は、到底筆舌の尽くし得るところにあらず候(13) これまで西洋の倫理学を修め、自らを批判的、学究的精神の持ち主と語る梁川にとって、自身 がこうした、いわゆる神秘体験をしたことは、いかにも不思議なことだった。「狐にでもつまま れたるやうの心持」がしたこの体験も、日に日に鮮明に思いおこされ、やがて梁川の中で揺ぎ 無い確信へと変わってゆく。また梁川が筆を取り、自身の体験を世に公表することは、「予が見 神の実験その事を一層確実のもの」とした。梁川はこのときの「霊的活物とはたと行き会いた る」体験を後日あらためて、次のように記している。

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予は一面に於いて全く神の大実在に還没し解体したるの感を有したるとともに、他面に於い ては、不思議にもまた予は意識の何処かの一隅にありて、一種驚喜と敬意との念を以って目 の当たりに件の神の現前を見たるの感を有すればなり。神は現前せり、予は神に没入せり、 而かも予は尚ほ予として個人格を失わずしてあり(14)。 この時、梁川は、大実在である神の中に自らが没入することを感じる一方で、自分の個人格が 完全には失われずに神に触れた、と述べている。この事に留意しておきたい。 煩悶が社会現象となっていた中、神を見たと語る梁川の「見神の実験」は多くの議論を巻き 起こした。「見神の実験」を収録した梁川の著書、『病間録』に対する『病間録批評集』(金尾文 淵堂 明治三十九年)、「見神」体験をめぐる議論を集めた『見神批評論』(宇佐美英太郎編 金 尾文淵堂 明治四〇年)が相次いで刊行された。「天地の不思議に今更若き独歩の如く驚異」し 煩悶する青年もまた、「「驚異と宗教」といふ梁川文章に耽り読み」(15)した。異常とも思える世 間の反応は「梁川熱ともいふが如きもの」(16)であった。

「梁川熱」

多くの議論をよんだ梁川の「見神」体験だったが、それはそのまま世間の梁川への関心の高 さを示すものであり、梁川を慕うものも多かった。「全国に崇拝者も非常に多く、常に見ず知ら ずの人達から見舞いが絶えた事がない」(17)と島村抱月は記す。「今の世に於いて、多少宗教とか 文学とか、哲学とかに心を入れた者で、我が梁川氏の名を知らぬ人はあるまい。既に其の名を 知って、未だ其文を読まぬ人はあるまい。既に一度といへども其文を読んで、未だ我が梁川氏 を慕はぬ人はなかろう」と語る石川啄木もまた、梁川を「予の為に師であった。恩友であった」 (18)と語った。現代では想像しにくい程の、この世間の熱狂ぶりに注目しておきたい。 梁川をただ日本だけの、この時代に特別な現象と見ることは、実は出来ない。梁川に見られ るような、いわゆる神秘体験は、欧米を中心に世界中で関心を集めていた。その端緒がW.ジェ イムズの『宗教的経験の諸相』(一九〇二年)である。 梁川も『宗教的経験の諸相』を読み、W.ジェイムズの引用するテニスンの例について、「其 の自己の名を反復黙請する一種の方法は恰も禅家が己が呼吸を静かに数え数えて一念の凝寂を 謀る数息観などの工夫と似たらずや」(19)と、禅の悟りとの類似を指摘している。 こうしたことから、梁川が禅の数息観から「見神」体験の方法を学んだとする指摘がある。 しかし、梁川が禅の数息観から、「見神」体験を導いたとは、必ずしも言えない。個を全体の中 に解体してしまう禅の悟りに対して、梁川は否定的であるからである(20)。

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梁川の禅批判

行安茂は梁川の「見神」体験を次のようにみる。梁川は自我が神の中に没入し、神と自我の 区別がなくなったことを感じている。この体験は、神と自己とが客観と主観の二元的意識に見 られるような体験ではない。「見神」体験においては、自我は神の中に没入し、神と自我の間の 区別はなくなっている。禅の悟りの境地である主客一如の体験であった、と(21) 確かに梁川は白隠に親しみ、特に晩年は『白隠全集』を愛読していた。一方で梁川は白隠に ついて、「白隠禅師全集を日夕の友寧ろ敵と致し居候」(22)といい、白隠の「其の他力恩寵の限り なき涙の無き点はどうしても予の服する能はざる所」(23)と述べる。 梁川が白隠の全集に初めて触れたのは「見神」を体験する以前、明治三十二年(一八九一) 頃のことであった。梁川は次のように感想を述べている。「無限の勇猛心を奮ひ起こし不退転に

正念工夫の自修を為す其strong will powerには感服仕候」(24)。禅とキリスト教と、信じるもの

は違うが、一人の宗教者として、白隠の真理を求める姿勢に共感を寄せている。では肝心の禅 の悟りについてはどうだろうか。 梁川は禅の悟りを「一個の人の悟りのみ重んじて、社会の人として、社会的に達せらるべき 究境の悟りあるを説かず。……何となれば、禅の所謂悟は、社会関係なくとも、個々の人自ら の正念工夫によりて得らるべきもの」と分析する。 こうした禅の立場から見れば、「社会関係は、寧ろ一種の煩悩として排す」(25)べきであり、徹 底した個々の修行のみが求められる。そこで得られる禅の悟りとは「一即多」「主客一如」とい った絶対的、超越的見地である。こうした禅の悟りに見られる、徹底した平等主義、一元主義 の見地のもとでは、社会のあらゆる差別、価値は平板化され、善悪の区別もなくなる。 梁川はこうした禅の悟りの欠点を、次のように要約する。「己に人格を置かず、随つて自由意 志に重きを置かず、道徳的罪悪の責任の如きを軽視す、むしろ善悪の差別などを度外視せんと する傾きあり。」倫理学から出発した梁川にとって、個を全体の中に拡散してしまう禅の悟りは、 倫理の担い手としての個が生まれる契機を排除してしまうものだった。さらに梁川は、禅の悟 りによって「差別界に於ける一切の価値の別ここに没せん」(26)という点を指摘する。 梁川にとって、社会のなかの差異・差別に意味や問いを見出さない禅の悟りは、「差別界に於 ける群然たる価値の差別を没する也、差別の真意義を滅却する」(27)もので、禅には「進化向上 といふ広大なる観念」が欠如しているものと思われた。 こうした自他の区別がなく、肝心の個人格が失われてしまうような主客一如と表現される禅 の悟りに、梁川は否定的と言える。 「見神」体験を経て、梁川は再び白隠に触れる。そこで梁川はあらためて白隠の悟りと、自 身の「見神」体験の違いを確認する。それは次の一文に集約される。「予はこの自らの実験を標 準として自己即神といへる白隠よりも、自己即神子といへる」(28)

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禅の悟りは「実在(絶対)を観ずる」ところにある。「見神」によって「霊的活物とはたと行 き会いたる」と述べる梁川も、実在に触れるという点では禅の悟りと趣を異にするものではな い。そもそも、宗教体験、神秘体験と呼ばれる体験は、この性質を持つ。 問題は、悟りの超越性にある。白隠の悟りの境地は「自己即神」と表され、梁川によれば、 人間と神はイコールで結ばれる。梁川はここに矛盾を感じるのである。悟りという境地に至る ためには、自我を超越することが求められる。しかし、梁川は「自我は超越す、されど全く超 越する能はず。超越するが故に実在の一部と面を合するを得、而も全く超越しつくす能はざる が故に実在の全と抱擁する能はず。」(29)と述べる。 自我が有限である限り、自我は無限である実在(神)の一部にしか触れることができない。 超越には限界があり、自我を超越し尽くして、実在(神)となることはできない。実在に触れ ながらも、個が失われないと述べられる点に、梁川の倫理学としての可能性が見て取れるので ある。 梁川の禅批判の焦点は、禅の悟りは個我が全体に解体されてしまう体験であり、「差別界に於 ける一切の価値の別ここに没せん」ために倫理道徳の生まれる契機が失われるという点にある。 しかし、梁川の禅理解が必ずしも適当であったとは言えない。

鈴木大拙の禅観

例えば鈴木大拙は、ルドルフ・オットーの『東西の神秘主義』に触れながら、一般的な禅に 対する誤解を指摘している。オットーは自己同一性を以って神秘主義の特徴とするが、「併し禅 体験の自己同一性とでも云ふものは、それと大いに違っています」(30)と大拙は述べ、禅体験が 神秘体験に言われるような、単純な自己同一性ではない事を強調する。 また、「日常の行事を規定するものが禅にないとか、高遠な論理はあつても、卑近の生活は只 それだけでは動かないとか云ふ批評」や、「禅窮極の経験事実は、論理的に見て、無知の知、無 分別の分別と云ふ形で出来て」いて、「その中から倫理も宗教も出てこぬ」といった禅理解に大 拙は反論する。 大拙は「禅は実に用を離れては何もないのである。無分別の分別は行を意味する、行の論理 である、即ち禅は用の論理である。……天下国家を料理するところは云ふに及ばず、各々その 職域を守りてその務めを果すところにも亦ありと云はねばならぬ」と強調する。禅もまた、社 会と離れたものではない。禅にも倫理があり、社会の中での行動原理がある。その原理を大拙 は「無功用又は無功徳」という。人間の判断、それに伴う行動は人間の分別の作用による。そ の分別の思想を動かす原理に禅は寄与するのだとする。活動の主体たる個も、禅に於いて否定 されるものではない。 そもそも、宗教体験自体が個の経験である。当然ながら経験の主体たる個を否定することは

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できない。このことを踏まえた上であえて、「宗教的行為なるものは、いつも個を超えたところ から出る」と大拙は言う。 しかし、個は超個の存在に解体されてしまうものではない。超個は個が個たる所以のもので ある。「個は在る、これは打ち消されない。が、個は超個によって在るもので、個自体として独 立のもので実体と考えない。」 個は自由意志の主体であり、個が打ち消されない故に、人間は超個の存在を意識し、「人間は 個個自分の行為に対して責任を担うことが出来る」とされる。これは、超個の意思を本能的・ 反射的に行為するものではない。あくまでも行為の意思は個にある。そうであるからこそ、人 間の「自由性・創造性及び個としての実存性」が個に認められるのであるとされる(31)。 禅体験も詳細に見れば個を全体に解体してしまうものとは言えない。禅においても、行為の 主体としての個は認められるのであり、倫理道徳を担うものとしての認識がある。

梁川の倫理観

倫理について梁川がどのように考えていたのか、東京専門学校の卒業論文として提出された 「道徳的理想論」(32)を見てみることにする。これはその後の梁川の倫理観の基礎となるものであ る。梁川は自身の考える道徳、宗教についてキリスト教との違いを強調しながら、次のように 述べる。 而して吾人自家の中に存する神、即ち我ますます明に発揮し実現する、これ即ち道徳也。ま た件の神(即ち己に最も完全円満に実現せられ、而もインプリシットリーに吾人自家の中に 潜在せる我)を崇拝畏敬し、之に対して烈々たるenthusiasmの情をいだく、之即ち吾人の宗 教也(33) 道徳とは、自己に内在する神の自家実現であり、宗教とは内在する神を崇拝畏敬することであ る。梁川は、道徳と宗教の関係を、互いが対立し、また一方がどちらかに対して優位性を主張 するような関係とは見ていない。梁川は、道徳と宗教を同列に相補的に見ていることが注目さ れる。 また、梁川はキリスト教が説くように、神を人間から全く離れた外部にあるものとは見てい ない。梁川の考える神とは、「わが本然の中に潜在せる完全なる我」と言われるように、人間に 即して実現されるものとして理解される(34) 梁川は、道徳の絶対的理想を神の実現としての「自家実現」にすえていた。絶対的理想かか げ、道徳と宗教を同列に見ていたところに、梁川の大きな特色がある。また倫理学についても、 「ここに於いてか吾人は、吾人の目的は吾人自身なることを知る」と述べられるように、梁川の

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探求の中心は当初から自我にあったことに注目しておきたい。 倫理学で目指された「自家実現」は、やがて「見神」の宗教体験で求められた個我を予感さ せる。梁川は道徳的理想の究極目的を自家実現にすえて、これを絶対的理想とした。梁川の倫 理観の中心をなすものは、一言で言えばこの自家実現である。善悪、社会との関係、義務等々 は自家実現を中心として体系的に位置づけられる。 梁川は道徳的理想として目指される自我を、「真我」と呼ぶ。「真我は、社会を前提す、社会 を離れて真我なき也……社会的組織ありてはじめてよく完全に真我を実現し得べき也」と、梁 川は「真我」と社会は切り離せないものと考える。 また、社会的な制度、社会の道徳は「日常の実際的生活を統御するの理想」である。日常生 活をコントロールするものであり、梁川は「相対的理想」とよぶ。善悪、社会、義務と言った 「社会関係」は、「相対的理想」としてこの中に含まれる。梁川は「社会的組織、社会的関係そ のものが、各個人の内容をなすもの」と考える。したがって、「吾人各個人は必ずこれら社会の 法則、制度、風俗等に従わはねばならぬ也」(35)。 梁川は、社会に盲目的に従うことをよしとしたのでない。絶対的理想にてらして、社会の倫 理がそぐわないものであれば、社会は絶対的理想に向かって「変易改造」されることが望まれ る。現実の社会は絶対的理想にいたる為の、相対的理想である。梁川にとって、現実の社会を、 絶対的理想にむかって各人が充実発展させることが道徳的生活であった。 梁川が考えた道徳的理想は、自家実現という宗教的な意味合いを強く帯びていたが、それは 現実の社会から離れてあるものではなく、自家実現を目指す自己の立場から、宗教と倫理の二 つを同列に扱うものである。倫理的主体を担う自己は、道徳と宗教を結ぶ要としての役割を担 っている。自家実現の理想の下に、宗教と倫理を統合的に位置づける梁川にとって、この二つ は決して対立するものではない。

宗教と倫理

宗教と倫理が対立しないというこの考えは、中世神学者の大成者であるトマス・アクィナス の「人間の自由は必ずしも神にたいする人間の従属とは対立せず、むしろ神への完全な従属に よって実現される」という立場と共通している(36) しかし、宗教と道徳の関係について、道徳と宗教は根本的に分離している、との思想がある。 この立場からは、人間の自律性は神に対する人間の従属と相容れない、という結論が導かれる。 西谷啓治と西田幾多郎もまた、宗教と倫理道徳を相容れない、との立場を示しその違いを強調 する。 西谷は「死とか虚無とかいふものと並んで悪とか罪とかいふものも、人間にとつて根本的な 問題」であり、それらは、「自己の生或は存在の根柢をなすものとして自覚される」ものとして

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「リアル」に問題にされなければならないと言う。 われわれは通常、悪について意識上のこととして問題にする。他人に関しても自己に関して も、自己が犯した悪というように言う。このことを反省してみると、「「自己」といふ根幹があ って悪はそれから派生した枝葉といふやうな考え方」になっていると西谷は言う。つまり、自 己と悪とが二つに分けて考えられている。悪も虚無と並んで、自己の根柢をなすものと考えら れるならば、自己から分かれて悪があるはずはない。自己の根柢に、自己と不可分に現れなけ ればならない。 悪と自己とが分けて問題にされるのは、意識上で悪を論じるからである。悪が自己の根柢と して本当に問題にされるには、意識の場を越えたところでなされねばならない。西谷は「罪や 悪がこのやうにしてリアリティとして如実に現前し得るのは、宗教に於いてのみである」と述 べる。 西谷は罪や悪が主体的な事象として扱われるのは、主に倫理の場であるとする。悪を各人の 主体的な事柄であると認識させ、人格的なあり方を開く点で、西谷は倫理の有用性を認める。 その上で「倫理に於いては罪や悪は、なほ、「自我」の場から「自己が犯した」ものとして取り 扱われる」ため、「人間は自己自身の罪や悪をまだリアルに体認し得ない」とする。西谷は悪や 罪といったものは、宗教の場に於いて初めて自己の根柢をなすものとしてリアルに現前しうる と述べる。ここで、罪や悪に対する倫理・道徳上の理解は不完全なものとして斥けられる(37)。 西田もまた、倫理・道徳と宗教は分けて考えるべきであると述べる。西田は真の宗教心は 「我々の自己自身の存在が問はれる時、自己自身が問題となる時、はじめて意識せられる」とす る。しかし、「道徳の立場からは、自己の存在と云ふことは問題とならない」と言う。「如何に 鋭敏なる良心と云へども、自己そのものの存在を問題となせない。何となれば、如何に自己を 罪悪深重と考えても、道徳は自己の存在からであるが故である」。自己を罪深き身と深く洞察し たところで、自己そのものが問題になることはない。なぜなら、道徳は自己の存在を前提して、 自己に付随して現れるからである。したがって「道徳と宗教との立場が、斯くも明に区別すべ きである」(38)。 西谷と西田の両者が、宗教と倫理・道徳を別個のものと考え、宗教の倫理に対する超越性を 説くことは、ここから明らかではないだろうか。しかしこうした議論は結果的に倫理を見失う 可能性がある。この事によってこの時代のできごと、例えば太平洋戦争を正当化しながら、そ の非に気が付かない議論に発展することも考えられる。 西谷は「近代の超克私論」(39)の中で、宗教の優位性を前提に、仏教的な「滅私」「主体的無」 「絶対の否定が絶対の肯定」といった言い回しで、「私を滅して全体としての国家へ帰一する」 所に「深い宗教性への道が開けている」。ここから導かれる「世界宗教」は「国家に内在的な超 越性」を持ち、国家権力に「倫理的秩序」と「法的秩序」を与える純粋な「国家内在的な立場」 をとる宗教である。世界宗教によって内部から支えられた国家が、東亜新秩序の御旗のもと、

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アジアを統合し「非欧羅巴的な唯一の強国としての日本の出現によって欧羅巴的世界が破られ、 世界の新しい秩序と編成が始まり、従って世界史が新しい時期に突入した」(40)と、太平洋戦争 の正当化に加担した点は注意を要する。 西谷や西田が強調する、宗教と倫理・道徳を分ける議論に対して、逆にトマスの、人間の自 由と神への従属が対立せず、むしろ神への完全なる従属によって人間の自由が成立する、とい う立場は奇妙な感じさえ与える。 トマスは「人間が自らを神に完全に従属させること―すなわち敬神(レリギオ)―は、人間 が十全的な意味で自らを実現しようとする試み―すなわち道徳的な生き方―とは対立せず、む しろ後者の主要的な要素である」とする(41)。 キリスト教徒であった梁川にあっても、人間と神は被造物―創造主の関係において考えられ ていた。梁川は「吾れ即ち神にあらず」、「吾れはessenceに於いて神と同じの意」(42)であると言 い、また、「絶対者は絶対者自身を自覚し実現せんが為に、我我を分離し、我我を客観化(オブ ゼクチファイ)せしなり」(43)と言う。 こうした前提は科学の名の下、近代の啓蒙主義的理性によって否定されることになる。カン トは、こうした近代科学を背景にした啓蒙主義的理性によって否定することを、理性の越権で あるとして退ける。同時に、この関係が理性によって認識可能であるとすることも、理性の越 権であるとして否定する。 こうしてカント以降、敬神(レリギオ)は道徳の領域から排除されることになる。道徳の射 程からはずされた宗教は、理性を超えた、あるいは理性に反する感情や恩寵としての信仰に基 づいて成立すると見られるようになる。このことから帰結して、宗教と道徳の領域は分けるべ きである、という考え方が強調される。稲垣良典はこうした考えが、今なお支配的であること を強調している。 しかしこうした議論は、稲垣によればそれほど長い歴史を持つものではなく、近代以降のも のでしかなく、宗教と倫理の区別は、それほど長い歴史を持つものではない(44) 梁川は、宗教と倫理を対立する別個の関係とは見ていない。この点、トマスと立場を同じく する。梁川は自家実現の理想の立場から、宗教と倫理は不可分に見る。この立場は、カントに 代表される近代啓蒙主義の批判から始まる、宗教と道徳を分ける立場とは異なる。梁川の倫理 観において、道徳と宗教をつなぐ橋渡しを担ったのは、イギリス理想主義に影響を受けた「自 家実現」の思想であった。ここに、道徳と宗教の間を橋渡しする個我の存在が注目される。梁 川にとって倫理と宗教は区別されるものではない。自家実現の下に二つが統合的・同列に見ら れていることが、梁川の倫理観の特徴である。

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「神の子」自覚

梁川の「見神」体験はこうした倫理観をもとに得られた体験である。「見神」体験によって個 我が失われないと述べられることは、こうした倫理観とどう関わってくるのか。 「見神」体験によって、梁川は「予は「我は神の子也」てふ自ら欺かざる不壌金剛の自覚を 握り得たり」と言う。この「神の子」とは梁川自身と神が「天人父子」(45)の関係にあるという 自覚である。その父たる神を、梁川は「凡神的」とも「超神的」とも述べる。 梁川の神は、内在と超越とのいずれにも限定されず、その二面性を持つ。「道徳的理想論」で もそうであったように、梁川は神を人間から離れて、客観的に存在するものとは考えない。神 は内在的に人間に即して存在すると梁川は考え、「汎神的」であると述べる。同時に、神が超越 的であるからこそ「敬畏」の念が起こるのであり、神を「打ち仰ぎたるの意識」が生まれると 述べる。 梁川の神は「凡神的と超神的と内在と超在との二面を調接しぬ」(46)ものと語られ、人間を超 越した存在でありながら、同時に人間に内在的であるとされる。一方、神を内在する個として の人間は「天地の間に於ける無類特絶の一物」である。梁川は、個人性を発揮することを求め る。 個人性を発揮する事は、社会や神に対する反動として捉えられることがある。だが、梁川の 個人性の発揮は、神の実在を制限、否定するものではない。むしろ、「却りて益々神の実在性を 豊富にし、円満にする」ものである。梁川は神を内在的に、人間と神を相即するものと見てい る。この相即関係が、梁川の宗教観では重要な働きをしていると考える。人間が個人性を発揮 するように、神もまた、「我等が神子的個人性の発揮を通して、其の深奥なる自己を実現しつつ ある。神の円満性は、我等が個人性の発揮によりて倍々富膽を加え来たる」(47)と、人間に即し て自己を実現するとされる(48) 梁川の神は、人間に内在的でありながら、人格を持つ神である。神は自身の人格を単独で発 揮することはできず、人間の側に神が現前するための「個人我」を必要とする。神が現在する 場を提供するものとして、まず人間の個人性が発揮されなければならない。したがって「自観 は見神の最良最確の法也」であり、「心洵に神を見んとするものは」「自観の工夫に深潜せよ」(49) と述べられる。また、この「個人我」「自観」が社会、倫理との関係から離れてあるものでない ことは、「道徳的理想論」に述べられる通りである。前述の「「自己」そのものは、到底吾人の 知識の把握以上にあり」と梁川が述べることは、神の内在性と関係している。 人間と神の関係は「父子の関係」と述べられるように、決して隔絶する関係としては捉えら れていない。「道徳的理想論」で見たように、自家実現を通じて神を実現することが絶対的理想 であった。自家実現を目指す個人性は、内在的に神と接している。 「個人性は神性を離れてはあり得ない。神性てふ平等無限のものを、各人特有の方法をもて実現

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したもの、是れ即ち光輝ある個人格」(50)なのであり、その果てにあるのが「見神」体験である。

「神と偕に楽しみ、神と偕に働く」

梁川の「見神」体験によって得られた「神の子」の自覚とは「神と偕に楽しみ、神と偕に働 く」悟境であると言われる。 神は「一切事、一切所、彼は毎に我等と偕に在」る存在である。「神の子」である人間は、 「その親ごころの大愛を打灑ぎたまふ」存在である。梁川の「神の子」の自覚とは、「神の子」 として「一切は神に在りて生く」という自覚である。 全ては神と共に在り、その恩寵の手の中に生きていることは大いなる喜びである。この事を 「自覚せよ」(51)と梁川は言う。梁川は万人が「見神」体験によって、「神の子」の自覚を得るこ とを望み、またそれが可能であると信じる(52) 「見神」体験で得られた「神の子」の自覚からは、「在るもの皆善し」と述べられる。これは 「現実の事在るがままにて善也美也」というような、現実の善悪醜美をあるがまま、そのまま全 てを善いとする立場ではない。梁川はこれを、現実と理想の差異であるととらえる。 「在るもの皆善し」という語には、現実と理想が一緒に語られている。「在るもの皆善し」と はあくまでも理想の姿であり、現実には依然として真偽善悪が存在している。これら現実の真 偽善悪は、「神に在りては皆真也、美也、善也」と、神のもとではじめて「在るもの皆善し」と なり、このことが理想とされる。ここに「事実と理想の厳粛なる対峙」、現実と理想の差が生ま れる。 「神と偕に働く」とは、この理想と現実の差を埋め、現実を「在るもの皆善し」へ向かわし めることを指す。梁川はこの現実と戦うものである。その戦いとは現実の営みを、いかに理想 に近づけるか、現実と理想の間に立つ個人、「神の子」の活動である。これをおいて他に人生の 意義は無い、と梁川は言い切る。現実と関わり、現実を理想に向かって「善」足らしめようと する「神の子」の活動が「神と偕に働く」ことである。 梁川はこうした理想と現実の差を、肯定的にとらえ、戦いの場として積極的に関わっていく。 こうした立場には、梁川が、現実の世界を「大いなる理想発展の歴程なり」と、とらえていた 背景がある。梁川はこの発展が不完全であるために「世界は煩悶し、人類は精進する」と考え る。 「道徳的理想論」では、究極目的である自我実現の理想へむかって、現実の社会が変革され ることが求められていた。「見神」体験後は「神と偕に楽しむ」の境地にあって、「神の子」の 自覚のもとで「在るもの皆善し」の理想に向かって、「神と偕に働く」ことが要請される。この 「神と偕に楽しみ、神と偕に働く」という立場は、「理想を単に理想としてのみ追求する倫理道 徳の解し得ざる所」(53)と述べられる。梁川は、「理想を単に理想としてのみ追求する倫理道徳」

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の立場から、「見神」体験を機に「神と偕に楽しみ、神と偕に働く」立場へと変わったと言え る。 しかし、この立場の変化は、世俗の倫理道徳を宗教的高みから否定するものではない。梁川 は「余は此の神の子の自覚に依って初めて社会の意味が豁然として解決された……是に於いて 倫理問題、人道問題の根本原理が解つたのである」(54)と述べる。 「見神の真理は予が道徳的生活の最高の統一的原理となり、又一切の義務を潤澤する哀心の 法悦となりぬ」(55)と述べられるように、「神と偕に楽しみ、神と偕に働く」ことは、宗教的な 「神の子」の自覚のもとに、現実を積極的に生きる必要を説くものであり、宗教と倫理は衝突す るものとは見られていない。「道徳的理想論」に見られた、現実の倫理道徳を自家実現に向かっ て発展進化させる、という考えが「神の子」の自覚によって揺ぎ無い確信になったと言える。 梁川は現実をただ規範に従い、道徳的に生きるのではなく、「神の子」の自覚にもとづいて、理 想に向かい現実の社会を変革し道徳的に生きる必要を説くのである。

おわりに

梁川の信仰は「見神」体験によるものである。この体験は理性を超えたもので、言語による 表現の困難な体験であった。このことから、「見神」体験を、単純な神秘体験ととらえる見方が ある。その一方で、これを白隠に影響された禅的な「主客合一」の体験であるとする見方があ る。しかし、すでに見てきたように梁川の「見神」体験は、そのいずれとも異なる。 仮に、「見神」体験が、古今東西に無数に見られる神秘体験の一例であるとしても、末木文美 士の指摘するように、近代の日本においてそれを記述し、世に問うたのは梁川が始めてであっ た。「梁川が言及することによって、はじめて借り物の理論でなく、自らの体験としての宗教が 正面から問題とされた」(56)と言える。 加えて注目しておきたいのは、記述と言う行為の意味である。記述は、自身の体験を対象と して外部に投射し、客観化する。言語そのものが、対象を分化・客観化するという機能を伴う ことは言うまでもない。「見神」体験について梁川は、それを言い尽くすことは「もと、至難な り」「到底思議言説の以て尚ぶべきものなからむ」(57)と「見神」体験を語る困難を述べる。 「見神」体験を記述することは、「見神」を追体験することではない。対象化し客観化する作 業である。梁川は数度に渡って「見神」体験を記述、発表している。しかし、最初に記述され た「予が見神の実験」の中に「神は現前せり、予は神に没入せり、而も予は尚ほ予として個人 格を失はずして在り」に相当する表現は見出せない。ただ、「今までの我が我ならぬ我と相成り」、 「神の実在に解け合ひ」、「我即神となりたる」と語られるのみである。 二度目の「見神」記述に至って初めて、梁川は「神は現前せり、予は神に没入せり、而も予 は尚ほ予として個人格を失はずして在り」と述べる。「見神」体験を記述するという過程の中で、

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梁川の個は、自身の内に発見され、よりいっそう確実なものとして強度を増したと言える。未 だ、言文一致の確立していない近代の一時期に、梁川が自分なりの言文一致の文体でこれを記 し、その過程で個の自覚に至ったことは重要である。 梁川の「見神」体験とその記述は、個の失われない、むしろ個の発見とも言うべき体験だっ た。「見神」体験で得られた「神の子」とは、倫理的な主体たる可能性を含んでいる。ここに、 倫理と宗教をつなぐ主体としての個が注目される。倫理は基本的に、社会の内部で機能するこ とが前提されている。梁川の宗教観において宗教と倫理は、社会の内部の倫理に、神(宗教) が外側から根拠を与える関係になっている。この関係を橋渡しする個は、倫理的に生きながら、 超越的神を内在させる点で社会の内側と外側の間に立つ存在である。 「道徳的理想論」では、自家実現の理想に向かい、倫理的に生きることが目指された。これ は同時に宗教的に生きることであった。宗教と倫理が対立しないものとして、同列に扱われて いる。「見神」体験とその記述は、倫理を担うものとして求められた個を、宗教的に発見するこ とであった。個は「神の子」の自覚のもとに、「神と偕に楽しみ、神と偕に働く」ことが求めら れる。このことは、宗教的高みから、世俗の倫理を否定するものではない。梁川が身をもって 示したことは、個が「神の子」として倫理的に生きることが、宗教的信仰の表現でもあるとい うことであった。 〔注〕 梁川の全集に関しては、『梁川全集』全10巻 大空社 1995年 を使用し、他のものに関しては、出来るだ け当時のものを参照するよう心がけた。 (1) 『朝日講演集』朝日新聞合資会社 1911年 漱石 夏目金之助「現代日本の開化」 350頁 (2) 『蘇峰文選』 民友社 1915年 788頁 (3) 『啄木全集』第4巻 筑摩書房 1980年 543頁 (4) 『早稲田大学』早稲田大学出版部 1906年9月之巻 9頁 (5) 姉崎正治「現時青年の苦悶に就て」『太陽』東京博文館 第9巻第9号 80頁 (6) 紀平正美「自我に就て」『哲学雑誌』有斐閣 1903年11月 11頁 (7) 酒井潔『自我の哲学史』2005年 講談社現代新書 194頁 (8) 「應心録(「自己」の実在、「自己」と神)」『病間録』1905年金尾文淵堂 所収 412∼413頁 (9) 『抱月全集』第1巻 日本図書センター 1979年 226頁 (10) 『早稲田文学』早稲田大学出版部 1906年10月之巻 89頁 (11) 日夏耿之助『明治浪漫文学史』中央公論社 1951年 325頁 (12) 魚住折蘆『折蘆書簡集』岩波書店 1977年 559頁 (13) 「予が見神の実験」『新人』第6巻 第7号 新人社 1905年 10頁 (14) 「予は見神の実験によりて何を学びたる乎」『新人』第6巻 第11号 新人社 1905年 11頁

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(15) 『明治浪漫文学史』(前注10参照)325頁 (16) 島村抱月「梁川・樗牛・時勢・新自我」『早稲田文学』1907年11月之巻 1頁  (17) 『抱月全集』第8巻所収 日本図書センター 1979年 242頁 (18) 島村抱月「故綱島梁川君」『新小説』春陽堂 1907年10月 85頁 (19) 「宗教上の光耀」『新小説』 1905年9月 第10巻2号 183頁 (20) 梁川の「見神」体験と神秘体験について、 住光子「日本における神秘主義の一様態―綱島梁川の 「見神の実験」をめぐって」お茶の水大学人文科学研究1巻がある。これを大正時代に流行する神秘 主義に先行するもの、との見方もある。(「現代詩手帖」1992年9月 特集・大正神秘主義の詩的世 界) (21) 「綱島梁川」『比較思想研究』第23号 1989年、「近代日本と西洋思想の受容―綱島梁川−」『岡山大 学教育学部研究収録』第103号 1996年 など。いずれも行安茂。 (22) 海老名弾正宛書簡『梁川全集』第9巻 大空社 1995年 64頁 (23) 「病間日誌」1905年2月『梁川全集』第8巻 482頁 (24) 『梁川全集』第9巻 64頁(海老名弾正宛書簡) (25) 「禅に関する卑見の一節」『大帝国』博文堂 1900年5月 第2巻第15号 30頁 (26) 「我観録」『我観録』所収 1909年 杉本梁江堂 8頁 (27) 「禅に関する卑見の一節」(前注24参照)31頁 (28) 「病間日誌」1905年2月『梁川全集』第8巻 482頁 (29) 「禅に関する卑見の一節」(前注24参照)34頁 (30) 鈴木大拙「禅経験の研究につきて」『禅問答と悟り』近藤書店 1941年 298∼230頁 (31) 鈴木大拙『禅の思想』清水書店 1948年 111∼127頁  (32) デューイをはじめとするイギリス理想主義の、梁川への具体的な影響や、梁川の功利主義への批判 は行安茂の論文、またその編著『綱島梁川の生涯と思想』早稲田大学出版部 1981年に詳しい。 (33) 「道徳的理想論」『病間雑筆』1901年 杉本梁江堂 225∼230頁 (34) 絶対者たる神は、人間だけに備わるものではないと梁川は考える。あらゆる物、動植物に神は備わ っている。しかし、このことを自覚し、意識して生活できるのは人間だけである。(「道徳的理想論」 (前注32参照)219頁) (35) 「道徳的理想論」(前注32参照)221∼222、278、199、227、313頁 (36) 稲垣良典『トマス・アクィナス倫理学の研究』 長崎純真大学学術叢書1 九州大学出版 1992年 373頁 (37) 西谷啓治「宗教とは何か」『現代宗教講座』創文社 1954年 所収 27∼29頁 (38) 西田幾多郎『哲学論文集』7巻 1946年 岩波書店 26∼27頁 (39) 河上徹太郎編 『近代の超克』冨山房百貨文庫23 1994年  (40) 西谷啓治『世界観と国家観』1938年 弘文堂 114∼147頁 (41) 稲垣良典『トマス・アクィナス倫理学の研究』長崎純真大学学術叢書1 九州大学出版 1992年 373頁 (42) 「随感録 第三」『寸光録』1908年 杉本梁江堂 239頁

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(43) 「道徳的理想論」(前注32参照)217頁 (44) 梁川は、カントのように理性を重視して、神と人間を明確に峻別するような議論は「理性のみ唯一 の立法者として、一切感情の分子を拝したれば也」(「道徳的理想論」(前注32参照)265頁)と、感 情の働きを重視せず排除するものであるとして反対する。 (45) 「予は見神の実験によりて何を学びたる乎」(前注13参照)10頁 (46) 「霊的見神の意義及び方法」『新人』第8巻4号 新人社 1907年4月 14頁 (47) 「我とは何ぞや」『病間雑筆』(前注32参照)24∼29頁  (48) 前にふれた大拙も、超個と個の関係について、「超個者が個を通して始めてその意思を実現し……超 個は者はそれ自身として存在し能はぬ」と梁川と同じ立場をとる。『禅の思想』(前注30参照)111頁 (49) 「應心録(「自己」の実在、「自己」と神)」(前注7参照)424頁 (50) 「我とは何ぞや」『病間雑筆』(前注32参照)30頁 (51) 「如是我證」『中央公論』第2巻1号 反省社 1906年1月 38∼39頁 (52) 梁川が筆を執り、「見神」体験を世に公表したのは、ただ自分ひとりがキリストと同じ境地に立った ことを示すためではない。「見神の実験は衆人には、不可能事かと云ふに決してさうではない、強き 烈しき思慕欲求の結果自然に得らるる平明なる事実である」(『梁川全集』第10巻 669頁)と梁川は 言う。梁川は「見神」体験は万人に可能であり、自分と同様に「見神」体験者が出ることを強く望 んだのである。 (53) 「如是我證」(前注50参照)63頁∼47頁 (54) 「見神実験と活動的自覚」『成功』 成功雑誌社 1906年6月 第9巻3号 (55) 「霊的見神の意義及び方法」(前注45参照)19頁 (56) 末木文美士『明治思想家論』Ⅰトランスビュー社 2004年 196頁 (57) 「予が見神の実験」(前注12参照)9頁 (にし ゆうさい  佛教大学研究員) (指導:田山 令史 教授) 2006年10月19日受理

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