K R ノ ー マ ン 著
初 期 仏 教 と ジ ャ イ ナ 教 と の 比 較
1.環境 1.環境 2.類似点 3.相違点 4.後世の歴史 5.結論 文 献 略 号 註山 崎 守 一 訳
仏教とジャイナ教の創始者であるブッダ(Buddha)とジナ(Jina)は、 それぞれ同時代に、インドの同一地域(マガダ地方)に住み、同一の社会 的かつ宗教的文化(バラモン文化)の中で生きていた。 社 会 的 に バ ラ モ ン 的 カ ー ス ト 制 度 は 、 少 な く と も バ ラ モ ン 階 級 の 人 た ち にとって優れたものと見倣されていた。宗教的にバラモンの文化は初めも なければ(終わりもない)再生の循環とカルマ(業)の影響を受け入れて きた。したがって、一つの生命における一つの状態は、過去の諸々の生命 における行為の結果として起こっているのである。 それ故に仏教とジャイナ教はバラモンの社会的・宗教的環境に対する大 いなる反発として興起したのである。彼らは時には同様に反発したし、あ (16)る時は異なった反発の仕方をした。 2.類似点 初期仏教とジャイナ教との比較 (a)社会観
紀元前5世紀のガンジス川平地における政治的経済的発展は、クシャト
リア(ksatriya)階級が単なる小さな国の首領から、新しく都市化された
居住地において支配層になることに変化し、一方、商人階級であるヴァイ
シャ(vai§ya)は、増大する商取引の発展性の結果として裕福になり、そ
の富の結果として力をもつに至るという一つの状況をもたらした。クシャ
トリアとヴァイシャの両階級は、バラモン階級の人たちと同等、あるいは
それ以上に優れている社会的地位を彼らに与えてくれる宗教に、大いに開
かれていた。そのような反バラモン的立場に相応しく、仏教もジャイナ教もバラモン
に対立するものとして、精神的背景において、あるいは世俗的背景におい
て、クシャトリアの優越性を強調した。これら二つの宗教はバラモンを(彼
らの個々の言語に適応する語形で、すなわち仏教はbrZihmanaを、ジャイ
ナ教はmhana/bambhanaを用いる。)語黄として受け継ぎ、その語をむ
しろ出生よりも行為によってその名に値する人たちに用いた。そして、両
宗教とも以下に示す点を強調する並行したタイプの文献を生み出した。
両宗教は布施(dEina)を強調し、出家修行者の生活を可能にする在家者
の果たす役割を強調したい。仏教徒もジャイナ教徒もともに積極的に帰依
してくれる在家信徒がいなければ宗教教団が存続できないことを正しく実
感していた。もし在家信徒がいなかったら、あるいは在家信徒がその富を
すべて放棄しなたらば、その時その教団は生き残ることができなかった。
遍歴の乞食者に必ずついてまわるのは、出家者でなく施主であり、彼らの
気前のよい行為によって苦行者が生命を維持し、解脱(moksa)を得るこ
とが可能となった。ウイリアムス(Williams)②は、人間のはかなさを尊重
(17)しさえすれば在家の身分がジナによって許可されたことを述べている。そ
してこのことは、僧院の生活に入ることができなかったという、ジャイナ
教徒の在家者アーナンダ(Ananda)の記述(31から推論されるであろう。同
様にゴンブリッチ(Gomblich)"'は、在家制度がすべてを放棄できない人
たちのために仏教において設けられたことを示している。しかしながら、ジナもブッダも世間知に欠けていたので、次のことを理解することができ
なかったという、ここに信ずべき事実がある。もしすべての在家信者が世
間を捨て、彼らの所有物を寄付してしまうなら、ジャイナ教も仏教もとも
に財産を所有しない宗教という最初期の「原始的」段階においてさえ、存
続することが困難であることに気づいていたはずであることを。布施がな
ければ苦行者が存在できなかったし、それ故ジヤイナ教と仏教の教理の伝
道 も な か っ た の で あ る 。 (b)宗教観信用できる証拠からわれわれは正統バラモン教と反バラモン的沙門
(§ramana)運動が同時に存在したことを知ることができる。紀元前3世紀
にアショーカ(A§Oka)王は彼の碑文で使用した複合語bramhana-samana「バラモン・沙門」によって示されるように、宗教者はすべてバラモン
(b面hmana)か沙門(Sramana)のどちらかであることに言及することがで
きた。ジャイナ教徒と仏教徒は両方とも沙門の宗教的伝統に属していた。
彼らはバラモン的宗教の基盤を否定することで一致した。すなわちヴェー
ダ(Veda)の聖典的権威等、ヴェーダの犠牲祭の効能、そしてヴェーダ
の神々の宗教的な地位である。両宗教の指導者はまた再生の循環から逃れ
る方法を見出すという彼らの教えの主な目的でも一致していた。彼らは結
果的に輪廻(samsma)が永遠であることを基盤とするウパニシャッド的
アートマン(ョtman)を否定することで一致した⑤。
「マッジマ・ニカーヤ』(Maijhima-nikEiya)の「蛇愉経」(Alagaddnpama‐
(18)初 期 仏 教 と ジ ヤ イ ナ 教 と の 比 較
sutta=MIl30-42)において、ブッダは、「不二一元論」(advaita-vEida)
の誤りを指摘することによって、単純ではあるが、より効果的に実証的(経
験的)にアートマン(証man)の存在を否定した。彼の否定の基盤は次の
ように評価することができる。世界(loka)と我(at面)とは同じである
(solokosoattョ)という教義はまた、個人のatt訂(個人我、原文はindividual
at面であるが、以下この訳語を使用する)と世界のat面(普遍我、worldat画 であるが、以下この訳語を使用する)も一つのものであるという主張である。“eso,hamasmi”「私はそれである」という句は、二人称の代わりに一
人称の観点から述べたウパニシャッドの“tattvamasi,,「あなたはそれで ある」である。loko(世界)=at面(我)であると仮定するなら、ブッダの反論は次のようである。「もし普遍我があるなら、その場合私の中に普
遍我に属する何ものかがある。もし私の中に普遍我に属する何ものかがあ るなら、すなわち、普遍我があるなら、その場合私(とすべての他のもの) は普遍我の部分であるアッター(at頂)をもつことになろう。そして私は普遍我を作り上げるすべてにある「もの」をもつであろう。色(mPa)等
は「私のもの」である。もしそれぞれの個人我が普遍我の一部分であるな
ら、その場合、普遍我の一部分を所有する個人が感じたそれぞれの苦痛の 感覚は、普遍我を所有するあらゆる他の個人によって感じられるだろう。 すなわち、森が燃えるとき、われわれにあるアッターは木にあるアッターが受けた苦痛を感じるであろう。われわれはそのような苦痛を何も感じな
い。なぜなら普遍我そのものがないから。』 ブッダの否定と同様に実証的な方法で、ウパニシャッドの見解を否定す るジャイナ教徒の似通ったパラレルを記すことは興味深いことである。次 のような詩節がある。 jah面yapudhavT-thnbheegenm豆hidrsai evambhokasineloevinnpn、ョhidTsai. evamegettijappantlmandEi証ambha-nissiyEi (19)egekicc訂sayampEivamtivvamdukkhamniyacchaj.(Cl
「そして種々の性質をもったすべての土塊が一つとみなされるように、
そのように種々の性質をもった全世界は知の本質(証man)を持つと
みなされる。悪い行為(殺害)に夢中になっている愚かな人たちは個 人もそのようなものがあると話す。(しかし)悪い行為をしている個 人は個別に厳しい苦しみを受けることになる。」『スーヤガダンガ。スッタ』(Snyagadamga-sutta)の諸註釈はこの見解を
「唯一我不二一元」(ekョtm訂dvaita)または「我不二一元論」(E1tmョdvaitav豆da)
と呼び(71、ヤコービ⑧は次のように説明する。「もし、すべての人に共通に ただ一つのアートマンがあったなら、一人の人によってなされた行為の果 報は他の人に生ずるであろう。というのは、アートマンは善業と悪業の根 本であるから」。それはやや舌足らずに表現されるが、最後の行は第1詩 一異なる形で現われる普遍我(vinnp=Eitman)がある−で述べられた 見解を否定するつもりである。その否定はもしこれがそうならその時、普 遍我を共有するあらゆる人が、普遍我、すなわち「個人」の何か他の部分 によって託された悪に共同で責任があるであろうということを導く。われ われがずっと以前になされた悪業や善業に対する罰や報いである個人を見 るというわれわれの世界の経験は、これがそうでないことを証明する。 アートマン理論を否定するとき、同様の議論を与えている仏教文献とジャイナ教文献を見出すことは興味があるばかりでなく、それはまた、「蛇
愉経」でブッダがどのような種類のアートマンを否定しているのかを正確 に評価する手段としても役立つ。ジヤイナ教徒は、変化しないものではないが、個人我を信じるということにおいて仏教徒とは異なる。『スーヤガ
ダンガ・スッタ』で否定されているアートマンはそれ故、普遍我である。 二つの教団の非常に類似した議論は、「蛇愉経」においてブッダが個我を 否定しているばかりでなく、普遍我の概念をも否定していることを明確に する。 (20)初 期 仏 教 と ジ ャ イ ナ 教 と の 比 較 (c)専門用語 西洋の学者が19世紀に仏教とジャイナ教を研究し始めた時、彼らはすぐ に初期仏教とジャイナ教の文献が術語の正確な意味は必ずしも一致しては いないが、共通の専門用語をもっていることに気づいた。 二つの宗教の専門用語の比較研究をすることは有用である。なぜならそ のことによって仏教とジャイナ教が興起した宗教的かつ文化的な背景につ いてある考えを得ることが可能になるからである。専門用語のそのような パラレルに対する説明は時として一つの宗教から他の宗教への借用語と、 あ る い は た ぶ ん も っ と 頻 繁 に 、 第 3 の 宗 教 一 恐 ら く バ ラ モ ン 教 一 か ら 両宗教への共通の借用語とみられるし、あるいは前5世紀に二人の宗教指 導者が生きていた時代に流行していたと思われる一般大衆の宗教的信仰か ら、すなわち苦行者の共通の貯蔵庫からの借用語とみられる(9)。 宗教的思想のこの一般的背景に対して、われわれは苦行者タイプの宗教 の大部分の語棄、例えば、仏教とジャイナ教の両方にみられる§ramana(沙
門)、pravrajy且(出家者)、pravrajita(遊行者)、tapas(苦行者)、rsi(聖仙)
のような語に恐らく特定することができる。われわれはこれらの語が、信 奉者が在家者の生活から出家して遊行者になった宗教運動組織の多くに共 通する用語であると仮定するだろう。かれらの宗教的経‘験に対して使用さ れた多くの用語もまた二つの宗教に共通である。彼らは共にnibbma (nirvZina浬渠)のような用語をもち、また、異なった意味をもつ別な語根 の過去分詞(nibbuta、nivvua)を両宗教とも使用するという奇妙な事実が ある。このことは一つの概念としてnibbmaが仏教以前であり、二つの語に関することばの戯れ(word_play)が、両宗教よりも早いということを
暗示する。二つの宗教に共通する専門用語は他にもたくさんある。例えば、gati、
a
s
a
v
a
、
m
o
k
s
a
、
b
h
a
v
a
n
面
、
d
h
u
t
a
u
o
1
、
t
Z
i
(
d
)
i
n
u
U
、
p
m
s
u
(
y
a
)
(
'
2
)
そ
し
て
y
o
g
a
u
3
1
で
あ る 。 し か し な が ら 、 意 味 は 必 ず し も 正 確 に 一 致 す る わ け で は な い 。 時 と (21)し て 次 の よ う な こ と が 起 こ る 。 二 つ の 宗 教 の 一 方 あ る い は 他 方 が 、 語 棄 や 概念の使用を保っていても、それにもかかわらずその本来の意味を失い、 変化させるということが起こるのである。この範傭のなかで語章と概念が 他の宗教においてパラレルをもつという事実は、そのような語がみられる 文脈を検証することによって、あるいはそれらについて註釈的伝統を調査 することによって、それらが本来もっていた意味や、ある初期の時代にお ける意味をわれわれが発見するのを助けるであろう。 kevalinu41という語は仏教文献とジャイナ教文献の両方に見出される。こ の語は仏教の註釈で十分に説明されていない。しかしジャイナ教の諸註釈 で与えられた意味は、その語が仏教文献の文脈でどのように理解されるべ きであるかをわれわれが理解する手助けになる。というのは、ジャイナ教 文献のkevalinは「kevala(すなわち完全な)智慧を所有する人」=「全 知者」を意味する。パーリ語文献の諸註釈においてkevalinは通常仕事を 全うした人、あるいはすべての徳を所有する人として説明される。しかし ながら、kevalinがジャイナ教におけると同様に、仏教においても本来「す べての智慧を有する人」を意味したことを暗示する「智慧の所有者」とい う翻訳がほのめかされる一節がある。しかし、その意味は後世忘れ去られ たか、あるいは仏教徒によって変えられた('51. 時として、後世の仏教の註釈者たちによってなされた増補であると主張 される見解のいくつかが、ジャイナ教文献の証拠により実際は最初から仏 教 組 織 の 部 分 と し て 存 在 し た も の で あ る 、 と わ れ わ れ が み な す こ と を 可 能
にする。『ニッデーサ」(Niddesa)、‘'においてパーリ語pariii頑が三つの知
(知遍知、度遍知、断遍知)として説明され、知覚された対象に対する欲 望と熱情の放棄を含む第3の知(断遍知)の説明が註釈家の創作であるこ とが提示されたu71。この提示は、正確に放棄という同一の観念がジャイナ教文献''81においてpari皿目に対して見出されるという事実によって論駁さ
れ う る 。 ジ ャ イ ナ 教 文 献 は そ の 見 解 が 初 期 の 沙 門 の 宗 教 に 共 通 で あ っ た こ (22)初 期 仏 教 と ジ ャ イ ナ 教 と の 比 較 とを提示している。 mma-vihEiraのような専門用語もまた少なくない。一つの宗教において明 確に定義された文脈におけるその語の存在が、他の宗教に対して与えられ
るべき意味を可能にする。古代と現代の翻訳家は一様に‘garland-building'('91としてその語を仏教文献の文脈で翻訳した。ジャイナ教文献の
援助でレヴイ(L6vi)(20'は、mlaがホールやパヴイリオンを意味するので、 複合語candana-mla-vih師aが「栴檀の棟を伴った精舎」を意味することを 示すことができた。 二つの宗教はバラモン的ヒンドゥ教と財宝(nidhis)の概念を共有する12n。 これらの名前と数は三つの宗教間ですべて同じではないが。財宝が受け継 がれる環境とそれらを所有する人にも違いがある。明らかにある初期の源 泉から受け継がれている仏教文献とジャイナ教文献に見出される多くの通 り名もある。なぜならそれらは両宗教において同一の良い意味をもつが、 後世の非宗教的な文献においてそれらは何か軽蔑的な意味をもつ。例えば、中村元(22)が指摘したように、yakSa(PEiliyakkha,Prakritjakkha)「夜叉」で
ある。 時として用法の十分な相違はわれわれが本来の意味を理解することを可能にする。例えば、khaggi-vis血amvaega.jョe(231、という句である。これを
ヤコービI鋤)は「犀の角のように単独で」と訳す。パーリの註釈家たちが比 愉のポイントが犀の角が一本であることを知っていたという事実にもかか わらず125)、依然として学者の中には註釈家たちの説明を受け入れることを渋っている人たちがいる1261。なぜならパーリにおいて複合語khagga-visma-kappaの用法は、それが犀なのか一本である犀の角なのかわれわれ
に確かでないのであるから。それ故、ジャイナ教の用法における中性形 -vismamが一本の角であることを明らかにするということを記すことは興 味深いことである。 (23)(d)指導者の形容語 ジャイナ教と仏教の両方とも、それぞれマハーヴィーラとブッダに先立 つ複数のジナとブッダが存在したことを信じている。前宗教的指導者の特 有な数の考え方がどこから来たのかはわからない。しかしジャイナ教文献 がマハーヴイーラが最後となる24人のジナの伝統をもち、一方仏教文献が ゴータマ・ブッダに先立つ24人のブッダ(27)に言及するのは偶然の一致でな いかもしれない。パーリ語文献「ブッダヴァンサ』(Buddhavamsa)(281に見 出される3人の余分なブッダの追加は、明らかに仏教における一般的アイ ディアの後世になされた増広である。 ヤコービ(29)は仏教徒とジヤイナ教徒が預言者たちに同じ称号や形容語を 与えていることを記している。例えば、Jina「勝者」、arhat「価値ある人」、
Mahavrra「大雄」、sarvajiia「全智者」、Sugata「善逝」、Tath豆gata「如来」、
Siddha「成就者」、Buddha「覚者」、Sambuddha「目覚めた」、parinirvrta「浬梁を得た」、mukta「解放された」である。ジャイニ(Jaini)(3‘)はジナに適
用されるものとして、術語kevalajmnaを議論する。そして恐らく彼らの
ライバルであるジャイナ教徒と競争しようとして、sarvajiiaとしてブッダ
に言及するのは後世の仏教徒の学派であったことを提示する。 大きな困難は、時々ブッダやジナに適用された長い飾り立てた形容詞の 解釈において起こる。というのは、それらの語はたぶん早い時期に採用さ れ、そしてそれから決まり文句のリストに用いられた。この結果としてそ れらの意味は忘れられた。これらの古くて長い形容語のいくつかは、それ らが時としてvedha韻律(3Dの例であるという事実によって確かめられる。そのような形容語の一つはvEI証candana-kalpa(321であり、ブッダの形容語の
リストにおいて仏教党語にみられる。その意味は明確でなく、多くの議論 を導く。しかし、その解釈の問題はそれがジャイナ教聖典テキスト(33)の対 比 す る 形 容 語 の リ ス ト に み ら れ る 一 つ の ジ ヤ イ ナ 教 徒 の パ ラ レ ルv且sTcamdanakappaがあることに気づくとき解決される。ジャイナ教の註釈
(24)初 期 仏 教 と ジ ャ イ ナ 教 と の 比 較 者たちによって与えられた説明は、それが「斧(の面前における)栴檀の 木のように」を意味しているということをわれわれが理解することを可能 にする。同様にわれわれは仏教文献で形容語の貯蔵リストの中でsama-losta-kaiicanaを見出すし、ジヤイナ教文献(341の比較できるリストの中で
sama-Ietthu-kamcana「等しい価値をもつ土塊と金に関して」を見出す。こ
れらの形容語の前者の長く拡がった改作はv且s子camdana-samma-kappaの語
形にみられ、そして後者の拡がった改作はいくつかのジャイナ教テキスト でsama-tina-mani-letthu-kamcanaの語形でみられる(35)。 ブッダに名付けられたパーリ聖典語vivatta-cchaddaの解釈は困難を導いた。なぜなら、仏教混渚掩語(BuddhistHybIidSanskrit)文献のパラレル
な文節に現われるその語はvighuS1a§abdaであり、古代の翻訳者もまたそ
の語の意味を理解するに当たって、問題をかかえていたと提示するのとは 十分な違いがある(3‘'。その複合語のchadda(サンスクリット語chadma) の部分に対するパラレルはジャイナ教の専門用語chadmastha(37)にみられ、 それをジャイニ(381は「依然として束縛されている人」と訳す。しかし最近になってジャイナ教文献(39'にみられるパラレルな語形viyaua-chaumaに基
づいて、その語に対する一つの説明を与えることが可能になった。ヤコー ビ"01はそれを「不正義を排除した」と訳す。この語はジナの形容語のリス トの中にみられるので、確かにパーリ語索に相当する語のようである側'1.註釈害は次のように説明する。vyElvlttachadmabhyahghョti-kaml且nisamsョro
v
a
c
h
a
d
m
a
t
a
d
v
y
風
v
L
t
t
a
m
k
S
m
a
l
n
y
e
b
h
y
a
s
t
e
(
‘
'
2
)
完全なパラレルがない時でさえ、類似した表現は時として困難な語や句 の解釈の手助けとなる。われわれはブッダに使用された複合語isi-sattama を見出す(43)。ここで仏教徒は伝統的に二つの説明を与える。すなわち「最 高の聖人」と「第7番目の聖人」である。なぜならパーリ語草sattamaは、サンスクリット語棄sattama「最高の」かsaptama「第7の」のどちらかを
表わす。そしてゴータマが第7番目で般後であるとする7人のブッダの貯 (25)蔵リストがあるからである'44)。isi-sとしてのブッダたちの称号はたぶん初
期の宗教から受け継がれた観念であろう。そして7人の聖仙たち(鱒is)
のバラモン教の観念とある点で関連しているかもしれない。これに関連してジャイナ教の伝統が用語jina-SattamaI451をもち、それが「ジナの最上者」
の意味だけをもつことができるということを記すことは興味深いことであ る O な ぜ な ら 7 人 の 勝 者 た ち の 貯 蔵 リ ス ト が な い か ら で あ る 。 (e)言語の概観 ジャイナ教も仏教も同じ地域で興起したので、彼らの初期の言語には大 いに類似性があるに違いない。初期の言語をわれわれは古マガダ語(OldMEigadhr)と見倣すだろう。両宗教とも彼らの言語の特質について似通っ
た考えをもち、彼らが信じた言語の特質はすべての人々に近付きやすい言 語であった(46)。仏教の註釈者仏音(Buddl,aghasa)は、『清浄道論』(Visuddhi magga)
の中でマガダ語(MngadhT)がすべての人々の根本語(rootlanguage)で
あることを述べている。すなわちMZigadhikZIyasabba-sat面nammnla bhョsョya
(Vism44,,34)である。『サンモーハヴイノーダニー』(Sammohavinodan了)
において彼は次のように述べている。根本語は、他の言語を聞いたことの ない一人の子供が自動的に話す一つ(の言語)であることを。すなわち、 mEItZID訂miIョpitEIAndhako;tesamjョtod且rakosacem訂tu kat厄mpathamam sun訂tjDami,a-bh日sambhEisissati;sacepitu-kalhampathamamsulqZiti,Andhaka- bhョsambmsissati・ubhinnamplpanakathamasunantoMョgadha-bh前sambha-sissati・yopiagョmakemahョrafifienibbatto,tatthaamokathentonama n,atthi,sop1attanodhamma面yavacanamsamu帥h訂pentoM同gadha bh且sam evabhEIsissati・nirayetiraccmna-yonIyampetti-visayemanussa-lokedevaIokep
i
s
a
b
b
a
t
t
h
a
M
ョ
g
a
d
h
a
-
b
h
且
s
E
i
v
a
u
s
s
a
n
n
乱
(
V
i
b
h
-
a
3
8
7
'
2
9
-
3
8
8
'
3
)
.
「
母
が
D
a
‐
mila語で父がAndhaka語の子供は、彼の母の言葉を初めに聞くならDamila (26)初 期 仏 教 と ジ ャ イ ナ 教 と の 比 較 語を話すだろう。そして、もし彼が父の言葉を初めに聞けばAndhaka語 を話すであろう。もし彼がどちらの言葉も聞かないなら、マガダ語を話す
であろう。」「モーハヴィッチェーダニー』(Mohavicchedam)の著者は同様
に言った。すなわち、BrahmEmoca,agZimakeaTa耐ekificivacanamasutvョ
vaddhita-d訂rak面caattanodhamma面yabhZisantZiM面gadha-bh且samevabh圃一sissantis面vaapayesumanussedeva-lokec,evapalhamamussanm(Mohl86,
12-15)である。マガダ語がすべての人々の根本語である(mnla-bh目sョsabbasat画nam)と
いう記述はアルダ・マガダ語(Ardha-M訂gadhT、半マガダ語)についてジ
ャイナ教徒によって作られた記述によく似たパラレルを示している。すなわ
ち
、
‘
‘
B
h
a
g
a
v
a
m
M
a
h
a
v
r
r
e
・
・
・
・
s
a
v
v
a
-
b
h
且
s
ヨ
n
u
g
面
m
i
n
T
e
s
a
r
a
s
s
T
e
j
o
y
a
n
a
-
n
T
h
z
i
r
i
n
目
sarenamaddha-m訂gah目ebms訂ebhasai…sヨviyanamaddha−m且gahヨbhヨs目 teslmsavvesimぞiriya-m-anヨriynnamappaposabh訂sZiepalimmenamparlnamal(
A
u
p
§
5
6
)
"
(
‘
7
)
。
他
の
と
こ
ろ
で
、
n
r
i
y
a
-
m
-
a
n
E
i
r
i
y
m
a
m
は
“
d
u
p
p
a
y
a
-
c
a
u
p
p
a
y
a
‐
mlya-pasu-pakkhi-saJTsiv訂nam,,「二足動物、四足獣、野性動物、家畜、烏、
蛇」(SamzIvayamga-satta§34)【‘18)に広げられる。この二つの宗教はまた、
彼らの伝統的なもともとの言語が、すべての人たちにとってわかりやすい と信じることにおいて一致する。なぜならそれらは18の言語に発展したからである。パーリ語文献においてわれわれは次の文節をみつける。“pacchョ
catatoAndhaka-Yonaka-Dami厄di-desa-bhEisョc,evaSakka面di-atthEIrasa-ma-habh目s且canibbat直"(Mohl86,15-17)である。同様に、ジヤイナ教文献 はアルダ・マガダ語が18種の地方語(de§T-bh訂sZi)から成ることを記述し ている(⑲1. ジャイナ教徒と仏教徒の記述が余りにも類似しているので、両方が無関 係であるとはいえない。しかし、仏音がジャイナ教文献の内容について何 の知識もなかったとは思えないし、あるいは彼が知っていてジャイナ文献 から一つの句を借りたとも思えないので、たぶん彼は「セイロン語の註釈’ (27)(SThala-atthakath豆)の中に彼が見出した句を繰り返したのであろうと思わ れる。注釈害における他の情報のように、それは恐らく初期の伝道によっ て北インドからもたらされたものであろう。 (f)文学のパラレル
(i)Pratyeka-buddha(辞支仏)文献
プラテイエーカ・ブッダ(pratyeka-buddha)の存在のような、二つの
宗教に見出される概念に類似性があるばかりでなく、彼らの名前と悟り の原因についての詳細にも類似性がある(50)。 仏 教 と ジ ャ イ ナ 教 に 共 通 な 四 人 の プ ラ テ ィ エ ー カ ・ ブ ッ ダ は 、 ジ ャ イナ教文献「ウッタラッジヤヤナ・スッタ』(Uttarajjhayana-sutta)におい
てシュローカ(61Oka)詩で彼らが支配していた都市名を伴って名づけ られている(51)。彼らはプラティエーカ・ブッダとして明示されないし、 そこには彼らを悟りに導いた対象が述べられていない。彼らは『ニッジユツテイ』(NUjutti、経の説明)のアーリヤー(且ry訂)調の詩に現われ、
それは註釈害(そしてヤコービによってそこから引用された)において デーヴェーンドラ(Devendre)によってシュローカ調の詩で引用される。 すなわち、カラカンドウ(karakanduは雄牛によって悟り)、デゥンムハ (Dummuhaは旗によって)、ナミ(Namiは腕輪によって)、ナッガイ(Naggaiはマンゴーの木によって)(521である、デーヴェーンドラによっ
て与えられた散文の物語は「ニッジュッティ」よりもさらに後のもので あるが、三つの物語はトゥリシュトゥブ(tristubh)韻律の詩で終わっ ている。トゥリシュトウブ韻律は通常初期のジャイナ教文献においての み見出され、それ故その詩は古いテキストからの引用かもしれない。こ れらの詩は王を名前によってではなく、都市名によってその対象に結び つけている(531。またもや彼らはそれらの詩でプラテイエーカ・ブッダと して特定されてはいない。 (28)初 期 仏 教 と ジ ヤ イ ナ 教 と の 比 較 パーリの伝統には同様に四人の王と彼らの都市を名付けるシュローカ
韻律における一詩節がある。それはジャイナ教の詩節と全く似ているI副)。
それは彼らをプラティエーカ・ブッダとして明示していない。同様にど
の対象がどの王を僻らせたかを特に述べている古い詩節はない。しかし、
四つの対象、すなわちマンゴーの木、腕輪、烏、そして牛を与える4つ
の詩節(一つのジャガティー(jagat7)詩脚(pEida)は別としてトゥリ
シュトゥブ韻律における)がある(55)。ジャイナ教のリストと異なる一つの対象ばかりでなく、ジャイナ教の説明とやや違う正確な詳細がある。
『ジャータカ」(Jmaka)の散文部分は、もちろん詩節より大いに遅れて
いるが、彼らを次のように結びつける。すなわち、カランドウ(Karandu
はマンゴーの木によって悟り)、ナッガジ(Naggajiは腕輪によって)、
ニミは(Nimiは烏によって)、そしてドウンムカ(Dummukhaは牛によ
って)である。二人の名前のわずかな交替(ナミとニミ、それにカラカンドゥとカランドゥ)、一つの対象の違い、そしてそれぞれの王の対象
の総合的な変更は、どちらの宗教も一方からその物語を借りなかったと いうことを明確にする。シャルパンテイエ(ChaIpentier)(5.が指摘したように、二つの物語が
共通の伝統に基づいているが故に両宗教に共通である、とむしろ推論す るかもしれない。ちょうど述べられた変異は、仏教とジャイナ教が初期 の形態において名前のリストと対象のリストから成る4人のプラティエ ーカ・ブッダの物語を受け継いだとする理論と一致する。しかし緊密に は結びついていないので再編は不可能である。結びつけられた名前と詩 における同様の変化は他の箇所で指摘されている(571。ジャイナ教と仏教の最古の二つのテキストである「ウッタラッジャヤナ・スッタ』と『ジ
ャータカ』に相違がみられるという事実は、4人のプラティエーカ・ブ ッダの物語の起源が、混同が起こる時間を考慮して、これら二つのテキ ストよりかなり早い時期にさかのぼるに違いないことを明らかにする。 (29)(ii)沙門文献 沙門(§ramana)運動はバラモン教的考え方に反対する宗教的観念だ けでなく、同じ考えを述べる文献をも生み出した。われわれは仏教の『ジ ャータカ」とジャイナ教の「ウッタラッジャヤナ・スッタ」が、アルス ドルフ(Alsdo㎡)1581や他の学者(5,1によって討論された物語を含んでいる ことに気づく。それらの物語は食事を乞うために犠牲祭の囲い地にやっ て来た沙門たちを、バラモンたちが不当に扱う仕方に言及している。そ のような文献は沙門たちが福田(功徳をもたらす田地)であると言う事 実を強調する。そしてそれは功徳をもたらす沙門運動の支えであったが、 バラモンの支えではなかった。この種の物語は特定の沙門グループを意 図していなかったので、両宗教がそのような物語を受け継ぎ、それらを それぞれのテキストに組み入れることを容易にした。 (iii)布施文献 布施の重要性は生み出された文献のすべてのジャンルで両宗教によっ て強調された。仏教の『ダサヴァットゥッパカラナ」(Dasavatthu‐
ppakarana)と、ジャイナ教の『ダーナーシュタカカター』(Dan3stakakath且)
のようなテキストは、寛大な布施者である他の人たちによって得られた 報い(報酬)を信者たちに告げることによって、気前よく布施すること を彼らに奨励するために書かれた。すなわち、功徳を得ること、善業を積むこと、来世で善趣(goodgati)を得ることである。一人の在家者に
とって善趣に生まれ変わることは苦行者が業を滅ぼすことと同様に重要 である。『ウヴァーサカ・ダサーオー』(Uv訂saka-dasョo)で在家者たち についての十の物語のそれぞれは、徳のある行為の結果として神として 在家者が再生するであろう天についての記述で終わっている。布施文献 は信者たち(そんなに信心が厚くない人たち)に善い実践をし、悪を避 けるよう丸め込むために仏教とジャイナ教でともに活用された脅迫と約 (30)初 期 仏 教 と ジ ャ イ ナ 教 と の 比 較
束のすべての部分である。それ故、「報いと罰」の文献のジャンルが現
われた。すなわち、パーリ語で書かれた『ヴイマーナ・ヴァッツ」
(VimEmavatthu)と『ペータ・ヴァッッ』(Petavatthu)があり、プラクリ
ット語で書かれた『ヴィヴァーガスツタ』(Viv訂gasutta)がある。ウィ
リアムス160)は大衆を解脱の思想によって宗教的生活に導くよりも、罰の恐怖や物質的報酬への願望によって強制しなければならないことを明白
に 述 べ て い る も の と し て 、 ジ ャ イ ナ 教 の 著 者 ヴ ァ ス ナ ン デ イ ン (Vasunandin)を引用する。 (iv)一般的なパラレル パラレルは韻律のパラレルにまで及んでいる。両宗教とも上記されたようにヴェーダ(vedha)と古アーリヤー(あるいは古ギーテイ)韻律
を使用した(61'・中村元(‘21によって議論されたような逐語的なパラレルも ある。彼はパラレルがパーリ文献に見出される『アーヤランガ・スッタ」(AyZiramga-sutta)の句と、ジャイナ教のテキストにパラレルな『スッタ
ニパータ』の句を網羅的にリストしている。われわれはまた、共通に使
用された比倫を見出す。例えば(ムンジヤ)草とそのさやの比Ⅱ術I63Iで、 それは密接な関係を例示するのに用いられる。中村("'は蓮華が仏教文献(kumudamsぞiradikam,Dhp285)とジヤイナ教文献(kumuyamsziraiyam,
UttX36)の両方で「秋の」として述べられている点に注目する。 出生よりもむしろ行為による資格に価値を置くバラモンを強調した結 果、両宗教ともそのような人たちの価値を指摘する(もう一度、恐らく 共通の源泉の)文献を生み出した。文献は余りにもよく並行し、特に次のような詩節の繰り返しの句をもつ。パーリ語(DhpvaggaXXVI)に
おけるtamahambrnmibr豆hmanam「彼を私はバラモンと言う」とプラクリット語(Utt、XXV)におけるtamvayambnmam豆hanam「彼をわれわ
れはバラモンと言う」である。しかし、利用可能な並行文節のリスト、 (31)例えば『ダンマパダ』のPTS版(65)におけるリストからみることができ
るような共通の多くの詩節や、さらに多くの詩脚(pma)さえもある。
文献と文学に現われた概念のパラレルは疑いもなく、われわれが知っ ているように、その時代に存在していた多数の浮動している苦行者タイ プの文献に帰されることができる。これはパラレルが仏教文献とジャイ ナ教文献の間ばかりでなく、これら二つの宗教文献とバラモン的ヒンド ウ教の文献の間でもしばしばみられるという事実の説明となるi66)。(9)道徳上のきまり
時 と し て 両 宗 教 は 問 題 に 対 し て 同 じ 解 決 の 仕 方 を す る 。 そ し て 実 際 に 時 としてバラモン的考えを受け継ぐ。例えば比丘の規則である。以前ヤコー ビ(67)はジャイナ教徒と仏教徒が五戒のうち前の四つが、それらの順序は異 なっているが、ピッタリと一致することを指摘した。彼はこれら両宗教の 規則が極めて類似していることが、片方の宗教がもう片方の宗教から借用 したためではなく、両宗教が第5の規則として寛大さをもつバラモンの苦行者(サンヌヤーシンsannyョsin)たちから、それらを借用したがゆえで
あるという意見をもっていた。仏教とジャイナ教という二つの宗教は異な る第5の規則をもたねばならなかった。なぜなら、ヤコービ(6slが述べてい ることであるが、仏教徒やジャイナ教徒のような遍歴遊行者に寛大さを命 じることができないからである。彼らは全てにおいて他人の寛大さに依存 していたのである。 彼らは時には彼らが受け継いだものを変える。例えばヴェーダ(Veda) の概念である。ジャイナ教徒は四つの範晴に分割された文献の収集物に「アヌヨーガ」(anuyoga解説)の名前を与える。それらは時としてジャイナ
教徒の四ヴェーダと称される1691.仏教徒はtevijja(三明)という用語を使
用した。それはサンスクリット語形がtraividyaであり、本来三つのヴェ
ーダを知っているバラモンに適用されたが、仏教徒は過去の存在、天眼、 (32)初期仏教とジャイナ教との比較
そして漏(訂sava)の破壊の三つの知識(神通力)をもつ人に三明を用い
た(70)。 3.相違点両宗教が同じ問題に直面して以来、両方が時として同じ解決に到達した
ことは、不思議なことではない。同様に両宗教はしばしば全く異なる解決
策をとった。 (a)社会観両宗教とも生命維持のために在家者たちに大いに依存したが、在家者に
対する態度は異なった。ジャイナ教は在家者による役割を大いに強調し(7,)、
在家者に対する入門書の配布を強調した。これらの40以上のものがジャイ
ナ教に対して知られるが、仏教では『ウパーサカジヤナーランカーラ』
(UPョsakajanョlankEIra)が、上座仏教に存在する唯一比較できる作舶である。
仏教徒たちは、哲学的問題を扱うことに一層興味があったように思われる。
第2にジャイナ教徒は、周囲のヒンドウ教の民衆の中に、大変用心深い
方法においてであるが、彼らを慎重に融合させようとしたように思われる。
ジャイナ教の教師たちはヒンドウ教の実践を受け継いだが、それらに特別
なジャイナ教の香りを与えた。それ故多くの評者は、ジャイナ教徒がヒン
ドゥ教徒と見分けがつかないと主張したが、ジャイナ教徒自身は強くこれ
を否定することができた。ジヤイニ1721は神、僧侶、供物や聖火のような概
念に対するジャイナ教徒の態度に、より彼らの否定を正当化する多くの点
があることを指摘した。 (b)宗教観 (i)我(、man)ブッダは普遍我(worldat面)の存在を否定したばかりでなく、恒久
(33)的な個我(individualaUn)の観念も否定した。それ故、転生したものが
何であるかは大いに不明確であり、浬桑(nibbma)を得た人の状態を
述べることは、とてもむずかしいことがわかった。恐らく浬梁を得た人
の状態がないと語ることの方がもっと正確であろう。なぜなら、浬渠は
何かのようであるとか、あるいは浬梁を得た人はどのような人であると
言うことは可能でないからである。状態のないところで生命のないもの
の状態が、どのように述べられるべきかは明らかではない。それはブッ
ダが死後の如来(Tathagata)の存在や非存在を議論することを拒否した
難問である。人がただ言えるのは、浬薬とは何かのようではないという
ことである。それは輪廻(samsZira)のようではない。結果的に、それ
は否定あるいは反対の用語でしばしば定義される。それは存在の苦しみ
(dukkha)と対照的である「この上ない幸せな」(siva)、あるいは「幸
福な」(sukha)である。それは輪廻の終りのない運動と対照的である「動
かないこと」(acala)である。それは輪廻の繰り返される死と対照的で
ある「不死」(73’(amata)である。それは誕生、存在、作られたもの、そ
して形成されたものがある世界と対照的である「生まれることがない」
(aj面ta)、「存在することがない」(abhnta)、「作られたものがない」(akata)、
そして形成されたものがない(asankhata)のである。ジャイナ教徒は次のことを信じることにおいて仏教徒とは異なった。
つまり普遍我はないが、それにもかかわらず、個我が汚れた状態の故に
さまざまな化身の状態において、連続する再生を耐えなければならない、
恒久的で永遠に続く個我があると信じることにおいて異った(74'・ジャイ
ナ教徒はそれ故、個我が解放を得たとき、それが成就(siddhattha)「ゴ
ールを獲得したもの」と呼ばれ、そしてそれはすべてのsiddha「完成し
た人」が行く世界の頂点であるsiddhi「完成」の場所に行くのである、
ということができる。ジャイナ教の写本の中にわれわれが時々見出す世
界の図において、宇宙は一人の人間の形で非常にしばしば描かれ、彼の
(34)初期仏教とジヤイナ教との比較
腰に地球があり、腰の下に地獄、腰の上に天がある、一方、siddhiの場
所は額の上の右側にある。束の間の存在の背後に真の実体を仮定することによって、ジャイナ教
徒は、彼らは維持しているのだが、輪廻である業による束縛か、あるい
は浬梁であるこの束縛からの解放かを論理的に説明することを不可能に
する仏教徒の実体の否定に反論する。断減論(ucchedavEIdin)の中にあ
る仏教徒の教理は否定されなければならないi751n (ii)趣(Gati):再生の場所仏教徒もジャイナ教徒も輪廻の観念から生じる趣(gati)の観念をも
つ。しかしジャイナ教徒には4つの趣がある。すなわち、天(deva)、
人間(manuSya)、地獄の住人(唾aka)、動物や植物(tiryafica)である1761.
一方、仏教徒には五つの趣がある。すなわち、天(deva)、人間(manussa)、
餓鬼界(pittivasaya)、畜生(tiracchEmayoni)、地獄(niraya)である。そ
して後世、餓鬼と人間の間に阿修羅(asura)を置いて6つとなる。 (iii)業(karma) 仏教とジャイナ教はカルマ(業)を信じ、カルマによって生み出される報いを信じることでは一致しているが、ジャイナ教徒は、他の学派に
よって考察されたある種の準物理学的あるいは心理学的な要素というよ
りも、むしろカルマはそれ自身実際の物質である、とはっきり主張する
ことにおいて、インドの諸宗教にあって独、の立場に立つ。カルマは霊魂を突き刺し、束縛する。そして、霊魂は実際にカルマによって汚され
るのである(771向 (iv)漏(訂sava) 仏教とジャイナ教はどちらもアーサヴァ(且sava)という用語を使用 (35)する17s)。しかし仏教徒の用法はその語の語源に合致しない。一方、ジャ
イナ教徒の用法は合致する。この語の語源(接頭辞面「∼に対して」+
語根sru‐「流れる」)は何か流れこんでくるものを示し、また、これは ジヤイナ教徒の用法によく合致する。なぜならそこでのアーサヴァは個 人に流れ込む影響力であり、霊魂を変色させる179)。われわれはジャイナ 教の写本に、人々に流れこんだアーサヴァの量に依存して、白から黄、 赤、青、緑を経て黒に及ぶ人々を描いたこの挿絵を見出す。これは仏教 徒の考えに合致しない。そこではアーサヴァは個人に流れこむことのできる檎性ではない。実際にそれらは4つの「流れ」(ogha)(801に一致し、
そして、仏教においてその語がその本来の意味を失ったことは明らかな ように思われる。それ故、語源的、解釈上は「影響」あるいは「流入」 という翻訳はジヤイナ教徒の用法によく合致しているが、それは仏教に とって全く満足のいくものでない。 (v)苦行 仏教のテキストはブッダがほとんど骨と皮になるまで極端な苦行を試 みたことを報告する。しかし欲望の終駕に達しなかったし、ついに彼は快楽と苦行(tapaS)の中途にある一つの道に落ち着いた。それに反し
て、ジャイナ教徒は苦行主義を特別に目立たさせた。そしてジャイニ(Sm は次のように報告する。ジャイナ教徒は、ゴータマ.ブッダがニガンタ (マハーヴィーラ)と違って、極端な苦行を放棄し、「中道」を歩んだと いう事実を誇らしげに指摘していると○心を傾けた目的をもたない(苦 行を放棄した)この規範が仏教教団を、マハーヴイーラの手本に基づい たジャイナ教共同体が免れているさまざまな種類の放縦さに、結果的に 陥らせることになったことを、ジャイナ教徒は提示する。 (36)初 期 仏 教 と ジ ャ イ ナ 教 と の 比 較 (vi)自殺
両宗教とも他人を殺すことを非難することで一致しているが、自分自
身の殺害すなわち自殺に対する態度はやや異なっている。死に到る断食
(sallekham)はジヤイナ教徒にとって受け入れられた実践であった182)。
自殺に対するブッダの態度はあまり明白ではない。しかし、雌虎が子供
たちに餌を与えることができるように、その虎に身体を与えている菩薩
の自殺のような物語(83)は、他の人たちの利益の為に自己を殺すことが受
け入れられることを示している。 (vii)婦人 最初は渋ったが、後にブッダは婦人が教団に入ることを許した。そしてわれわれは多くの救済の獲得を読む。ジャイナ教は学派によって婦人
に対する態度が異なる。裸形派(Digambaras)は婦人が解脱(moksa)
を得ることができないし、婦人は解脱が可能になる前に一人の男として生まれなければならないと信じる。白衣派(svetEimbaras)は、これに
反して婦人が男と同様な精神的な完成の能力があると信じる。 (viji)ティールタンカラやブッダになること両宗教とも布施、病気の托鉢僧に対する奉仕、教えの啓発のような称
讃に値する行為を徳あるものと褒めるが、一人のジャイナ教徒はティールタンカラ(TIrthankara)になる目的をもってこれらの称讃に値する行
為を追い求めないだろう。そうすることは(禁じられた)来世への願望(nidma)(行為の返礼としての世俗的な利益に対する欲望)の構成要素
となる(劉)。しかしながら、仏教において菩薩(bodhisatta)への熱望は、 菩薩に達することを何度も何度も決心し、その終駕にすべての善行の業 果 を 捧 げ る こ と さ え し た 、 (37)(ix)肉食 二つの宗教とも祭祁のために動物を殺す態度で一致していたし、ヴェ ーダの儀式にも反対した。彼らはまた、食物のために動物を殺す態度で も一致していた。しかし、ジャイナ教徒はこの点で仏教徒以上である。 仏教徒は、もしそれが彼らの為に特別に殺されたのでなければ、托鉢に 歩いているときに彼らに与えられた肉を食べることが許された。彼らは また、もし一匹の動物が自然死をしたなら肉の消費が許された。ジャイ
ナ教はこの後者の譲歩さえ拒否した。死んだ肉は無数の霊魂(nigodas)
の繁殖地であり、それ故に食べられるべきではないことを主張した。ジ ャイナ教徒は事実上、インドで菜食主義者の最初の唱道者であった。 (x)叙事詩 ジヤイナ教の教師たちは、特にラーマ(Rma)やクリシュナ(Krsna) という二人の神話的な人物が、大衆の心をとらえ、宗教に入信している ことに関係なく、大勢の信奉者を生み出すに違いない巨大な力であるこ とを知っていた。彼らはこの魅力を無視することが彼ら自身の社会を分 裂させてしまう危険があるということを理解していた1851。彼らはそれ故、 ジャイナ教文献の文脈において、ラーマとクリシュナを配置しながら一 組の神話のパラレルを発展させたし、ジヤイナ教の倫理の観点から彼ら 各自の行為を取り扱った。 ジャイナ教徒はラーマの物語を借用したばかりでなく、その物語に関 して二つの点でバラモンに対して攻撃を続けた。すなわち、(a)ジヤイナ 教徒はその物語の彼らの改作に対して、より古い典拠を主張した。そし て、(b)ジャイナ教徒はバラモン版のある部分を偽りであるとして否定し た。現存する最も古いジャイナ教版、これは恐らく2世紀のものであるが、その著者であるヴイマラスーリ(Vimalasnri)は次のように述べて
いる。ラーマ物語はマガダ(Magadha)王シュレーニカ(srenika、前5
(38)初 期 仏 教 と ジ ャ イ ナ 教 と の 比 較 世紀)がマハーヴイーラ(Mah訂vTra)の所まで行き、通常告げられるよ うにその物語における確かな矛盾を指摘したときに始まった。その物語 の ジ ャ イ ナ 教 版 は そ の と き マ ハ ー ヴ ィ ー ラ の 第 一 弟 子 で あ る ガ ウ タ マ (Gautama)によって述べられた。すなわちその作品は、有名なバラモ ン教版の著者であるヴァールミーキ(VZilmrki)の約200年前にさかのぼ ることになる。
ヴァールミーキの物語と『ラーマーヤナ』(R訂mEIyalua)のジャイナ教
版 の 基 本 的 な 相 違 は 、 後 者 が す べ て の バ ラ モ ン 教 的 詳 細 を 避 け 、 全 物 語 をジャイナ教徒の舞台に組み込んだことである。ヴァールミーキ版でラ ーマは、いわば唯一の戦争の引き金となるシーター(s頑)の掠奪より ずっと以前に、ラーヴァナ(随vana)に対抗する(バラモンの)聖仙た ちを援助していた。彼女が連れ戻された後、追放された時、シーターは 彼 女 に つ い て の ラ ー マ ー ヤ ナ 物 語 を 創 作 す る 世 捨 て 人 ヴ ァ ー ル ミ ー キ と ともに避難する。ジャイナ教版ではすべての主要人物はジヤイナ教徒で ある。ラーマは追放されている間、ジャイナ教徒の牟尼や寺院を尋ねる ジャイナ教徒である。シーターはラーヴァナが彼女を誘惑しようとして いる間、彼女自身を安全に保つための五重のナマスカーラ(ナマスを唱 えること)を唱えているジャイナ教徒である。ラーヴァナ自身でさえ、 ジャイナ教寺院を修理させることによって功徳を獲得するジャイナ教徒 である。ラクシュマナ(Laksmama)と闘っている間に自由に自分の体 を変化させることができるであろう魔法の呪文パフ・ルーピニー(bahu‐mpinT)を獲得する必要があるとき、彼は第16代ジナであるシャーンテ
イナータ伯訓、tha)に称讃の讃美歌を読詞し、そして、彼の都市のす
べての人々は、死刑覚悟で彼がこの終罵に到達できるように8日間ジナ の宗教に捧げられることを命じられる。その物語で改作できる機会があ ればどんな場面にも、動物の犠牲を遂行する邪悪さのような、ジャイナ 教ぴいきで反バラモン的な主題に関する説教が挿入される。カルマの伽 (39)きを強調するために、登場人物たちはしばしば彼らの前生、現在の状態 を生み出した特別な環境を述べ、そしてその物語の終りで主役たちの将 来の誕生は予言される。その物語に現われるバラモンは、彼らがそれを 突き付けられるや否やジャイナ教を信じるか、あるいは初めはラーマを 罵るか虐待するが、後に彼らの過ちに気づいてジャイナ教徒になるかで ある。 それに反して、仏教徒がラーマ物語を比較的使用しなかったというこ とは注目すべきである。全パーリ聖典においてそれに言及しているのは わずか3箇所だけみられるにすぎない。二つはちょっとした言及であり、 その一つはシーターの専心(86)、そして他はラーマ(87)の母についてである。 第3はラーマの父の名をとって名付けられた『ダサラタ・ジャータカ」
(DasarathajZitaka,JaⅣ123-30)で、そこではラーマ物語と聖典の詩節
の結合が、ジャータカの三つの詩節に主人公の名前が含まれているとい う事実によって証明される(881。 詩節を伴って詳しく述べられた散文物語は、もしかするとおよそ紀元 前3世紀からのものである詩節より恐らくずっと後のものであろう。そ れはラーマとシーター(物語のこの版で兄妹である)がどのようにして ラクシャナ(Laksana)と森に行ったかを告げる、バラタ(Bharata)が 彼らに彼らの父であるダサラタ(Dasaratha)が死んだことを告げ、ラー マに王になることを求めた。ラーマは拒否したが、バラタ(Bharata) を慰めた。彼自身は彼の父の死に個人的感情を示さなかったが、彼はバ ラタに草履を与えた。そして(この物語は続く)。「3年間草履がその王 国を支配した。延臣たちは訴訟事山を裁くとき、これらの草履を王座に 置いた。もし訴訟がまちがって裁かれるなら、草履は互いに叩き合いそ の印でそれは再び検討された。決定が正しい時、草履は静・かなままであ る。」ラーマとシーターが森から帰って来たとき、王子たちはシーター をラーマの第1王妃とし、ラーマは16,000年の間、王国を支配した。驚 (40)初 期 仏 教 と ジ ャ イ ナ 教 と の 比 較
くことに物語は兄妹の固有の関係に言及していない。そしてこれはまた
上に述べられたシーターの忠誠に言及する註釈においてほのめかされる (JaⅥ558,21,-23,)。ラーマ物語はまた、5世紀の仏音(Buddhaghosa)にも知られていた(人
は彼が以前バラモンだったことを当然のことと思うように)。しかし、彼
はBh目rata-yuddha(バラタ族の戦争)を伴ったSTtZi-harana「STt豆の掠奪」
の物語をniIatthaka-kath面(8,1(利益のない物語)やp且pakamsutamI90)(悪い
風聞)として捨て去った。彼のコメントは、『ラーマーヤナ』(Rzimyana)
と『マハーバーラタ』(MahZibh証ata)に対する仏教徒の態度の典型であ
るように思われる。 4 . 後 世 の 歴 史二つの宗教の後世の歴史は個別の現象に対する考え方において、時には
一致し、時には異なるといった混在するものを示した。それらが興ってか
ら最初の数世紀の間、両宗教は類似したパターンをたどった。それら双方
とも王室の支援を得て、そしてしばらくは国教とみなされることができた。
両宗教はバラモン教の再出現に直面したとき衰えた。そして部分的にはそ
の結果として、部分的には布教の熱意によって彼らは活動の範囲一仏教
徒は北、北西そして西(そしてそこからスリランカへ)に、またジヤイナ
教は北、西、南に−を広げた。それ以来、彼らの歴史は異なり始めた。
イスラムの猛攻撃に直面して仏教は母国で生き延びなかったし、仏教徒は、
インド以外の地ではたいへん強かったが、1000年までにはインド本土でほ
とんど姿を消した。それに反してジャイナ教は生き延びた。彼らの数は少
なかったが、彼らは王国の西と南に大きな影響力をもった。
ジヤイナ教が生き残ったのは上記したが、ジャイナ教徒が在家者を強調
した結果にもよるということには議論の余地がある。聖像破壊者のイスラ
ム教徒が北インドの大きな仏教僧院を破壊したとき、指導者のなくなった
(41)在家仏教も衰退した。一方、ジャイナ教の在家者の大きな統合は、(イス ラムによる)高位聖職者への攻撃がそのような悲惨な結果をもたらさなか ったことを意味した。さらに、周囲のヒンドゥ民衆への慎重な融合は、ジ ャイナ教徒がヒンドゥの実践に従うとの印象を与えることができ、ヒンド
ゥ信仰にとけこみながらも独自性を依然として保持することができること
を意味した。 仏教の没落の一因となった大きな要素が次のことにあることは確かであ る。大叙事詩集がインド社会のすべての階層の人たちにとって大きな魅力 をもっていることを自覚できなかったことであり、ジャイナ教徒がこれらの詩(叙事詩)集を作って使用したのとは著しく違って、叙事詩をバラモ
ンに戻すことによってバラモンの宣伝活動を利用することに結果的に失敗 したことである。 5 . 結 論 初期ジャイナ教と仏教の文献における共通の要素の研究で、中村元は最初期の段階における仏教の様相を明らかにするために、初期ジヤイナ教聖
典の研究が不可欠であると結論した。彼は類似性が単に文献に及んでいる ばかりでなく、広い意味で二つの宗教の比較研究がインドの宗教と文化の さまざまな様相の解明につながるであろう、と指摘し続けた。われわれは中村に賛成である。なぜなら仏教とジャイナ教は共通の起源
を分かち合い、それぞれの研究が他方に光明を与えることは明白であるか らであるし、この種の比較研究が彼らと同時代に北インドに流行した他の宗教との関係と同様に、二つの宗教をもっと詳細にわれわれが理解するこ
とを助けることになると思われるからである。 (42)$M
Alsdorf, L., 1957, "The story of Citta and Sambhuta", in Felicitation Volume
for Prof. S.K. Balvalkar, Benares, pp. 202-8
,1958, "ItthTparinna", IIJ II, pp. 249-70
,1962, "Uttarajjhaya Studies", II] VI, pp. 110-36
,1965, Les Etudesjaina: Etat present et tachesfutures, Paris Bollee, W.B., 1977, Studien zun Suyagada, I, Wiesbaden
,1983, Reverse index of the Dhammapada, Sutta-nipdta, Thera- and
Thengdthd Pddas, Reinbek
Burford, Grace G., 1991, Desire, death and goodness: the conflict of ultimate
values in Theravdda Buddhism, New York
Caillat, C., 1960, "Deux etudes de moyen-indien", JA, pp. 41-55
,1961, "Nouvelles remarques sur les adjectifs moyen-indiens phcisu,
phasuya", JA, pp. 497-502
Charpentier, J., 1908, Paccekabuddhageschichten, Uppsala
Edgerton, F., 1953, Buddhist Hybrid Sanskrit Dictionary, New Haven Gombrich, R., F., 1971, Precept and Practice, Oxford
,1980, "The significance of former Buddhas in the Theravadin tradition", in
Somaratna Balasooriya et al. (edd.): Buddhist Studies in honour of Walpola
Rahula, London, pp. 62-72
Hinuber, O. von, 1981, "Die Entwicklung der Lautgruppnen -tm-, -dm- und -sm-in Mittel- und Neu-sm-indischen", MSS 40, pp. 61-71
,1982, "Upali's verses in the Majjhimanikaya and the Medhyamagama", in
L., A. Hercus et al. (edd). Indological and Buddhist Studies (in honour of
Prof J. W. de Jong), Canberra, pp. 243-51
Hinuber, O. von & Norman, K.R. (edd.), 1994, Dhammapada, PTS Oxford
(43)Jacobi, H., 1879, The Kalpasutra of Bhadrabahu, Leipzig ,1884, Jaina Sutras, Part I , SBE Oxford
,1885, "Indische Hypermetra und hypermetrische Texte", Indische Studien XVIII. pp. 389 foil.
,1886, Ausgewahlte Erzdhhtngen in MdhdrdstrT, Leipzig ,1895, Jaina Sutras, Part II, SBE Oxford
Jain, i.C, 1947, Life in ancient India as depicted in the Jain canons, Bombay Jaini, P.S., 1979, The Jaina path of Purification, Berkeley
Jayawickrama, N.A., 1949, "Sutta Nipata: The Khaggavisana Sutta", University of Ceylon Review, VII, 2, pp. 119-28
Jong, J.W., de, 1974, "Notes on the Bhiksunl-Vinaya of the Mahasamghikas",
in L. Cousins et al. (ed.), Buddhist Studies in Honour of LB. Horner, Dordrecht, pp. 63~70
Leumann, E., 1883, Das Aupapdtika Sutra, Leipzig
Mette, A., 1981, "Eine Jinistische Parallele zum Musika-Jataka", in Studien zum Jainismus und Buddhismus, Wiesbaden, pp. 155-61
Nakamura, H, 1983, "Common elements in early Jain and Buddhist literature", IT XI, pp. 303-30
Norman K.R., I960, "Middle Indo-Aryan Studies (l)", JOl (B) IX, pp. 269-71
(=CP I, pp. 15-20)
,1969, Elders' Verses I, PTS London ,1971, Elders' Verses II, PTS London
,1976, "Kriyavada and the existence of the soul", in Buddhism and Jainism,
Cuttack, pp. 4-12 ( = CP II, pp. 99-112)
,1979, "Two Pali etymologies" BSOAS 42, pp. 321-28(= CP II, pp.
71-83)
,1980, "The dialects in which the Buddha preached", in H. Bechert (ed):
The language of the Earliest Buddhist Tradition, Gottingen, pp. 61—77 ( = CP
II, pp. 128-47)
,1981, "A note on atta in the Alagaddupama-sutta", in Studies in Indian
Philosophy {Memorial volume for Pandit Sukhlaji Sanghvi), Ahmedabad, pp.
19-29 ( = CP II, pp. 200-9)
,1983A, "The Pratyeka-buddha in Buddhism and Jainism", in Denwood
and Piatigorsky (edd.) : Buddhist Studies: Ancient and modern, London, pp.
92-106 (= CPII, pp. 233-49)
,1983B, "The nine treasures of a cakravartin", IT XI, pp. 183-93 ( = CP III,
pp. 19-32)
, 1983C, Pali Literature, Wiesbaden
,1985, "The influence of the Pali commentators and grammarians upon the
Theravadin tradition", Buddhist Studies (iLMMft) XV, pp. 109-23 (= CP
III, pp. 95-107)
,1987,"The origin of the Arya metre", in Buddhist Philosophy and Culture
(Essays in honour ofN.A. Jayawickrama),Colombo, pp. 203-14 (= CP IV,
pp. 20-35)
—,1989, "Common terminology in early Buddhist and Jain texts", in
Jainology: manifold facets (Pt. Jaganmohanlal Shastri Sadhuvad Grantha),
Rewa, pp. 393-97 ( = CP IV, pp. 264-70)
—,1990-96, Collected Papers I -VI
,1991A, "Theravada Buddhism and brahmanical Hinduism", in T.
Skorupski (ed.), The Buddhist Forum, Vol. II, pp. 193-200 (= CP IV, pp.
271-80)
—,199IB, "The role of the layman according to the Jain canon", in M.
Carrithers & C. Humphrey (edd.): The Assembly of Listeners: Jains in Society,
Cambridge, pp.31-39 (=CPIV, pp. 174-84)
—,1991C, "Uttarajjhayana-sutta XIV : Usuyarijjam", in Aspects of Jainology
(Pt. Dalsukh Bhai Malvania Felicitation Volume), Vol. 3 Varanasi, pp. 16~
26 ( = CP IE, pp. 244-56)
,1992, The Group of Discourses, Volume II. PTS Oxford —,1996, "Solitary as a rhinoceros horn", BSR 13, 2, pp. 133-42
Roth,G., 1976, "Dhammapada verses in Uttarajjhaya 9", Sambodhi V, 2-3, pp.
166-69
Schubring, W., 1962, The Doctrine of the Jainas, Delhi
Speyer, J.S., 1895, The Jatakamala or Garland of Birth-stories, SBB London
Tatia, N., 1983, "Parallel developments in the meaning of parijna (Prakrit
parinna, Pali parihhd) in the canonical literature of the Jainas and Buddhists",
IT XI, pp. 293-302
Vetter,T., 1985, "The most ancient form of Buddhism", in Buddhism and its
relation to other religions (Festschrift for Dr. Shozen Kumoi), Kyoto
Warder, A.K., 1967, Pali Metre, PTS LondonWilliams, R., 1963, Jaina Yoga, London
»fi-*5
A- ') t V -V 4" i- m-T^-A r CDPfr^ii rtl'WV-?- 'J mWM! (A Critical
Pali Dictionary, Copenhagen 1924-) Ciotff If] £ fl tzB&7? t? 4) h „
BHSD = Buddhist Hybrid Sanskrit Dictionary (= Edgerton, 1953)
BSOAS = Bulletin of the School of Oriental and African StudiesBSR=Buddhist Studies Review
CP=Collected Papers ( = Norman 1990-96)
(46)Erz.=Ausgewdhlte Erzdhlungen in MdhdrastrT (= Jacobi, 1886)
EV I , II = Elders' Verses I ,U (= Norman 1969, 1971)
GD = Group of Discourses ( = Norman 1992)
IIJ = Indo-Iranian JournalIT = Indologica Taurinensia JA=Journal Asiatique
JOI(B) = Journal of the Oriental Institute (Baroda)
MSS = Munchener Studien zum Sprachwissenschaft PSM = Paia-sadda-mahannavo
PTS = Pali Text Society
SBB = Sacred Books of the Buddhists SBE = Sacred Books of the East
li
(1)
See Norman, 199IB, p. 35.
(2)
Williams, 1963, p. xvi.
(3) Uvasagadasao, § 12. (4) Gombrich, 1971, p. 326. (5) See Norman, 1981, pp. 200-9. (6) Suyagadamga, I. I. 1. 9-10.(7)
Referred to by Bollee, 1977, p. 63.
(8) Jacobi, 1895, p. 237, note 2. (9) See Norman, 1989, pp. 264-70.(10)
"A course of intensive austerity", see Tatia, 1983, p. 293.
(11) "Ofsuch a kind, Buddha-like, holy", see Norman, EV I, p. 131 (ad Th 41) and
p. 271 (ad Th 1077); and EV U, p. 109 (ad ThT 249-50); de Jong, 1974. p. 69,
note 8: and Alsdorf, 1965, pp. 5-6.