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̶縮小論的な視点から ̶   

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平成21年度    博士課程論文   

                     

人口減少時代における日本農村社会の維持・存続問題に関する研究 

 

 

̶縮小論的な視点から ̶   

                       

熊本大学大学院  社会文化科学研究科  公共社会政策論    079‐G9201    Tolga OZSEN 

 

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目次 

はじめに                     

第一部  産業化・都市化過程の中での日本農村社会の変動     

第一章  産業化・都市化以前の日本の村落社会            7 

第二章  農村社会の側からみた日本の高度経済成長期          14 

第三章  高度産業社会における農村・農業の維持・存続問題        19 

第二部  集落の日常生活の維持における高齢者と他出子の可能性を探るにあ たって                      22 

第四章  集落の日常生活を維持するうえでの担い手としての高齢者      23 

第五章  集落維持・存続における他出子の考察            36 

第三部     農村社会の将来を考えるにあたってー縮小論的な視点からー  52  第六章  人口減少時代における農村再生論の現在          53 

第七章  『T型集落点検』からみた縮小型集落像̶予防対策論的なアプローチから現実分析的な 視点へー                      59 

第八章  終わりに                  84 

注                        90 

参考文献                      92 

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は じめ に      

本論文を構成するにあたって、留学生の立場から議論を進めることに一つ意味があると考えていることを 最初に強調しておきたい。自国であるトルコは19世紀の後半、とりわけ共和国の誕生時期(1920年代)から 近代化を展開している。トルコにおいては、さまざまな社会の近代化過程のなかでの社会の変化・変動も 研究されているが、そのほとんどは西洋社会の研究に限られている。また、大きな枠組みのなかで考えれ ば、「アジア」の諸社会においても近代化が展開しており、なかでも「日本」は最も早くそのプロセスを経て いる社会である。このような現状があるのにも関わらず、トルコにおける「アジア研究」は非常に少なく、中で も「日本社会」に関する研究は言語学、経済学、歴史学に限られており、そのほとんどは「文化論」的なア プローチが強い。よって、日本社会の近代化過程を分析することは、トルコの「日本研究」においても意味 があると考えられる。 

本研究では、農村社会を通して日本の近代化・産業化における変化を見ていくことにしたい。なぜなら、

日本の近代化や経済発展を支えたのは、その変化過程のなかで最も影響を受けた農村社会であると考え ているからである。このような背景を踏まえ、日本社会が明治時代以降、とりわけ高度経済成長期以降、に 経験してきている社会変動や社会問題を研究し把握すること、そして日本の農村社会学的な方法論を身 につけることによって、トルコの農村社会において発生する諸社会問題に対して新たなパースペクティブ を設けることが留学生としての一つの役割だと考えている。 

本研究においては、「日本の田舎の将来はどうなるのだろうか。どうすれば田舎が安定した形で今後も維 持できるのだろうか。」という非常に根本的な疑問点から出発し、農山村社会の将来像を考えていくことを 主題(メインの目的)としたい。しかし、本論に入る前に、本研究の基本的なスタンスを整理する必要がある。

タイトルにおいて「縮小論」的な視点からと記述しているが、この「縮小論」というのはいったいどのようなも ので、何の意味をもっているかをここで簡単に議論しておこう。縮小論というのは、社会学的な視点におい てはまだ枠組みが定まっておらず、「論」としての構造もまだ成立していない。そのため、ある理論を用い、

議論を展開するというよりも「縮小論」という概念は本論文にとって何を意味しているのか、本論文の基本 的なスタンスを決める上で何故必要なのかを整理したい。 

  縮小論を考える際に、まず日本社会の近代化の中での社会変動を見る必要がある。日本は明治時代か ら近代化がはじまり、特に第二次世界大戦後の高度経済成長期においては産業化・都市化により急速に 近代化過程が進んだ。近代化は、基本的には人口・生産・空間の拡大をベースとした形で展開していくも のであり、日本社会の近代化も同じ過程を経ている。人口の増加、大量生産・大量消費構造、国際化に加 え車社会の成立による空間論の広がりといったことにより、日本社会も「拡大」を目標に、産業化・都市化を 進めたわけである。ここで見逃すべきではない点は、「人口増加論」にある。日本の経済発展は人口増加 時代にあたり、人口増加が経済発展を支えたことは事実であり、経済発展と人口変動(増加)の相互関係 などのこれまで議論されてきた点には反論する気はない。産業化・都市化にともなう人口移動によって農

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山村がとりわけ1960年代ごろから若年層の都市への移動によるさまざまな問題を抱えるようになる。現在 においては時代とともに構造が変化し、農村社会を取り巻く諸問題が大きく変質してきているのにも関わら ず、農村社会の諸問題を取り扱おうとするパースペクティブはまだ変わらず、人口増加=経済発展(or活 性化、or集落維持・存続 )という側面に限られている。  

  一方、現実的な見方をすれば、2005年から日本社会全体において人口減少が始まっている。さらに、農 山村社会はそれを数十年前からも経験してきている。にもかかわらず、集落の維持・存続問題は現在でも 経済発展段階の「拡大」論的な発想が基本となり型を変えた、「人口交流論」的政策が進行している。すな わち、「定住人口が増えないなら、交流人口の増加をベースにした都市農村交流による活性化/維持/

発展論」が導入され、政策化されている。 

  現実を直視すれば、(日本社会全体においてもそうであるが)農村社会は、人口が減少することを強く意 識しながら、つまり、「縮小論」的な視点を導入しながら、存続できる集落像を考えなければならないことが 非常に重要である。  

  広義の意味としての縮小論を本論文でどのように取り扱うかについて論述したが、著者が考えている「縮 小論」そのものについて簡単に整理をしよう。縮小論というのは、発想としては以前から社会学に存在して いるものではある。事実、高田保馬は(1971)日本社会の変動を論ずるなかで縮小論の基本的な発想も取 り入れている。高田は「結合定量の法則」をもとに出発し、日本社会の将来の方向性を描く際に次のような 段階があると述べている。「①基礎社会、とくに親族集団および村落共同体が解体し、また基礎社会はし だいに利益社会化する  ②全体社会は国民社会へと拡大し、部族や氏族や村落共同体は消滅していき、

他方、家族は核家族へと縮小していく。 」(高田,1971) 

これは富永健一の指摘の通り、日本社会の近代化の方向を示しており、富永は高田のこの過程説明を 導入し、自身の「近代化論」を展開させた(富永,1990:74)。ここで、注目したいところは、社会変動論とし て「拡大型社会」から「縮小型社会」への変化の部分である。高田の「縮小型社会」を考える基準は大きく みると、基本的には家族がいくつかの世帯に分解するという変化や共同体の消滅ということの背景には

「人口」的な部分が強くあるような印象を持つ。 

そして、徳野は農村社会に関するさまざまな過疎研究が、地域の実態把握のために非常に重要だとし、

これまでの過疎研究の重要性を指摘している。しかし、徳野が「実態過疎論」と名付けているこれまでの研 究をベースとした政策から過疎農山村の展望が開ける可能性は非常に少ないとし、人口減少型社会への 展開の中での人口増加型地域形成論の矛盾について強く主張し、縮小論的な見方を示している。そこで、

日本における「過疎現象」の解釈を再確認することに着目し、「システム過疎論」的な視点で農山村社会の 将来展望を考えようとしている。徳野はシステム過疎論を次のように説明している。 

「日本の過疎現象は高度経済成長期以降の急激な人口移動によって発生したのではなく、20世紀初 頭以降の3.5倍にもなる急激な人口増加が過疎現象の前提にある。・・・過疎現象というのは、20世紀の日

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本の急激な人口増加と急激な人口減少・流失の複合的現象として解釈すべきである。ここで重要なことは、

日本の社会経済システム、単に産業就業構造のみならず学校制度も家族のあり方や家族観などの社会 意識も、ありとあらゆる事が人口増加を前提として組み立てられてきた事である。当然地域発展も人口増 加が不可欠だという固定観念が成立している・・・。・・・問題は固定観念だけではなく、制度やシステムが 存在し続けていることである。この人口増加パラダイムを前提とした制度やシステムが、逆に人口が少なく なってしまった現実の農山村の実態と合わず、さまざまな問題を引き起こしている。このような現象を〈シス テム過疎論〉と呼びたい。」(徳野,1999:17-18) 

上記の主張からもわかるように、徳野は少ない人口でも地域の人々が生き生きとくらせるシステムの形 成の必要性に着目し、人口減少を強く意識しながら、単なる人口変動論だとせず、それを社会システム、

社会意識の側面からも分析し、農村社会の縮小化過程において人口論的な側面を整理している。このよ うな諸議論によって縮小論の人口論的な部分は明確となり、整理できたと言えよう。   

  しかし、集落の縮小過程は人口構造の変化のみに限られているとは言い難い。それは、人口構造の変 化や人口移動は産業構造の変化とも深く関連しており、「人は少なくなったから縮小している」という人口 論的な側面と同時に「農業では昔ほど稼げない、別の勤めもしなければいけない」という「経済」(生産)的 な側面も深く関係しているからである。安達(1981)は過疎問題を述べるときにこのような言い方をしている。

「(省略)・・・、これが生産や生活機能の麻痺と相互作用的にからみ合いながら、地域の生産縮小とむら社 会の破壊に向かって作用していく悪循環過程である」(安達,1981:88)。明らかのように、縮小過程におい て生産的な側面は欠かせない意味をもっている。さらに、過疎地域自立促進特別借置法の目的が定義さ れる際に人口減少と同時に生産機能の低下についても語られており、「人口の著しい減少に従って地域 社会における活力が低下し、生産機能及び生活環境の整備等が他の地域に比較して低位にある地域」

が過疎地域とされ、ここでも縮小過程の生産的な側面が主張されている(過疎地域自立促進特別借置法 第1条、総務省)。 

また、産業構造が変化する中で農業のあり方の変化が縮小論と関係している。徳野は、産業構造が変 化していく中での農業のあり方を考察し、従来の「生産力農業論」的なパラダイムから生活の中の農業とし ての「生活農業論」的なパラダイムへの転換を主張し、農村社会の縮小過程における生産的な側面に着 目している(徳野,2002、2005)。なお、縮小論的な議論の生産的な側面に関して、産業としての農業の生 産力の低下についてさまざまなデータも用いることもできるが、それを本論文の第1部において議論してい きたい。 

  前近代(農村)社会においては、生産/生活は共に限られた空間内で形成されていた。これは、とりわけ 鈴木栄太郎の「自然村論」からも言えるだろう。鈴木は当時の日本の農村を3つの社会地区に分けて分析 しており1、それらの地区は、第1社会地区、第2社会地区、第3社会地区となっている(鈴木,1953)。鈴木 の分析をよくみると、戦前の農村社会は空間的に第1社会地区を軸とし、第2社会地区まで広がりを持って

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いることがわかる。産業化・都市化が進行している中で農村社会は、技術的発展により、移動範囲を拡大

(車社会を形成)し、電話(近年はIT)などの情報手段が増加・多様化している。従って生活・生産行動の 範囲は限られたものではなくなり、人口減少・生産力の低下が著しくなると同時に生活空間は拡大を呈し ている。これは、人口減少や生産とも非常に複合的に関連しており、そのため「縮小論」的な見方から農村 を分析際に第3の要因として「空間」を取り入れる必要があると考えている。ここでの「空間」というのは、単 に地理的範囲を指す概念ではないことはいうまでもない。人々の生活をしていく上での付き合いや兼業化 や交通移動なども空間という概念に含まれている。 

  ここまでの展開をまとめると、今後の農村社会の維持・存続問題を議論する上で、現在の人口増加モデ ルのシステムは適応しておらず、パースペクティブそのものを変え、人口が減少していくという現実により適 応できる枠組みのなかで農村の維持・存続問題を議論する必要があると考えている。そこで、人口減少を 前提とする枠組みとして縮小論を取り上げ、本研究の基本的なスタンスとして位置づけ、農村社会の将来 を考えていきたい。 

  しかし、農村社会の将来を考えるためには、その前提として何がどのように変わってきたかを検討する必 要があると考えている。本論文において3部構成を導入し、第1部において産業化・都市化以前の農村社 会を整理し、第2部で現時点での農村社会の日常生活の維持・担い手問題を議論にした上で、第3部に おいて農村社会の将来展望について論を述べたい。 

  そのため、第1部の第1章において、まず戦前の日本社会2を取り上げ、日本社会の基礎的分析単位とな っていた村落社会構造を考察する。そして次に戦後から社会変動が激しくなる中で高度経済成長期過程 の中での農村社会及び農業の変化を整理していきたい。 

第2章においては、まず1960・70年代からの「過疎」問題を取り上げ、戦後の日本の近代化過程の中で の農村社会の変質を整理していきたい。人口の高齢化と減少ならびに、産業構造の転換による農業から の撤退によって農村社会の維持・存続が問題視されるようになる。そして、とりわけ1990年代頃から農村社 会および農地(農業)の維持・存続を目的とした事業やプロジェクト、研究が数多く行われてきている。農 村・農業の存続に関するさまざまなアプローチを検討すると、とくに1990年代から外部要因を対象とした経 済活性化を中心的な目的とする人口交流型アプローチが日本各地において制度的にも推進されているこ とが分かる。しかし、これらのようなアプローチを通して完全に成果があげられていると言い難い。さらに、こ のような「外発型」の視点においては、維持問題をもっとも身近で抱えている集落の人々(主に高齢者や女 性、そして他出している子ども世代)は(ここで内部要因と呼ぶ)周緑に位置づけられている。そこで、視点 を変え、内部要因の軸として、集落の維持・存続を考察する必要がある。そのため、今まで周縁に置かれ、

集落の維持の側面に関して「目に見えなかった」存在である農村高齢者と他出子の役割・位置づけを分 析する必要性を第3章において主張し、第2部の狙いを説明する。 

 

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  第2部においては、我々が行った実証研究のデータをもとに、農村高齢者と他出子の出身集落の維 持における役割・位置づけを分析していく。その際に第4章では、まず農村高齢者を取り上げ、中山間地 域における高齢者の集落の維持における位置づけを明らかにする。続いて、第5章において都市在住他 出子を取り上げ、彼らの実家や出身集落の維持問題における動向を考察していく。その上に、今後集落 や農業の維持・存続に関して可能性を持っている他出子を明確にするため類型化を試みる。第2部の諸 分析は今までの既存研究ではあまり重視されていない事もあり、ミクロ的帰納主義的な視点での農村・農 業の維持に関するアプローチとなるが、その現実性・具体性は非常に高い。 

一方で、よりマクロな枠組みの中で農村・農業の将来展望を議論する必要もある。しかし、現在の集落 再生は、マクロレベルから見ると、人口減少や少子・高齢化の進展から、前述したように現実性の低い土 台の上に構築されることとなり、今後の農村・農業の再生する理論の構築が非常に困難である。 

  そこで、第3部を設定し、縮小論的なパースペクティブを用いながら集落及び農業の将来展望を改めて 考え直す必要性に着目したい。第6章において現代農山村に関する存続論・活性化論の現状を検討し、

現在の諸アプローチの限界を詳細に議論していく。次に、今後の農村社会を考える上でより現実性のある やり方の必要性を論述する。従って、第7章において集落再生を考える上でより現実分析的視点であると ともに縮小論的な発想を背景にもっている『T型集落点検』調査データをもとに、縮小しながらも維持できる 集落像をどう考えるかを議論し、人口減少時代における集落の分類を試みる。によって集落維持・存続論 に新たなパースペクティブと共に異なった分析枠組みをもたらすことが可能となるだろうと考えている。そし て最後に第8章において本論文の総括を行い、本研究の基本的な狙いへの達成を議論して終わりにした い。 

         

 

     

 

 

 

 

 

 

 

(8)

                     

第1部  産業化・都市化過程の中での日本 農村社会の変動 

                 

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第1章  産業化・都市化以前の日本の村落社会   

はじめにでも論述したように、本論文では日本農村社会の現在の日常生活における担い手問題と、集 落の将来展望を議論することを基本的な狙いとしている。しかし、これらの議論ができるには、やはり「何が どう変わったのか」を考慮しなければならない。そこで本章では、産業化以前の日本村落社会の構造を簡 単にみていきたい。ここで、最初に言っておかなければならないことがある。通常、農村社会学領域にお いて学術論文等を記述する際に、本章で述べるような内容は前提となり、詳細に論文等に書き入れること はあまりない。しかし、著者の母国であるトルコにおいては、日本社会に関する研究は非常に少なく、本論 文はトルコにおける日本研究としての立場もある。そのため、本論文において日本の農村社会(当時は日 本社会のほとんどが農村社会であったため日本社会全体)を分析する際の代表的な理論等をとりあげ、

本章にて紹介しておきたい。 

産業化以前の日本の村落社会は、生活の側面でも生産の側面でも集落と家族を軸とした構造をもって いた。この構造から、農村社会に関わる諸社会科学においても「イエ」と「ムラ」を最も基礎となる研究対象 としていた。基本的には、イエとムラというK.マンハイムの言う意味での「時代拘束的なデオロギー」的概 念で分析される日本の農村社会は、封鎖性を持った小字であり、完結性をもった小世界であり、生活の共 同を基調とした村落共同体の性格を強くもっていた。そのムラの生活の基礎的単位が「イエ」である。日本 の農業の生産の基礎単位は家族であり、農業経営は農業家族を単位とした小農経営の形をとり、その農 業家族はイエと呼ばれる家父長的直系家族の性格をもっていた(長谷川, 1986:15)。 

日本の農村社会を分析するにあたって基本的には2つのアプローチがある。大きく言えば、一つはイエ から分析を行う理論であり、その代表的な理論は有賀喜左衛門「家連合」論である。もう一つの理論は近 代的日本農村社会学の創設者である鈴木栄太郎の「自然村」論であり、鈴木は大字や部落に蓄積された 社会関係や社会集団がムラを作るという理論である。 

日本社会を研究しようとする外国人研究者の多くは「ロボット王国」日本を対象としており、彼らが日本 社会の変動やその背景を論じることは困難といえる。なぜなら、日本社会の基礎的な構造を分析できる知 識や蓄積を持っていないからである。ここでの知識や蓄積というのは、日本の村落社会に関する知識や蓄 積を意味している。そのため、この場にて、日本の農村社会に関する最も基礎的な2つのムラ理論を簡単 に説明しておきたい。 

その一つ目は、有賀喜左衛門のイエに関する理論である。有賀は、日本の農村社会を考える際にイエ という組織に注目し、「同族団」や「組」という形で家々の連合を分析することに力を入れていた。彼は、イ エとイエの連合がない限り、家業としての農業経営も生活の維持も困難になるとみていた。そのため、さま ざまな形でイエとイエの連合を研究していた。上記の家連合の一つである「同族団」について有賀は次の ように説明している。「同族団とは、生活上一つの家に他の家が依存する関係である。それは、上下に結 合する家々の関係であり、本末の系譜関係に結ばれる生活集団である。それに対し、組とは家が対等平

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等の関係において結合する生活集団である。したがって、組を組成する家々の間には相互に系譜関係を 持たないのが本来である」(有賀喜左衛門, 1969)。有賀の理論は家と家の間や家連合の権威/関係構造 を分析するのに重要な論ではあったが、日本のムラ社会全体を分析するものではなかった。 

一方で、日本の近代的農村社会学の創設者である鈴木栄太郎はムラに関する理論、「自然村」論を打 ち出した。この理論について説明する前に、鈴木の理論がどのような点で優れているのか。自然村論は今 までさまざまな側面から研究者によって批判されてきたが、それでも現在の農村研究において有用な力を もっていると考えられる。 

鈴木論の特徴はその発想にあり、鳥越皓之はその特徴について次のように述べている。「鈴木の研究 のすぐれているところは、その当時の社会科学のほとんどがそうであるような、いわゆる欧米の理論のやき なおしではなく、独自の理論を形成したところにある。その独自性は、『最も乱されない日本人の心は、農 村の家や村の中にひそんで居る不文の生活原理にこそ其最も正しい姿を見出し得る筈であるという信念 にもとづいていたようにうかがえる。・・・鈴木のいう“不文の生活原理”を理解するには、経済的合理性の 強く支配する個人主義的・自由主義的な人々の社会関係の分析に用いる』(鈴木栄太郎, 1940)ために発 達した欧米の社会学理論は適切ではない。集団主義的な日本人を分析するための理論が必要である。」

(鳥越皓之,2000:77−78)。根本的に異なる欧米社会の理論を応用し、日本農村社会を分析することが難 しいこと、そして鈴木の自然村理論は日本を分析するには最適な理論であったことをここで強く主張してい る。 

では、鈴木の理論はどのようなものであったのだろうか。非常に簡単に説明するとすれば次のようになる。

鈴木は農村社会を3つの社会地区に分けて分析している。これらの3つの社会地区は3重になっており、順 に、第1社会地区、第2社会地区、第3社会地区である。第1社会地区というのは、その集落における最も小 さい単位であり、小字単位の組などを示す概念である。第2社会地区は、大字単位の集落を指し、区や部 落、そして村落などと現在呼ばれている社会空間を意味する。そして、第3社会地区は現在の「行政村」

(明治22年̶1889年̶の市町村制度で成立した、旧村の範囲に相当する)範囲を指す言葉である。なぜ、

このようにその地域を3つの空間に分ける必要があったのだろうか。それは、鈴木がさまざまな地域集団が 3つの地区のいずれかのひろがりをもっていると考えているからだ。言い換えれば、3つの社会地区におい て異なる地域集団は累積しており、それぞれの社会地区は集団累積体を形成していると鈴木はいう。しか し、集団の累積に関する指摘は独自的な考えでもなく、アメリカの農村社会学において既に指摘されてい る課題であった。鈴木は、3つの社会地区の中でも第2社会地区に注目し、この社会地区はとくに結束の かたい集団累積体であり、もっとも自主性・自立性があると指摘している。鈴木によれば、この第2社会地 区において個人個人は日々行動している。そしてある個人をとりあげたとき、その個人の意志は、純粋に その個人固有の意志だけではなく、「遠き過去からの計り知れぬ多くの村民につながっている個人意志」

なのである (鳥越皓之, 2000、77−79)。これにより、我々はそこに時代時代の個人たちを縦にも横にも貫い

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ている一個の精神の存在を認めざるを得ない。それは生活のあらゆる方面にわたる体系的な行動原理で ある (鈴木栄太郎, 1940, 96−136)。ここでの“一個の精神”を鈴木は「村の精神」と呼んでいる。この概念、

村の精神とは何なのだろうか。鳥越は、村の精神を次のように説明している。「それは、人々の行動を方向 づける行動規範のことであり、その行動規範は過去からの人々との生活の累積から生じたものである。そし てこのような村の精神を備えた第2社会地区・村落を鈴木は〈自然村〉と名付けた。」  (鳥越皓之,  2000,80)。 

日本の農村社会学におけるもっとも重要な人物である有賀と鈴木の理論は対象が異なりながらも、本 質的には同じだと考えられる。つまり、対象としては、鈴木が村を、有賀は家・同族を扱い、そこから日本の 農村社会を分析しようとしたアプローチは異なるといえども、鈴木の「精神」と有賀の「生活意識」が類似し ている点で、本質的に同じだと言えよう。鈴木は、個人行動はただ個人意志で形成されるのではなく、そこ に過去から受け継がれてきた1個の精神があるという。一方で有賀が、生活意識は社会が持つ組織や各 種の生活条件から滲み出て来るものだとし、生活の発展は古い生活意識において行われるものであると 論じている。つまり、個人の行動原理や行動規範が鈴木と同じ発想で規定されると考えているわけである。 

戦前の日本農村社会は、このような理論的な枠組みの中で取り上げられ、分析されていた。そして、本 章の頭でも述べたように、これらの理論についての説明は非常に簡単であり、どちらかというと海外にて本 論文を読む外国人向けに記述しているものであるとここで再び言っておきたい。 

しかし、ここまでは、戦前の日本社会の代表的な理論を見てきたが、当時の農村社会の実態を把握す るには、具体的なデータから論じる必要がある。そのため、ここで生活及び生産的な側面に関するさまざま なデータを用い、当時の農村社会の状況を見ていこうと思っている。 

       表1  都市と農村の人口比 

年次  都市人口  農村人口 

1920   18.1  81.9  1925  21.7  78.3  1930  24.1  75.9  1935  32.9  67.1  1940  37.9  62.1  1944  41.1  58.9  1945  27.8  72.2  1947  33.1  66.9  1950  37.5  62.5  1955  56.3  43.7        出典, (福武直, 1972,6) 

           注,1955年の数値は林茂の論文からの引用であり、残りの数値は福武の数値である(林茂, 1959,21) 

 

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日本(農村)社会の戦前と今日はまさに別の社会であるかのように大きく異なっているといっても過言で はない。表1から、1920年当時には農業人口が8割を超え、都市人口は全人口の2割に満たなかった。し かし、第1次世界大戦の戦争産業による産業の発展が労働力を要求し、それを提供するのは農村人口で あり、とりわけ1920年代ごろから徐々に都市と農村の人口比が転換し始める。第2次世界大戦直前の1944 年をみると、全人口の4割以上が都市人口であることが分かる。その後、第2次大戦の影響で都市人口が 再び減り、農村の人口が増えるが、1950年代には都市は37.5%まであがり、農村は62.5%へと下がる (福 武直, 1964,5‒7)。そして、戦後の産業化に伴う都市化の進展によって農村からの若年層を中心とする人 口移動が激しくなる。  

人口構造としては農村を軸にした日本社会全体は、生産構造においても農業を軸にしていた農業国 家であった。明治以来近代国家へとスタートを切った日本は、日露戦争や第1次世界大戦を転機として、

重化学工業化へと進む。このような中で、明治に約85%を占めていた農業従事者数が徐々に、工業へと 移り変わり、第2次世界大戦直前には第1次産業従事者は1872年の約半分まで減少する(表2)。 

 

表2  産業別就業者の割合 

年次  農林業  水産業  鉱業  工業  交通業  商業  公務/自営業  その他  1872  82.59  2.31  0.03  4.84  0.69  5.55  2.94  1.05  1920  53.06  2.10  1.59  19.91  3.89  11.97  5.42  2.06  1930  47.71  1.92  1.07  19.95  3.91  16.57  5.91  2.95  1940  42.62  1.67  1.84  25.04  4.20  15.03  6.75  2.85  1944  42.86  1.44  2.48  29.48  5.08  7.78  8.96  1.92      出典, (林茂, 1959,27)       

 

表3  産業3分類別有業人口割合の推移  年次  第1次産業 

(農林水産業) 

第2次産業 

(鉱工業) 

第3次産業 

(交通業商業その他) 

1920  54.4  20.5  25.1  1930  49.6  20.9  29.5  1940  44.3  27.0  28.7  1944  43.7  32.7  23.8        出典, (本多龍雄, 1983,31) 

 

戦前の日本社会は、これらのデータからも明らかなように、農村社会が中心であり、農業を生産構造の 軸におき、工業化を進めようとしていた。当時、出生率や死亡率が高く、高齢化率は農村部において4%

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ぐらいであり、少子化や高齢化などの社会問題は問題化はしていなかった時代である。人口構成におい て若年層は多く、「ピラミッド」型が明確にできていた時代である。この時代の農村社会において、むしろ過 剰人口が最も深刻な問題の一つであったと言われている。日本において技術の発展等により農業の生産 性は明治以降上昇したものの、明治時代からの人口増加によって全体の扶養バランスが崩されていた。

その結果、過剰人口問題が顕在化し、農村人口の都市への流出が必要となった。基本的には、長子が家 と農業を継ぐことになり、いわゆる「次三男問題」と呼ばれる、長男以外の子どもたちの動向が過剰人口論 の中の代表的な課題の一つである。では、ここで戦前の農村人口の都市への流出(過剰人口)問題を次 三男問題を中心に見てみよう。 

一般的に知られているように、戦前の農村社会において平均世帯員数は今に比べて2倍以上であり、

約5人ぐらいである。なお平均ではなく、標準敵な農家では、8人ぐらいの世帯員数を抱えていた。そして、

農業を家族で営んでいる小規模農家が多く、子どもというのは労働力としての役割も必要とされていた。も ちろん、たくさん子どもを生むのはただ労働力を確保するためではない。そもそも、バースコントロール技 術も十分なく、その結果、バースコントロールの意識も非常に薄いことが多産を招いたわけでもある。明治 時代から日本社会全体が比較的に安定しはじめ、農業の生産性も高くなるなかで、農村人口は増える一 方であった。だが、いくら農業の生産性が高くなったとしても、小規模農家において扶養できる人数は限ら れており、せいぜい4−5人をすぎないことも事実であった。このような状況の中で、経済的余力がない家の 場合は、成人になった次三男女が過剰人口だとして位置づけられるようになった。当時の次三男の状況 や地位について福武は次のように具体例をあげている。 

「次三男は、中学校に進学させることができた地主や富農のばあいはべつとして、比較的経営の大きい 農家のばあい、小学校卒業後、いわばお礼奉公として農業労働にしたがい、兵役に服したあと自活の道 を求めるのが普通のことであった。下層の農家では、彼らの労働力は不要であったから、商店の店員や工 場労働者や職人の徒弟になって自立し、できれば親の家計を助けることが期待された」(福武  直, 1964,

52)。過剰人口としての次三男の経済的自立性や家への経済的サポートが主張されており、当時の次三 男問題の1部分を物語っている。 

張は(次三男問題も含めて)農村人口の流出を分析する際に、それを日本農村の伝統的な相続性と関 連づけている。「明治民法の家族法は、長男(男が居ない場合には、長女̶庶男子でも女子より優先する)

の家督相続―固守の地位の継承―の権利および義務(すなわち1人娘は嫁にゆけぬ)を規定していた。

すなわち、長子は家の財産を相続することを法律により規定されていたことになる。実際、民法の規定の 通り、戦前には多くの地域で不分割相続―特に耕地の一子相続―が行われていた。その要因は、以下の 2つであるといえよう。第1に、農業生産様式に規定された農業経営規模(すなわち耕地)の零細性による。

第2に、戦前の農村における身分階層(家格)は、何よりもまず耕地の所有によって規定されていたので、

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家族構成員の生存に必要な程度を超える耕地を持っていた農家でも家格が下がることを一子相続制によ って避けたのである」  (張坦, 2006,160)。 

並木も張と同様に、農家の家の相続に関する条件や相続制による次三男女による農村からの人口流 出家族制度と関連づけ、「・・・(省略)この流出させる労働力が〈あとつぎ〉以外の次三男労働力であったこ とは、農村における家族制度を基準とすれば明らか・・・(省略)」だと述べている (並木正吉, 1959,73)。さ らに、梶井は農村人口の流出における次三男問題に階層論的な側面からアプローチし、「・・・(省略)次 三男の流出を問題としなければならないのは、特に中以上の農家について・・・(省略)」であるとし、「・・・

(省略)下層になると長子、次三男の差はなくなり、・・・(省略)」と述べている (梶井功, 1983,119)。このよ うに、農村(過剰)人口の労働力的流出は、その農家の農業の規模などとの関係もあり、福武もその点に 注目している (福武直, 1964,52) 。戦前の農村(過剰)人口の流出は次三男らの流出がメインであったと 言っても過言ではないだろう。 

ここで、もう一つ簡単に整理したいのは、その過剰人口の流出形態についてである。例えば、福武は離 農世帯を対象にし、その実態の分析を行っている (福武直, 1972,83‒132)。さらに、梶井(1983)は過剰人 口の流出を離農的流出・農家兼業的労働力流出・出稼ぎ型流出・次三男問題という形で分類し、分析をし ている。また、並木はそれを離村的流出・兼業的流出・挙家離村に分類して、流出形態を分析している  (並木正吉, 1959,73−81)。このように、いろいろな形で過剰人口は流出し、都市の労働市場に入り、重工 業の発展に貢献したわけである。敗戦後には、工場等が破壊されることによって一時的に帰村が多くなる が、戦後の高度経済成長期をもって再び農村からの人口流出が激しくなる。もちろん、戦前の人口流出は 基本的には過剰人口を中心とするものであったのに対して、戦後の長男も含めた人口流出は若・壮年層 の流出となり、日本農村社会の過疎化問題が始まるわけであるので、その2つの時期の流出は質的には 異なっている。 

ここまでは、日本(農村)社会の戦前の生活及び生産的な状況を簡単に整理したものである。要約すれ ば、当時の日本社会の8割以上が農村社会であり、生産構造としては農業を中心とした第1次産業が軸と なっていた。農村における人々の生活は空間的に広くなく、多くのばあいは集落内に限られていた。人口 構造上、当時の日本社会はピラミッド型の構造をもっていて、農村地域もそれと同じであった。そのため、

少子化や高齢化と言った現代農山村を含めて日本社会全体の重大の問題となっている諸人口的現象は 当時全く存在しておらず、むしろ若年層が全人口の多くを占めることもあり、過剰人口が問題化していたの である。戦前においては、日本における産業化というのは、綿織物を軸とした軽工業が中心であり、また戦 争工業をさせるための重工業化が進む中で、農村からの過剰人口が労働力として都市へと移動し、日本 の工業化を支えていた。しかし、これは(過剰人口であったため)農村の生活や生産に大きな(マイナスの)

影響を与えなかった。それは、農業人口や農地耕地面積等が次三男の移動後も数十年間一定であった ことからもわかる(張坦, 2006,159)。 

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このような形で、日本社会は第1次世界大戦を経験し、その後第2次世界大戦を向かい、第2次世界大 戦敗戦後の昭和30(1955)年代までは、日本は基本的には農業・農村社会であり、その基盤の上に徐々 の工業化を進展させる型で、近代化・産業化を進めてきた。しかし、1955年代以降の高度経済成長期に なると、一気に農村社会に大きな変化が現れる。すなわち、例のないスピードで日本社会全体が近代化

/産業化をやり遂げていく。日本全体が近代化し、経済的に豊かな社会となると同時に、一方農村社会 は全く有史以来の大きな悩みを抱えるようになる。その変化や変化による農村社会の悩みを第2章及び第 3章にて説明し、第1部において本論文の基本的な枠組みの背景を整理する。 

                                                 

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第2章  農村社会の側からみた日本の高度経済成長期 

 

日本社会は、1950年代後半ごろから高度経済成長期に突入し、生活の側面においても生産側面にお いても大きな変化を経験することになった。これにより、日本全体は経済力として世界トップクラスに入り、

世界をリードするようになった。一方で、農村社会においてはこの変化というのは、大きな問題をもたらすこ ととなり、農村社会の現在のすべての問題の始まりとなった。これは、基本的には産業化・都市化を進める なかで労働力として農村の(とりわけ若い)人口が都市の労働市場への流出を意味している。 

高度経済成長以降の農村社会は、第1章において論述したような戦前段階での伝統的な農業・農村型 の生活・生産構造から離れ、全く異なる構造へと変化した。その中で、人口の都市への流出は最も基本的 な要因である。例えば、総農家数(実数)みると、1910年に5,416,703戸であった総農家数は1950年には 6,176,419戸まで増加していたが、高度経済成長期に入り、産業化・都市化の波に乗り、1970年に 5,402,190戸に、1980年に4,661,384戸、1990年に3,834,732戸、2000年に3,120,215戸、2005年に 2,848,166戸まで減少していることがわかる(農林水産省, 2009)。そして、1960年の農家数を100としたら、

それは1970年には88.2、80年に77.0、90年に63.3、2000年には51.6となり、40年間で半減していることが 明確に分かる (佐久間政広, 2007)。さらに、農家の世帯員数でみても同様の結果が出ており、1960年に 34,411,187人であったのは2005年には8,370,489人までと減少し、1960年の数値の約4分の1となったわけ である。農家の平均世帯員数でみると、その減少がより明確に分かる。1960年には農家1戸当り平均5.68 人が居住していたが、それは、1970年に4.92人、1980年に4.58人、1990年に3.61人、2000年に3.35人、そ して2005年に2.93人となり、40年間で農家の平均世帯員数は約6人から3人に減っている (農林水産省,  2009)。この現象は、「家族規模の縮小」や「小家族化」や「核家族化」などの用語で分析されていることが 多い。  

 

表4  農村人口の変化,農家数・世帯員数・平均世帯員数 

年次  ①農家総数(人)  ②農家の世帯員数(戸)  平均世帯員数(② ①)(人) 

1960  34,411,187  6,056,630  5.68  1970  26,594,589  5,402,190  4.92  1980  21,366,308  4,661,384  4.58  1990  13,878,245  3,834,732  3.61  2000  10,467,363  3,120,215  3.35  2005  8,370,489  2,848,166  2.93  出典:農林業センサス累年統計書より作成 (農林水産省, 2009)   

 

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このように、大内は農村人口が都市へと移動することに関して大内は都市化の視点からみて「・・・(省 略)日本社会の都市化は3つの段階に分けられる。第1の段階は農村から都市に大規模の人口が移動し た時期であり、そこで過疎と過密が問題となった」とのべている (大内雅利, 2007,42)。重化学工業の成長 が牽引した高度経済成長は所得の農工間格差をよりいっそう拡大した。これにより、農村滞留していた若 い働き手は大量に都市へと移動し、雇用労働者となった。このように、農村から都市への人口移動は、日 本社会の産業化・都市化を支えたのと同時に農村社会の問題が深刻化していく原因ともなったのである。

人口移動を単に人がいなくなったという形で取り上げるべきではない。人口移動により非常に影響を受け たもう一つの側面は生産側面である。 

都市は膨張する一方、農村は第2次、第3次産業のための安価な労働力供給源の役割を担った (佐久 間政広, 2007,48−49)。1960年代は、それまで働き口がなく地域内に滞留していた次三男層の、相対的 過剰人口群の流出が中心であり、世帯主や後継ぎ層はむらに残った。だが、1970年代になると、家の後 継ぎ層や世帯主までが流出し、出稼ぎから最終的には離村するようになった (築山秀夫, 2007:54)場合も ある。この人口流出は農業まで影響を与えた。高度経済成長を契機として、日本の産業構造は急激に転 換し、就業者総数のうち第1次産業人口は1955年に41.0%、1960年に32.6%、1965年に24.6%急激に減 少した。農業人口からみても、1955年に14,890,000人であったのが、1965年に10,860,000人、1970年に 9,270,000人でたった15年間に5,620,000人も急減をし (中嶋昌彌, 2000,143)、1980年に6,970,000人へと 減り、2000年には3,890,000人と1960年代の4分の1程度に減った (永野由紀子, 2007,162)。このように、

農村人口の都市への流出によって、農村生活と農業も変わっていた。1960年代ごろから農業だけで生計 をたてることは難しくなり、次三男層のみならず、後継ぎ層と同時に世帯主まで出稼ぎに出るようになり、兼 業化がこの時期からは特に拡大していった。「三ちゃん農業」というフレーズが話題となったのも1963年の ことである。中嶋(2000,143)によれば、農業所得より兼業収入の多い第2種兼業農家が急増し、1965年に は全農家のほぼ8割が兼業になり、「総兼業化」傾向が強まっていたようである。これは、とくに1960年代か ら農業から他の産業への移り変わりを明確に示す一つの具体例だろうと考えられる。一方で、専業農家は、

高度経済成長期の始まり頃に、3割であったのが、1980年になると13.4%まで減ったのである (白樫久,  1982,108)。 

兼業化が進み、圧倒的に多くなったのは、さまざまな理由があると考えられるが、その中で一つは機械 化であり、それにより、労働時間の大幅な短縮が可能となった。1970年代に118時間であった10㌃当り稲 作労働時間は80年代に65時間へと半減し、さらに2000年には34時間と4分の1まで短縮された。2000年に は、(販売)農家の5分の4以上が兼業農家であり、そのうち第2種兼業農家が3分の2を超えている(永野由 紀子, 2007,163)。兼業農家が増加し、農家世帯のほとんどを占める背景には経済的な意味での合理的 選択がある。しかし、それだけではない。第1章において説明したような社会空間(むら)に生活をするには 集落との生活および生産上の強い関係を結ばざるを得なかったし、生活空間は閉鎖的といわれていた当

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時のむら社会に限定されていた。そして、非常に強い共同体的規制が働き、(半)「共同体的強制」(福武、

1964、93)ともいえる息苦しい状況が存在していた。このような社会空間の中で責任や連帯を意識しながら 暮らすことは、非常に困難であった。一方、兼業化していく中で「利害関心圏」 (大内雅利, 2007,44)がむ らの内と外という2つに分かれ、都合のいいように集落に住みながらも集落から離れて、他産業に就業(勤 務)することができる。兼業化は、人々にとって、社会関係の側面から見て、比較的に行動の自由(自律)

度上がると同時に、地域社会との関係を維持する。よって、日常における相互扶助なども維持でき、生活 の安定度も下がらない。このように、両側面を意識し、うまく作動することで農村での生活は経済的な側面 においても社会的側面においても苦にはならない。兼業農家が増えていった背景に、このような事情も含 まれているのではないかと考えられる。 

以上のように、農村の若・壮年人口が労働市場へと流出し、日常生活におけるさまざまな機能が果たせ なくなり、したがって農業も当時までの生産力を失い始めるようにになった。そして、1960年代後半に「過 疎問題」が話題となった。「過疎」の概念は初めて用いられたのは、経済社会発展計画書であり、「都市へ の激しい人口移動は、人口の減少地域にも種々の問題を提起している。人口減少地域における問題を

『過密問題』に対する意味で『過疎問題』とよび、『過疎』を人口減少のために一定の生活水準を維持する ことが困難となった状態、例えば防災、教育、保護等の地域社会の基礎的条件の維持が困難になり、そ れとともに、資源の合理的利用が困難となって地域の生産機能が著しく低下することと理解すれば、人口 減少の結果、人口密度が低下し、年齢構成の老齢化が進み、従来の生活パターンの維持が困難となりつ つある地域では、過疎問題が生じつつあると思われる」と記述されている  (経済審議会地域部会,  1967:2)。

ここで、非常に重要なポイントは過疎を規定する要因である。それらは、基本的には生活と生産というふう に解釈しても間違いではないだろうと見ている。日本の代表的な過疎論者の1人である安達生恒(1981)

も過疎問題を分析する際に生産や生活機能に注目し、人口流出による「生産縮小とむら社会の破壊」を 過疎問題のなかで議論していた (安達生恒, 1981)。さらに、池上は「地域社会におけるひとびとの生活を 支えている基礎的条件の維持」という側面に注目し、過疎問題の生活の側面を指摘している (池上徹,  1975,57)。渡辺は(1967)過疎減少を人口論的過疎と地域論的過疎と2つにわけ、人口減少に関する部 分を人口論的過疎の中で、地域の生産力等の低下・弱体化等を地域論的過疎のなかで分析している (渡 辺兵力,1967)。 

日本の農山村地域においては、1990年代まで都市への移動による人口減少をもとに過疎化が深刻化 してきたわけであるが、1990年代になると、過疎化の性格が変わっていく。若年層を中心に農村から都市 へと流出した結果、人口のほとんどが中高年および高齢者で構成される。つまり、地域内で次世代を生産 する人口は少なくなり、その結果少子化が起こる。そのときまで社会移動によって減少していた農村人口 が1990年代ごろから自然減少を経験するようになる。この変化を山本努は「人口社会減型過疎」から「人口 自然減型過疎」へと転換したと分析している (山本, 1998,5)。  

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日本の1950年代後半からの高度の経済成長は、大量の農業労働力を都市の他産業の労働市場へと 流出させ、農村の社会および生産構造を著しく変貌させ、過疎問題を引き起こすこととなった。しかし、変 化はただ生活と生産の側面において見られたわけではない。農村社会は高度成長以来「生活空間」的に も大きな変化を経験している。とりわけ戦前において日本の農村社会は閉鎖的だと考えられるが、それは ただ社会関係においての状況だけではない。1970年代当りまで日本(とりわけ農村地域)の交通条件や道 路が不十分であった。それは、産業化・都市化が進行していく中で、道路の改良・舗装、交通路の新設な ども進み、(とりわけ農村地域の)人々の行動範囲は空間的に拡大した。1970年代から所得や生活水準の 上昇に伴い、「マイカー時代が農村にも押し寄せ」 (白樫久, 1982:110)、人々の行動範囲はよりいっそう拡 大した。 

むらに起きている変化は以下のようなデータからも読み取れる。1960年の農業集落当りの平均世帯数 は64戸であったのに対して、20年後の1980年になるとそれは2.2倍の141戸に増加している。この増加は、

同期間に農家が15%減少し、非農家が4.3倍増加していることによるものである (満永光子, 1985,38)。こ の変化を別の角度から見れば次のように説明できよう。1960年には農家率が80%を超えていた集落は全 体の50%を占めていたが、20年後の1980年にはそれは35%まで減少し、逆に農家率が10%以下の集落 は全体の2.9%から10.1%へと増加している (白樫久, 1982,110)。このように、とりわけ1970年代あたりから 農村社会は純粋の農村社会となりきれず、性格が変わっていく。 

R.J.スミス(1978)は、香川県来栖の1951年から1975年までのむらの変化を観察し、分析している。そし てそれを『来栖  むらの近代化と代償』という本に記述している。そこに、1960年代からむらにおきている変 化が明確に記述されており、日本の農村社会全体が抱えている人口移動や農業の兼業化、そして混住 化に関する来栖の状況を描いている。 

産業化・都市化によって農村社会の生活水準も上昇した。スミスは、来栖の人々のインタビューから、そ の水準の上昇(変化)を引き出している。例えば、最も根本的なところで「いまの私たちは昔の地主よりもう まいものを食っています」という村人の言葉を記述している (Smith, 1982)。スミスは1953年に、むらに個人 所有の自動車はないことを確認している。そして、1975年に再度むらを訪ねた際に、「23戸のうち11戸 各々1台自動車をもち、5戸は2台ずつ、そして1戸は3台もっていた」と、その変化を明確にしている。これ は、例えば、経済的状況、所得条件の側面から見て、むら自体が昔に比べてよくなっている証拠でもあれ ば、日本(農村)社会の移動能力がいかに上がったのかの証拠とも考えられる。なお、スミスは、「最近まで 高い社会的地位を象徴する“3C”とされたのは、カラーテレビ、クーラー、カーである」という言い方をし  (Smith, 1982:155)、生活水準が上がる中で従来「高級品」だとされていたものが農村の一般家庭までに入 ってきたことを主張している。 

中嶋は、農家の生活水準が上昇したことを家庭電化製品の普及率から述べている。例えば、テレビは 1960年代では11.4%(都市は54.5%)、1964年では81.7%(都市は93.5%)、電気冷蔵庫は1960年では

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1.3%(都市は15.7%)、1964年では14.5%(都市は66.2%)、電気洗濯機は1960年では8.7%(都市は 45.4%)、1964年では47%(都市は74.8%)となっている。1970年代に入るとほとんどの農家にもこれらの耐 久消費財が購入されていたようである (中嶋昌彌, 2000,146)。これは、とりわけ1960年代後半から農村に おいて生活水準がいかに上昇したかを示す数値だとして捉えることができる。1950年代の「戦前は働いて も働いても貯えもできず、おいしいものも食べられず、おいしいものどころか食べるものさえ十分になかっ た」 (Dore, 1978:64)という時代からたった20−30年間でスミスの言う“3C”の生活水準への変化こそ、日本 農村の変化を表す一つの具体例であろう。 

明治維新をもってはじまり、第二次世界大戦後にスピードをあげた日本の近代化過程の中で、農村地 域において70年代に生活が安定化し、生活水準は一定に定められた。一方で、また70年代以降農村地 域において人口が減少しはじめ、したがって生産構造にも大きな影響を与えたのである。本章においてこ のような変化を簡単に整理した。 

1970年代末をもって日本社会全体において高齢化問題が顕在化しはじめ、1980年に日本全体の高齢 化率は9.1%まであがり、日本は「高齢化社会」だと言われるようになった。他方、同時期の過疎農村地域 の高齢化率は既に14.6%に達し、農村地域は先立って高齢社会となっていた(築山秀夫, 2007:54)。農村 における労働力の高齢化は当然ながら生産力の低下をももたらした。 

1970年代、1980年代においては、「高齢化」・「少子化」・「生産力の低下」などといった農村に関する諸 問題は個別の課題として取り上げられていた。しかし、それらが複雑に結び絡み合い、「集落が維持できる のか」といった大きな問題が1990年代に入って農村社会の影を落としてきたのである。第3章においては 90年代以降の農村社会の維持・存続問題を簡潔に取り上げ、考察していく。 

                         

表 10-a  他 出 子 の出 身 集 落 へ の Uター ンに 関 す る回 答    %  実数(N)  Uターンする  26  23  Uターンしない  40  35  まだ分からない  34  30    ここで、他出子の約1/4が今後Uターンするという現実が非常に重要である。さらに、現在Uターンについ て未定の3割の他出子をどう取り扱うかによって山都町の維持・存続問題の課題が非常に変わってくると考 えられる。では、Uターンする予定の人はなぜUターンしたいのか、帰らない人はなぜかえらないのか。 
表 11  他 出 子 の Uター ンをしない 理 由  なぜUターンしない?  %  実数(N)  土地や家を受け継ぐ考えはないから  6%  2  都会の生活が合っているから  6%  2  山都町の生活が不便だから  26%  9  山都町の交通が不便だから  3%  1  山都町に良い職場がないから  38%  13  現在同居している家族に反対されているから    6%  2  現在の仕事が辞められないから  15%  5    Uターンに関しては、どのぐらいの他出子がどのような理由で帰る予定であ

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