︿資料﹀
ロ ッ ク と イ ギ リ ス 革 命
宮 下 輝 雄
一七世紀後半におけるイギリス政治理論は二つの主要な学派
に区別される︒一つは世襲的王権神援説を信じたイギリス国教
会の王党派であり︑二つには︑王党派と敵対関係にあり︑民衆
(1)の諸権利の正当性と制限君主制を主張したホイッグ党である︒
国王と人民間の統治契約はホイッグ党の基本的原理となり︑そ
れに対するかれらの信念は︑トーリー党の歴史的懐疑論によっ
ても︑ホッブズのより論理的攻撃によっても明白に不動に何年
間も続いた︒ホッブズは潜在的に︑かれらのより危険な敵手で
あり︑研究者の全出版物は︑かれを反駁する任務を請け負わざ
るをえないという感じを与えた︒かれらのほとんどは独創的で
はなく︑かれらは有効性において異ったにもかかわらず︑かれ らはかれらの主張を述べたのであるが︑かれらの著作は︑自然
法︑制限君主制あるいは混合君主制︑そして統治契約といった
標準的主題に関する様々な反復と労作以上のものには︑ほとん
( 2 )
ど達しなかった︒また︑かれらのすべてが︑ホッブズの立場の意義を十分に理解していたかどうかは疑わしく思われる︒ホッ
ブズは︑絶体主義の支持者ではあったが︑ホイッグ党にとって
と同様に︑トーリー党にとっても等しく不人気であった︒とい
うのは︑かれの理論は︑いかなる成功した事実上の政府︑たとえ
ばオリーバー・クロムウエルの軍事独裁のような政府にたいす
る服従でさえ︑正当化するように思われたからである︒王党派
の正当的原理は︑自然に︑権力の起源を人民に帰するいかなる
教義も拒否するようにかれらを導いた︒それゆえ︑王党派と聖
職者は︑ホッブズの敵対者の中で︑ホイッグ党あるいは自由思
想家と同様に︑卓趣していた︒クラレンドン自身︑﹃レヴァイア
(3)サン﹄トミ皆き§を弾劾するという明白な目的で一冊の著書を
書いた王党派の一員であった︒一六八三年七月二一日︑オック
スフォード大学が︑一連の破壊的提案を﹁評議会﹂において︑
まじめに非難することによって︑また︑校内中庭での焚火にそ
れらの著書を投げ入れ︑焼却することによって︑教会と国王に
忠節を表示した時︑ホッブズの﹃レヴァイァサン﹄と﹃市民論﹄
b軸Ω冨はそれら自身︑ブカナン︹∩Ψ・じd二〇げ鋤コ⇔旨矯一αOO‑].切Q◎邸︺︑
カートライト︹↓.09︒詳≦同戯ゴρ嵩OQ㎝1一①OQO︺︑ミルトン︹い
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ジョン・ノックス︹旨oげ口国コo×℃届おム〜嵩鳶︺とカーディナ
ル・ベラミン︹O胃血ぎ巴じq︒一冨同ヨぎρH鰹NlHO込︒ごの著作と一
( 4 )
緒に混合された中に見い出された︒けれども︑この時までに︑ホッブズの著作はほとんど忘れら
れており︑一八世紀末期︑ベンサムと他の研究者が法的主権に
ついてのホッブズの教義の意義を正しく評価するにいたるまで
は︑それらは比較的注意されないままであった︒一方︑一七世
紀末期においては︑実際政治における重大問題は王位継承であ
った︒﹁王位継承排斥法案﹂に関する論争において危機に陥っ
たのはこの問題であり︑また数年後︑﹁名誉革命﹂それ自身に
おいて︑問題にされたのは同じ論点であった︒これらの危機
が︑論争上のパンフレットや論文の大洪水のような発行︑ある
いは再発行の根拠であり︑それらの中で顕著なものはロバート
( 5 )
・フィルマー卿の主著﹃家父長制論﹄(建妹蕊&鳶ぎ)であった︒これは神によってアダムとかれの後継者に授与された世襲権力
を根拠に絶対君主制の正当性を徹底的に防御せんとするもので
あった︒ホイッグ党の著者は︑それがかれらの敵手トーリー党
の手中にある恐るべき理論であることを直ちに感知し︑前世代
においてホッブズを論駁しようとつとめたように︑多くのもの
は︑それに対して回答することを︑かれら自身の使命と考え
た︒かれらの中には︑ロック自身もおり︑かれの﹃統治論﹄第
一論文はフィルマーへの直接的返答であり︑同時に︑﹃統治
論﹄第二論文もまた'フィルマーの著書への多くの言及を含ん
でいるが︑革命の成功的完遂が︑論争を新しい光明のもとにお
いた一六九〇年までは出版されなかった︒ 世襲的神権説の反対者である︑これらのホイッグ党の事例に
ついて︑われわれは多くを取り扱うことはできないし︑またそ
の必要性はない︒かれらは︑その時まで︑想定の標準的傾向で
あったものに︑かれの議論を基礎付けることを継続した︒想定
の中で顕著なものは︑国王と人民との間の統治契約であった︒
しかしながら︑かれらが統治契約から導いた実際的結論に到達
せんとしていた範囲とはすこぶる異なっていたけれども︒共和
制期間のピューリタン教義の一部のように過激ではないけれど
( 6 )
も︑一つの相当に過激な見解はアルジヤノン・シドニーの﹃統治に関する講話﹄(b蛍oま謹賜Sミ馬こミ嚥O冬ミ︑︑§Qミ)によ
って例証される︒ロックと同様︑シドニーはフィルマーをかれ
の主たる攻撃対象にし︑国王の権威が父権あるいは族長権から
導き出されるという観念を拒否し︑人民は君主を退位させるこ
とができるし︑暴政に忍従する必要はないという信念におい
て︑かれ自身︑ブカナン︑カルヴィン︑そしてベラミンに味方
( 7 )
する︒しかしながら政府は必要である︒なぜなら︑人びとは自由で平等に生まれたけれども︑﹁ある者の自由は他人の自由に
よって妨害される﹂ために︑神によって与えられた自由の﹁永
久にして完全な結実﹂のまま︑自然状態に留まることはできな
いからである︒しかし﹁かれらはすべて平等である問は︑誰も︑
一般的同意によるのでなければ︑いかなるものに対しても服従
しないであろう︒これがすべての正当な政府の根拠である︒社
会は︑一緒に結合し︑そしてかれらが︑かれら自身に遵守する
ことを余義なくする法を制定するために︑﹁自由な人びとの自
由な決意﹂に起源をもっている︒したがって︑国家の形成は
﹁すべての人びとの利益であると考えられるような︑そういっ
たかれらの自由の部分を譲り渡すために︑すべての人びとの一
( 9 )
般的同意﹂を必要とする︒政治というものは形態においては異なるが︑すべての政治は同意にその起源をもっていなければな
(10)らない︒したがってよい政治にあっては︑その基礎が変革され
(11)ない間は︑上部の変革は可能である︒
シドニーは社会契約とかれの同時代人が一般に特徴づけた服
(12)従契約とを注意深く区別することに苦心しないが︑社会に関す
るかれの理論は本質的に契約的である︒正式な社会契約の代り
に︑われわれは一緒に結合し法に従うための個々人の﹁自由な
決定﹂をもつ︒これは︑たとえ実際に契約とよばれなかろう
と︑事実上︑一つの契約である︒つまりそれは︑すべての他者
に同様におこなうという条件でかれの自由の若干を譲渡するこ
との互の合意である︒ひとたび社会が存在し︑政府が設立され
るや︑たとえ︑これらが分離した事象であったか︑あるいは独
立作用を形成したか︑が明らかにされなかろうと︑シドニーは
為政者と﹁かれらを創出した国民﹂間の契約関係について疑念
をのこさない︒統治契約は﹁実際的にして︑厳粛であり︑義務
的で﹂ある︒つまりたとえ明白に表示せず︑単に﹁暗黙のもの
であり︑かつ推察されるべきもの﹂であろうと︑統治契約は︑
それにもかかわらず﹁夢想ではなく︑実際事であり︑永続的に
(13)義務的なものである︒﹂
シドニーの政治教義は︑全ホイッグ党員の教義と同様︑常人 は︑単に︑君臨する王朝の臣民としてではなく︑法がその享受
を確証すべき﹁生得的権利﹂の所有者として生まれたというか
れの信念に基づいていた︒﹁人民の自由は神と自然からの贈与
(14)物である﹂︑とかれは書いた︒この教義は明確な共和主義的立
場を取るようにかれを導いた︒つまりかれの政府はたとえ多分
に制限された権力であろうと︑世襲的王朝から成るのではな
く︑人民によって任命された為政者から成る︒そして人民と為
政者間の関係は︑契約関係であるけれども︑その比重の割合は
人民側におかれる︒﹁人民のために人民によって為政者を創立
した人民は︑かれが任務を正当に遂行したか︑しなかったか
(15)を︑単に判断できる︒﹂したがって︑事実上︑人民の政府に対す
る抵抗は︑それが十分に懸念されるとすれば︑正当なものとみ
レボルトレペリオン(16)なされる︒﹁国民の全面的反抗は反乱と呼ぶことはできない﹂
とシドニーは言う︒ロックと︼六八八年のホイッグ党の政治家
はほとんど同じ教義をくり返したけれども︑ミルトンのそれに
類似しているシドニーの言明は︑ホィッグ党の同時代人の多数
派より急進的であったように︑かれを位置づける︒
名誉革命を︿推進した﹀ホイッグ党の政治家の見解は︑どう
してジェイムズニ世は君臨することを中止し︑新君主にかれの
地位を譲ったと理解されるべきであったかの︑方法の厳密な定
義に関して展開された論争によって説明されよう︒名誉革命は
多量のパンフレットを同伴し︑パンフレットにおけるすべての
主張は賭けて論争され︑すべての通俗的議論は︑はじめ︑それ
らの各々の政策の一側面あるいは他の側面を促進するために︑