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ジョン
ロ ッ ク の 哲 学 と 政 治 理 論
目次
序論
一︑多数者支配と功利主義
日同意による政府
目多数者支配
⇔快楽と苦痛
二︑物理的元子論と個人主義
日物理的元子論
◎個人主義
三︑感覚的認識論の限界と政治的宗教的寛容
6感覚的認識論の限界
目政治的宗教的寛容
結語
宮 下 輝 雄
序
込百f田
ロックの二大主著﹁人間悟性論﹂(国ωω塁O自8ヨぢσq閏ロヨ9コご巳2ω冨巳貯αq)も﹁政府論﹂(↓毒︒↓お㊤辞凶ω⑦ω︒hΩ︒<︒層5,
ヨ窪什)も同じく一六九〇年に出版されているが︑ロックが﹁人間悟性論﹂の冒頭で友人とある問題について議論して
いたところゆき詰ってしまい疑問の解決に少しでも近ずくことができずしばらく困惑した後で︑われわれは︑間違っ
た方法(♂く同O瓢ぴqOO口ω①)をとっていたことがわかるとのべている︒﹁つまりわれわれがそういう性質の探求にはいる前
に︑われわれ自身の能力を吟味し︑われわれの悟性はいかなる対象を取扱うのに適しているか︑または適していない
かということを知ることが必要であったのだということが︑私の頭に浮んで来た︒このことを私は友人に申し出たと
︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ( 1 )
ころすべてのものが賛成した︒そこでこれがわれわれの最初の研究であるべきだということに一致した︒﹂(傍点筆者︑以下同じ)とのべていることからロックの思索は哲学的認識論というべき﹁人間悟性論﹂からはもめられたと考えてよ
いであろう︒ロックがここで難問といっているその中心は中世以来支配的であったスコラ哲学の体系であったことは
言うまでもあるまい︒全能を誇るこの哲学に対立的にロックは﹁人間悟性論﹂の序論で﹁悟性は眼と同様に︑われわ
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れにすべての他のものを見せ︑また知覚させるが︑それ自身については注意をはらわない︒﹂︒したがって﹁人間悟性論﹂の目的は﹁人間の知識(冨︒三巴σqΦ)の起源(9αq凶慈一)︒確実性(8﹁薮口¢)︑およびその範囲(・×88︑それらとと
( 3 )
もに信念(びo累oh)︑意見(︒覧巳8)︑および同意(器ω窪け)の根拠(αq8巷匹)や程度(ユ︒σq8︒)﹂を調査研究することである︒このような前提に立脚するロックの研究態度は﹁われわれがすべてのことを確実に知り得ないからといって︑あらゆ
ることを疑うならば︑われわれは翼がないからと言って足を用いず︑じっと坐っていて死のうとする人とほとんど同
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様に賢明でない振舞をすることになるであろう︒﹂というのである︒ロックのこのような研究態度は︑何よりもほとん
ジ ョンロ ックの哲 学 と政 治理 論 287
どの事実が︑結果においてロックの言っている通りであるという意味において否定できないと思う︒誰が全ての事実
を確実に知り得たであろうか︒しかしなによりも今日の過渡的時代において︑われわれがかれから学ぶところ大なる
ものは︑その認識論や政治理論の現代的意義内容のいかんもさることながら当時における﹁新しい体系的理論﹂その
ものである︒
観念の世界と事実の世界との関係は今日しっかりと確立されるべきであるように思われる︒観念は結果をもたらす
こと︑また観念はそれ自身事実の結果であるということも一般に認められている︒しかし異なった領域における観念
の間の横断的関係は︑分野によっては実り多い研究成果をあげているにもかかわらず︑それらはすでに知られたもの
として︑自己の分野とは関係ないもののようにとりあつかわれている傾向がある︒けれども結局のところ各専門分野
の研究対象は包括的には国家や社会であり一つなのである︒そして人間生存のために存在するものである︒学問の専
門化ということはあくまで便宜的手毅である︒歴史の過渡期や社会が複雑化の傾向をもつ時代には哲学的認識論を含
めた全学問は歴史的時代的な基本的背景を同一にするがゆえに︑何らかの横断的関係があるものと考えられる︒現代
も例外ではあるまい︒いな一層その傾向が強いように思われる︒そういった意味において本論文では︑とかく別々に
とり上げられているロックの哲学的認識論の主著であり︑ロックをして哲学者といわしめる﹁人間悟性論﹂と政治理
論の主著であり︑ロックをして政治思想家といわしめる﹁政府論﹂の相互関係についての分析を試みたいと思う︒一
般に言われているようにロックの場合︑しばしば不明確な言語が用いられている︒そういったことが原因しているの
か︑まったくロックの最近の解釈は国.竃oロωo⇒も言っているように..oα<8暮ぎαqΦαqo一ω目bげωo一暮oωoびoaぎ㌣
鉱o昌ε日aoユけ団目三ρo鋤宮$=のB℃餌昌餌器げざ什げo傷o巳巴o臨昌四9吋巴一⇔≦"国oびげΦω鑓巳ω露"什﹃①餌びωΦづoΦo胤
( 5 )
昌簿ロ轟一二αq窪ω︑︑といったぐあいに︑まったくさまざまである︒とりわけ.︑9︒コ鉾oげ︽︑.と.︑調oびぴoω冨巳ωヨ..はまったく対称的な解釈である︒これはロック思想の全体像とかけはなれた解釈からくる局部的解釈といわざるをえないで
あろう︒しかしここにいたって︑われわれがなさんとすることは︑このことが先に揚げた二大主著との関係において
同じく不明確であったり︑矛盾しているかどうかということである︒と同時にロックの新しい哲学的認識論とかれら
の政治理論とのかかわりあいの内容のいかんをつきとめんとするものである︒
政治思想研究の役割として今中次磨氏は﹁理論的な正しさを目的として科学的に政治思想の理論構成を反省してみ
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るのが政治思想研究の役割であろう︒﹂したがって﹁政治思想﹂は﹁政治原理﹂のための﹁理論的構成の素材﹂を提供するものとのべている︒
また同氏は今目のわれわれに最も必要なのは意識の啓発である︒この重大な任務は政治思想的教養なしには果しえ
ないであろう︒これが政治思想研究の任務であるとも主張している︒なおいうまでもなく古典を顧みることは決して
古典そのものに埋没するためではなしに︑現代をより正しく知って︑より正しく実践しうる理論的立場を確立するこ
とにあることは言うまでもあるまい︒
さらにわれわれは哲学と政治との関係についても確認しておく必要がある︒9ω08興く筥oは人間を重視する立
ヘヘヘヘヘヘヘヘへ場からいえば﹁哲学とは政治の基礎をあらわす一つの名称である︒理論と実践を区別するいいかたをすれば︑哲学と
・ ⁝ ︑ ・ ・ ・ ⁝ ( 7 )
は政治の知的︑道徳的基礎をあらわす名称というべきであろう︒﹂とのべている︒︑
多数者支配と功利主義e 同 意 に よ る 政 府
ロックの﹁政府論﹂に多数者支配の思想が見い出せることは︑その程度はともあれ↓●OHo①昌や芝●図⑦巳巴一の
主張する通りである︒つまり両者はロックをルソーの前任者と見るのである︒
ジ ョン ロックの哲学 と政治理 論 289
﹁多数者﹂を中心に思想を展開するということはロックの﹁人間悟性論﹂で展開されている﹁快楽﹂と﹁苦痛﹂の
問題とともに考察すると︑かれらの思想は功利主義の思想に関連するものであることがわかる︒功利主義の思想はベ
ンサムにいたって最高度に結実するにしても︑その原型はすでにロックの﹁政府論﹂と﹁人間悟性論﹂とを合せ分析
するときにすでに見い出せるものである︒ラスキは言う﹁ロックはベンサム主義の真の祖であり︑この関連なしには
かれの著作は理解できない︒かれがその倫理学的探求において求めたものは常に個人の幸福であった︒政治学におい
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てかれが留意したのも︑また人民の幸福であった︒﹂と︒ロックの全政治体系の基礎である社会契約論は芝・Qo一ヨ8ものべているように自然状態を取り去ろうとする人々
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の願望によって形成された︒つまり﹁自然の状態では人々が生まれながらにもっている権利の享受はきわめて不確実( 10 )
でたえず他からの侵害の危険にさらされているからである︒﹂︒それは﹁万人が︑かれと同じように王であり︑ことごとくかれと同等のものであり︑しかも大部分の人間が公正と正義を厳格に守ろうとしないので︑自然の状態のもとで
の財産の享受はきわめて不安定であり︑きわめて不確実であるからである︒このために︑かれはどんなに自由であっ
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ても︑恐怖とたえざる危険に満ちている︒この状態をすすんで放棄しようとする︒﹂したがって︑かれが生命(嵩く⑦ω).自由(ぎ⑦ヨ⑦ω)︑および資産(⑦ω什母・ω)(これらをロックは財産[嘆︒bΦ腎呂というのであるが)を相互に保全するために﹁す
でに結合しているか︑あるいは︑これらを結合しようと思っている他の人々とともに社会をつくることを求め︑すす
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んでこれに加わることを願うのは︑理由のないことではないのである︒﹂︒したがって﹁人々が結合して国家を作り︑統治に服そうとする場合の大きなそして主な目的は︑かれの所有物の保全ということであるが︑自然の状態において
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は︑そのために必要な多くのものが欠けているのてある︒﹂︒その第一は﹁自然の状態には︑正邪の基準として︑また人々の間のすべての紛争を裁決すべき共通の尺度として︑人々の共通の同意によって受けいれられ認められている確