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幕末期、弘前藩に到来した幕府通達外交関係文書

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(1)

幕 末 期 、 弘 前 藩 に 到 来 し た 幕 府 通 達 外 交 関 係 文 書

― 安 政 五 ヶ 国 条 約 の 廻 達 文 書 を 中 心 に ― 白 石 睦 弥

市 毛 幹 幸

はじめに

平成二十一年(二〇〇九)という年は日米修好通商条約をはじめとす

る所謂、安政五ヶ国条約調印から一五〇年に当たるということで、調印

国に対して通商貿易のために開かれた港町では各種催し物が用意され、

盛り上がりをみせているという。

その安政五ヶ国条約に関して、弘前市立博物館蔵津軽家文書のなかに

その調印の事実を通達する史料及び条約書五冊や関連史料が存在するこ

とが明らかになった。本稿で使用している史料は特に断らない限り同文

書を引用している。

幕末の外交史研究については開国以前・以後の幕府外交政策の基調を

比較・検討し、相互の関連を追究した研究や日本の開国を、米・英両国

の対日通商方針の具体的分析を通じて列強の中国市場重視とその一環と

位置付けた研究などをはじめとして、その研究成果は現在に至るまで厚

く積み重ねられてきている。 ()

そこで本稿では、幕末外交や政局についてはこうした研究に依拠して

概略を述べるにとどめ、新出の安政五ヶ国条約関連史料を紹介し、諸大 名を対象とする幕末の外交関連文書の通達に関する特質について考察す

ることにしたい。具体的には、まず、新出史料の翻刻・紹介を行い、江

戸における安政五ヶ国条約関係文書廻達の経路を示し、廻達と大名殿席

の関係について検討する。次いで、弘前藩の国許に到達した幕末期外交

に関連する全国レベルの幕府通達の事例をもとに、外交に関係する老中

通達の手続きと内容や幕府による外交関連文書開示のあり方といった観

点からその特質について試論を述べることにする。

史料の翻刻・紹介に当たっては、適宜、読点や並立点を施し、合字、

異体字、旧漢字はひらがなや常用漢字で表記した。また、変体仮名のう

ち助詞として使われる「江」は活字のポイントを下げ右寄せにして示し、

「而」、「者」はそのままとした。「茂」、「与」の場合のみ「も」、「と」

とひらがなで表記した。なお、平出や闕字は特に考慮せず、必要な筆者

註は傍註や※によって示した。

一幕末外交にかかわる新出史料の紹介

廻状とは複数名宛てに発給される書状のことで、発給者は多岐にわた

(2)

り、回読する者も様々であった。その中でも本稿で取り上げるのは、大

名廻状と呼ばれる種類のもので、幕末の危機的状況下、幕府の通達事項

を各大名に知らせるためのものである。廻状をはじめに受け取った者は

早々順達する旨の請書を提出し、受け取った者は自分の名前の右肩に合

点を打った。また最後に受け取る「留」となる者は廻状を返却する旨の

請書を差し出すことになっており、本紙は発給者のもとに戻される。そ

のため、回読者の手元に残存する廻状は全て写しか控えということになる。

【史料一】は、廻状の特徴がよく分かる控えである。安政四年(一八

五七)十二月十三日、老中堀田備中守正睦から封書を渡された松平(伊

達)陸奥守慶邦は各人へ通達するように申しつけられたので廻達する旨

と、「留り之御方」から自分のところへ戻してくれるようにと書き加え

ている。また、控えとはいえ、回読した松平(蜂須賀)阿波守斉裕、以

下五名の右肩にはしっかり合点が付されている【図】。残念ながら、

1

堀田からの書付は失われているが、何ごとに限らず通達の内容は回覧す

ることになっていると断り書きがなされており、在国在邑の面々へ写し

をもって通達するようにとも記されている。

同年十一月一日にアメリカ大統領親書及び同国総領事タウンゼント・

ハリスの口上書写しを御三家や諸大名に示して意見を求めてから、幕府

は繰り返し大名らに意見を諮詢してきた。二度目は同月中旬、三度目が

十二月中旬、そして同月末、将軍家定臨席のもと老中首座の堀田正睦が

貿易開始やむを得ずの演説を行った。あらかたの了承を得た堀田は後手

に勅許を求めるのである。発給日から察するに、同史料は第三回目の諮

詢にかかわる史料である。同史料を含め、大名への諮詢と情報公開とい う幕府の姿勢は注目すべき点であろう。

【史料一】松平陸奥守より廻状

安政四年(一八五七)十二月十四日

昨十三日堀田備中守殿、家来御呼出之上御用人を以御封書壱通被 相渡、各様致通達候様共被仰聞候間指廻申候、留り之御方より私 方被相戻度候、以上、

十二月十四日松平陸奥守

「松平阿波守様

「松平三河守様

「松平相模守様

「松平大膳大夫様

「津軽越中守様

「松平土佐守様

猶以大廊下御席之御方も候得共、何事ニ不限御通達之儀者相廻候事

ニ相成居候間如斯ニ候、且又御在国御在邑之御方者御銘々写を以

差廻申候、以上、

「阿蘭陀条約并魯西亜・阿蘭陀貿易仮条約其外共写為心得相達候

事、」

「同席之面々、可有廻達候事、」

(3)

なお、廻状の控えを包紙で包み、封筒状の袋に入れ、内容を上書きし、

開封しなくても内容がわかる状態で保存していたものもある【図

A -

2

~C】。なお、【史料二】は【図

A~C】の翻刻文である。 -

2

安政五年二月に堀田が天皇の勅許を求め、翌月「条約調印拒否」の勅

答を受けたのち、井伊直弼が大老に就任、幕府は無勅許のまま六月十九

日に日米修好通商条約を締結した。続いてオランダ・ロシアとの条約を

締結した直後に出されたと考えられるのが【史料二】の廻状と書付であ

る。なお、発給者細川越中守は、熊本藩十代藩主細川斉護で、当時既に

弘前藩主津軽順承の養嗣子であった承昭の父であり、弘前藩とは姻戚

関係にあった。 ()

【史料二】細川越中守より廻達書及び書付写

安政五年(一八五八)七月十四日

【A】

「安政五

年七月十四日、細川越中守様より御到来、即日

松平大蔵大輔様御順達、

御書付写壱通

越中守様より之

御廻達書壱通」

【B】

「御書付写」

昨十三日太田備後守殿宅相越候様、病気等ニ而難相越候ハヽ在府

御同席之内次順より相越候様達有之、拙者罷越候処、外国条約御取 結之儀ニ付、別紙写之通備後守殿書付被相渡候、御同席御在国之御

方々も致通達候様との事ニ付、則致廻達候、以上、

七月十四日細川越中守

津軽越中守様

松平大蔵大輔様

猶以早々御順達有之御承知之段、備後守殿御銘々より御答御使

者可被指出と存候、

一、重役并其外懸り之役人等拝見之儀不苦由御座候、以上、

「御紙面之趣致承知一覧相済、松平大蔵大輔致順達候、

津軽越中守」

【C】

「細川越中守」

亜墨利加条約之儀、先般被仰出候通、無御余儀次第ニ而条約調判相

済候儀之処、其頃より魯西亜船も渡来、去巳年仮条約為取替相済居

候、廉々取広条約取結度旨申立魯西亜之儀者貿易御差許ニも相成居

候儀ニ付、申立之件々精々談判之上取縮、亜墨利加之振合を以条約

御取結相成候、然処兼々風聞之通、此節英吉利船も追々渡来十分之

条約取結之儀申立、仏蘭西船も近々渡来可致由ニ付、是又精々及談

判申立之条々取縮、亜墨利加之振合を以条約御取結可有之候、尤先

(4)

達而叡慮之趣被仰進候次第も有之候付、下総守儀御使被仰付、不日

上京之上無御余儀訳柄委細及言上候筈ニ候間、可被得其意候、

七月

廻状は【A】にある通り、安政五年七月十四日に細川越中守から発給

されたもので、【A】及び【B】によれば、宛先は津軽越中守順承及び

松平(前田)大蔵大輔利声となっている。先に受け取った弘前藩では、

写しを取ると即日のうちに大蔵大輔方へ順達した。【B】の付箋は、発

給先に提出された請書の写しと考えられる。同時に回覧された書付

【C】は、太田備後守から前日に細川越中守が託されたもののようで、 ()

「外国条約御取結」についての内容である。 ()

アメリカとの条約締結が余儀なきものであり、風聞通りその他の国々

も条約締結を求めて渡来しており、アメリカとの条約を結んだ先例があ

るため他国とも締結することになるだろうが、せいぜい談判を申し立て

て条約を縮小しようと考えていることを伝え、先だって朝廷へも進言し

たこともあるので、間部下総守が使いとなり、上京して余儀なき理由を

委細報告することになっていると締めくくっている。

その後、無勅許のまま条約は成り、井伊はその他にも家定の家茂の将

軍継嗣指名を布告、異論をとなえ不時登城を行った水戸藩主らを隠居謹

慎などの処分とし、安政の大獄がはじまることとなる。その後、八月八

日には所謂「戊午の密勅」が出され、結局、【史料二】で上京した間部

下総守が再び参内して条約調印了解の勅許を受けるのは同年末のことで

ある。 翌六年にはその条約が施行されることとなるが、それに関しての廻状

を覚書のかたちで冊子に仕立てているのが【史料三】である。同様に老

中達書でも、条約の写しを通達するので、家臣や私領末々のものに至る

まで周知徹底するよう申しつけている【史料四】。

弘前藩で作成された【史料三】の冒頭には、未(安政六年)六月十一

日に細川越中守からの廻状が到来し、即刻返却したとある。廻状の内容

は、同日間部下総守から呼び出しがあり、細川越中守は安政の五ヶ国条

約の文面を写したものを渡され、同席の面々へ通達するように申しつけ

られたが、数冊の上に文字数も多いので筆写が終わり次第通達するとの

ことであった。弘前藩で写しを受け取ることができたのは、六月二十一

日のこと、五冊の条約と書取・添書・名前書等を筆写し翌二十二日には

松平内蔵頭に順達している。

その筆写した条約の写しと考えられるのが【図】で、五冊の「条約

3

并税則」と書付などが見られる。封筒表紙には「六月廿二日夕、立花飛

騨守様より御到来、翌廿三日松平内蔵頭様御順達、」とあり、【史料

三】の覚書きと同日である。こうして、各大名へ伝達された条約の内容

は各家の飛脚などによって国許へ、そして領内の末々まで通達されたも

のと考えられる。

【史料三】細川家よりの廻状(覚)

安政六年(一八五九)六月十一日

未六月十一日細川越中守様より之御廻状壱通、同亥中刻御同所

様より到来持廻りニ付、即刻返却、

(5)

以廻状致啓上候、今日間部下総守様より御呼出ニ付、私参上仕候処、 魯西亜・英吉利・亜米利加・阿蘭陀・仏蘭西五ヶ国為御取替相成 候条約書数冊、下総守様御直ニ被成御渡、御同席様方通達之儀被

仰渡候処、右者数冊之上文字数も多候ニ付、追而写取相済候上、使

者を以及御通達被申筈ニ候得共、夫迄延引ニも相成候付、一先右之

趣各様迄得御意之様越中守被申付、廻状数通相認持廻り申付候、以

上、

六月十一日細川越中守内

清田新兵衛

未六月廿一日夕、立花飛騨守様より御使者宮崎邦之助を以五ヶ

国条約書五冊御渡御書付写壱通細川越中守様より之御添書并御

名前書一通持参、御留守居比良野助太郎面会請取之御側役

出候処御下ケ写方被仰付、左之通、

飛騨守様衆演説覚書左ニ

演説

御廻達御留り之御方より越中守様御返シ可被成且又御順達之儀者、

御手間取ニ不相成候様御順路ニ御廻達可被成候旨、右京大夫様御使

者申聞候、

六月廿一日立花飛騨守使者

宮崎邦之助 右写方相済、翌廿二日夕、御留守居比良野助太郎を以、松平内蔵頭

御順達、左之演説書相認持参致候、

演説

御廻達御留之御方より越中守様御返シ可被成、且又御順達之儀者

御手間取ニ不相成候様、御順路に御廻達可被成旨、飛騨守様御使者

申聞候、

六月廿二日津軽土佐守使者

比良野助太郎

(後略)

こうして廻達された通達文書が【史料四】であり、【A】が「御書

取」、【B】が「御添書」である(【史料三】と【史料四】の関係につい

ては【表】を参照のこと)。

4 12

【史料四】安政五ヶ国条約関係書類

安政六年(一八五九)六月

「安政六

年六月廿二日夕、立花飛騨守様より

御到来、翌廿三日、松平内蔵頭様御順達、

御条約書五冊

御書取壱通

細川越中守様より之

御添書壱通

(6)

御名前書壱通」 ()

「覚」

【A】

魯西亜・仏蘭西・英吉利・阿蘭陀・亜墨利加条約為御取替相成候

ニ付、右条約写相達候、条約之趣家来を始領分末々之者ニ至迄、相

心得候様早々可被申付候、

六月

【B】

間部下総守様より一昨十一日、家来之者御呼出、魯西亜・仏蘭西・

英吉利・阿蘭陀・亜墨利加為御取替相成候条約書写五冊并御書取 一通御直ニ被成御渡、御同席様方御通達之儀も被仰渡候付写之、

則被致御通達候、

一、右早々御順達有之御承知之段、下総守様御銘々様より御答御使

者可被成御差出候、

右之通申達候様、越中守被申付候、以上、

六月十三日渡辺一郎左衛門

二老中達廻達に見る大名の家格―伝達経路について―

大名の家格問題については、千葉一大氏が研究史を詳細に整理されて おり、「八戸南部家にみる大名の家格問題」に詳しい。その中で千葉氏 ()

も述べられているとおり、大名の殿席には大廊下・大広間・溜間・帝鑑

間・柳間・雁間・菊間広縁の七つがあり、諸要素が複雑に絡み合って身

分や階層設定が行われた。

その中でも、津軽家の家格は、歴代従五位下で初代為信が右京大夫で

あった以外は、土佐守や越中守を歴任しており、もとは柳間詰め外様大

名であった。その後、文化年間に高直りが行われ文化五年(一八〇八)

に十万石を有することとなった。これに伴い、従四位下昇進と大広間詰

めが認められ、準国持ち大名に列することになった。大広間は、国持大

名及び准国持大名の席で、国主以外でも、四品以上の官位を持つ親藩お

よび外様大名はこの席に詰める。なお、この家格向上は蝦夷地警衛に際

してなされたもので、実際の加増を伴わないものであった。

さて、【史料一】では「猶以、大廊下御席之御方も候得共、何事ニ不

限御通達之儀者相廻候事ニ相成居候間、如斯ニ候、且又、御在国御在邑

之御方者、御銘々写を以差廻申候、」と断り書きがなされており、また 別紙には「同席之面々、可有廻達候事、」ともある。

どうやら廻状は殿席の同じ者の間で廻覧されることになっていたよう

である。それでは、ここまで見てきた廻状の回読者はいかなる殿席の大

名であったのだろうか。

まず、【表】は【史料一】の回読者を一覧にしたものである。全員

1

が四品以上で、上位二名は大廊下詰めとなっているが、これについては

先述のとおり断り書きがなされている。次に【表】は【史料二】の回

2

読者二名であるが、こちらもほぼ同格の大名と言えるだろう。普段同じ

(7)

場所に詰めていて交流のある大名間では情報伝達が日常的に行われてい

たことが考えられ、廻状で伝達するような重要事項もそのルートを使用

することでスムーズに情報を伝えることができたと考えられる。【表

】は【史料五】において受領の付箋がなされていた大名一覧であり、

こちらも大広間詰めの大名らである。 3

江戸には諸大名の藩邸があり、参勤交代で江戸と国元を往復した大名

が在府中その屋敷に居住していたことはよく知られている。この江戸藩

邸は基本的に上屋敷・中屋敷・下屋敷の三種類があり、必要に応じて向

屋敷や抱屋敷などの附属的な屋敷も併設された。上屋敷は藩主とその家

族が居住する公的な性質の屋敷であり、中屋敷は隠居した藩主や嗣子な

どの住居であるとともに、上屋敷が罹災した際の避難邸宅として利用さ

れることもあった。下屋敷はその立地条件から廻送物資の荷揚地蔵地、

また庭園などをしつらえた予備邸宅的な性格を持っていたと考えられて

いる。

弘前藩が幕末安政期に所有していた屋敷は本所二ツ目の上屋敷のほか、

本所三ツ目通・品川戸越村・浜町に三つの中屋敷、北本所大川端に下屋

敷、本所三ツ目には向屋敷があった他、亀戸に抱屋敷を所有していた。

拙稿「『秘日記』から見た安政江戸地震」において、位置関係などを示 ()

したので参照されたい。

通達される廻状は公的な性格のものであったため、当然上屋敷に届け

られ、次の大名の上屋敷へと廻達されていった。【図】は江戸全図で

4

あるが、切絵図などでは藩の家紋が記されている場所が上屋敷であり、

家紋が正位置で見える方角に表門がある。 最後に廻状が江戸の大名家をどのような経路で廻達されたのか、【史

料五】をもとに検証してみよう。なお、【史料五】は、先述の【図】

3

のうち、名前書のみを抜粋したものである。付箋のされている大名藩邸

では廻状を受け取った日付と受領者の氏名も記され、在国の場合は国元

に通達する旨を記載している。

【史料五】安政五ヶ国条約関係書類

安政六年(一八五九)六月二十二日

松平陸奥守様※(付箋)

1

松平肥前守様

藤堂和泉守様※(付箋)

2

松平美濃守様

松平内蔵頭様

上杉弾正大弼様

松平出羽守様

松平修理大夫様

宗対馬守様※(付箋)

3

南部美濃守様

藤堂大学頭様※(付箋)

4

松平下野守様

立花飛騨守様※(付箋)

5

松平右近将監様

佐竹右京大夫様※(付箋)

6

(8)

伊達遠江守様

丹羽左京大夫様

松平安芸守様

南部遠江守様

津軽土佐守様※(付箋)

7

「御廻達之趣致承知写取、国許陸奥守早々可申聞候、

六月十五日松平陸奥守内

秋保清潔」

「御廻達之趣致承知写取、国許和泉守早々可申聞候、

六月十七日藤堂和泉守内

松岡橘四郎」

「御廻達之趣致承知写取、国許対馬守早々可申聞候、

六月十八日宗対馬守内

志賀鼎郎」

「御廻達之趣致承知候、」

「御廻達之趣致承知写取、在所飛騨守早々可申聞候、

六月廿一日立花飛騨守内

宮崎邦之助」

「御廻達之趣致承知写取、国許右京大夫早々可申聞候、

六月廿日佐竹右京大夫家来

長瀬隼之助」

「御廻達之趣致承知写取、在所土佐守早々可申聞候、

六月廿二日津軽土佐守内 比良野助太郎」

以上に見える【史料五】の大名屋敷を【図】及び【図】に示した。

4

5

受領の日付が記されているため、条約に関する情報がどのような経路と

順序で伝達されたのか明確である。特に名前書の順序通りに通達しなけ

ればならない規則はなかったようで、六月十五日に松平陸奥守屋敷、十

七日に藤堂和泉守屋敷、翌十八日に宗対馬守屋敷、二十日には佐竹右京

大夫屋敷、翌二十一日に立花飛騨守、二十二日に津軽家屋敷からそれぞ

れ返答書が出されたようだ。付箋で示されているのは、細川越中守から

「右早々御順達有之御承知之段、下総守様御銘々様より御答御使者可

被成御差出候、」と添え書きがあったため、各大名家で間部下総守へ返

答したものを写したと考えられる。津軽家上屋敷から松平内蔵頭屋敷へ

届けられた後の経路は不明であるが、AからMの各屋敷をめぐったもの

と考えられる。驚くべきは、八つの屋敷を移動する間に十日程度の日数

しか経過していないことである。【史料三】のみでは津軽家屋敷に条約

写しが到来するのにずいぶん時間がかかったようにも受け取れるが、五

冊の条約は百を超える丁数で、これを一家あたり約一日で筆写したこと

はこれらの情報がいかに重要で早急に伝達されなければならなかったか

ということを物語っていよう。

三幕末期、外交関係諸通達の特質

ここまで、幕末期に欧米列強と調印された条約にかかわる老中達(幕

(9)

府老中通達)の諸大名間廻達について、新出史料の紹介を兼ねて述べて

きた。以下では、弘前藩の国許に到達した幕末期外交に関連する全国レ

ベルでの老中達の事例をもとに、その特質について試論を述べたい。

幕府の対外編成は幕末期に二度の転換を迎えることになるといえる。

すなわち、ひとつは嘉永七年(一八五四、十一月二十七日に安政に改

元)の米・英・露との和親条約調印により、下田・長崎・箱館(英には

長崎・箱館)を各国船舶の欠乏品(薪水・食料・石炭など)給与のため

の寄港地として開港することや領事駐在(米は調印後一八ヶ月以降、英

は期限を明記せず)などを規定して、日本型華夷秩序に基づく「通信」

・「通商」国以外の国々と限定的な関係を結んだことによるものである。

また、もうひとつは安政五年(一八五八)の修好通商条約調印によって

恒久的な国交・通商関係を結び正式に開国したことによるものである。

そこで、ここでは和親と修好通商と、二つの条約交渉が行われた期間

を分けて、各々の期間(以下、便宜的に和親期と修通期と表記)の、外

交に関係する老中達の内、「弘前藩庁日記御国日記」(弘前市立弘前図

書館蔵津軽家文書。以下、「国日記」と略記)にあらわれる通達文書や

記事内容を検討対象とする。具体的には、和親期を嘉永六年六月三日の

アメリカ遣日使節来航に関連して異国船渡来時の対応・心得方を指示す

る老中達が記載された同年六月二十一日条から翌嘉永七年に米・英・露

との間で相次いだ和親条約調印を諸大名、幕府有司に通達した安政二年

八月十三日付老中達にかかわる島津斉彬廻達が記載された同年十月十日

条までと設定する。一方、修通期を、アメリカ総領事タウンゼント・ハ

リスが幕府に対して条約交渉のための江戸出府を通告した旨の老中達が 記載された「国日記」安政四年十月十五日条から安政五ヶ国条約調印を

諸大名・幕府有司に通達した安政六年六月十一日付の老中達と条約書五

冊の交付を報知する細川斉護廻達が記載された同年十月十九日条までと

設定し、各々の期間の幕府外交に関する記事を対象とする。

なお、前述の通りここでは外交にかかわる全国的な老中達を対象とす

るため、弘前藩に課せられた箱館・蝦夷地警備、蝦夷地上知や蝦夷地の

分割・東北諸大名への分領といった問題そのものに関係する老中達は検

討対象から除外する。また、各々の老中達とそれに関係する事実関係の

出典については、特に断らない限りは【表・】を参照されたい。

4 5

1外交に関係する老中達の手続きと内容

【表】は、和親・修通期の「国日記」にみえる老中達の内、直接的

4

に諸大名に宛てた外交に関係する通達を一覧化し、『大日本古文書幕

末外国関係文書』(以下、『幕外』と略記し、同書各巻の編者・発行所・

発行年は各巻同様の場合は初出段階で示し、再出以降は省略した。変更

があった場合も同様である)でその内容を対照したものである。和親期

には三件、修通期に九件が確認できるが、【表】の対象から外した外

4

交問題にかかわる非直接的な老中達は数倍にのぼる。そして当然ながら、

それらの老中達も『幕外』でほぼ同文或いは同内容の記事を確認できる。

例えば、和親期では、先述の「国日記」初見記事である嘉永六年六月二

十一日条の老中達(東京帝国大学編『幕外』之一東京帝国大学一九

一〇年九一号文書〈同年六月八日通達〉二〇七~二〇八頁《a》)を

はじめとして、代表的なものを内容別でみると、①嘉永七年二月四日条

(10)

のアメリカ使節浦賀再渡航の件(『幕外』之四一九一二年一二八号

文書〈同年一月十五日通達〉一八三~一八四頁)や同年七月十一日条の

下田滞留の全米国船退帆の件(『幕外』之六一九一四年二六五号文

書〈同年六月十日通達〉四七二頁)など、諸外国船の国内諸港入港・退

去に関する通達、②嘉永七年四月二十六日条・五月十日条のアメリカに

対する下田・箱館開港の件(『幕外』之六五六号文書〈同年四月九日

通達〉七三~七四頁)や同年十月十二日条のイギリスに対する長崎・箱

館開港の件(『幕外』之七一八六号文書〈同年九月十二日通達〉五七

〇~五七一頁)など、開港の通達、③嘉永七年二月十四日条の異国船、

近海に渡来の節、近国在町取締方の件(『幕外』之四一九一号文書

〈同年一月十七日通達〉二六一~二六二頁)や同年二月十九日条の異国

船見物禁制の件(『幕外』之五一九一四年二四号文書〈同年二月三

日通達〉二九~三〇頁)、同年二月二十五日条のアメリカ使節再渡来の

際の心得の件(『幕外』之五一九一四年七九号文書〈同年二月八日

通達〉八三~八五頁《b》)、安政二年七月二十二日・九月九日条の異国

船度々渡来につき、西洋流銃陣修行奨励の件(『幕外』之十二一九二

〇年四八号文書〈同年六月二十九日通達〉九八~九九頁)など、外国

船渡来や滞留中の国内取締と沿岸警備、軍備や軍事動員など対応・心得

方全般にかかわる通達が確認できる。

一方、修通期の「国日記」にみえる【表】以外の外交問題関連通達

4

は、①この時期の初見記事である安政四年十月十五日条のアメリカ総領

事出府の件(『幕外』之十七一九二四年九五号文書〈同年八月十四

日通達〉三一九~三二〇頁《c》)や安政五年九月十五日条のアメリカ 使節帰豆の件及びロシア使節出府・登城・拝礼の件(『幕外』之二十

一九三〇年九一号及び二七三号文書〈同年五月八日及び七月朔日通

達〉二九一~二九二及び六四九頁)など、外国使節の動向にかかわる通

達、②安政五年七月七日・九月十五日条のアメリカ船・ロシア船下田渡

航の件及びフランス軍艦品川沖入津とアメリカ船下田追加渡来の件

(『幕外』之二十一八九号文書〈同年六月十八日通達〉四六六頁及び

『幕外』之二十一一九三二年五一号文書〈同年八月十五日通達〉七

九~八〇頁)や安政六年八月朔日条のイギリス船品川沖入津の件(東京

大学史料編纂所編『幕外』之二十三東京大学出版会一九五二年一

五八号文書〈同年五月二十七日通達〉三一六頁)などといった外国船の

頻々たる渡来に関する通達、③安政四年十二月二十八日条にみえる、和

親条約追加条約締結に伴うオランダ通商仕法替及びロシア通商開始の件

(『幕外』之十八一九二五年七八号文書〈同年十一月三日通達〉二

四一頁)や安政六年四月朔日条の開港場へ出稼ぎ・移住許可の件(『幕

外』之二十二一九三九年一九号文書〈同年一月十二日通達〉二四一

頁)、同年七月九日条の通商につき、外国金銀通用の件(『幕外』之二十

三一四三号文書〈同年五月二十四日通達〉二八八~二八九頁《d》)、

同年八月朔日条の同年六月より神奈川・長崎・箱館にて自由貿易許可の

件及び外国人へ相対売渡禁制品の件(『幕外』之二十三一九五二年

一六七及び一六八号文書〈同年五月二十八日通達〉三二八~三二九及び

三二九~三三〇頁)など、対外通商に関する通達を確認することができ

る。極言すれば、和親期にみられた海防にかかわる通達が減り、修通期

には対外通商にかかわる通達が頻出し、和親条約による限定的開国の段

(11)

階と本格的な国交・通商関係のあり方やその構築が喫緊の課題とされた

修通期との状況の相違がみえてくる。

こうした老中達は老中から大目付或いは大目付・目付に宛てられたも

ので、書止めには例えば、「右之趣可被相触候」《a》とか「右之通、万

石以上以下不洩様、早々可被相触候」《b》、「右之趣向々可被達候」

《c・d》などとあり、「国日記」にも「公辺御触」《a》、「公義御書付 ()

之写」《b・c・d》として家中に通達されていることから、広範囲へ

の伝達を目的としたものであったとみてよかろう。

ところで、幕府が発令する単行法令は、一般的に触れ知らすべきもの

は「触書」として個別案件に対応して随時的に発布され、その通達につ

いては、元禄期の全国法令の頻出傾向のなかで大目付から廻状形式で大

名家に廻達し書写させる形式が登場するという。この大目付廻状は老中 ()

が触文を記した「老中御書付」を大目付に渡し、大目付が廻達の便をは

かって区分けした大名群ごとに、或いは大名家の殿席を基準に(後者を

「同席触」という)、その「老中御書付」の写しを添えた廻状を発し、 ()

各大名側では留守居がこれを書写し廻状宛所の大名の名前の箇所に受領

の旨を記し順達するシステムであった。ここに例示した諸通達は必ずし

も法令の内容を持つものばかりではないが、大目付廻状の手続きに則っ

て弘前藩江戸藩邸で受領、書写され、国許に到来したものである。

一方、【表】に反映した諸通達は大目付を媒介せず、老中達を直接

4

的に大名家へ通達させたものである。そのあり方をここに挙げた十二例

でみてみると、①大名が将軍への謁見や様々な儀式などのために江戸城

本丸御殿に登城した際に老中から、将軍謁見の礼席付近、老中面会(老 中謁)の謁席で通達を受ける場合(・・)、②同様に登城の際、 ()

1 2 9

老中から通達を受け取った大名が、在国や病気など何らかの理由で出仕

のなかった、殿席を同じくする大名家(一部、違う殿席の大名が含まれ

る場合もあった。以下同)へ家臣・使者を通じて廻達する場合(・4

6

・)、③老中役宅に大名自身や家臣・使者が呼び出され老中自身や老

10

中用人から通達を受け取り、通達を受け取った大名が、家臣・使者を介

して殿席を同じくする大名家に廻達する場合(・〈【史料一】〉・

3 5

7

・〈【史料二】〉・〈【史料三~五】〉)などがあったといえる(はど

11

12

8

のような経緯で伊達家が通達を受領したか不明である。なお、廻達のあ

り方は前節も参照のこと)。こうして廻達を受けた大名家側では各大名

家ごとに担当老中に家臣・使者を以て受領の旨を届け出た。

ここに示した事例で、大名家間の廻達を担った大名家の家臣・使者と

は各大名家間で連絡・交渉に当たる留守居を指すものであろう。そして

【表】の内、~、~からはその廻達の具体的な手順が理解さ

4

3 7 10 12

れる。例えば、

【史料六】「国日記」安政五年五月十五日条

一、過ル十五日、月並出仕相済候以後、於御白書院御縁頬、十二月二

日亜墨利加使節応接之趣壱冊、同四日右使節差出候書付和解壱冊、

同使節差出候和解壱冊、外ニ御添書弐通、堀田備中守殿より松平大

膳大夫一同被相渡、各様致通達候様被仰聞候間則差廻申候、留り 之御方より私方可被相戻候、以上、

十二月十七日

(12)

松平陸奥守

御名様

松平土佐守様

立花飛騨守様

佐竹右京大夫様

猶以、御嫡子方も御通達相成度候、且御在国・御在邑之御方

御銘々写を以差廻申候、以上、

(中略)

演舌之覚

亜墨利加使節応接之趣等三冊、外ニ御添書二通被相渡候に付、御 銘々様より御請之儀者、堀田備中守様御使者を以被仰遣候儀と奉

存候、

一、右応接之趣等家来重役之者并其節係り役々拝見苦ヶ間敷哉之段、 大御目付遠山隼人正様被相伺候処、不苦旨被仰聞候、 一、御存寄被仰立候節者備中守様御差出可被成候、御差出振者御直

ニ被差出候共、御重役又者御留守居役を以被差出候共、御先格之通

御取計可被成旨被仰聞候、

一、御嫡子様方より者御存寄被仰立候ニ者不被為及旨被仰聞候、

一、右者何分早々通達有之候様備中守様御口達之旨隼人正様被仰聞候、

右之通為御心得申達候様陸奥守被申付候、御順達之節御先々様

被仰通可被下候、以上、小松新左衛門 【史料六】は「国日記」安政五年五月十五日条にみえる、日米修好通

商条約の内容についての老中堀田正睦とアメリカ総領事ハリスとの交渉

内容を要約した「応接之趣」やハリスが提出した条約・貿易章呈の草案

の和解といった外交文書を堀田から受け取った仙台藩主伊達慶邦が同殿

席諸大名家に廻達した文書の写しである(【表】参照)。引用箇所は

4 6

伊達慶邦と伊達家留守居と思われる小松新左衛門の添状であり、(中

略)の部分に堀田の「応接之趣」が挿入されている。なお、ハリス提出

の外交文書は「国日記」には記載されていない。

この事例から、老中達の廻達システムは老中達の交付を受けた大名家

(交付を受けるのは大名やその留守居)で写を作成し、それに通達受領

の経緯や廻達すべき通達文書の概要、廻達上の留意点など記した大名や

留守居の添状(廻状)を付し、宛所を、大名添状は廻達対象となるすべ

ての大名、留守居添状は大名家留守居として順達するものであったとい

える。但し、【表】のように廻達文書に、起点となる大名自身の添

4 12

状がなく、大名の指示をうけた留守居の添状のみを付して廻達される場

合もあった。付け加えれば、廻達をうけた各大名家では【表】・

4 7 12

の例のように起点の大名家留守居の廻達手続きに関する添状をもとに、

新たに同内容の自家留守居添状を作成して、それを起点の大名家留守居

添状に添付して次順へ廻達したものとみられる。【史料三】は起点・前

順・自家の留守居添状を写して保管したものであろう

では、大目付廻状と直接的な老中達の通達システムの違いは何に由来

するのであろうか。

結論からいえば、それは通達される内容の差異であろう。先に列挙し

(13)

た事例から窺われるように、大目付廻状による老中達の内容は、国内に

渡来する海外使節や船舶の動向を報知し、それによって生じた事態(予

測される事態を含む)への対応・心得、国内取締の督励や既定政策・方

針の通告などあくまでも国内統治にかかわる通達の範囲を出ないもので

ある。一方、諸大名への直接的な老中達では、【表】に示したように、

4

諸外国首脳・高官の書翰や安政五ヶ国条約の条約書・貿易章呈(草案を

含む)などといった外交文書をも通達していた。【表】の各々の備考

4

に示したように、「国日記」には必ずしも外国使節差出文書の和解本文

は引用されなかったようだが、「国日記」の記述から他の文書とともに

通達されたとみて間違いない。そして、特に興味深いのは幕府から大名

への外交問題にかかわる諮問が和親期・修通期に集中していることであ

る。そこで次に、諸大名になされた諮問と老中達の関係を整理して、こ

の時期の諸大名に対する外交関連情報開示のあり方について言及するこ

とにしたい。

2老中達による外交関係情報の開示と質的転換

嘉永六年六月のアメリカ遣日使節浦賀来航・国書提出という事態に、

幕府は外交政策・方針にかかわる大規模な諮問を行い、幕府有司は勿論

それまで幕政への介入を認められてこなかった親藩・家門・外様を含む

諸大名に意見の上申を求めた。そしてこの諮問に対しては幕府の下級役

人、知識人や江戸の町人のなかでも意見上申するものがあった。このこ

とは幕末政治の大きな画期と理解されている。 ()

【表】は嘉永・安政期の弘前藩主の幕府に対する意見上申事例を一

5

覧化したものである。これをみると、ⅱのみが幕府諮問に応えたもので

はなく、日米和親条約によって下田駐在を規定されたアメリカ総領事に

よる江戸出府・登城・将軍への拝謁・国書提出の強硬な要求という事態

を心得のため通達されたことを承けて、同じ大広間席詰の諸大名ととも

に意見上申したことがわかる。先の嘉永六年の幕府諮問が外様大名のこ

うした意見上申を促したことが窺われる。

では、幕府は諮問に際してどのようなことをどのレベルにまで通達し

ようと意図していたのであろうか。「国日記」をもとに検討してみよう。

まず、諮問に対する答申の意見を創り出す素材であるが、【表】と

5

【表】で示した「国日記」の記事を照合すると、各々「亜墨利加船よ

4

り差出候書翰之和解弐冊」(【表】ⅰ・【表】・「国日記」嘉永六年

5

4 1

八月七日条)、「堀田備中守様被成御渡候勅答之御書付写壱通并伝奏衆・

議奏衆備中守様御旅宿御持参之御書付写壱通、御意之御書付壱通、同

日被仰渡之御書付壱通、外ニ下田御奉行井上信濃守殿口演之趣被相渡候

書付写壱通」(ⅳ、・「国日記」安政五年六月朔日条)、「六月廿二日、

9

久世大和守様御書付写」、すなわち【表】ⅳ・【表】①の勅答(日

5

4 9

米修好通商条約調印について再度の衆議と奏上を求める孝明天皇の勅

答)にもかかわらず無勅許調印を行った事情(ⅴ、・「国日記」安政

10

五年七月二十四日条)を通達している。

ところで、【表】ⅲであるが、「国日記」ではその通達内容は確認で

5

きない。しかし、実は安政四年十一月十五日付の老中達とほぼ同文の老

中達が存在していた。それは「国日記」安政五年五月十五日条にあらわ

れる安政四年十二月十五日付の廻達文書に含まれる老中堀田正睦の「亜

(14)

墨利加使節応接之趣」(【表】)であり、【史料六】で中略とした箇

4 6

所に挿入されていたものである。ここで注意を要するのは、「亜墨利加

使節及応接候趣、且右ニ付使節差出候和解」を二度通達していること

である。但し、通達された文書の内容は別々のものであった。つまり、

安政四年十二月十五日付で通達されたものは【史料六】の伊達慶邦添状

にもみえるように同年「十二月二日亜墨利加使節及応接候趣」と「同

四日右使節差出候書付和解」であり、これは【表】の①~③に相当

4 6 する。一方、同年十一月十五日付けで通達された「亜墨利加使節及応

接候趣、且右ニ付使節差出候和解」は、同年十一月六日の蕃書調所にお

ける公使駐在と自由交易をめぐる幕府有司とハリスの交渉内容(『幕

外』之十八八八号文書三〇七~三二六頁)の趣旨と十月二十六日の

堀田邸における、やはり公使駐在と自由交易をめぐる堀田とハリスの交

渉内容(『幕外』之十八四四号文書一〇四~一二五頁)を指すとい

う(『幕外』之十八一〇三号文書三五六~三五八頁)。こうしたこと

から、【表】ⅲの諮問ではアメリカ使節との条約交渉の内容を通達し

5

ていたことが理解される。

このようにみてみると、この時期、管見の範囲で少なくとも五回の幕

府諮問に対して弘前藩主は四回の答申を行っていた。そして、幕府は諮

問に際して外交交渉の詳細な内容や国内で問題化していた日米修好通商

条約調印に対する朝廷の意向といった政治機密を答申の素材として通達

していた。具体的には、史上初、それまで幕政に介入できなかった諸大

名にまで諮問を行った阿部政権以後、堀田政権においてその頻度はより

たかまり、阿部政権下で通達された外交に関連する文書がアメリカ大統 領の書翰二通であったのに対し、堀田政権では外交交渉の内容や朝廷対

策のための国政上の機密をも開示するまでになった。幕府は従来、基本

的にオランダ風説書に代表される海外情報を独占してきた。しかし、こ

の時期、幕府の情報政策は諸大名に対して外交問題とそれに密接にかか

わる国政上の問題という政治機密を開示する方向性にあったのである。

阿部政権下の最初の諮問の際には弘前藩では家中に意見具申を二度要請

していたが(「国日記」嘉永六年八月八日・同二十四日条)、ともかく、

そうした方向性のなか、幕府は老中達を廻達する際に起点の大名家留守

居が添状で示しているように、答申の素材を各大名家家中の「重役之者

并其節係り役々」(【史料六】)までが閲覧することを許可していた。加

えて、ここに述べてきたことは諮問を目的としない直接的な老中達でも

同様のことであった(【表】~・~)。実際に江戸からの通信

4 3 5 7 8

に時間がかかる弘前藩の国許では廻達文書の到達が藩主の答申後になる

ことが多かったものの、諮問の有無にかかわらず、「国日記」にみえる

ように、「重役之者并其節係り役々」が外交機密に頻繁に接していたの

である。また、安政五ヶ国条約書に限っていえば「家来を始領分末々之

者ニ至迄」(【史料四】)の周知が企図されていた。その意味では、大目

付廻状による老中達との差異はないが、その内容に大きな質的差異があ

ったことは既述の通りである。

しかし、外交問題に関連した諮問を伴う老中達は【表】ⅴ以降の修

5

通期にはみられなくなる。さらに「国日記」からは安政五年九月九日条

以降、外交関連の機密文書廻達の事実は確認できない。外交関連といっ

ても、国内統治にかかわる法令や既定事項の通告といった大目付廻状に

(15)

よる老中達が確認できるばかりである。そして、弘前藩の国許では「国

日記」安政六年十月十九日条にみえるように六月十一日付老中間部詮勝

による安政五ヶ国条約調印の老中達及び条約書五冊と廻達の起点となる

細川家使者渡辺一郎左衛門の添状(【表】)に接することになる。

4 12

弘前藩の国許への通達状況のみで一般化するのは避けるが、少なくとも

北方のロシアの脅威の矢面に立たされている弘前藩国許への通達状況に

みられる、こうした外交関連通達の質的な、或いは状況の変化は何を物

語っているといえるのだろうか。

それには幕府内部の外交機密にかかわる政策の転換が影響していよう。

安政五年四月二十三日、日米修好通商条約調印問題と将軍継嗣問題が

紛糾する最中に井伊直弼が大老に就任する(『幕外』之二十四〇号文

書一八六~一八七頁)。この時点では幕府外交の主導権は老中の堀田

正睦にあった。そして、六月十九日の日米修好通商条約無勅許調印

(『幕外』之二十一九四号文書四七四~四九三頁)を経た六月二十

三日、これは無勅許調印後の善後策についての幕府諮問(【表】ⅴ)

5

が老中達として通達された翌日のことであるが、堀田正睦が老中を免職

される(『幕外』之二十二二三号文書五二四~五四三頁)。この後、

七月八日には海防掛が外国奉行に改組され(『幕外』之二十三〇五・

三〇六号文書七〇九・七〇九~七一一頁)、堀田の下で無勅許調印を

推進した旧海防掛の主要人員は揃って外国奉行となるが、同年九月の日

仏修好通商条約調印を境にその人員構成は徐々に変化していくことにな

る。加えて、七月八日には堀田や堀田とともに老中を免職された松平忠

優(忠固)に替わって老中となった太田資始・間部詮勝から大目付・勘 定奉行・外国奉行・目付・勘定吟味役といった幕府有司に宛てて、次の

ような老中達が通達される。

【史料七】『幕外』之二十三〇四号文書七〇八~七〇九頁

異船渡来ニ付而者、人耳を立候時節ニ候処、国持衆を始、御役人

結懇意、事実之儀承度存意之者も有之哉ニ相聞、如何之儀ニ有之、

全徳川家御処置之儀者、表方等ニ而承知致間敷儀ニ而、表向被行候

上者格別、内輪之評議事等、前以相知候様ニ而者、人心之障ニも相

成候事故、以来表大名附合候儀者勿論、雖為御譜代衆、御用筋堅

相洩申間敷候、

つまり、幕府の政務を司る有司に幕府外交の機密事項の守秘義務を課

したのである。

こうして外交政策にかかわる土台を固めて井伊直弼が「外国御用筋申

談」を命じられ幕府外交を主導するようになる(『幕外』之二十三三

二号七八一頁)。幕府大老として井伊は尊皇の立場をとりつつ、対外

的危機を国家の主たる課題ととらえ、その対処のために国内対立関係の

改善を急務と考えていたという。しかし、対立は激化し、血統の正当性 ()

により将軍職継承を維持すべきとする伝統的血統論者として南紀派に

あって、井伊は将軍継嗣問題で対立する一橋派の有力者と無勅許調印を

推進した海防掛との結び付きを断とうとした。将軍継嗣問題と外交問題

がリンクしたなかでの幕府政治の動揺が、「国日記」に窺われるような

老中達による外交関連通達の質的な、或いは状況の変化にも現出したの

(16)

だといえよう。

おわりに

当時の社会状況について付言しておきたい。

嘉永・安政期の日本は、「内憂外患」という言葉に集約されるように、

相次ぐ事件・外圧・変事で社会不安が増大し、大きな変化が予測される

時期であった。幕府だけでなく、社会全体が混乱と不安そして緊張を高

めていたのである。このような中で、民衆に「世直し」「世直り」といっ

た気運が高まり、「ええじゃないか」などの騒動へつながっていった。

そして、この時期の弘前藩領内もまた治安悪化が進み、社会情勢は不安

定であった。「秋田長面派、留、異名稲妻」らの犯罪者集団が秋田藩領 ()

から弘前藩領へと藩境を越えて跳梁跋扈し、弘前藩側はほとんど対処で

きない状態であった。松前にいたっては出稼ぎの大工がロシア人にさら

われる事件などが発生し、その情報はいち早く弘前藩領内へも伝わった。

嘉永末年のペリー来航や各災害の情報に関しては、金木屋などが情報を

収集しており、それらの記事の中に「未曾有」「前代未聞の大変」「開闢

以来」などという文言を読み取ることができる。幕末に至って北辺にお

いても社会不安や対外危機意識が高まり、治安などの面で藩の統治体制

は脆怯化していた。また、ここに至るまでには、天保の飢饉に十代藩主

であった信順の浪費が加わり、藩財政も逼迫していた。天保十年に信順

は隠居し、藩主は十一代津軽順承となっていたが、前代から続く派閥抗

争もまだ尾を引いており、また、弘前藩を含む東北諸藩は蝦夷地警備の 負担を強いられ、その影響も大きなものがあった。安政二年の地震直前

には「若殿様」と呼ばれた順承の養子承祜が夭逝しており、弘前藩もま

た「内憂外患」の事態に直面していたのである。

本稿では、こうした社会状況下で締結された安政五ヶ国条約に関する

新出史料を紹介し、大名屋敷間の廻達のあり方や外交に関係する老中達

のあり方、老中達と外交情報の開示の関係の観点からその特質について

述べてきた。老中達が江戸の大名屋敷間で廻達される場合、そのシステ

ムの基本は殿席を同じくする大名間でなされるというものであった。

幕府から大名へなされる外交に関係する通達は、老中から大目付を介

してなされる大目付廻状の場合と老中から直接的になされる場合(廻達

も含む)とがあった。この通達システムの違いは通達される内容の差異

に由来するものであると考えられる。前者は外交問題に関係するが、あ

くまでも国内統治にかかわる通達の範囲を出ないものであった。一方の

後者は外交と国政の機密に及ぶような内容の通達がなされる際に利用さ

れたシステムであった。

嘉永・安政期はまた阿部正弘政権下で史上はじめてそれまで幕政に介

入できなかった諸大名にも意見具申の機会が与えられ、このことは幕末

政治の画期ととらえられている。この幕府諮問には答申の素材となる諸

文書の開示が必要であった。幕府は外交交渉の詳細な内容や国内で問題

化していた日米修好通商条約調印に対する朝廷の意向をも、外様大名の

家中まで周知させることを企図していた。この時期、大名諮問は阿部政

権以降堀田政権においてより頻度がたかまり、ベクトルは政治機密を開

示する方向にあった。しかし、やがて日米修好通商条約調印問題と将軍

(17)

継嗣問題とが紛糾するにしたがい、政治機密の積極的な開示に向いてい

たベクトルは反対を向くことになった。幕府は外交に関与する幕府有司

に機密事項の守秘義務を課したのである。「国日記」から窺われる外交

関連通達の質的な、或いは状況の変化はこうした幕府政治の動揺が反映

したものとみられる。

()幕末外交に関する研究を著作に限って挙げると、井野辺茂雄『新訂

維新前史の研究』(中文館書店一九四二年)、田保橋潔『増訂近代日

1

本外国関係史』(刀江書院一九四三年)、石井孝『日本開国史』(吉川

弘文館一九七二年)真鍋重忠『日露関係史一六九七

一八七五』(吉

川弘文館一九七八年)などは基本文献といえよう。また、近年では、

井上勝生編『開国』幕末維新論集第二巻(吉川弘文館二〇〇一年)、

井上勝生『開国と幕末変革』日本の歴史一八(講談社二〇〇二年)、

同『幕末・維新』シリーズ日本近現代史一(岩波書店二〇〇六年)、

鵜飼政志『幕末維新期の外交と貿易』(校倉書房二〇〇二年)、安岡昭

男『幕末維新の領土と外交』(清文堂二〇〇二年)、三谷博『ペリー来

航』日本歴史叢書六二(吉川弘文館二〇〇三年)、井上勲編『開国と

幕末の動乱』日本の時代史二〇(吉川弘文館二〇〇四年)、加藤祐三

『幕末外交と開国』(筑摩書房二〇〇四年)などがある。なお、安政

五ヶ国条約は安政五年(一八五八)六月十九日に相互の外交代表の受入

れや開港・開市と自由貿易のほか、領事裁判権、協定関税率などの不平

等条項を内容として調印された日米修好通商条約をはじめとして、七月

にオランダ・ロシア・イギリスと、九月にフランスとの間で調印された

同内容の修好通商条約を総称したものである。諸国との条約本文につい ては【表】に出典を示しているので参照されたい。

4 12

()熊本藩十代藩主、細川斉護。従四位下、越中守。もとは熊本藩の支藩、

宇土藩の藩主であったが、叔父である主藩主が夭逝したため跡目を継い

2

だ。なお、弘前藩では、安政二年に津軽順承の養嗣子承祜が夭逝したた

め、翌年さらに斉護の四男を養嗣子として貰いうけ、安政六年二月、順

承の隠居後十二代藩主承昭とした。

()掛川藩五代藩主、太田資始。従四位下、備後守。既に隠居していたが、

南紀派の大老井伊直弼の下で安政五年六月二十三日、再び老中に就任し

3

ている。

()内閣文庫所蔵史籍叢刊第三六巻『安政雑記』(汲古書院一九八三

年)第八冊、安政五年七月条に、ほぼ同文が掲載されている。

4

()「御条約書五冊」、すなわち安政五ヶ国条約書と税則は大部のために

割愛した。また、同封筒には包紙に「午八月九日暁丑中刻、藤堂和泉守

5

様より御到来、井伊掃部頭様御渡」の「御書付写」とある通達が混入し

ている。内容は将軍徳川家茂が若年のためにしばらくの間、田安慶頼を

後見人とする旨の前将軍徳川家定の遺言を通達したものであるが、封筒

の上書きからも本来的に同封されていたとは考え難いことから、ここで

は割愛した。なお、この通達は「弘前藩庁日記御国日記」安政五年九

月九日条にも記載されている。

()千葉一大「八戸南部家にみる大名の家格問題」(『八戸市博物館研究

紀要』第二三号二〇〇九年)。他に、基礎的な研究として、松尾美恵

6

子「大名の殿席と家格」(『徳川林政史研究所研究紀要』昭和五五年度

一九八一年)がある。

()拙稿「『秘日記』から見た安政江戸地震」(『歴史地震』第二一号二

〇〇六年)。もとにした史料は「諸向地面取調書」内閣文庫所蔵史籍叢

7

刊第一四巻「諸向地面取調書(一)」(汲古書院一九八二年)。同史

(18)

料は、江戸市中にある大名や幕臣の武家屋敷調査書である。

()大目付廻状の理解は、笠谷和比古『近世武家文書の研究』(法政大学

出版局一九九八年)一〇四~一一〇頁。なお、笠谷氏は同書で、主と

8

して近世前・中期にかけての老中達をその文書形式や機能的側面から分

析し、「老中奉書」、「老中下知状」、「老中申渡書」、「老中御書取」、「触

書」とに分類・説明している。しかし、本稿で扱う老中達は幕末期のも

のであり、文書形式や機能的側面に変遷の可能性も否定できないことか

ら、『幕外』の綱文の表記にしたがって「老中達」とした。

()前註()笠谷氏論著一一一~一一四頁。

9

8

()江戸城での諸大名の礼席、謁席については、深井雅海『江戸城―本丸

御殿と幕府政治』(中央公論新社二〇〇八年)三四~三七頁。因みに、

10

同書によれば、幕末期の弘前藩主の礼席は大広間や白書院、謁席は帝鑑

之間やその縁頬、松之廊下ということになる。

()幕末期の幕府による諸問題諮問については、前註()井野辺氏論著、

11

1

田保橋氏論著のほか、原剛『幕末海防史の研究』(名著出版)、三谷博

「開国・開港をめぐる諸大名の対外意見」(横浜開港資料館編『十九世

紀の世界と横浜』山川出版一九九三年)、井上勲「幕末政治社会の形

成―嘉永六年七月の諮問と答申をめぐって―」(『学習院大学史料館紀

要』第九号一九九七年)などで、諮問と答申内容が詳細に分析されて

いる。

()母利美和『井伊直弼』幕末維新の個性六(吉川弘文館二〇〇六年)

一七七頁。

12

()幕末津軽領の社会状況については新編弘前市史編纂委員会編『新編弘

前市史』通史編二(近世一)(弘前市企画部二〇〇二年)、長谷川成一

13

『弘前藩』日本歴史叢書六三(吉川弘文館二〇〇四年)、同『北奥羽

の大名と民衆』(清文堂二〇〇八年)、浪川健治『近世北奥社会と民 衆』(吉川弘文館二〇〇五年)、本田伸『弘前藩』シリーズ藩物語(現

代書館二〇〇八年)などに詳細に説明されている。

(しらいし・むつみ弘前大学大学院地域社会研究科後期博士課程)

(いちげ・もとゆき青森県史編さんグループ非常勤嘱託員)

〔付記〕

【図】及び【図】の原図は当時弘前市立博物館学芸員の三上幸子

4

5

氏が特別展に際して作成されたものを改訂して使用させていただきまし

た。同氏と同館には史料の使用などについてもお世話になりました。記

して感謝申し上げます。

また、史料をご提供いただきながら本号までご紹介できなかったこと

を、この場をお借りしてお詫び申し上げます。

(19)

【表1】回読者の官位・殿席一覧(史料一)

史料表記 領国 当主 官位 殿席 松平阿波守 徳島藩 蜂須賀 斉裕 正四位上 大広間 松平三河守 津山藩 松平 慶倫 正四位下 大廊下 松平相模守 鳥取藩 池田 慶徳 従四位上 大広間 松平大膳大夫 長州藩 毛利 慶親 従四位下 大広間 津軽越中守 弘前藩 津軽 順承 従四位下 大広間 松平土佐守 高知藩 山内 豊信 従四位下 大広間

【表3】回読者の官位・殿席一覧(史料五)

史料表記 領国 当主 官位 殿席 細川越中守 熊本藩 細川 斉護 従四位下 大広間 松平陸奥守 仙台藩 伊達 慶邦 従四位下 大広間 藤堂和泉守 津藩 藤堂 高猷 従四位下 大広間 宗対馬守 対馬藩 宗 義和 従四位下 大広間 佐竹右京大夫 秋田藩 佐竹 義就 従四位下 大広間 立花飛騨守 柳川藩 立花 鑑寛 従四位下 大広間 津軽土佐守 弘前藩 津軽 承昭 従四位下 大広間

松平内蔵守 岡山藩 池田 慶政 従四位下 大広間 【表2】回読者の官位・殿席一覧(史料二)

史料表記 領国 当主 官位 殿席 津軽越中守 弘前藩 津軽 順承 従四位下 大広間 松平大蔵大輔 富山藩 前田 利声 従四位下 大広間

【図1】松平陸奥守より廻状(部分)

【図2-A】細川越中守からの廻達書 および書付写(外袋)

【図2-A】の中身(包紙に包まれた状態)

【図2-B-1】書付写(左)

【図2-C-1】廻達書(右)

(20)

【図2-B-2】書付写

【図2-C-2】廻達書

【図3-A】安政五ヶ国条約関係書類

(外袋)

【図3-B】外袋の中身(五ヶ国条約書・書取等)

参照

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