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加 賀 藩 に ゆ か り の あ る 史 跡 と 人 物

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(1)

The Chemical Society of Japan

NII-Electronic Library Service

The  Chemloal  Soolety  of  Japan

靉獺 鰈 鱒 驪 靆蘿 黨 轗 鱶 鑾 鱒轢 攤

鞍

識靉靉 4

.

加 賀 藩 に ゆ か り の あ る 史 跡 と 人 物

        べ                     厂           厂   rt “ tt   L/     # , 衛 t” t  t」 r    ; ,   ノ     4          厂         ’   1  ’ 刪 4  , A」 t  ,     ♂         P岬瀞

カ ッ ト 金沢 城の石 川門。

鰤“ ∬ 」 鴫 冊     Tt  八     ρ     L

中

日

浄 高 西 吉 芳

浩 孝

厄   罰 ,

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冊    ノ L        厂 斛

Fm

  厂   疋

t

■ 尸 Pr   ド 厄 朗   ’ “             ド   囁 晒

 金 沢 城 の 鉛 瓦 には, 加 賀 藩が いざと い う ときに 備 え た 銃弾 資 材の備 蓄と い う遠 謀 深 慮が込 め られて いた とい う。

 

1853

年 (嘉 永

6

)ベ リ

ー

の来 航 に よ

っ て鎖国 の 眠 りか ら覚 まされ

,

幕 末か ら明治維 新 期に か けて 西 洋の 進ん だ文明 が取 り入 れ られた。 加 賀 藩 最後 の

14

代 藩 主 慶 寧 は 福 沢 諭 吉の 「西洋 事 情」 に刺 激を う け て 卯辰山 の 開拓に着手

L ,

養生 所や集学所な ど を, さ ら に 兼六園 内 に 理 化 学 校

,

鉱 山学所, 中学東 校を

,

能 登七尾に語 学 所 など を 設立 した が

,

こ れ らは 郷土 の近 代 医 学

,

科 学

,

教 育

,

産 業 の 発 展 の 源 と なっ た。

                      なま り づわら

      1  

金 沢 城

一

鉛瓦の屋 根の謎

一

                              ま r

.

ゼ と1

,

いえ

 金 沢 城は 1583 年 (天 正 11)前田利 家 (1538

−

1599)

          ま 1

ー

ん  よ し や す

の 入 域か ら 前田慶 寧 (1830

−

!874)まて 14 代 約280 余

年 加賀百 万 石 (領 知 120 余万 石)の シ ンボル と して廃 藩置 県 (1871 年

,

明 治4) までその威 容を誇;?

,

加賀

・

能登 (石 川 県 ) 越 中 (富 山 県)三 国 の政治

,

経済

,

文 化

の中心 地 と なっ ていた。

                                    9 え { EL

. ー

ね

 ところで

,

金 沢城 内の建物は 3 代藩主前田利 常 (

1593

−

1658)の ころ か ら ほ と ん ど鉛瓦屋 根となっ てお り,

一

説に よれ ば

,

その昔 加賀藩がい ざ とい う ときに備え

,

銃 弾 資 材 をこの よ うな形で備蓄 し ていた と か

,

その鉛瓦の 中に蓄 財 用の金銀が鋳込ん であっ た との言い伝えが あっ

た。

Historic Remains and Persolls of  Abi】ity Connecting with  Kaga Distrlct in Edo Period

.

Takaharu HONJO  金沢 大学 助教授 (理 学 部 化 学 教 室 ) 理 学博±

笙 者 紹 介 〔経 歴 〕1969年 京 都 大 学 大 学院理 学研究 科 博士課 程 化 学 専 攻 修 了

,

1969乍 金 沢 大 学 理 学 部助手を経て 1979年から現 職

。

〔専

 門 〕 分 析 化 学

。

〔お もな 著 者〕

”

分 析 化 学の歴史

”

,

内田老 鴒 圃

,

共 訳

。

ご趣 味 〕 囲碁, パ ソロ ン通信。 〔連絡先〕920 石 川 県 金 沢 市 丸  の内 1

−

1 (勤務先)

。

Takashi NAKANISHI 金 沢 大 学 助 教 授 (理 学 部 化 学 教室) 理学 博士

筆 者 紹 介

 

〔経歴〕1969年 金 沢 大 学大学 院理学 研 究 科 修 士 課 程 化 学 専 攻 修 了

,

1969年 金 沢 大 学 理学部助 手

,

講 師 を 経て 1987年から現職。

本浄 氏

第 38 巻 第 6 号 (1990) 中西氏

ゴ も

物

ヨ

P  津百

一

乏 P  l 

阿

 P 

, 卜

 

口 膏

臣

阻 儒 賦

∬ 匸

弱

、

滋

日吉 氏

・ ・ 一 ・ ・

  〔専門 〕放射 化学

。

〔おもな著 書 〕

“

宇 宙 地 球 化 学 (新 実     験 化 学 講 座 10)

” ,

丸 善

,

共 著 ;

“

核現 象 と分 析 化 学 (化

   学総 説

Na29

)

”

,

学会 出版セ ン タ

ー

, 共著。 〔趣味〕 版     画 園芸

。

  Yoshiro HIYOSHI 石]」「県立輪 島高等学 校 教 諭

  筆 者 紹 介 〔経 歴 〕1965年 金 沢 大 学 薬学部 薬 学 科 卒業,

   石 川 県 立 門 前 高 等 学 校 教 諭を経て 1988 年か ら 現 職。

   〔お もな 著 書〕

”

現代化学 概説

”

, 共立出版 ;tc化学へ の

    

招待

”

,

大日本 図 書 ;

“

たのしい化学実 験

” ,

講 談 社, い

      ずれ も共 著

。

〔趣味〕 蝶 採 集

。

(51 )

675

N工 工

一

Eleotronlo  Llbrary  

(2)

The Chemical Society of Japan

NII-Electronic Library Service

The  Chemioal  Sooiety  of  Japan

 金 沢城の 鉛 瓦は

,

木 材を 瓦 7)形に作 り (1枚 の大 きさ は お よそ 44

−

45cm ×19

−

20cm )

,

その 上に厚 さ 4

.

5

一

                                う   

コ

7

.

6mm の鉛板を打ちつ け

,

加賀 藩の梅鉢の家 紋で 飾っ た屋 根 瓦である1

−

%

 江 戸 時 代に建 造物のすべ ての屋根に鉛をか ぶせ たのは 加 賀 藩だけである1

−

S )

。 鉛 瓦の金沢城 関 係の 諸崖 物と し

                            やぐち

ては

,

高麗門 形 式の表門と二 つ の櫓

,

櫓門から なる金 沢

          か ろ め てもん

城二の丸の搦 手 門の石 川 門 をは じ め, 左右の 太鼓堀

,

加 賀藩の軍備倉で鉄 砲 倉と呼 ば れてい た二

.

卜間 長 屋 など が 典 型 例で

,

古 くは櫓や渡 り廊下の屋根を は じ め

,

城 内の 建 物の ほ とん どすべ て が その鉛瓦 で葺い てあっ たといわ

れてい る21。 明治 時 代に 入 り

,

金沢城に は兵 営 が 設 置さ れ

,

第二次世界大戦後は 進 駐 軍の 管 轄 を 経て 1949 年

(昭和 24) 以来

,

新制金 沢 大 学の キャ ンパ ス として利用 さ れ てい る。 石川 門 (現 在は金 沢大学正門 )と 三 十間長 屋は

,

今 も鉛 瓦 葺 きで昔の面 影を残 し

,

現在は国の重 要 文 化 財に指 定さ れ てい る (カ ッ ト)D こ の鉛瓦の 屋 根に

つ い ては, 徳 川 幕 府に よ る 加賀 藩お取 りつ ぶ しに備 え

,

戦 時を考え ての鉄 砲の 蝉の非 常 備 蓄で ある といわれてい る。 外 様 大 名で

300

諸 候の随

一

前田氏百 万 石 は

,

徳 川 氏

に とっ て油 断な らぬ相 千に うつ っ たこ と であろう。

 

事実

,

1631 年 (寛 永8) 3代 藩主 利 常 39 歳の とき

,

幕 府の隠 密の 報せ で加 賀藩に 謀 反の 兆 しあ り とい う嫌 疑が か けられた

,

いわ ゆ る 「寛 永の危機」か起 こ っ て い

る。

 現在

,

石 川門に用い られて い る鉛瓦 は

,

1953 年 (昭和

28

)から

1959

年 (昭 和 34 )にかけて解 体修 理 さ れ た 際

に鋳直 し たもの である が

,

その工場の話で は鉛は きわめ て純度 が高く

,

ほ とん ど雑 物 を 取る作業を しな くて もよ

い ほ どの 良質の鉛であっ た との ことである。 ま た

,

鉛 瓦

の中の金 と銀は, 歴 史 的 な 鉛瓦 の放射 化分 析の 結果

,

石 川 門の鉛 瓦の 中の銀は も と も と鉛 鉱石中に存 在 し ていた もの で

,

鉛 瓦 鋳 造の 際に 添加 さ れた もの でな く

,

ほぼ

一

様に鉛瓦中に含まれている と 判 断 され た % その量は 0

.

074% で

,

化 学 分 析に よる値 O

、

 05% とほぼ

一

致 する。

な お 金の 存在は

,

鉛 瓦

,

鉛 鉱 石の い ずれにつ い て も検出 限 界以 下 で

,

た と え 金が 存 在してい て も

,

多 くて 0

,

002

% 以下 と考 えられ

,

金 銀 財 宝 を 鉛 瓦の 中に 鋳 込んだ と の言い伝えは

,

単な る俗 説と思 われるD

2

 金 城 霊 沢

一

金 沢の 名の由来

一

                              が らん

 金 沢 城は も と真宗 (

一

向 宗 )の大 伽 藍

,

金 沢 御 坊の跡 地と いわ れ

,

ことに兼六 園か ら 金沢 城 祉に か けて の小立

                                          か 

 

や

野台 地は砂 金 層 を 大 量に含み

,

戦 国 期には流浪の金 屋

k

ち が 砂 金 を 採 掘 し

,

金沢 御甥 曳 立の起因 と な っ た

。

こ の

とき沢水 を利 用して採 金 した の て 「金掘沢」

、

「金涜 沢」

6T6

写 真 1  全 戎 霊 沢

。

な ど と呼

凾

れ 金 沢の名の 起 源と な っ てい る5}。 現 在も兼

                                きん :       く

六園の 南 端に は金 沢の名 称 発 生の地 「金 城 霊沢」があり

(写 真

1

)

,

今 も絶 えるこ とな く水 鉢の底か ら清水 が わ き

出 してい る。

 その ほ とりに学 問の神

,

菅 原道真公 を祭る金 沢 神 社が

     

コ

よ うすはら

あ る

。

手 水鉢に流 れ 出る水の源は霊 沢のす ぐ裏にあ り

,

                            ち ようず や

水 脈は全 く 同 じ もの であ る。 その手水舎の横 に 「水の い われ」 の立 て札が 立 っ てい る。 いわ く

一

 「こ の 水 は 明治 11 年 医 学 校 教師 オ ラ ン ダ人 ホ

・

レ トル

マ ン 氏の分 析によれば良 質の甘 水で ほ と んど混 合 物が な く少し硫化シヤ ン カ リ の 応 験があり軽量の鉄を含 む とい

う。 効 果は貧 血 及

’ L

臓の哀励せ る人に効 ありと。 以 上 」

 ホ ル ト ル マ ンは 明治 初 期に兼六園の中に あっ た 医学館 附 属理化学校のお雇い外 国人 ス ロ イス の後任 として立 沢 医 学 校へ 来任して い る。

3  

加 賀 藩 校

一

サ イエ ン ス のふ るさ と兼六園

一  

兼六園は文 化 財 指定庭 園で

,

水戸の偕 楽 園

,

岡 山の後 楽 園 と共iCH 本 二名 國と呼ばれて い る。 江 戸 時 代の代表

的 な 回遊林泉 式 庭 園で

,

1598 年 (慶 長

3

) 加賀藩 2代 藩

  まftだ と しなが

主前田利 長の時か ら造 園 さ れ 金沢 城 野 外 庭とし て次第に

                                        ノ 

/ t

   

’

発展し た“

−

b

’

〕

。 1822 年 (文 政

5

)12代 藩 主 前田AJA か ら

                                し  

・

ht

)

く よ 

’

江戸におい て この園の命名を頼ま れ た白川楽 翁こ と松

’

ド

        こ 

い

      す

い

   じ

ん

り よ く そ う

こ

   す い せ ル  ち よ う ぼう

遣 信は

,

宏大

,

幽 邃

,

人 力

,

蒼占

.

水 泉

.

眺 望の 六勝 が

                                        りtSt く ひ

兼ね備わ っ てい る とい う中 国の名 園 湖 園 (宋の李 格 非,

r

洛 陽 名 園 記 」)に ちなん で

,

加 賀百 万 石の 200 年以 上 歴 史 ある大庭 園を ほめ た たえた の である。

 ところで

,

加賀藩

,

こおける近 世 科 学の 学 問のおこ りは

う た

つ

や ま            Llい

み

きよ く

卯 辰 山養生所 (

1867

年

,

慶 応 3)の舎密局 (棟取

 

高 峰

精

一

)の設 立に始ま る が, 明 治 初 期に は兼六園の中に洋 学と近 代 科 学の学 校 が 置かれ (図

1

)

、

そ れ が 当 時の 日 本で は屈 指の もの であっ た こ とは あま り知られてい な い6

−

B)

1

(52 ) 化 学 と 教 育

N工 工

一

Eleotronio  Library  

(3)

The Chemical Society of Japan

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The  Chemioal  Sooiety  of  Japan

 :3⊂9 年 (明治 2) に イ ギ リス で創 刊さ れ た 科学 雑 誌 N血:ure の 1872 年 9月 19 日号に

,

日本1

・

ut 大 阪

,

加 賀

,

静 岡

,

福 井に 四つ の化 学実験 所 が あり

,

や がて

5

番 目:)

.

ものが 江 戸に で きる と書かれてい る

。

そこ で は い わ ゆ る お雇い外国 人 が 生徒た ちに科学を教え ていた。 加賀

で は兼六 園 内の学 校で

,

ド イ ツ人デ ヅ ケン (鉱 山学 所 ) と オ ラ ン ダ 人 ス 卩 イス (理化学佼)がサ イ

ー ・

L ン ス (化学

,

物理

,

鉱山学

,

地 質 学

,

薬学 など)を教えて いたの であ るc

 兼六園は

,

藩政時 代に は藩候の散 策場であっ た た め

, 一

献 人は い うに 及 ぼず

,

藩士 で も容 易に 立ち 入 ること が

できなかっ た。 しか し

,

1792 年 (寛政

4

)に 明倫堂

,

経

武 舘の文 武二つ の藩 校が建て られ

,

明 治 初 期に洋 学 校も で き

,

そ の教 師や生 徒 だけが 出入 りを許 された。

 そ し て

,

加賀 藩→ 金 沢 藩→ 廃 藩 置 県 (1871 年

,

明 治

4)

→

金 沢 県→ 石 川 県 と県 域が目まぐる しく変わっ た後,

明 治 5年 3月 3 日 か ら 約 40 日 間

一

般 人に縦覧を 許 した

のが園 内 解 放の始ま り で

,

同年

5

月か ら期 眼 も撤廃され

た、 その時の心得が 次の よ うに定め られて い る。  

一

兼六園之義は

,

舎 密学研究の地に して

,

側の薬 草 種

            よ うや      モリ

類を播種 し

,

漸 く生長 す る を得て

,

大い に其 益 あらん と

          また      あい が ん

す

.

: 然る に亦

一

層の勝 地に して

,

内は水 石 を 愛 翫 すべ き,

市 街に接 し て老幼 も亦来 り易 し。 故に今春 陽温和野際に 当 り庶 民に来 遊 するこ とを 許 す。 其 規 則 左の如 し」

                                     

セ い

  み  が く

 そ して 八 力条の規 則 が 定め ら れて い る

。

舎 密 学研究の 地とあるの は理 化 学 校があるこ とをさ してい るQ                                       よしや す

 ところで

,

明治 初 期に前田家

14

代 藩 主 慶寧が 兼六園 内に建て た学校は次の 三 つ である。 いずれ もわずか 1年 ほ どの命 しか ないが

,

藩の歴 史にお ける近 代科学 教 育の

ル

ー

ツ と して重要な もの であっ た

。

                 しぐれて い

 

3.1

理 化 学 校 (時 雨 亭 跡, 噴 水 前 )

 

1871

年 (明治4)7月

,

園の北西部にあっ た前田家の 茶室

,

時雨亭を利用 し て

,

化 学

,

物理

,

薬学の研 究 所 と

して設 置 さ れた。 今は何 もな く 「時雨亭」 とい う 立札が 立っ て いるだけである。 理化 学 校は理 科 振 興を 目的と し た独 立 学校で

,

医学館 附属理化 学校ともい い

,

医 学 館

(明治

3

年

2

月 設立)の生徒の理 化 学の 教 育 を 行っ た。

加 賀 藩 典 医で あっ た高峰 精

一

がこ こを

綜理 し

,

化学 者と し て も藩か ら重用 さ れ

,

ナ ラ ン ダ か らのお雇い外 国 人ス

ロ イス が そ れ を助 けた。 明 治5年 2月に金 沢 県 が 石 川 県

に な る と

,

4月 12 日藩 営の 諸 学校と共 に閉鎖 さ れた

。

                           

つ

な リリ

時雨亭 跡はかつ て は

5

代藩主, 綱紀が 「貧 民 救 済 」の善 政をとっ た蓮 池 御 殿の あっ た ところで

,

蓮 池 御殿→ 時雨

        は るなが         ttか の て い

亭 (

11

代 治脩が建て高 之 亭 と も呼ぶ)→ 金 沢理化 学校と

多 くの歴 史 を秘め てい るっ な お

,

医 学 館は

,

大 手 町 (金 沢 大 学 城 内キャ ンパ ス の大 手 門の外

,

NHK の近辺)の

加賀藩 家老津田玄

as “

 S,)邸宅に開 設さ れた。 津田邸の玄関 は兼六 園に移 築され, 現 在 石 川 県 兼六 園 管理事 務 所 と な

」

魅

        図 1 兼六園 内の 化学 史 跡

。

      ( ) 内 は 遺 構 等 が 説存しない もの, [ ]内 は現 存するもの (移 築 を含む)を 示す。

第 38 巻 第 6 号 (1990)       (53 )

677

N工 工

一

Eleotronio  Library  

(4)

The Chemical Society of Japan

NII-Electronic Library Service

The  Chemloal  Soolety  of  Japan

写真 2 成巽閣。

 こ の建 物の

一

部 を 使っ て鉱 山 学 所 が 設 けられて い た。 っ て い る。

                せ

い

そん か く

 

3.2

 鉱山学所 (成 巽 閣 内

,

山 崎 山 横 )

 

1870

年 (明 治3)10 月 ドイ ツか ら鉱 山 技 師デッ ケ ン                                               t

,

?

を招 請し成巽 閣 内に開 設した。 こ こはもと 13 代藩主斉

やす

泰の 母の隠 居 所で

,

内 部に は前田家の遺 品が飾られ

,

豪 華で

,

昔の面影 を 残 し

,

現 在は 国の重 要文化 財に な っ て

い る (写真

2

)。 翌 年 1月

,

園 内の山崎山の麓に デッ ケ ン

の居 館が建て られ た。 木 造2階

,

周囲に テ ラス のある県 下 初の洋 風 建 造物で 西洋 家 屋 とか異 人 館と か呼ば れ たD

デッ ケ ン は鉱 山学, 金 石 学

,

地質学 な ど を教えてい たが 廃藩と同 時に閉校 とな り解 任された。

 3. 3 

中学東校 (成 巽 閣 と金 沢 神 社の中 間 地点)   1870年 (明 治3)末に 県内初の 英仏 洋 学 校とし て設立

された。 洋学に理 解 を もち

,

福 沢 諭吉に傾 倒 した藩主の 意向に よ る もの であっ た。 こ こ は洋学 専 門だっ たの で

, 一

般に洋 学 中 学 校と呼 ばれ た

。 同 じころ仙 石 町に建て ら れ た中 学西校は皇 学

,

漢 学が中心 であっ た。 洋 学 中 学 校

の教 師に はイ ギ リス人サ イモ ン ス

,

日 本

一

の

英 学 者長野 桂次 郎 や 芝 木 昌 平がいた。 ま た支払い に困っ た徳 川 家に 代 わ リイ ギ リスか ら大量の 洋 書を購入 し

,

ま さに 「加 賀

は天 下の 書 府」であ り

,

洋 学の水準も全 国で

一

, 二 を 争

                              そん げ

い

t

’

く ぶ ん

こ

う もの であっ た。 これ ら は

,

現 在 尊 経 閣 文 庫とい い

,

東 京 駒 場の則 団 法 人 前田育徳会にあるが

,

その

一

部は加 越

能 文庫と して金 沢 市 立 図 書 館に保存さ れ てい る。

 中 学 東 校 と鉱山学 所は薩 摩

,

長 州

,

土 佐

,

肥 前 とい う 西南 雄 藩に先を越さ れ 「維 新の バ ス」に乗 り遅 れた金 沢 藩が遅れ ばせ な が ら 西洋 文 明を 取 り入 れ よ う と し て建て たもの であっ た。 柿 木畠に 1854 年 (安政元) 建て ら れ

  +  ラげ5かL

た壮 猶 館 (現在金沢市広 坂 知事公 社 )ば

13

代 藩 主 斉 泰 が 創 設 し

,

西 洋 流 火 術方役所と呼ばれ

,

洋 学

,

航 海 学

,

医 学 な ど を 教 えた。 こ こが加賀藩の洋学発祥 地 とする と

,

兼六園はその最 後の場所であっ た と言える。

 

3 . 4

 七 尾 語 学 所 (ピ

ー ・

エ ス

・

= ン ク リ

ー

ト工場周

辺 )

678

 幕 末か ら 明 治 初 期に か け

,

1862 年 (文久

2

) か ら

1871 年 (明 治 4)までの 9年 間

,

能 登の七尾に加賀藩の 軍 艦 所があっ た。 ま た 1869 年 (明治 2)か ら た っ た 1 年 間 しかなか っ た が

,

軍 艦 所 内に藩 校壮 猶館→ 致迚館分 館と し て 七尾 語 学 所が設けられ

,

イ ギ リ ス人 v

, 一

ズ

ホ

ー

ン

を招いた。 こ こ て彼は金 沢藩か ら選 抜 された7歳が ら15 歳ま て の英 才た ち に

,

英 語の ほか 理化 学

,

数 学な ど

,

当 侍 洋 学といわれた近 代 科 学 を 教 えた9

−

11’

= オ ズ ボ

ー

ンが金

沢で は なく

.

ヒ尾へ なぜ 派 遣 さ れたか は

,一

説に ほ

,

当 時

                 

,

よ 

’ tt

の 金沢 藩士 に はま た覆 夷思想が強く

,

金 沢 におい ては身

                                        せ

.

L

’ :

ら

辺 が危 険だ か ら と か

,

他に

,

加 賀 藩の文 明の最尖 端であ

る ヒ尾 軍 艦 所は洋 学 勉 強の場 所 と して ふさわ し い から と

の説がある。 彼は 1年 後に金 沢 藩を 去 っ た が

,3

  数 名

の 生 徒の中か ら 口本 近 代 科 学に大 きな貢 献を し た化 学 者

.

さ く tt い じ :

ワ

じ

桜 井 錠二 (11 歳)な どの俊 才 が 大 き く育っ て い っ たの で

                か が み ね じ よう きb

ある。 こ の ころ

,

高 峰 譲吉(15歳 ) もこ こ に学ん た と も

い わ れて い る。 その後

,

軍艦所の施 設は 日木の近 代 造 船 業 界の先 駆 といわれる川 崎 重工業神戸造船所 の母体と な

り

,

明治の 目本の醒 進に つ くした⊃ 現 在で は

,

七宅 軍 艦 所 は跡 形なく

,

敷 地に石 碑が建て ら れ てい る (写 真

3

)。

4

 高峰 譲 吉と桜 井 錠ニ

ー

近 代 化 学の先 駆 者

一  

高峰譲 吉 (

1854− 1922

)はア ドレナ リソ (血】土や止 孟L 作用のあ る 副 じ ん皮質ホん モ ン) を 世 界に先かけて 上中 啓三 の協 力 を得て 結 品 化に よ り分 離 精 製 し 「20 せ紀を 境 として

,

世 界の医 学 界は

一

変 した

」 と まて たたえ ら れ た。 また タ カジア ス タ

ー

ゼ (コ ウジ菌の シアス タ

ー

ゼを

使

っ

た消 化 不 良や胃腸病に きく新薬で

,

タ カ は高 峰の 高

か らとっ た もの) を 創 製 し たこ と で知 られる応 明 化 学 者

である

。

ニ ュ

ー

ヨ

ー

クで の この よ う な発見 以外に

,

彼は その地に桜公園を作っ た り

,

日本 人に対 する誤 解を と く

(

54

)

写 真 3 七尾 軍 艦 所 跡 (石川県七尾市矢田新町)

。

 現在は石碑が 建って い るのみで ある。

化   学  と  教 育

N工 工

一

Eleotronlo  Llbrary  

参照

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