The Chemical Society of Japan
NII-Electronic Library Service
The Chemloal Soolety of Japan
靉獺 鰈 鱒 驪 靆蘿 黨 轗 鱶 鑾 鱒轢 攤
鞍識靉靉 4
.加 賀 藩 に ゆ か り の あ る 史 跡 と 人 物
べ 厂 厂 rt “ tt L/ # , 衛 t” t t」 r ; , ノ 4 厂 ’ 1 ’ 刪 4 , A」 t , ♂ P岬瀞
カ ッ ト 金沢 城の石 川門。
鰤“ ∬ 」 鴫 冊 Tt 八 ρ L
中
日
浄 高 西 吉 芳
浩 孝
厄 罰 ,
nv冊 ノ L 厂 斛
Fm厂 疋
t■ 尸 Pr ド 厄 朗 ’ “ ド 囁 晒
金 沢 城 の 鉛 瓦 には, 加 賀 藩が いざと い う ときに 備 え た 銃弾 資 材の備 蓄と い う遠 謀 深 慮が込 め られて いた とい う。
1853
年 (嘉 永6
)ベ リー
の来 航 に よっ て鎖国 の 眠 りか ら覚 まされ
,
幕 末か ら明治維 新 期に か けて 西 洋の 進ん だ文明 が取 り入 れ られた。 加 賀 藩 最後 の14
代 藩 主 慶 寧 は 福 沢 諭 吉の 「西洋 事 情」 に刺 激を う け て 卯辰山 の 開拓に着手L ,
養生 所や集学所な ど を, さ ら に 兼六園 内 に 理 化 学 校,
鉱 山学所, 中学東 校を,
能 登七尾に語 学 所 など を 設立 した が,
こ れ らは 郷土 の近 代 医 学
,
科 学,
教 育,
産 業 の 発 展 の 源 と なっ た。なま り づわら
1
金 沢 城一
鉛瓦の屋 根の謎一
ま r
.
ゼ と1,
いえ金 沢 城は 1583 年 (天 正 11)前田利 家 (1538
−
1599)ま 1
ー
ん よ し や すの 入 域か ら 前田慶 寧 (1830
−
!874)まて 14 代 約280 余年 加賀百 万 石 (領 知 120 余万 石)の シ ンボル と して廃 藩置 県 (1871 年
,
明 治4) までその威 容を誇;?,
加賀・
能登 (石 川 県 ) 越 中 (富 山 県)三 国 の政治,
経済,
文 化の中心 地 と なっ ていた。
9 え { EL
. ー
ねところで
,
金 沢城 内の建物は 3 代藩主前田利 常 (1593
−
1658)の ころ か ら ほ と ん ど鉛瓦屋 根となっ てお り,一
説に よれ ば
,
その昔 加賀藩がい ざ とい う ときに備え,
銃 弾 資 材 をこの よ うな形で備蓄 し ていた と か,
その鉛瓦の 中に蓄 財 用の金銀が鋳込ん であっ た との言い伝えが あった。
Historic Remains and Persolls of Abi】ity Connecting with Kaga Distrlct in Edo Period
.
Takaharu HONJO 金沢 大学 助教授 (理 学 部 化 学 教 室 ) 理 学博±笙 者 紹 介 〔経 歴 〕1969年 京 都 大 学 大 学院理 学研究 科 博士課 程 化 学 専 攻 修 了
,
1969乍 金 沢 大 学 理 学 部助手を経て 1979年から現 職。
〔専門 〕 分 析 化 学
。
〔お もな 著 者〕”
分 析 化 学の歴史
”
,
内田老 鴒 圃,
共 訳。
ご趣 味 〕 囲碁, パ ソロ ン通信。 〔連絡先〕920 石 川 県 金 沢 市 丸 の内 1−
1 (勤務先)。
Takashi NAKANISHI 金 沢 大 学 助 教 授 (理 学 部 化 学 教室) 理学 博士
筆 者 紹 介
〔経歴〕1969年 金 沢 大 学大学 院理学 研 究 科 修 士 課 程 化 学 専 攻 修 了
,
1969年 金 沢 大 学 理学部助 手,
講 師 を 経て 1987年から現職。本浄 氏
第 38 巻 第 6 号 (1990) 中西氏
ゴ も
物ヨ
P 津百一
乏 P l
阿
P, 卜
口 膏
臣
阻 儒 賦
∬ 匸
弱
、
滋
日吉 氏・ ・ 一 ・ ・
〔専門 〕放射 化学。
〔おもな著 書 〕“
宇 宙 地 球 化 学 (新 実 験 化 学 講 座 10)
” ,
丸 善,
共 著 ;“
核現 象 と分 析 化 学 (化
学総 説
Na29
)”
,
学会 出版セ ン ター
, 共著。 〔趣味〕 版 画 園芸
。
Yoshiro HIYOSHI 石]」「県立輪 島高等学 校 教 諭
筆 者 紹 介 〔経 歴 〕1965年 金 沢 大 学 薬学部 薬 学 科 卒業,
石 川 県 立 門 前 高 等 学 校 教 諭を経て 1988 年か ら 現 職。
〔お もな 著 書〕
”
現代化学 概説
”
, 共立出版 ;tc化学へ の
招待
”
,
大日本 図 書 ;“
たのしい化学実 験
” ,
講 談 社, いずれ も共 著
。
〔趣味〕 蝶 採 集。
(51 )
675
N工 工
一
Eleotronlo LlbraryThe Chemical Society of Japan
NII-Electronic Library Service
The Chemioal Sooiety of Japan
金 沢城の 鉛 瓦は
,
木 材を 瓦 7)形に作 り (1枚 の大 きさ は お よそ 44−
45cm ×19−
20cm ),
その 上に厚 さ 4.
5一
う
コ
7
.
6mm の鉛板を打ちつ け,
加賀 藩の梅鉢の家 紋で 飾っ た屋 根 瓦である1−
%
江 戸 時 代に建 造物のすべ ての屋根に鉛をか ぶせ たのは 加 賀 藩だけである1
−
S )。 鉛 瓦の金沢城 関 係の 諸崖 物と し
やぐち
ては
,
高麗門 形 式の表門と二 つ の櫓,
櫓門から なる金 沢か ろ め てもん
城二の丸の搦 手 門の石 川 門 をは じ め, 左右の 太鼓堀
,
加 賀藩の軍備倉で鉄 砲 倉と呼 ば れてい た二.
卜間 長 屋 など が 典 型 例で
,
古 くは櫓や渡 り廊下の屋根を は じ め,
城 内の 建 物の ほ とん どすべ て が その鉛瓦 で葺い てあっ たといわれてい る21。 明治 時 代に 入 り
,
金沢城に は兵 営 が 設 置さ れ,
第二次世界大戦後は 進 駐 軍の 管 轄 を 経て 1949 年(昭和 24) 以来
,
新制金 沢 大 学の キャ ンパ ス として利用 さ れ てい る。 石川 門 (現 在は金 沢大学正門 )と 三 十間長 屋は,
今 も鉛 瓦 葺 きで昔の面 影を残 し,
現在は国の重 要 文 化 財に指 定さ れ てい る (カ ッ ト)D こ の鉛瓦の 屋 根につ い ては, 徳 川 幕 府に よ る 加賀 藩お取 りつ ぶ しに備 え
,
戦 時を考え ての鉄 砲の 蝉の非 常 備 蓄で ある といわれてい る。 外 様 大 名で
300
諸 候の随一
前田氏百 万 石 は,
徳 川 氏に とっ て油 断な らぬ相 千に うつ っ たこ と であろう。
事実
,
1631 年 (寛 永8) 3代 藩主 利 常 39 歳の とき,
幕 府の隠 密の 報せ で加 賀藩に 謀 反の 兆 しあ り とい う嫌 疑が か けられた
,
いわ ゆ る 「寛 永の危機」か起 こ っ て いる。
現在
,
石 川門に用い られて い る鉛瓦 は,
1953 年 (昭和28
)から1959
年 (昭 和 34 )にかけて解 体修 理 さ れ た 際に鋳直 し たもの である が
,
その工場の話で は鉛は きわめ て純度 が高く,
ほ とん ど雑 物 を 取る作業を しな くて もよい ほ どの 良質の鉛であっ た との ことである。 ま た
,
鉛 瓦の中の金 と銀は, 歴 史 的 な 鉛瓦 の放射 化分 析の 結果
,
石 川 門の鉛 瓦の 中の銀は も と も と鉛 鉱石中に存 在 し ていた もの で,
鉛 瓦 鋳 造の 際に 添加 さ れた もの でな く,
ほぼ一
様に鉛瓦中に含まれている と 判 断 され た % その量は 0.
074% で,
化 学 分 析に よる値 O、
05% とほぼ一
致 する。
な お 金の 存在は
,
鉛 瓦,
鉛 鉱 石の い ずれにつ い て も検出 限 界以 下 で,
た と え 金が 存 在してい て も,
多 くて 0,
002% 以下 と考 えられ
,
金 銀 財 宝 を 鉛 瓦の 中に 鋳 込んだ と の言い伝えは,
単な る俗 説と思 われるD2
金 城 霊 沢一
金 沢の 名の由来一
が らん
金 沢 城は も と真宗 (
一
向 宗 )の大 伽 藍,
金 沢 御 坊の跡 地と いわ れ,
ことに兼六 園か ら 金沢 城 祉に か けて の小立か
や
野台 地は砂 金 層 を 大 量に含み
,
戦 国 期には流浪の金 屋k
ち が 砂 金 を 採 掘 し
,
金沢 御甥 曳 立の起因 と な っ た。
こ のとき沢水 を利 用して採 金 した の て 「金掘沢」
、
「金涜 沢」6T6
写 真 1 全 戎 霊 沢
。
な ど と呼
凾
れ 金 沢の名の 起 源と な っ てい る5}。 現 在も兼きん : く
六園の 南 端に は金 沢の名 称 発 生の地 「金 城 霊沢」があり
(写 真
1
),
今 も絶 えるこ とな く水 鉢の底か ら清水 が わ き出 してい る。
その ほ とりに学 問の神
,
菅 原道真公 を祭る金 沢 神 社が
コ
よ うすはらあ る
。
手 水鉢に流 れ 出る水の源は霊 沢のす ぐ裏にあ り,
ち ようず や
水 脈は全 く 同 じ もの であ る。 その手水舎の横 に 「水の い われ」 の立 て札が 立 っ てい る。 いわ く
一
「こ の 水 は 明治 11 年 医 学 校 教師 オ ラ ン ダ人 ホ
・
レ トルマ ン 氏の分 析によれば良 質の甘 水で ほ と んど混 合 物が な く少し硫化シヤ ン カ リ の 応 験があり軽量の鉄を含 む とい
う。 効 果は貧 血 及
’ L
臓の哀励せ る人に効 ありと。 以 上 」ホ ル ト ル マ ンは 明治 初 期に兼六園の中に あっ た 医学館 附 属理化学校のお雇い外 国人 ス ロ イス の後任 として立 沢 医 学 校へ 来任して い る。
3 加 賀 藩 校一
サ イエ ン ス のふ るさ と兼六園一
兼六園は文 化 財 指定庭 園で,
水戸の偕 楽 園,
岡 山の後
楽 園 と共iCH 本 二名 國と呼ばれて い る。 江 戸 時 代の代表
的 な 回遊林泉 式 庭 園で
,
1598 年 (慶 長3
) 加賀藩 2代 藩まftだ と しなが
主前田利 長の時か ら造 園 さ れ 金沢 城 野 外 庭とし て次第に
ノ
/ t
’
発展し た“−
b’
〕。 1822 年 (文 政
5
)12代 藩 主 前田AJA か らし
・
ht)
く よ’
江戸におい て この園の命名を頼ま れ た白川楽 翁こ と松
’
ドこ
い
すい
じん
り よ く そ うこ
す い せ ル ち よ う ぼう遣 信は
,
宏大,
幽 邃,
人 力,
蒼占.
水 泉.
眺 望の 六勝 がりtSt く ひ
兼ね備わ っ てい る とい う中 国の名 園 湖 園 (宋の李 格 非,
r
洛 陽 名 園 記 」)に ちなん で,
加 賀百 万 石の 200 年以 上 歴 史 ある大庭 園を ほめ た たえた の である。ところで
,
加賀藩,
こおける近 世 科 学の 学 問のおこ りはう た
つ
や ま Llいみ
きよ く卯 辰 山養生所 (
1867
年,
慶 応 3)の舎密局 (棟取高 峰
精
一
)の設 立に始ま る が, 明 治 初 期に は兼六園の中に洋 学と近 代 科 学の学 校 が 置かれ (図
1
)、
そ れ が 当 時の 日 本で は屈 指の もの であっ た こ とは あま り知られてい な い6−
B)1
(52 ) 化 学 と 教 育
N工 工
一
Eleotronio LibraryThe Chemical Society of Japan
NII-Electronic Library Service
The Chemioal Sooiety of Japan
:3⊂9 年 (明治 2) に イ ギ リス で創 刊さ れ た 科学 雑 誌 N血:ure の 1872 年 9月 19 日号に
,
日本1・
ut 大 阪,
加 賀,
静 岡,
福 井に 四つ の化 学実験 所 が あり,
や がて5
番 目:).
ものが 江 戸に で きる と書かれてい る。
そこ で は い わ ゆ る お雇い外国 人 が 生徒た ちに科学を教え ていた。 加賀で は兼六 園 内の学 校で
,
ド イ ツ人デ ヅ ケン (鉱 山学 所 ) と オ ラ ン ダ 人 ス 卩 イス (理化学佼)がサ イー ・
L ン ス (化学,
物理
,
鉱山学,
地 質 学,
薬学 など)を教えて いたの であ るc兼六園は
,
藩政時 代に は藩候の散 策場であっ た た め, 一
献 人は い うに 及 ぼず,
藩士 で も容 易に 立ち 入 ること ができなかっ た。 しか し
,
1792 年 (寛政4
)に 明倫堂,
経武 舘の文 武二つ の藩 校が建て られ
,
明 治 初 期に洋 学 校も で き,
そ の教 師や生 徒 だけが 出入 りを許 された。そ し て
,
加賀 藩→ 金 沢 藩→ 廃 藩 置 県 (1871 年,
明 治4)
→
金 沢 県→ 石 川 県 と県 域が目まぐる しく変わっ た後,明 治 5年 3月 3 日 か ら 約 40 日 間
一
般 人に縦覧を 許 したのが園 内 解 放の始ま り で
,
同年5
月か ら期 眼 も撤廃された、 その時の心得が 次の よ うに定め られて い る。
一
兼六園之義は
,
舎 密学研究の地に して,
側の薬 草 種よ うや モリ
類を播種 し
,
漸 く生長 す る を得て,
大い に其 益 あらん とまた あい が ん
す
.
: 然る に亦一
層の勝 地に して,
内は水 石 を 愛 翫 すべ き,市 街に接 し て老幼 も亦来 り易 し。 故に今春 陽温和野際に 当 り庶 民に来 遊 するこ とを 許 す。 其 規 則 左の如 し」
セ い
み が くそ して 八 力条の規 則 が 定め ら れて い る
。
舎 密 学研究の 地とあるの は理 化 学 校があるこ とをさ してい るQ よしや すところで
,
明治 初 期に前田家14
代 藩 主 慶寧が 兼六園 内に建て た学校は次の 三 つ である。 いずれ もわずか 1年 ほ どの命 しか ないが,
藩の歴 史にお ける近 代科学 教 育のル
ー
ツ と して重要な もの であっ た。
しぐれて い
3.1
理 化 学 校 (時 雨 亭 跡, 噴 水 前 )
1871
年 (明治4)7月,
園の北西部にあっ た前田家の 茶室,
時雨亭を利用 し て,
化 学,
物理,
薬学の研 究 所 として設 置 さ れた。 今は何 もな く 「時雨亭」 とい う 立札が 立っ て いるだけである。 理化 学 校は理 科 振 興を 目的と し た独 立 学校で
,
医学館 附属理化 学校ともい い,
医 学 館(明治
3
年2
月 設立)の生徒の理 化 学の 教 育 を 行っ た。加 賀 藩 典 医で あっ た高峰 精
一
がこ こを綜理 し
,
化学 者と し て も藩か ら重用 さ れ,
ナ ラ ン ダ か らのお雇い外 国 人スロ イス が そ れ を助 けた。 明 治5年 2月に金 沢 県 が 石 川 県
に な る と
,
4月 12 日藩 営の 諸 学校と共 に閉鎖 さ れた。
つ
な リリ時雨亭 跡はかつ て は
5
代藩主, 綱紀が 「貧 民 救 済 」の善 政をとっ た蓮 池 御 殿の あっ た ところで,
蓮 池 御殿→ 時雨は るなが ttか の て い
亭 (
11
代 治脩が建て高 之 亭 と も呼ぶ)→ 金 沢理化 学校と多 くの歴 史 を秘め てい るっ な お
,
医 学 館は,
大 手 町 (金 沢 大 学 城 内キャ ンパ ス の大 手 門の外,
NHK の近辺)の加賀藩 家老津田玄
as “
S,)邸宅に開 設さ れた。 津田邸の玄関 は兼六 園に移 築され, 現 在 石 川 県 兼六 園 管理事 務 所 と な」
魅
図 1 兼六園 内の 化学 史 跡
。
( ) 内 は 遺 構 等 が 説存しない もの, [ ]内 は現 存するもの (移 築 を含む)を 示す。
第 38 巻 第 6 号 (1990) (53 )
677
N工 工
一
Eleotronio LibraryThe Chemical Society of Japan
NII-Electronic Library Service
The Chemloal Soolety of Japan
写真 2 成巽閣。
こ の建 物の
一
部 を 使っ て鉱 山 学 所 が 設 けられて い た。 っ て い る。せ
い
そん か く
3.2
鉱山学所 (成 巽 閣 内,
山 崎 山 横 )
1870
年 (明 治3)10 月 ドイ ツか ら鉱 山 技 師デッ ケ ン t,
?を招 請し成巽 閣 内に開 設した。 こ こはもと 13 代藩主斉
やす
泰の 母の隠 居 所で
,
内 部に は前田家の遺 品が飾られ,
豪 華で,
昔の面影 を 残 し,
現 在は 国の重 要文化 財に な っ てい る (写真
2
)。 翌 年 1月,
園 内の山崎山の麓に デッ ケ ンの居 館が建て られ た。 木 造2階
,
周囲に テ ラス のある県 下 初の洋 風 建 造物で 西洋 家 屋 とか異 人 館と か呼ば れ たDデッ ケ ン は鉱 山学, 金 石 学
,
地質学 な ど を教えてい たが 廃藩と同 時に閉校 とな り解 任された。3. 3
中学東校 (成 巽 閣 と金 沢 神 社の中 間 地点) 1870年 (明 治3)末に 県内初の 英仏 洋 学 校とし て設立された。 洋学に理 解 を もち
,
福 沢 諭吉に傾 倒 した藩主の 意向に よ る もの であっ た。 こ こ は洋学 専 門だっ たの で, 一
般に洋 学 中 学 校と呼 ばれ た。 同 じころ仙 石 町に建て ら れ た中 学西校は皇 学
,
漢 学が中心 であっ た。 洋 学 中 学 校の教 師に はイ ギ リス人サ イモ ン ス
,
日 本一
の英 学 者長野 桂次 郎 や 芝 木 昌 平がいた。 ま た支払い に困っ た徳 川 家に 代 わ リイ ギ リスか ら大量の 洋 書を購入 し
,
ま さに 「加 賀は天 下の 書 府」であ り
,
洋 学の水準も全 国で一
, 二 を 争
そん げ
い
t’
く ぶ んこ
う もの であっ た。 これ ら は
,
現 在 尊 経 閣 文 庫とい い,
東 京 駒 場の則 団 法 人 前田育徳会にあるが,
その一
部は加 越能 文庫と して金 沢 市 立 図 書 館に保存さ れ てい る。
中 学 東 校 と鉱山学 所は薩 摩
,
長 州,
土 佐,
肥 前 とい う 西南 雄 藩に先を越さ れ 「維 新の バ ス」に乗 り遅 れた金 沢 藩が遅れ ばせ な が ら 西洋 文 明を 取 り入 れ よ う と し て建て たもの であっ た。 柿 木畠に 1854 年 (安政元) 建て ら れ+ ラげ5かL
た壮 猶 館 (現在金沢市広 坂 知事公 社 )ば
13
代 藩 主 斉 泰 が 創 設 し,
西 洋 流 火 術方役所と呼ばれ,
洋 学,
航 海 学,
医 学 な ど を 教 えた。 こ こが加賀藩の洋学発祥 地 とする と
,
兼六園はその最 後の場所であっ た と言える。
3 . 4
七 尾 語 学 所 (ピー ・
エ ス・
= ン ク リー
ト工場周辺 )
678
幕 末か ら 明 治 初 期に か け
,
1862 年 (文久2
) か ら1871 年 (明 治 4)までの 9年 間
,
能 登の七尾に加賀藩の 軍 艦 所があっ た。 ま た 1869 年 (明治 2)か ら た っ た 1 年 間 しかなか っ た が,
軍 艦 所 内に藩 校壮 猶館→ 致迚館分 館と し て 七尾 語 学 所が設けられ,
イ ギ リ ス人 v, 一
ズホ
ー
ンを招いた。 こ こ て彼は金 沢藩か ら選 抜 された7歳が ら15 歳ま て の英 才た ち に
,
英 語の ほか 理化 学,
数 学な ど,
当 侍 洋 学といわれた近 代 科 学 を 教 えた9−
11’= オ ズ ボ
ー
ンが金沢で は なく
.
ヒ尾へ なぜ 派 遣 さ れたか は,一
説に ほ,
当 時
,
よ’ tt
の 金沢 藩士 に はま た覆 夷思想が強く
,
金 沢 におい ては身せ
.
L’ :
ら辺 が危 険だ か ら と か
,
他に,
加 賀 藩の文 明の最尖 端である ヒ尾 軍 艦 所は洋 学 勉 強の場 所 と して ふさわ し い から と
の説がある。 彼は 1年 後に金 沢 藩を 去 っ た が
,3
数 名の 生 徒の中か ら 口本 近 代 科 学に大 きな貢 献を し た化 学 者
.
さ く tt い じ :
ワ
じ桜 井 錠二 (11 歳)な どの俊 才 が 大 き く育っ て い っ たの で
か が み ね じ よう きb
ある。 こ の ころ
,
高 峰 譲吉(15歳 ) もこ こ に学ん た と もい わ れて い る。 その後
,
軍艦所の施 設は 日木の近 代 造 船 業 界の先 駆 といわれる川 崎 重工業神戸造船所 の母体と なり
,
明治の 目本の醒 進に つ くした⊃ 現 在で は,
七宅 軍 艦 所 は跡 形なく,
敷 地に石 碑が建て ら れ てい る (写 真3
)。4
高峰 譲 吉と桜 井 錠ニー
近 代 化 学の先 駆 者一
高峰譲 吉 (1854− 1922
)はア ドレナ リソ (血】土や止 孟L 作用のあ る 副 じ ん皮質ホん モ ン) を 世 界に先かけて 上中 啓三 の協 力 を得て 結 品 化に よ り分 離 精 製 し 「20 せ紀を 境 として,
世 界の医 学 界は一
変 した」 と まて たたえ ら れ た。 また タ カジア ス タ
ー
ゼ (コ ウジ菌の シアス ター
ゼを使
っ
た消 化 不 良や胃腸病に きく新薬で,
タ カ は高 峰の 高か らとっ た もの) を 創 製 し たこ と で知 られる応 明 化 学 者
である
。
ニ ュー
ヨー
クで の この よ う な発見 以外に,
彼は その地に桜公園を作っ た り,
日本 人に対 する誤 解を と く(
54
)写 真 3 七尾 軍 艦 所 跡 (石川県七尾市矢田新町)
。
現在は石碑が 建って い るのみで ある。化 学 と 教 育
N工 工