フェートン号事件と19世紀初頭の海運情勢
松 竹 秀 雄
はじめに
第1章 18世紀までのオランダ東インド会社船概観 第2章ナポレオン戦争
第1節 北アメリカ大陸 第2節 アメリカ独立戦争 第3節 フランス革命とナポレオン 第4節 ナポレオン戦争
第3章 フェートソ号事件
第1節フェートソ号事件序説 第2節 フェートソ号事件
第3節 焼払い通告文書の真疑及び事件後 第4章 結び一19世紀初頭の海運情勢
はじめに
フェートン号事件は,長崎人にとっては比較的周知の出来事であって,その内容説明は通 航一覧をはじめ,長崎県史・長崎市史・武藤長蔵博士の『日英交通史之研究』なξ数多い。
しかしこれをナポレオン戦争に関連づけて理解する人はそう多くはない。ましてや世界海 運情勢一これは同時に当時の国際情勢でもあるが一の激動期を象徴するもので,日本に
とって黒船襲来の大事件であったと理解する人は極めて少ないと思われる。
筆者はアメリカ独立戦争及びナポレオン戦争に立入ってフェートン号事件の由来を調べる と共に,昭和63年度長崎県教育委員会主催の「長崎学県民講座」の講師によって公表された,
フェートソ号船長による日本船・唐船焼払い通告文書ドゥフ捏造説を糾すことをもその目的
とした。
なお,枚数の都合上,フェートン号事件の5年後とその翌年の,「イギリス総督ラッフル スの長崎出島オランダ商館乗取り計画」については割愛した。そして1820年代に編述された
長崎名勝図絵の,「近年,出島館中で戦勝日と称して盛大な祝宴を催す日がある。………わ が文化12年(1815)ワートルローという処で対戦し,、和蘭が大勝し,フランス王ボナパルト を生け捕って,遠く海洋中の離れ小島に放逐し,その後和平を得た。その日が彼の国の6月18
日で,日本では芒種(5月節)の節の後11・2日頃に当る。それで出島では5月に入ってそ の日に当る日を戦勝日と唱え,盛宴を張り,本国が全勝した図を掲げ,屋敷内の旗竿には夜 のになると千灯籠を点じて慶祝の意を表する」及び,当時の出島商館長ヘンドリック・ドゥフ がオランダ国王から和蘭獅子士勲賞を賜ったこと,幕府が銀50枚を贈ったこと,を紹介して,
フェートソ号事件及びラッフルス事件を冷静に処理したドゥフを賞揚することとしたい。
第1章18世紀までのオランダ東インド会社船概観
17世紀以来のオランダ東インド会社船の日本への航海歴史のうち,幾つかの大きな変り目 があった。そしてそれは,何れも当時のヨーロッパ歴史,端的にいえば世界史の中の一つの 節目節目に当っていたとみることができる。本稿でとりあげるフェートソ号事件もその一つ
である。
オランダ東インド会社の設立は1602年3月であるが,実質的にはフォール・コンパニーエ ソ(先駆諸会社)と呼ば:れる三つの商船隊グループの合併会社である。最初,1594年にアム ステルダムに遠国会社(Compagnie van Verre voorby Capo di Bona Speranza)が出来,1597 年末にやはりア4スチルダムに新会社(Nieuwe Compagnie Yah de Vaerte op Oost−lndien tot Amsterdam)が出来,それが1598年始め頃に合併し,更に1599年8月に出来た新ブラバ ント会社(Nieuwe Brabantsche Compagnie)と合併して1600年にアムステルダム東インド 会社(Oost−lndische Compagnie te Amsterdam)となった。もう一つのグループは1600年 に設立されたゼーラント会社(Zeeuwsche Compagnie)であり,三つ目のグループはロッ テルダムで1601年に設立されたデルフト会社(Delftsche Vennootschap)である。
第一の遠国会社の商船隊は,最初はリスボンやセビリアなどと商品取引を行なっていたが,
のち,直接に東インドと貿易を行うようになった。永積昭氏描写によれば,「1596年6月,
バンテソ(ジャワ島西北端)に滞在中の6人のポルトガルト人は,小さいずんぐりした4隻 のオランダ船が町の正面に到着するのを見る。これこそアジア到達に成功した最初のオラソ ラダ艦隊であり,その指揮官はコルネリス・ド・ハウトマンであった」とある。次の二つのグ ループも東インドに航海していたが,その過当競争によるアムステルダム市場の香料・胡椒 の価格下落を契機として,破局的な事態の直前にこの三グループが合併し,1602年3月20日 に,正確には合同東インド会社であるところのオランダ東インド会社(Vereenigde Oost−In一 ヨ dische Compagnie)が設立をみたのである。
これは1600年12日31日に設立された・fギリス東インド会社と共に,大航海時代以後,それ までのスペイン・ポルトガルトの,1494年ローマ教皇によるトルデシラス条約によって世界
を東西に二分していた海洋独占に割って入るものであった。
1600年,オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し,その後平戸に商館を建てて日本貿易を開 始したのは1609年(慶長14)であるが,この年はオランダ東インド会社の弁護士であり国際 法学者グロチウスが「海洋自由論」を著してポルトガル・スペインの世界各大洋に於ける排 他的権力を打破する 海洋自由の原則 即ち,航行は万民法(すべての人間に当てはまる共 通の法)によってなに人にも自由である,と高らかにうたいあげた年でもあった。
また1623年(元和9)にはイギリスが平戸から撤退し,平戸ではオランダのみとなるが,
これは香料諸島の基地アソボイナで,来航したイギリス商館員(日本入を含む)全員をオラ ンダが虐殺したアンボイナ事件により,イギリスがモルッカ諸島(香料諸島)から撤退した 影響などで貿易収支が赤字となった為の平戸イギリス商館閉鎖である。そしてこれはイギリ スが東南アジアから撤退してインド経営に重点を置くようになった,つまりオランダがイギ
リスを東南アジアから追い払って隆々発展を約束された年ともなったのである。
1641年(寛永18)オランダ商館は長崎出島に移転するが,これは1637年(寛永14)から翌 年にかけての島原の乱,及びそのために決定的となった徳川幕府のポルトガル船来航禁止の 1639年(寛永16),またその翌1640年(寛永17)の長崎来航ポルトガル使節船74人中,61人 を長崎西坂で処刑し,日本からポルトガル人を完全に締め出した後の,西欧勢として日本貿 易オランダ独占の年であるが,この1640年は60年に亘るスペインの併合を脱してポルトガル カ触立宣言をした年に当っており,これは1588年にスペインの無敵艦隊敗北に続くスペイン 凋落の第2段階を象徴するものでもあった。そして1641年にオランダとポルトガルトは10年 間の休戦協定を結ぶ。
オランダ出島貿易の日本側輸入品の最も大なるものは中国産生糸であったが,徳川幕府は 第1図 長崎来航オランダ船原
隻数
12 11 10
9 8 7 6 5 4 3 2 1
16411650166016701680169017001710172017301740年
いとわっぷ国内の諸物価の騰貴を押さえるため,生糸を安く買入れる方策即ち糸割符(白糸割符ともい う)の制を慶長9年(1604)に定め,併せて日本からの金・銀・銅の流出を少なくすること をも策して明暦元年(1655)に相対貿易,寛文12年(1672)に市法売買法,貞享2年(1685)
じょうだか の
には定高貿易法,正徳5年(1715)には海舶互市新例(正徳の新会)を出し,この正徳の 新令以後オランダ船の入港を2艘に押さえるなど,貿易額と共に船数を制限した。因みに八 の
百啓介氏資料によって寛永18年(1641)から元文5年(1740)に至る100年間の長崎来航オ ランダ船数をグラフに示せば前回の通りである。
但し,隻数の減少に反比例して,船舶は初期のフライト船(200〜600トン〉からスヒヅプ 船(700トソ以上)へと移行したことは言うまでもない。の
アラ
次に同じく八百啓介氏資料の出島来航オランダ船出航地による航海変遷をみてみよう。
第1表 出島来航オランダ船出航地(1641年一1740年)
地 名 1641−1660 1661−1680 1681−1700 1701−1720 1721−1740 合 計 タイオワソ
65(54)
一 一 一 一 65
バタビア
51(28) 99(83) 76(52) 65(53)「 37(37)
328マラッカ. 一
8(4)
一 一 一 8シ ャ ム
30(17) 15(3) 25(1) 12(0)
『 82
トソキソ
19(16) 11(11)
『 一 } 30キールソ
1(1) 3(1)
一 一 }4
膨湖 島
2(2)
一 一 一 }2
カンボジア
3(3) 4(4)
一 一 一
7
福 州
一
2(2)
『 一 『2
不 明
2 6
4 一 } 12註)括弧の外の数字は出航地の他に経由地も含み,括弧の中の数字は直航船を示す。
これによれば,1661年(寛文元)以降タイオワン寄港しての長崎入港はゼロとなって,バ タビア(ジャカルタ)からの直航が増えている。オランダはバタビアと日本との間に中継基 地の必要を痛感し,オランダ単独でマカオを襲撃して,もしこれを攻略出来なければ膨湖島 か台湾に根拠地を求めることとし,コルネリス・ライエルセンを艦隊司令官として艦船8隻 を以て1622年4月10日バタビアを出港せしめた。結局,マカオ要塞のポルトガル側が善戦し たためこれを陥せず,膨門島に赴くのであるが,一時的に膨湖島にオランダの城を築いたも のの,中国官憲に反対され,中国側の「膨湖島を去ってフェルモサ島に在るタイオワンを居 処と定むる時は,貿易は同地並びに(オランダ東インド)会社員の駐在する他の場所に於て
ラ
許される」という強い移転要請によって,後にゼーランディアと名づけられたタイオワソの 地を1624年9月以降一つの根拠地とした。この当時の貿易には軍事力を伴うことが多く,セ イロン島やモルッカ諸島における香辛料の独占的購入にあたっては,軍事力が商業政策に優 先していたといわれ,「戦争なくしては貿易はなしえず,貿易なくしては戦争はなしえず」
のとはバタビアの第4代総督J・P・ターンの言葉である。
こくせんや
ところがそれカ・ら37年後の1661年4月30日国姓爺こと鄭成功の攻撃を受け,翌1662月2月
の1日にゼーランディア城は降伏開城した。その結果,第1表にみるようにタイオワン寄港は ゼロとなったのである。これは東アジアに於けるオランダ勢力の一つの退潮をあらわすと共 に,1652年から54年にかけての第1次英蘭戦争に続く1664からの第2次英蘭戦争の2年前で あり,その原因となったクロみウェルのオランダを追落すイギリス側の攻撃による,ヨーロ ヅパに於けるオランダ海上覇権減速時期にも当っていた。即ち,第2次英蘭戦争は1667年に 終るが,その間に1664年イギリス軍は新大陸唯一のオランダ植民地ニューネーデルランドを 攻め,イギリス優勢のうちにウェストミンスター条約によって戦は終結し,新大陸のオラン ダ領のほとんどがイギリス領となった。ニューネ高デルランドの中心地であったニューアム ステルダムがニューヨークと改名されたのはこの時である。海上覇権の盛衰は同時に海外植 民地の盛衰をも意味したのであった。続けて1672年から74年にかけて第3次英蘭戦争となり,
確定的にイギリスがヨーロッパにおけるオランダの海上覇権を奪うのである。
オランダのヨーロッパにおける海上覇権の減退は,第1図の1670年代以降の船舶数でもそ の傾向がうかがわれるが,その収支に於てもその傾向を辿っている。科野孝蔵氏の資料に
第2表アジアにおけるオランダ東インド会社の財務成績
年
(1)総収入
(∬)総費用 (皿)純益(+) (1)一(皿) 純損(一) (y)母国へ渡し(+)鼾曹謔闔 取り(一)
(v)残 高
1613−53
101,704,417 76,177,755 25,526,662+ 9,726,890+ 15,799,772
1654−6340,959,359 41,439,206
479,847一1,649,861+ 13,670,064
1664−7363,406,559 43,654,787 19,751,772+ 10,152,599+ 23,269,237
1674−8353,180,634 51,010,272 2,170,362+ 3,126,745+ 22,313,854
1684−9363,484,943 62,134,286 1,350,657+ 1,521,476十 25,184,887
1693−9623,304,700 31,417,417 8,112,717一 9,492,229一 26,564,399
第2図 オランダ東インド会社の東インドにおける超過利益
単位 グルデン 400万 300万
200万 100万
0
一100万 一200万
1640164516501655166016651670167516801685169016951700年
つよってみてみよう。第2表は1693年までは10年忌の財務成績であるが,1664−73をピークと して1674年以降悪化し,1693年からは母国より受取りに転じている。これをまた「東インド ユ うにおける超過利益」の各年毎の数字をグラフによってみてみよう。
第2表のピークである1664−73は10年を1単位としてのものであるが,第2図ではその中 途の1669年以後急激に落込み,1680年代前半にやや回復するものの退潮傾向は如何ともなし 難いものであったことを示している。1658年セビーリアのオランダ領事は,「ただいまカデ ィス,サソリュカール,ブエルト・デ・サンタマリア(何れもセビーリアの外港)に停泊中 の外国船は1・2隻のハンブルク商船を除き,すべてオランダの船です。」と連邦議会に報
ユヨラ
告した程のオランダの海上盛況は,イギリスの攻勢によってその意図した通り覇者交替へと 向かったのであった。
さて,出島への来航オランダ船出航地は第1表の通りであるが,1596年6月ジャワ島のバ ソテンに到達したオランダ艦隊は母国からどのようにして東インドへの道を辿ったか。オラ ンダ人ヤソ・ホヘイソ・ヴァン・リンスホーテソは,1583年ポルトガル船で航海しインドの ゴアに赴いたが,1595年から翌年にかけて有名な「東方案内記」と共に「ポルトガル人航海
ゆ ス
法」も出版した。その航海案内書はその発刊される以前に使用に供せられていたといわれる が,オランダ艦隊指揮:官コルネリス・デ・ハウトマンはリンスホーテンのそれらの情勢を入 手して,ほぼ似たような航海を以て喜望峰に到達したものである。
第3図は1497年7月目スボン発,1498年5月インド西岸カリカット着,1499年9月リスボ ン帰着の航海図であるが,オランダのハウトマソの艦隊は喜望峰を経て,後はマダガスカル 島に立寄り,そこからインド洋を横断してスマトラ島に着き,スマトラ島とジャワ島の間の スンダ海峡の南から進んで1596年6月23日にバンタム港に到達したものであった。
C・R・ボクサーによれば,オランダ東インド会社船の母国出帆は3回に分れており,第 第3図 15世紀末のヴァス:コ・ダ・ガマの航路
1回は9,月に出航するけケルミス(楽しい定期市)船団であり,次は12月又は1月に出航す のるクリスマス船団,そして4月又は5月に出航するイースター船団であった。そしてこれら の船団はヨーロッパが戦乱のただ中にあるか,又は戦争が今にも起こりそうな時にはスコッ ラトラソドの北とアイルランドの西をまわって大西洋を南下し,あとはギニア湾の凪を避ける
ために南西に針路を変える,つまり南東貿易風を帆に受け,南アメリカ東部を南流するブラ ジル海流に乗って,限りなくブラジル近くまで帆走し,やがて西から東へ吹く貿易風反流と 南西から三又は北東へ流れるフォークランド海流に乗って喜望峰へ向つたものである。
オランダはスペインの圧制に抗して独立し,東アジア海域ではポルトガルの香料貿易に割 り込んで成長していった。貿易船団は往復ともに多額の商品を積載しており,船舶そのもの も高額であって,当然重装備の,一見,艦隊と見紛う船団ではあるが,本質は攻撃に弱い船 団である。このオランダ貿
第4図 ある時期のオランダ船団航路 易船団がイギリスにアムス
テルダムの前回域を封鎖〉 ・4
されると・手も足も出ない 存在であることは第1次〜
第3次英蘭戦争で実証済み であった。
これがナポレオン戦争に よるヨーロッパ大戦争でフ ランスに占領され,イギリ スと敵対する破目に陥っ
て,その影響が東アジアに,
そして日本にも及び,1808 年の英艦フェートソ号長崎 侵入事件につながって行く のである。
専
西インド諸島
oo ,
口
鋤_膨
リスボン
喜望峰
急
竪
。
マゼラン海峡
第2章 ナポレオン戦争
フェートソ号事件の直接の原因はナポレオン戦争である。そしていうまでもなくナポレオ ン戦争時代のオランダは,大激動期のヨーロッパにあって18世紀・19世紀世界海運・国際情 勢の絶えざる変革とそれに伴う交替期の荒波に翻弄される小国の悲運をいやでも味あわなけ ればならなかったのである。
ナポレオン戦争に先立ち,北アメリカ大陸とアメリカ独立戦争から入ってみよう。
第1節北アメリカ大陸
・「15世紀の終り,コロンブスの率いる3艘の帆船は,一つの島を無から引き出した。更に もう一つの島を,更に幾つかの島々を,陸地の果て,散在する海岸の果てから引き出した。
人々の気紛れと,嵐のまにまに,他の帆船がこれらの島々を少しつつ,つなぎ合わせていっ た。かずかずの入江・岬・半島・河口が,だんだんくっきりと現われて来た。もう一方の山 々の彼方からは,果てしなく大きな海が現われた」。これはジャン・カニュの「アメリカ
の史」の冒頭文である。
アメリカ合衆国そのものも次々につなぎ合わされて現在の姿になっているが,その元は概 ねアパラチア山脈以東の最初の建国13州であり,1783年の条約によりイギリスから獲得した ミシシッピー川以東の地,それからナポレオン戦争中の1803年にフランスから購入したルイ ジアナ・オクウホマ,その北西モンタナに至る広大な土地,それから1819年にスペインから 購入したフロリダ半島など,次々に獲得して,南のルイジアナから北はロッキー山脈以東の アメリカが形づくられた。それから1840年代に入って,1836年に成立したテキサス共和国が メキシコの反対を押し切って1845年に合衆国の州となり,1846年にオレゴンを合併し,1848 年のアリゾナ・ネバタ・カリフォルニア等をメキシコから割譲して,ほぼ現在のアメリカ合 衆国本体が出来上った。その後は1853年(嘉永6)にアリゾナ州南部をメキシコより購入し,
1867年(慶応3)にアラスカを財政難のロシア皇帝からわずか720万ドルで買収し,1898年
(明治31)にハワイを併合して現在の姿となった。
イギリスの新大陸最初の植民地建設は1584年のウォーター・ローリーによるヴァージニア であり,これは失敗し,1607年ヴァージニア会社の再度の植民によるタバコ栽培で発展する ことになる。この北米大陸に始めて奴隷が移入されたのは1619年黒人奴隷12人をヴァージニ アヘオラソダ船によって運んだことに始まる。これはスペインの征服以来,中南米で原住民 の
人口が激減した為の移入といわれる。その翌1620年11月には,信仰の自由を求めて180トン のメイフラワー号による102名の清教徒が渡米した。更にその翌1621年はオランダ西インド 会社設立の年である。オランダ商人はそれ以前から,スペイン領アメリカと取引を直接に又 は間接に行っていたが,ヨーロッパ先進諸国に於けるマニュファクチャーの商品の広大な販 路を形成していた西インド(新大陸)は,政治的にみれば未だいうまでもなくオランダの敵
国スペインの支配下にあった。当時のオランダの初期産業資本・「カルヴィソ派」党,即ち 毛織物資本家並びに広汎な手工業者層をその中心勢力とする政治上の党派は,対スペイン主 の
戦論者であり,スペイン領アメリカの征服・奪取を主張していた。そしてこの西インド会社 設立の先頭に立ったのが南ネーデルラント生れの重商主義者ウィルレム・ウセリンクスであ って,工業生産物特に毛織物の「販路」としての新大陸の重要性と,その洋洋たる開拓可能 ヨラ性を見通し,1604年頃より会社設立意見を発表し始めていた。
ところが,彼に敵対的なアムステルダム商業資本,その利害を代表するホラソト州会委員 のプランは,ウセリソクスの民主的色彩と異り,新大陸におけるマニファクチャー商品の販 路開拓などよりは,むしろスペイン「銀船隊」目てあての私二三,つまりいわゆる「戦争会 社」であった。そうするうち1609年にスペインとの「12年休戦」が締結されて,一一時西イン のド会社はうやむやの中に葬られた。その後1621年になってホラント三会の草案をもとに西イ
ンド会社の設立となったが,戦争企業としての性格に重点が置かれていたため経営状態は絶 望的となり,1674年に連邦議会によって解散させられた。
そして第2次英蘭戦争の初年1664年に,イギリス軍は新大陸唯一のオランダ植民地ニュー ネーデルラントを占領する。これはメイフラワー号で渡米した人達に,1630年に設立された マサチューセッツ湾会社という植民会社による移民が加わって,1643年頃にはボストンを中 心に2万人の人口を有するに至り,マサチューセッツ・ニューハンプシャー・コネチカット
・ロードアイランドと次々に発展して行った。そしてそれ以前入植のヴァージニアとの中間 にオランダの植民地ニューアムステルダム等がこのイギリス植民地を南北に両断する形とな っていたので,イギリスは軍艦を派遣して占領し,これによって北米東岸一帯がすべてイギ リス領となったものである。この1664年,フランスは西インド会社を設立し,カナダがその の
会社の管轄下におかれた。
ルイジアナは16〜17世紀にスペイン人やフランス人がこの地を探検し,18世紀初めにフラ ンス人が入植し,1731年ルイ15世のときにフランスの植民地となった。ここは1763年に一旦 スペインに譲渡されたが,1801年に再びフランスに返還された。
さて,イギリスとフランスは1066年ノルマンジー公ウィリアムがイングランドを征服(ノ ルマンコンクェストンしてノルマソ王朝を開いたが,イングランド国王にして,ノルマンジー についてはフランス王の臣下という関係にあって,しかもフランス王の臣下が主君より強大 になったことが英仏抗争の種になっていた。第2次英蘭戦争に際してはフランスのルイ14世 はスペイン領ネーデルラントを獲得せんとして,デンマークと共にオランダと同盟してイギ
リスに宣戦した。しかしフランスは1666年1月,ツーロンから40隻の軍艦と火船10数回を以 て出動したが,戦には参加しなかった。この第2次英蘭戦争を終結に導いた原因は,両国の 間に漁夫の利を得んとするフランスの侵略を恐れたから,といわれる。
1672年からの第3次英蘭戦争に際しては,フラ ンスはイギリスと同盟してオランダと戦っ た。これは1674年2月19日に成立した英蘭単独講和のウェストミソタスター和議となり,オ
ラソダ海軍は善戦したに拘らずオランダがイギリスから1673年に奪還したニューヨーク地方 をイギリスに還附するなど大幅に譲歩した。フランスは英蘭単独講和以後,オランダと決戦 する意志がなく戦線から引きあげ,これ以後ルイ14世は陸軍に重きを置くようになったとい われる。何れにせよこの第3次英蘭戦争中,オランダの貿易は著しく妨害され,海軍力も仲 介貿易もイギリスの後塵を拝するようになって行く。そして1688年11月,イギリス議会はオ ランダのオレンジ公ウィリアム3世夫妻(妻メアリ2世は英ジェームズ2世の娘)をイギリ ス国王として招き,イギリスのジェームズ2世がフランスに亡命した所謂,名誉革命という 出来事があった。
このようなヨーロッパ特有の王室二二政策にからむ複雑な組合せ・対立の構図は,1689年 以後1815年に至る所謂,英仏植民地戦争,1701年から13年に至るスペイン継承戦争,1740年 から48年に至るオーストリア継承戦争となる。、1756年から63年に至る英仏の海上権争奪にか かわる七年戦争ではフランス海軍の損害は戦艦40隻・フリゲート50隻となり,イギリス側は
座礁・暴風による損害を含め大小戦艦約50隻を失った。これは1763年のイギリス対フランス
・スペイン間のパリ条約によりフランス領カナダとミシシッピー川以東のルイジアナがイギ リス領となり,フロリダがスペインからイギリスに譲渡され,グレナダをも獲得した。
このようにして,イギリスは北米に於て,北方から西インドに至る連続した植民地を獲得 し,海上第一の国となって行った。
第2節 アメリカ独立戦争
北米13州のイギリス植民地は,西はアパラチア山脈がさえぎり,東は大西洋に面して比較 的狭長な地域を占めたが,その海岸線は多数の河川あり良港至るところに存在して,大陸の 一部ではあったが地形的に海洋進出に申し分ない状態にあった。戸田貞次郎氏によれば,「北 米大陸の東岸,北はマサチューセッツより南はジョージアに至る13州の植民地は,これを一 国として眺めるとき,その状あたかも古代フェニキアに似たもがある。フェニキア人は人も き 知る如く地中海とレバノン山脈の中間に位し,東は山脈に遮断せられて伸展の自由が利かず,
国土は地味二三にして農耕に適せず,余儀なく西に開かれた地中海上の活動に乗り出したの であるが,幸にもレバノン山には造船の良材があり,地中海には多数の島嘆連続して,当時 の幼稚な舟揖に利したところがら,国人は航海に,通商に,植民に一大飛躍をなし,紀元前 ヨヨエ
後数世紀に亘って富強四隣を圧するに至った」とある。
北米13州の場合には,中・南部は気候温暖・地味肥沃であって,各種農産物は西インド諸 島やヨーロッパに海上貨物となって輸出され,北部は農耕不利な気候・地形と無限の造船材 及び好漁場のため,フェニキアと同じく住民は海上に進出し,次第に富んで行った。農業で は,ヴァージニア・メリーランドの2州で早くからタバコの栽培が行われ,殊に1619年にア フリカからの奴隷移入以後,その裁培は大規模となった。1688年にはタバコを満載した100 余隻の船が英本国に向つたといわれ,1760年から1770年代に入ると,それは年200隻に達し
エ
たという。造船はニューイングランドに於て栄え,1760年には毎年300〜400隻にも達し,イ ヨ
ギリス全体の約3分の1は北米植民地建造のものであった。
ヨ このようにして,次第に次の3形態の三角貿易が出来上って行った。
(1)
(2)
(3)
北米植民地一南ヨーロッパへ 南ヨーロッパーイギリスヘ イ ギリスー北米植民地へ 北米植民地一西インド諸島へ 西インド諸島一イギリスヘ イ ギリスー北米植民地へ 北米植民地一アフリカヘ アフリカー西インド諸島へ 西インド諸島一北米植民地へ
木材・塩魚・穀物 ブドー酒・果物 雑貨
魚類・ラム酒 砂糖・糖蜜 雑貨
ラム酒 奴隷 砂糖・糖蜜
1760年,英本国ではジョージ3世が即位して王権の強化を試み,1763年にはアパラチア山 脈以西への白人の移住を禁止し,1764年にほ1733年の糖蜜条例を修正して密貿易の処罰強化 の砂糖:条例を発布し,1765年には印紙条例(印紙法)を以て法律・商業関係の書類・刊行物 などすべてに印紙を貼ることを規定したが,これは植民地の言論機関,特に新聞に対する弾 圧であって,全植民地の猛反対に会い,翌年撤廃された。この印紙法課税反対の植民地側の 論理が,有名な No taxation without representation (代表なくして課税なし)であって,
植民地側は本国議会への代表の参加権を強く求めた。また1767年には植民地の輸入茶に茶税 を課したが,植民地側のボイコット運動が起って,これが植民地一体化の道を辿る。
1773年に英本国議会が茶条例(茶法)を以て,アメリカ植民地への茶の直送と茶の独占販 売権を東インド会社に与えたことから植民地の商人・急進派が猛反対し,1773年12月16日に は反対急進派がボストンに入港中の東インド会社船を襲って積荷の茶を全部海中に投棄した ボストン茶会事件Boston Tea partyが起った。これには市民の支持が強く,犯人は不明で,
イギリス本国側はこの後弾圧に移る。1774年にはボストン茶会事件に関して,ボストン港の 閉鎖と軍隊の駐屯,マサチューセッツ州の自治権剥奪13州から西方とカナダへの移住禁止 の強圧的諸条例Corrective Actsを出した。
植民地住民は,専ら英本国人だけの手で売られた商品を,金あるいは金為替で支払う必要 があり,税金も金で支払わねばならず,また英本国の会社の利益のために毛皮の取引も断念 しなければならなかった。このような事態となって,1775年4月,アメリカ独立戦争最初の 大規模なレキシソトソの戦いがボストンの北西部で発生し,独立側民兵軍は本国正規軍とほ ぼ対等に戦い,1775年4月玉9日にはコンコード市で武力衝突となった。結局,1774年9月に13 州の代表で構成された大陸会議Continental Congressによって,1775年6月,ワシントン
が植民地軍総司令官に任命され,1776年7月4日に大陸会議はトマス・ジェフ・アソソの起草 るのになる独立宣言Declaration of Independenceを行なった。1777年10月には独立達成のきっ かけとなったサラトガの戦いがあり,1778年にはフランスのルイ16世は最初にアメリカを承 認して米仏同盟を結び,対英宣戦した。スペインとオランダも1779年にフランスと同盟して 対英参戦した。また1780年にはロシア・スエーデン・デソマーグ・プロシア・ポルトガルが 武装中立同盟を作って,イギリスの中立国船舶捕獲宣言並びにイギリスの海上封鎖に対抗し,
イギリスを完全に孤立化させた。
このようにして,1781年ヴァージニア州東部のヨークタウンの戦でアメリカ・フランス連 合軍がイギリス軍に大勝して独立戦争は実質的に終りを告げる。この結果アメリカとイギリ スとの間に1783年9月3日パリ条約が結ばれ,イギリスはアメリカ13植民地の完全独立を承 認し,ミシシッピー以東を割譲した。
スエーデンが新しいアメリカ共和政を承認し,デンマーク・スペイン・ロシアもすぐ承認 したが,プロシアのフリードリッヒ大王はアメリカ合衆国は大きすぎるから,すぐバラバラ になるだろうと言ったという。なお最後の・fギリス軍がこと一ヨークを出たのは同年11月25 日であった。
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(『アメリカ史』(白水社・注20)より)
この1783年,イギリスとフランス・スペイン間にヴェルサイユ条約が結ばれ,イギリスは 西インド諸島の一部とミノルカ島とフロリダをスペインへ,セネガルはフランス領となっ た。 /
アメリカは1784年1月14日アナポリス会議でパリ条約を批准し,独立戦争を正式に終結さ せた。また1785年にドルがアメリカ合衆国の公式通貨と定められ,議会はトマス・ジェファ ソソの考案した十進学を採用した。アメリカ合衆国憲法は1787年に制定されて1788年に成立 るりし,1789年にアメリカ連邦(中央)政府が発足した。
しかしながら独立したアメリカは,1651年制定のイギリス航海条例の適用を受け,英領西 インド諸島と貿易が出来なくなり,アメリカも全面的封鎖で困ったが,それ以上に西インド 諸島は北米からの食糧が途絶え,1780年から1787年の7年間で15,000余人の奴隷が餓死した。
また独立後のアメリカはイギリスゑら圧迫され,アメリカ海運は惨めな状態に置かれたので,
1789年に差別的関税・差別的トソ税灯台税の2種類の差別関税を以てアメリカ海運の保護助 長をはかった。このうち差別的トン税灯台税の沿岸航路に関するものは,④米人所有米国建 造船1トンにつき年1回納入6セント,㊥外人所有船1トソにつき入港の都度50セントとい
う大幅な差があるもので,その結果,1811年までの22年間で自国船載貨比率は,輸出が30%
から80%へ,輸入が17%から90%に高まった。その途中の1794年11月19日のジェイ条約によ り,アメリカ合衆国とイギリスの間の未解決の紛争が収拾され,合衆国の船が英領西インド 諸島から世界のどこへでもココア・コーヒー・綿・糖蜜・砂糖を運べるようになったもので
ある。
第3節フランス革命とナポレオン
アメリカに連邦政府が発足した年の1789年,回暦の寛政元年にフランス革命が勃発した。
狡義には1789年から1794年まで,広義にては1815年のナポレオン没落までをフランス革命 というが,これはイギリスの二つの革命,即ち台頭する産業資本家層(ブルジョワ)がスチ ュアート絶対主義打倒の1642年から49年までのピューリタン(清教徒)革命と,1688年11月 にオランダのオレンジ公夫妻を国王として招き流血も混乱もなく,議会優位の政変が進行し た名誉革命Glorious revolution,そして,それに続くのが1775年からのアメリカ独立革命で あり,それに続くフランス市民革命(ブルジョワ)革命である。
このフランス革命は,1788年のフランスが戦争と飢饅とアメリカ独立援助により財政窮迫
・経済恐慌に見舞われたことから,国王ルイ16世が全国三部会(僧侶代表・貴族代表・市民 代表)招集を認めたが革命の勃発の進行に対処できず,1789年7月14日朝のパリ民衆の廃兵 院襲撃・バスチィーユ要塞攻撃・陥落という劇的な事件がおこった。先ずは王権に対する貴 族の反抗に始まり,続いてブルジョワジーが登場し,更に小ブルジョワ・農民など一般民衆 が加わり,これらが重なり合って進展しつつ,1791年頃には革命はブルジョワ的な立憲王政 に落着くように見えたが,1792年に共和政(第一共和政) が生まれて国王の裁判を行ない,
1793年1月21日ルイ16世は処刑された。ところがこの処刑はイギリスの世論を刺激し,伝統 的な英仏間の争いとなって行き,1793年2〜3月,フランスはイギリス・オランダ・スペイ ンと開戦した。そしてこの年の春,イギリスを中心としてオーストリア・プロイセン・ロシ ア・スペイン・ポルトガル・北欧3国などを加えた第1次対仏大同盟が形成された。これは 全ヨーロッパの君主国の反フランス・反革命同盟であって,利害関係が複雑で強力な統一は なく1797年に終った。この間フランスでは国王派が勢力を盛り返し,ルイ16世の弟で王位継 承者のプロヴァソス伯(のちのルイ18世)は旧制度の復活を約し,1795年6月,イギリスの 援助を得て亡命者たちがブルターニュのギブロンに上陸したが,これは撃退された。一方,
依然として,対外戦争は続いており,革命政府のフランス軍はドイツに侵入し,オランダを 占領してバタヴィア共和国(1795〜1806)がっくられた。
この革命防衛戦争・解放戦争は次第に侵略戦争の露骨な性格を示しつつ,イギリス・オー ストリアとの戦争がつづいた。フランス国内では国王派の台頭に対して結束したテルミドリ アン(熱月)派は1795年8月,共和国3年憲法(1795年憲法)を採決し,これに対して暴動 を起した国王派はこのとき登用されたナポレオンによって鎮圧された。このようにして,5 人の総裁・二院制で権力の集中を避ける総裁(執政・都督)政府が同年10月に成立した。
しかしこの政府は経済安定化に努力したが,自由経済を進めて貧困市民層と対立を深め,
無視された農民層は離れて行き,一種の共産主義を主張するバブーフ派の動きがあり,また 反総裁;政府の陰謀もあり,1797年春の選挙で国王派が進出したのに危険を感じた共和派は,
ナポレオンの部下オージュロー将軍の力をかりて国王派の議員たちを追放した。これによっ て次第に軍部の発言権が強化され,軍事力によるクーデターへの道を開くことになって行っ
た。
二度に亘って総裁政府を救ったナポレオンは,オーストリアとの戦いで輝かしい勝利を得,
1797年10月ナポレオンはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結び,その結果,フラン スはオーストリア領ネーデルラント(ベルギー)を獲得し,イギリスを除く諸国が戦列から 離れて第1次対仏大同盟は解体した。
このようにしてイギリスを除くヨーロッパ大陸には平和が回復したが,フランス国内では 革命勢力は安定せず,1798年4月の選挙,ついで1799年4月の選挙で進出したジャコバソ党 が総裁の交替を以てするクーデターを行うなど,総裁政府は不安定であった。
大陸外では,イギリスが同盟国を必死に求める動きがあり,フランスはイギリスとの決戦 を覚悟した。
フレガ ト
既にフランスは1797年夏からバタヴィア共和政府を督促して戦闘艦15隻・巡洋艦4隻を出 させ,15,000人の兵をアイルランドに上陸させる計画を整え,イギリスとカンベルドにて海 戦せしめたが,砲数に優勢なイギリス海軍に敗北した。ついで総裁府は1796年3月から戦局 打開のためにイタリア遠征中のナポレオンをイギリス征討軍の総司令官に任じた。イギリス 侵入の準備を命ぜられたナポレオンは,対イギリス戦争に十分オランダを利用しようとして,
オランダの過激党ミッデリヒ等をして憲法改正を主張させ,またフランス公使ドラクロアを してジュベール及びオランダの将軍ダーソデルスとの共謀で1798年1月20日から22日にかけ てクーデターを行わしめて保守党員22名を逮捕させ,フランス政府の意のままになる総裁政 府を組織せしめ,直ちに戦闘艦10隻の新造を決定させた。そしてナポレオンは総司令官の資 格を以て,バタヴィア総裁府にイギリス征討軍の為に多数の軍艦と運送船若干とを差出すよ ゆう請求した。
しかしナポレオンはイギリス上陸作戦をすてて,1798年5,月エジプト遠征を試みた。これ にはイギリスのインドへの道を断とうとする戦略と,フランスのオリエント進出の野心とが からみ合っていたといわれる。エジプト遠征でナポレオンは,陸上ではイギリス・オスマン トルコ軍を一時は破ったが,海上をネルソン提督のイギリス海軍に制圧され,フランス海軍 は大敗して殆ど捕虜となった。ナポレオンはその直前に脱出して本国へ帰還した。ナポレオ ンの帰還は全フランスで歓迎され,資金はブルジョア・銀行資本などから提供されて1799年 11月9〜10日にブリュメール18日(共和暦18日)のクーデターが実現し,フランス総裁政府 に代って,ナポレオン・シェーイエスら3人を臨時執政とする新たな統領政府が成立した。
第一執政として政権を握ったナポレオンは,軍事独裁を強化しつつ,1802年の終身執政,
1804年に皇帝となった。これによって,政治上の自由は否定されながらも,革命の他の諸成 果を安定させ,秩序を再建して国民を満足せしめ,これまでの革命の一応の帰結を見るに至
るの った。
第4節 ナポレオン戦争
ナポレオンは,「フランス革命の落とし子」とよくいわれてきた。たしかに彼は「わたし が革命なのだ」と言っている。しかし「革命は終った」とも述べている。アルフォソス・オ ラールは,ナポレオンを「革命的所産の破壊者である」ときめつけたが,ジョルジュ・ルフ エーブルは,「革命の後継者」として評価した。
ナポレオン戦争を,ナポレオン自身が戦闘を指揮した戦争という意味に解して,1793年の
の
ツーロンの攻囲からとする説があり,ナポレオンが実権を握った1797年からとする説がある が,何れもワーテルローで決定的に敗北した1815年までである。
ナポレオンは政権を掌握した後,1800年に自ら軍を率いてアルプスを越え,再びイタリー に侵入してオーストリア軍をマレソゴに破り,別にライン川方面からドイツに侵入した一軍 もホーヘソリソデソにてオーストリア軍を破ったので,オーストリアは遂に和を乞い,1801 年リューネヴィル和約を結んでライン川左岸の地をフランスに割譲した。これより先,ナ ポレオンのエジプト遠征を機に,1799年にイギリスがロシア・・オーストリアなどと結んだ第
2次四仏大同盟からオーストリアが抜け,ロシアはイギリスと争って同盟を脱したので,イ ヨリギリスも連年の戦争による財政疲弊のため,1802年にアミヤン和約を結んでトリニダッド及
びセイロンを除くほか,さきに占領した地をフランスに還して第2次対仏大同盟も解体し
た。これによってナポレオンは終身執政となったもので,その後の平和時期を利用して力を 内政の改良に用い,中央集権を旨として地方制度を定め,財政を整理し,教育を興し,学芸 を奨励し,商工業の発達を図り,また法学者に命じて有名なナポレオン法典を編纂させた。
その後1804年,国民の推戴を受けてフランス皇帝の位につき,その翌年イタリー王をも兼ね
た。
ナポレオンが1798年にイギリス上陸作戦をすててエジプト遠征を試みたことを以て,内心 イギリス攻撃を欲しなかったとするフールニヱの説があるが,しかしナポレオンは13世紀初 頭からのモンゴルのチンギスハーンと同じく,世界帝国を目指していたであろう。当然イギ リス征服も予定に入っていた筈である。ナポレオンは自国の工業を盛んにするために,自国 フランスのみならずオランダ・イタリアに於て,イギリスの商品に重税を課してその輸入を 防ぎ,フランス商品を以てこれに代えようと計った。それで商業回復のために1802年のアミ ヤン和約を結んで平和を欲したイギリスは失望し,戦争再開を以て局面を打開する希望が高
まった。
の
この時に英仏両国再戦の因となるのがマルタ問題であるが,ナポレオンは焦らず周到な準 備にとりかかった。彼はインド植民地にドカン将軍を派遣したが,1803年1月15日のナポレ オンの訓令は,「目下,インドにおいてはフランスの力では到底イギリスに敵対は出来ぬ。
故にインドに行ったならば,土人の君主に懇親を結び,イギリスの兵力を研究し,つとめて イギリス人の嫌疑を招くような運動をしてはならぬ。万一,1804年秋以前に戦争が起るよう なことがあったら,速かにインドを去ってレユニオン(島)を固めよ」と。
イギリスのピットの見るところ,ナポレオンは,①絶えずイギリスに上陸侵入する計画を なしてイギリス人を威嚇する。②戦争の期間を長くし,戦争範囲を広くしてイギリスの財源 らのを洞渇させて,その信用を失わせようと企てるであろう,と。
ナポレオンは,スペインから北米ルイジアナを譲受けながら未だ占領していなかったため,
1803年1月,その占領のためにヴィクトル将軍を赴任させようとしたが,イギリスとの開戦 が避け難いことを考え,ルイジアナ派遣軍が正にオランダを出発しようとするのを3月11日 急拠差止め,4月10日,1800年の対スペインのサン・イルデフォソ和約を無視してアメリカ に全ルイジアナ売却を申込んだ。これよりさき,フランスがスペインからルイジアナ割譲を 受けると,アメリカ人は従来からミシシッピー川の自由通航を許され,ニューオーリンズに 於て罷る特権を得ていたのにナポレオンがこれを停止しようとしてアメリカとの問に葛藤が 生じた。1803年4月にナポレオンはイギリス新聞紙上,イギリスはルイジアナを占領すべし
との論が出たのを知った。丁度,4月12日にアメリカ合衆国から新たにパリーに着任した公 使モンローと2週間余の談判を以て,4月30日に8,000万フラン(1500万ドル)を以て230万 平方キロの広大なルイジアナをアメリカに売却した。ナポレオンは,ルイジアナを守るフラ ンス軍なく,イギリスに奪取されるよりは懇望してやまぬアメリカに売却して軍資金を得,
且つフランスに対するアメリカとイギリスとの同盟を防ごうとしたものである。
さて,1802年アミヤン和約によるフランスへのマルタ引渡しを不服としたイギリス世論の 赴くところ,1803年5月12日イギリス大使がパリーを引揚げ,5月16日フランスに宣戦布告
おう
した。この戦争はナポレオンが倒れる1815年まで12ヶ年,間断なく継続される。
1803年5月26日,ナポレオンは一軍をしてハノーヴァ(ドイツ)を占領せしめ,一軍をし てイタリー東南端オトラント半島を占領させた。オトラント半島占領はイギリスの東方貿易
に大打撃を与え,エジプトをおどかしてネルソン提督を地中海から離れられなくした牽制策
という。
それから,ナポレオンにとっての対英戦略の最重要事はイギリス上陸であって,ブロー二 のユに艦隊を集結したが,風力に依存する当時の帆船にあって,運送帆船と掩護軍艦の密集航 行と隠密行動に難点があった。このとき,アメリカ人フルトンは自己の創意になる汽船を用 ういることをナポレオンに進言したが,ナポレオンは彼を山師と考えて信じなかったといわれ
る。
産業革命後の海上交通機関としては,1787年頃から蒸気船運転が試みられており,1802年 にスコットランド人ウィリアム・サイミントソが建造した外輪式の曳船シャーロット・ダン ス号が蒸気船として成功した最初の船といわれるが,アメリカ人技師ロバート・フルトンは 1796年に「運河航行の改善」を発表し,1797年以来パリーにいて潜水艇ノーテラス号に取組 うみ、試運転に成功して1803年にセーヌ川で蒸気の力で推進する小型船を開発した。フルトン
がナポレオンに進言したのは恐らく事実であったろう。
蒸気船としては1804年に(アメリカ)ニュージャージー州のジョン・スティーブソズ親子 がリトル・ジュリアナ号を進水させたが,商業的には成功せず,1807年8月17日に,フルト ンによる外輪船クラーモント号(長133フィート,幅18フィート,喫水7フィート)のハド ソン川航行が商業的に成功した最初の蒸気船となる。これはまもなくアメリカ西部の穀物を オハイオ・ミシシッピー経由でメキシコ湾岸の港に運ぶ蒸気船の先駆であった。但し,この クラーモソト号の動力源はイギリスのボールトソ・ワット商会のエソジソが用いられたもの
であった。
さて,フランスはスペインとサソ・イルデフォソソ条約により攻守同盟を結び,スペイン はフランスの請求次第に軍艦15隻・陸兵2万人を以て援助することになっていたが,スペイ ン政府腐敗無能のため信用出来ず,ナポレオンはスペインから月々600万フランの送金とい う代償を以てスペインに中立を許した。しかしスペインはイギリスに対して半端な中立であ ったため,イギリス側の報復的スペイン船掌捕となり,スペインは1804年12月12日に対英宣 戦布告し,フランス・スペ・fソ両国は公然同盟条約を結んだ。
これに対しイギリスは1805年8月,オーストリア・ロシアを誘って第3次対仏大同盟を結 成し,やがてナポレオンは1805年10月20日の対オーストリアのウルム大勝の翌21日,トラフ
ァルガーの海戦を迎える。
1805年10月21日早朝,ジブラルタル海峡の西,カディスの南東にあたるトラファルガー岬
79
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ン リ ジ ルタル ロ トラファルカル
石大望西鉾 拶騨崔
タンジル 溝
一Rmモロッコ 。
三
脚
●マルタ島
500 jooo㎞1
強 隊 隊 隊
(『ナポレオンの戦争』(講談社)より)
の沖でイギリス艦隊とフランス・スペイン連合艦隊は遭遇した。微風の中で,縦一列のフラ ンス・スペイン連合艦隊にネルソン提督のイギリス艦隊は縦二列となって正午すぎ連合艦隊 にほぼ直角に真横から突入した。狙撃され重傷を負ったネルソン提督は勝利の報を聞き,午 後4時30分死去した。
この海戦でイギリス側が勝利した理由の一つは,イギリス艦の砲撃能力が優位にあり,次 の砲弾を発射するまでの間隔がフランス・スペイン艦隊の場合は180秒かかったのに対し,
イギリス側は半分の90秒ですんだという決定的な近距離砲撃戦における差,その二は標的を ねらうのにフランス側は伝統的にマスト・帆・索具をねらって敵艦を航行不能にする作戦に 比し,イギリス側は水平射撃を中心にして敵艦の舷をねらい,船体と乗組員に多大の損害を
与えるのに成功したことという。
更にイギリス海軍では,1795年にかんきつ類(レ モン)のジュースが一心病の予防になる というジェームズ・リソドの説が実証されて,長い航海に出る軍艦にはすべてライム・ジ ュースを積むよう命令されており,事実上釘応病がなくなったことがトルファルガーにおけ るイギリスの勝利に重要な役割を果したのであった。
このようにしてナポレオンの対イギリス上陸作戦は不可能となったが,陸上ではなおオラ ンダを併合し,1805年12月のアウステルリッッの戦ではロシア・オーストリア両軍を撃破し たため,第3次四仏大同盟は崩壊し,1806年10月のイエナの戦でナポレオンはプロシア軍に 大勝して,この年神聖ローマ帝国は解体する。
一方,トラファルガーの戦勝で海上の王座を獲得したイギリスは,ブルターニュ半島のブ レストからハンブルグのエルベ河口に至る全海岸を封鎖して,フランスとその植民地との交 通を遮断したため,対抗してナポレオンは1806年11月大陸封鎖令を出して,イギリスへの経 済封鎖を行なった。