• 検索結果がありません。

結び一19世紀初頭の海運情勢

ドキュメント内 フェートン号事件と19世紀初頭の海運情勢 (ページ 39-45)

であって,「内々佐賀へ引取り」ということもあり,処罰された者やその子は翌年には許さ

        の

れて旧に復したという。・

 なお,文化6年1月30日,支配勘定中村三次郎・長崎奉行手附菅谷保次郎・上川伝右衛門 ら計4名は「進退不束」として役目差免じて押込を申付けられたほか,20数名も押込に処せ られ,また同年2月1日,支配勘定人見藤右衛門・御下譜役荒堀五兵衛ら計4名は「松平図 書頭三図に応じ,速かに出役致し骨折候段」として御褒詞を受けた。また遠見番嘉悦忠兵衛        おかねは銀1枚を,萬屋町船頭ほかにも鳥目15貫文を,水主10人に同じく50貫文を賜わって功罪賞

  ラ

罰は終った。

 なお,松平図書頭の墓所は長崎市大音寺にあり,また長崎総町の発議によって諏訪神社境 内に康平社として祠られている。

世の例のトルデシラス条約によってポルトガル植民地と確定していたブラジルにも独立運動 がおこる。1807年,ナポレオン軍の侵攻を避けてポルトガルがこの地に臨時政府を移したが,

1815年にポルトガルに対する独立運動がおこり,一度は失敗するが,1822年に独立宣言し,

一時的な帝政ののち共和国となる。アルゼンチンも1810年にスペイン本国の搾取に反対して ラプラタ(銀の川)植民地で独立運動がおこり,1816年にスペ・イソから独立宣言して,「銀 の」のスペイン語アルヘソチナ(アルゼンチンは英語読み)と改め,のちに共和国となる。

スペイン領であったチリも1818年に独立して共和国となる。ヌエバ・グラタナという地名の 植民地コロンビアも1818年に革命家シモン・ボリバルの援助でスペインに対立し独立宣言

し,コロンブスの国という国名に改め,後に共和国となる。旧インカ帝国滅亡後,ノバ・カ ステラといわれていたペルーは1821年に独立宣言し,1824年にスペイン軍を撃退して共和国 となる。ノバ・イスパニア植民地も1811年頃から独立運動が始まり,1815年に一度失敗する が,1821年にスペインに対し独立宣言してメキシコとなり,一時帝政ののち共和国となる。

ボリビアは1825年,革命家ボリバルによってスペインから独立して共和国となり,ボリバル の名を国名にとり入れた。その独立後,ボリバルは名誉大統領になった。なお,ボリバルは 1824年,パン・アメリカPan Americanismを提唱し,1826年開催のパナマ会議で中南米諸 国の団結と協力を,特にヨーロッパ干渉に対抗して汎米主義を訴えた。ペルーとコロンビア の間のスペイン植民地も1811年に独立宣言し,1830年に独立して,「赤道」を意味するエク アドル共和国となった。ウルグアイ川東岸のスペイン植民地も1828年に独立し,ウルグアイ 東方共和国となった。

 なお,ラテンアメリカ植民地が次々と独立をかち取って行くうち,1823年にアメリカ合衆 国第5代大統領モンローは,神聖同盟によるラテンアメリカ諸国の独立への干渉とロシアの 太平洋岸への南下政策に反対し,ヨーロッパ諸国とアメリカ大陸諸国との相互不干渉を主張 するモンロー宣言を発表した。即ち,1815年のナポレオン敗退後,フランス革命前の状態へ        ま 

の復帰と維持を策したウィーン体制諸国のラテンアメリカ独立への干渉を排除しようとした ものである。

 1492年に始まった大航海時代からの西欧列強のアメリカ大陸植民地は,1775年以後のアメ リカ独立戦争という白人間の独立戦争と,その後のナポレオン戦争,就中,イギリスの西欧 西北沿岸封鎖・フランスの大陸封鎖を契機として独立運動が高まり,特にナポレオン戦争中,

1805年10月のトラファルガー海戦でイギリス艦隊完勝・フランス・スペイン連合艦隊壊滅と いう海上勢力バランス失調は,大部分のラテンアメリカ植民地を一気に独立に向わしめたの であった。そして1783年のパリ条約による独立後のアメリカ海運もまた嘗ての宗主国・でギリ スの圧迫に堪えながら,急速な発展をみせるのである。

 アメリカ独立達成の翌1784年2月22日,独立戦争当初の軍資金調達に奔走して,ワシント       シ ナ

ソの危機を救ったロバート・モーリスはワシントンの誕生日をトして極東貿易の船エムプレ ス・オブ・チャイナ号(360トソ)を広東向けに就航せしめた。同船の積荷は野生人蓼440ポ

ンドが主であったといわれるが,ニューヨーク発・アフリカのケープベルデ島寄港・喜望峰 迂回して8月23日マカオ沖に達し,無事広東貿易は成功して翌1785年5月11日ニューヨーク   ユ に帰着した。二.ユーヨーク商人出資等による第2船・第3船も成功した。ところがアメリカ 合衆国憲法が制定された1787年,ニューヨークから南米マゼラン海峡を経由して北部太平洋 岸に至り,ついで太平洋を横断して広東に至る航路が計画された。そのコロンビア号(213

トソ)とレディ・ワシントン号(90トソ)は1788年秋バンクーバー島西岸に達し,毛皮を収集 して,先ずコロンビア号が翌1789年7月頃当地を発し,順調に広東で売捌き,陶器・茶・織物 を積んで1790年4月,喜望峰経由ボストンに帰着し,アメリカ船最初の世界一周航海を達成

した。一方レディ・ワシントン号は広東に1年2ヶ月滞留し,再び太平洋を横断してバンクー バーに戻った。またアメリカ合衆国の私掠船長であったジョゼフ・ピーボディは1791年に海 運業を始め,やがて83隻・7,000人の船員を抱えてカルカッタ・広東・ペテルブルグなど世        ラ

界各地と交易を行なう。ナポレオン戦争中,アメリカ13州で500隻以上の私掠船があったと いわれるが,そのうち158隻はマサチューセヅッ州セイレム港から出ており,所謂「セイレ ム貿易」の最盛期であったといわれ,ボストン附近の漁師たちによる太平洋捕鯨も1791年か

     ま      

ら始まった。最初の合衆国銀行が議会から許可を受けて営業を始めたのもこの年である。

 このようにして太平洋横断シナ航路は盛んになり,1789年広東に入港した外国船64隻中,

      まヨリ

アメリカ船は実に18隻に上った。この1789年フランス革命勃発の年,アメリカは主として極 東貿易の回船優遇を策した差別的関税法と差別的トソ税法灯台税という海運保護立法を行な

第5表アメリカ船戴貨比率 輸 出 輸 入 1789年

P811年

30%

W0%

17%

X0%

つた。例えばアメリカ船がシナ及びインドから直接輸入 した茶1ポンド当り関税6セントないし20セントに対 し,外国船による輸入には15セントないし45セントとす るなど,極東からの輸入貨物にアメリカ船の使用を強要 するような差別関税としたもので,これにより次のよう        ユ な実績をあげるに至った。

 1789年フランス革命以後,イギリスはオーストリア・プロシア・ロシア・スペイン・ポル トガルなどと第1次対仏大同盟(1793〜97),第2次対仏大同盟,(1799〜1802),第3次対仏 大同盟(1805年8月)など,同盟を以てフランスに対抗したが,アメリカはこれに対して局 外中立を守った。アメリカ商船は穀物・肉類・棉花・羊毛・皮革等をヨーロッパに輸出し,

オランダ商船が東アジア・ヨーロッパ間に動けなくなったことから,東アジアからの物資も アメリカを中継してヨーロッパに輸出された。ところが,1793年5月,フランスは敵国に向 う中立国船舶又は敵国商品を積載した船舶の掌捕を声明し,イギリスも対抗してその翌6月 から,トウモロコシ・麦粉・肉類を積載してフランスに向う船舶の捕獲令を発し,同11月に はフランス領植民地の産物又はフランス領植民地へ資材を運ぶ船舶の掌捕を命令した。

 これらは,ナポレオン戦争への局外中立を宣し,アメリカ船により輸送面での漁夫の利を 占めていたアメリカ船を双方から排除することを目的としたもので,アメリカ商船は極めて

危険な航海を強いられた。アメリカ商船で1812年までにイギリスに二三された船舶917隻,

フランスに捕獲されたのが558隻といわれるが,しかし掌捕を免れた場合の利益は莫大であ ったから,アメリカの船主及び造船業者は,工夫努力してイギリス・フランスの軍艦よりも 船脚の速い帆船を造ることに精力を傾けた。

 戦乱による交戦国同士の船腹減少とアメリカ自体の商船減少による国外・国内からの造船 注文,それから輸出物資激増という情勢下に船舶需要が増大し,アメリカ造船業は異常な盛 況を呈した。1800年には995隻・106,000トンの船舶を建造し,1789年から1810年の12年間に       

外国に売却した船舶は20万トンに上り,アメリカ保有船舶は次のように増加した。

第6表アメリカ保有商船トン数

外国貿易船 沿岸貿易船

1789年 P790年 P800年

123,893トソ R46,254〃

U67.107〃

68,607トソ P03,775〃

Q72,492〃

192,500トソ S50,029〃

X39.599〃

 即ち,第3章第1節の第3表にみる1797年以来の,オランダによる米船傭入れは,この時 期の東アジア海域が中立国アメリカの船にとって安全なる海域であったこと,アメリカ商船 以外にはジャカルタ〜日本間に使用し得る貿易船舶は極めて少なかったということを示して いる。それと同時にこれは,イギリスの名誉革命・アメリカ独立革命「フランス革命とつづ く市民(ブルジョワ)革命,またそれぞれの戦争に引続きラテンアメリカ植民地の独立とい う副産物をも生み出したナポレオン戦争という激動の世界史が,鎖国日本にも無縁でないこ とを知らせ続けていたシグナルでもあったのである。

 それでは,オランダ船の代りに傭入れアメリカ船が長崎入港したことを長崎奉行・徳川幕 閣はεの程度承知していたものであろうか6

 寛政9年(1797)の最初のアメリカ船入港からフェートソ号事件の前年,文化4年(1807)

までの和蘭風説書は,概ね次のように報告している。

 「当年来朝のオランダ船壱艘……海上別条なく今日ご当地着岸仕り候」と。

 しかしながら,第3章第1節に記したように,ドゥフ日本回想録に,「当時のカピタン,

ヘソメーはこの船が実際会社の雇入れたるものにて,船中の積載物は悉くオランダ国の貨物 なることを保証せしが故に,その入港は日本人によりて許可せられたりとあって,通詞を通 して長崎奉行も承知していた。特に寛政10年(1798)入港の米船エリザ・オブ・ニューヨー ク号が長崎港外高三島にて座礁し,その引揚げ方には長崎奉行も直接タッチしていたもので ある。また享和元年6月9日(1801.7.19)入港の回船マーガレット号について,翌7月20

日のワルデナールの日記には,「通詞たちが来て,私に,早くも蘭船の小型であることにつ       ユヨのいて話し,また奉行並びにその他の高官たちも,それについて失望している,と言った」。

ドキュメント内 フェートン号事件と19世紀初頭の海運情勢 (ページ 39-45)

関連したドキュメント