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 即ち、焼き払う云々の手紙はオランダ語で書かれたもの(下記)であって,そして日本人 の通詞が奉行の目の前で翻訳して差出したものであった。

 そして,ドゥフの秘密日記は,ストックデールの記録とは異り,フェートソ号に連れ去ら れたホーゼマンの報告として,「2人の兵士は彼らの抜き身のサーベルをかざし,船長の命 令で,各々の胸の上にそれを突きつけ,そしてそのままの状態で船長は,オランダ船はどこ に碇泊しているかと尋ねた」とあり,スヒソメルの報告として「もしも本日昼に食料品が早 く来るように配慮するため上陸したホーゼマン自身が戻って来なかった場合は,彼船長はス ヒソメルの首を切ると言った,なおも脅かした」とあり,但しそれに続いて,「脅かしたこ        のとを除いては,彼らを丁寧にそしてよく取扱った」とも書いてある。

 そしてフェートソ号長崎侵入の目的は,「イギリス船長は,オランダ船を掌捕するために来 たのだと言いました」とあるが,ドゥフはフェートソ号出港後の10月30日に長崎奉行曲渕甲       斐守あてに文書で「もし彼が本当に               オランダの船舶を掌卜するためにの        :多ノ蹴

         助切・碑    蝋覗  〃・   み来航したとすれば,彼はそのボー

鴇熊/伽::色論難誓で港内を一周して当地にはオラ

1808年10月5日のべリューの短い手紙

(ハーグ・オランダ国立中央文書館所蔵)

ソダ船がないと分ったら,すぐさま 戻って沖に出ている筈であります。

 ・どうしてイギリス船長のいう,

日本人に恥をかかせるためではな く,オランダの船を求めて来たのだ という言葉と一致するでしょうか」

と述べている。

 づまり,フェートソ号船長は明確 な領海侵犯・不法侵入の意思を以て

フェートソ号事件と19世紀初頭の海運情勢

五泊上番心 添町御番所

長崎構内のオランダ商船を掌凹しようとし,又は日本の防衛のための軍備を偵察したもので あって,明らかに英仏戦争の一環としての臨戦体制下の行動であったし,長崎奉行所側も正 式記録である通航一覧に焼打ち準備云々の臨戦態勢にもって行こうとした記事がある。然し ながら当年の長崎警備当番であった佐賀鍋島藩は1,000人番所とも称されていた西泊・戸町 の両番所に当時「当年は紅毛船も参らず候と心得,内々佐賀へ引取り,漸く両御番所人数四,

       ヨラ五十人も相詰め居り候につき」と松平図書頭自尽書状に書かれてある状態であり,且つドゥ        カ ノ ンフの眼には,「(私の見た限りでは)矢と弓,火縄付き燧石銃および砲車なしの加農砲以外に          ロ 

は何も持っていない」といった有様であった。実に幕末のペリーの黒船の頃の落首   アメリカが来ても日本つつがない

と全く同じであった。

 即ち,不法侵入に対し,焼打ちという戦闘を以てする対抗を日本側も一応は検討した双方 の臨戦態勢下に,イギリスの要求通りの水・薪・食料を提供することによって,一一発も砲弾 の飛ぶことがなかった事件であった。

 ドゥフが書いているように,「今や私は軍隊の脆弱さと日本人の惨めな戦争装備を知って いるので,私は奉行に対し次のような回答以外に別の答えを与えることが出来ようか,即ち 私は,まだ長崎には充分な数の兵士が到着していないので,私は例の船を黙って出港させる       ロ べきだと判断している」と。またドゥフは奉行の秘書官から,「奉行はどちらかというと,

同船を攻撃する方を望んでいたが,しかしまた兵員の不足をみて,閣下にはどうしょうもな いことであるのを,胸も張り裂けるばかりに悔しがっていたと聞いた」とも書いている。そ して松平図書頭は,黒田・鍋島の長崎警備両藩が大藩なるため長崎奉行を軽視したと感じて,

遺書の5ヶ条の一つに「依って,向後長崎奉行の儀は折角大身御選み仰せ付けられ度し」と 8月18日(西暦10・7)付で書き,切腹した。

 ドゥフの商用日記では,「7日,長崎奉行松平図書頭様は,イギリス船の到着のために昨        ロの

夜切腹した。それは極秘にされた」とあり,その秘密日記には,「人々は次のように推測し ている。すなわち,それはイギリス人は,ポルトガル人やスペイン人と同様に,昔から当地 において入国を禁止されており,これらの国民のうちのいずれかが当地に来た場合は彼らの 船と乗組員を焼き払うのが命令である。そして奉行はそうするために充分な軍勢を持たなか

ったため,その機会を見出すことができず,それ故,わずか一握りの軍勢をもって望みのな い企てを行なって,数え切れないほどの人々を不幸にするよりは,むしろ自らの生命だけを         ロ 奪いたかったのだ,と」書いている。切腹は17日夜4ッ(午後10時)過ぎ夜半頃,西役所「居

間の先,鎮守の手前,生垣の際に毛藍を敷き,贋下一文字に薄く引き,鍔元まで喉をさし通

      ユ  うし,あっばれのこ生害」と通航一覧に記載されている。

 なお,白石一郎氏が長崎県民講座に於て論拠とされた記録の当事者ストックデール大尉に ついては,フェートン号船長の年令とも無縁ではないように思える。通航一覧によれば「主

      ヨエ ラ       の

将年19才の由」 「異国人の大将と相見え候は,凡そ17・8才と相見え」とあり,1789年生れ       の19才で,この1808年10月にフェートン号船長として海軍大佐に進級したばかりの若者であ

ったが,しかし大尉時代にフランス治下のオランダ植民地の封鎖・オランダ艦船の捕獲のた めしばしば東インドに船長として活躍した勇者でもあった。しかし側近と慎重に相談もしな かった船長の若さが,ストックデール大尉をして気楽な気分にさせていたものであろうか。

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 この年の長崎警備は佐賀鍋島藩であって,長崎奉行の遺書のように,「漸く両番所人数四

・五十人」は鍋島藩としての大番800刑名,オランダ船 帰帆を見送る9月20日頃(陽暦ll月上・中旬)からの加        ユ ラ

番引・深堀勢の定詰400余人という原則に比べても少な すぎる。図書頭遺書の「当年,紅毛船も参らず候と心得,

内々佐賀へ引取り」というのが,その数年前の福岡黒田 藩の記録「御奉行所より引払い抑出され」ということで あったのか否か不明,即ち責任の所在があいまいである。

       おおばんがしら

然しながら鍋島藩では,この年(陰暦)9月,大番頭 鍋島(深堀)茂辰を蟄居,番頭千葉三郎右衛門・蒲原次 右衛門を,短艇の番所前通過(港内侵入)を阻止しなか ったのを主因に切復,目付以下の組頭10名を家禄没収に 処し,一・方藩主鍋島斉一は11月10日より江戸にて100日        ヨラ

間の逼塞を引付けられた。

 しかし長崎警備が構造的に形骸代していたことは事実 松平図書頭墓(大音寺内)

であって,「内々佐賀へ引取り」ということもあり,処罰された者やその子は翌年には許さ

        の

れて旧に復したという。・

 なお,文化6年1月30日,支配勘定中村三次郎・長崎奉行手附菅谷保次郎・上川伝右衛門 ら計4名は「進退不束」として役目差免じて押込を申付けられたほか,20数名も押込に処せ られ,また同年2月1日,支配勘定人見藤右衛門・御下譜役荒堀五兵衛ら計4名は「松平図 書頭三図に応じ,速かに出役致し骨折候段」として御褒詞を受けた。また遠見番嘉悦忠兵衛        おかねは銀1枚を,萬屋町船頭ほかにも鳥目15貫文を,水主10人に同じく50貫文を賜わって功罪賞

  ラ

罰は終った。

 なお,松平図書頭の墓所は長崎市大音寺にあり,また長崎総町の発議によって諏訪神社境 内に康平社として祠られている。

ドキュメント内 フェートン号事件と19世紀初頭の海運情勢 (ページ 36-39)

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